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不識庵の面影

2016-07-13

仏国土

久しぶりに上杉謙信公について書いてみたいと思います。

「毘」の旗印は謙信公のトレードマークともいえますが、これは謙信公が「毘沙門天」に深く帰依してことによるものです。


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   「毘」と「懸かり乱れ龍」(米沢市上杉博物館


問題は、なぜ、如来でもなく、菩薩でもなく、天部なのか。

さらにいえば「不動明王」をはじめとする五大明王や持国天、広目天、増長天ではなく「毘沙門天」だったのか。

ご存知の方も多いでしょうが、一般的な毘沙門天は「仏法を守護する四天王の1人であり、「北方」を守護する甲冑姿の武人神であり、「憤怒の形相」で右手に宝叉、左手で宝塔を捧げて御座します。

謙信公が信奉された「泥足毘沙門天」像は有名ですが、これとは別に「刀八毘沙門天王」という異形の明王像が上越市の林泉寺に伝わっています。

まさに武神と畏れられた謙信公さながらの尊像です。


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   林泉寺の刀八毘沙門天王コラージュ by 不識庵)


私は謙信公が「毘」の旗印を掲げた本意は「天皇」への崇敬の念にあったのではと考えています。

司馬遼太郎氏の小説に『王城の護衛者』という最後の会津藩主・松平容保公を描いた作品があります。

容保公が孝明天皇のため身命を擲ち至誠を尽くしたにもかかわらず、やがて「朝敵」とされていく悲劇が描かれています。

小説の結末には、容保公が孝明天皇から賜った「宸翰」のエピソードについて書かれていますが、強く胸を打つ逸話です。

「朕はもっとも会津を頼りにしている」という孝明天皇の御言葉・・・そう、容保公がそうであったように、謙信公の尊皇精神への傾倒も、天文22年(1551)春に後奈良天皇より綸旨を賜ったことに始まります。

かつて映画「天と地と」では、この綸旨を後奈良天皇の勅使が春日山城内で読み上げるシーンがありましたが、これは謙信公を敬愛するものとしては感銘する演出でした。


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綸旨の内容は以下のとおり。


平景虎 

住国並隣国挿敵心輩所被治罰也

伝威名子孫施勇徳万代

弥決勝於千里

宜尽忠一朝


読み下すと次のとおりです。


平景虎

住国並びに隣国において敵心を挿む輩治罰せらるる所なり

威名を子孫に伝え勇徳を万代に伝え

いよいよ勝ちを千里に決し

宜しく忠を一朝に尽くすべし



謙信公は越後守護代・長尾家の出自ですから源平藤橘でいえば「平家」の末裔です。

ちなみに名跡を継いだ山内上杉家は「藤原家」の末裔です。

上越市の林泉寺の山門に掲げられた「第一義」の扁額は謙信公が揮毫されたものですが、「藤原輝虎」と署名されています。

(「輝」の一字は足利十三代将軍・義輝の諱を拝名したもの)


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   「第一義」扁額(レプリカ・上越市埋蔵文化財センター)


仏教が日本に伝来して以来、その教えは「鎮護国家」のためにあったことは周知のとおりです。

謙信公は深く仏道に帰依していたことは有名ですが、謙信公にとって「宜しく忠を一朝に尽く」ことは、取りも直さず、此岸、すなわち「この世」に仏国土を築くことだったように感じます。

戦国の武将たちは神仏に対して「戦勝祈願」、すなわち現世利益の信心は持っていたようですが、謙信公が神仏に祈願していたのは「仏敵」を成敗するための筋目が己にあることのアファメーションであったのです。

「非道を知らず存ぜず」とは「己は道に外れず」というのが本義なのです。

道とは即ち「仏道」に他なりません。

私たちが単純に「現代の物差し」で中世の宇宙観や人生観を測ってしまっては「大事」なものを見逃してしまいかねません。

世阿弥の「風姿花伝」の序文にも「まづこの道に至らん者は非道を行ずべからず」とあります。

「非道」とは己が極めんとする道を逸れることを意味するのです。

謙信公は王城の北方を守護する「毘沙門天」たらんという気概で「入我我入」という境地を求めて求道に精励しておられたのです。

「我、毘沙門天となり、この世を仏国土たらしめん」という仏道者の旗印が「毘」の旗印であったのです。

武家に生を享けた謙信公なればこそ、武神としてしか己を活かすこと能わず、僧侶以上に僧侶らしい「いきざま」で戦国の世で「仏法」の法灯を守られていた稀有な存在です。

謙信公が薨去されてから約400年が経過し、僧侶たちは使命感を失い、謙信公が予想だにしなかった事態となっています。

現在、日本の僧侶の大方は在家と同じような、いや金銭的には在家以上の生活を享受し、「出家者」とは言えない実態にあります。

一昨年、「こうやさんフェスタin奈良 〜行くなら高野山〜」の中の催しとして「美・坊主僧侶10人によるファッションショー」なるイベントがありました。

企画をしたのは「高野山真言宗青年教師会」で、全国に約3600ある高野山真言宗寺院の青年教師が運営をしている全国組織。

何を考えているのか・・・高野山金剛峯寺といえば、その塔頭のひとつ無量光院の住職であった清胤から、謙信公は伝法潅頂を受け「阿闍梨権大僧都」となられています。

もう、弘法大師が開かれた聖地でさえ・・・肉食妻帯はもとより、このスノッブさには何をか況やです。


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好むと好まざるとにかかわらず、大概の僧侶は「生臭坊主」として寺を世襲し続けています。

