●『パーフェクトブルー』(今敏)をDVDで観た。97年に製作されたアニメ映画。同じ年に黒沢清の『CURE』があり、この頃はサイコスリラーに最前線感があった。90年代の終わり頃はこの感じがリアルだったなあ、と。
確かにすごい。特に最後の三十分は本当にすごい。主人公の女の子の精神がヤバい一線を越えてしまって以降の、入れ子構造を畳みかける展開と、物語の落とし方(犯人が誰だったのか)のすごいこと。ただ、一方でどうにも納得できない感じが残ってしまったのも事実だ。女の子を追い詰めてゆく過程のいちいちに、それはちょっとないんじゃないの、という感じがつきまとった。
アイドルを卒業して女優になった女の子が主人公。アイドル時代からのファンのストーカー的な視線への怯えが一方でありつつ、自分が今している仕事が、自分が本当にしたかったことなのか(アイドルグループをやめた選択は正しかったのか)という迷いのなかに入り込んでしまい、そんなところに関係者たちが何人も殺される事件が起こり、精神的にも状況的にも追い込まれるうちに、「アイドルとしての自分」の分身があらわれるようになって、分身が「わたしこそが本物」と主張しはじめたりして、次第に虚実が乱れはじめる。自分が立っている位置が分からなくなることの恐怖。
でも、アイドルを卒業して女優になった女の子に迷いを生じさせる試練となる仕事が、ドラマでレイプシーンを演じることとヘアヌードの撮影って、それってあまりに紋切り型すぎないだろうか。いや、紋切り型としてすら古くないだろうか(97年においても既に)。そこはもうちょっと丁寧に考えようよ、と思ってしまった。構造の緻密さだけじゃなくて、そういうリアリティも大事だよねえ、と。
しかもそのレイプシーンが、テレビドラマでこれはあり得ないでしょというような、エグいAVみたいな場面だった。この作品は特にエロを売りにしている感じでもないし、リンチの映画のように性的なオブセッションを作品の基盤に置いているわけでもない(題材的には『インランド・エンパイア』に近い感じはあるのだけど)。だから、この場面がエグいのは、たんに女の子(と、その分身)を手っ取り早く追い詰めようと言う、製作者側の(物語展開上の)都合のように感じられてしまった。表現としての必然性ではなく、段取りとしての必然性でしかない、というような感じ。
これだと、主人公の女の子をただただ酷い目にあわせているというだけで、表現として、ああ、これ嫌だなあ、じわっと追い詰められているなあ、というように工夫されたものではないように感じられてしまった。
そうなると、事務所の社長がタレントを使い捨てようとしている酷い奴としか思えなくなる。こんな場面のある仕事を平気で受けてきておいて、タレントを気遣うような素振りがあっても説得力がない。さらに、この場面を含む劇中劇であるテレビドラマ「ダブルバインド」が、後で虚実の区別がなくなる時の都合のためだけにあるようで(その目論見は最初からみえていて)、ドラマとして面白そうな感じにみえない。まあ、面白くもない下らないドラマがつくられている、という設定でもいいのだけど、「本当にドラマがつくられている」のではなくて、「伏線のためにドラマがある」という感じにみえてしまうということ。あと、全体として、芸能界というものの捉え方が薄っぺらな紋切り型(古い紋切り型)の上にのっている気がしたし、オタクの描き方もどうかなあ……、とか。
表現としてはすごいのだけど、そういう細部の一つ一つが気になってしまうと、展開が、ナラティブの段取りをこなしている感じにみえてしまった。
とはいえ、クライマックスといえる最後の三十分くらいの展開は、それ以前にあったひっかかりや納得のいかなさを全部振り切ってしまうくらいにすごかったのだけど。