テッド



 (ネタバレありです)
 宗教学者でもある島田裕巳に「映画は父を殺すためにある」という本がある。「ローマの休日」や「フィールド・オブ・ドリームズ」など、いくつかの作品を例にあげながら、「通過儀礼を描く」という映画の機能に着目し、その背景にある文化や人間観を考察した好著である。映画が倫理や道徳の源泉になり、宗教にも似た役割を果たしてきたという指摘には、なるほどなあと感心したものだった。


 さて「テッド」である。多くのアメリカ映画がそうであるように、「テッド」という映画もまた通過儀礼を描く物語の体裁を取っている。ただし、話はそうは簡単にいかない、というのが本稿の趣旨である。


 主人公のジョン(マーク・ウォールバーグ)は、オタク気質丸出しで、大人になれない35歳の男。彼には親友のテッドがいる。テッドはテディベアのぬいぐるみだが、なんと喋ったり自分から動いたりできる。ジョンが8歳のときに親友であってほしいと願ったことで、命を吹き込まれたのだ。それから27年。一時期はマスコミにも名前が知れ、テッドは人気者だったこともあったようだ。だが、その外見こそ昔のままだが、今では、四文字言葉を口にしたり、デリヘル嬢を呼んだり、マリファナを吸ったり、下品で、差別的で、おちぶれた、人間的(?)にダメな「悪友」のポジションである。


 一方、ジョンには四年つきあっている彼女がいる。彼女は、ジョンとテッドが密着していることを快く思っていない。テッドの悪行に閉口した彼女は、ジョンに、テッドと別れるか、それとも彼女と別れるかという二者択一を迫る。ジョンは、テッドを水族館に呼び出して、別の場所で暮らしてほしいと話す。テッドはそれを受け入れ、別のアパートで暮らし始める。


 この時点では、少なくともジョンは、オタク的な自分と決別し、大人になろうとする意志を持っているかのように描かれている。ところがその後、テッドからのオタク心をくすぐる誘いを断れない。ある夜、彼女と一緒にパーティに来ているジョンのところに、テッドからの電話が入る。「こっちのパーティに来い! 「フラッシュ・ゴードン」のサム・ジョーンズが来ている!」


 オタクであるジョンは誘惑に抗えず、彼女には内緒でテッドのパーティへ行く。最初は30分で帰るつもりだったのだ。だが、幼い頃のヒーローに初対面した感激で、コカインをキメ、時間を忘れて乱痴気騒ぎに溺れてしまう。そのサマを彼女に目撃され、愛想をつかされ彼女との関係は破局する。


 ここまでは定番通りのストーリー展開。もしこの映画が定石通り、通過儀礼を描く気があるのなら、彼女を取り戻すために、ジョンは「テッドと決別する」という展開が一般的である。ところが、このあたりから、ドラマは変化球になる。ショックを受けたジョンは、テッドをなじり、その後取っ組み合いの大ゲンカになる。大ゲンカの末、ジョンの股間にテレビが倒れ込んでダメージを受けたことをきっかけに(これも象徴的だ)、テッドとジョンは、仲直りをしてしまうのである!


 その後、破局した彼女の関係は、安直に修復される。彼女との関係修復に努力するのは、ジョンではなく、むしろ責任を感じたテッドである。偶然知り合いだった(!)ノラ・ジョーンズに、ライブで愛の歌をジョンに歌わせる段取りをするのもテッドだし、彼女のマンションに訪ねていって、彼女を説得するのはテッドなのである。彼女も彼女で、ジョンにヘタクソな歌を聞いて、勝手に感激して、彼女の方からヨリを戻そうとアプローチしてきてくれる。彼女は都合よく、彼の幼児性を受け入れる女性に変身してしまう。


 つまり、ジョンはそれほど努力をしないまま(ヘタクソな歌は歌ったが)、彼女とのヨリが戻ってしまうのである。ギャグにまぶして提示してみせるこのあたりのドラマ展開は、ご都合主義で、いかにも弱い。そしてラストは、ジョンと彼女の結婚式である。「フラッシュ・ゴードン」のサム・ジョーンズの前で結婚の誓いをするのが象徴的だ。ジョンは本質的にオタクのまま、ちゃっかりと愛を手に入れるのである。そしてテッドの友情も失うこともない。少々安直なハッピーエンド。通過儀礼と成長の物語を紡ぐはずが、途中からオタクの欲望に迎合したファンタジーにすりかわってしまうのである。


 「テッド」は、「フラッシュ・ゴードン」を始め、1980年代のサブカルチャー世代をくすぐるオタクネタ満載の映画であり、オタク心を持つ男性観客(オイラもそうだ)をいい気持ちにしてみせる。しかし、オタクであるがゆえに、いつまでもオタクでいいのか、とも考えるオイラにとっては、作品のほころびから見える「オタクを甘やかす」ご都合主義に、少々白けた気分にさせられる。





映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

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