カネに執着するほど貧乏になる逆説

一年前の雑誌をめくっていたら、「言い得て妙」な解説にぶつかったので、紹介します。

 出典は、「お金と学力、その残酷な関係の行方」(内田樹刈谷剛彦の対談、「中央公論」2009年3月号)です。
 
 例の如くの内田節。賛否いずれにせよ、なかなか急所をついた論点ばかりなので、少々長くなりますが、ご紹介してみます。

 内田 刈谷さんは、1979年と97年の統計を比較し、相対的に低い階層出身者の中に、「あくせく勉強をする」ことを“降りる”ことで「自分は他人よりも優れている」と考える者が出てきた。そのことが学力の格差拡大を加速させている、という恐るべき結論を導き出しました。

 言い換えると日本社会には、学習意欲を減退させるイデオロギー装置が組み込まれているということです。

 …僕は格差は、「イデオロギー耐性の強い」上位階層と、「イデオロギー耐性の弱い」下位階層との間に発生しているんじゃないかと思っています。

 今の日本社会には「年収の多寡で人間は格付けできる」というイデオロギーが蔓延しています。60年代までは、人々は「労働」を通じて自己実現を果たしてきましたが、80年年代以降、「消費」が自己実現の場になった。どんな家に住み、どんな車に乗り、どんな服を着るのかといった消費行動、商品選択を通じて、その人のアイデンティティーが基礎づけられる。…そういう中で、イデオロギー耐性の弱い人たちは、「年収の多寡が人間を格付けする」というイデオロギーに呑み込まれてしまった。その結果、自分の社会的な不成功の理由をもっぱら「金がないこと」で説明する人たちばかりになった。

 今の日本社会で何より悲惨なのは、階層化によってもっとも苦しんでいる階層下位の人たちが、階層を強化させるイデオロギーのもっとも熱心な信者であるという逆説なのです。

 「イデオロギー耐性」というのは、懐疑精神のこと。現代日本の論争は、イデオロギー耐性の欠如した賛成派と反対派がいるだけで、懐疑派がほとんど参与できないシステムになっている。要するに、「子供のケンカ」というわけだ。

 階層上位の人の特徴は、「金がある」ことではなく、「金があるかどうか」を一次的な問題にしない、ということなのです。階層上位の人間ほど、「金だけ」では何も実現しないことを熟知している。だから、知識や技術の習得、相互扶助的な人間関係の構築などを金儲けより優先させる。その結果、リスクがヘッジできるし質の高い情報も入ってくるから、階層上位に一層安定する。ところが階層下位の人間は「金ですべてが決まる」と信じ込まされているので、金のこと以外には全くリソースを投じない。結果的に自分で自分を階層下位に釘づけにしてしまう。

 …しかし、ここ数年で「消費行動を通じて自己実現する」というイデオロギーが急速に力を失っていることがわかります。今一番気の毒なのは、80〜90年代の消費文化イデオロギーにどっぷり浸かった世代ではないかと思います。僕が恐れているのは、(「消費」にかわるものとして、この世代の「空白」を)ナショナリズムが埋めることです。

 すでにその事態は進行中。

 刈谷 「学力格差」に関連させて言うと、評価が多元化して物事が複雑になればなるほど、先ほどの話に出た「階級フリーな人」が有利になるんですよね。

 内田 そうなんです。複雑なものに相対した時、上から鳥瞰的に物事を見られる人間と、二次元的にしか物事をみることのできない人間では、決定的な差がでます。

 …学校に来る子供たちは、「なぜ私たちは学校で勉強しなくてはいけないのか」、その理由を知らない。まさに「自分が学ぶ理由を知らない」ことが彼らが学校に来なければいけない当の理由なのです。学校に通わねばならない理由(あるいは学校に通わなくてもよい理由は)実際に学校に通うことを通じてしか理解されない。社会はそういうダイナミックな構造を持っています。

 …知識を増やすことは、知識の「面積」が増えていくことではない。
 知識は「広がり」じゃなく、むしろ「高度」です。知識を身につけることで、自分を見る視点が上昇する。いわば自分の住む街しか見ていなかった子供が、空中に舞い上がって、市が見え、県が見え、列島が見え、やがて大陸が見える…というふうに自分がいったいどういう世界の中にいるのかがわかってくる。それが「知識を習得する」ということなんです。

 内田 実は僕、高校を中退しているんです。まさに「何でこんな無駄な勉強をしないといけないんだ」と思ってさっさとやめたんです。中卒労働者としてしばらく働いていたんですが、すぐに「これはたまらん。受験勉強なんか、これに比べたらまるで遊びだ」と骨身にしみました。中卒労働者の労働環境に比べたら、お母さんが弁当を作ってくれて「がんばってね」と優しく声をかけてくれる受験勉強のどこが「地獄」か(笑)教科書を暗記すれば点が取れてほめてもらえるなんて、なんというシンプルでフェアなシステムであろうか、と。

 …大検は簡単ですし、脱落しても「戻り道」はちゃんとある。今の中学生や高校生で「無駄な勉強をしたくない」と思っている人には「一度学校をやめて働いてごらん」と言いたいですね。

 「公」と「私」のさじ加減を調整するには、やはり中間共同体が必要だと思います。部分的に私的であり、かつ部分的には公的でもあるような複数の中間共同体に、同時に帰属するということが、市民的な成熟には不可欠だと思うんです。

 ネットの上で、ナショナリズム的言説が選好されるのは、現場に行って責任を取らなくてもいいからなんです。外交とか軍事とか、話が大きすぎて、生身の個人の出番がない。だから個室に逼塞しながらでも、国民国家のような幻想とじかに繋がった気分になれる。でも、中間共同体ではそうはいかない。中間共同体は具体的なものですから、生身の人間が、現にその場に行かない限り話しが始まらない。中間共同体は身体性と固有名を要求しますから。それが今の日本にはない。中間共同体がなくて、個人が、市場という巨大な「公」に裸で向き合っている。

 中間共同体が「おとな」を作る。