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Snap Days 〜Shuichi Taira’s photo gallery〜

2011-06-04

日の丸君が代強制条例と地方分権論の矛盾

mixiにおいて鋭い指摘の書込みを拝見した。つまり、教員は地方公務員であり、雇用主は地方公共団体なのだから、筋としては敬意を表すべきなのは、日の丸君が代ではなく、地方公共団体の歌であり旗ではないかと。私もその点について考えてみたい。

教員への日の丸君が代強制を肯定化するよく使われる論拠として、
「公務員なんだから、国歌や国旗に敬意を示すのは当然、いやなら辞めろ」

「全体の奉仕者だし、特別権力関係の理論により人権は制限を受ける。ましてや上司の命令なんだから従うのは当然。」

ということが主張されている。トピで指摘されたとおり、教員は地方公共団体によって雇用されているのであり、任命権を有するのは都道府県の教育委員会である。国ではない。だから、公立学校教員と国には雇用関係は無い。また、戦前は、軍国主義、皇国史観、聖戦論で国民を教化するために学校への統制が徹底して行き渡ることになった。そのことへの反省から、戦後設置された教育委員会により教育の民主化が図られたわけである。当初は公選制だったわけだがこれが廃止され、首長による任命制に変わったが、現在に至るまでなお、教育委員会の首長からの独立性は、この組織の特性として要請されてきているはずである。
このように、公立学校教員は、国との雇用関係は無く、身分は地方公共団体の職員であり、任命権を有するのは、首長からの独立性を要請されている教育委員会であるのだから、国家との紐帯に拘束される度合いはそれだけ弱いはずだ。ましてや戦前の国家主義、全体主義によって教育が国家権力の統制によって蹂躙され、国民の人権を縛りつけ、民主主義と学問と思想の発展において大きな犠牲を強いたことへの反省から発足した教育委員会の趣旨に鑑みれば、公立学校教員に対して国歌国旗を強制し、それに従わないものを処罰するという姿勢は、そのベクトルにおいて戦前に向かっているとしか考えられない。つまり、教員たちを権力者の意向に対して、その内容を問わず、黙って従うことを強要する従順な集団としたいわけだ。これでは、民主主義と自由主義が大きく後退させられることを余儀なくされる。まずは教員、次は子供たちへの実質的な強制が計られるだろう。その子供たちはやがて社会へと出て行くわけだから、社会全体において国歌国旗という国家のシンボルを通して、権力に対する従順なメンタリティが涵養されていくことに繋がっていくと思われる。そこに異を唱えようものなら、邪魔者扱い、社会に敵対する者扱い、反日だの、気に入らないなら日本から出て行けだの、という排除の論理へと繋がっていくだろう。現にそういう言説を日頃から数多目にするまでに日本の大衆の状況はエスカレートしている。やはりベクトルは戦前に向かっているとしか思えない。だから、どんな少数派になろうとも私たちは異議を唱え続けないといけないのだろう。民主主義と人権を守るために。

また、橋下徹は日頃から、地方分権だの道州制だのを唱えていて、親方日の丸からの地方の自立を持論としているが、それならばなおさらの事、府の学校にふさわしいのは、国歌国旗ではなく、府のシンボルとなる歌、府旗でなければならないはずだ。どうしてそこまで日の丸君が代にこだわるだろうね?その理由は簡単でしょう。威力が違うんだ。日の丸君が代を使ったほうが、府旗とは比較にならないほどに上述したように、国民の意識を権力に対して従順なメンタリティを涵養するためのツールとして利用価値があるからだ。そして、異論を排除するための威力が、比較にならないほどに強いことを橋下はよく知っているからなのだろう。

国歌国旗を敬うのは世界の常識、ましてや公務員なら当たり前、気に入らないなら辞めろ。こんな印象操作とデマがすっかりとまかり通るようになった。世界の常識は、教員に国歌国旗への敬意を強制しないことであり、処罰化など非常識なのであり、今回の条例化など人権後進国の発想そのものなのに、多くの人たちがそのことのおかしさに気づかないところにこの国の後進性と危険な状況があると思う。