●白金の山本現代(http://www.yamamotogendai.org/japanese/exhibition/index.html)で、小林耕平「右は青、青は左、左は黄、黄は右」。すっごく面白かった。目から鱗というか、ヴィデオという装置はこの作品のためにこそ開発されたのではないかと思うくらいだ。
利部志穂と小林耕平がいるのだから、「現代美術なんて退屈だ」なんて、今後二度と口にすることが出来なくなった。シーンとしての現代美術、ジャンルとしての現代美術がひたすら退屈だとしても、しかし、すばらしく面白く、刺激的な作品をつくる作家がすくなくとも二人はいるのだから、それだけで、かなりすごいことではないだろうか。この二人が刺激的な作品をつくりつづけてくれる限り、ぼくはなんとか希望を見失わずにやってゆけると思う。別に現代美術に限らなくても、シーンの動向とか、ジャンルの全体性とかを問題にしている限り、そこには単調な反復と失望以外のものは見いだせないだろう。しかし、一人一人の作家、個々の作品を個別にみてゆくなら、そこには常に、発見と刺激と希望が満ちている。芸術の希望はもうそこにしかないようにも思われる。小林耕平の作品を観て、自分が画家として本当にやりたいことが何なのかということも、改めて見いだせたようにも思った。
●写真が、あまりに過剰に見えすぎてしまい、だからこそ過剰に視覚に捕らわれてしまうのに対し、動く映像は、あまりよくものを見せてくれず、常にそこからほんの少しのものしか見えない。
何かしらの意志をもって行為をしている人がいる。そして、何かしらの意志をもってカメラを回している人がいる。二人は同じ場所にいる。しかしカメラは、行為している人を撮ろうとしているわけではない。カメラを回している人にとって、そこで(明らかに異様な、周囲から浮いた)行為をしている人の存在は、その場所にある、その他の様々なものたちと同様、要素の一つでしかない。
カメラを回す人は基本的に動かない。頻繁なズームとパンがあり、時間がジャンプする(カットがかわる)こともあるが、撮影する位置を移動することはないようだ。カメラを回す人の前には何重にも平行に層になった空間がある。すぐ先には小川が流れ、その先には雑草の生えた地帯があり、道路が横切り、植え込みがあり、植え込みの向こうにももう一本の道路があり、その先に住宅の建物があり、その上に空が見えている。
カメラはゆっくりと、きまぐれに動き、ズームアップとズームバック、パンを繰り返しながら、そこにあるものたちの表情を捉えようとする。水の表情、雑草に当たる光、石のベンチ、植え込みの木々、住宅の壁や窓、空…。その動きは、層になった空間の仕切りやパースペクティブを飛び越えて、きれぎれになった細部へ、その興味のおもむくままに移動する。しかしそのカメラは、細部にだけ注目して、パースペクティブを攪乱するわけではない。ゆっくりと動き、連続的に移動するフレームからは、結果として、その空間の層構造を容易に見て取ることが出来る。カメラがやっていることは、決してパースペクティブを否定するのではなく、しかし、空間的な層構造とは別の結びつきや関係を、そのカメラの動きそのものによって、細部と細部との間に見出そうとしているかのようだ。
そしてその要素のなかの一つに、その場所で意志的に行為する人が、たまたま写り込んだかのようにして見える。カメラがきまぐれに動くので、その行為の詳細を知ることは困難だが、行為する人もまた、どうやら、そこにバラバラに置かれた様々なものたちに、自らの行為によって何かしらの関係やつながりをつけようとしているようなのだ。そこには、ものとしてはありふれているが、あきらかに外から意識的にそこに持ち込まれたと思われる不自然なものたちがある。ペットボトル、ビニールテープ、クッション、何かよく分からないもの…。行為する人はどうやら、それらのものたちのその空間内での配置を、何度も何度も変化させ、関連づけることを試みているようなのだ。
