●洗濯機をまわし、小一時間散歩に出る。桜は、少し散って、花の量が八割くらいになっている。住宅街を散歩するのは、もっとも閑散としている午前十時頃が一番だなあと思った。昨日と同じ道を通り、同じ角を同じ方向へ曲がれば、必ず同じ場所に行き着くが、別の方向に曲がると、決して同じ場所にはたどり着かない。このまったく当たり前のことを(世界がそのような確かさをもってあらわれることを)、ものすごい奇跡のように感じながら歩いた。
帰って、昨日一昨日で書いた原稿を読み返し、少し直した。ほぼ三十枚になった。原稿をメールで送信すると、まるで折り返しのようにすぐに、編集者から感想の電話があって驚いた。
●なぜ人は、自分のやっていることを外から(上から)説明されないと安心できないのかなあと、つくづく(苛立ちつつ)思う。それは逆に、なぜ、外から(上から)いかにももっともらしいお墨付きがやってくると、簡単に納得してしまうのかなあ、ということでもある。「あなたの現在位置はここです」って示しているその地図は、ほんとにそんなに信用出来るものなのか。そんなの数年後には捨てられちゃう程度のものなんじゃないのか。
地図を書き換えるってことは、たんに認識を書き換えるってことで、世界を書き換えるのでも、身体を書き換えるのでも、世界と身体とのアクセスを書き換えるのでもないのに。要するに口先だけのことなのに。そっから先が問題なのに。
作品はたぶん、世界と身体と(言語と)のアクセスを書き換えようとする実践なのだ。だからそれは、身体の再構成-モンタージュがそのまま世界の再構成-モンタージュとなり、世界の再構成-モンタージュがそのまま身体の再構成-モンタージュになる。
そこまで踏み込まなければ、口先だけで分かり易いメタ言説を人々に与えて、なんとなく分かった気にさせて安心させる(興奮させる、危機感をあおる)というだけなのではないか。でも実際には、それが人にアイデンティティ(あなたの現在位置はここです)を与えたり、「人を動かす」んだったりする。メタ言説こそがナルシシズムと相性がいい。それが物語であり、それが言説の政治ってことか。つまんねえな。