社会環境が大きく変化して肉屋、魚屋といった家業が立ち行かなくなった時代にもかかわらず、生臭坊主たちは法的根拠のない寺請制度に安住し、出家せぬ「職業住職」に成り下がっているのです。

江戸幕府はキリシタン弾圧と既存の仏教勢力を体制内に取り込むため、寺請制度により寺院に檀家を宛がい、過去帳という住民台帳(戸籍)を管理させたのです。

戦国時代一向一揆が象徴するように狂信的な宗教アジテーションによる武装化を恐れた江戸幕府は、特定の宗派が勢力を拡大しないよう「宗論」を封じ、僧侶の布教活動を禁じていたのです。

檀家という謂わば「固定客」に庇護された寺院は幕府出先機関となり下がり、僧侶もまた字義の如く「住職」として居座りはじめます。

しかし、「肉食妻帯」は御法度であり、血の繋がっていない弟子が住職を継いではいたのです。

ところが明治を迎え、宗派を問わず「肉食妻帯勝手たるべし」という政令を「何故か」受け入れ、挙って妻を娶り、自分の子供に「住職」という家業を継がせていくのです。

例えば曹洞宗では「葷酒山門に入るを許さず」という石碑を臆面のなく山門前に出し、あろうことか道元禅師が知ったならば怒り狂うであろう「水子供養」に血道を上げている寺さえあります。

「非僧非俗」を宗祖以来の伝統とする浄土真宗の僧侶はいざ知らず、出家し戒律を堅持することが大前転であった天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、日蓮宗が、我先にと「非僧是俗」化していき、その堕落ぶりは目を覆わんばかり。


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「遭いがたき仏法」に遭うため、一大決意して「出家」する気概をもった僧侶は少数であり、大半が「世襲」で住職の地位を約束された子息が寺院を継承し、世代を重ねるごとに僧侶は「徳なし、悟りなし、説法なし」と劣化し続けています。

怖いことですが「信心」すらない僧侶も多いように感じます。

「己が寺院の子息として生まる」ことになった歴史的な背景さえ知らない者が、煩悩に塗れながら「住職」という家業を継ぐ・・・まさに寺院の在り様は末法状態!

庶民の先祖を崇拝するこころ、法的根拠の失効した寺檀制度に支えられ、僧侶は安穏と葬儀と法要、墓地管理を「生業」としながら、住職(親)から副住職(子)へ世襲しながら檀家に寄生しています。

一宇を構えず、托鉢しながら説法する清貧な僧侶はどれくらいいるのでしょうか?


鎮護国家はもとより、衆生さえ救えない僧侶たち・・・何故か「寺格」の高い寺院の僧侶ほど「徳」は低く、銀座の高級クラブのホステス顔負けの高額な「御布施」をせしめているという実態。

出家者として清冽に生きられた謙信公が希求した「仏国土」はおろか、堕落しきった僧侶たちによって「葬儀」という儀礼文化さえも死滅してしまうかもしれない世相になってきています。

今の今、いただいた「命」を「使う」こと。

それが使命。

職業僧侶たちよ、

宗祖の熱く高邁な使命感を想え! 

乱世に仏道を歩まれた清冽な謙信公に学べ!


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Dies iræ, dies illa
solvet sæclum in favilla:
teste David cum Sibylla

Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus


不識庵

2016-07-10

『 銀の月 』 と COSAコースター

私は月をこよなく愛するものの一人ですが、世に月に魅せられてきた人は古今東西数えきれません。

月をテーマとする写真集は数多いのですが、凡庸な写真を意味なく羅列したものも少なくありません。
しかも、それなりの値段で売られているのですが価格に内容が見合わない・・・

石川賢治氏の「月光浴シリーズ」は悪くはありませんし、写真集としては異例なほど、このシリーズはかなり売れていました。

桑野聖氏が音楽を担当したイメージCDも発売されていたほど。

しかし、です。

私が所有する月の写真集の中でイチオシなのが、2003年に刊行された『銀の月』ピエ・ブックス)。


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   写真集『銀の月』

カメラマンは西島善和氏

西島氏は昭和34年(1959)福岡市生まれ。

日本大学芸術学部写真学科卒業後、フリーカメラマンとなっていらっしゃいます。

平成16年(2004)に「西島写真事務所 &STUDIO」福岡市に設立されています。


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私も仕事柄、これまで多くの商業カメラマンの方と接してきましたが、本当に撮りたい被写体だけとって生活していけるカメラマンは皆無といえるほど。

いわゆる「ブツドリ」を淡々とこなしていく地道な撮影で糊口を凌ぐ職業であり、「藝術」として写真を撮るのは「仕事」とは別の世界。

広告代理店や印刷会社に就職せず、フリーでキャリアを積んでこられた西島氏ですが、東京銀座コダックフォトサロンで「moon」(1991)、福岡・Art Spsce貘で「月の夢を見る」(2005)、福岡アジア美術館で「博多湾、海を見にゆく」(2011)と個展を開催されています。

