●『ドリームハウス』(ジム・シェリダン)をDVDで。映画作品として良い出来だとは全然思わない。でも、ぼくはこういう話にすごく弱い(以下、かなりのネタバレあり)。
前半を観ている時は、まったくありきたりの展開としか思えず、どのタイミングで再生を止めようかとずっと思っていた。この映画はちょうど真ん中に一度どんでん返しがある。しかしそれは、最近のサイコスリラーによくある、「またあれか」というくらいのありきたりのネタだ。しかし重要なのはその後で、つまりこの映画は、一本分の(ありきたりな)映画が終わった後から始まるともいえる。前半は、もともともっていた過去の記憶のようなものとなって、後半がはじまる。とはいえ、後半もそれほどすばらしいというほどではない。たとえば、もしぼくがプロデューサーだったとしたら、この脚本にはかなり手を入れることを要求するだろう(真犯人わかっちゃうし)。そうすれば、映画としての出来は良くなるかもしれない。でも、ぼくにとって重要なのはそこではない。それとリアリティの在処とはあまり関係ない。
物語はこうだ。敏腕編集者が会社をやめるところからはじまる。彼は、郊外に大きな家を買い、家族と共にそこで暮らして小説家として生計を立てることに決めた。妻と二人の娘との幸福な生活が描写される。しかし徐々に不穏な気配が漂いはじめる(例えば向かいに住む一家の様子が妙だ、家をのぞき見する不審者がいる…)。そして、自分が住む家でかつて一家惨殺事件が起こっていたことを知る。その犯人は一家の父親で、彼は妻と二人の娘を殺した後、ずっと施設に収容されていたが、最近退院したらしいのだ。家族の危険を感じた主人公はその男の行方を追うために施設を訪ねる。ここまでが前半だ。
察しのよい人ならすぐ「どんでん返し」がどんなものか分かるだろう。その「男」とは「わたし」だった、というわけだ。つまり、会社をやめて家を買った「わたし」というのは幻想で、施設から退院して元の家に度ったということだ。彼は(自分の意識としては)別人となって、かつて暮らした家に戻り、かつてそうだったように(幻想のなかで)妻と二人の娘と一緒に暮らしはじめたのだ、と。主人公は、この裏返った「現実」を半信半疑ながら受け入れざるを得なくなるのだが、同時に、家へ戻れば妻と二人の娘が変わらずにいて、これもまた同じくらいリアルに「現実」であるとしか思えない(ここで妻と娘は家の中でしか存在できないらしい、彼女たちが、主人公による幻想なのか、それとも「幽霊」のような、主人公の内面に必ずしも還元されない自律した存在であるのかが曖昧になっているところがけっこう重要だ)。ここから物語の焦点は、妻と娘を殺した真犯人は誰かという点に移ってゆき、その真犯人との攻防がクライマックスにもなるのだけど、まあ、それはぼくにはどうでもいい(こっちを追っても大した話ではない)。
ここで、向かいに住む一家の存在が重要になる。そこには母と娘が住み、離婚した夫(娘の父)が時に訪ねてくることもある。映画の前半は、ほぼ完全に主人公の内的世界(幻想)であると(事後的には)言えるのだけど、この向かいの一家のまなざしが、内側に組み込まれた外的なものとして機能していたことが分かる。向かいの一家は以前の主人公一家と深い親交があったようで、主人公が「別人」として戻ってきて、廃墟のような家で一人で幻想の家族と共に暮らしているらしいことを察しつつ、それを受け入れて、自らも幻想内の人物であるかのように振る舞ってもいたのだった(スープをつくって差し入れに行って様子をうかがったりしている)。主人公の幻想世界は、この向かいの家のサポートがなければ早々に破綻していたかもしれない。そして後半、主人公が「現実」を受け入ようとする過程にある時もまた、彼を受け入れ、サポートする。主人公の幻想(というより、あちら側の「現実」)はそれとして閉じたものではなく、「事件」の前を知っている、この向かいの一家の存在によって、こちら側の現実と通路が通じている。
●この映画の面白いところをいくつか挙げて考えてみる。最初に、世界がひっくり返るところ。二つの世界は単に排他的であるだけでなく、一方が他方の裏返りとしてある。この逆転は、我は彼だったという形で起こる。前半の世界は、とりあえずは「幻想」であったということになるのだけど、しかし、世界の密度や整合性としては前半も後半もどちらも等しく成立しているので、その世界の内部にいる主人公の視点からは同等であり、どちらが現実であるのかは彼には確定できない。だからこのひっくり返りが「一度」だけで済む保証はどこにもない。つまりここで起こっているのは、現実だと思っていたものが実は幻想であったということだけでなく、「現実」というものには基本的にそれを(内的に)保証する基盤がないという事実が露わになったという出来事なのだ。ある出来事に張り付けられた「現実」というタグは、出来事の配列が入れ替われば簡単に「幻想」に付け替えられてしまうということだ(我々が現実として認識するものとは、脳内に発生する様々な表象のなかで「現実」というメタタグがつけられているものであるにすぎない)。それは、映画を観ている「わたし」こそが彼で、彼こそが観客であるかもしれないというような揺らぎをも生む。
