偽日記@はてな

2018-02-28

●二月中にやらなければならなかったことをやり残したままで二月が終わっていく。二月中に書くと言っていた原稿がどんどん長くなっていく。

●長すぎて編集者が途方に暮れるかもと思って、展開がだいたい分かるように、頭のところに目次をつけてみた。

●「幽体離脱の芸術論」の構想のエスキースみたいな感じで依頼されたものだけど、実際に書いたら、そのための基礎固めというか、序論のようなものになってしまっている。ここをちゃんと書いとかないと、各論に行けない、みたいな感じの。

2018-02-27

●「ことばの錯覚」(小鷹研理)の下のリンクに記事を読んで、『三月の5日間 リクリエーション』にかんしてまったくノーチェックだったことを後悔した。

http://kenrikodaka.hatenablog.com/entry/2018/02/19/081714

チェルフィッチュにかんしては、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』を観た時に(DVDを買って観たのだが)、ぼくにとっては刺さってくるものが何もなくて、ここまで社会派化したチェルフィッチュは、もうぼくとは関係のない方向にすすんでいくのだろうと思ってしまった(正直、その時のぼくには社会派コントにしか見えなかったし、パフォーマンスも面白いとは思えなかった、バッハも、無理やりとしか思えなかった)ので、その後の情報をまったくチェックしていなかった(住んでいる場所的に、パフォーミングアーツ全般への関心が遠くなったということもあるけど)。

しかし、もともとチェルフィッチュには、極端に「社会派」の方向へ振れる時と、そうでないとき(物語内容と無関係に、まさに「複数性の倫理」を露呈させるとき)とがあるので、一方の極だけをみて簡単に判断してはいけなかったのだと強く反省した。

(まあ、でもそれだけ、ぼくにとって『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』は衝撃的なまでにつまらなかったということだけど……。チェルフィッチュを観て、こんなにもまったく心が動かされないなんてことがあり得るのか!、という、ネガティブな方向ですごく驚いた---ショックを受けた---のだった。)

しかし、なんといってもチェルフィッチュなのだから、(というか、一人のアーティストが)そんなに単純であるはずはなく、様々な要素が常に絡まり合いつつ押し合いへし合いしているはずで、局面によってその都度まったく別のものが出てくるのは当然であるはずだ。それはつまり、たまたま自分とは接点を感じられない作品があったとしても、そんなに簡単に、それまでやってきたそれとは別のこと(別の要素)がまるっきり消えてしまうわけはない、ということでもあるのだ。愚かだった。

2018-02-26

水戸芸の谷口さんの作品、なんかすごくよさそう。ちょっとホックニーを連想させるけど。

「ことばの錯覚」(小鷹研理)『address』(谷口暁彦、2018、展示「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」より)

http://kenrikodaka.hatenablog.com/entry/2018/02/26/054239

やるべきこと(本のための直しと原稿が重なっている)が予定の期限内に終わりそうもない感じで、しばらく動けない感じだけど、五月までやっているからきっと観に行けるだろう。

2018-02-25

●『なぜ世界は存在しないのか』(マルクスガブリエル)を読んだ。今、くわしい感想を書いている余裕がないが、前半は、分析哲学っぽい文体ロジックの組み方だと感じながら読んでいたが、後半になると、バリバリにドイツ観念論っぽくなっていた。メイヤスーやハーマンなどと、「新しい実在論」として明らかに同じような方向を向きながらも、「細かい違い」では済まされない違いもあって面白い。

(途中にヴィヴェイロスの名前も出てきて、新しい実在論人類学とは、やはり切り離せないのだなあと思った。)

ハーマンは、「実在」そのものにはアクセスできないと考えるが、ガブリエルは、「意味の場」にあらわれる「意味」がそのまま実在であるとし、メイヤスーは数学によって実在とアクセス可能だとする。ただ、ガブリエルのいう「実在=意味」は、ハーマンのいう「感覚的オブジェクト」に限りなく近いように思われ(ぴったりとは重ならないが)、実在への直接的アクセスの問題を除けば、ガブリエルハーマンはけっこう近いようにも思える。

この本にも書かれていたが、実在論の反対概念は唯名論であり、唯物論の反対概念は観念論である。ガブリエルハーマンも、あくまで「実在論」であり、「唯物論」をはっきり批判している点も近い。

2018-02-24

●『霊的ボリシェヴィキ』がすごかったので、過去の高橋洋作品をまとめて観直したい、とか、大杉漣が亡くなったので、90年代の大杉漣出演作品を出来るだけ探して観たい、という気持ちが強くあるのだが、そのようなことをしている余裕がない。

●ぼくは、『アキレスと亀』(北野武)を観て、画家の端くれとして「許せない」と感じてしまい、それ以来、北野映画を観ることを自分に禁じているのだけど、『アキレスと亀』からもう十年経つし、大杉漣の死をきっかけに、自分自身への封印をそろそろ解いてもいい時期なのかなあとも思いはじめている。なんといっても、また『ソナチネ』観たいしなあ。

(でも、『HANA-BI』以降の北野映画---『アキレスと亀』より後の作品は観てないけど---は、どれもあまり好きじゃないんだよなあ。)

2018-02-23

●昨日は、ユーロスペースのレイトショーの前に、東京都写真美術館恵比寿映像祭「インビジブル」を観ていたのだけど、二時間くらいしか時間がなくて、ほんとにごく一部の作品だけ観て他は素通りみたいな感じになってしまった。

最初にラファエルローゼンダールがあって、次のポール・シャリッツがあって、このへんは普通に観ていたのだけど、その次のガブリエル・エレーラ・トレスがとても面白くて、二度観てしまった。20分の映像作品を二度見るというのは、それだけで40分かかり、しかもエンドレスでループしているから、きっかりはじめから観られるわけではなく、重複した部分を含めるとそこだけに50分ちかく時間をとられた。そして、次の永田康祐の作品で、そのシステムがよく分からなくて、いろいろいじっているうちに時間が経って、そこまでで、気付いたら閉館まで残り3、40分で、これはヤバいと思い、とりあえず青柳菜摘の作品は観ておこうと思って、「孵化日記」の映像部分(1話、2話)だけ観ていたら(インスタレーション的な部分はちゃんと観てる時間ばなかった)、閉館まで残り10分とかになって、あとはもう、観るというよりただ通り過ぎる感じだった。もう一度観に行きたいと思ったけど25日までなのでもう無理か。

ガブリエル・エレーラ・トレス「適切な運動による神への近寄り方」は、美術館で投影される映像作品というより、普通に短編映画としてとても面白かった。こういう、形式的でトリッキーな作品というか、内と外がひっくり返り、内容が形式へと何重にも折り込まれ、また、形式が内容へと何重にも折り出されているような作品を、ぼくはどうしても好んでしまう傾向がある。ショットや場面の配置が、時間的-継起的というより、超時間的-むしろ空間的なところも、面白いと思った。ぼくは、ガブリエル・エレーラ・トレスという作家をまったく知らなかったのだけど、こういうような映像作品ばかりをつくっているような人なら、もっと他の作品も観て観たいと思った。

というか、ぼくもこういう作品をつくりたいんだな、とも思った。

●Gabriel Herrera Torres on Vimeo

https://vimeo.com/user13245217

●BERLINALE TALENTS (GABRIEL HERRERA TORRES)

https://www.berlinale-talents.de/bt/talent/gabriel-herreratorres2/profile

2018-02-22

渋谷ユーロスペースで『霊的ボリシェヴィキ』(高橋洋)を観た。いや、すごかった。ラストは「唖然とした」としか言えない。かなり混んでいて客席の八割以上は埋まっていたと思うけど、映画が終わった後にはシーンと静まり返っていて、誰の喋り声も聞こえなかった。皆、無口でそそくさ立ち去るという感じ。

一部に、いわゆるJホラー的なギミックも使用されてはいるけど、それとは根本的に異なった「別のナラティブ」を実現していると思う。上から目線のような言い方になってしまうが「高橋洋はとうとうここまで来てしまったのか」と。主題的に、というか、ネタ的には『恐怖』からの発展という以上に、『発狂する唇』や『血を吸う宇宙』との関連が深いように思えるが、映画としての「語り」の形式が違っている。

(以下、決定的なネタバレは避けますが、かなり深く内容に触れているので、未見の方は注意して下さい。)

今までのどの作品よりも、高橋洋という作家の否定神学的、一神教的、一元論的な側面が強く出ているように思えた。たんなる降霊儀式が、共産主義的な国家の中央集権性(レーニン中央集権スターリン独裁)と結びついてしまうことからも、そのことが分かる(この点は『狂気の海』とつながっている)。ここで試みられていることは、特定の誰かの霊を降ろすことではなく、「あの世」そのものに触れ、顕在化することであり、それはまさに、その場に集められた人たちが「この世」全体を代表する「選ばれた」エリートであり、前衛であることを示してもいる。端的にホーリズム的であり、マルクスガブリエルなら「存在しない」という「(一つの原理から構築される)世界」が、「ひとつの世界」として存在していると信じられていて(つまり、マルクスガブリエルやグレアム・ハーマン批判する、科学的統一理論を目指す「唯物論」そのものだ)、その「一つの世界(全体)」の代表として(まるで国家の中枢そのものである共産党の党大会のようにして)、この降霊会という場が設定されている。少なくとも、霊能者や「先生」と呼ばれる人たちは、そう考えている。

「あの世」とは、「この世」が「一つの世界」として存在するために要請される、「この世ならざるもの」という否定によって定義される絶対性であろう。つまり、「あの世」が「この世」から排除されている限り、「この世」は決して「世界全体」とは言えず、ある余剰を取りこぼしていることになる。そのような「あの世」を「この世」に召喚することによって、本当の「一つの世界」という全体主義(全体性)が成立する。とはいえ、「あの世」とは本来、否定によってしか定義されず、決して顕在化しないことによって単一的な「この世」を支えている単一的な絶対性であるはずだろう。だからもし仮に「あの世」が召喚されるとしたら、「あの世」と「この世」との邂逅は対消滅によるすべての消失を引き起こすしかないだろう。この作品の、あるいは高橋洋の作品から発する強い緊張の一面は、このような否定神学の徹底によってもたらされると思われる。

だがそうだとしても、ここで「あの世」が、一種表象不可能な何かとして表象されるとしたら、そしてそれが「すべての消失」というあらかじめ想定可能な結末にしか至らないとしたら、それは結局、退屈な否定神学になるだろう。しかし、高橋洋の作品において、「この世ならざるもの」という否定によってしか定義され得ないはずの「あの世」が、「この世」と「あの世」という双対性の主題にいつの間にか入れ替わってしまうという事態が起る。『恐怖』においては、この世の外にあるあの世に「触れる」ことによって「霊的進化」をとげるというマッドサイエンティスト主題が、いつの間にか、母と娘、姉と妹という双対性の主題によって脱構築されてぐずぐずになり、最後は、否定神学的な「唯一のこの世/あの世」が、多世界解釈のような「複数のこの世」とでもいうようなものへと解体されて、「あの世」が消える(「あの世」など存在しない)という結末に至る。

霊的ボリシェヴィキ』においても、途中までの流れは似ている。当初、「この世」の全体性を代表するものとしての降霊会は、「霊能者」や「先生」が仕切っている「この世ならざるあの世」に触れた体験を語り合う場であったはずだ。しかしそこに、由紀子と安藤というカップルが加わることで、その主題がブレてしまう。由紀子や安藤が語る話は、この世の外としての「あの世」に触れたという話ではなく、「この私」がいつの間にか「別の誰か」と入れ替わってしまっている、あるいは、いま、ここにいる「私」は本当の由紀子や安藤ではなく、由紀子や安藤の入れ替わりとして存在する「偽物」なのではないかという「疑い」が生じるような体験である。

(いわゆるカプグラ症候群では、自分の身近にいる人が、外見は一緒だけど中身だけ別人に入れ替わってしまっていると感じるのだけど、ここでは「このわたし」そのものが、「このわたし」ではなくその偽物なのではないか感じてしまうという感覚が語られる。自己における自己の所有感そのものが疑われる。)

つまり、この世と、その絶対的な外としてのあの世という対立は、「ここ」と交換可能な「そこ」との入れ替わり(より正確には、絶対に「交換不可能」であるはずの「ここ」と「そこ」が何故か入れ替わってしまっている)という話にすり替わって(交換されて)しまう。そして、『恐怖』と異なるのは、それが否定神学脱構築に終わるのではなく、「入れ替わり体験」の方が優位になって、否定神学主題をまるっきり書き換えてしまうということだ。

(追記。つまり「あの世」とは、この世の外にある深淵のようなものではなく、そのような「変換」「交換」が何故か起ってしまうという、その事実そのものの名なのだとも言える。)

霊的ボリシェヴィキ』では、こことそことの交換という主題が、いわばフラクタル的に様々なレベルで仕込まれていることで、否定神学的な二項対立(二元論の、一元論=全体性への強引な還元)という主題を、たんにぐずぐすにするのではなく、内側から徐々に食い破ってしまう。

安藤は、二股をかけて二人の恋人をつくる。まずここに、恋人の交換可能がある。そして、その一方の恋人を殺害する。しかし、その恋人もまた二股をかけていて(二股の双対性)、殺人犯として捕まったのは、殺した女性のもう一人の恋人の方であった。確かに自分が殺したはずの女性の、もう一人の恋人が殺人犯として逮捕され、自白もし、服役もしている。一方、自分は何のおとがめもなくシャバ(ここ)にいる。だとしたら、いま、ここにいる自分は誰なのか、と。俺はあいつの偽物なのではないか、と。というか、俺のいる「世界」はどこなのか、と。

