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40mm/1.7

2009-08-31-Mon

★誰が朝鮮人なのか (朝鮮戸籍と日本国籍との関係ノート

2016年1月27日更新】暫定稿


1910年(明治43年)の日韓併合により、大日本帝国は、大韓帝国の統治権を獲得した。統治権は大きく、領土主権(国家の基礎である一定地域のすべての人や物に及ぶ国家の支配権)・対人主権(領土の内外を問わず、国民に対する国家の属人的な支配権)・自主組織権(国家がその活動組織を自ら法によって定める権利)に分けることができる。

日韓併合条約に「第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス。第二条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス」とある通り、大韓帝国の一切の統治権を割譲された大日本帝国は統治する官庁として朝鮮総督府を設置し、1923年、朝鮮総督府令154号により大韓帝国の作っていた戸籍(自国民リスト)を継承して朝鮮戸籍を作成した。この朝鮮戸籍に登載されている(本籍のある)者が、半島・内地在住を問わず「朝鮮に帰属すべき者」、つまり朝鮮人であった。

朝鮮総督府は内地政府とは別個の統治機関であり、国内法的にも天皇下部組織ではあっても内地政府の下部組織ではなかった。もちろん大日本帝国憲法は適用されず、朝鮮総督は天皇にのみ責任を負い、内地政府・議会からも拘束されずに立法・行政権を行使した。併合条約には韓国とあるが、1910(明治43)年勅令第318号は、併合後の韓国の「国号」を『朝鮮』とするというものだったし(http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm43-318.htm)、朝鮮〜内地間貿易関税制度は併合後も存続されており、大日本帝国も朝鮮も同じ天皇に統治されてはいたが、実質的には異なる国として扱われていた。つまり、朝鮮は大日本帝国の支配下の領土とは言っても、同じ国とは考えられていなかったということである。

実質的に異なる国のその朝鮮人を併合後日本人と考えたのは、1899年(明治32年)の旧国籍法を適用したからではなく(朝鮮に旧国籍法は施行されていない)、朝鮮統治に基づく朝鮮戸籍令の規定によるものだった。つまり、「その朝鮮人が朝鮮に帰属する事を確認(戸籍確認)→帰属する朝鮮は日本が併合している→朝鮮人は日本人と言える」という論理のゆえであり、その条理と慣習によって大日本帝国の国籍を有すると考えていたのである。

(ちなみに台湾の場合99年に旧国籍法が施行されているが内地の戸籍法は適用されておらず台湾戸籍として別個に登録されていた。台湾は下関条約によって清から「割譲」されたものであり、朝鮮は日朝双方の合意に基づく「合邦」であるので扱いが違ったかしれない。が、なぜ朝鮮に旧国籍法が施行されなかったのかはよくはわからない)

そのように、戦前の朝鮮人(朝鮮に属すべき者・朝鮮戸籍を持つ者)は日本人(日本に属すべき者・日本戸籍を持つ者)とともに大日本帝国臣民を構成する一つの集団であったが、それは『韓国併合という事実』を根拠としており、国籍法の明文規定無しに大日本帝国臣民の中に含まれる扱いをうけただけであり、併合後もそれぞれの統治機構や相続・血縁関係など、内地人(日本人)と異なる法体系で支配された別個の集団を維持していた。

朝鮮戸籍令や戸籍法、共通法第3条の規定では、朝鮮戸籍を有する朝鮮人は、結婚養子以外では本籍を内地に動かせなかった。つまり、朝鮮戸籍と日本(内地)戸籍は、「朝鮮に属すべき者」と「日本に属すべき者」とを峻別しており、たとえば日本戸籍の女性が、朝鮮人戸籍の男性と結婚した場合、朝鮮戸籍に入ることになったが、いったん朝鮮戸籍に入った者は「朝鮮に属すべき者」であり、その子供も朝鮮人であり、内地人(日本人)ではなくなった。日本朝鮮台湾各地域での身分移動は、この帰属の変更を意味する旨が共通法によって定められていた。

1939年には協和会が全国すべての都道府県に結成され、その所持を義務付けられた協和会手帳によって内地在住の朝鮮人は把握された。(写真、本籍地、日本国内の住所、職業などが記載され、本人確認手段になっていた)http://www.j-koreans.org/exhibit/mono_02.html

国際的にも内地人の持つ日本国籍と朝鮮人の持つ日本国籍は明確に区別されており、内地人の持つ日本国籍は外国国籍取得による国籍離脱が認められていたが、朝鮮人の持つ日本国籍は外国国籍取得による国籍離脱の規定が存在しなかった。(例:間島や中国東北部での朝鮮人の中国への帰化問題)日本国籍の離脱が出来ない朝鮮人は、外国政府が帰化させたくても不可能だった。

