●仙川のプラザギャラリーで井上実の絵を観た。陳腐な言い方だけど、頭を煉瓦とかで殴られたような感じだった。「お前、最近ちょっと弛んでるぞ」と絵に怒鳴られたような感じでもある。
http://www.plaza-gallery.com/
最近、絵を観てこんなにやらたれ感じになったことはなかった。井上くんは本当にすごい画家になったのだなあと思った。普通に、美術館で巨匠の絵と並んでも遜色ないんじゃないだろうか。毎日十時間以上描いていて、一点つくるのに三か月以上かかるとか、このテンションで描くのは年に三枚が限度だとか言っていたけど、それはそうだろうと思った。毎日、絵を描いているだけなのに、毎食どんぶり飯三杯食べていてもどんどん痩せていったとか言っていた。
言ってみれば一種の極端な細密描写であり、マニエリスムとも言えそうな画面なのだけど、普通の細密描写とは全然違う。細部と全体との関係が、ちょっと他では見たことのないことになっている。モダニズムの絵画の達成を踏まえながら、違うところに突き抜けて行ったという感じ。とはいえ、モダニズム以降の様々な美術の潮流ともぜんぜん違う。たんに「これが絵なのだ」と言えばいいようなものなのだろう。絵画が、ハイビジョンやCG映像などの異様なまでの解像度がもつ(暴力的な)力に対して、どのように拮抗することが可能なのかということの、一つの答えにもなっていると思う。
描いているのは、おそらく二十センチ×三十センチとかそのくらいのスケールの(もっと小さいかもしれない)雑草の生えた地面で、それを130号くらいの大きさにまで拡大して描いている。点描のような、ドットに近い感じのかなり小さなタッチの集積で描いているのだけど、スーラとかの点描とは全然違っていて、タッチの大きさにもばらつきがあるし、タッチの集積の粗密さも均質ではない。このバランスの複雑さが半端ではない。かなり細かいとはいえ、色のついたタッチの分布があるだけなので、「眼に見えている通りに描写している」というのとも違う。あくまで、タッチと色彩の関係によって空間がつくられている。絵の具はきわめて薄く溶かれていて、タッチが密集しているところでも、キャンバスの地の白さが感じられないところはない(光が透過する)。色彩も上品に抑制されている。つまり、これら、一つ一つの仕事の過程(タッチ)を制御しているのは、あくまでモダニズム的な絵画の趣味だと言える。
しかし、それによって出来上がった絵を観ると、(描いてあるのは、たんにどこにでもある雑草で、しかもごく狭い範囲でしかないのに)深い森の奥の、妖怪だとか森の精だとか動物の霊気だとかが濃厚に密集していて、それらがすべて可視化されてしまっているヤバいゾーンに迷いこんでしまったかのような(「ポニョ」で命の水があふれ出てしまった世界みたいな)、過剰で濃厚なものが複雑に絡まりながらざわめいている感覚が生まれている。絵だから動いているはずはないのだけど、いろんな場所で得体のしれない何かがうねうね動いているとしか思えない。しかも、この過剰で濃厚な視覚的感覚は、決して視線をどこか一か所に釘付け的に固着させるようなことがない(つまり、強引にこちらの視線を把捉しようとはしない、あり様としてはあくまで上品に、やわらかいタッチで、こちらの感覚の関与の自由度を許す領域をとっておく、しかし狂気じみてもいる、それが両立しているのがすごい)。絵は、観る者が画面上で注目する領域を移動させるのを促すというだけでなく、濃密と希薄、凝集と拡散、入り込むことと引いて見ること(そしてその中間の何段階ものグラデーション)など、こちらの画面への関わりの深さや感覚の度合いの変化までをも促し、またその変化に応じて多くの異なる表情をみせもする。
ぼくがここで書いていることは、作品についてそんなに「適当」とは言えないことかもしれない。でも、これらの作品がすごいということは間違いがないと思う。「画家が絵を描くことによって世界と拮抗する」ということは具体的にこういうことなのだ、ということが示されている。現代の画家でここまで「ただ描けばいいんだ」ということだけに潔く賭けることが出来ているのかすごい。
●『群れは意識をもつ』(郡司ペギオ-幸夫)、第三章のメモのつづき。
●群れの郡司モデル(相互予期モデル)には次のような特徴があった。(1)各個体がそれぞれ異なる基本速度をもつ。(2)それを中心とした(群れとして一定の)変異角と(α)、(3)P個の可能的遷移をもつ。(4)複数の個体の可能的遷移が重なった時のみ個体は相手に対する知覚をもち、そこで(5)相互予期が生まれる。
そこに加えて、(6)相互予期に先行する「速度平均化(同調)」。(7)可能的遷移が重ならずに相互予期が実現されなかった場合に限って、基本速度を半径とした近傍を定義して、内部に他へと移動した他個体があったとき、その他個体が前に占めていた位置に移動するという「追尾」。この二つの機能を追加してみる。するとどうなるか。
(1)これまでは、他個体は相互予期(可能的遷移の重なり)によってしか知覚できなかった(他個体は可能的遷移の全体を通して「雲」のようにコト的にしか扱われなかった)。つまりこのモデルではコト的な近傍しか成立していなかった。「追尾」の機能によって、モノ的個体が知覚されるようになって、モノ的近傍があらわれ、コトとモノの二つの近傍概念が実装される。
(2)「速度平均化」と「追尾」を実装することで、可能的遷移を「1」とする時、郡司モデルとボイドモデルが重なる。速度平均化、追尾=誘引、格子平面の一点には個体は一個しか占めない=衝突回避であるから。つまりボイドモデルが郡司モデルに包摂されることになる。