由紀子において事はもっと複雑である。まず由紀子には、幽体離脱のような夢の経験がある。自分が火に焼かれていて、焼かれている自分を上方から見ている。その時、焼かれている自分を見たくなどないのに、眼を瞑ることができない。なぜならば、既に瞼が焼かれているから。自分から分離した自分を強制的に「見させられている」。これがまず、「ここ」と「そこ」が入れ替わる体験だ。

そして、母と人形の入れ替わりもある。子供の頃に庭で遊んでいて、二階の部屋から母親にすごく冷たい視線で見られていたという記憶が由紀子にはある。しかし実はその時母は不在で、しばらくして買い物から帰ってきた。母の死後、その二階の押入れのなかから、母とそっくりの人形が出てきた(この辺、ちょっと記憶が曖昧のなで細かいところはまちがっているかも)。母と人形の入れ替わり(人と人形との入れ替わりは『血を吸う宇宙』で繰り返し描かれる)。この人形は除霊のために母方の親族を集めて焼かれるのだが、ここで焼かれる母=人形と、焼かれている自分を自分で見ている由紀子自身の見た夢とがつながり、母と自分との入れ替わりも示唆される(この人形は母方の家系全体にかかわっている)。

さらに由紀子は幼い頃に神隠しにあった体験がある。ある日ふといなくなって、数か月も戻らず、誰もが生存をあきらめた頃に、山中で無事に発見された。(ちょっと、この後かなりのネタバレがあります)それ以来、耳元で誰かが囁く声が聞こえていて、しかし何を言っているのか分からない。さらに、母親がある日、妙な手紙を受け取って以来、自分を見る眼がかわったような気がする。そして降霊会を通じて明らかになるのが、この匿名の囁き声が「お前は由紀子じゃない」というものだったということだ。母が受け取った手紙も「入れ替えられた」と書かれていた。

つまり「このわたし」は、入れ替えられた誰かであり、本当は「わたし(由紀子)」ではないかもしれない、という、「わたし(ここ)」という位置の根本的な否定が疑われる。しかしここで「否定」とは、「この世」を支える絶対的否定としての「あの世」というような否定ではなく、「わたし」と「他者」との、不可能であるはずの交換が「成立」してしまっている(かもしれない)という疑惑のことなのだ。つまり、否定神学的な「この世/あの世」の絶対性が、複数の「わたし」の交換(ここ=わたしが、そこ=他者であるはずの「もう一人のわたし」に内側から乗っ取られる、反転する、パースペクティブを奪われる)という事態へと、主題がはっきりと移動していく。

そのことにより「霊的ボリシェヴィキ」的な実験は完全に失敗に終わり、実際にそこに現れたのは、「この世」への「あの世」の召喚ではなく、「わたし=ここ(このこの世)」と「わたし(他者)=そこ(そのこの世)」とのパースペクティブの交差的な入れ替わりという出来事だったのだ、ということになる。

つまりこの作品の主題は、「あの世を召喚する(二元論的世界を一元論的に還元する)」→「あの世(全体としての一つの世界)など存在しない」→「わたし=この世と、わたし=他のこの世との間の、《わたし》の位置=パースペクティブの奪い合い、闘争的、排他的交換、反転」へと変化、発展していき、否定神学全体論が内破され、パースペクティブの交差的交換へと移行していくのだと言える。ここで恐ろしいのは「わたし」がいつの間にかまったく「別のわたし」と入れ替わってしまっているということになる。ここにあるのは、「わたし(この世)」の位置の排他的な奪い合いであろう。

そしてラストには唖然とするしかなかったのだった。

2018-02-21

大杉漣が亡くなったのか……。

ぼくの印象では、諏訪太朗と並んで、90年代のVシネマに出まくっていた人というのが、まず、ある。90年代に、ぼくが観たいと思うVシネマをレンタル店から借りてくると、大抵この二人のどちらか(あるいは二人とも)が出ていたという感じ(あ、あと國村隼も、やたらと出ていた)。

はじめてその存在を認識したのは、おそらく『スキャンティドール 脱ぎたての香り』(水谷俊之)というピンク映画で、ウィキペディアで調べたら84年公開となっていたけど、ぼくが観たのは87年か88年くらいで、VHSのビデオで観た(当時、実家に住む浪人生だったので---ビデオデッキは一家に一台という時代だった---夜中にこっそり、という感じで観た)。同じ年(84年)に公開された(蓮實が絶賛したことで有名な)周防正行のデビュー作『変態家族 兄貴の嫁さん』や、90年には『パンツの穴 キラキラ星みつけた!』(鎮西尚一)などにも出ているけど、これらの映画を実際に観られたのは、もっと後で、90年代中盤以降の、まさに大杉漣Vシネマに出まくっていた頃だったと思う。だからぼくにとって大杉漣は「90年代の記憶」と強く結びついている人だ。

(水谷俊之周防正行は二人とも、80年代の終わり頃に、ユニット5という、ピンク映画ニューウェーブ的な監督五人によるユニットの一員だったはず。これは会社なのか、仲良しグループなのか、詳しいことは知らないけど。『スキャンティドール』---監督が水谷俊之で脚本が周防正行---は、当時、新しい感覚のピンク映画として割と話題になっていて、何かの雑誌で読んでタイトルが頭に残っていて---その時は未成年だったが---数年後に予備校の近くのレンタル店でそのタイトルを見つけて、おおーっ、こんなところに、これが、という感じで借りて帰った。)

大杉漣は、『ソナチネ』以降の北野武の映画にずっと出ていたのだけど、ぼくにとってはそれよりも、「90年代の黒沢清の映画(90年代に黒沢清VHSで観ていたという経験)」と切り離せない存在で、なかでもやはり「勝手にしやがれ!!」シリーズの「先生」の印象が最も強い。90年代に二十代だったぼくにとって、黒沢清を観ている時間(と同時に、黒沢清という映画作家のあり方そのもの)は特別に大きな意味をもつ、当時の自分を支えていたかけがえのないものの一つだったので、その作品と切り離せない大杉漣もまた、特別な存在だ。

(ウィキペディアをみると、大杉漣と、水谷俊之周防正行は、高橋伴明でつながっているっぽい。大杉漣高橋伴明の映画でピンク映画デビューし、水谷俊之周防正行高橋伴明の助監督だった、と。だとすれば、黒沢清大杉漣とも、高橋伴明つながり---ディレクターズカンパニーによる---なのだろう。そういえば、黒沢清の商業デビュー作『神田川淫乱戦争』の助監督には、水谷俊之周防正行という名前がある。)

(おお、『スキャンティドール 脱ぎたての香り』は、DMMの「成人映画」のカテゴリーで観られる。)

(しかしいつの間にか、DMMでは90年代の黒沢清の一連のVシネマ、「勝手にしやがれ!!」シリーズや「893タクシー」などが観られなくなっている……)

2018-02-20

エドゥアルド・ヴィウェイロス・デ・カストロ「強度的出自と悪魔的縁組」(「現代思想2011年11月号)、「内在と恐怖」(「現代思想」2013年1月号)を読み返していた。出自を食い破る非進化論的な生成としての縁組。捕食・被捕食における「眼」の取り合いと恐怖。ヴィヴェイロスは読んでいて鼻息が荒くなるくらい面白い。

●16日の日記に書いた(立花隆臨死体験』に出てくる)、ロバート・A・モンローという人の書いた本を図書館から借りてきた。『体外への旅』というタイトル。パラッとみただけで、まだ読んでいないが、あきらかにかなり怪しげな感じ。巻末にある、同じシリーズ(mu super mystery books)の広告にある別の本のタイトルからしてヤバい(食べるだけで直観力・超能力が目覚めやすくなる 世界の神秘料理161点を厳選紹介!!『不思議体験クッキング・ブック』とかある。ヤバいトリップ系の匂いがすごいけど、これは合法なのか? 不気味に進行するハルマゲドンへのプログラム死海写本が告げる人類最期の戦い』という本の紹介には、《「死海写本」には「人類最期の日は2018年」という恐るべき予言が》とか書かれていて、これ今年じゃん、とか)。

でも、考えてみれば、八十年代くらいまでは、こういうオカルト的で扇情的なタイトルの本は、かなり堂々と本屋さんのメインの場所に並べられていた。ぼくが小学生だった七十年代はオカルトブームで、「UFO・宇宙人」や「超能力」や「超常現象・怪奇現象」や「陰謀論」にまつわる子供向けの本も多数出版されていて、親も、子供に平気でそういう本を買い与えていた。男の子はたいていそういう話が好きだったし、ぼくも友人たちも、何冊ももっていたし、たくさん読んだ。オカルト系のテレビ番組やマンガもたくさんあった。だからこのヤバい感じは、実はほんのりと懐かしい。

(おそらく今ではその感じは、占いとか、パワースポットとか、オーラが見えるとか、都市伝説とか、そのようなものに、つまりオカルト的なものからホラー的なものに移行して、どちらかというと、女の子の好きなものになっているのではないか。)

先日、都心に出て終電でかえってきて、勿論もうバスはないので、ウチまで50分くらい歩かなくてはならなかった。その時はもうかなり疲れていたので仕方なくタクシーに乗ることにした。タクシー乗り場に並んでいて、自分の番がきて、タクシーに乗り込んだとたん、シートにたっぷりと濃いタバコのヤニの匂いが染み込んでいるのを感じた。いまどき、こんなタクシーがやっていけるのかと思うと同時に、懐かしさという感情が出現した。

以前は、電車のなかでも普通にタバコが吸えたし、四人掛けのボックスシートには灰皿がちゃんとついていた。シートにはタバコの匂いが当然のようにして染みついていた。しかし、いつの間にかそういうことはまったくなくなっていた。ぼくはタバコを吸わないが、タバコの匂いも受動喫煙もまったく気にならないので(花粉症の酷い時期だけちょっと気になるのだけど)、新幹線の喫煙席や、喫茶店の喫煙席も、そっちの方が空いていればそっちに行くし、まったくOKなのだけど、そのような場所でさえ、空中に煙が充満していることはあっても、シートにヤニの匂いがこびりついているということは、まずない(消臭剤、脱臭剤が発達してもいるのだろう)。以前はそうじゃなかったのだけど、そうじゃなかったということをいつの間にかすっかり忘れている。

しかし、ヤニの匂いのべったりと染みついたシートに座った瞬間に、以前はどこでもこうだったという、その「感じ」をふいに思い出した。その時の、「ああ、以前はこうだった」というその「感じ」と同様に、ロバート・A・モンローの本からにじみ出る怪しさからもまた、以前は割とこんなだったのに、そのことをいつの間にか忘れていたという種類の、「ほんのりとした懐かしさ」が漂うのだった。

(別に「昔の方がよかった」と言っているわけではないし、「オカルトをたんじゅんに肯定している」わけでもないです。)

2018-02-19

●うーん、下のリンクのテキストに出て来るハーマンの読みはちょっと違うと思うんだけど…。ぼくはニコラ・ブリオーには興味がないので、このテキスト全体の論旨について言う事はなにもないのだけど、ハーマンについて書かれた部分が、ぼくが読んでいる(解釈している)ハーマンとあまりに違うので、それについてちょっと書いてみる。「人新世におけるアート」は可能か?:ニコラ・ブリオー、あるいはグレアム・ハーマンの「無関係性の美学」(沢山遼)。

http://ga.geidai.ac.jp/indepth/special-lecture-report-ryo-sawayama-on-bourriaud/

《しかしながら、オブジェクト志向存在論においては、「関係」こそまっさきに切断されるべきものである。とりわけ近年の実在論者のなかで、関係概念からの脱却の姿勢をもっとも激しく打ち出しているのは、オブジェクト志向存在論標榜するグレアム・ハーマン著述である。ハーマンはメイヤスーの相関主義批判を引き受けつつ、従来の哲学において、人間に関係する限りにおいてオブジェクト肯定されてきたという点を強く批判している。ハーマンはそれに対し、オブジェクトの人間からの切り離しを行う。オブジェクトは個体としてわれわれから自立し、撤退し、引きこもっている。オブジェクトは、人間なしで、人間とは無関係に実在する。さらにハーマンは、オブジェクトは人間と関係しないばかりか、オブジェクト相互も違いに触れ合うことなく孤立しているのであり、宇宙のなかでは、ほかのあらゆるものといっさい関係することのないオブジェクトすら存在するだろうと言う。ハーマンはそれを「眠れるオブジェクト」「夢見るオブジェクト」と呼ぶ。すなわちハーマンにとってオブジェクトとは徹底して隔絶的なものである。オブジェクトは人間なし、関係なしで自らを他から隠退する。これはブリオーが示す、人新世においてはあらゆるオブジェクトが外的存在者との関係に向けて自らを「提示」するという立場と180度異なるものであると言ってよい。ゆえに、ブリオー/ハーマンにとってそれは、美学上の争点となりうる問題である。》

ハーマンはそんなにオブジェクトの「切断」ばかりを強調しているわけじゃない。むしろ、上方解体によっても、下方解体によっても、解体(還元)できないものがオブジェクトだと言っている感じの方が強いと思うのだけど。

