●『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』(永井均)を読んだ。かなり面白かった。少なくとも「私と汝」くらいは、一度ちゃんとがっつり読まなくてはなあと思った。
●筆者は、ウィトゲンシュタインの考えだと言って次のように述べる。
≪いや、しかし、その「直接経験の事実」だって、われわれの共通の言語に含まれる言葉じゃないですか。だから、始めから「直接経験の事実」という言葉が位置をもつ言語ゲームに乗っかっているんですよ。もしそれを拒否しようとするなら、あなたは最後には分節化されていない音声だけを発したくなる段階に達してしまいますよ。そして、そのときでさえ、その音声がもし何らかの意味を持つなら、それはそれが意味をもつような言語ゲームの中に位置づけられているからなのですよ。≫
それに対し西田は次のように考える、と。
≪この議論の肝は、色なら色の、実存と本質が、つまり生の質(クオリア)とそれをつかむ概念が、地続きである点にある。概念は外から質を規定するのではなく、無限個の概念を内に含んだ非概念的な質が、その内側からおのれを限定していくわけである。すなわち、「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく、分節化されていない音声をおのずと分節化させてゆく力と構造が、経験それ自体のうちに宿っていることによってなのである。≫
でもこれは、どちらか一方の立場から考えるのではなく、両側から考えるというか、片側から考えていたと思ったら、いつの間にか別側の方に出てしまい、そこで考えていると、またいつの間にか元に戻ってしまうというような、循環する通路において考える、あるいは、循環のためにどのような通路をつけるか考える、という必要があるのではないか。
●既に形としてあるものを関係づけ、または配置換えを行うことをフレーム化、無限の質が混じり合う混沌の中から(無限定なものが自分自身を限定して)まとまりのある形が浮かび上がることをゲシュタルト化、と、とりあえずぼくは考えているのだが、これは当然、両方ないと困る。
(フレーム化、ゲシュタルト化は通常、世界を見る主体のもつ統覚能力であると言えるが、しかし同時に、世界そのものの方がフレーム化、ゲシュタルト化を行う力と働きを持つのであって、視点=主体は、その結果として、その事後的効果として立ち上がるものだと考えることもできる。つまり、フレーム化、ゲシュタルト化は、主体の能力ではなく、世界のもつ主客を分離する力の働きなのだ、とも考えられる。)
とりあえずは、世界は、既に形のあるものたちの関係、配置として考えられるし、世界を変えようとする努力は、既にあるものたちの配置換えをしようとする努力だろう(でも、この点だけを見ている限り、世界は限りある椅子を取り合う椅子取りゲームのようなものでしかなくなる)。しかし、世界には、常に、今までになかったものが、それまでは混沌=無だと思われていた場所から浮かびあがるという出来事が起こる。そこで生じる新たな形によって、既に形としてあった別のものたちも影響を受け、否応なく配置換えが行われ、図柄や意味が変わる。あるいはそれによって、既にある形が崩壊し(逆ゲシュタルト化)、混沌=無へと埋没してゆく。
●この本では、前者と後者をつなぐ通路は、非概念的な実存を「非概念的な実存」と名付けて「概念化」することのできる言語において実現されるという風に書いてあると読める(言語が可能だということは通路があるということだ、と言っているだけとも言える)。「私」と「汝」の間にある絶対的な触れ得なさを、「概念化できないもの」という概念化によって、汝(神)を彼(他者)として限定する。そこで、私も汝も共に「彼(個人)」という位置に置くことが出来、後者が前者へとつながるのだ、と。
≪無の場所そのものは、端的に生(なま)の事実であるから、非概念的な実存である。しかし、別の無の場所は違う。それは、すでに概念化(本質化)された実存概念(「実存」という本質)であり、生の場所であるという生でない理解であり、非概念的なものという概念なのである。これに対して、神は、絶対無の場所という仕方においてであるが、現実に私を可能ならしめている、概念化に先立つ実存そのものである。他者と神は、どちらも私の底から響く、無のさらなる無なのではあるが、他者は神と異なり、言語化された新しい種類の場所でのみ働き得るいわば限定的な神なのである。≫
≪(…)この対比そのもの(「端的に非概念的なもの」と「非概念的なものという概念」の対比)そのものが概念化されてしまっている。言い換えれば、汝の側も言語においては私とまったく同じことを(私を汝とし、汝を私として)語れるわけである。すなわち、汝もまた「無の場所そのものは非概念的な生の事実だが、別の無の場所は非概念的なものという概念にすぎない」と語れるのだ。まさにそのことが(つまり、このように同じと言えることが、そして、そういう言語が可能であることが)汝を汝たらしめている。≫
≪その意味で、汝が可能なら言語が可能だし、言語が可能なら汝が可能である。かくして、「無の場所そのものは非概念的な生の事実だが、別の無の場所は非概念的なものの概念にすぎない」ということ自体が、「自己」と「他者」に関する一般的な事実に変転する。≫
●この理屈の組み立て方は、けっこう郡司ペギオ幸夫に近い気がする。