私は西島氏の個展を鑑賞する機会に恵まれませんでしたが、『銀の月』は「ボク宝(ほう)」に指定するほど気に入っています。

もうカバー、帯のセンスから漂う気配・・・たまりません。


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   絶版なのが惜しまれます


「夜空に見えたのは銀色の月
 始まるのは、美しい月とあなたのモノクロームストーリー
 今夜あなたの枕元にこの一冊を」

 この帯のコピーでわかるとおり、全ページがモノクロームです。

 かつて写真集や図録はモノクロームでした。

 初期のカラー図版は、その時代においては鮮烈だったでしょうが、いま昭和50年代頃までのカラー図版を見返すと「・・・」

しかし、モノクロームの良さは観るもののイメージが無限に広がっていくこと。


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   奈良薬師寺の相輪に懸かる月


文章を読みながら映像が鮮明に喚起されてくることがあるように、この写真集は時を経ても「古さ」とは無縁であり、私を思索の森に誘ってくれます。

多くの写真集の運命ですが、すでに絶版となっていることが惜しまれます。

さて、月といえば最近、スグレモノを購入しました。

下の画像、ある商品なのですが一体何かお判りでしょうか?


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   リアルな月面・・・


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   そして地球、日本も見えます


これは「COSAコースター」という商品。

水を吸い取るコースターで表面はセラミック製で裏面はコルク仕様となっています。

地球そして月の2枚セットです。


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   こんなパッケージで売られています


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   こんな便利なコースターがあるとは!


このコースター、グラスに付いている水滴やテーブルにこぼれた水滴を吸収してくれるスグレもの。

濡れたグラスと一緒にコースターが持ち上がることもありません。

自然に乾いていき、吸水力は失われません。


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   わが書斎でも大活躍です


この素晴らしい商品を開発したのが、大阪市平野区に本社をおく株式会社マグネット( magnt)

この社名は「笑顔や幸せを引きつける、大切な人と人を近づける」そんな雑貨を提供していきたいという想いから命名されたようです。

「実用性、適正価格、デザイン 私たちが考える雑貨とは、ちゃんと使う事が出来て、かつ面白い、かわいいと思っていただけるデザインやアイデアを付属したものです。それによって値段があがるのではありません。『これなら買える』価格に設定する為に商品の構成を試行錯誤します」

たかが雑貨、されど雑貨です。

どのような仕事であれ、人を幸せにする仕事は尊いものです。

いや、そうでなければ仕事する意味がないと言えるでしょう。

ちなみに、幸を偏にもつ「執」という漢字があります。

固執、執着、偏執など、ひとつの事象にとらわれる様を意味しています。

旁は「丸」ですが、これは「人が跪き体を屈め、両手を前に出している様、そして「幸」は両手を縛り上げる「手枷」を表現しているのだそうです。

自利の状態とは斯くの如し。

ホント、こころが囚われないようにしないと・・・

「しあわせ」は「仕合わせ」とも書きますが、語源は「し合わす」。

すなわち、人と人とが巡りあう「縁」が「しあわせ」なのですが、モノとの出会いも実は気が遠くなるほど、多くの人が「し合わす」ことで成立していることに気づきます。

「モノより思い出」ですが、モノも人生の大切な思い出を演出してくれることに感謝ですね。



不識庵





銀の月

銀の月


2016-07-01

氷室の日(氷室饅頭と前田綱紀)

季節はうつろいでいきます。

二十四節気では夏至から小暑を迎える時節となりましたが、本日7月1日は「氷室の日」。

氷室京介の誕生日やデビューした日ではありません。


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北陸金沢の「氷室の日」。

加賀藩政時代には6月朔日(旧暦)を「氷室の朔日」と称し、毎年冬の間(大寒の雪)に白山山系に降った雪を氷室に貯蔵し、6月朔日に「白山氷」と名付け、桐の二重長持ちに入れ、江戸徳川将軍家へ献上していたそうです。

名君として名高い五代加賀藩主の前田綱紀は、金沢城下に氷室を設け下々の者たちにも夏に氷を食することを許したそうです。

もっとも今日と異なり、夏の氷は大変に貴重なものであり、財力を持っていた商人たちが贈答用に利用していたにすぎず、一般の庶民には無縁の贅沢品だったようです。

そこで、氷の代わりに麦で作った「氷室饅頭」を食べ無病息災を願う慣習だけが残っているのです。

この氷室跡は兼六園南端、山崎山の麓に現存していますが、昭和61年(1986)より、湯涌温泉観光協会では金沢市の協力を得て氷室の復原に着手。

湯涌の氷室小屋は玉泉湖の湖畔に、間口4メートル、奥行き6メートル、深さ2.5メートルの茅葺き屋根小屋として復原され、毎年1月の最終日曜に復原した氷室に貯蔵し、6月末日に氷室から氷を切り出して、石川県知事金沢市長、加賀藩下屋敷があった東京都板橋区に献上しているとか。

さて「氷室饅頭」なるものを本年初めて食する機会に恵まれました。

金沢市内の和菓子屋が挙って作っているようですが、やはりブログ「森八 長生殿」でご紹介した老舗の「氷室饅頭」を食したくなるのが人情。


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   金沢の老舗といえば森八


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   熨斗の後には意匠が入っています


黒漉し餡の入った酒饅頭で、皮は白、紅、緑の3色があります。

やや腰高のしっとりとした生地に瑞々しい黒漉し餡を包んで蒸し上げられた饅頭です。


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   三色で見た目も艶やかです


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   和菓子を愛でるという瑣事も大事


う〜ん、美味しい・・・筆舌に尽くしたい味わい。

ちなみに前田家御用達であった御菓子司だけに、なんと今でも東京に居を構える前田家御当主に「氷室饅頭」を献上している由。

森八では6月下旬から7月1日まで販売されますが、決して7月2日以降に製造販売することはないのです。

消費期限は製造から32時間・・・



閑話休題



さて、氷室の名君・加賀藩第五代目藩主の前田綱紀について少々書いておきましょう。

加賀前田家の家風を確立した名君であり、藩祖である前田利家は傾奇者で勇猛な戦国武将として、つとに有名ですが、この綱紀公は当代屈指の教養人であった人物です。


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   前田利家像(金沢市:不識庵撮影)