これだと、なんのために「実在的オブジェクト」「実在的性質」「感覚的オブジェクト」「感覚的性質」という四つの対象を出して相互の関係を考えているのか、意味が分からなくなってしまう。ハーマンの主張は決して実在的対象の脱去(退隠)のみを強調するものでなく、オブジェクト(対象)を基本単位として、その四つの局面である四方対象同士のペアの10種類の組み合わせ、その関係・間接的関係・無関係によって、世界のあり様を説明するのが主眼と思われる。人間中心主義的ではないというのは、人間的(生命的)主体「だけ」が感覚する(感覚的オブジェクトを通じて間接的に関係する)というわけではない、物もまた、人間(生命)とはまったく無関係なところで、別の物と、感覚的オブジェクトを通じて間接的に(間接的に「のみ」)関係している、という意味だとぼくは解釈しているのだけど。

ある実在的オブジェクトは、感覚的オブジェクトとの真率な出会いを通じて、別の実在的オブジェクト(の一面であり翻訳でしかないものだとしても)と、間接的、代替的に出会う(何者とも出会わないオブジェクトもありえるとも言っているが、すべてのオブジェクトが何者にも出会わないわけではない)。そして、その「出会い(関係)」そのものが、出会われた両者から脱去(退隠)して、また新たな「実在的オブジェクト」となる。オブジェクトは汲み尽くせない、引きこもっているということと、互いに完全に無関係ということとは違う。感覚的な領域で間接的に関係していて、その関係(相互作用)は実在的な領域も変化させる。ハーマンは『四方対象』で実際に次のように書いている。

《どんな関係も直ちに新しい一つの対象を生みだすものである》(P181)

《私が木を知覚するとき、この感覚的対象と私は、私の心のなかでお互いに出会っているわけではない。理由は単純で、私の心とその対象は志向という働きにおける二つの対等なパートナーであり、それらを統一する項はその双方をともに含んでいなければならないからである。心が部分であると同時に全体であることは不可能である。その代わりに、心とその対象はともにより大きな何かに包括される。すなわち、両者はいずれも、私と実在的な木との関係を通じて形成される対象に内に存在する》(P179〜180)。

●ちなみに、上のリンクのテキストを読むことによって知ることのできる範囲で判断するならば、ニコラ・ブリオーの立場は、ハーマンが「上方解体」といって批判するような態度に近いように思われる。ハーマンは別に上方解体的に「関係」を分析することそのものを批判しているわけじゃなくて、オブジェクトが上方解体によって解体され尽くしてしまうことはない(オブジェクトは、上に解体しても下に還元しても、フラクタル的に入れ子になったまま自律的に存続しつづける)、と言っているので、意見は食い違うが、別に180度違うということでもないと思う。ハーマンは「関係」を完全に否定しているわけではない。ハーマンと上方解体的ないわゆるネットワーク主義(フラットな存在論)との違いは、ハーマンが「実在的オブジェクト(脱去)」と「感覚的オブジェクト(現前)」とを分けているという点であって、「関係」を否定しているという点ではない。だから、そこにあるのは関係主義と非関係主義という対立ではないはず。

ハーマンが「Art Without Relations」で批判している「関係している状態」とは、アートにおける関係主義プロセス主義文脈主義(つまり「上方解体」主義)であって---これはエリー・デューリングが「ロマン主義」として批判しているものとほぼ同じだと思われる---それに対してハーマンは作品(オブジェクト)として、上方解体的なネットワーク文脈から自律した「芸術の内容を超えた深さ」を評価すべきだと主張しているように読める。

このテキストでハーマンは、リテラリズム(関係性)と演劇性(非関係性)との両者をまとめて批判するフリード(「芸術と客体性」)に対し、リテラル性への批判は妥当だとしながら、それが演劇性への個人的な反感とないまぜになってしまっていると書いている。

(英語力に自信がなく、人の訳に頼っているのがアレなのだけど…。)

《[フリードの否定する]リテラルの呼び名は「関係性」である。なぜなら、両者はモノの諸効果を可能にする隠れた内側のリアリティよりも、モノの外側の諸効果に言及するからだ。同様に、[同じくフリードの否定する]演劇的の別の名前は「非-関係性」である。何故なら、劇場とは観察のための場所ではなく、むしろ、同情や恐怖、演技の為の場所だからだ。その場所で、私達は、描かれている何かを観察するのではない。そうでなく、イラストレーターとしてよりもむしろ、役者としての意味において、ミメーシス(感染)を通じて、描かれたものになるのだ。》

《(…)フリードがリテラリズム無しの芸術を求めたという点においては正しいが、人間を単純化した行為者としてのみとらえたという点において誤っている。芸術作品はどのような仕方で鑑賞者と遭遇したかを超えて、深みをもっていなければならない。しかし、人間は単に鑑賞者であるだけでなく、同時に芸術作品そのものの共働の構成要素なのである。》

《(…)世界の構成要素として、私たちはリテラリストでもなければパラフレーズもしないのだ。なぜなら、ここにおいて、ダイヤモンドやレンガが他の対象を生みだすのと同様に、私たちは社会を、軍隊を、芸術作品を産みだす諸部分だからである。》(上妻世海・訳)

これは、先に『四方対象』から引用した「私」と「木」との関係とパラレルであると思われる。つまり《芸術作品はどのような仕方で鑑賞者と遭遇したかを超えて、深みをもっていなければならない》というのは、「木」は、「私」が木を観ていようといまいと、どんな形で観られようと、実在的オブジェクトそれ自身として「(魅惑を放射する)深み」をもってありつづけるように、芸術作品もそうでなければならないということだろう。そして、《人間は単に鑑賞者であるだけでなく、同時に芸術作品そのものの共働の構成要素なのである》というのは、「実在的な私」が、「感覚的な木」に魅了され、それと真率に向き合う時、(感覚的な木を介してなされる)「実在的な私」と「実在的な木」との間接的・部分的・翻訳的な関係が生まれ、両者の関係が第三項としてのあらたな「オブジェクト」をつくりだす---そしてそれは「木」自身からも「私」自身からも自律し、退隠(脱去)する---ということとパラレルであると読める。

繰り返すが、ここで「非-関係」とは非-上方解体主義のことであり、感覚的な魅惑を媒介とする私(観者)と作品との「関係」は否定されていないどころか、その関係からこそ(自律したオブジェクトとしての「作品自身」「私自身」とは別の)あらたな「オブジェクト(=独自の深さをもつ芸術作品)」が創発される、と言っているように読める。その時、「私(観者)」もまた芸術作品(オブジェクト)を構成する要素の一部であり、「私(観者)」は演劇における《役者としての意味において、ミメーシス(感染)を通じて、描かれたものになるのだ》、と。関係性の美学と異なるのは、ここで観者自身もその構成要素であるあらたな関係=オブジェクト創発させるものが、あくまでそれ自身で自律した作品=オブジェクトのもつ「深さ(そこから放出される魅惑)」である、という点だろうと思う(プロセスとかコンセプトとかたんなるアーカイブではなく)。

(ハーマンは、軍隊EU中国政府も「オブジェクト」だと言っている。これらあきらかに「多」からなるものがたんなる「関係」と異なって「オブジェクト」と言えるのは、そこにある種の同一性---上方にも解体されず下方にも還元されない脱去する「一」性---が一定期間持続してあると言えるからだ。)

ハーマンのこのような立場は、沢山遼ハーマンについて書くような《人間なし、関係なしの美学》というのとは、かなり違うようにぼくには思われる。

2018-02-18

●夢のなかで余命いくばくもないと診断をされ、自分に残された時間が少ししかないのに、毎日学校に通っているなどまったく無意味で無駄な時間だと思い、まず、すぐさま高校を辞めようと思うのだけど、考えてみれば、というか、考えてみるまでもなく、高校などもう三十年も前に卒業しているではないかと気づき、一体なぜ、自分は今でも高校に通っているなどと勘違いをしていたのかと、自分に呆れるのだった。

東京国立近代美術館の前を通りかかったので、前に熊谷守一展を観に来た時に買いたいと思って買い逃していたポストカードを買おうと思ってミュージアムショップに入るのだけど、僕が欲しいと思っていた絵が印刷されたものは既に売り切れで、仕方なく何も買わずにショップの外に出ると、今まで何度も来ていたのに気が付かなかった地下庭園へおりていく階段があることに気づき(実際にはそんなものはないです)、階段を下っていくと、四角く区切られ、上方は外に向かって開いているその地下空間にだけ、まだ多量の雪が残っていて、シャーベット状になっているとはいえ地面を完全に埋め尽くすほどに厚く積もり、真っ白な空間が広がっていて、多くの人がそれを感嘆とともに眺めていた。子供ははしゃいで雪の上を走り回り、若者たちのグループは、こんなに寒いにもかかわらず、地下庭園の中央にある、海のように波立つほどに深くて広い池のなかで水浸しになってまで興奮してはしゃいでいるのだった。

しばらくそれを眺めているのだが、すぐに寒さを感じて戻ろうと思う。

地下にあるこの場所まで、何の苦も無く階段を下ってきたというのに、いざ昇ろうとすると、階段の一段が高すぎて、ようやく上の段に足をかけることができても、そこから這い上がるだけの体力がなく、たった一つ上の段へと昇り切ることすらも出来ず、その前に疲れ果て、力尽きてしまう。何度か試みるのだが、昇れそうな気がまったくしない。自分はもう、こんなにも体力がなくなってしまったのかと途方に暮れていると、階段の隅の方が車いす用のスロープになっていることに気づき、そこからなら、なだらかな坂になっているから昇れるだろうと思った。しかし、そのスロープの脇には警備員が立っていて、その上、鉄でできた頑丈な門があって閉じられている。警備員は、ここは要人専用なのであなたをお通しするわけにはいきませんと言って、通してくれないのだ。ぼくはもうそれ以上説得を試みる体力も気力もなく、ただ疲れ果てて、多くの人々がはしゃぎまわる声を聞きながら、まったく戻れそうな気がしない上方を見上げ、空を眺めることしかできなかった、という夢を見た。

2018-02-17

●グレアム・ハーマンオブジェクトへの道」(「現代思想2018年1月号)は、『四方対象』や「代替因果について」で書かれていることの要約みたいな内容なのだなあと思って読んでいると、最後のところに、いわゆる「虚構的なもの」の存在について、とてもおもしろいことが書かれていて、やはりハーマンはおもしろい、と思った。

たとえば、ラトゥールやブライアントにおいて「実在すること」とは、他の何かに「影響をおよぼすこと」であり、つまり「実在性」と「影響力」とは互いに交換可能な語(同義)である、と。しかし、ハーマンは、ただ「実在する」だけで他の何ものにも影響を及ぼさない(世界を素通りする)「眠れるオブジェクト」の実在を認める。そして逆に、実在的ではないにもかかわらず、なにかしらの影響を他に与える事物がある、ということも主張する。

ハーマンはラトゥールなどの立場を「フラットな存在論」と呼ぶ。

《たとえば中国政府は、男子生徒がノートに描いた棒人間よりもおおくの事物に働きかけるのであって、すべてのものがひとしい力を有するわけではない。とはいえ、その棒人間でさえも、ぽっかりと空いた非存在的な穴などではなく、かすかではあれなんらかの情緒的反響を少年の心にもたらすのだから、すべてのものは等しく実在的である。(…)初期ラトゥールにとって、すべてのアクターはひとしくアクターなのである。》

棒人間ポパイラブクラフト怪物もみな、だれかの気分に対してであれ、映画館や書店の売り上げに対してであれ、なんらかのものに多少なりとも影響をおよぼすだろう。それゆえに、あらゆるものがひとしく実在的となるのだ。》

●しかし、ハーマンはこのような「インフレ状態におちいった宇宙」を認めることになるフラットな存在論を、「実在的オブジェクト」と「感覚的オブジェクト」との違いを設けることによって避けることができる。他のなにかに影響を与える事物はたんに「感覚的オブジェクト」であり、それがそのまま「実在的オブジェクト」と結びつく(実在の根拠になる)とは限らない、ということになる。

しかし、だからといって、実在的イメージと偽のイメージとを峻別しようとする(「実在警察」であるような)思弁的実在論のエピステモロジー派(ブラシエ、メイヤスー)とは違うともいう。

《ここでいうエピステモロジーとは、軽信的なキリスト教徒錬金術師、ラトゥール主義者たちの誤りを指摘して、世界を科学にとって安全なものにする方法を意味している。(…)エピステモロジー派の暗く曇った目からすれば、あるイメージは実在的であり、またあるイメージは偽となる。これに対してわたしは、たんにすべてのイメージが偽であると考える》。

《思弁的実在論のエピステモロジー派は、たとえそれを「科学的」イメージと呼ぶことに同意したとしても、じっさいにはイメージ以外のなにものでもないような無数のオブジェクトに対して実在性を認めるのだが、これに対してわたしの立場だけが、感覚的なものと実在的なものを混同することが決してないからである。》

そもそもわたしたちのイメージが、なにかと「一致する」ことなどないのだ。暗闇へと退隠する実在的オブジェクトに対して、なんらかの同型的な類似性をもつことはできない。すべては虚構である。あるいは、ラトゥールのことばをもちいれば、すべては翻訳である。》

●しかし、「すべては翻訳」であるからといって、これは「相対主義」ではない。翻訳には、よい翻訳もわるい翻訳もあるからだ、と。そして「翻訳のよしあし」には、実在→翻訳という方向だけではなく、翻訳→実在という方向の、遡行的なはたらきかけの可能性という問題があるのだ、と。わるい翻訳においては、遡行的はたらきかけの可能性が低くなる。この、「遡行的はたらきかけ」の問題(この点で「科学」の高い有用性は否定されないだろう)があるので、あらゆる感覚的オブジェクトが、そのまま実在的オブジェクトとのつながりを持つわけではないということもいえるのだ、と。