●次に、幻想世界も現実世界も、それ自体として閉じていなくて、繋がっていること。前半、主人公は自分だけの幻想世界に住んでいると言える。しかしそれでも周囲とまったく関係しないわけにはいかない。その異なる世界との接触面として(そしてクッションとして)向かいの一家がいる。主人公にとっては(彼の「設定」では)、自分は新しく家族と共に越してきた一家の父であるが、向かいの一家にとって、彼は事件のあった一家の父であり、長く施設に監禁された後、一人で家に戻ってきた。主人公は向かいの一家を知らないが、向かいの一家は主人公の(真の)過去を知っている。主人公には彼の家族が見えているが、向かいの一家には見えていない。双方が見ている世界はまったく異なるが、それでもある空間を共有し、接触をもち、それなりに整合的に行動する。つまり、互いに、互いの(異)世界の登場人物ではありえる。互いに、互いの異世界の登場人物である者たちが接触し得る、世界の内で外でもない、ある空間がこの映画には発生している。向かいの一家の娘は、事件のあった家族の命日にバルコニーに花を置き、幻想であるはずの主人公の妻は、それを誰かからの贈り物としてちゃんと受け取る。二人に直接的な接触はない。
●幻想世界と現実世界とが混じり合っている状態こそが、人間にとっての「現実」であるという感触。我が彼であると知り、世界のひっくり返りを経験した主人公は、徐々に、裏返った後の「現実」を受け入れる(受け入れざるを得ない)ようになる。今まで、家族と暮らしていたように見えた家は、彼にとっても廃墟のように見えるようなる。しかしそれでも、家に入ってしばらくすると、現実としか思えない鮮やかさをもって妻が現れ、娘たちがあらわれる。彼には、そこに妻や娘がいるとしか思えない。彼はそれを「幻」と知りつつ、「現実」として妻や娘たちと食事をする。互いに排他的な二つの世界が混在し、それはどちらも「現実」として生きられる。家が廃墟だと知っているが、そこに本当に明りが灯っている。妻が本当は死んでいると知っているが、しかし、妻は本当にそこにいる。これは、人間的なリアルにとっては、まったく矛盾しないことではないかと思う。
だから、たしかに一度は、幻想と現実が裏返るのだけど、それは一方に対してもう一方が否定されるというより、ただ一方だけに配慮していればよかった世界から、双方に対して配慮しなければならない世界へと主人公が移行したと考えた方がよいかもしれない。
●死んだはずの妻や娘たちは、主人公の頭のなかでだけ発生している幻想なのか、それとも、例えば「家」に憑いている幽霊のようなもので、彼の幻想とは自律し得る存在のなのか、どちらかよく分からないように描かれていること。前者であればサイコモノであり、後者であればオカルトモノと言えるのだろうが、どちらかに着地してしまっては面白くない。そのどちらとも決定できず、いわば、頭の中と外とが通底しているようになっているところが面白い。というか、そういうところがリアルだとぼくには感じられる。主人公の強い幻想が、準-存在ともいえる幽霊を生み出してしまったかのようにもとれる。あるいは、本当にどこかにそのような世界がある(それはおそらく「家」という場所を根拠とするのだろう)からこそ、主人公の幻想が成立する、ともいえる。幻想の根拠が「脳」にあるのか「家」にあるのか、どちらか一方にあるのではなく、互いが互いの根拠となり合うような入れ子状になっているとも言える。
●上に書いたこととも関係するのだけど、向かいの一家の人たちは、主人公が妄想として生きている「死んだ家族たちと名前を変えてやり直している世界」が、この世界の外のどこかに実在しているのだという感覚をもっているようにみえる。「現実」を受け入れつつある後半の主人公が、事件のことを聞くために向かいの家を訪ねる。その時、向かいの娘は主人公に「彼女たちが見えるの?」と聞き、主人公は「見える」と答える。「大きくなった?」「小さいままだ」すると向かいの娘は、「いなくてさみしいと伝えて」と言う。一見なんでもないようなセリフだけど、このセリフが出てくるということは、主人公に見えているのだから、死んだ娘は「どこか」にはいるのだという感覚があるはずだ。その「どこか」は、一般的な死後の世界とか天国とか、そういう抽象的なものではなく、主人公によって実際に見えている世界(主人公が接している世界、つまり具体的には主人公の「頭の中」)に向けられているからこそ、このセリフがリアルに響く。向かいの娘は、「主人公の頭の中にいる主人公の娘」に「伝えてくれ」と主人公に言っているのだ。それは「ここ」からとても遠い世界ではあるけど、そことここはか細い紐帯で結ばれていて、そこには「いる」と感じられている。これもまた、人間的なリアルにとても忠実であるように思われる。