『絵画の準備を』(岡崎乾二郎/松浦寿夫)は何度も繰り返し...

●『絵画の準備を』(岡崎乾二郎/松浦寿夫)は何度も繰り返し読んだ本で、新装版が出て多少改訂されていたとしても改めて手に取ろうとは思わなかったのだが、昨日、美術館の帰りに寄った本屋でみてみたら、新しい章が一つ加えられていたので、買って読んだ。
●新しい章は、「メディウムと抵抗」と名付けられている通り、リプレゼンテーションの体制と、それに対する抵抗としてのメディウム・スペシフィック、ということが一貫して語られているように読めた。(読みながら、アルチュセールの不確定な唯物論のような話を思い出していた。)ただ、メディウム・スペシフィックということを、リブレゼンテーションへの「抵抗(批判)」という風に位置づけてしまうと、松浦氏が指摘するように、代表制を維持しつつそこで何かをするべきか、あるいは、代表制そのものを無化するような何かをすべきか、という二項対立的、静態的な構図に納まってしまいがちで、しかし、問題は、我々はリプレゼンテーションの形式を必要としていて、だが同時に、それは、その形式の内部には(事前には)場所を与えられていない無数の「未だ形式として定位していない形式」(メディウム・スペシフィックなもの)たちによって支えられ、成り立っているのだということを、同時に捉える必要があるということだろうと思う。リプレゼンテーションは不可避であり、しかしそれは(世界の穴を塞ぎ、凸凹を均すものとして)常に暴力であるだろう。メディウム・スペシフィックというのは、表象不能なもの、とか、亀裂、とかいう形で、あるいは、事後になってからの「遡行」という作業によってしか見出すこと(表象すること)が出来ない。つまりそれは、常に「抵抗」というかたちでしかあらわれない。しかし、だから「抵抗」しなければならない(芸術という行為は「抵抗」としてある、とか)、という話になってしまうと話が転倒してしまう。だから岡崎氏は、そうではない言い方によって、なんとかそれを言い表そうとしているように読める。つまり、亀裂が先にあるからこそ、表象の形式が要請されるのだ、とか、確率論的な知覚とか、そういう言い方は、事後的にしか見出せないものの権利(未だ形式として定位していない形式)を、どうやって事前に確保するのか、ということに関わっているのだと思う。繰り返すが、より良い表象のシステムをつくりだそうと努力する、というのでもなく、表象のシステムなど下らないからぶっ壊せ(抵抗せよ)、というのでもない、そのどちらでもない場所に「芸術」の場所があり得る。このことは、具体的には、例えば岡崎氏によって次のように語られる。
《絵画は、先ほどいったように事件として、色からはじまるわけです。そこからはじまらない絵は駄目です。塗る前に、チューブに入っている絵具ではなくて、チューブの色を見て、おっと、思う。そこで前面にあるのは、まだ、いかなる絵画形式にも帰属していない、帰着する場所を持たない色。出来事としての色です。これを認知する感覚の側からいえば、これを見ている感覚はたしかに自分の中に発生しているが、いまだ、自分の中にはっきりと帰属化できない、外部の感覚である。いかなるジャンルにもいまだ帰属されていない、形式に回収されていない事態を抽象性と呼ぶのだとすれば、文章であれ、絵であれ、まずそうした出来事としての抽象が与えられることから制作ははじまる。いわばこの事件としての原-抽象から、いかなるものに帰着させるかが制作ということです。当然、既存の何らかのイメージに回収してしまおうとする力が働いてしまうけれど、その磁力に逆らいながら絵を描く。なんとか最初の出来事、事件としての絵画性を維持しながら絵を作り上げる。それがフォーブまでの段階でしょ。一方この危険を形式化することで回避するというのが、いわゆる「抽象」でしょ、しかし、それがあらかじめ与えられた答え、イデオロギーとして機能しはじめてしまうのであれば、最初の原-抽象の出発点からの展開でむしろ避けるべく用心されなければいけないのはこの「抽象」なんですね。》(p394-p395)
●しかし岡崎氏は、ただ、リプレゼンテーションに対するメディウム・スペシフィックの権利を確保する、ということだけを問うているのではなく、メディウム・スペシフィック(と知覚原理)が、(リプレゼンテーションに対する「抵抗」としてではなく)それ自体として自立し、新たなシステムを構築する原理となりうるのか、ということに関心を向けてもいる。(以下の引用で、「神話的暴力」はリプレゼンテーションに、「神的暴力」はメディウム・スペシフィックと知覚原理に、それぞれ対応している、と思われる。)
《では、にもかかわらずメディウム・スペシフィックと知覚原理は、新たなシステムの構築にむすびつくのか。それによって形式が規定されるといえるのか、つまり法を産出する要因となるのか、それともそれを批判するだけの要因なのか、そのふたつを含むものなのか。
ベンヤミンのいう神話的暴力と神的暴力の間は大きく切断されているように感じられる。けれど神的暴力というものが、ともかく「いま、ここでこれをしなくてはいけない」という現在を決断する衝迫につながるものであることはたしかです。だから神的暴力は、目的と手段が常に確定的に決定されているベンヤミンがいう意味での自然法のありかた、それも動物が従う行動原則と通底しているようにも思われる。けれど神的暴力は目的や欲望にもとづいていない点において、自然法以前にある、やはり自然そのものの性質、つまりそれが抵抗として発現した状態と捉えた方が正確な気もする。だがなお、それは「いま」これをしなくてはならない、何がなんでも「これ」をしなくてはならないという衝迫として訪れる、いわば、個人的な主観、個体的な目的をも超えた命令(order)として訪れるものであるということです。その命令(order)は、いうまでもなく既存の制度としての命令ではなく、それに先行し、むしろ既存の秩序を破壊する決定的な命令(order)としてある。
現在性というのは、そうした意味であらゆる秩序に優先するものです。そこにこそ不可逆的な時間つまり順序(order)を確定、決定する要因があるからです。》(p356)
おそらく、この部分は非常に深い文脈をもっているため、この部分だけでは(岡崎氏の発言にしては珍しく)とても解りにくく、不明瞭な印象さえ感じられる。しかしこの部分にこそ重要な(しかしかなりヤバい)ことが語られていると思う。