《それが相対主義ではないのは、じっさいに翻訳のよしあしが存在するからだ。また、それが徹底した実在論であるのは、実在的オブジェクトを真剣にとらえ、それをどんな概念的モデルによっても置き換えることのできないものとみなすからである》。

《すべての実在的オブジェクトが翻訳へと変換されうるのだとして、問題は、どのような場合において、翻訳は実在に対して遡行的に働きかけることができるのか、ということである。》

●そして、これが一番おもしろいのだが、虚構的なもの(感覚的オブジェクトではあっても、実在的オブジェクトとのつながりのない事物)も、そのイメージから退隠する「実在的性質」はもっているのだ、とする点だ。これは、感覚的オブジェクトは必然的に、感覚的性質と同時に実在的性質をもつ、というところから帰結される。つまり、虚構的存在は、実在はしないが実在的なもの(汲み尽くせない何かをもつもの)ではある、ということになる。これはフィクション論としても重要だし、とてもおもしろい。

わたしたちがなにか適当な怪物を考えだしたとしても、それだけではただちに実在的オブジェクトを生みだしたことにはならない。ところが、実在的性質であれば、そうするだけでただちに生みだしたことになるのだ。》

わたしたちは[ユニコーンやドラゴンといった]精神のうちの虚構的存在にかんして、なにがそれらの決定的な特徴であり、「形相」をなしているのかを、けっして正確に述べることはできない。そうした特徴は直接的なアクセスから退隠してしまい、どんなに分析や解釈をくわえたとしても、それを超え出てしまう。まさにこの事実こそが、こうした特徴を---それが非実在事物(たんなる感覚的オブジェクト)に属するのだとしても---実在的にするのである。》

2018-02-16

幽体離脱の「実例」について知りたくて、図書館でその手の本を何冊か借りてきて、今、『臨死体験』(立花隆)をパラパラと見ているのだけど、そこに、ロバート・A・モンローという人の話が出てくる。

この人は、四二歳の時に突然、体外離脱の経験をした。そして彼はこの体験を楽しみ、自分で様々な実験を試み(つまり、体外離脱意識的に何度も試してみて)、それだけでなく、私費を投じて「モンロー応用科学研究所」という体外離脱専門の研究所までつくってしまった人らしい。そして、ほとんど誰にでも体外離脱体験させられる方法を開発したと主張し、『魂の体外旅行』という著書を出したり、セミナーを行ったりしているということらしい(『臨死体験』という本は94年---地下鉄サリン事件によってオカルト的な想像力が徹底的に抑圧されるようになる、その前の年だ---に出版されていて、現在の感覚からするとかなり怪しい研究や実験もまともに取り上げていたりするという意味で「時代の違い」を感じさせる本だともいえる)。このモンローという人が、今、どうしているのかは分からない(もしかすると「その筋」では有名な人なのかもしれない)。

その方法とは、左右の耳にそれぞれ異なった周波数の刺激を与えることで、「頭は覚醒し、体は眠っている」状態をつくることだという。ヘミ・シンク=大脳半球同調と呼ばれるこの手法で、モンローは特許も取り、これを利用したリラクゼーションCDや、ゴルフのイメージトレーニングのためのCDを発売してもいるという、現世的で商魂逞しい感じもかなりある人だ(これはあくまで94年時点での情報)。そして、この「頭は覚醒し、体は眠っている」体外離脱の前段階の状態を「フォーカス10」と呼び、そこから「ちょっとしたコツ」をつかめば体外離脱は可能になると主張している、と。

《コツというのは、たとえば、“寝返り法”といって、肉体の内部で寝返りを打つようにすると、肉体をそこにそのまま残したまま内部の自分が回転するようにして、肉体から離れることができるという。》

これを読んで、小鷹研究室の「重力反転」の装置を思い出した(下の動画では10:28あたりから)。

https://www.youtube.com/watch?v=nw_frQ_A6VY&feature=share

https://twitter.com/kenrikodaka/status/955405064486641665

この、モンローという人がどの程度怪しい人なのか、そうでないのかは分からないが、横たわった状態での重力反転(の起りやすさ)が、幽体離脱の引き金、あるいは、人にそのような状態を起こさせる基底的な何かしらの条件、と、深くかかわっているという小鷹さんの考えの信憑性は、この事例と照らし合わせてもかなり高いのではないかと思った。

臨死体験』には、このモンローという人の本を読んで実際に試してみた人の話も出てくる。児童文学者のさとうまきこさんという人は、若い頃から度々「金縛り」にあい、それに対してとても強い恐怖を感じていた、と。しかし、後にニューエイジ思想系の本などを読むようになり、金縛りは必ずしもネガティブなものではないのではないかと思うようになる。そして、モンローの本も読み、金縛りの状態の時に「寝返り法」を試してみた、と。

《意識の中で半転してみましたところ、パラリと離れたのです。私はこれを『アジのひらき』になると、自分流に友人に説明しています。一度このコツを覚えると、あとはいつでも『ひらき』になれるようになりました。しかしやはり、前触れとして、金縛り→体の振動がなければ不可能です。だから、モンロー氏のように、いつでもOKというわけにはいきません。》

●『臨死体験』に、いきなりウィリアム・ジェームズの名前が出てきてちょっと驚いた。この本では超常現象と言われるようなものもかなり真面目に取り上げているのだけど、コリン・ウィルソンが、超常現象の「証明」にかんする「ウィリアム・ジェームズの法則」というものを語っている。これ、ちょっと面白い。

《これはウィリアム・ジェームズ(…)がいったことなんですが、どうも、超常現象の証明というのは、本質的にそういう限界をもっているんじゃないか。なぜそうなのか理由はわからないけど、超常現象を信じたい人には信じるに十分な証拠が出る一方、信じたくない人には否定するに十分な曖昧さが残る。ちょうどそういうレベルの証拠しか出ないのが超常現象であると。これを我々はウィリアム・ジェームズの法則といっています。》

この『臨死体験』という本は、臨死体験(あるいは超常現象)は、脳が見せるイリュージョンであるという説と、客観的に「あの世」が存在し、その一端に実際に触れた体験なのだという説とが、どちらも等しい比率で、どちらにも偏りなく検討されている。おそらく、現在、大衆的な読み物としてこのような本が書かれるならば、それは科学的な実在論に基づき(つまり「超常現象を信じたくない人」の側にたち)、八割から九割を「脳によるイリュージョン」説として説明し、しかし、それでは説明し切れない余剰がまだある(故に、あの世や輪廻が絶対ないとは言い切れない)、という形に納めるのがバランス的に「常識的」だろうと思われる。それは、九十年代前半と現在との「科学(科学的実在論)」というものの(科学やテクノロジーの進歩に伴う)社会的な地位の変化と、それに伴う一般的な死生観の変化を示しているように思われる。

●それにしても、幽体離脱なども含む「臨死体験」をした人のほとんどが「死への恐怖」がなくなる、というのはとても興味深い。

●(余談だけど、95年以降に大衆文化サブカルにおいてオカルト想像力が徹底して抑圧されたことと、九十年代後半のJホラーブームとは何かしら関係があるのではないか。抑圧されたオカルト的なものは、ホラーという別物になって回帰した、みたいな感じで。同じく「霊的(スピリチュアル)」なものを扱うとしても、オカルトは、科学(疑似科学)によってそれを体系づけ、それによって世界を説明しようとするが、ホラーはそれをあくまで現象としてのみ扱い、幽霊や呪いに科学的根拠はなく---理論的に深追いはされず---除霊は特殊能力=個人的才能であり、対処療法(民間療法)なので、体系化されないし世界を説明する原理にはならない。故に、オカルトは集団的に信仰され---オウムのように---(反)社会的な勢力となり得るが、ホラーは個人的な生活圏内---感情、近い人間関係、土地---に留まり、社会的に影響力のある---求心力のある---大きな集団へとは発展しにくい---ようにみえる。ローカルな土地を越える「呪い」の広範囲な伝播も、現象の伝播であり、世界の説明原理---思想---の伝播を伴わない。オカルトは「世界(言説)」を問題にするが、ホラーは「世界(言説)」を問題にしない。だから、90年代後半にオカルトは許されなかったが、ホラーならば許された、と。)

(オカルトが社会的なものと積極的にかかわるというより、社会的なものとの関係を「上手く遮断できない(必然的に巻き込み、巻き込まれてしまう)」という方が正確なのだろう。ホラーは、社会を上手く---適切に---遮断することができる。ホラー的出来事が、せいぜい「刑事事件」程度の社会的巻込みしかもたないのに対し、オカルト的な妄想は、国家的秘密組織やFBIの陰謀、歴史の修正などというところに絡んでいく。)

(Jホラー的な新しさ---『リング』や『呪怨』的な新しさ---は、「呪い」を特定の人間関係地縁的因果から引き離して---コピー可能なビデオテープや無個性な建売住宅、あるいは「学校」という平均化された共通体験の場などを媒介として---果てしなく伝播するものへと開いたところにあるように思われる。この「呪い」の「地縁的因果性(貞子の誕生)」と「因果を超えた伝播性(呪いのビデオ)」の関係は、ヴィヴェイロスの言う「強度的出自」と「悪魔的縁組」との関係とパラレルと言えるかも。)

(『邪願霊』が88年、「ほんとうにあった怖い話」が91年。この辺りがオリジナルなものとしてのJホラー---後に小中理論と言われるようなもの---のはじまりであり、ジャンルの黎明期としてある。そして、96年の『女優霊』でJホラーの本格的な盛り上がりがはじまり、99年の『リング』呪怨』でピークとなる。)

(しかし、Jホラーの代表的な作家の一人である高橋洋---『女優霊』も『リング』も脚本は高橋洋---は、実はオカルト想像力の人なのだと思う。『恐怖』は、マッドサイエンティストが「霊的進化」という世界の革命を目指す話でもあり、周りに信者とも言える人々を配している。例えば、対して『CURE』の萩原聖人は、あくまで特異的な個である。黒沢的なマッドサイエンティスト孤立しているが、高橋的なマッドサイエンティスト的=パラノイア的な妄想は、社会的なもの、集団的なもの、「世界(言説)」的なものを巻込み、そこにかかわらざるを得ない。例えば『血を吸う宇宙』や『狂気の海』など。『リング2』で貞子の呪いは、霊媒師の力というより、(疑似)科学的な装置=理屈によって消去される。)

(追記。これは高橋洋批判しているわけではないです。だからこそ---むしろ最近では黒沢清よりも---高橋洋に強い関心をもっている、ということです。オカルト危険物であるが、人間の想像力(あるいは理性)はそれを避けることはできないと考えていて、故に、常にきわきわでそこに触れていて面白いのだ、と。)

(追記2。さらに言えば、ぼくはここで、小鷹さんの研究とオカルトを結び付けたい、結びつき得る、と考えているわけではないです。そういう風に感じられるかもしれない話題の並びになってしまったかもしれないけど、そういうことではありません。ここではたんに「横たわった状態での重力反転の起りやすさ」が幽体離脱体験と深くかかわるという小鷹さんの仮説との関連性を指摘したいだけです。研究者にとって、安易にオカルトと結びつけられるのは迷惑以外のなにものでもないと思われるので、念のために書いておきます。)

2018-02-15

●お知らせ。2月16日づけ、東京新聞の夕刊に、東京国立近代美術館の「熊谷守一 生きるよろこび」展についての美術評が掲載される予定です。クマガイの小さなサイズの作品ではスケール感の底が抜けているということについて書きました。

●「レトロ未来」を再読した。「スーパータイム」を読んだ後だと、さらに面白い。以下、エリー・デューリング「レトロ未来」(新村一宏・訳「表象メディア研究」第5号)より、引用、メモ。

●まず、ベルクソンの要約

《私はこのテーゼベルクソン哲学を参照しながら形づくりました。(…)ベルクソンによれば、知覚が弱まっていき、アーカイブ痕跡の形になって場所を譲ってから記憶が形成される、ということはありえません。記憶は直ちに、知覚と同時に形成されるのです。そうでなければ、記憶はいつ形成されるのか、分からなくなってしまいます。思い出された記憶は、常に、我々の現在の生のエピソードです。それは、我々が現在に形成する、過去のイメージだからです。しかし、純粋な記憶は、まるごと過去の要素に属します。純粋な記憶を求めるのであれば、それが存在している純粋過去の領域に一挙に身を置かねばなりません。》

《(…)我々の記憶の経験がそこに通じている純粋過去は、イメージがびっしり書き込まれたノートでもなければ、我々の今までの人生のアーカイブでもありません。(…)純粋過去は、直接的に過去なのです。純粋過去は、最初から過去として形成され、この意味で現在と過去は共存しています。同時に、記憶は知覚が過ぎ去るのを待つ、ということもありません。記憶と知覚は同時だからです。記憶は知覚の弱まった反響ではありません。むしろ、記憶は知覚の鏡に映った像であり、潜在的分身なのです。各瞬間に、知覚は現在と過去に、知覚と記憶に分裂し二重化しています。時間とは、この分裂そのものなのです。》