かと思うと、いきなり自転車に乗って、手前の道路から向こう側の道路へ抜け、そしてまた手前の道路へと還ってくる。彼の行為もまた、とてもきまぐれなもののようだ。そして、どうやら、手前の道路と向こう側の道路とは、輪になって繋がっているようなのだ。しかしそのことが知れるのは、行為する人の自転車の移動によってであって、画面の写るパースペクティブ上にはそれを知らせるしるしはない。
つまり、カメラを回す人も行為をする人も、それぞれまったく無関係に、異なったやり方で、ある空間のパースペクティブの内部で、しかしそのパースペクティブとは別の秩序によって、そこにある複数の細部たちを関係づけようとしているのだ。しかし、われわれが作品として観るのは、カメラのフレームを通してだけで、つまりカメラを回す人の行為としてだけ、それを観る。だがそこには、行為をする人の行為もまた、まるで偶然のようにそこに写り込んでいるから、結果として、行為する人の行為(の一部)も観ることが出来る。
だから、この作品が「見せる」のは、カメラを回す人の行為ではなく、カメラを回す人と、行為をする人という、まったくバラバラで切り離された二つの行為の、ほんの偶然の、ほんのわずかの「交点」なのだ。この「交点」は、偶然によってしか現れないが、あたかも意図したかのように、運命であるかのようにあらわれる。本来重なることのない二つの系の行為だけがあって、その二つの系を俯瞰する第三の視点があるわけではない。しかも、われわれが作品として観るのは、二つの行為の切り返しではなく、その一方の側の視点のみなのだ(つまり徹底した一人称なのだ)。カメラの側はフレームという空間的な仕切りだけでなく、かなり頻繁にカットをかえることで、時間的な仕切りの権利ももっている(この手の作品は、ワンカットで撮ることによって時間の客観性を強調することが多いのだが、この作品はそうではなく、時間もまた一方の視点からコントロールされていることを隠さない)。にもかかわらず、その「交点」によって、そこに二つの異なる系があることをはっきりと見て取ることが可能なのだ。映像が物事を「少ししか見せない」というのは、この「交点」が、二つの系のほんの一瞬の重なりとしてしか見えないということだ。しかし、ほんの一瞬しか見えない、少ししか見えない「交点」によって、それを十分な手応えをもって知ることが出来る。
だが、この作品から見て取れるのは、たんにこの二つの系だけではない。この二つの系とはまったく関係のない、別の運動もまた、終始フレームを横切る。雑草を捉えようとするカメラには、何度も、唐突に蝶が横切る。向こう側にある道では、車が通り抜け、住人が横切る。風がペットボトルを転がす。画面には映らない犬の鳴き声が聞こえる…。確かにこの作品の中心には、二つの異なる系の重なりと重ならなさとがあるのだが、しかし、この世界にはそれ以外にも無数の異なる系、異なる運動が共存することに対し、このカメラのフレームは終始開かれている。勿論その「交点」もまた、一瞬、すこし見えるだけで、その「全体像」など決して知ることは出来ない。フレームの外の世界は未知であり、その存在を予感することしか出来ない。そもそも、行為をする人も、カメラを回す人も、彼らがやっているのは、それぞれバラバラに存在するものたちを、自らの「行為」によって関係づけようとすることなのだった。それは、自らの行為によって、その行為の内部で、限定的に、その時、その場所で、一瞬だけ関係づけられるだけなのだ。
●とにかく、観ていてすごく面白くて、いくら観ても全然飽きることがない。世界はまさに、このようにしてあるのだということを、この作品によってはじめて知らされたのにもかかわらず、それが遡行的に作用し、あたかも、ぼくにとっての世界はずっとこのようにしてあらわれていたのだとしか思えなくなるような、そのような強さをもった作品なのだ。同時に展示してあったペインティングは、決して上手いといえるようなものではないのだが、それでも、それらもまた、とても刺激的なものだった。