戦前朝鮮人も日本人も帝国臣民だったし日本国籍を有していたとは共有認識としてあるわけだが、実質としては、日本人(内地人)と朝鮮人はそのように扱いが違っていたわけである。もちろん、朝鮮人が日本に渡航したり寄留するときにも、「入国管理」の対象として許可制度が導入された。警務総監部令第3 号「朝鮮人ノ旅行取締ニ関スル件」(1919.4)は朝鮮人の日本渡航に対する初めての直接的規制(渡航証明書制度)で、国外に出る者には就労先を管轄する所管警察署・駐在所が証明書を下付され(旅行届出許可制)、それを最終出発地の警察官に提示(釜山水上署)してから日本に渡った。(1919〜22、1925〜38が渡航制限期間)

1934年には「朝鮮移住ノ件」として今まで以上に朝鮮人の密航を厳重に取り締まること、朝鮮人の流入を防ぐ為に満州開発を行うことを岡田内閣が閣議決定した。その後1939年には内地で国民徴用令が成立し(朝鮮に適用されたのは 1944年9月から)朝鮮でも日本企業自由労働者募集することを許可され(募集)、42年には総督府が朝鮮人労働者を募集した(官斡旋)。

選挙権についてであるが、戦前の内地に住む朝鮮人には日本人と同じように参政権があった。1920年の衆議院選挙では所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人が選挙権を行使し、1925年の普通選挙法成立後には納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられることになった。また1930年1月31日の内務省法令審議会はハングル投票有効とし、ハングル投票が予想される選挙区の投票管理者には諺文字(ハングル)書が配布された。32年と37年の衆議院議員選挙で東京4区から当選した朴春琴など、地方議会でも立候補した朝鮮人は当選していた。

一方朝鮮や台湾という外地に居住する者は、日本人であっても参政権はなく、日本人も朝鮮・台湾人も内地に住む者だけに参政権があった。選挙権においては内地の臣民には差別はなかったが、外地に在住する者と内地に在住する者とでは同じ臣民でも違いがあったということである。

大日本帝国の国籍はそのように日本人と朝鮮人とで異なっており、朝鮮人の国籍の根拠が1952年の平和条約で否定されるのである。

ちなみに1933年5月の朝鮮の道議会選挙の結果を報じた新聞によれば朝鮮半島13道のうち80パーセントの当選者が朝鮮人であり、公権力の幹部や高等刑事も朝鮮人であったようである。http://www.hoshusokuhou.com/archives/24510574.html


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1943年11月、米国大統領ルーズベルト、英国首相チャーチル、中華民国主席蒋介石によってカイロ会談が行われ、12月1日に「カイロ宣言」が発表された。この声明は後日、連合国の対日基本方針となるものであり、朝鮮に関しては、以下の通り記述されている。

The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.(前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する。)

1945年7月〜8月、ナチス・ドイツ降伏後、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合われた。この会談でポツダム宣言とポツダム協定が決められ、7月26日、英米中の首脳によって大日本帝国に対して勧告された。

第8條に、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島局限セラルベシ、とあり、第1條には、日本国に対し戦争を終結する機会を与えるとし、末尾第13條において、これ以外の選択は、迅速且つ完全なる壊滅あるのみと宣言している。

日本は、この「ポツダム宣言」を受諾し、降伏時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属することとなった。上記8条の通り朝鮮半島は日本の主権が及ぶ範囲の中に含まれておらず主権国家も存在しなかったためGHQによって直接統治されたが、日本在住の朝鮮人も朝鮮半島の朝鮮人も全員が「日本国籍」を維持していた。

1945年11月3日米政府によって発令された「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」によると、朝鮮半島に主権国家が樹立されるまでの間、朝鮮人を「植民地政策」からの「解放民族」として扱い、日本国籍を有してはいるが日本の司法権の及ばないとし、軍属にある朝鮮人は敗戦まで皇国臣民だったことを理由に敵国民(日本人)として扱うことも可能な「第三国人」として捉えるべきだとの方針が決定された。http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/036shoshi.html

GHQは朝鮮半島に帰還した朝鮮人の日本への再渡航を禁止したが、解放されたはずの朝鮮からの”密航者”はなぜか続出した。「日本国籍」を有しているため「密入国」ではない上、「第三国人」として司法権も及ぶことがなかったので取り締まることもできなかった。1950年GHQの命令によって大村収容所が設置されるまではこの”密航者”を捕らえても強制送還出来なかった。

