●散歩していたらティッシュを配っている人がいて、それには新しく出来たネットカフェの割引券がついていた。気になっていた長めの論文をプリントアウトしたいと思っていた(ぼくはプリンターも持っていない)ので、早速行ってみた。そのついでに、(ダイヤル回線なので)うちでは観られない動画をいつくか観た。横浜美術館のサイトでは、今やっている展覧会の様子を映した動画が観られる。これって凄いことだなあと思いつつ、これって凄くヤバいことでもあるなあと思った。こんな動画で何が分かるというのか、と思っているにもかかわらず、実際に動画を観てしまうと、なんとなく、ああこんな感じなのかと思ってしまって、まあ、これはわざわざ観に行かなくてもいいかなあと思ってしまうのだ。こんなもので何が分かるというのかと思っているにもかかわらず、なんとなく分かった気になって、気が済んだようになってしまうのだ。中途半端に「分かったような気になってしまう」ことくらい恐ろしくて、ヤバいことはない。例えば、実際に観に行った人の話を聞くという場合は、作品を言葉では説明し切れないというもどかしさがあり、さらに、観てきた人自身の関心によってバイアスがかかっていることを常に意識しているということもあり(だから「その話」は、「その作品や展覧会の話」であると同時に「その人自身の話」でもあり、そこが面白い)、簡単には「分かったような気持ち」にはならない。実際に観に行ってみて、あの人は「これ」を「ああいう風」に観たのかと思う、という面白さもある。映像だと「見えて」しまうから、しかもネット上の映像は、まるで「あらすじで読む世界の名作」みたいに、ちょうど理解しやすいサイズに情報量が圧縮・縮減-要約されてしまっているから、ああ、こういうのね、とか思いやすい。そこには、「観ることが出来なかったもの」へと向けて働く想像力は発動される余地はない。
●言葉という伝達手段の優れたところは、それが情報伝達の手段としてはきわめて粗く、不十分なものであるという点にあるのではないか。実際に「そこ」にある情報量はすごく少ないから、言葉で何かを言おうとする時には、言えないことを言うために過剰な熱量が注がれ、そしてまた、そこから何かを聞き取ろうとする人も、その不十分な表現から出来るだけ多くの事柄を聞き取ろうと、過剰に耳を澄ませたりもする。言えないことを言おうとし、聴こえないことまでを聴こうとするという、その「体勢」が出来る(開かれる)ということそのものがとても重要であるように思う。その過剰な体勢こそが、人を世界に対して開かせるのではないか。言えないことを言おうとして余計なことまで言ってかえって意味不明になったり、聴こえないことまで聴こうとして余計なノイズまで拾ってしまってかえってわけが分からなくなったりするとしても、実は、その「余計なこと」こそが(それだけが)本当は重要なのかも知れないのだ。
●何かを観たり、何かに触れたりする時に最悪なのは、それを自分の頭のなかだけにある「オレ図式(オレ文脈、オレサイズ)」に勝手に当てはめて、要約し整理し位置付けして、「理解してしまう」ことだと思う(勝手に「オレサイズ」に矮小化した上で批判してくる奴とかいるし)。勿論、自分自身もそういうことをやりがちだし、自戒をこめて書くのだが。
●また別の話。詳細は書けないけど、デビューしていない二十歳少し過ぎくらいの若い人の書いた小説を読ませてもらう機会があった。まあ、ごく普通のありふれた青春小説で、中学生の男女の淡い関係を部活を通して描いた小説なのだけど、教師や同級生など脇役の人物の造形がとても魅力的だったり、場面の配列、切り方、飛ばし方などがとても冴えていて、描写も、クドくならないギリギリのところで丁寧で、まあ、驚くべき傑作という感じではないにしても、二十歳そこそこでも、「書ける人」ははじめからこれくらいは書けてしまうんだなあと思えるような良い小説で、才能のある若い人の小説が読めてよかったと、とてもいい感じで読み進めていた。ありふれた話なのにもかかわらず、いやな感じもせず、退屈もさせず読ませてしまうのは、かなりの筆力だと思って読んでいた。しかし、もうほとんど終わりにさしかかる最後の最後のところで、いきなり、主人公の少年のところに深夜、少女から電話がかかってきて、「人を殺してしまった」と少女が言うのだった。えっ、と思った。全然そういう話ではないので、何か別の原稿が紛れ込んでしまったのかと思ったがそうではなかった。実はその少女は父親と二人暮らしで、ずっと父親に虐待を受け続けていて、とうとう我慢出来なくて殺してしまった、と。そして少年は、そんな少女の境遇を察することが出来なかった自分を責めるのだ。えーっ、全然そんな小説じゃなかったじゃん、この小説にそんなエピソード必要ないじゃん、と思って、驚き、こんなことしたら、今までのこの小説の良さがすべて台無しになってしまうじゃんと、凄くがっかりした。
一体、これはどうしたこのなのか。この人は、こういうエグイ(虐待とか殺人とかトラウマとか)エピソードが入ってなければ小説にならないと思っているのか。それとも、このような、降って湧いたようにいきなり理不尽な不幸が襲って来ることを「感動的(泣ける)」だと勘違いしているのだろうか。今の若い人のリアルというのは、ここまで薄っぺらで酷いことになっているというのだろうか。こんなにちゃんと書ける人が、こんなラストを書いて恥ずかしいと思わないのだろうか、と。読み終わった後も呆然としてしまって、なかなか立ち直れなかった。
このダメージは、自分で思っていた以上のものだったようだ。はじめから下らない作品ならともかく、こんなに冴えていて、こんなにちゃんと丁寧に書き込める人が(ずっと読み進めている間に作者に対する信頼のようなものがかなり出来上がっていたから)、平気で、ラストにこんなエピソードを付け加えてしまえるという事実に、呆然とし、凄く落ち込んで絶望的な気持ちになった。それと同時に、ちょっと飛躍し過ぎかもしれないけど、こういう話を、まるでいかにも新しいリアル、あたらしい文学であるかのように(近代的、自然主義リアリズムの終わり、とかなんとか言って)持ち上げている人への押さえがたい怒りも混じり合って(現実として、こういう事実があり得るということと、このようなエピソードを物語として利用するということとは、意味がまったく違う、「実情」に負けて、あるいは「新しい」っぽいというだけで、下らないものを持ち上げる人は、下らないことを実践する人以上に下らないと思う)、なんかぐちゃぐちゃした気持ちで、もう、一日他のことがほとんど手につかなくなってしまうというくらいのダメージを受けたのだった。