●昨日の夜中にテレビを観ていたら、名前は忘れたけどなんとかいうデジタル技術の紹介をしていた。例えば、撮影時に、一秒間に三十コマという速度で撮影された映像が放送によって送信されてきたとして、それを受信した受像器としてのテレビが、コマとコマとの間にあり得る、実際には存在しないコマを計算上で作り出して、一秒あたり六十コマという、よりなめらかな動きの画面としてアウトプットする、というような技術。つまり、発信者が発信した時には「存在しないコマ」を、受信者の側(テレビ)が、計算によっていわば勝手につくり出して付け加えるのだ。
これはある意味「捏造」ですらあるのだが、しかし考えてみれば、通常、一秒間に二十四コマの静止した連続写真でしかない映画を、あたかも動いているイメージであるかのように知覚-経験するということ自体が、それを見た「それぞれの人の頭」が勝手に運動をつくり出しているに過ぎないわけで、運動-感覚を、それを見た人間の脳が捏造するのか、(外在化された脳としての)テレビが捏造する(捏造に荷担する)のかの違いにしか過ぎないとも言える。つまり、光学技術は外在的なものとして人の外にあるが、映画という装置はそもそも内省(経験)的なモデルであり、人の経験の有り様の内部に折り込まれ、折り畳まれたものとしてある。そして、デジタル技術は、映画装置以上に、より深く経験-感覚のメカニズムの内部にまで分け入ってくるかのようだ。ここで、オリジナルの映画作品(あるいは、実写された、現実に根拠をもつイメージ)とは、(物質として存在する)一秒あたり二十四コマの画像のことなのか、それとも、(経験として存在する)我々に「見える」スクリーン上に映写された「動いたイメージ」なのかという問題に直面されられる。
だが、ここで忘れてはならないのは、我々の目は、一秒に十八コマの映像による動きと、一秒に六十コマの映像による動きの質の「違い」をはっきりと知覚出来るということだ。だから、先に挙げた、物質か経験かという二分法そのものが間違っている。十八コマなのか六十コマなのかという物質上の差異を、知覚-経験はその感覚的な質の差異として変換して感知する。だから、物質と経験の対立が問題なのではない。
もともとデータでしかないデジタルで撮影された映像には、撮影された(感光した)フィルムと違って、そもそも物質としての次元が存在しない。しかし、光学的装置から直接変換された一次データと、一次データをもとに計算-加工された二次データという違いはある。光学装置から直接変換されたデータには、「物質」とは言えないにしても、辛うじて「現実の直接的な反映」であると言える権利が宿っているのではないか。あるいは、発信者が発信したデータは、発信者の側に根拠-責任があり、発信者のオリジナルであると言い得るが、受信者によって勝手に加工されたデータにまではその責任は及ばない。問題なのはだから、一次データと二次データが組み合わせてつくられた、より滑らかな動きという(受信者によって)新たに加工された虚構の次元(加工によって生じた新たな感覚)から、逆に、遡行的に、一次データと二次データとを弁別して、もとにあった一次データを取り出すことが可能なのかということなのではないかとも思う(そこにはまさに「オリジナル」あるいは「外的現実」という概念の命脈がかかっている、一次データまで遡行可能であれば、そこから「別の」二次データを、別の感覚の質を、導く道を探ることも出来るかもしれないのだ)。しかしその時はもう、それはデータ処理というか、計算上の手続き(手続きの正当性)の問題であって、物質という次元が消えてしまっていることにかわりはない。つまり、現実とは、物質的な次元によってではなく、計算手続き上の「正当性」によって確保される概念なのだ、ということになるしかない。しかしその手続きの正当性を判定するのは一体誰なのか。
もう一つの問題は、そのような、実在しない幽霊のような画像(というか、実在という概念そのものを揺るがす画像)を間に挟むことによって映像が(動きが)オリジナルよりリアルになるのだとすれば、その時の「リアル」とは何なのであろうか。あるいは、何によって保証され、正当化される「リアル」なのだろうか。それは物質としてのリアルでも、知覚-経験としてのリアルでもなく、テクノロジーそのものの現前としてのリアルということなのだろうか(テクノロジーこそが、ただそれだけが「現実」である、というような)。いやそうではなく、問題なのは、十八コマの動きよりも、六十コマの動きの方が「リアル」だと判定するのは一体誰なのか、ということではないか(外的な現実との対応関係が崩れてしまえば、一方に十八コマの動きの質があり、もう一方に新たな六十コマの動きの質があるとして、両者は同等であり、並立的であるはずなのに)。そして、その誰かの下した判定に、何故、「わたし」が、従うことを強いられなければならないのか(わたしのテレビに何故頼んでもいないその装置が勝手に設置させられてしまうのか)、ということではないか。それは正義と権力の問題であり、資本主義の問題ということになる。
新しさというものが、もし、皆が六十コマへの盲従的な雪崩れ込み、十八コマや二十四コマが六十コマによって食いつぶされてしまうことであるとすれば、我々は常に新しさに(新しさが強いるスタンダードに)抵抗する必要がある。勿論それは、決して六十コマによって実現される新たな感覚(滑らかさ)そのものを否定することではない。ことなる次元が互いに独立しつつも、相互に変換可能なかたちで(つまり相互に制限し合い、批判し合うことが可能なかたちで)並立されることが目指されるべきなのだ。というか、それしかないのではないか。現実という概念はもはや、そのような並立可能性としてしか確保できないのではないか。