密航だけでなく終戦直後から朝鮮人の犯罪件数は急増した。「第三国人」という立場悪用し「日本国内法の枠外」に「治外法権」を確保しようとする「尊法精神の無い不穏な少数民族」として朝鮮人を考え「占領軍政策の成功にとって重大な障害」になりかねないと結論付けたGHQは初期の方針を撤回し、1946年2月連合国対日理事会で緊急措置として軍属に関係なく全ての朝鮮人に日本の司法権の及ぶことを決定した。

にもかかわらず一向に減らない在日朝鮮人の犯罪件数に業を煮やしたGHQは1947年5月2日当面は朝鮮人を「外国人」として扱うようにとの「外国人登録令(ポツダム勅令207号)」の施行を命じた。「外国人登録令」は、朝鮮人を当分の間「外国人」とみなし入国の制限と登録を義務づけた。日本に在住する朝鮮戸籍登載者は、日本国籍を有したまま登録証の国籍等の欄には出身地である「朝鮮」という記載がなされた。これが現在の「朝鮮籍」の始まりである。

1947年GHQは日本政府に対し在日朝鮮人を当面は「外国人」とみなすが「日本国籍」を有し日本に居住する以上は民族教育を禁止し「日本の教育基本法・学校教育法」に従わせるよう司令を出し、48年文部省は朝鮮学校閉鎖令を各都道府県知事に通達を出した。民族教育を行う学校の約90%が「占領目的を侵害する行為」によって解散させられた在日朝鮮人連盟が運営母体だったためである。

1948年大韓民国が建国されると38度線以南の朝鮮人は事実上「日本国籍」を失うが、日本在住の朝鮮人は「日本国籍」のままであるため韓国政府は外国人登録上「韓国」又は「大韓民国」の国籍表示を用いるようGHQに要請した。このため1950年以降本人の希望があった場合のみ「朝鮮籍」から「韓国籍」に書き換えることができる措置が取られるようになった。

1952年のSF平和条約によって日本国は朝鮮の独立を法律上承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権放棄することになったので、日本は朝鮮における統治権(領土主権、対人主権、自主組織権)を放棄した。朝鮮統治自体が不当とされたので、朝鮮の土地と朝鮮の人間を自由且つ独立のものにするために、日本がこれらの権原を放棄したのである。この場合、対人主権の放棄によるものは「朝鮮に属すべき者」であり、これは上の朝鮮戸籍に登載されていた者を指していた。

そのとき日本に居住していた「朝鮮に属すべき者」に対しての対人主権も半島居住の「朝鮮に属すべき者」同様放棄されたのであり、これを『日本国籍の喪失』という。半島内地以外の台湾や東南アジアなどの旧大日本帝国領土に居住していた「朝鮮に属すべき者」も、それ以外の土地に居住していた「朝鮮に属すべき者」に対しても同じく対人主権は放棄された。朝鮮統治を正当化できないのに、その統治を根拠に日本が日本居住どころか世界中の「朝鮮に属すべき人」の日本国籍を主張できるわけがない。

また、日本国籍喪失時に日本国内在住の朝鮮人に国籍選択権を与えるということは、半島居住の「朝鮮に属すべき者」と内地居住の「朝鮮に属すべき者」とを、居住地の違いによって差別(特別扱い)することになるし、植民地支配続行の意思を表明することになる。

同時に外国人登録令は破棄され外国人登録法が施行された。

たとえば、鄭大均氏(1948年岩手県生まれ)の母親のように、戦前朝鮮人との結婚により日本戸籍から朝鮮戸籍に移動した日本人女性は、サンフランシスコ平和条約後、日本国籍を喪失したことによって朝鮮籍として「外国人」となったのだし、その子の鄭氏も「外国人」となった。日本人の両親のもとに日本に生まれてずっと日本で暮らしてきた日本国籍者の女性が朝鮮人と結婚して朝鮮戸籍に移動していたため、サンフランシスコ条約以後は、その女性や子供は日本人ではなく「外国人(朝鮮人)」となったのである。

鄭氏は後に帰化されたが、氏の妹の鄭香均は外国籍職員が東京都の管理職選考試験受験拒否されたとして都を訴え、二審で一部勝訴(慰謝料支払のみ認定)するも、最高裁において敗訴が確定した(東京都管理職国籍条項訴訟)。

兄妹といってもいろいろである。



(注)本籍と住所とが明確に区別されたのは、1951年にの住民登録法が施行されてからであり、それまでは、住民の居住の実態を把握する住民登録としての実質を持っていた戸籍制度の本籍があくまでも本来の居住地として扱われた。本籍を離れて長期に居住していたとしても、法令上、本来の住所は本籍のものとみなされていた。

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