Hatena::ブログ(Diary)

Snap Days 〜Shuichi Taira’s photo gallery〜

2011-06-17

マインドコントロールから自由になろう

ここのところ、君が代問題を中心に、ウヨな人たちとの議論を所々でしてきたわけですが、思うのは、議論以前に立憲主義民主主義人権というものに対する基本的な知識が欠如している人が多い。明らかな事実誤認、偏見、差別感情などエモーショナルな次元や、寄らば大樹の陰のスタンスで自分をマジョリティの側の人間であると規定し、また昨今の最高裁判決などの権力による後押しを得たつもりになって、威勢良くこちらに絡んできたは良いが、論理破綻してしまったり、無知や品性の無さをさらすだけで議論にもならない次元で終わってしまう人々を見てきた。また、私の日常において、最近付き合いのある同世代の男がいるのであるが、彼は周囲に対しては至って気のいい、気遣いの出来る、とても優しい男なのだが、いっぽうで彼は街宣右翼ヤクザ右翼)で活動してきた経歴があり、今でもその影響で、この世の中で起こる悪いことのすべてを日教組のせいにしている(笑)。またやたら戦争好きで、どことどこどこが戦争したら面白いことになるとか平気で口にする。戦争において自分の命が危険にさらされるということは当然想定はしていない。彼の愛国心というやつが実は猛々しいばかりで、中身が空っぽで、日本を愛するということの実質については、何も考えていないということは彼の政治的な話を聞いているととてもよくわかる。

こういった人たちの多くは、とっくに斜陽期に入っている経済大国日本において、将来不安や心もとなさ、寄る辺の無さをこころのどこかに抱えているがゆえに、そういった自分の弱い心を仮託出来る“強いもの”が欲しいのだろうと思う。それが“強くなければならない国家”“誰かが邪魔しているから強くなれない国家”であったり、その時々のもっとも人気や権勢を得ている権力者であったりするのだろう。自分は、その強いものの側の人間なんだという幻影にすがり、強いものに対する邪魔者だという思い込みから人権保障を守ろうとする者を攻撃し、仮初の空疎なこころの安寧が欲しいのかもしれない。そしてナショナリズム的動きに対してもまったく無警戒にこれに追従していくのだろうが、そんな大衆が増えれば増えるほど、ほんの一部の支配層の利になるだけであって、結果的には大多数にとっては、自分たちの人権を制約し、自由を拘束していく方向に作用していくだけであるように思う。それは歴史を振り返れば明瞭なことである。

この国の支配層は、中曽根内閣以降の規制緩和新自由主義的政策の遂行、所得の再分配社会保障の後退化によって、富の配分を支配層に有利な形にして、弱肉強食化を進めていった。そうしておいてから、同時に、孤独な群衆、心もとなさをかかえた大衆を、上述したような“強いものへの仮託”“強いものへの心理的同化”を求める大衆を、愛国心ナショナリズムに誘導し、斉藤貴男の表現によれば、“分をわきまえ支配層に奉仕する国民の量産”をする目論みが教育分野においても進められてきたということになるのだろう。つまり、大衆の力を弱体化させ、バラバラにしておいてから、ナショナリズムによって心理的に統合する。結果として、支配層を批判することへの忌避感を醸成させて、国家権力に従順な羊の群れとすることを目論んできたのだと言える。だから、経済右派新自由主義)と政治的右派は、補完関係にあり一対となって機能することで、支配層にとって有利な体制が構築できるのである。

橋下徹であれ、石原慎太郎であれ、河村たかしであれ、経済的には新自由主義に立ち、格差拡大を容認し、自己責任を強調しつつ、一方で政治的右派に立ち、ナショナリズムを鼓舞するのはそういうところに理由があるのであろう。君が代強制はその文脈で見ていく必要がある。これは巧妙に、狡猾に仕掛けられた一種のマインドコントロールであることを見抜かなければならない。マイコンは、教祖と一部の教団幹部だけが儲けるための仕掛けに過ぎないことを肝に銘じなければならない。

