東京都写真美術館杉本博司を観たのだけど、「根本敬」系の電波臭がすごかった。三階に展示されている物はすべて貴重な本物なのだろうけど、ああやって並べられるとインチキなまがい物にしか見えなくなるところがすごい。そして、(様々な有名人による)手書きのキャプションが電波臭をさらに増強させていたと思う。「手書き」って電波系の基本だなあ、と(あと、紙の質感も重要)。
(人類が滅亡した後という設定の展示のなかを、大勢の観客がうろうろしているので、自分もふくめてこの人たちみんな幽霊ってことなのだなあと感じられたのは面白かった。)
人は、偉くなるとこういうことをやっても許されるようになるのか、というのが感想で、というか、社会的に成功してお金持ちになった人が、歳をとって死を意識せざるを得なくなってくると、こういうことをしたくなるものなのかなあ、と。でも、これは美術館でやることなのか、とも思った。杉本博司が自費で、このような杉本秘宝館をつくるというのなら分かるし、それはぜひ観てみたいとも思うのだけど、ここは美術館だからなあ、と。これは、「杉本秘宝館の展示」であって、美術作品としての「質」を問えるものじゃないなあ、と。
三階の、電波の臭いの充満する杉本秘宝館から二階に降りてくると、非常に美しいモノクロの巨大プリントが待っている。「廃墟劇場」のシリーズは、退廃趣味の洗練の極致のようで、とても美しいと思った。でも、この美しさは三階の展示の電波臭と同じものの裏返しなのだろう。お金はいくらでもあるし、やりたいことは大体やり尽くして、毎日贅沢に暮らしているけど、だからこそ、なにをやっても本当に面白いことなんかないよなあ、みたいな、あるいは、どんなに成功したって、どんなに気持ちのいいことをし尽くしたって、けっきょく人は死んじゃうんだよなあ、みたいな、ある意味で「本物」の(貴族的)空虚を抱えている人には、すごく響くところのある、何もない美しさなのだろうと想像する。そして、そういうものとしてのクオリティはすごいと思う。ぼく自身はそんな成功も贅沢も知らないので想像することができるだけなのだが。
(通常、映画を見せるための空間---暗闇---である劇場が、映画を光源とすることで可視化される。映画は、光源となることで自らのイメージを消して、真っ白なただのフレームとなる。そして、映画が自身の像を消滅させることによって浮かび上がったその劇場は、既に廃墟になったものである。互いが互いを打ち消し合って、空虚が残る。映画が上映される時、そこには既に撮影された対象は存在しないということも考え合わせると、「廃墟劇場」という作品は、徹底して「そこには既に人はいない」ということだけを語っているかのようだ。)
(要するに、人類の消滅や廃墟は、空虚や死の恐怖の比喩であると同時に、それらをアイロニカルに慰撫してくれるイメージなのだと思う。人の誰もいなくなった場所では、もう決して人が死ぬことはないのだから、そこは空虚からも死の恐怖からも解放された場所だと言える。)
(だからこれはあくまでも、人間的な---人間を慰撫するための---人間の不在であって、たとえばオブジェクト指向存在論が示そうとしている人間の不在とは異なるものだと思う。三階の展示は、「実物(物質)」さえもイメージに過ぎないということこそを示していると思う。)
杉本博司の作家としての本質は、やはりジオラマを撮影した作品にあるのではないかと展示を観ていて思った。まがいものこそが最もリアルにみえるという、そもそもリアリティというものがはじめから持っているウソ臭さこそが、唯一信じられるものだ、みたいな感じ。それはアイロニカルではあるが、単純なアイロニーではないと思う。