●このモデルには、可能的遷移の分布の幅を決める「変異角(α)」と、「可能的遷移の数(P)」という二つの変数がある。可能的遷移の数を「1」にすると変異角の大きさに関係なく群れは完全に定向的になる。可能的遷移の数が「2」を越えると、変異角の大きさが群れの動向に影響するようになる(変異角が大きい方が群れは出来やすい)。そして可能的遷移数が多い方が群れは密になりやすい。また、変異角が小さいと個体はほぼ前方へ移動するので、群れの移動も速やかになる。変異角が大きい場合、群れの移動速度は小さく、方向転換も起こり易い。
●このモデルは、可能的遷移数が「1」の状態で外的摂動として「ゆらぎ」を加えるとボイドモデルと同等になる。そのように定義されたボイドオートマトンと相互予期モデルとを、「群れとゆらぎの関係」において比較してみる。ここでは群れの定向性と密度に注目して比較される。ボイドオートマトンでは、ゆらぎを大きくすると定向性、密度とも急激に減少する。つまりゆらぎを許容しない。しかし、相互予期モデルでは、ゆらぎを大きくしても、(いったんは低下するもののその後上昇して)群れは高い「密度」を維持しつづける(定向性は低下する)。つまり相互予期モデルの群れは大きなゆらぎを受け入れる。
●ボブ・エルウッドによるヤドカリの「痛み」についての実験。刺激に対するたんなる反射行動は「痛み」とは言えない。しかし、刺激を「我慢する」としたら、そこに「痛み」があるのではないかと彼は考えた。ヤドカリには住む地域によって借りる宿としての「貝」の形に「好み」がある。まずヤドカリに好みの巻貝を選ばせるが、その貝を背負うと電気ショックが与えられる。その時、近くに別の「好みの貝」がある時はすぐさま背負った貝を捨てて次の貝へ移動するのだが、「好みではない貝」しかない場合は、ショックを与えてもそこに留まる。好みの貝のために刺激を我慢する。
痛みとは何か。身体は、操作可能な部分(モノ)の総体としての身体スキームと、1個の全体(コト)として開設される身体イメージが重なったものだった。痛みとは常に「私が痛い」のだから、私という全体から切り離せず、身体イメージに属する。しかし同時に、「手が痛い」「頭が痛い」と部分に分割できる。基本的には「私が痛い」のでなければ痛くないのだから、痛みは全体(コト)であるはずだが、しかし分割可能なモノ的側面も排除できない。だからこそ痛みを対象化して、操作、比較、計算できる。「頭が痛い」と「今日中に済ませなければならない仕事がある」の重要度を比較して、痛みを我慢して会社に行くかもしれない。そのようなコトとモノとの混同によって、刺激に対する反射行動(事前にプログラムされたもの)を越えて、行動を変質させ得る可能性が生まれる。つまり「痛みとは我慢である」と言い得る。
●では、群れ全体を1個の身体であるとするなら、群れは「痛み」を感じるのか。ミナミコメツキガニは、個体では水路に入ることを嫌うが、群れになると突然水路を突破するという現象がみられる。これをどう考えるのか。
外部刺激が一定の閾値を越えると忌避行動に出る、というのが反射行動であるとする。それに対し、何かしらの対象化(モノ化)可能な身体的状況(例えば「好みの巻貝」)があることによって、忌避すべき刺激もまた対象化されて、そこに反射行動とは別の次元にある「我慢し得る(比較・計算し得る)対象としての痛み」が生まれる(ここのややこしさは重要)。
これをモデルに実装するにはどうすればよいか。通常、可能的遷移が二つ以上重なる時に個体はそこに移動しようとする。しかし、ある領域では閾値が上がり、可能的遷移が「五」以上重ならない場合は、そこへ行くことが忌避される、とする。モデルがこのようにプログラムされると、忌避される領域との境界の部分に個体が溜まり、群れの密度が十分に高くなることによって可能的遷移の重なりが実現され、領域を横断する群れがあらわれる。つまり「群れになると水路を突破しようとするミナミコメツキガニ」とそっくりの動きをみせる。
●「群れ」としての「反射行動(あらかじめプログラムされたもの)」とは、このモデルにおいては、個体密度が一定である限り、設定された領域は刺激が強くて進入できない、ということになる。では、それを対象化して越える(我慢する)「痛み」とはどのようなものなのか。
≪(…)ある振る舞いが機械的な反射行動とみなせる以上に痛みであるためには、任意の個体ではなく、ある個体において、この反射行動が覆され、痛みがモノ化され我慢されていることを確認すればよい。≫
つまり、コト的な空気の形成が、その空気にのっかって状況を突破して行動する「ある個体」を生み出すことによってモノ化される、その出来事そのものが「痛み」とされている。ダチョウ倶楽部モデルで言うならば、三人の空気のなかから上島が「ある個体」として浮上して、自ら進んで熱湯に入ることそのものが、群れとしてのダチョウ倶楽部の「痛み」とされていると考えられる。
≪個体が水際の移動を繰り返し、個体の密集度がある場所で高まり、可能的遷移の重複が高まりをみせる。こうして、みんなが入るならおれも入るという空気が、水際に横溢し、その空気が最高潮に達したところで、ある個体が受動的に選ばれ、水域に入っていく。その構図は、熱湯風呂に入っていく竜兵そのものである。≫
≪これは機械的反射行動を我慢するという状況であり、エルウッドのいう痛みの定義を満足させるものだ。≫