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不識庵の面影

2016-08-06

銅像礼讃2(佐久間象山先生の銅像に想ふ)

ブログ「銅像礼讃1(雨ニモマケズ風ニモマケズ)」から、はや一年が経とうとしています。

この一年間でおそらく100体近い銅像を鑑賞したのでは・・・まだまだ観たい銅像が全国各地各方面で「雨ニモマケズ風ニモマケズ」佇んでいると考えると旅に出たくなりますね。

渡部昇一先生『日本の歴史』(全8巻セット・WAC)という大著がありますが、ここで紹介される人物をすべて銅像で紹介するという途方もない企画を密かに目論んでいます。

しかし・・・意外にも著名かつ重要人物の「銅像」がないことに愕然とするばかり。

顕彰する人がいないと「銅像」は建立されないのですから致し方ありませんねえ。

さて、信州川中島の銅像といえば「上杉謙信公と武田信玄公の一騎打ち」のモニュメントが有名ですが、川中島古戦場跡に隣接して建立されている銅像があります。


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   これは存在感のある銅像です


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  誰の銅像なのかというと・・・


「松陰の胆略 虎三郎の学識 皆稀世の才なり 

 但事を天下に為す者は吉田子なるべく 

 我子を依託して教育せしむべき者は独り小林子なるのみ」

松陰とは吉田松陰先生、虎三郎とは小林虎三郎先生のことですが、この偉人たちを評した師、幕末の異才・佐久間象山先生の銅像です。


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   吉田松陰先生の御尊像(萩市


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   小林虎三郎先生の御尊像(長岡市


周知のとおり、この川中島の地は江戸時代には松代藩・真田家が統べており、象山先生は松代藩士であったことから「おらが町の偉人」として建立されたのでしょう。

碑文には次のように記されています。


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   象山先生の遺徳を偲ぶに相応しい銅像   


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   台座もセンスがありますねえ


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   顕彰すべき偉人には碑文は必須!


「知有繋五世しめせ象山の志

余年二十以後乃ち匹夫一国に繋り有るを知る 三十以後乃ち天下に繋り有るを知る 四十以後乃ち五世界に繋り有るを知る

右は佐久間象山の名著『省諐録(せいけんろく)』の最後の一節である

『私は二十才以降凡夫ながらも信濃の国に三十才以後は日本国に四十才以後は全世界につながりのあることを悟った』と意訳できる

佐久間象山(一八一一〜一八六四)は信濃国松代藩(現長野市松代町)出身の明治維新の大先覚者で、その門下から吉田松陰勝海舟・坂本竜馬等多くの俊秀を輩出した象山は常に世界的な視野に立って日本の現状をみつめ遠く国家の将来を見る先見の明があった

その卓見は没後着々と実現され今日我が国の繁栄にまで及んでいるのである

21世紀に向けて『明るく豊かな社会』を創り出すために象山の詞のごとく地域に国家にそして全世界に繋りをと視野の広い人材が雲の如くこの地から起こることに願いをこめて象山先生の像をここに建立する

平成二年十一月吉日  長野市長 塚田 佐」


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   製造はあの竹中銅器です!


ちなみに、銅像の作者は長崎県出身の彫刻家・冨永直樹氏。

冨永氏は、大正2年(1913)生まれ。東京美術学校(現在の東京芸術大学)で彫刻塑像を学び、平成元年(1989)には文化勲章を受章されている名彫刻家です。

地球儀と分厚い百科事典に手をかざし、左手には未来を見るかのように望遠鏡を持っています。

しかし、なぜ古戦場跡である「八幡原史跡公園」に建立されているのか?

下衆の勘繰りかもしれませんが、観光名所に建立すれば「気づいてもらいやすい」からですかね。

もしかすると建立地には由縁があるのやもしれませんが、寡聞にして知りません。


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   この質感、やはり銅像はこうでなきゃ!


それはともかく、文化勲章を受章されている作者による見事な銅像で申し分ないのですが、柔和な風貌になってしまっているのが惜しまれます。

象山先生を顕彰する人々にとっては「偉大なる人格者の風貌」を希望されたのでしょうか。


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   この風貌は優しすぎるか?