昨日からのつづきです。


反復という呪い、永遠という呪い、キャラクターという呪い(2)


古谷利裕


オリジナル版『エヴァ』に具体的な年号が書き込まれた理由は、フィクションとしての虚構内世界と、その外部の現実世界とに参照点をつけ、両者を結びつけるためというよりも、その作品世界が、(『サザエさん』のように)繰り返し反復される無時間世界ではなく、たった一度だけの出来事として記述されるはずの出来事だったからではないだろうか。だからこそこの話は二〇一五年という特定の年の出来事であり、二〇〇一年に産まれたシンジが十四歳の時という特定の年齢の話なのだ、ということではないか。作品の設定では、二〇〇〇年のセカンドインパクト以降、地球には季節が存在しなくなり、ずっと夏がつづいているということになっているのだが、逆に言えば、このことは、この物語が「十四歳の夏」という極めて限定された一時期の、一度きりの経験の話である、ということを表すのではなかっただろうか。そう考えれば、年号(一回限りの「今」)の必然性は理解出来る。
とはいえ、『エヴァ』という作品には当初から「やり直し」が付きまとってもいる。現在観ることの出来るDVDに収録されているのは、テレビでオンエアされたバージョンとは微妙に異なる、リニューアルされたビデオ版であり、しかも、終盤になるとOA版とビデオ版とが両方同時に、世界が分離するかのように併置されて収録され、OA版の結末(二五、二六話)と、ビデオ版から繋がる結末(「Air/まごころを、君に」)という二つの結末に分かれる。つまり、結末が、反復され、やり直されている。だが、このやり直しは、根本的なやり直しではなく、こまかな修正であり、余裕がなくてばらけてしまったものを整理し直したに過ぎない。実際、作品としての『Air/まごころを、君に』は、その絵柄の異様な歪みも含め(冬月の顔など全然別人だ)、非常に陰惨な印象が与えられるばかりだ。しかも、世界への根本的な拒否の感情が、アスカという(シンジにとっての未知の)他者に預けられ、それに依存するかたちで表明されているという他は、こけおどし以外はOA版に新たなものは何もつけ加えられていないし、変更もされていないという作品だったと言わざるを得ない。これだったら、やり直しなどされない方がマシだった。多分に混乱がみられ、作中の重要な謎を未解決のまま残して、半ば投げ出すように強引につけられた結末だとはいえ、OA版の結末こそがこの作品の必然的な帰結なのではないだろうか、と感じられてしまう。つまり、出来事に後からつけられた注釈は蛇足だ、と。


しかし、注意深くみてみると、この『Air/まごころを、君に』には、ひとつ、OA版にはなかった重要な呪いが刻印されているのに気づく。旧劇場版は、この「呪い」の刻印のためだけにつくられたかのようですらある。
それは終盤、作品がほとんど終わりに近付いた時の、冬月とユイとの会話にみられる。そこでユイは言う。人はこの星でしか生きてゆけないが、(神の代理物である)エヴァは無限に生きてゆける、そのなかに宿る人の心と共に、と。例え、五十億年経って、この地球も、月も、太陽さえも無くしても残る。と。つまりここで刻まれているのは永遠という呪いだ。一見、優しげな表情で、息子に向かって、生きてさえいればどこでも天国だと語りかけるこの母親は、自分の息子に無限という呪いを、当然それが息子にとっての幸せであるかのようにして平然と刻み付けるのだ。たった一人でも生きてゆけるなら、さみしいけど、生きてゆけるなら、とユイは言い放つ。ここで刻まれる呪いはだから、永遠というだけでなく、永遠の孤独でもある。人類補完計画とは、永遠に持続する孤独という「呪い」のことだったのだろうか。この場面は、陰惨な殺戮ばかりがつづくこの旧映画版のなかでも、最も恐ろしく、背筋の寒くなる場面だと言えよう。『エヴァ』という物語に出て来る男たちが皆、ひたすらに求め続ける「母」とは、このように、息子に平気で永遠という呪いをかける恐ろしい存在なのだ(オリジナル版+旧劇場版では、シンジだけでなく、ゲンドウも冬月も、ユイという不在の磁力に操られている)。
