引用、メモ。昨日につづいて

07/07/29(日)
●引用、メモ。昨日につづいて、「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いか?」(樫村晴香)より。
量子力学精神分析とにおいて、共に分配則が不在であること、について。
《とはいえ、分配則の不在に対するこの反発は、誰でも無意識裡にはもつはずで、だからこそ量子力学量子論理の出現は、論理学、あるいは日常的思考に対する、一つの大きな外傷となり、かつ人間の自己発見の契機ともなったのです。実際数学的に見れば、分配則が成立する体系もそうでないものも同様に構成可能で、その違いは相対的なものですから、分配則を当然視する習慣は、専ら日常言語にのみ由来します。具体的にみると、例えばAを、何かが人間である、Bを、何かが神である、Cを、何かがマリーである、とします。すると(A∨B)∧Cは「マリーは、人間か神である」と同値となり、他方の(A∧C)∨(B∧C)は「マリーは人間である、あるいはマリーは神である」と同値となり、ここで両者の間には、いかなる相違もありません。この言語的演算こそが、分配則を人間に当然視させる基本的元凶です。
一方、精神分析的な言語空間に親しんでいる人間には、分配則のこのような成立の方が、率直に言って、逆に奇妙なことなのです。例えばここで、Aを、ピエールを愛している、Bを、ピエールを憎んでいる、とします。すると(A∨B)∧Cは「マリーはピエールを、愛しあるいは憎んでいる」ということです。これは「ピエールを愛しかつ憎んでいる」というような両価的な強い対象備給の状態とは異なるものの、そのような現実的欲望の発現される前の段階、つまりピエールを自らの幻想の中の想像的対象とし、そこに半ば無意識的であいまいな情動の備給を行っている、原始的状態としての想像的未決定性を示します。したがってこの時、A∧Cという演算、つまり「マリーはピエールを愛している」という記述は、この状態に適合せず、あるいはこの状態を破壊します。B∧Cも同様で、したがってどちらも真偽値0を返し、(A∧B)∨(B∧C)=0となって(A∨B)∧C≠(A∧C)∨(B∧C)が帰結します。
確認すると、精神分析的言語の非分配束化は、愛憎のような特殊な状態記述がもつ、述語の未分節性、共時対立の不可能性といった、記述の表面構造とのみ関わっているのではありません。精神分析空間は、本質的に、いわば波束の収束問題と同じ過程を抱えています。例えばある人が、父親に強く愛着し、その理想化を行い、他方で母親への憎悪と軽蔑の感情をもっているとします。このとき両方の系は規定しあい、強固なコンプレックスを構成します。この状態に対し、母親との関係をめぐって分析と言語化を進めると、例えばその憎悪が、完全に抑圧された父親への敵意の転移作用も受けていたこと、そして父の理想化はその敵意の補償の側面もあったことなどが明らかとなり、母親の系の言語化は、父との関係を干渉し、状態を変更させ、結局その系の状態は、元のままでは永久に取り出すことができなくなります。確かに父への現実的愛も存在したはずだとしても、それは元のようには残りません。あるいは父との関係から記述を始めたとしても、また同様のこととなり、結局母と父への対象備給の初期状態を、両方とも厳密に記述することは、いわば不確定性関係のような規制を受けるのです。》
《それでは、量子論理を拒絶したアインシュタイン的信念の土台となる、古典論理学的公準、この場合特に分配則は、どのように日常言語で組織化されるのでしょう。まず、精神分析的空間の非分配束化を、よくみてみましょう。再度確認すると、ここで例えば愛すると憎むが、量子論理の∨と同じように奇妙に振る舞うのは、「愛する∨憎む」という状態が、本質的に記述のオーダーと相いれず、記述がなされることによって、元の状態が失われる位相にあるからで、重要なのはあくまで記述による状態変更という、いわば波束の収束問題です。これは愛と憎しみが両義性をはらんでいる、などという、単に概念水準の分節問題ではありません。ですから、精神分析空間の非分配束性をより的確に了解するには、例えばAとBを父への愛と憎悪、Cを母への憎悪とし、(A∨B)∧Cは記述以前の父への関係が母への意識的憎悪と両立している状態、(A∧C)および(B∧C)は、父との関係が述語として記述・意識化され、それが母との憎悪と両立しなくなり、各項が真偽値0を返す状態、そしてその結果として、(A∨B)∧C≠(A∧C)∨(B∧C)が帰結する、という風に考えるのが、より適切です。そして、ここから逆にふりかえると、人間あるいは神、という最初の例において分配則が成立するのは、そこでは全ての事象が記述という射影・圧縮を予め行使され、いわば量子世界から古典物理学世界への記述変更を、すでにすませていたからだ、ということに思い至ります。この視点の一八〇度転換、つまり日常言語と古典論理学的演算によって言語以前のものを考えるのでなく、古典論理学を言語以前のものからの射影の帰結として考える態度は、量子世界の登場による、古典力学古典論理学世界のローカル化によって可能づけられます。そして逆にこの視点転換が、そのローカル化を完全に遂行する、哲学的地ならしともなるのです。》
●認識とは対象の同一性を発見することなのか、それとも差異性を発見することなのか、について。
《すでにおわかりと思いますが、サイコロの一辺が2センチ、という記述は、その明証性を、実際は長さの測定という視覚的過程でなく、センチないし長さという、すでに獲得された記述体系への遡及的再解凍の禁止によって得ています。(略)
つまり2センチだ、という記述がもつ絶対的権力は、いわば2という測定数値でなく、センチという語で示される、長さという種類の記述体系、つまり原始的四則計算と平行な演算体系がもつわかりやすさ、経済性によって得られています。逆に言えば、量子力学ではこの演算体系の自明性が駆動しないので、人はそこでとまどい、かつ実在が失われたような錯覚を、古典力学が行使していたトリックのせいで、つまり体系の自明性を知覚の自明性で表象代置する詐術の効果として、配給されてしまうのです。
この問題は、結局、認識とは対象の同一性を発見することなのか、それとも差異性を発見することなのか、という伝統的な哲学的問いに結合されます。これにポパーが与えた回答は平明で明晰なもので、彼はアレーテイアとしての真理、つまり差異性に科学的認識を基礎づけました。この差異性は、反証可能性と呼ばれます。すなわち一つの記述・説明体系に包摂できない差異が発見され、体系が反証されること、つまりより厳密な分節性、差異性に向かって進む時間的方向性のみが、科学的認識を定義するのです。しかしその定義は、半分しか正しくありません。なぜならニーチェが嘲弄的にいうように、認識とは同一性を発見すること、つまり異なったものを等置するという側面から、逃れられないからです。哲学の正統的な真理概念、イデアはそれを表明します。そこで真理とは差異と現実を単一の項へと圧縮する、快感原則と幻想の作用であり、それゆえ、例えば「人生にはその喜びにつり合うほどの悲しみもある」というような、間違ってはいなくても、何の差異も情報もない記述も、人間的精神には一つの真理として機能します。これは科学でも同様です。例えば惑星軌道が円周だと想定されている時、その想定からはずれる反証材料が観測されても、その差異性、現実を認識に取り入れるには、楕円軌道という新たな体系が必要であり、楕円方程式がもつ円周のそれに匹敵する平明性、つまり快感原則の作動がないならば、反証性は認識に内化されません。認識とは一つの方程式から外れる点を発見することではなく、あくまで二つの方程式を分離することでなければならないのです。 》