これが戦国武将ならば、肖像画が現存していても「実際の当人」通りに描かれたかどうか判然としないので左程気にならないのですが、幕末から明治維新に活躍した人物には写真が現存しているだけに、どうしても「面構え」が異なると感情移入し難いのです。

勝海舟の妹である妻の順子に、象山全盛は自作のカメラで撮影させた晩年の写真が現存しています。


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   象山先生写真(「松代町ものがたりウォーキング」)


銅像の芸術性は作者によりピンキリですし、冨永氏による「佐久間象山先生の銅像」は「非の打ち所がない芸術作品」なのですが、やはり象山先生を敬愛するものとしては、欧米列強を睥睨する鋭い顔貌に仕上げて欲しかったと感じてしまいます。

ちなみにNHK大河ドラマ「八重の桜」で象山先生を演じた奥田瑛二氏はハマリ役でした。


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奥田瑛二演じる象山先生(大河ドラマストーリー『八重の桜・前編』) 


嘉永4年(1851年)、象山先生は江戸木挽町に西洋砲術・兵学を教授するための私塾「五月塾」を開き、その門下は先に紹介した吉田松陰先生、小林虎三郎先生以外にも、勝海舟、橋本左内、坂本龍馬、河合継之助、高杉晋作、加藤弘之(帝大第二代総長)など錚々たる顔ぶれでした。

巷間、象山先生は「異形なる面構え」からくる印象とあいまって、傲岸不遜な性格であったと真しやかに語られます。


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河野通勢作・象山先生肖像画(「松代町ものがたりウォーキング」)


上の象山先生の肖像画は河野通勢によって1919年3月に制作されたもので実に見事な肖像画です。

右上の額の中には黒船、白馬に騎乗した象山先生とおぼしき人物が描かれており、象山先生の手元にはショメール百科辞典と地球儀が描かれています。

絵画もそうですが、やはり銅像にも、その人物の「人となり」を暗喩する表現が欲しいものです。

象山先生にとって義兄にあたる勝海舟は「氷川清話」で象山先生が「大法螺吹きだった」と述べていたと書かれていますが、海舟自身が元来口汚く言葉を額面通りに受け取るべきではないと考えます。

「海舟」という号は象山先生に授かったものであり、海舟が「先生」という敬称を使っているのは象山先生に対してだけであったといいます。

江戸時代とは「士農工商」という身分制度があり、士分の中にも厳然たるヒエラルキーがありました。

極端な話、無能であろうが家老の家に生まれた者が家老になる、いわゆる徹底した世襲制の時代だったのです。

下級武士であった象山先生は、松代藩においては優秀であるがゆえに無能な門閥からは過小評価や讒言が多かったことは想像に難くありません。


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   象山先生の御尊像(松代町八幡原史跡公園)


各藩では秀才であるもにに江戸遊学を許していた訳ですが、その江戸で最高の塾との評価を得ていたのが象山先生の私塾だったのです。

象山先生は、当時の典型的な知識人として漢学、儒学、詩文、和算の習得はもとより、松代藩主・真田幸貫公が幕府より「海防掛」に任じられたことを契機に見出され、洋学(蘭学)を短期間で習得、洋書を読んで西洋の大砲製造技術を独学で習得し、実際に西洋大砲を製造しているのです。

ちなみに、真田幸貫公は寛政の改革を主導した老中首座・松平定信の長男(ただし庶子であったために公的には次男)にして、8代将軍・徳川吉宗の曾孫に当たる人物です。

松代藩8代藩主にして老中まで務め、国許では殖産興業、産業開発、文武奨励などに努めた江戸後期を代表する名君の一人と評されるほど。

しかし、象山先生の悲劇は松代藩という薩長土肥という大国とは比較できない小藩の出身だったため、その異才を遺憾なく発揮するバックボーンがなかったという事実。

この点は越後長岡藩の河井継之助公も同様でしたが、蓋棺事定とはよくいったもので、その時代には評価されずとも歴史を遡及すれば「偉大なる人物」は必ずや光り輝くのです。



閑話休題



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   象山先生の御尊像(松代町八幡原史跡公園)