●以上をふまえての、展開。

《過去が過ぎ去った現在に属するのではないならば、過去が現在の枯れた外皮や時間の流れの残留物以外のものであるならば、過去が本当に現在であったことがないのであれば、同じことが未来にも言えるはずです。未来は一種独自の、固有の存在様態を享受しています。未来は、待機状態の、現実となることを待っている現在ではないのです。また、未来は、こうなるだろうという単なる現在の表象でもありません。たとえ未来が決して現在に現実化することがなくとも、未来は完全に、少なくとも何らかの様態ですでに存在しています。その様態こそがレトロ未来なのです。》

《この未来は、非現実ということとは全く異なります。現時点からすでに、この未来は過去から見た未来として活動しており、我々が「未来」と呼んでいる現在から見た未来は、過去の未来によって培われているのです。そうすると、未来は過去の沈殿物にすぎないのかもしれません。》

《(…)未来は我々の前に、未踏の領域として広がっているのではありません。未来は、現働化を待っている可能性としての現在よりも前にあるのでもなければ、その可能性の実現として現在より後にあるのでもありません。未来と現在は、まったく同時なのです。それは、過去の未来によって開かれた展望です。》

《未来がすでにここにあるのなら、それは、そもそも今なおあるのであり、過去の時代から解放されたポテンシャルの集合として、未来は現在に存在し続けているからだ、と。》

●「未来」の存在様態について。

《未来存在は、それを目指す意識の中に宙づりにされているのではありません。それはある確実さ、固有の存在論的濃密さを持っています。(…)主体が自らの観察点から前を向くというような、表象や意識の状態という、未来は我々の中にあるというイメージをすてればよい。》

《未来の存在様態、それは過去から見た未来なのです。そしてこのレトロ未来は、存在しない時間、並行世界、偽なる別の歴史に、必然的に関係しています。》

《(…)本当に存在する唯一の未来は、我々の現在のただ中、もしくはその周辺に存在する、過去から見た未来、レトロ未来なのです。もう少し正確に言いましょう。レトロ未来はとりわけ過去に属しているのではない、まさに今、活動しているのです。それは痕跡や残像ではない。それは存在であり、他のあらゆる存在と同じように、現働化の切っ先を通じて自らを現働化し行為の中に自らを表す力に応じて、様々な程度で存在しているのです。》

《レトロ未来の存在様態は、この意味では、記憶の存在様態によく似ています。すなわち、記憶は、意識の中のスクリーンに投影された劇のようにしてイメージの中に現働化するのではない。記憶は、イメージに凝結したり固定化する前は、ぼんやりとした、純粋過去の要素と考えられる、不確かな存在なのです。》

《(…)レトロ未来の存在様態は、ポテンシャル、子供に与えられた可能性や才能に似ています。このポテンシャルはすべて実現するわけではありません。》

《レトロ未来とは、潜在的な諸々の未来なのです。そういうわけで、その活動性はたいていは目立たず、知覚が難しく、ほとんど幻影のようなものなのです。》

《様々なレトロ未来は、雲や光のかさのような形状を帯び、過去から発した光のように、霧のように我々にまでとどくことになるのです。》

●レトロ未来の再活性化、生成

《(…)生成が何かしら積極的で、あるいは真に創造的なものを内包しているのなら、次のような単純な考えは放棄すべきでしょう。それは、過去は現在として存在した後に過去になる、という考えと、現在が未来を現実化する、という考えです。むしろ、未来が描かれていく現在のただ中における、無数の過去から見た未来の共存を、考察すべきでしょう。》

《こうした未来は、それをどう再活性化するかという方法に応じて、様々な程度で確かに存在するでしょう。再活性化とは、現在のもつれを構成し、ある意味では動的瞬間を決定づける、時間のモンタージュを進めることです。これが、過去の未来は「潜在的」未来という意味です。「潜在的」とは、「現実ではない」ということではありません。すなわち、過去から見た未来とは、実現されなかった、もしくは実現を待っている可能性、ということではないのです。そうではなく、ベルクソンの表現でいう「動的図式」であり、どんな表象やイメージも汲み尽くすことのできない、完全には発展していないイメージもしくはイメージの束なのです。》

《タチの映画(『プレイタイム』)で印象的なものは、彼が打ち立てる二つの回路と、関係づけられたものの間に設定される識別不可能な関係性です。過去から未来へと向かう運動と、未来から過去へと向かう運動、つまり、未来の過去化と過去の未来化という、二つの運動が存在しています。しかしこの二つは、まったく違った方向のように見えて、実は一つなのです。同じことになりますが、こうした運動は、我々の歴史にしるしを与える、過去、現在、未来という時間の平面の慣れ親しんだ並びを混乱させるという固有性を持った現象の効果にすぎないかもしれません。こうしたことが、その典型的な実現例を通してみたレトロ未来の方法です。》

ポラロイドインスタグラムによるインスタント・ヴィンテージ、過去から見られた未来としての現在(この括りの最後の引用、超重要)。

《(…)インスタグラムの効果は、一瞬のうちにタイムカプセル代用品や、現在の疑似アーカイブを作り出すことにあります。インスタント・ヴィンテージ(即席の年代物)とでも呼べるでしょう。昔のポラロイドも、アナログな方法で、現在の記憶を写真的に組み込むすべを獲得していました。しかし、インスタグラムは、バルトの言う「プンクトゥム」を直に鈍らせました、正確に言うと、プンクトゥムの鋭さを削り、しるしのない時間の中に漂わせることになったのです。確かにかつて存在していたが、写っているイメージはもはや過ぎ去ってしまったのだという写真に固有の情緒は、現在に張り付きながら現在を肥大化させる、ぼやけて不確かな持続の中で弱まっています。まさに、記憶の曖昧さではなく、知覚の等価物において瞬間的に姿を変える現在を、その独特な構造によってポラロイドは実現したのです。ぼかしや、過去の色彩、彩度、多量露光の効果などのことです。不可逆的ということからは程遠く、記憶の明確化の過程に関しては、あらゆるものは一挙に、即席のタイムカプセルとして与えられます。》

インスタグラムは、写真の「かつてあった」もしくはその前未来への置き換えである「これからもあるだろう」という特徴を、「今あった」というある種の現在の半過去に置き換えてしまいます。》

《デジタルメディアの魔法によって実現されたことは、一種潜在的未来によって二重化された現在による、時間のかすかな交換であり、錬金術のような不思議な転換です。イメージの色合いは、未来としての我々の現在を対象とするフィクション的時間をひらきます。より正確に言うなら、過去の色合いや好みをいまだに保存しているはずのその過去の未来としての我々を対象とし、過去を我々に向けることができ、過去の要素を直接支えとする、未来化の運動によるレトロ未来です。》

《それはもはや、過去として見られた現在(現在の半過去)ではありません。それは未来として見られた現在、我々の時代のただ中に存在し続け、奇妙に入り込んでくる何かしらの過去から見られた未来としての現在です。》

《(…)インスタグラムの疑似ヴィンテージも、未来の一般的形式の中の過去の弱まった残像や反響としての現在の把握の印象的な実例を提供していることになるでしょう。そうして、現在の先取りないし投影、現在のただ中の現在の未来の反響が、ベルクソン風に言えば知覚とまったく同時である現在の記憶が、存在しているはずなのです。来たるべきものとしてとらえるなら、現在は知覚の対象でもあると同時に、予感の対象でもあることになります。現在は、予感されると同時に生きられ、生きられるものとして予感され、投影されると同時に生成するのですが、いわば、我々の背中に、過ぎ去った時間の光のように投影されるのです。》

ジュール・ヴェルヌ(過去の世代)と、後ろから照らされるレトロ未来。

《もちろん、過去の世代は、彼らにとっての現在の光の下に未来を思い描いていたのであり、今日では過ぎ去ってしまった現在のしるしをそこに強く刻み込んだのです。未来は存在しない以上、他に何ができたでしょう?》

《(…)注意すべきことは、こうした未来の想像図を参照する際、ノスタルジックな、もしくは皮肉な仕方、あるいはコレクションやアーカイブの幾分フェティシズム的仕方によるほかはない、という我々の現在の無力さです。》

《当時、ヴェルヌはただひたすら幻想的でした。彼は、彼自身の未来にとりつかれた現在を演出したのです。それゆえ、問題は、ノスタルジックな回顧とは全くちがったやり方で、その当時の時間の弧を我々が感じることができるのか、つまり、当時はまだ潜在的で、その時の現在とほとんど見分けのつかない未来の線にすぎなかった歴史の回路を、我々の現在のただ中まで延長して混ぜ合わせ、感じることができるのか、ということにあります。》

《我々の背中に、それはまず未来である過去として投影されているのです。ただし、この過去は、生き生きとしたものであり、未来の前という閉じた地平をはみだします。ここで問題になっている未来は、その起源において我々の後ろにあるのです。その未来は我々より先にあり、その行先はまさに我々かいる現在なのです。》

《本当に同時代的で、創造的ポテンシャルを秘めているレトロフューチャリズムは、未来としての自分自身のイメージを生みだすことのできる現在として、また同時に過去のイメージを生みだすことのできるものとして、際立っています。その過去はレトロ未来に含まれるものであり、レトロ未来が必然的にこれに遅れるのは、レトロ未来は過去よりも遠くから来たのであり、あらゆる世代によって作られ、我々が知らずに受け継いだ過去、我々の現在はそれにとっては投影白昼夢のようであるけれど密かに作動している過去に、このレトロ未来は関連するからです。》

2018-02-14

2018年2月14日という、今日。


f:id:furuyatoshihiro:20180215012905j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180215012858j:image

2018-02-13

2018年2月13日という、今日。


f:id:furuyatoshihiro:20180215011851j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180215011847j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180215011842j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180215011838j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180215011833j:image

2018-02-12

●『夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明)をDVDで観た。パクチーが苦手な人がパクチーを食べられない、というのと似たような意味で、ぼくは湯浅政明の作品が苦手だ(パクチーは苦手じゃないけど)。キャラの造形や動かし方から、色彩の感覚、演出上の誇張やデフォルメの仕方、あるいはそもそも作品の傾向など、そのどれもを受け入れ難いと感じて、引いてしまう。

ただ、人が「生理的に受けつけない」という時の生理的感覚は、けっこう相対的で可変的だと思っている。子供の頃は、カリフラワータケノコが苦手だったが、今では美味しく食べることができる。そもそも、ぼくはアニメが嫌いだった。「萌え絵」や「声優的発声」を気持ち悪いとさえ感じていた。それが、「ウテナ」に出会って認識が変わり、認識が変わることで、アニメ的な表現の面白さが少しずつ分かってくるようになった。

(「惚れた相手」によって「好みのタイプ」が変わることもよくあることだ。)

だから、何年かに一度くらいは、ひょっとしたら今ならば「湯浅政明的なものの良さ」の一端でも感じられるようになっているのではないか、そのヒントくらいは掴めるのではないかと、試しに『マインド・ゲーム』や『カイバ』などを観てみる(さすがに、新作を積極的に追っかけようとまではあまり思わないのだが)。だけど今のところ、苦手意識はなくなっていない。

(「作品」というものにかんして言えば、たんに退屈や無関心---つまらないと感じる---ではなく、何か積極的に「嫌だ」と感じる時、その原因は、嫌な対象の側にあるというより、むしろ自分の側---のコンプレックスや嫉妬、囚われや臆見など---にあることが少なくないということを、後から感じることはよくある。「人のふり見てわがふり直せ」ではないが、「人のふり」からそれを感じることも多い。それに、人が根強く支持する作品や作家には---全面的肯定することは出来ない場合や、批判的であらざるを得ないという場合でも---どこかに面白いところ、興味深いところがあるはずだ、とも思っている。)

今回は、レンタル店の店頭に新作が同時に二タイトル並び、『デビルマン』なども話題になっているタイミンクでもあるので、ここでもう一回試してみようと思ってその一本を借りた。

しかし、今回もダメだった。チューニングを合せようと努力してみたが、どうしても面白いと思えなかったし(いろんなところでいちいち「いや、これはないでしょ」と思ってひっかかってしまう)、観ている間じゅう、けっこう辛かった。リアリティを感じる軸のようなものが、ぼくとかなり違うのだろうし、そして、ぼくはその在り処を上手く探り当てられない。

湯浅政明という作家との(あり得るかもしれない)「出会い」は、また改めて次の機会に、ということだ。

2018-02-11

●飲み会に参加しているのだけど、どうしようもなく眠くて耐えられず、居酒屋の座敷の隅に丸まって、ざわざわしている参加者の話を夢うつつで聞いているような感じでうとうとしている。参加者のうちの一人が、その飲み会にとても参加したがっていたのだけど用事でどうしても参加できなかった人と、携帯電話でなにやら熱心に話し込んでいる。どうしようもなく眠くてうとうとしているのも自分で、携帯電話の向こうで参加者の一人と熱心に話し込んでいるもの自分だ、という夢をみた。

(夢のなかで眠っている人の夢のなかにいる自分が、夢のなかで飲み会に参加している人と、携帯電話を通じて話していて、それを、夢のなかで眠っている人=自分が、半ば眠りつつ聞いている、という感じ。)