HARIMAHARIMA 2011/07/02 16:39 はじめまして。

私見を一つ言わせて頂くと、公の場における君が代斉唱等は、一種の様式美として捉えるべきでは無いかと考えます。起立を求められた応じたからと言って、国家への忠誠を強要されたと捉えるのは早計では無いでしょうか?極端な話、心の奥底では嫌悪しながらも、表向きは起立なりしておくというだけで済む話では無いかと思うのです。

人間は常に本音と建前を使い分けるものです。社会人になればその局面はどんどん増えます。嫌いな上司に対しても表向きは敬意を払うでしょうし、嫌いな同僚に対してだって挨拶くらいはするでしょう。下手な態度で接して人間関係を壊したいなんて思う人間は普通いないはずです。

話を戻しますが、基本的に上記のケースで学校側から求められているのは、要するに「君が代斉唱の時に立て」という事だけでしょう?その位なんだという話です。それをあえて拒絶し、ほとんど大勢の人間が立っている中で一人だけ座っている人間がいれば、それは少々異様な存在と思われても仕方ない気がします。まずそのような風習を廃したいと強く思うのであれば、そのような団体に参加して活動するなりすれば良い話であって、君が代で起立しない事により何かを達成した気分になって自己満足しているよりは遥かに理にかなっていると思います。

流石に不起立を理由に職を追われたりまでするのは行き過ぎだとは思います。正直何故そこまで君が代や日の丸を嫌うのかは理解出来ないのですが、嫌いな人にわざわざ押し付けてまで徹底するような事なのかという気も正直しています。とは言え、最低限場の空気は読んで欲しい所です。そうでなくとも日本は今大変困難な状況に置かれており、国家斉唱時に立つ立たないなんて事で言い争っている場合では無いように感じています。

コメントの開示が承認制との事でしたので、気に入らない文面であれば遠慮なく削除して下さい。

furiskyfurisky 2011/07/04 05:08 HARIMAさん

はじめまして。
さて

>公の場における君が代斉唱等は、一種の様式美として捉えるべきでは無いかと考えます。
>起立を求められた応じたからと言って、国家への忠誠を強要されたと捉えるのは
>早計では無いでしょうか?極端な話、心の奥底では嫌悪しながらも、表向きは
>起立なりしておくというだけで済む話では無いかと思うのです。

国家の象徴に対する“様式美”の強制力を伴う徹底化が問題なのです。内心でどう思うか?など本人以外、正確なところは誰もわかりません。戦前の軍国主義下の宮城遥拝、御真影の奉戴、君が代斉唱、日の丸掲揚は“様式美”の強制化に他なりませんでした。現代においても、北朝鮮などが挙げられれますが、国家の象徴、国家元首に対する拝礼の強制も、様式美の徹底です。これを徹底化することでナショナリズムに資することになるからです。

諸外国の事例によっても、少なくとも現代の欧米の先進諸国において、国歌国旗への拝礼、斉唱を強制し、
それに従わないものを処罰する事例など寡聞にして聞いたことがありません。アメリカにおいては、
1943年のバーネット裁判において、着席している自由というものが認められて以来、学校現場において、
教師、生徒共に、忠誠の誓いの時に、着席していることは人権として認められるよう判例が確立しているのです。式典の最中における国旗掲揚や国歌演奏の邪魔をするような積極的妨害行為となれば話は別ですが、単に立たない、単に歌わないという消極的行為をもって処罰化することを認めるということ自体、日本がまだまだ民主主義、自由主義という点では、後進国なのだという証左だと考えています。

君が代問題のみならず、現代の公立学校の現場における、全体主義的な有様は、危険なところまで行っているようですよ。『学校から言論の自由がなくなる』というブックレットが岩波書店から出ていますが、これを読んでも、公権力による統制がかなり強まっている有様が訴えられています。この本は、君が代問題以外の点について、現場がいかに教育委員会の統制のもと服従させられ、徹底した上意下達に置かれているかが暴かれています。

