2024/05/26

⚫︎生きて行くためのトンチ。あらゆるものがつまらないとか、意味がないとか思ってしまわないように、自分に対して自分で変なイタズラのようなことをしてみる(変なことを考えてみる)。自分のしたこと(考えたこと)に思わず自分で笑ってしまう。芸術の制作はこのようなトンチから始まるのではないか。

(自分から、「自分にイタズラする自分」が自然に派生するようになるために、日々努力する。)

2024/05/25

⚫︎フォーマリズムは持たざる者のための思考だ、とぼくは考える。熟考された形式的思考と、思考を現実に結びつけるトンチ的な冴えがあれば、手近にあるものだけを使って何かしらの「観るに値する」ものを作ることができる(はず)。今回、6月6日から始まるOGU MAGの展示のテーマの一つというか、裏テーマに「安く作る」ということがある。

若い時は気合いも入っているし体力もある。ぼくも、大学を出てから10年くらいは、150号や100号のキャンバスに油絵の具で制作していて、毎年発表もしていた。だがその状態を続けるには、二つのルートしかない。(1)成功して作品が売れるようになること(あるいは単に経済的に豊かになること、大学に職を得るとか)。(2)バイト(賃労働)を増やして制作費を捻出すること。あからさまに(1)を狙うのは嫌だ、あるいは、狙って努力しても(1)は訪れないとすると、(2)しかない。しかし、それを続けると疲弊するし、ある時ポキッと折れたりしてしまったりする。

色々な人を見てきた。すごく旺盛に制作・活動していたのに、ある時からポキッと折れるようにやめてしまう人。才能も意欲もすごく豊かだったのに、ある時期から目に見えて「ぬるーい作品」を作るようになってしまう人。

生きて行くのは大変だし、人生には色々ある。意欲を持って制作できる環境を維持することはとても難しい。そもそも、「芸術」を信じることを続けることがまず難しい。

だから、(経済的に、あるいは状況的に)生きて行くだけで精一杯というような場面でも、そんな状況でもなお「身の回りにかき集められる素材」だけを使って、いい加減なやっつけ仕事や、あからさまにぬるくなってしまったような仕事には見えはない、「まともに観るに値するなにものか」を作るにはどうすれば良いかを考える必要がある。それが芸術(制作)の持続可能性であり、フォーマリズムはそのためにあると思っている。

(もっと緩く言えば、なんとか生きて行くことはできているが、絵の具を買うためにはバイトを追加するという負荷が必要だというときに、その「負荷」の余裕分を芸術的負荷(?)に回すために、バイトを追加するという負荷を自分にかけなくとも制作可能な何かを考える、というようなこと。)

⚫︎展示予定の作品は、8年前に吉祥寺の「百年」で展示した「人体/動き/キャラクター」シリーズの延長線上にあるものと、新しい「文房具絵画」のシリーズだ。前者の作品はそれでも、キャンバスにホルベインの油絵の具で描いていたり、ワトソンのような水彩紙に、ウィンザー&ニュートン透明水彩とか、ホルベインの100色入りアーチスト色鉛筆などで描いたりしていて、小型でコンパクトであることにより低予算であるとはいえ、画材屋さんで売っている、絵を描くためのちゃんとした素材で作っている。

しかし「文房具絵画」のシリーズは、画材屋さんではなく文房具屋さんで売っているものを素材としており、単価のレベルで値段が一桁違う。これを使ってなんとか「観るに値するなにものか」を作るということが、一つの重要なチャレンジとしてある。ただし、素材が百均の店でも買えるような「いろがみ」なので、湯水のように使うことができる。つまり試行錯誤が無限にできる。持ち運びも便利で、アトリエに行かなくても、空いた時間は常に「いろがみ」を手にして何かしら試しているということが可能だ。

それでも、文房具は文房具なので(高級品でもないし)、それを用いて「観るに値するなにものか」をつくるのは簡単ではない。2018年に『虚構世界はなぜ必要か ?』という本を出しているが、その表紙には井上実さんの作品を使わせてもらった。その時点での自分の作品は、自分の本の表紙にしたいと思うものにまでは至っていなかった。だが、今年出る『セザンヌの犬』の表紙は、自分の作品を元にしてデザインしてもらった。なんとか自分の本の表紙にしたいものになった。

2024/05/24

⚫︎『終末トレインどこへいく ? 』、6話まで。久々に観ているアニメシリーズ。1話、2話がぶっ飛んでいてすごく面白いと思ったのに対して、3話以降、エピソード部分がいまひとつ弱い感じではある。きのこ人エピソード、小人国エピソード、ゾンビエピソード(これはまだ途中)の、どれもそこまで面白くはない。特に、小人国エピソードは、女子高生が巨人化するという絵としての面白さはあるが、お話があまりにありがちというか、ちゃちというか、もうちょっと工夫が欲しいと思ってしまう。

(エピソードとエピソードの間の「つなぎ」回だった4話もとても面白かった。)

四人の女子高生の関係がちゃんと描かれているというのがいい。可愛い女の子がただわちゃわちゃしているというのではなく、かといってギスギスしているというわけでもなく、基本的として仲良しなのだが、常にどこかに小さな緊張とか軋轢とかが発生していて(特に6話ではかなり踏み込んでいる)、それがかなり繊細に捉えられている。この関係のあり方が面白い。

だから、ぶっ飛んだ設定とぶっ飛んだ背景があって(21歳になると動物になってしまうという未来が確定している女子高生、という設定は味わい深い)、その只中を池袋に向かって電車が走っていくというだけで、そこでの4人の関係性がちゃんと描かれれば、中途半端なエピソードがなくても、それだけで充分面白いのではないかと思ってしまう。たとえば、女の子の一人のお尻からきのこが生えてきて、それを引き抜いたら魂が抜けてしまった、という話は面白いけど、その原因となった「きのこ人エピソード」と、その解決のための「小人国エピソード」があまり面白くない、という感じ。