●記録篇:からだは戦場だよ 2018 (小鷹研究室)。この動画で、この日記の1月27日から29日に書いたことの感じがけっこう分かると思う(ELASTIC ARM ILLUSIONは、PC不具合のため、ぼくは体験できませんでしたが)。

https://www.youtube.com/watch?v=nw_frQ_A6VY&feature=share

2018-02-10

横須賀美術館で、青山義雄の回顧展がはじまるのか。横浜から京急線浦賀、そしてバス、というのはかなり遠い感じだけど。今、関東地方では、熊谷守一と青山義雄の両者の絵が、どちらもまとまって観られるというのは、すごいことだ。

https://bijutsutecho.com/news/11630/

http://www.yokosuka-moa.jp/index.html

2016年茅ヶ崎市美術館であった青山義雄展について書いたレビューを、ここに再録しておきます。初出は、2016年4月22日の東京新聞、夕刊です。

 油絵の古典技法を完成させたフランドル派の画家は、白く明るい下地の上に半透明の絵具の層を計画的に塗り重ねて描いた。後のベネチア派になると反対に、暗い下地の上に不透明な絵具を使って即興的に描いた。印象派以降のマネ、セザンヌマティスなどは、即興的という意味ではベネチア派に近いが、明るい下地の上に半透明の層や筆触を重ねるという意味ではフランドル派に近い。

 キャンバスの地が白いということは、絵画の奥の面が明るいということであり、半透明な絵具の層の背後から明るい光が滲み出してくることを意味する。ニース時代のマティスを連想させる初期の作「ニース風景」(一九二五年)では、薄塗りの絵具の背後からちらちら覗くクリーム色のキャンバス地によって、空から降り注ぎ大気中に散らばる光を捉えることに成功している。青山は、この時期に既に西洋絵画における光や色彩の表現の勘所を掴んでいる。

 一般に、油絵の独特な深みをもった色彩は、複雑な半透明の層のなかでの光の屈折に依るところが大きい。混ぜられ過ぎた絵具は鮮やかさを失うが、塗り重ねるならば色を濁らせないことが可能だ。暗くても澄んだ、光を感じさせる色を出すこともできる。本展は主に、一九五二年の二度目の渡仏以降の作品で構成されている。半透明な筆触の集積によって深く澄んだ光と色彩を画面じゅうに充満させ、影の部分すら光に満ちているような独自の表現を深化させる過程を観ることができる。「ルノアールの庭」(一九九〇年)や「ヴェニス夕景」(一九九二年)で光の密度は頂点に達する。

 屋外の光と色彩を描きつづけた画家は最晩年に花瓶の花の連作を描いた。光や色が大気中で開放的に跳ね回るような作品が、物の内側からじわりと光が放出されている印象に変わる。色彩の豊かさは変わらないものの、ぞくっとする妖しさや内省性が感じられるようになる。「ルノアールの庭」や「花」の連作が描かれた百歳前後の時期が、画家のキャリアを通じて最も脂がのっていると感じるのだが、これは驚嘆すべきことではないか。

 青山は、朋友の梅原龍三郎、同時期に在仏した藤田嗣治らに比べ知名度が高いとは言えないが、日本近代美術史再考を促すほどに充実した作品群であると思われた。

2018-02-09

●さまざまなメディアやジャンルにおいて「〜にしか出来ないことは何か」みたいな問題設定をときどきみられるけど、そのような問題の立て方は、間違いではないとしても、あまり面白くない(あるいは、それだけでは足りない)と思う。

もちろん、各々のメディウムには、それぞれ固有の問題(条件)があり、それぞれ固有の歴史(来歴)がある。鳥は空を飛ぶし、魚は水のなかを泳ぐ。いきなり、鳥を水に沈め、魚を宙に放っても、死んでしまうだけだ。鳥は空のなかでこそ鳥なのであり、魚は水のなかでこそ魚なのであり、このような条件(限定)をそう簡単に外せないという問題は、忘れられるべきではないだろう

(ここを簡単に忘れてしまう人が多い、というのもまた事実なのだけど。)

しかし、重要なのは、鳥にしか飛べないことは何か、魚にしか泳げないことは何か、ということではない。鳥は、魚が泳ぐように飛ぶし、魚は、鳥が飛ぶように泳ぐ。鳥は、水を泳ぐ魚を内包し、空においてそれを実現し、魚は、空を飛ぶ鳥を内包し、それを水のなかで実現する。そこで交換されているものは何なのか、そのような交換はどのように可能なのを問うことの方が、有意義で興味深いことであるように思う。

(メディウムスペシフィック的な主張は、しばしば社会派---社会反映論的な作品評価、あるいは政治運動としてのアート---への対抗言説として、芸術の自律性を主張するものとしてあり、一定の意味をもったという過去が確かにあることは認めるべきだが、現在では、問題の布置そのものが変化していると思われる。)


f:id:furuyatoshihiro:20180211014603j:image

2018-02-08

●昨日は渋谷ユーロスペースで『わたしたちの家』(清原惟)も観た。

ふつうにシネフィル的映画ともいえて(リヴェットを「そのまんま」使いすぎと思う場面もいくつかあった)、新鮮な驚きというか「新しい人が出てきた」感はあまりなかったのだけど、非常に上手く作り上げられている作品で、その「上手くつくられている」という感じも単純ではなく、過去の様々な作品の様々な要素をジグソーパズルのように隙なく上手く組み上げている(勿論それだけではなく、場面ごとに様々な「発明」もあるとも思う)、その計算された構築性への感心と、それとは別に、何かじわじわくる感じとの両方がある感じ。前者にかんしては、すごくよく出来ているけどそこまで驚くほどではないとも思えるのだけど、そこには収まらない「じわじわ感」もあって、おそらく後者の方がこの作家に固有のものなのだろうと感じた。

この「じわじわくる感じ」に無理やり名前をつけるとすると、おそらく「頑固さ」なのではないか、と。この監督には、自分にとって動かすことのできない実現すべき「ある匂い」「ある調性」「ある肌触り」のようなものが明確にあって、それにかんしては頑として譲らない感じ、というのがあるのではないか。誤解されるかもしれない言い方をあえてすると、「自分の趣味(質感)」にかんして、明確な基準となるような一線があって(それはある種、絶対音感みたいなものなのかもしれない)、それを決して譲らないという強固な感じ。たとえて言えば、(内容とか表現的なものというのではなく)高野文子の作品から感じられる「頑固さ」、あるいは大貫妙子の音楽から感じられる「頑固さ」に近いような、そういう感じの頑固さを感じた。一般的な用法とは大きくズレるかもしれないし、もしかしたらセクシストだと非難されるかもしれないのだが、このような「頑固さ」を「ガーリー」な感じと呼びたい。

ぼくはこの映画では、非常に高度な空間にかんする構築性であるよりも、ガーリーな頑固さとでも言える「じわじわ感」の方により強く反応した。たとえば、ファッションと言うより、布の感触や、布を裁断したりある立体的な形に組み立てたりしたものへの強いこだわり、あるいはそれを身の回りに置くことや身に着けることへの強いこだわりが感じられ(いつの間にか---おそらく---芹沢げ陲のれんが壁にかかっていたりするし、玉のれんが水色の布のものにかわっていたりする)、これもまたリヴェットの「セリーヌジュリー…」などから来ているとも言えるのだろうけど、リヴェットから触発されたにしても、それがリヴェットを引用したということとはまったく異なる表情や効果を生んでいると思った。で、この感じはフェティシズムともちょっと違うので(フェティシズムというより、空間性というか、身体のあり様や行為との関係性と結びついたものとして、物の触感へのこだわりが生まれている感じ、たとえばあのガラスの花瓶のフォルムのなんともいえない「もっさり感」が、家の空間全体に広がる様々な布たちの「調子」にすごく干渉してくる、みたいな感じ)、その感じを無理やりに、質感への「ガーリーな頑固さ」とか言ってみているのだが。

「家」の空間へのアプローチも、「布」の空間性へのアプローチの延長として現れている場面が、より面白く感じられた。

しかしこの作品での頑固さの感触は未だ、たとえば高野文子でいうと「田辺のつる」や「玄関」、大貫妙子でいうと「いつも通り」や「蜃気楼の街」くらいの段階にあると思われ、今後ますます、観客を戸惑わせ、さらには引かせるくらいまでの頑固さへと進展してゆくような気がする(というか、期待する)。

●一つの同じ家に、二つの相容れない空間が重なり合っている。一方には、(おそらく失踪したのであろう)父の記憶に固執する少女がいて、もう一方には、記憶をまったくなくした女性がいる。記憶に固執する少女には、父の記憶から離れて新たなパートナーと結ばれようとしている母がペアとなって同居し、記憶のない女性には、謎の組織と謎のつながりのある得体のしれない(隠されたものとしての「秘密」をもった)同年代の女性がペアとなって同居する(この後者の関係があまりにリヴェット的すぎるのだが)。前者のペアでは、不在の父が記憶として共有され、後者のペアでは、「記憶」も「秘密」も隠されていて共有されない(しかし、「洋服」や子供服を繕う「手仕事」は共有されてゆく)。二つのペアを包む一つの家であり、同時に相容れない並立空間でもあるものは、しかし、微かに響いているようでもある。

記憶のある/ないAと、Aを扶養する立場にあるBが同居する家がある。A-B関係(A、Bはどちらも女性)の容れ物としての家に、一方ではBが、もう一方ではAが、第三者としての男性Cを呼び込むことになる。BまたはAによって招かれた男性Cは、招いた方ではないAまたはBにとっては招かざる嫌な客である。このように形式化すると、二つのペアの有り様はきっちり対称的であるといえる。そして、招かれざる客である双方のC(一方は、Cによって家に持ち込まれたガラスの花瓶であるのだが)が、接触-衝突するという出来事が、並立し分離した二つの空間を衝突させる。だから、空間の並立性を破るのはそこに住む二人の関係の外から入り込んだ第三者である。

(そしてこの第三者同士の衝突は、双方のCを対消滅させるかのように働き、家は再び安定的に並立化されたAとBの空間に戻ったかのようだ。)

(関係ないけど、一方の空間からもう一方へ移動した「プレゼントの箱」は、リンチの『マルホランド・ドライブ』っぽい。)

解釈の多義性への開き方も含めて、このような発想・アイデア・形式それ自体は、現代においてある種の作品に日常的にふれている人であれば思いつくであろうという意味で、面白いけど、驚くほどのものでもないと思う(たとえば、この映画をつくった人が『残響』や『カンバセイション・ピース』を読んだことがないはずがない、と思わせるくらいには、着想のレベルで保坂さんの小説を感じさせてしまう---実際に読んでいるかどうかは知らないが、保坂和志の読者ならそう感じると思う)。二つの空間の接触のさせ方も、その結末も、想定の範囲内と言える。優等生的な感じ、みたいなものも感じられないことはない。

しかし、この作品をすぐれたものにしているのは、何といっても実際に「あの家」を見つけだした、というところにあると思う。というか、たまたま面白い空間を見つけたからそこでロケしたというのではなく、監督が、自分がつくりたい映画のために、あの家の空間を一から設計したかのようにみえるように撮っている、という風にみえる、というところが、この映画のすぐれたところなのではないか。

(「あの家」の空間がすばらしいという点で、文句をつける人はほとんどいないだろう。)

●音で一番気になったのは、最初の方にある、海辺を二人の少女が制服で歩いている場面。波の音が、近くの波と、遠くの波とで、二重に重ねられている(音の聞こえてくる位置がズレている)。もしかすると「遠くの波」に聴こえたのはたんに風のうねりなのかもしれないのだけど、二重化された波の音(のように聴こえたこと)によって、浜辺にいる時に感じる海の広さを、ほかの映画では感じたことがないような感覚で感じられた。ここで聴こえる「遠くの波」は、船の上にいるもう一人の女性が聴いているものかもしれないのだが。

2018-02-07

●久々に都心に出て、いろいろ観た。

国立近代美術館の熊谷守一展の充実には圧倒された。とにかく作品がたくさんあって、今まで(図版などでも)観たことがないものもかなりあった。初期から中期の作品からは、クマガイの試行錯誤の感じがかなり強く伝わってきて、ドキドキするというか、手に汗握るという感じで観た。まるでルドンみたいな絵があったのが意外だった。1935年から40年くらいの時期に数枚あった、クマガイにしては珍しい薄塗りの風景画が、その後のブレイクスルーに繋がる決定的なきっかけになっているように感じられた。50年以降の作品は、ただひたすら、恐ろしいほどに冴え冴えとしている。70歳を過ぎてからのブレイクというのはセザンヌよりも遅咲きだ。あと、作品のサイズ(一貫した小ささ)というのがすごく重要だということを改めて思った。

(ただ---啓蒙的というよりは---過剰に誘導的なキャプションの文章についてはやや疑問に感じた。)

ピカソマティス以降の美術の流れは大ざっぱにみて三つに分岐したように思う。(1)最終的にアメリカ型(グリーンバーグ的)フォーマリズムで極端化されるような、メディウム純化(自己言及性)への方向、(2)デュシャン的な、網膜的絵画の否定、コンセプチュアリズム、(3)シュルレアリスム的な---無意識やオートマティズム、不純な媒介物などを介した---イメージのメディウム横断性や可塑性の強調。(2)と(3)は近代絵画の否定であり、ピカソマティス継承したのは(1)のみであろう。

でも、(1)と(3)は、メディウムとイメージのどちらに優位を置くのかという意味で相補的であり、(2)はその両者への批判であるとも言える。だから、現在では(2)からの展開が最も幅を利かせている。そして、(1)による継承は、あまりに偏った---極端な方向に振れた---継承であったために、近代絵画的な流れは進化の袋小路に入った末に、現在では事実上消滅してしまったとさえいえる感じになっている(それと入れ替わるようにポップな資本主義的、記号的イメージが出現する)。しかし、熊谷守一の晩年の作品は、近代絵画継承、展開しながらも、(1)とは異なる方向性があることをはっきり示しているし、また、その具体的な実践でもあると思う。