藩主として在位されている間、領国経営に緩みはなく、新田開発などの経済振興や当時としては珍しい社会福祉政策にも尽力。

江戸城内における謁見の序列も破格でした。

元禄2年(1698)、五代将軍・徳川綱吉からは外様大名であるにもかかわらず、御三家に準ずる待遇を受けています。

綱紀は加賀藩4代藩主・前田光高の嫡男として生を受けました。

母は水戸藩徳川頼房の息女で3代将軍・徳川家光の養女として前田家に輿入れしています。

藩祖・利家の曾孫に当たり、幼名は犬千代丸。

正保2年(1645)に31歳という若さで逝去した父・光高の後を襲い、犬千代丸は僅か3歳にして5代目藩主に就いたのです。

小松で隠居していた祖父・利常(3代藩主)が再度藩政をみることになります。


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   前田利常像(小松市:不識庵撮影)


承応3年(1654)犬千代丸は元服し綱利と名乗り、徳川将軍家との紐帯を深めるため、保科正之の二女である摩須子(徳川秀忠の孫)を妻に迎えます。

万治元年(1658)、利常が逝去し、岳父である保科正之の後見で綱紀は藩政改革を断行していきます。

新田開発などの農業振興はもとより、「荒政の九法」で知られる飢饉に備えた郡村の組織化など、その後の加賀藩農政の規範となります。

当時、加賀藩が飢饉に備えて創設した「義倉」は、金沢城下に1カ所、越中に3カ所、能登に3カ所、常時10万石から20万石に及ぶ米が備蓄されていたといいます。

利常から始まり、光高、綱紀の三代にわたる加賀藩の農政は、荻生徂徠の『政談』で「加賀の国に非人一人もなし 真に仁政なり」と称賛しているほど。

志の高い為政者は・・・いま、いるのでしょうか?

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシズカニワラッテヰル」


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志のない政治家、経営者、宗教家のつまらない醜聞が多い御時世、体調管理に留意していかねば・・・まずは自己管理が肝要。

その上で「利他のこころ」で少しは人の役に立たねば・・・

とまれ、まもなく梅雨明け、暑さが本格的になる小暑を迎えます。


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不識庵

2016-06-30

善光寺如来は嘆いて御座す

先日、愚かな余りに愚かな僧侶のスキャンダルが報じられました。

毎日新聞が6月26日に配信した記事をヤフーニュースで読んで慨嘆しました。

ニュースのタイトルは「善光寺トップの貫主がセクハラ 信徒が辞任勧告」


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   ヤフーニュースより


記事の内容は以下のとおりです。

長野県善光寺に2人いる住職の1人で、天台宗『大勧進』トップの小松玄澄(げんちょう)・貫主(かんす)(82)が職員にセクハラや差別的発言をしたとして、善光寺大勧進の信徒総代が25日、『生き仏と言われる僧侶にあるまじき行為。直ちに辞任を求める』とする勧告書を小松貫主に手渡した。

同日に総代会が開かれ、総代12人の総意で勧告書の提出が決まった。勧告書などによると、小松貫主はセクハラやパワハラを受けたとして抗議した大勧進の60代女性職員に対し、小松貫主が昨年8月に不当な担当替えを命令。

同10月には、別の職員に対し、女性職員について差別的発言をしたとしている。

小松貫主を巡っては、過去に女性問題に端を発し民事訴訟に発展した辞任騒動があり、信徒総代はこの際にも辞任を求める申し入れ書を出した。

勧告書では、過去から続く一連の小松貫主の態度や今回の差別的発言などを『看過できない』と問題視し、辞任を要求。

春日英広・筆頭総代によると、小松貫主は勧告書を受け取ったが、『差別的発言はしていない』と否定し、辞任をするか態度を示さなかったという。

天台宗の住職らで構成する『一山(いっさん)』も差別的発言問題を受け、今月23日に小松貫主に本堂への出仕を禁止する通告書を渡している」


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あまりにも有名な寺院の貫主の不祥事に暗澹たる思いです。

「生き仏」ならぬ「生臭坊主」の醜態に怒りを通り越して悲しくもやるせない気分です。

今年に入ってからでも、国内最大級の仏教系宗教法人である曹洞宗大本山では東京国税局から指摘を受け、追徴課税数千万円を納めています。

東京新聞(2016年2月12日)では次のように報じています。

「国内最大級の仏教系宗教法人『曹洞(そうとう)宗』では、一般の僧侶らが大本山の高僧に会いに行く際、高額な『お気持ち』(献上金)を持参するのが習わしになっている。大本山総持寺横浜市鶴見区)のトップらが4年間で計四千数百万円の献上金を個人的に使うなどしていたところ、東京国税局から『いったん総持寺の会計に入れた上で、給料としてもらうべきだった』と指摘された。源泉所得税の徴収漏れで、総持寺が納めた追徴税額は千数百万円。宗教界に横たわる不明朗税務の一端が浮かび上がった」