呪いをかけられた息子は、エヴァという永遠につづく「魂の座」のなかで、(たった一度の出来事であったはずの)十四歳の夏の悲惨を(果てしのない殺戮を、アスカによる拒絶を)永遠に繰り返すことになる、というのか。それがこの『エヴァ』という物語の帰結なのだとしたら、それはいくらなんでもあんまりではないだろうか。ここでかけられた「呪い」が遡行的に作用して、『エヴァ』という作品全体の時間のあり様を変質させてしまうように思う。これが付け加えられてしまえば、『エヴァ』という作品全体は、具体的な年号と出来事の一回性を手放すことになるのではないか。


つまり、旧エヴァの終幕にはブレがみられる。OA版では、十四歳の呪いは解決されないままコミカルな学園ドラマ風の展開によって強引に相対化され、「神話」として意識の表面から後退する。十四歳の呪いは意識下では依然として上演されつづけるとしても、意識の表層は学園ドラマ風の現実原則を受け入れ、そこに現実の時間が流れ出す。つまり、十四歳の夏は一回的な出来事であり、それが「解決される」ことはないにしても、それを保留したまま、次の年には十五歳になり、そして十六歳になり、歳をとってゆく。もう一方、ビデオ版+旧劇場版では、意識は現実と切断され、永遠の呪いの反復の場に残される。そこでは、「呪い」が解除されない限りいつまでも十四歳でありつづけ、歳を重ねることができない。旧劇場版の結末は「保留」の放棄であり、それは端的に「病的」であろう。
エヴァという器のなかで、十四歳の夏の悲惨が、永遠に繰り返される。オリジナル版に対して、旧映画版があらたに刻み付けた呪いがこれだとするならば、ここで『エヴァ』という物語は完結したのではなく、たんに封印されたということだ。外から切り離されたエヴァの内部で、それは永遠の内省として反復されつづけている。二〇〇〇年、セカンドインパクト、二〇〇一年、シンジ誕生、二〇一五年、第三の使徒来襲。このような外的な現実(時間)と出来事との関係はもはや消失し、すべては内部に反響するこだまとなり、しかしそのこだまは常に反響しつづけ、ずっと生々しく生き続けられている。外部の時間との参照点の消失は、その出来事が、その時間が、決して過ぎ去らないということと同義だ。『サザエさん』のカツオが、毎週律儀に一一歳を反復し、一一歳を生き続けているのと同様に。たんに、我々の目からはそれが隠されていて、見ることが出来なかったというだけだ。道頓堀に投げ込まれたカーネルサンダースが、決して消失したのではなく、ただ川の濁った水によって隠されていただけで、ずっと存在しつづけていたのと同様に、十四歳の悲惨は存在しつづけた。そしてそれは唐突に回帰する、「新劇場版」として。


「新劇場版」という新たな回帰、新たな顕在化は、しかしまったく恣意的なものというわけではないだろう。そこには何かしらの意思があり、賭けられた何かがあるはずだ。そしてそこに賭けられたものがあるとすれば、それは「母の呪い」の解除の他にはないだろう。実際、誰がみてもわかるほどはっきりと、「新劇場版」では、母の磁力、ユイの磁力を、作品を崩壊させないギリギリのところまで、出来うる限り軽減しようという試みがなされている。