欧米列強の技術が如何に高度なものかを学びを通じて知った象山先生は、幕府の砲台が海防に役に立たないことを早くから指摘し、ペリー来航により象山先生の慧眼は立証されることになります。

象山先生は「夷の術を以て夷を制す」、それには開国して欧米列強の技術を自家薬籠中のものとする必要性を説いておられたのです。

「東洋道徳、西洋芸術」

これは象山先生が小林虎三郎先生の御尊父宛の手紙に書かれたスローガンですが、「和魂洋才」というテーゼを先取りした実に見事な表現です。

しかし、象山先生は門人であった吉田松陰先生の米国密航未遂事件に連座し、10年近く松代での蟄居を余儀なくされ、歴史の表舞台から消えることになったのです。

文久4年(1864)1月、将軍・徳川家茂が入京、将軍後見職・一橋慶喜が禁裏守衛統督兼摂海防禦指揮に任じられ、慶喜は異才・象山先生を幕府御用で上京させるのです。

象山先生は「開国政策」を天皇の勅許によって推し進めるため公武合体論を献策しますが、元治元年(1864)7月11日夜半、尊皇攘夷派の熊本藩士・河上彦斎らによって斬殺されていまいます。   

ときに象山先生、享年54歳。





司馬遼太郎氏が或る小説の中で、この河上彦斎の象山先生斬殺後の心境について次のように描写しています。

「犠牲者は小物ばかりであるといったが、ただひとりの例外は、社会的地位はひくいとはいえ、その言説の影響力の点では大物といえる佐久間象山が、河上彦斎のために殺された。

彦斎はこのあと人変わりがしたように暗殺家業をやめた。

斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて彦斎ほどの手だれが、身がすくみ、このあとも心が萎え、数日のあいだ言い知れぬ自己嫌悪におちいったという」

しかし、松代藩内には「佐久間憎し」の門閥も多く、彼らは象山先生の死後3日目にして佐久間家の知行・屋敷地を召し上げ、断絶に追い込んだという。

佐久間象山死後3日に佐久間家の屋敷は没収され佐久間家は断絶します。


  時に逢はば散るもめでたし山桜 めづるは花のさかりのみかは


これが象山先生の辞世ですが、非業の死を遂げることを予見していたかのような歌ですが、実践的な思想家であった象山先生の銅像を見上げながら「志とは何ぞや」と沈思黙考した次第。


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   象山先生の御生誕地にて(松代町



さて、問題はここからです。

長野県松代町には象山先生を祀る「象山神社」がありますが、ここに馬上姿の象山先生等身大の銅像が建立されました。


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   シルエットなら何とか絵にはなりますが・・・


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   馬の造形予算を象山先生に注ぎ込むべき!


生誕200年記念事業実行委員会が松代町内外の賛同者から御寄進を募り、平成22年9月に建立除幕式が執り行われました。

作者は富山県高岡市の彫刻家・田畑功氏。


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   台座からセンスがありませんねえ


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   生誕200年記念事業はいいのですが・・・


「象山先生ゆかりの地に銅像を!」という気持ちは分かりますが、建立するのならば「八幡原史跡公園」の象山先生の尊像に勝るとも劣らない芸術的な作品にして欲しかったですね。

製作された田畑氏に問題があるというのではなく、依頼する側に明確な造形イメージがあったかどうかが問題です。

ただ、この田畑氏は謙信公の小型銅像も製作されていますが、私個人としては「・・・」です。

上越市の高田駅前本町商店街の郵便ポストの上に設置されていますが、「謙信之像」と刻印されています。

呼び捨てかい!何を考えているのか・・・「謙信公」でしょう!

特に騎乗する姿となれば「人+馬」ですから製作コストが嵩む訳ですから、十分な予算と全国に建立されている騎乗銅像を調査した上で、製作者をコンペで選定する必要があったのではないでしょうか。

勿論、建立までの具体的な経過は知らない私が、とやかく意見すべきではないとは思いますが、一銅像ファン、また象山先生を敬愛する者としては「この緩さ」は看過できません。


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   顏の造形が緩すぎて誰の銅像なのか不明


銅像から押し出してくる「威風」が感じられません。

ブログ上杉謙信公の銅像に想う」に書いたとおり、既に銅像が建立され、その銅像が秀逸な作品である場合、さらにいえば至近距離に「?」の銅像は地元の良識ある方はもとより、観光客をも惑わすだけです。

