偽日記@はてな

2018-01-27

●「人間は考えヌ頭部である(からだは戦場だよ2018)」(やながせ倉庫・ビッカフェ)に行った。ぼくの住んでいるところからだと、新幹線を使えば名古屋くらいまでなら都心に出るのと時間的にはあんまりかわらない。名古屋から岐阜までは20〜30分くらいなので、体感的には、浦和とか大宮まで行くくらいの感じで、余裕で日帰り可能だった。会場まで往復歩いただけだけど、岐阜の街の印象は、飲食店(飲み屋的な)がやたらと充実しているということだった。それも、チェーン店系がほとんどなくて、多様でオリジナルな店が並んでいる感じ。会場への経路が、たまたまそういう地域だったのかもしれないが。

●ダンスをする、ということを考えてみる。別にコンテンポラリーなダンスでなくても、例えばアイドルグループのダンスでもよい。そこには、左右の交差やひねりがあり、前や後ろへの向き返りがあり、上下への伸び縮みや反転があり、前傾や後傾があり、回転があり、振動があり、それらの複雑な組み合わせがある。この時、頭部にあってその前方についている主観的な視点(眼)は激しく位置や方向を変え、さらに、身体各部と頭部(視点)の関係(そして、身体各部間の関係)も激しく入れ替わる。

このような時、もしダンスする人の「視点」が、主観的な位置(眼のついている位置)に固定されているとしたら、前後左右の感覚は混乱し、ステージ上の自分の位置や、他のダンサーとのフォーメーションを確認し調整するどころか、手足がもつれ、前後を把握することさえ困難になるのではないか。おそらくこの時、視点は目の位置にはなく、身体の方向や傾きとは無関係に方向が固定されていて、常にその一定な視点の方向との関係から、運動が意識されていると思われる。たんじゅんな話、ターンをする時、自分の目がその時に向いている方向と、ステージの「正面」とが、どれくらいズレているかが常に測られているはずだ。つまり、眼は回転しているが、「視点」はずっと正面を向いている。

これは視点の問題というよりも、身体に埋め込まれたジャイロセンサーの問題かもしれない。しかしここに、身体各部間の複雑で素早い位置関係の変化や交錯などの運動が加わる場合、身体各部間の関係の変化を測るための基準となる不動である(方向をもった)点が必要であるように思われる。このような、不動で内的な点が「視点」であるとすれば、それは頭部についた眼の位置からはズレてあることになる。視点は、主観的であるという意味で一人称的でありながら、身体のどの部分にも固定されていない。

このような、一人称的であると同時に不動であるような「視点」は、人が幽体離脱の能力をもつ根拠でもあるが、同時に、この不動の視点の安定性を揺るがせることが、幽体離脱に近い体験を得るには必要となると思われる。

(おそらくこのような「抽象的な一人称視点」の有無は、地図を見る時に、自分が向いている方向に合わせて地図を回転させなくても地図を読めるかどうか、ということと関係している。)

エルボリスト(Elbow+Wrist)

https://twitter.com/kenrikodaka/status/955945373930962944

エルボリストで得られるのは、仮に頭部が透明だとして、目玉が180度回転した時に得られる背面の視覚像と、その視覚像を元にした頭部、および左右の腕とその延長としてのコントローラー(延長された腕)の操作だと言える。首が180度回転したのではなく、目玉だけが回転している。あるいは、視線を文字通り「線」として考えるならば、その線が目玉の後ろ側にまで頭部を貫通して伸びていて、目玉の位置をゼロだとすると、視線の方向がプラスからマイナスに切り替わるという経験が得られる。

例えば、ダンサーがステージに背を向けた方向でポーズを決める時、ダンサーの視点は自分の背後(ステージ正面)から見られた自分の形を見て(想定して)いるだろう。しかしこの時、身体の左右は、ダンサーの捉える左右と、ダンサーの背後から捉える「視点」の左右は一致している。エルボリストでは、身体は前を向いたまま、「視点」だけを逆向きにする。しかもその逆向きとは、頭部が逆向きなのではなく(これだとたんに、ダンサーからの視点と、ダンサーに内面化された観客側からの視点との関係---映画における、構図-逆構図と同じ関係---になってしまう)、頭部は前を向いたまま、目玉だけが逆向きになる。このような反転はVRではじめて可能になるように思う。

