●ドミューン、面白かった。紹介されていた菅野創+やんツーの作品が気にとても気になった。でもYCAMまでは観に行けないかなあ。
《本作は、電話やカラーコーン、石膏像、車、植物など大小さまざまなオブジェクトで構成されるインスタレーション作品です。空間に配置される日常的なオブジェクトには、カメラ、マイク、モーター、小型コンピューターなどが組み込まれ、インターネットに接続されており、鑑賞者はウェブブラウザから各オブジェクトにログイン(憑依)して作品を体験することが可能です。自分の身代わりとして存在するアバターは、仮想空間ではなく物理法則が支配する現実空間に存在し、そこには生身の人間(観客)も存在します。》
http://www.ycam.jp/events/2017/vanishing-mesh/
ICC谷口暁彦と津田道子の作品、小鷹研理の研究室がやろうとしていること、YCAMの菅野創+やんツーの作品は、それぞれアプローチの仕方は違っているけど、かなり近い問題意識があるようにぼくには見える。それは、どのようなアレンジメントが「わたし」というものを立ち上げているのかの探求であり、どのようなやり方をすれば「わたし」が別の誰か(何か)になれるのか(別のアレンジメントを発生させられるのか)、についての具体的な実践ではないか。
ダブル(分身)とアバター(分身)の違いというのは、たんに「二」が「多」になるというだけでなく、魂のキャッチボールが出来るというか、わたしの身体とアバターの身体との間で「わたし」が交換され、または奪い合われる、というところにあるのではないか。ドッペルゲンガーも、見たら死ぬのだから、魂を奪われるのだけど、もっと柔軟に、遊戯的に、魂のやり取りが出来る、というか。
この時、わたしの身体の元にある「わたし」と、アバターの身体の元にある「わたし」には連続性があり、同時に異なる組成をもつ。そこに独自の気持ち悪さが生まれる。そして、このような気持ち悪さの様々なバリエーションをつくり、実際に体験することを通じ、「わたし」の組成は徐々明らかになり、同時に組み替えられていき、そしてそのうち人間は、人間ではない何かになるのかもしれない。
やり方やメディウムは大きくことなるけど、たぶん、十九世紀末の先鋭的な芸術家たちも似たようなことを考えていたのではないかと思う。
(たとえば、『君の名は。』が、ダブル=分身じゃなくてアバター=分身であることは重要だと思う。二人には性差があり、違う仕様のからだを交換した。だから、瀧が三葉のおっぱいを揉む場面はとても重要だと思う。違うんだ、というとまどいとして。)