偽日記@はてな

2013-12-12

●先月ぼくがゲスト講師をした早稲田の文化構想学部の西川アサキさんの講座で、経済学者井上智洋さんが「技術的失業・ポストヒューマンベーシックインカム」という主題で話をするというので聴講させてもらいに行った。

技術的失業とは、例えばATMの普及によって銀行の窓口業務をする人がいらなくなるとか、そういうことで、アメリカでは、今まで500人の弁護士で行っていたような煩雑な書類の処理をコンピュータを導入することでたった一人で処理できるようになる、とか、病気の診断も医者よりも高い精度でコンピュータが出来るようになっている、というところまで来ていて、ネオ・ラッダイト運動のようなことも起きているという。

グーグルで「技術的失業」を検索すると、一番上に井上さんの論文が出る。)

井上さんの基本的な主張は、技術的な成長率をほんの少し上回る程度に貨幣量を増量してゆくことで、需要をのばし、それによって雇用をつくることができるというもの。ただ、現状の貨幣レジームでは、市中銀行信用創造によって貨幣量を増やすことができるので、中央銀行マネーサプライを完全にコントロールすることができない(貨幣量を増やしてもまず銀行を経由するので、消費者には届かず、企業や投機にまわってしまい、バブルが起きてしまう)。なので、将来的には徐々に市中銀行から信用創造の権利をなくしてゆき、貨幣量の増量にともなう貨幣発行益(例えば、一万円札を一枚つくるのにコストが20円だとすると9980円の貨幣発行益が生まれる)を国民一人一人に均等に分配すればよいとする。そしてこれが、ベーシックインカムの基礎的な財源となる、と。

これは、技術の進歩による失業貨幣量を増やすことで補い、貨幣量を増やす根拠は技術の進歩にあるという、循環的な危ういバランス(技術の進歩を越えて貨幣量を増やすとインフレになる)ではあるけど、このバランスをうまくコントロールすることで「資本主義の暴走」を抑えることができる、と。そして、そのバランスをちゃんと調整できるようにするために、貨幣レジームの改革とベーシックインカムの導入は有用である、ということになる。つまりここでベーシックインカムは、弱者救済とか基本的人権という倫理的な問題より先に、マクロ経済システムとして、それを導入した方が上手くゆくという話になっている。

この辺りの話は井上さんの論文貨幣レジームの変革とベーシックインカムの持続可能性」に詳しく書かれているけど、今、ネットでは読めなくなっているようなので、ど素人の要約で間違いなどもあるかもしれないけど、ぼくが要約したものを以下にリンクしておく。

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20121024

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20121025

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20121026

●主流派経済学によると、技術的失業は、(1)摩擦的失業(仕事をやめてから新たな雇用を得るまでに時間がかかること)と(2)ミスマッチによる失業(求職者と求人の条件が合わないこと)として扱われてきたけど、そうではなく「産出ギャップ」による失業と考えるべきだ、と。産出ギャップとは、例えば、今まで生産力と需要とが釣り合っていたのが、技術進歩によって潜在的な生産力が増し、需要7に対して生産力が10になった時、その差の「3」のこと。産出ギャップが埋まらない以上、どれだけ長く求職活動をつづけても、どれだけ高度な職業訓練を受けても、新たな職を得ることはできない。つまり技術的失業は(1)や(2)に還元できない。このギャップを埋めるためには、「3」の分だけ需要(消費)を増やさなければならない。そしてそのためには「お金」の量を増やさなければならない。

従来の経済学のフレームでは、長期モデルと短期モデルが分かれてしまっていて、長期モデルにおいては、技術進歩は扱うが産出ギャップは扱えない、短期モデルにおいては、産出ギャップは扱うが技術進歩は扱えない。そこで井上さんは、両者のハイブリットモデルを考えたという。そしてそれによって、産出ギャップは、技術進歩率と貨幣成長率との差によって決定されるという結論になったという。技術進歩は潜在供給を増大させ、需要がそれに応じて増大しなければ産出ギャップが生じて技術的失業生まれる。これは基本的に、生産性が欠乏しているということではなく増えすぎているということで、それに応じてもう一方(貨幣量・消費)を増やしてバランスをとらなければいけないということだと思う。

下は「技術的失業」についての井上さんの論文のPDF

http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/31952/1/SeijiKeizaigaku_372_00_001_INOUE.pdf#search=’%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%9A%84%E5%A4%B1%E6%A5%AD’

●そしてポストヒューマンコンピュータロボットがどんどん賢くなって、人間が出来ることは大抵何でも、人間がするよりずっと低いコストで、人間よりも上手く出来るようになってくると、人間のする仕事はどんどん減ってくる。そこでは、一人一人の個人としての能力の差などは、あまり問題ではなくなってくる。すべての人間が「機械との競争」に負ければ、ある意味では、平等が実現されるのかもしれない。でも、それはユートピアなのかディストピアなのか。≪長い目で見れば、人間のすることを機械がすべてこなせるようになる。しかし、そのころには、この問題を考えるのも機械の仕事になっている≫(クルーグマン

●ここからはぼくの勝手な感想なのだけど、技術進歩によって生産力は増大し続けているはずなのに、なぜこんなにみんな生活が苦しいのかと言えば、そこで生産されたもの(あるいは潜在的な生産可能性)が十分にまわっていないからで、十分にまわっていないのは、それをまわすための媒介(お金)の量が足りないからだということになるのだろう。ここで重要なのは、生産されたものが足りないわけではなく、足りない何かを争い合っているわけではないということではないか。ある人に職がないのは、その人の能力や努力が足りないからではなく、たんに、その人が働かなくても社会にはもう十分に物やサービスが供給されている(あるいは、供給可能である)からで(産出ギャップとはそういうことではないか)、ならば、働かないこと(賃労働しないこと)は少しも恥ずかしいことではないのではないか。

おにぎりが一個しかなくて、腹ペコの人が五人いるから、一個のおにぎりを争いあうという状況であれば、おにぎりをつくる努力が必要だけど、社会のなかにすでにおにぎりは十分にあるから、おにぎりをつくる人はもういらないということなので、ならば別に(おにぎりをつくった人に感謝しつつ)ただおにぎりを食べて、遊んだり瞑想でもしていればいいのではないか。あるいは、お金にならないことをすればいい(勿論、お金になることを自分で始める――起業する――でもいいわけだけど)。無理して「お金になる」ことをする必要はないし、それを「申し訳ない」と思う必要はないのではないか。「働かざる者食うべからず」という常識こそが敵ではないか。

(井上さんは、マクロ経済システムからみれば、ニートのような人たちが経済に悪い影響を及ぼしているということはまったくない、と言っていた。)

ただそこで(とても深刻な)問題なのは、おにぎりはすでにたくさんあるのに、お金がなければおにぎりが買えないということだろう。ならば、「すでにあるおにぎり」の分だけ、お金をみんなに均等にばらまけばいいのではないか。ばらまかれたお金がおにぎりに使われれば、それは経済全体のためにもプラスになる。ベーシックインカムを、そのように考えることもできるのではないか。

●ぼくのいい加減な妄想とは違う、この講義に近い内容の井上さんの文章「私たちは機械に仕事を奪われてゆくのだろうか」が、「エコノミスト」の臨時増刊12/23日号「経済学のチカラ」に載っています。