全文はコチラで読めますが、もう腐りきっています。

ことほど左様に僧侶たちは時代の経過とともに「堕落すべくして堕落」していきました。

まずは江戸幕府の宗教政策としての「寺請制度(寺檀制度)」、明治政府による太政官布告第133号「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」、そして日清戦争から大東亜戦争に至るまで「非戦」を主張するどころか国威発揚に「翼賛」した挙句、戦後を迎えて今日に至ります。

もう日本の仏教は宗派を問わず、世襲制が大前提で「僧侶」としての資質のない子息(または息女)が寺院を継承していくことにより「信仰」とは別に次元、すなわち「職業」としての僧侶に成り下がっています。

日本人の先祖崇拝に寄りかかり、寄生しているといって過言ではないでしょう。

今回、問題を起こした小松玄澄なる人物が貫主を務める善光寺については説明を要しないほどの超有名寺院です。

現存する善光寺本堂は宝永4年(1707)に再建されたもので、昭和28年(1953)には国宝に指定されています。

国宝に指定されている木造建築物としては3番目に大きいといわれる壮麗な本堂に秘仏として鎮座する御本尊も、さぞやお悲しみのことでしょう。

善光寺は「一光三尊阿弥陀如来」を御本尊とし、数え年で7年に一度の御開帳の時だけ特別に拝観することができるのは「秘仏」の御本尊ではなく「前立本尊」。

今風にいえばレプリカ(複製)ですね。その前立本尊が秘仏化しているのですから、なんとも不思議な話です。

この善光寺如来尊は、インドより百済を経て日本に仏教が伝来した際に欽明天皇に献じられた我国最古の仏像とされる三国伝来の仏像でなのです。

ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩従える独特の三尊仏で、天皇家より蘇我稲目が下賜されますが、物部尾興等の奏請により難波堀江に打ち捨てられます。

しかし、推古天皇10年(602)年に信濃国人若麻績東人(後の本田善光)がこれを奉載して祀ったのが信濃善光寺なのです。

白雉5年(654)よりは秘仏となり、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして「前立本尊」が造られたといわれます。

しかし、です。

善光寺に絶対秘仏として祀られた「御本尊」は三国伝来の本仏ではなく、本物の御本尊は山形県米沢市法音寺に御安置されているのです(と信じたい)。

「絶対秘仏」ですから未来永劫、その存在を確認することができないのですから、善光寺には肝心の如来像はなく、謙信公ゆかりの法音寺にある善光寺如来像が真仏であるとする説を信じるのも一興。


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歴史に詳しい方ならばご存知でしょうが、善光寺の一帯は善光寺平と呼ばれ奥信濃とも称された地域です。戦国時代、甲斐の虎こと武田信玄による信濃侵攻により、この地域の領主たちは越後の龍こと上杉謙信公に失地回復を哀願するのです。

世に「川中島の戦い」と称される戦国時代を代表する戦は都合5回、長期に渡る攻防戦なのですが、最終的に実効支配したのは武田側です。


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武田軍により領土を失った一人・信州中野城主・高梨政頼は戦国の兵火から善光寺御本尊を守るため、神仏に深く帰依していた謙信公に奉じたという伝承が残っています。

謙信公は居城の春日山城内に如来堂を建立し、毘沙門堂「泥足毘沙門天」と併せて深く奉祀されたのです。

その後、謙信公が薨去され、上杉家は豊臣政権下で会津若松へ国替え、慶長6(1601)、関ヶ原合戦後、米沢に国替えとなりますが、善光寺如来尊も謙信公の御尊骸と共に越後春日山城会津若松城米沢城へ御遷座されます。

謙信公の大志を継がれた景勝公は、米沢城本丸の一角に藩祖として謙信公を祀る御堂を建立、御堂本殿の中央に謙信公の御尊骸を、右に善光寺如来、左に泥足毘沙門天を御安置。

さらに、二ノ丸に御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺を建立して供養勤行が厳修されます。

明治に入ると、神仏判然令により米沢城内より法音寺は歴代藩主御廟所のある現在地に移転、明治9年(1875)には本丸の御堂が解体され、謙信公の御尊骸は御廟所中央の現在地に御遷座され、善光寺如来、泥足毘沙門天法音寺に勧請され現在に至っています。

さて、ここで興味深い話があります。

法音寺に安置されていた善光寺如来像を明治32年(1899)に、最後の米沢藩主であった伯爵・上杉茂憲公が同寺を訪れ、修繕するために如来像を東京に持ち出したというのです。

この間、善光寺から上杉家に返還請求があり、茂憲公は内諾したと言われています。

しかし、紆余曲折の末、米沢法音寺に如来像が戻されたのは昭和4年(1929)ですが、昭和8年(1933)には如来像を東京に「出開帳」させています。

一方、善光寺に御安置されている絶対秘仏の如来像は武田信玄により善光寺ごと甲府に移されたとするのが善光寺側の主張。武田家滅亡後、織田信忠によって岐阜の伊奈波へ、さらに本能寺の変を機に織田信雄尾張国甚目寺へ、さらに徳川家康により遠江国鴨江寺、そして甲斐善光寺へと戻されるも、慶長2年(1597)には豊臣秀吉が甲斐から京都方広寺へ勧請。

しかし、秀吉の病は善光寺如来の祟りであるという噂が広まり信濃善光寺に戻されたというストーリーです。

主観において嘘も真もありませんから、少なくと戦国の世、信濃善光寺で「秘仏」とされていた御本尊は、謙信公が春日山に勧請されたと信じております。

これは私が「謙信公びいき」であることによりますが、戦国乱世にあって仏道に深く帰依し「人の道」を歩んだ謙信公こそ奉戴するに相応しい人物であるからなのです。

平成という元号とは裏腹な「末法の世」を救う求道者は何処に御座すのか?