卒業式においても、東京都では、現在、式典の後の謝恩会さえ開くなという通達が出ているそうです。
卒業証書授与式という事務的な要素が強調され、式次第も進行の仕方も会場の設営の仕方も事細かに
教育委員会によって決められ、以前なら当たり前にあった卒業生や在校生によって製作された展示物は、
式場内に飾ることが出来なくなりました。卒業生を祝う、あるいはお世話になった教職員に謝意を伝えるという情緒性は、式典から排除される方向で進んでしまい、ずいぶんと味気ない卒業式になってしまったというのが、現場から聞かれる声です。公権力によって、式がそこまで統制され、現場サイドの創意工夫を排除するということは、何を意味するのか、大体おわかりではないでしょうか。どう考えても、非民主的で異常だと思いますよ。

HARIMAHARIMA 2011/07/04 15:39 >furiskyさん

レスを有難うございます。

>北朝鮮などが挙げられれますが、国家の象徴、国家元首に対する拝礼の強制も、様式美の徹底です。これを徹底化することでナショナリズムに資することになるからです。

私は右派のように北朝鮮に住む人々を馬鹿にするつもりはありません。勿論彼らの内心などを知る訳ではありませんが、国家元首に対する尊敬を強制されているからと言って、本心から崇拝しているなんて事は無いと思っています。表面上そう見えているだけでしょう。同国の国民を本当に縛っているのは、様式美では無くもっと物理的なものであると言えます。

要するに、「国家の象徴、国家元首に対する拝礼の強制」という行為がマインドコントロールになるという説は突飛なものであるように思えてなりません。そんなものだけで騙される程、日本・北朝鮮の両国民は馬鹿では無いと信じたいものです(ましてや日本の場合は個人崇拝を強制されている訳では無く、北朝鮮の事例とは厳密にはイコールではありません)。


>公権力によって、式がそこまで統制され、現場サイドの創意工夫を排除するということは、何を意味するのか、大体おわかりではないでしょうか。どう考えても、非民主的で異常だと思いますよ。

「日の丸・君が代」問題とは少し毛並みの違う問題のような気もしますが、東京都の事例は、確かに少しやり過ぎだとは感じます。卒業生が在校生や教師、逆に在校生が卒業生の為に善意で何かをしようとする気持ちは大切ですし、卒業式でそれを披露なりする自由位は大いに結構だと思います。

ただ生徒達の「自主性」という言葉が出て来た場合は、注意が必要です。某所沢市の高等学校で起きた「卒業式ボイコット問題」がそのいい例ですが、民主的な行動だと評価出来るのかも知れませんが、それ以前に学校行事そのものを集団でボイコットするという、ある意味秩序の崩壊という印象を与えてしまうような事もあるからです。

furiskyfurisky 2011/07/05 00:35 HARIMAさんへ

>同国の国民を本当に縛っているのは、
>様式美では無くもっと物理的なものであると言えます。

この場合の様式美とは、“一人残らず”一斉に国家の象徴や国家元首への拝礼、
斉唱、敬意を表するという行動様式に対する美的評価のことです。
この行動様式に対する美的評価など一様であるはずがありません。
HARIMAさんはそれを美しいと感じられるのでしょう。
私は美しいとは感じません。強制化と処罰化を背景にしての
“一人残らず”国家の象徴への拝礼、斉唱という行動様式に美は感じません。
そして、それを強制化するということ、処罰化するということは、
人権保障に対する後進性に他ならないと再三申し上げているのです。
既述したとおり、米国では国家の象徴に対して着席していることに対する
人権保障が判例によって確立しています。
その先駈けとなったバーネット裁判において判事を務めたジャクソン判事は、
以下のように述べています。

『異なる意見をもつ自由とは、ささいな事柄に限られるものではない。
それは自由の影にすぎない。その実質を試す試金石となるのは、
現存の秩序の核心に触れるような事柄に対してすら、
異なる意見をもつことができるという権利である。
私たちの星座にあるのが動かない恒星だとしても、
当局者(高位であれ下位であれ)が政治やナショナリズム、宗教その他、
見解の分かれる問題について何が正統であるかを規定したり、
市民に対して言葉もしくは行動による信仰の告白を強制したり
できるということにはならない。
私たちは、国旗への敬礼と誓いを強制しようとする地元当局の行動は、
憲法によるその権力の規制を超えるものであり、あらゆる公的支配のおよばない
合衆国憲法修正第一条が目的とする、自由な知性と精神の領域を侵すものだと考える』