(これはあくまできわめて雑な分類であり、たとえば「じゃあラウシェンバーグは何処に位置するの?」と問われると困ってしまう---(2)と(3)の両者から太いつながりがあり、でも(1)からの細い繋がりもある、という感じか---というくらいのものだ。)

ピカソマティスが追求した、絵画が2Dであるからこそ4D的でありえるという側面(4D的な空間性)を継承したのは、実は絵画を否定した(2)のデュシャンの方であり(デュシャン絵画---視覚性---とは違った形でそれを追求した)、アメリカ型フォーマリズムもシュルレアリスムも、その点(視覚的空間の複雑性)ではピカソマティスより明らかに後退してしまっているとぼくは思う。ここには奇妙なねじれがあるのだが、ここでねじれないで、そのまま受け継いで絵画によってピカソマティスがやったことよりも先に行こうとしたのが、最晩年の熊谷守一であるように、ぼくには思われる。

(あくまで雑なまとめ方でしかないのだが)アメリカ型フォーマリズムは「地」にこだわりすぎ(「図」の通俗性、不純性を排除しようとしすぎ)、シュルレアリスムは「図」(のもつ横断的な力)にこだわりすぎたために、地と図とが常に不可分であることそのものを通じて二次元であることの超三次元性を追求していたピカソマティスよりも後退したのだとぼくは思うのだが、クマガイはその不可分性や課題を忘れる(手放す)ことがなかったと思う。

(アメリカ型フォーマリズムが、図と地の不可分性をメディウムスぺシフィック---純粋な場=メディウムそのものの提示---へと翻訳-還元してしまったのは、グリーンバーグカント主義---感性の先験的形式の重視---のためだと思われる。対して---美術における---シュルレアリスムは、イメージ(図)の文脈・支持体(地)への依存性を軽くみすぎてしまっていたのかもしれない。繰り返すが、これはすごく雑なまとめだ。)

((1)(2)(3)のすべてと何かしらのつながりがあるという意味で、ラウシェンバーグピカソマティスから後退しているわけではない、ともいえる。)

イメージの横断性は「図」の横断性というだけではなく、ある「地と図の関係」における「図」が、まったく別の「図と地の関係」における「図」へと転生することであろう。そこに、ピカソマティスやクマガイ絵画が「具象」であることの意味がある。それは例えば、「具象的イメージ(何かを描くこと)」の項に「固有性」を代入して考えれば、(1月17日、18日の日記で書いた)『カラマーゾフの兄弟』においてあらわれる、「イリューシャ-ジューチカ-スメルジャコフ」という三者の関係のなかで(イリューシャにとって)失われた「ジューチカ」という固有性が、「イリューシャ-ペレズヴォン-コーリャ」という新たな三者関係の成立によって、「ジューチカ=ペレズヴォン」として「復活する」、といった出来事と同値であるようにも思われる。具象的イメージ(描かれる出来事)は、ジューチカ=ペレズヴォンという形で絵画のなかに転生(再生)する。

その時、イメージ(類似性)はその転生を媒介するものとして働くか、あるいは、その転生の結果として、イメージの「同一性」が事後的に生まれる、と考えられるのではないか。

デュシャン絵画を捨てたが、クマガイ絵画というメディアのコンパクトなありようが(作品の小ささによってスケール感の底が抜けることが)、そのようなことに---イメージを捨てることなく、イメージにおける図と地の不可分性とその転生性、そして二次元であることの超三次元性---ついて考えるのに有効だと思っていたのではないか。

2018-02-06

●おお、ドノソの『夜のみだらな鳥』が水声社の「フィクションのエル・ドラード」シリーズから出るのか。新訳ではないのだろうけど。

http://www.suiseisha.net/blog/?p=8211

ぼくの持っている「集英社・世界の文学」版は、高校生くらいの時に古本屋で500円くらいで買ったやつ。八十年代から九十年代にかけて、「世界の文学」シリーズはどの古本屋にもごろごろあって(というか、その時代は古本屋がほんとにたくさんあった)、かなり粗末に扱われて、100円から500円くらいの値段で売られていたと記憶している。でも、ドノソの巻はなかなかなかった。だから、買えたのは、たまに神田にも行けるようになった浪人時代か、大学に入ってからだったかもしれない。この小説の存在は、ニューアカ・ブームの時に栗本慎一郎上杉清文などが絶賛していたので十代の中頃から知っていたから、記憶が捏造されているかも。ボルヘスガルシア=マルケスが表ラテンアメリカ文学だとしたら、ドノソは裏ラテンアメリカ文学というイメージで、激レアな感じだった(あくまで、当時の日本の文脈では…、というか、当時のぼくの頭のなかでは…、という意味でだけど)。

●メモ。「自然科学における数学の理不尽なまでの有効性について」(ユージン・ウィグナー)1959年5月11日、ニューヨーク大学におけるリチャード・クーラント記念数理科学講演

http://ch.nicovideo.jp/niconicoffee/blomaga/ar1125915

第一の点は、〈数学の概念は、まったく予想外のさまざまな文脈のなかに登場してくる〉ということ。しかも、予想もしなかった文脈に、予想もしなかったほどぴったりと当てはまって、正確に現象を記述してくれることが多いのだ。

第二の点は、予想外の文脈に現れるということと、そしてまた、数学がこれほど役立つ理由を私たちが理解していないことのせいで、〈数学の概念を駆使して、なにか一つの理論が定式化できたとしても、それが唯一の適切な理論なのかどうかを、私たちは知ることができない〉ということ。いうなれば、私たちはこんな立場にいる。ある人が、一束の鍵を手渡されて、幾つものドアを次々と開けてゆく。すると、いつも一つ目か二つ目の鍵でドアが開いてしまう。 はたして、鍵とドアの組み合わせは一意的に対応しているのかどうか、疑わしく思うようになってしまうのだ。》

第一の点は、〈数学自然科学のなかで、ほとんど神秘的 mysterious なまでに、途方もなく役立っているのだが、そのことには何の合理的説明もない〉ということ。第二の点は、〈数学の概念の、まさにこの奇怪な有用性 uncanny useflness のせいで、物理学の理論の一意性 uniqueness が疑わしく思えてしまう〉ということ。》

●「訳者より」より。

《タイトルと問いと結論が一緒です。「物理学の法則を定式化するさいに、数学という言語が適切であること。この奇跡は、私たちの理解を超え、また私たちには分不相応な、素晴らしい贈り物である」。

したがって、この論文の趣旨は、この奇跡の輪郭をできるだけ具体的になぞってゆくところにあります。数学がなぜこれほど役に立つのかは、あくまで「 unreasonable = un〔否定〕+ reason根拠、理性、妥当性〕+ able〔適する〕=理由がない、人間の理解力を超えている、桁外れである」にとどまります。そしてそれゆえに、物理学の一意性への疑いも晴れません。

ウィグナーはこの奇跡に〈認識論経験則〉という名前を与えます。数学によって自然法則を定式化すると、なぜかそれが適切であり正確であるという奇跡が繰り返し何度も起きるということ。この経験則への信頼がなければ、今日の物理学はありえなかったし、また今後も前進しえない、と。》

●再び本文より。数学は本来、「現実」などとは無関係(そんなものはまったく考慮せずに)につくられている。にもかかわらず、「理不尽なまでに」自然法則の記述にかんして有用である。なぜか分からないが「自然の法則は、数学という言語で書かれている」のだ、と。

《マイケル・ポラニーは『個人的知識』(シカゴ大学出版、1958年、p.188)で、こう述べている。「数学の最も明白な特徴を認めることなしに数学を定義する、などということはできない。それなのに、我々がそこから目を背けているせいで、こうした困難〔「数学とは何か」を定義することの難しさ〕の全てが生じている。数学の最も明白な特徴とは、面白い interesting ということである」》

《もっと高度な数学的概念になってくると、そのほとんど――複素数、環、線形演算子、ボレル集合などなど、ほぼ無限に列挙できるけれども――は、数学者が、自分の独創性 ingenuity と、形式の美しさへの感性 sense of formal beauty を誇示するため、具合のよい題材となるように考案したものなのである。もっと言えば、そういう高度な概念の定義をするときにこそ、それを考えた数学者独創性が、まず最初に実演されている。〈こういうふうに定義すると、面白くて独創的な考察をいろいろと適用してゆくことができる〉と理解して定義しているのだから。》

《私たちが〔現実の世界で〕経験することのなかには、複素数などという量を登場させるようなものは全然ないことは間違いない。むしろ、もし数学者の誰かに、「複素数なんて、どこが面白いんですか?」と尋ねたりしたら、その数学者は少々憤慨して、〔現実への適用例ではなく、〕〈方程式論 the theory of equations 〉や〈べき級数 power series 〉、そして〈解析関数 analytic functions の全般〉といった分野における、たくさんの美しい定理を挙げることだろう。それらはみな、複素数の登場によって生まれたのだから。数学の天才たちが成し遂げた、最高に美しい業績の数々。数学者なら、これを面白く思わないはずがないのだ。》

数学は、道具として以上の、至高の役割をも、物理学のなかで演じている。それは、応用数学の役割について論じるなかで、〈自然法則が、応用数学適用できる対象であるのは、そもそも数学という言語によって定式化されているからである〉と述べたときに、すでに前提されていたことである。〔すなわち、数学の至高の役割とは、〕〈自然の法則は、数学という言語で書かれている〉という〔ことであり、この〕言明は、300年も前に正当に述べられている(ガリレオの言葉とされている)。この言明は今日、かつてないほど正しさを増しているのである。》

2018-02-05

●昨日、「Quantum-Like Bayesian Networks for Modeling Decision Making.」という論文について、早稲田の学生の安部くんからレクチャーを受けた。

https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2016.00011/full

残念ながら、ぼくにはこの論文で結果を導出する数学的な過程について充分に理解できないのだけど、ここで描かれることは非常に興味深い。

いわゆる「囚人のジレンマ」において、(古典的確率論による)理論値と実験によって得られる実測値が著しくズレてしまうという問題がある。ここで重要なのは、たんに理論的な予測の精度というだけのことではない。「囚人のジレンマ」実験の実測値においては、古典的論理(確率論)では前提とされている「当然原理」が破れてしまう。つまり、それを認めるということは、(前提が崩れるということだから)人間の意思決定に関することがらについては、古典的確率論(古典的論理)によっては決して説明できない(それが使えない)現象がある、ということになってしまうということだ。

しかし、量子的な確率論を用いることで、実測値により近い結果が得られる。光子の二重スリット実験にみられるように、古典的確率と量子的確率の違いは、「干渉」の有無によって生まれる(光子を一個ずつ飛ばしても「干渉」の効果があらわれる)。量子的確率を考えるということは、当然原理における「A」または「非A」という排他的状況だけではなく、「Aかつ非A」という重ね合わせによる干渉も合わせて考えることになる。量子的(Quantum-Like)確率を使うことで、その干渉(重ね合わせ・複素数)の効果により、「当然原理」の破れ(当然原理は「当然」ではない)を説明できる、と。

●いくつかの前提についての説明。(1)当然原理について。当然原理とは次のような原理のこと。まず、Aという出来事が起きるか起きないかという排他的な状態がある。そして、行為者(意志決定者)がとりうる排他的選択肢がxとyと、二通りあるとする。このとき「事象Aが起きた時に、行為者が選択肢yよりもxを好み、かつ、事象Aが起きなかった時にも、同様にyよりもxを好む」とする。だとすれば、行為者は、Aが起きているか起きていないかという世界に対する情報を知らない場合にも、選択肢yよりもxを好むべきである、というものだ。これが「べき」という規範的な言い方になっているのは、もし行為者が合理的であるとすれば、当然そうすべきだと考えるということだろう。

わたしが、晴れた(雨でない)日でも雨の日でも、朝食にはご飯よりパンを好むとしたら、今日が晴れか雨かを知らなくても、同様に朝食にはご飯よりもパンを好むはずだ、というようなこと。

社会科学関連の分野において、この「当然原理」は、ベイズ的な主観確率論やゲーム理論における「非支配戦略の消去」によってナッシュ均衡を求める際に用いられている。すなわち、当然原理が(記述理論として)成立していない場合には、ベイズ的な主観確率論(やそれを用いたベイズ意思決定論)や、ゲーム理論におけるナッシュ均衡が、記述的妥当性を持たない、ということになる。》

《(…)通常の意思決定理論や確率論が記述的に妥当であることを仮定している社会科学諸分野の理論(ゲーム理論新古典派経済学の理論など)によっては決して予測できない社会現象が存在するということである。》

上の引用は、「量子意思決定論における合理性」(高橋泰城)より

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/46/2/46_17/_pdf

●(2)囚人のジレンマについて(以下の二つの例はどちらも、「社会」というもののモデルの最小単位として「二人」の総合的な幸福度が問題とされている)。

AとBとが共謀して窃盗を行って警察に捕まったとする。二人は別々に尋問される。二人には「黙秘」と「自白」という二つの選択肢がある。二人とも黙秘した場合、警察は証拠不十分で二人を釈放しなければならない。そして、二人とも自白した場合は、通常の罰が与えられる。ここで、一方が自白し、他方が黙秘した場合、自白した者には情報料として報酬が支払われた上に釈放され、他方にはより重い罰が与えられる、とする。この場合、どのように行動するのがもっとも「合理的」であるのか。