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閑話休題



今回の善光寺貫主の不祥事は氷山の一角に過ぎないと感じます。

戦後の社会構造の変化(都市部への人口集中と地方の過疎化)、それに伴う核家族化は好むと好まざるとにかかわらず「法的な根拠のない形骸化した寺檀制度」を根底から揺さぶっています。この実態は鵜飼秀徳氏の著書『寺院消滅』などで詳述されています。

有体にいえば「僧侶」が堕落しきっていることに僧侶自身が無自覚であることが問題です。

まず、僧侶は「日本史」における仏教の歴史を学ぶべきでしょう。

中世において仏教は権力者として政治介入し、強大な力をもっていたわけですが、戦国期に信長秀吉、家康といった天下人が「宗教の恐ろしさ」を否というほど思い知らされ、結論からいえば寺檀制度により「体制内」に取り込んだ訳です。

幕府から宗派によらず布教自体は禁じられ、檀家を監視する代わりに一定の収入を確保できる本末寺の組織で「お上」の下部組織となった訳です。

つまり、寺檀制度は信仰に基づくものではないため、なぜご先祖が「曹洞宗」なのか「真言宗」なのかは意味がほとんどありません。そう、キリスト教は弾圧され、仏教といえども宗派を選ぶ自由がない時代に「菩提寺」が成立しているのです。

私は葬式仏教を否定するつもりは毛頭ありませんが、お釈迦様や宗祖もあずかり知らぬ寺檀制度に安住し布教しない寺院の御本尊は阿弥陀如来や釈迦如来ではなく、「神君徳川家康公」の図像こそ祀るべきではと考えます。

しかし、この制度を作った江戸幕府は、とうの昔に滅んでおり、明治以降もご先祖さまを祀るために檀家と檀那寺としての寺院との付き合いが継続してきただけなのです。

さらに問題なのは明治初めには神仏判然令が出され、仏教は「廃仏毀釈」という復古主義と新国家の権力によって蔑にされてしまうのですが、政府は神社に社格を定め、官国弊社の職員を神職として優遇する一方、僧侶には江戸幕府が禁じていた「肉食、妻帯、有髪の禁」を解くのです。

勿論、これは「肉食、妻帯、有髪」しなければならないという法律ではありません。

しかし、多くの僧侶たちが戒律を堅持し得なかったのです。つまり出家者は出家者でなくなってしまったのです。弘法大師や道元禅師やも、さぞお嘆きのことではないでしょうか。


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但し、真宗は非僧非俗を打ち出した宗祖の親鸞聖人以来の伝統で「肉食、妻帯、有髪」でしたから例外です。


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すべての宗派は戒律をなし崩しにし、「肉食、妻帯、有髪」が当たり前になっていくのです。哀しいかな「世襲」により寺院は家業となってしまった訳です。

極論すれば、信心のあるなしに関わらず「息子(あるいは娘)が寺を継ぐ状態にあり、いまや「葬儀法要」と「墓」の管理者に成り下がっているといえるでしょう。

勿論、徳の高い僧侶も少なくないでしょうが、社会構造的に「寺院」「僧侶」が本義から大きく変質してしまっている事実にさえ無頓着な「僧侶」が多いのも確かです。

自分が信じてもいない「御仏の教え」を檀家に信じなさいと説教するとすれば、それは精神的な詐欺行為以外の何ものでもありません。

勿論、檀家が多いブルジョワ寺院ばかりではなく、兼業しなければやっていけない僧侶や寺院も多く、廃寺となるケースも珍しくありません。

戦後70年が経過し、日本が戦後レジュームから脱却しなければならないのと同様に、寺院は江戸幕府明治政府行政上の保護や恣意的な政策によって堕落してしまっていることを自覚するところから始める必要があります。

「死とは何か」「信仰とは何か」という問いに真摯に向き合う「出家者」が増えることを切に願います。

善光寺如来は嘆いて御座す!

志高い僧侶は「寺檀制度」という江戸幕府が定めた既得権に寄り掛かるのではなく、「寺院」を出でて布教のために東奔西走していただきたい。



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不識庵

2016-06-26

「見立て」という文化

最近、鎌田東二先生『世阿弥-身心変容技法の思想-』というご著書を拝読したのですが、本書で展開される論旨を俯瞰するだけの知識や体験がなく、読了したものの所謂「腑に落ちる」ところまで至りませんでした。