この様に在るとおりです。

そもそも民主主義とはお上から与えられたものではありません。
その経緯と成り立ちは市民革命によって市民が勝ち取ったものなのです。
ところが日本においては、1945年の8月15日の敗戦によって、
外国から与えられたものが民主主義と自由主義でした。
自分たちの力で勝ち取ったものではないので、自分たちでこれを守っていくのだ
という自発的意識が西欧の先進国に比べて低いのだと思います。
これは、第一次世界大戦による敗戦によってワイマール憲法を
頂いた当時のドイツに似た状況があると思います。
当時のドイツでもこれを“押し付けられた”憲法であるという揶揄があったそうです。その後のドイツが民主主義的プロセスによってファシズムをもたらしたことは
よく知られていることです。
フランスでは小学校レベルの教科書で、自分たちが民主主義を守っていくという
意識を教育されていきます。

http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-386.html

ここのブログのエントリーにフランスの教科書の挿絵が紹介されています。
小船が大海を漂っている。その小船の回りを、フカが取り囲んでいて、
それぞれに、「不寛容」「不平等」「一党独裁」「外国人嫌い」と
名づけられていて、これが民主主義という小船を狙っているのです。
このように、民主主義というのは、安穏としていては、
これを守っていくことは出来ず、これを脅かすものに対する警戒を怠らないよう、
義務教育レベルで教育されていくのです。

ですから、

>そんなものだけで騙される程、日本・北朝鮮の両国民は
>馬鹿では無いと信じたいものです
>(ましてや日本の場合は個人崇拝を強制されている訳では無く、
>北朝鮮の事例とは厳密にはイコールではありません)。

このようにお考えになるのは、民主主義の経緯と成り立ちに対する
無知ないし無自覚から来るのだと思います。一体何を根拠に、
日本は大丈夫だと言えるのでしょうか。ほんの66年前まで
日本は軍部の暴走と全体主義をもたらしてしまったのですよ。
66年など歴史的時間軸で見ていくとつい最近の出来事ですよ。
それに、あそこまでの全体主義には至らなくても、人権保障という点では、
まだまだ後進性があるということは、この国歌国旗の強制によって確かめられていると私は思います。油断していくと、これをステップにエスカレートしていくということは上述のフランスの教科書によっても示唆されているところです。
東京都の教育現場の事例ですと、1998年の通達で、職員会議が補助機関とされ、
校長、教頭、主任などによる企画調整会議の設置が義務付けられ、
これによって、それまで学校の運営方針が職員会議による議決で
決められていたことが改められ、管理職によって一方的に決定され、
職員会議は、管理職が決めたことを報告する場、意見を聴取する場と
されてしまったのです。さらに、2006年4月の通知により、
職員会議による挙手、採択も禁止されました。さらに、この管理職による企画調整会議も教育委員会の徹底した管理化に置かれたのです。
つまり、
教育委員会で決めたとおりの決定を企画調整会議で校長以下現場の
管理職が下すことを余儀なくされ、教職員は、その内容に粛々と従うだけです。
これに逆らうことは許されません。この文脈の中で、日の丸君が
代強制も強められていった経緯があるのです。
卒業式、入学式の式次第、展示、設営の仕方も事細かに教育委員会に
よって決められるようになりました。また、文化祭においても、生徒による展示内容に教育委員会が口出しをしてくるようになったということは、
三鷹高校の土肥信雄元校長によっても報告されています。
これは、現代の先進国には類を見ない、非常に後進性を強めている状況が伺われます。