首が回転するのではなく、頭部を貫通して後頭部に目が移動していることになるので、(前面像と同じ感覚で)主観的に右を見ようとすると視点は左に向き、見上げようとすると視点は下を向く。左手を動かそうとすると、右側に見えている手が動く。

エルボリストで特異なのは、ただ背面像が得られるだけでなく、前面像と背面像とが何度も切り替わる(何度も反転が起る)という点だろう。視点とコントローラ(延長された腕)は、ひらひらと舞う蝶を追っていて、その蝶が背後にまわり、蝶を追いかける腕+コントローラーが肩よりも後ろへ移動した途端に、視点が背面像へと切り替わり、また、蝶が前面に戻って、腕+コントローラーが前面に移動すると、通常の前面像に切り替わる。ようやく、背面像と身体運動との関係が掴みかけたと感じられたところで、通常の視覚へと再び反転して戻ってくる。

だから、エルボリストによって得られる体験は、背面像と、背面像をもとにした裏返った身体制御への順応であるだけでなく(それ以上に)、前面像と背面像とが「反転する」という反転という出来事であるように思った。二つの異なる「視覚像とそれにともなう身体制御との関係」が、蝶の移動に伴って随時切り替わるという、その「切り替わり」を経験することが出来るのが面白いのではないか、と。

(この装置で、前面像と背面像との「切り替え」は、腕の位置の移動によって起こるのだけど、ぼくはどうしても、無意識のうちにこの「切り替え」を「頭部の傾き」によって起こそうとしてしまう傾向があった。これは、ぼくにとって「視点」が「頭部」と強く結びつき過ぎていることから起るのではないか。たとえば、視点の位置の変化を手元のコントローラーで行うというようなゲームをよくやっている人は、もっとこの装置に適応しやすいのではないかと思った。)

●「セルフ・アンブレリング(重力反転計画α)」

https://twitter.com/kenrikodaka/status/955405064486641665

HMDを装着して仰向けに横たわり、手に傘をもつ。すると、天井の辺りに、傘をもった人の顔が現れる。その顔は、雪が降るようなゆっくりとした速度でわたしの方へと降下している。傘を一回バサッと開いて閉じると、視点が天井にいる人の側へ移って、地上で横たわっている人の方へとゆっくり降下しているという像が得られる。もう一度、傘をバサッとやると、再び視点は仰向けで横たわっている方へと戻る。仰向けに横たわる視点と、下へとゆっくり降りている視点とが何度も入れ替わる。

そして、傘を何度もつづけて素早くバサッバサッバサッとやりつづけると、その風圧によって飛ばされるように、降下している顔が上空の方へとどんどん押し戻される。しかしここで、バサッとやる度に視点が切り替わるので、自分が、傘の風圧によって顔を上へと押し返している側なのか、傘の風圧で押し返されている側なのか、能動なのか受動なのか、混乱してよく分からなくなる。

この時に起るのが重力反転で、つまり、自分が上向きに横たわっているのか、下向きに横たわって降下しているのかがよく分からなくなる。仰向けの感覚のなかに、うつ伏せの感覚が入り混じってくる。これは、重力の反転の感覚であると同時に、傘をバサッバサッとしているという行為の能動感と、自分のいる位置(視点)が切り離されてくるという感覚でもある。自分が今やっている行為(行為というより、行為を遂行している感覚)によって、その外にいる自分が作用を受けている感覚。

幽体離脱」という出来事が、一般に、人が横たわっている時に起こり易いということから、横たわっている状態でこそ最も重力反転(仰向けの感覚とうつ伏せの感覚の反転)が起きやすいのではないかという推論から導かれた装置であるようだ。

ダンサーの例で言えば、ダンスで倒立しても宙返りをしても、ダンサーにとって重力の方向の感覚は常に一定であり揺るぎがないと思われる。そうであるからこそアクロバティックなバランス感覚を要する運動も可能になる。ダンサーではない我々にとっても、重力の方向感覚の一定性は、意識するより以前に当然のこととしてある生活や運動の基盤であろう。

しかし、横たわるというきわめて単純な行為によって、強い重力の方向性が緩和されるだけでなく、そこにその反転の可能性が潜在的に含まれているというのは面白い。おそらく、幽体離脱で重要なのは、無重力であるよりは、緩められた重力の感覚のなかでの、重力の「反転」の方にあるのではないか。

(つづく)