例えば、父との関係の影が濃厚にうかがわれる葛城ミサトに対し、母との関係が濃厚にうかがわれる赤城リツコの存在が「新劇場版」では希薄であり、彼女の母親の人格がそのまま移植されているという設定であるはずのコンピューターシステム「マギ」は、ただその名前を残すのみで、その由来(母性)は消失してしまっている。ミサトとシンジの関係も、保護者-被保護者的なものから、擬似的なカップルのようになっている。最も顕著な例はエヴァの覚醒の意味がかわってしまっていることで、オリジナル版では、エヴァの覚醒とはまさに、息子であるシンジを母であるエヴァが取り込んで一体化しまうという出来事であり、そこでシンジが見る世界は、旧シリーズの一応の完結編であるはずの「まごころを、君に」でみられる、人類補完計画後の(呪いの)世界と酷似している。一方、新劇場版では、エヴァの覚醒とは、エヴァと(レイと同化してしまった)使徒との融合であり、それは使徒からレイを奪い返し、自分自身がレイと一体化したいというシンジによる強い主体的欲望の具現化として起こっている。
ここで、母子関係から男女関係への重心のシフトはあまりにあからさまであり、わざわざそれを指摘するのが恥ずかオいくらいだ。それは、オリジナル版ではあくまで母のイメージのコピーであったレイというキャラクターのあり様を、根本から変えてしまうほどに徹底されている。


オリジナル版で、二度とエヴァに乗らないと決心したシンジを再びエヴァに乗せるのは社会的な使命感だが、新劇場版では、それはあくまでレイのためであり、レイを取り戻したいという個人的感情、恋愛感情である。ここでは、母の力を後退させるため「個の意思-恋愛」が尊重されているのだ。だが同時に、新劇場版においてもシンジの自立した感情や主体的意思が絶対化されているというわけではない。シンジは確かに自らの意思で主体的に行動するが、シンジのレイに対する欲望は、既に父ゲンドウによって事前に予測され、彼の計画の一部に組み込まれてさえいるようなのだ(オリジナル版のゲンドウならば、レイはゲンドウにとっても欲望の対象であり、シンジに取られたことを嫉妬するはずで、ここにもレイというキャラクターの占める位置の大きな変化がみられる)。
オリジナル版においても新劇場版においても、出来事のことごとくは既に「死海文書」によって予言されており、その予言された出来事を、自分の目的に都合のよいように利用するために、ネルフ(ゲンドウ)とゼーレとの駆け引きがあり、闘争がある。大きく引いてみるならば、シンジ自身は、その能力だけでなく、感情や欲望のあり様さえ含めて、彼らに操られるコマでしかない。新劇場版では、ネルフとゼーレだけでなく、新キャラクターのマリや、オリジナル版とは異なる登場の仕方をする渚カオルまでが、その大きな枠組みのゲームに参加しているかのように匂わされている。
シンジの自立性が強調されるとともに、同時にそれが相対化される。それによってもたらされるのは当然、父によって導入される社会的な空間であり、母の磁力の後退であろう。しかし、それは本当にそんなに上手くゆくのだろうか。永遠の十四歳の呪いは解かれるのだろうか。母性から異性へって簡単すぎないだろうか。母から女へ移行したとしても、結局その欲望が「一体化」だというのはどうなのか。社会的空間とか言ったところで、そもそも現実的な時空との参照-関係を断った上で設定された、幼稚な世界像の上でのゲームでしかないのではないか。もともと『エヴァ』はあからさまに母性的な作品で、エヴァは母であるし、エントリープラグは子宮だし、LCLは羊水だ。人類補完計画は失われた母子一体化への追憶だし、その全体への合一化の強い欲望と、それに反する他者への嫌悪の唐突な発現は、愛と憎しみとが果てしなく反転しつづける母性的癒着の世界だ。こんなことはわざわざ書き付けるのも恥ずかしいくらいに明白だ。それは作品の最も深いところにまで刻み込まれている。だからこその「呪い」ではないのか。その「呪い」こそが、そもそも作品を発動させる力動だったのではないか。それを解除してしまったら、『エヴァ』によって『エヴァ』という作品が否定されるということになりはしないだろうか。これら疑問はしかし、新劇場版が未だ完結しておらず、途中の段階であることから、それを最後まで見届けた後にまで保留としておくべきだろう。
(つづく)