イギリスの歴史家、ジョン・アクトンの格言に、

「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」というものがありますね。

これは、言い換えれば、

「権力は濫用される。絶対権力は絶対に濫用される」といえるでしょう。

憲法とは、「国家権力の濫用を抑制し、国民の権利を保障するための最高法規」です。
上述したとおり、これを守っていくためには、お上にお任せしておけばいいということでは決してありません。粛々として従っていれば、支配層はうまい具合に
民主主義を維持してくれるという考えは無知と妄想に過ぎません。
たえず、人権を教育し、主張し、行使し、人権侵害に対しては異議を唱える、
これが健全な民主主義のあり方なのです。

ギイ・モケの手紙というのは御存知でしょうか。
これはフランスのレジスタンスの闘士で17歳にしてナチスによって処刑された少年なのですが、彼が死を前にして綴った名文があるのですね。この内容は大変感動的なものなのですが、サルコジ大統領は就任早々に、ギイ・モケの命日の日に全国の高校で、この手紙を朗読させることを義務化することを決めたのです。
しかしこの手紙を利用しての政治的儀式化、つまり、これを政治利用、ナショナリズムを喚起するための利用であるとして、全国の学校現場で反発が起こりました。そして、サルコジはギイ・モケの母校である高校に訪問予定であったにも関わらず、
同校から抗議文を突きつけられキャンセルを余儀なくされました。
結局、ギイ・モケの手紙を強制することに対して、職務命令とはいえ、
現場から批判と反発の声が上がり、強制化ましてや処罰化などあちらでは許さない状況があるのです。民主主義と自由主義とはそういうものです。
公務員なんだから上司の命令に従うのは当たり前とかそういうテンプレートコメントを目にしますが、命令の内容も問わず、命令だから黙って従えというのでは、
まさに全体主義的発想でしょうに。(苦笑)
そういう思考停止がまだまだ日本においては多々見受けられるのは、
この国の民主主義の後進性に他ならないと思います。
フランス在住の方によっても、公務員への国家国旗への拝礼と斉唱の強制と処罰化など考えられないという報告を読んでいます。
そもそも、再三申し上げている通り、学校現場において、国歌国旗への拝礼と斉唱を強制し、これに従わない者を処罰する先進諸国など、現代においては寡聞にして聞いたことがありません。

HARIMAさんは、日本を民主主義と自由主義において、先進国にしたいのですか?
それとも、後進国でかまわないというお考えなのですか?

私は、前者の立場に立っていますので、このような強制化に対しては断固反対の立場を貫くものでございます。

HARIMAHARIMA 2011/07/05 22:42 >furiskyさん

まず私は強制化に賛成している立場では無い事を前提として意見させて頂きます。

>このようにお考えになるのは、民主主義の経緯と成り立ちに対する
無知ないし無自覚から来るのだと思います。一体何を根拠に、
日本は大丈夫だと言えるのでしょうか。ほんの66年前まで
日本は軍部の暴走と全体主義をもたらしてしまったのですよ。
66年など歴史的時間軸で見ていくとつい最近の出来事ですよ。

日本の極端な右傾化を警戒する考えそのものについては特に異論はありません。
問題なのは、「君が代斉唱を拒否する事」がどうその抑止に繋がるのかが分からないという点です。

>公務員なんだから上司の命令に従うのは当たり前とかそういうテンプレートコメントを目にしますが、命令の内容も問わず、命令だから黙って従えというのでは、
まさに全体主義的発想でしょうに。(苦笑)

命令の内容を問う事そのものは別に構わないと思いますし、それが保障されていないのであれば問題と言えるでしょう。ただ命令に反対する理由は明確にしなければなりません。
今回の例で言えば、「私は君が代・日の丸が嫌いだ。だから起立も斉唱もしない」程度の理由では話にならないと思われます。何より職務命令そのものがおかしいと思うのであれば、
命令違反で対抗するのではなく、命令そのものを取り消しするように働きかけるのが筋では無いでしょうか(公務員としてでは無く私人としてなら問題はないでしょうし)?要するに
「起立命令に対し起立しない」というアプローチそのものに対して疑問が残るのです。

furiskyfurisky 2011/07/05 23:56 HARIMAさんへ

>日本の極端な右傾化を警戒する考えそのものについては
>特に異論はありません。問題なのは、「君が代斉唱を拒否する事」が
>どうその抑止に繋がるのかが分からないという点です。