能といえば「薪能」を数回鑑賞したことがあるくらいで、まったくの門外漢ですから当然いえば当然。

ことほど左様に「知らないこと」が如何に多いかを痛感。学びの機会として人と逢い、旅をすることが大事であると改めて感じた次第。

ここ最近、人と逢い酒を酌み交わす機会が多く実に愉快な時間を過ごしております。

その一方で名所旧跡巡り、美術館や博物館、映画や音楽の鑑賞、読書などにも、それなりの時間を費やしております。

その分、自宅でPCに向かう時間は大幅に削減され、書く時期を逸したブログ・ネタも随分と増えました。

今宵は久しぶりに「よしなしごと」として、そこはかとなく書き綴ってみたいと思います。

「よしなしごと」とは、とりとめもないこと、たわいのないこと、つまらないこと。

「『見立て』という文化」というお題は付けてはいるものの、おそらく、とりとめもない文章となることをご容赦くださいませ。

このブログは、もともとは「備忘録」として書き始めたものですから、今回は映画「スポットライト 世紀のスクープ」以降に鑑賞した作品をまとめておきます。

正直、個別にブログを書くだけの時間がありません。


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   映画「世界から猫が消えたなら」


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   映画「殿、利息でござる!」


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   映画「ボーダーライン」


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   映画「エンド・オブ・キングダム」


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   映画「64−ロクヨン 後編」


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   映画「王の運命−歴史を変えた八日間−」


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   映画「クリーピー 偽りの隣人」


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   鑑賞した映画の劇場プログラム


こうして動画を貼り付けておくだけで、映画鑑賞記録となる訳ですから、いまさらながら「記録」としてブログという手段を使わない手はありません。

「知るは楽しみなりと申しまして、知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれるものでございます」

この鈴木健二氏による名文句で始まるNHKの「クイズ面白ゼミナール」という番組がありましたが、新たに知ったことを覚えるには記録が必要です。

私はブログ「マンダラート」でご紹介したとおり、ちょっと変わったメモ術で記録をとっています。

もっとも学生時代とは異なり、いまは暗記する必要に迫られることは殆どありませんが、その分「学んだ内容を真に理解できたか」「その知識を何に活かせるか」が肝要です。

人生を豊かにしてくれるもの、それが教養なのかもしれません。

ちなみに名文を諳んじることが昔から好きで、いまでも『平家物語』巻第一の「祇園精舎」や蓮如上人の「白骨の御文」、道元禅師の教えをまとめた『修証義』の「総序」などを時折暗唱しては愉しんでおります。


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また「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」「舎利礼文」「阿弥陀如来根本陀羅尼」などの経文を暗誦するようになって数十年が経ちますが、若い頃に覚えたものは不思議と忘れないものです。


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それがいまでは新たな外来語を覚えるのにも一苦労します。

例えば気になる海外の若手クラシック演奏家の名前などは、なかなか覚えれません。

それはともかく、名文か否かは音読してみると如実に判ります。

この「へっぽこブログ」も誤字脱字や怪文が多いのは言うに及ばず、頭の中で組み立てられた文章は、とかく想いが前のめりとなりがちで、音読してみると「?」という箇所が随分とあります。

かつて、元警視庁第八方面本部長兼警務部参事官という凄い肩書をもっておられた方から文章指南を受けたことがあります。

私のへっぽこ文章を超高速で音読され、紙が血の池地獄と化すほど赤字校正を入れていただきました。

その校正の赤字は、それはそれは見事な草書で浅学の我が身には難解で往生しました。

文章の推敲とは斯くの如し・・・文章が格調高いかどうかが、その教養人の校正基準でしたが、「平仄」という言葉をはじめ、実に多くの言葉を学ばせていただきました。

もっとも文章力は「へっぽこ」のままですが・・・


つれづれなるままに日暮らし 硯すずりに向かひて

心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくれば

あやしうこそ ものぐるほしけれ


人口に膾炙した兼好法師の『徒然草』の序段ですが、蓋し名文。

しかし、芥川龍之介は『侏儒の言葉』で「つれづれ草」という項目まで設けてコテンパンに扱き下ろしています。

わたしは度たびこう言われている。―『つれづれ草などは定めしお好きでしょう?』しかし不幸にも『つれづれ草』などは未だ嘗て愛読したことはない。正直な所を白状すれば『つれづれ草』の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。」

もっとも、これは芥川の本心ではあるまい。

衒学趣味という点で兼好法師芥川には相通じるものがありますから、その相似を指摘されることを芥川は良しと出来なかったものと考えます。

それにしても皮肉なのは「中学程度の教科書に便利」と揶揄した芥川自身の作品が「中学程度の教科書」に採用されていること。

日本においては明治以前に「句読点」は存在しておらず、芥川龍之介は「文部省仮名遣改定案について」という文章の中で「僕等は句読点の原則すら確立せざる言語上の暗黒時代に生まれたるものなり」などと書いていますが、句読点の置き方の標準が公的に示されるのは明治39年(1906)の文部省大臣官房圖書課が発した「句読法案句読点法案)」だそうです。

英語の終止符(.)とカンマ(,)が、日本では句点(。)と読点(、)になった訳です。

句読点の歴史は古代ギリシャまで遡るといわれますが、その効用こそ「音読」しやすくするための工夫だったのです。

さて、工夫といえば「見立て」という文化が日本にはあります。美意識、殊に「用の美」という視点からこの文化を極めたのが茶道です。


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茶の湯 こころと美」という表千家不審菴のサイトでは「見立て」について次のように説明しています。

「千利休は、独自のすぐれた美意識によって道具類の形を定めたり、本来茶の湯の道具でなかった品々を茶の湯の道具として『見立て』て、茶の湯の世界に取り込む工夫をしました。
この『見立て』という言葉は、『物を本来のあるべき姿ではなく、別の物として見る』という物の見方で、本来は漢詩和歌の技法からきた文芸の用語なのです。
利休は、この文芸の精神であった『見立て』の心を大いに生かして、日常の生活用品を茶道具に採り入れました」