Aにとっての「都合の良さ」のグラデーションは、「Aのみ自白で報酬+釈放>二人とも黙秘で釈放>二人とも自白で通常の罰>Bのみ自白で自分は重刑」という順番になる。Bにとっては、「Bのみ自白で報酬+釈放>二人とも黙秘で釈放>二人とも自白で通常の罰>Aのみ自白で自分だけ重刑」となる。ここで、二人にとって(二人合わせた場合)の幸福の最大値は「二人とも黙秘で釈放」である。しかし、二人が事前に申し合わせができないとき、一方が「黙秘」を選択した場合は、「釈放(二番目に良い)」か「重刑(四番目に良い=最悪)」が、半分の確率でやってくる。そして「自白」を選択した場合は、「報酬+釈放(一番良い)」か「通常の罰(三番目に良い)」が、半分の確率でやってくることになる。ここで利己的、かつ合理的(確率的)に考えるならば、「自白」を選択する方がよいことになる。さらに、相手もまた、利己的で合理的主体だと考えるならば当然「自白」してくると考えられるので、「黙秘」という選択をすることができなくなる。

つまり、二人ともが「合理的主体」であることによって、二人にとっての最も良い選択(二人とも協調して黙秘して釈放)をすることが不可能になってしまう。

これと似た話に、センによる自由主義パラドックスがある。政府からの給付金にかかわりのあるブルーとレッドの二人がいるとする。ブルーは、(1)二人とも給付金を受け取ることを望み、(2)それが不可能ならばどちらか一方だけでも受け取ることができることを望み、(3)一方だけしか受け取れないとしたら、給付金をより必要としているレッドが受け取るべきだと考えている。つまり、現実にあり得る四つの状態のなかでのブルーの優先順位は、「二人とも受け取る>レッドのみ受け取る>ブルーのみ受け取る>二人とも受け取れない(=今となにも変わらない)」、となる。

一方レッドの方は、(1)給付金(施し)を受け取るべきでないと考えていて、(2)もしどちらかが施しを受けなければならないとしたら、ブルーが堕落してしまわないために自分が受け取るべきだと考える。だからレッドの考えによる優先順位は、「二人とも受け取らない(=なにもしない)>レッドのみ受け取る>ブルーのみ受け取る>二人とも受け取る」、となる。この場合、意見の異なる両者の主張のもっともよい一致点は、どちらにとっても二番目に良い状態の「レッドのみが受け取る」ということになる。

しかし、二人の主体的選択を個別に尊重するとどうなるか。この場合、受給の有無の選択は「自分にとって」のものだけになり、一方の選択によって他方に受給を強制しない形にしなければ「個人自由」が成り立たない。そうである場合の選択肢は「自分のみが受給される」か「二人とも受給されない(政府はなにもしない)」の二者択一になる。すると、あり得る四つの状態のなかで選択肢が二つに絞られることになる。

ブルーにとっての選択肢は、「ブルーのみ受け取る>二人とも受け取らない(なにもしない)」となり、レッドにとっては「二人とも受け取らない(なにもしない)>レッドのみ受け取る」となる。そして、二人の優先順位を比べた結果として「ブルーのみが受け取る」というところに落ち着いてしまう。これは、四つのあり得る状態の優先順位としては、二人のどちらにとっても三番目なので、「個人主体的選択」を尊重することによって、どちらにとってもより優先順位の低い(納得のいかない)社会的選択が行われてしまうことになる、というパラドクスだ。

以上のように、「囚人のジレンマ」や「自由主義パラドックス」によって、個人による主体的合理的選択の積み重ねによってでは、社会全体としての利益の最大化につながらないという問題が提起されている。

(自由パラドックスの例は、「量子で囚人を解き放つ」(筒井泉)「日経サイエンス」2013年03号より)

●(3)「囚人のパラドックス」×「当然原理」。囚人のパラドックスのような状況をつくって実験した結果の数値が、当然原理によって予測される状態と食い違ってしまうこと。

囚人のパラドックスに関する五つの実験が過去にある。シェイファー(1992年)、クロソン(1999年)、リー(2002年)、バスメイヤー(2006年)、ヒリストヴァ(2008年)、それぞれによるもの。これらのどの実験の結果も、五つの実験の数値を平均したものも、すべてが当然原理と食い違ってしまっている。

実験では、囚人のパラドックスのような場面において、以下の三つの異なる状況で人々(被験者)がどのように振る舞うのかの確率をみている。(1)相手が「自白」したという情報を得た場合にどうするか、(2)相手が黙秘したという情報を得た場合にどうするのか、(3)相手がどちらを選択したのかが分からない状況でどうするのか。

(1)の場合でも、(2)の場合でも、かなり高い確率(五つの実験の平均で七割から八割)で、人々は「自白」するという選択をした。相手が「黙秘」したと知っても、自白の確率はわずかしか低下しない(相手の「黙秘」を知ることで、協調して「黙秘」とする人は極めて少ない)。これは、Aという状況でも、非Aという状況でも、人々は変わりなく同じ好みを示したという、当然原理の前提に当てはまる。

ならば、(3)の情報のない場合でも、同じ程度で自白を選択する人の割合が高いという結果がでるはずであろう。しかし実際の数値では、(1)と(2)の確率を平均したものよりも、情報がない状況では、自白する人が平均して15%以上低くなっている(その分だけ、相手に対する協力や信頼の度合いが上がっている、とも言える)。

ちなみに、五つの実験の平均値は、(1)相手が自白したと知らされた場合、87パーセントが自白し、(2)相手が黙秘したと知らされた場合でも74パーセントが自白した。この二つの結果を「古典的な確率論」によって計算すると、情報が知らされていない場合の自白の確率は80.5パーセントになるはずだ(理論値)。しかし実験の結果、情報がない場合の自白の確率は64パーセントであった(理論値のエラー率は25.78パーセント)。

この場合、非自白=黙秘であり、自白と黙秘以外の第三の状況はない。にもかかわらず、ここで「情報がない」という状況が、人々の行為の判断に明らかに影響を与えていると、実測的数値が示している。このような状態は、古典的な意味での合理性(確率論)では説明できない。つまり、《通常の意思決定理論や確率論が記述的に妥当であることを仮定している社会科学諸分野の理論(ゲーム理論新古典派経済学の理論など)によっては決して予測できない社会現象》が実際に存在する、のだ。

●以上が、前提。そして、このような状況を、量子的確率を使うことでうまく説明をつけられる、とするのがこの論文だ。ここでは、数学的な過程をすっとばして結果だけをみると(それでいいのか?)、量子的な確率論とこの論文の筆者らによるsimilarity heuristicとを用いて、(1)と(2)の実測された確率から(3)の値を予測すると、自白の確率は72.08パーセント(エラー率12.63パーセント)になる、と。実測値の平均は64パーセントなので、ズレが小さくなったとはいえ、やや微妙な数字とも言えるけど、これはあくまで五つの実験の平均値についての計算であり、個々の実験についてより正確に計算すると、エラー率はかなり下がるということも示されている。

量子的な重ね合わせが、それが観測されていないことによって成り立っているのと同様に、人間の意思決定に関する(非排中律的な)確率の重ね合わせ(干渉)もまた、相手の選択に対する「情報がない」ことによって生じる、と考えることができる。相手にかんする情報がないことによってかえって、他人を信頼する(他人と協調する)ことの出来る確率が高まる、ということになる。

高エネルギー加速器研究機構(KEK)の筒井泉は、前述した「量子で囚人を解き放つ」で次のように書いている。

量子力学原子崩壊などの物理的過程の起きる確率や物理量の測定結果を確率的に予言するものであり、数学的な枠組みとしては確率論の一種とみることができる。量子力学という名の、ある特別な確率論が存在し、それがミクロの世界を記述するのに極めて有用なのである。そしてその同じ確率論は、なぜか社会学的な意思決定の考察にも使うことができる。》

量子力学予言する確率というのは、何を表しているのだろうか。ある状態を繰り返し測定したときに見られる現象相対的な頻度を表す客観的なものだとするのが、現在の標準的な考え方である。一方で先に述べたように、量子状態とは測定者がその対象について持っている情報を表すものだとする立場もあり、そうすると測定者ごとに異なる量子状態があることになるから、その確率も、測定者によって異なる主観的なものだということになる。》

ゲーム理論意思決定における量子力学の応用は、量子力学の確率論としての数学的な枠組みに思わぬ汎用性があることを示している。ここに示した応用対象は、いずれも情報の獲得(や秘匿)と確率的予言を共通の要素としている。》

●とはいえ、量子的確率によって「当然原理」の破れを受け入れるということは、古典的な論理における合理性が、必ずしも合理的とは言えないということになってしまうので、以下のような事態を受け入れるということにもなりかねないのだ。「量子意思決定論における合理性」(高橋泰城)より。

《もし、この「当然原理」が成立しないとすると、あなたが交差点を渡るかどうかという意思決定合理的に行うために、目前の信号が青かどうかという知識だけでなく、宇宙全体に関する完全な知識(銀河系の外側にある場所に見いだされる素粒子のスピンの向きや、火星に生命体が存在するかどうか、などまで含めて)を知る必要がでてきてしまう。》

2018-02-04

●一月に撮った写真、その二。


f:id:furuyatoshihiro:20180204133035j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180204133027j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180204133021j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180204133014j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180204133007j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180204132733j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180204132725j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180204132718j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180204132710j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180204132702j:image

2018-02-03

●一月に撮った写真。その一。


f:id:furuyatoshihiro:20180203132529j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180203132517j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180203132510j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180203132503j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180203132459j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180203132302j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180203132254j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180203132247j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180203132240j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180203132235j:image

2018-02-02

トルストイイワン・イリイチの死」と、カフカ「変身」を読み返していた。この二つの小説は、皆は生き、「このわたし」(だけ)が死んでいく---それを受け入れる---感触(逆に言えば、「このわたし」だけが消えて、それとはまったく無関係に皆は生きているという事実を、苦痛と混乱と憤怒と恐怖とを通り抜けた先で受け入れる感じ)、という点で、意外にも共通するものがある、というか、端的に、とても似ているように感じられる。

(イワン・イリイチが死の直前にようやく自らの死を受け入れたのと同様に、おそらくグレゴールもまた、グレゴールの死後の家族の幸福と希望を---時間的な順序を超えて---死の前に受け入れているように思われる。だから、一見残酷にみえる「変身」のラストは、グレゴールにとっての「このわたし」の死の肯定のためにあるように思う。)

追記。少し前に母の兄が亡くなって、その葬儀でぼくは、受付の裏側の目立たないところで、香典を誰からいくらもらって、合計がいくらになるかなどをその場でチェックして、計算し、記録する、会計という係をやっていた。おじさんがこの世から消えてしまったというのに、普段することもないネクタイを締めたりして、チェック漏れのないように、計算を間違えないように気を付けながら、坊さんがお経をあげている会場から離れた場所で、せわしなくお金の勘定をするなどということをしているのだなあと思い、その事実に(近い関係にある親戚だから「お金」を扱う役割になるのだけど)、他人の死の「他人事」性のようなものを感じてしまい、つまりは、「このわたしの死」はそれ以外の人にとってはどこまでも「他人事」なのだなという感情が沸いてきて、その時に連想されたのがこの二つの小説なのだった。

(たとえば、わたしにとってかけがえのない人の死は、わたしにとって大きな打撃だが、そのことと、その人自身にとっての「このわたしの死」とは切り離されている。二つの小説は、この「切り離されていること」を死ぬ側の者が受け入れる過程が書かれるとも言える。作家自身は---書いている時点では---死んだことなどないにもかかわらず! しかし、「受け入れる」ことができるということは、本当に「切り離されている」のか?、ということでもある。)

2018-02-01

●編集者と打ち合わせ。「幽体離脱の芸術論」の、最初のラフスケッチのような文章をある媒体で発表させてもらえることになった。これは、とてもありがたいことではあるけど、まだ、雲のように広がっている構想の段階でもあるので、これをある程度まとまった塊にするのはけっこう大変なことでもある(でも、こういう機会でもないと、なかなか収束させることができない)。

虚構世界はなぜ必要か?』を本にするための原稿の直しもあって、二月はちょっと忙しい(というか、余裕のない)感じになるかもしれない。

●『PARKS』(瀬田なつき)をDVDで。ものすごい傑作というわけではないにしても、とても楽しく観られた。ほとんど自分の知っている(行ったことのある)場所で撮影されている、フィクションの映画を観るのは不思議な感じでもあった。

出てくる場所の位置関係がだいたい分かると、出来事が起こる範囲があまりにも狭いところに集中し過ぎているのが、ちょっと気にはなった。井の頭公園から最も遠くても、せいぜい成蹊大学くらいではないか。

いかにも井の頭公園であり、いかにも吉祥寺の街だという風景が沢山出てくるのだけど、もうちょっと、吉祥寺の街や井の頭公園の「意外な表情」みたいな感じが拾えると、もっと良かったように思う。ちょっとしか出てこないけど、大学の先生役の佐野史郎がとてもよかった。

(井の頭公園の空間はもともと、どこをどう切っても「井の頭公園」にしかならない、という難しさがあるのだなあとは思った。)

あと、相対性理論によるエンディング曲は、なくてもよかったのではないか…、と。音楽の映画でもあるだけに、そこだけがちょっと違う、みたいな感じがした。