(人は、21歳になると動物になる。何になるかは事前にはわからない。姿は動物だが、心は人間のままで言葉も話せる。しかし徐々に動物の側に侵食されて行くようだ。たとえばモルモットになったら、その後、モルモットの寿命分しか生きられない。)

とはいえ、「すっごく面白い作品」であることを期待(要求)しなければ、普通に観ていて普通に楽しい。途中で嫌気がささないで、最後までちゃんと観ることができそうなアニメは久しぶりだ(『水星の魔女』以来か ? )。

⚫︎子供の頃のしずるが「アリクイと戦いたい、賢くなりたい、きのこをめっちゃ食べたい、小人を見つけたい」と言っていたが、6話までで、そのうち「きのこ」と「小人」は実現したことになる。だから、変貌した世界で、しずるがハルヒみたいな位置にあるとも考えられる。

2024/05/22

⚫︎竹内まりやの「純愛ラプソディ」という曲は割りと好きなのだが、今まで歌詞についてはほぼ意識しないで聴いていて、なんとなく他人の彼氏に片想いするような詞なのかと思っていた。しかし、ふと《とびこんだ/温もりは/他の誰かのものだけど》という言葉が耳に残って、ん、と思った。「温もり」に「とびこむ」というのは、要するに「やってる」ということだろう(愛し方何一つ知らないままで/とびこんだ…、となる)。しかもその直後に「他の誰かの〈もの〉」というけっこうえげつない言い方が続く。

そう思って改めて聞き直すと、かなりエグい歌詞のように読める。いっけん、わたしなんて地味でいつも脇役で…、みたいに遜っている風だが、実は「お前の男、寝とってやったわ」みたいな、負けて勝つ的な勝利宣言のようにも聞こえてくる。《形では愛の深さは測れない》とか言ってるし、相手の男のことを《見えぬ鎖につながれた》とさえ言っている。それにつづく、《あなたの心奪うのは/ルール違反でしょうか》という言葉には、奪おうと思えば奪えるけど、あえて奪わない(踏みとどまる)というニュアンスを強く感じさせる。自分のことを《明るいだけが取り柄》とか《脇役しかもらえなくて》と言っているが、裏腹に、歌詞のなかでは一切言及されない相手の女(男の彼女)に対する優位感(あえて奪わない「わたし」の方に主体性がある)を感じる。

あんな女と付き合っている(あんな女から離れられない)〈あなた〉は可哀想、愛の深さはわたしのが上、と、むしろ付き合ってない(「形」にとらわれない)わたしの勝ち、みたいな。もはや相手の男さえどうでもよくて、自分一人で勝利宣言しているように聞こえてくる。

(さらにもう一捻りして、そのような勝利宣言そのものが「強がり」で、つまり傷ついて精一杯強がっている、と読むこともできるが。《セリフはいつもでひとり言》。)

ドロドロしたものをドロドロしたものとして表現する人は大勢いるし、相当にドロドロしていたとしても、それはべつにそんなに怖くない。しかし、ドロドロしたものを「綺麗な風」に表現する人は、ぼくは怖い。竹内まりやは時々けっこう怖い。この「怖い」は魅了されるという意味でもある。綺麗な風だけど実は「毒」であるという多面性は、いっけんシンプルに見えるポピュラー文化だからこそ重要で、効いているように思う。

(たとえば、森高千里の詞にはこのような多面性が一切ない。この徹底した表面性=薄さ=紋切り型にはまたべつの「怖さ」を感じる。ぼくにはこちらの方がより怖い。)

純愛ラプソディ / 竹内まりや Cover by Megumi Mori 〔044〕 - YouTube

2024/05/21

⚫︎お知らせ。6月6日から、OGU MAGで個展をやります。

inunosenakaza.com

この展覧会では、8年前に吉祥寺の「百年」でやった「人体/動き/キャラクター」で展示した作品の延長線上にある作品も展示します。

前回の展示について。

note.com

前回の展示の時にやった、柴崎友香さんとのトークの記録。

www.100hyakunen.com

前回の展示の後に、永瀬恭一さんがアトリエに来てくれて、話した時の対話(音声)。

eyck.hatenablog.com

⚫︎永瀬さんとは、6月9日の14時から16時に、今回の展示の会場でトークをします。予約は埋まりましたが、ギャラリーでのトークなのでトーク中もギャラリーには出入り自由です。座れないですが話は聞けます。

また、その前日の6月8日、14時から15時に、井上実さんとトークをします。こちらは申し込めば、まだ座って聞けます。申し込みは、一番上のリンク先から。

2024/05/20

⚫︎『蛇の道』に限らず、ぼくにとっては、黒沢清の1997年と1998年の作品はすべて、それ自体で過不足なく完璧な作品なので、それを今さら本人がリメイクするという事実を、なかなか受け入れられない(別の監督がアプローチを変えて、というなら分かるが)。たとえ、リメイクされた『蛇の道』が完璧に素晴らしい作品であったとしても、この違和感はかわらない。

(90年代の黒沢清はあからさまに「男の映画」の作家だったので、男性=哀川翔と女性=柴咲コウを入れ替えたらどうなるかというコンセプト、というかチャレンジ、は、分からなくはないが…。)

(いや、柴咲コウは、哀川翔なのか、香川照之なのか。)

97年と98年に高みを極めた黒沢清が、その翌年の99年に作った凪のような作品『ニンゲン合格』と『大いなる幻影』が、ぼくはすごく好きです。