この利休の「見立て」の具体例が以下のように紹介されています。

「たとえば、水筒として使われていた瓢箪を花入として用いた逸話や船に乗るために出入りする潜り口を茶室のにじり口に採り入れた逸話などは有名です。
利休に留まらず当時の茶人たちが、喫茶用としての茶碗といえば唐物の茶碗が主流であったのに対して、朝鮮半島の雑器であった高麗茶碗をわび茶の道具として採り入れた精神や、当時の南蛮貿易でもたらされた品々を茶道具に転用したのも、『見立て』の精神だといえるでしょう。このように、茶の湯に何かを採り入れて、新鮮で趣のある試みを加えようとするのが『見立て』の心でした。
近代では、早く仏教美術などの品々が茶室に採り入れられたり、また世界各地の陶磁器やガラス製品、あるいは金属製品なども茶道具として『見立て』られています。
茶の湯を楽しく実践し革新する上でも、この『見立て』の精神は、茶の湯の原点とでもいうべき心なのです。
たとえば、旅先でその土地の伝統工芸品などを眺めつつ、これを蓋置や香合として見立てられないかなど考えながら歩くのも旅の楽しみであり、茶の湯の生活の楽しみでもあります。
また、すぐれた美意識を伴った『見立て』の心が、各地の伝統工芸や伝統産業を活性化させる可能性もあるでしょう」

利休のような審美眼はありませんが、私も「見立て」に興じることがままあります。

「アーチルーラー」という、ちょっと曲がった定規があります。

2007年にグッドデザイン賞を受賞したスグレモノです。

知る人ぞ知る定規で、あの東急ハンズでも「ジミ」な陳列で目立ちませんし、ちょっと気の利いたセンスの文具専門店でなければ扱っていません。

もっともAmazonで購入できますから一安心です。

私は一条真也先生『あらゆる本が面白く読める方法』三五館)というご著書で、この定規の存在を知ったのですが、ご興味のある方はブログ「アーチルーラー」で使用方法をご覧ください。

以前、ブログ「永遠葬〜想いは続く(一条真也著)」で、私の書斎のデスクに置いて使用している孔雀の羽根をデザインした金地のトレー「Fringe Peacock Plume Guest Towel Tray」をご紹介しましたが、これも「見立て」のひとつです。

このトレーは本来はタオル用のトレーなのですが、未読の書籍用のトレーとして使っているのです。

速読ならぬ遅読を誇る私ですが、このトレーによって読書欲を高めていきます。


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   「見立て」でタオル用のトレーを書籍置きに!  


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   単行本サイズまで対応できます


先日、某大手家具店で陶器製のフラワーベースを発見しました。

フラワーベースですから、本来は花器として使用するものです。

福岡市のプリザーブド専門店「サラズタッチ」(代表:赤羽根 務さん)のブログでは、下の画像のようなアレンジに使用されています。


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   美的な余りに美的なアレンジメント

   
ちなみに、赤羽根さんは九州国際大学経済学部卒業後、福岡市内の大手園芸店に就職。

その後ブライダル、ディスプレイなどのフラワーデザインの仕事を経た後、2010年に「プリザーブドフラワー専門店SARASTOUTH サラズタッチ」を開業。

赤羽根さん、実に惚れ惚れする美的センスで花と器をインテグレートしています。

このフラワーベース、株式会社クレイ(Clay Co.,Ltd.)という会社の製品です。商品名は「JAPANESQUE2OVAL」 GUN METALICの最小のタイプ

昭和53年(1978)に創業した花器(フラワーベース)メーカーで、インテリア性の高いオリジナル商品を提供するハートフル・カンパニーです。本社は大阪府河内長野市ですが、東京港区六本木にショールームを開設しています。

このオーバル型の花器の曲線が「アーチルーラー」の曲線と相似していることに気づいた私は「或る見立て」を思いついたのです。

そう、ペン入れを兼ねたスケール・ボックスとして、わが書斎に置くという贅沢。

檸檬を「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」に見立てた梶井基次郎の高揚感よろしく、このフラワーベースを購入すると脱兎の勢いで帰路についたのです。

それにしても、このフラワーベースはアーチルーラーのために開発されたのではないかと錯覚するほど、実に見事な収まり具合。


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   これが「JAPANESQUE2OVAL」!


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   トレーのデザインとも調和しています


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   もう専用の商品としか思えない!


こうした瑣事に欣喜雀躍する自分が愛おしい・・・わが人生の最重要関係人からみれば「で?」という雰囲気の視線・・・「そこが、いいんじゃない!」

とんとん、とんがらしの宙返り!


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  自画自賛 オレが誉めねば 誰(た)が誉める   不識庵


みうらじゅんの『ボク宝(ホウ)』よろしく、私が認定した「魅惑的なボク宝」も「見立て」で使用しているものも少なくないのですが、またの機会に・・・


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さて、折角ですから7月に公開される映画の中から「観たい映画」の予告動画を貼り付けておきましょう。

今月中に観たい映画が2本あるのですが、7月以降も続々とロードショーが待っていますから気が抜けません。

  
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  7月9日公開 映画「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」
   

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   7月16日公開 映画「太陽の蓋」
   

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   7月29日公開 映画「シン・ゴジラ」


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   7月30日公開 映画「夢二〜愛のとばしり」 


「人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。
雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、―あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にする為には?―しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。
庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。
いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。
雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、―あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。」

芥川の箴言ですが、蓋し名文ではないでしょか。

今宵も あやしうこそ ものぐるほしけれ



不識庵