国家の象徴への拝礼と斉唱を強制化し、不作為であるという理由だけで
処罰化するという公権力の措置を許すということが既にナショナリズム、
全体主義へのプロセスになるのです。ゆえに私は反対という立場を取っている
わけです。何度でも言ってきましたが、こんなことをしている国は、
現代の先進国の中で他に例を見ません。日本が民主主義と自由主義において
先進国となることを目指すべきだという立場に立つ限り、
こんな後進的な措置など認められないということを今まで述べてきたのです。

>何より職務命令そのものがおかしいと思うのであれば、
>命令違反で対抗するのではなく、命令そのものを取り消し
>するように働きかけるのが筋では無いでしょうか

この強制化&処罰化という措置に対して、現場から異議申し立てをすることは
今の状況ではほぼ不可能です。三鷹高校の元校長の土肥信雄校長は、職員会議に
おける挙手採択の禁止措置、昨今の徹底した教育委員会による統制に対して、
勤務時間外において、教育委員に異議を伝えたり、
シンポジウム等で一般に向けて異議を唱えてきましたが、このことが教育委員会の逆鱗に触れて、再三の呼び出しを受けて、戒められてきたのです。不服従という措置を取ることは、フランスにおけるギイ・モケの手紙の朗読命令に対してリセの教職員及び生徒、OBがとった抗議と不服従と同質のものです。違う点は、成熟した民主主義を持つフランス社会においては、これが功を奏して、命令に従わないことを可能にしたのに比して、後進国、日本においては、民主主義と自由主義が未成熟で、きちんと根付いていないため、不起立教師に対する制裁、バッシングを許すという状況になっているのです。つまり、こんな後進的な措置を許してしまうか否かという点は、
民主主義と自由主義の進展の度合いを測るバロメータとみるべきかと思います。

>ただ命令に反対する理由は明確にしなければなりません。
>今回の例で言えば、「私は君が代・日の丸が嫌いだ。
>だから起立も斉唱もしない」程度の理由では話にならないと思われます。

私は、いかなる理由であれ、国家の象徴への拝礼、斉唱の強制と処罰化には
反対です。その理由は、私が一連のエントリーで書いてきたとおりです。
ですので、不起立の理由に関しては、私はそれほど興味は無いのです。
しかし、私は、この問題を考える上で、強制化を認める立場、逆に不起立教員の側、
双方の言い分を読んできました。判決文にも目を通しました。
判決文及び、各種ブログ、新聞記事、週刊誌記事、それと書籍を読んできました。
その上で、私の主張に至ったのです。
あなたは、なぜ不起立するのか?その理由をどうして自分で読もうとしないのですか?いくらでも理由は開示されているではないですか。

拙ブログでは、6月6日のブログで、5月30日の最高裁による合憲判決に加わった裁判官のうち反対意見を書いた宮川光司の文章をそのまま掲載しています。

http://d.hatena.ne.jp/furisky/20110606/1307388212

そこを読むだけでも、不起立の理由について宮川判事が教員サイドの主張を踏まえての考察を展開しています。判決文の前段でも、この点について原告の主張が整理されていますので、こういったものに目を通してはいかがですか。
また、不起立する教員や学者の書いた書籍等、少なくともウェブサイト等を、貴殿の書込み内容から察するに、読んだことが無いようですね。まず、情報リテラシーとバランスの取れた情報環境を意識的に作っていくべきでしょう。あなたの先入観と思い込みで、こうだああだと決め付けるのは、賢明な態度とは言えませんよ。

私が最近読んだ書籍の中から、君が代強制化に異議を唱える立場から書かれた本としては、次の二冊がお勧めですので、興味がおわりなら読んでみてはいかがでしょうか。

早大の憲法学者西原博史教授による『学校が「愛国心」を教えるとき』
(日本評論者)

不起立の当事者である教諭河原井純子氏による『学校は雑木林』(白澤社)

