●吉祥寺のA-thingsで、「“Things” never die. It only changes its form./Kenjiro Okazaki paintings +」を観た。すごく良かった。特に下の作品は、今までのおかざきさんの作品には無かったものが出てきている感じで、すばらしかった。
https://twitter.com/Athings1/status/824253837867290624/photo/1
画面にあるブロック状の絵の具の一塊が、周囲に開かれていながらもある程度自律した一つのゆるいフレーム(一つの図と地関係)をつくっていて、それ自体として自律している複数のフレームが、画面というより上位のフレーム(フィールド)内でひしめきあっていたり、重なり合っていたりする。
ただその場合、画面という固定的なフィールドが先に決定してしまっていると、あらかじめ決められた範囲で遊んでいることになってしまう。この、描く前から支持体が固定されてしまっているという絵画のやっかいな問題を、複数パネルによってうまくキャンセルしているように見えた。
実際にどうやって制作しているのかは分からないけど、複数のパネルを用意して、一枚一枚をある程度自律的なものとして制作しつつ、途中で並べてみたり、並べ替えてみたりしながら描いていって、最後に、フィルムをモンタージュするように配置を決めているのではなないかと思った。
四枚一組の作品、二枚一組の作品、三枚一組の作品が展示されていたのだけど、その枚数はあらかじめ決まっていたのではなく、結果としてそうなった、ということではないか。(映画の、撮影したけど編集作業中の判断でカットされた場面のような)描かれたけど展示されなかったパネルも存在するのではないかと思った。
そうすれば、フレームが流動的なままで、絵を描き進めることが出来るし、絵の具を置いてゆく(描いてゆく)ことと、フレームが生成されることとが、同時進行で行われることになる。編集の都合で撮影が変化し、撮影の結果によって編集が変化する、みたいなことが同時に起こるやりかたによって、上位フレーム(画面全体)と下位フレーム(絵の具の一塊)との関係において、どちらか一方が支配的である状態から脱することができる。
つまり、パネルという中位フレームがあることによって、そのパネルの流動性(並び替えが可能)によって、上位フレームと下位フレームとの関係が同等になり得ているのではないか。
中位フレームと中位フレームとの関係において、連続性と不連続性との両方が仕掛けられていることも、上位フレームの支配力を弱めていると思う。ただし、全くのアナーキーな状態ではなく、上位フレームも勿論充分に「効いて」いる。どのレベルも効いていて、かつ、どのレベルも決定的ではない。どのレベルに注目しても、同じ密度、同じ情報的、感覚的複雑さを感じることができる。さらに、どのレベルも他のレベルに影響を与え、かつ、受け合っている。どのレベルでも自律しているとも言えるし、他のレベルと切り離せないとも言える。
(ここで、上位フレーム、中位フレーム、下位フレームの、それぞれのキャラクターが異なることも重要だと思う。下位フレームは流動的で可変的であり、中位フレームは極端な縦長で、上位フレームは極端ではない柔らかな縦長か、横長である、と。)
(ただ、物質的な中位フレーム=パネルと、その都度で観者が行う部分的注目としての中位フレームはまた別で、観者の部分的注目としての中位フレーム---および、その流動的な変化---は必ずしも物質的中位フレームに拘束されない。しかし、その影響は受ける。物質的中位フレームとしての複数パネルは、おそらく制作時にこそ強く効いてくるものだと思われる。)
●すごく雑な言い方をすれば、抽象表現主義ラウシェンバーグのありえない結合のような状態になっているのだと思う。ラウシェンバーグの場合、抽象的なストローク、具象的イメージ、具体的な物、という異なるレベルのものが、フラットベッドとしてのフレームのなかで短絡的に結び付けられている状態がつくられていると思うのだけど、おかざきさんの作品では、そのような状態がより抽象的、形式的な操作によってつくりだされており、それによって、「感覚可能な複雑さの度合い」がより増しているように思われた。
●ただ、やはりとても難しい作品で、画廊や美術館という場所で「観賞する」というよりも、買って、家に置いておいて日々それを眺めるという付き合い方が必要となるような作品なのではないかとも思った。もともと、絵画とか彫刻というのはそういうものであるはずだけど、そのためには何百万円という額を支払える経済的な余裕が必要になる。