HARIMAHARIMA 2011/07/06 20:09 >furiskyさん

>私は、いかなる理由であれ、国家の象徴への拝礼、斉唱の強制と処罰化には
反対です。その理由は、私が一連のエントリーで書いてきたとおりです。
ですので、不起立の理由に関しては、私はそれほど興味は無いのです。

furiskyさんはあくまでも「強制化」そのものに反対で、不起立する教職員の意見を代弁をするお立場では無いという事ですね。この点は私の認識不足でした。


>あなたは、なぜ不起立するのか?その理由をどうして自分で読もうとしないのですか?いくらでも理由は開示されているではないですか。

不勉強な点は否定いたしませんが、別に私は理由(というより主張内容)を知らない訳ではありません。私が知る限り、それらは全て「思想心情の自由の侵害」という
一言に集約されます。裁判での主な争点は、「起立命令が憲法19条に違反するか否か」であると言えるでしょう。そして私が調べた限りにおいて、判決が確定して
いる裁判で、憲法19条に違反しているという結論が出たものは無いというのが現状です。「バーネット裁判」のような判決が日本でも出ていて、それを根拠にして
不起立などの強硬措置に講じるのであればまだ分かるのですが(個人的にそれを支持出来るかは別として)、それが無い内からそのような行動を起こすという事は、極
端な話「ただ嫌いという個人的な感情だけで職務命令に反している」と見られるのもやむなしでは無いかと言うのが正直なところです。


>拙ブログでは、6月6日のブログで、5月30日の最高裁による合憲判決に加わった裁判官のうち反対意見を書いた宮川光司の文章をそのまま掲載しています。

ご紹介頂いた2冊の書籍も含め、是非参考にさせて頂きます。長々とお付き合い頂き有難うございました。

furiskyfurisky 2011/07/07 00:07 HARIMAさんへ

>furiskyさんはあくまでも「強制化」そのものに反対で、
>不起立する教職員の意見を代弁をするお立場では無いという事ですね。

おっしゃるとおりです。私は、仮に国歌国旗を違うものに変えて、国民主権と
民主主義、自由主義を高らかに歌い上げるような内容のものに変えたとしても、
公権力によって拝礼、斉唱を強制し、不作為の者を処罰するという
措置には反対するものです。日の丸君が代だから反対だという立場ではありません。
また、不起立教師についても、その不起立の理由は個人個人でディテールに違いが
あるかと思います。それを一々代弁するなど私には不可能です。いずれにせよ、
私は、いかなる国歌国旗であっても、それらへの公権力による強制には反対である
ということは繰り返し申し上げておきます。

>それらは全て「思想心情の自由の侵害」という
>一言に集約されます。裁判での主な争点は、
>「起立命令が憲法19条に違反するか否か」であると言えるでしょう。

その「思想・良心の自由」ですが、その内容は本来的に皆一様なものでは
ありません。人それぞれ内容を持っているのです。憲法は13条によって
“個人の尊厳”を保障するとしているのです。ですから19条においても
“個人の思想・良心”に照らして保障されるものであって、十把一絡げに
括れるものではありません。ですから、不起立の理由を知りたいのであれば、
そのディテールは、それぞれの資料によって調べるべきだと申し上げているのです。

>そして私が調べた限りにおいて、判決が確定して
>いる裁判で、憲法19条に違反しているという結論が出たものは
>無いというのが現状です。「バーネット裁判」のような判決が日本でも出ていて、
>それを根拠にして不起立などの強硬措置に講じるのであれば
>まだ分かるのですが(個人的にそれを支持出来るかは別として)、
>それが無い内からそのような行動を起こすという事は、
>極端な話「ただ嫌いという個人的な感情だけで職務命令に反している」と
>見られるのもやむなしでは無いかと言うのが正直なところです。

???な内容です。
まず、『判決が確定』とおっしゃいますが、確定した判決は何に対して“確定”
しているのか考えましょう。Aさんという教師がいて、彼が2010年に不起立を
しますね。教育委員会からそれに対する処分が下された。そして、その処分を不服として訴訟を提起するわけです。最高裁によって強制が合憲であるという判決が下されても、確定したのはこの具体的事例に対する確定判決であるに過ぎません。

まず、
ここで、“付随的違憲審査制”と“抽象的違憲審査制”の違いを知っておきましょう。日本やアメリカにおいては、憲法訴訟について、“付随的違憲審査制”という体制にあります。付随的違憲審査制とは、職務命令そのもの、法令そのものの合憲性を争う目的で訴訟を起せない制度です。そこが抽象的違憲審査性との違いです。ですから、不起立という不作為を行う教員がいて、その不作為に対する処分が下されるという事象が発生してはじめて当事者適格を得られるのが基本です。

アメリカにおいて、不起立や国旗に関する様々な裁判が行われてきましたよね。

『1943年 バーネット事件 連邦最高裁判決

「国旗に対する敬礼および宣誓を強制する場合、その地方教育当局の行為は、自らの限界を超えるものである。しかも、あらゆる公の統制から留保されることが憲法修正第1条の目的であるところの、知性および精神の領域を侵犯するものである」(ウエスト・バージニア州 vs エホバの証人)

1970年 バンクス事件 フロリダ地裁判決
「国旗への宣誓式での起立拒否は、合衆国憲法で保障された権利」

1977年 マサチューセッツ州最高裁

「公立学校の教師に毎朝、始業時に行われる国旗への宣誓の際、教師が子どもを指導するよう義務づけられた州法は、合衆国憲法にもとづく教師の権利を侵す。バーネット事件で認められた子どもの権利は、教師にも適用される。教師は、信仰と表現の自由に基づき、宣誓に対して沈黙する権利を有する。」

1977年 ニューヨーク連邦地裁

「国歌吹奏の中で、星条旗が掲揚されるとき、立とうが座っていようが、個人の自由である」』

これらの裁判においては、全て、実際に不起立をするなどの、命令や法令に反する行為があり、それらの行為への処分が発生して、初めて裁判を起すことが出来るのです。そしてその裁判によって、それらの命令や条例が違憲であると下され、人権の保障が確立していったのです。 1943年のバーネット裁判以前の合衆国最高裁判決では、国旗に対する起立宣誓の強制を合憲とする判決が出ていたのです。ところがバーネット裁判によって過去の最高裁による判決内容を覆して、違憲である、不起立していること、宣誓を拒むことの人権保障を認めたのです。これが米国のこの問題に関する画期的判決として以降の判例の先駈けとなったのです。

ですから、HARIMAさんは以下のようにおっしゃるわけですが、

「バーネット裁判」のような判決が日本でも出ていて、
>それを根拠にして不起立などの強硬措置に講じるのであれば
>まだ分かるのですが(個人的にそれを支持出来るかは別として)、
>それが無い内からそのような行動を起こすという事は、
>極端な話「ただ嫌いという個人的な感情だけで職務命令に反している」と
>見られるのもやむなしでは無いかと言うのが正直なところです。

バーネット裁判においては、過去に根拠とする判例が無いのです。
それどころか過去の判例を覆しての判決であるゆえに、これが米国の
民主主義と自由主義にとって重要な裁判として銘記されてきたのです。

そもそも、あなたのその論法で行けば、未来永劫に渡って、不起立問題について、
裁判で争えなくなってしまいますし、現時点での判例が永遠に踏襲されることに
なってしまいます。(^^;;
そんなアホな話ありませんよ。(苦笑)

私は、この問題について考えるほど、民主主義と自由主義において、日本及び日本の司法の後進性を痛感するばかりです。その日本においても、憲法学者の間では、
君が代強制を違憲であるとする考えが多数派ですし、日本弁護士連合会は、強制化に
反対する声明を公式に出しています。不肖フリスキーも拙いながら、判決批判をしています。

私は、日本を民主主義と自由主義において、先進国にしたいという
立場に立っていますので、このような強制化に対しては断固反対の立場を
貫くものでございます。これが私の愛国心です。

>長々とお付き合い頂き有難うございました。

こちらこそ有難う御座いました。