私は銅像が三度の飯より大好きなのですが、低予算で志の感じられない「銅像」は後世に禍根を残すだけではないでしょうか。

象山神社はご本人を祀っている神社であるだけに、誠に遺憾ですね。


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   象山神社 正面鳥居


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   象山神社 本殿





この「困った銅像」はともかく、神社境内地内には素晴らしい石碑が建碑されています。

万延元年(1860)春、象山先生50歳の時の作「櫻賦(さくらのふ)」の碑です。


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   銅像よりも趣のある石碑で十分では?   


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   「櫻賦」の碑


孝明天皇の天覧を賜った由緒ある名文なのですが、櫻花の美徳をたたえ憂国の至情をこれに託し、人に知られぬ山の奥に散りゆく桜の花を自分にたとえ、ひそかに勤皇の志を述べた韻文です。

この碑文は長野市文化財に指定されている象山先生眞筆から複製したもので、昭和51年4月11日、篤志家の寄進によって建碑されました。

渡部昇一先生が、郷里の山形県庄内地方の豪商である酒田の本間家、鶴岡の風間家の威徳を折に触れご著書で紹介されていますが、こうした旧家の篤志家は全国各地に存在していただろうと語っておられます。

旧家はGHQの農地解放で潰えていくことになります。

渡部先生は旧家を潰したのは「GHQ」の名を借る富者を妬む「左翼の民法学者」だったのではと推測されています。

郷土の人々の幸せを念じて慈善事業を行っていた商家が立ち行かなくなって久しいのですが、地元の名士や有力企業も「己が功名のための緩い銅像」の建立だけは止めていただきたい。





不識庵

2016-07-13

仏国土

久しぶりに上杉謙信公について書いてみたいと思います。

「毘」の旗印は謙信公のトレードマークともいえますが、これは謙信公が「毘沙門天」に深く帰依してことによるものです。


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   「毘」と「懸かり乱れ龍」(米沢市上杉博物館


問題は、なぜ、如来でもなく、菩薩でもなく、天部なのか。

さらにいえば「不動明王」をはじめとする五大明王や持国天、広目天、増長天ではなく「毘沙門天」だったのか。

ご存知の方も多いでしょうが、一般的な毘沙門天は「仏法を守護する四天王の1人であり、「北方」を守護する甲冑姿の武人神であり、「憤怒の形相」で右手に宝叉、左手で宝塔を捧げて御座します。

謙信公が信奉された「泥足毘沙門天」像は有名ですが、これとは別に「刀八毘沙門天王」という異形の明王像が上越市の林泉寺に伝わっています。

まさに武神と畏れられた謙信公さながらの尊像です。


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   林泉寺の刀八毘沙門天王コラージュ by 不識庵)


私は謙信公が「毘」の旗印を掲げた本意は「天皇」への崇敬の念にあったのではと考えています。

司馬遼太郎氏の小説に『王城の護衛者』という最後の会津藩主・松平容保公を描いた作品があります。

容保公が孝明天皇のため身命を擲ち至誠を尽くしたにもかかわらず、やがて「朝敵」とされていく悲劇が描かれています。

小説の結末には、容保公が孝明天皇から賜った「宸翰」のエピソードについて書かれていますが、強く胸を打つ逸話です。

「朕はもっとも会津を頼りにしている」という孝明天皇の御言葉・・・そう、容保公がそうであったように、謙信公の尊皇精神への傾倒も、天文22年(1551)春に後奈良天皇より綸旨を賜ったことに始まります。

かつて映画「天と地と」では、この綸旨を後奈良天皇の勅使が春日山城内で読み上げるシーンがありましたが、これは謙信公を敬愛するものとしては感銘する演出でした。





綸旨の内容は以下のとおり。


平景虎 

住国並隣国挿敵心輩所被治罰也

伝威名子孫施勇徳万代

弥決勝於千里

宜尽忠一朝


読み下すと次のとおりです。


平景虎

住国並びに隣国において敵心を挿む輩治罰せらるる所なり

威名を子孫に伝え勇徳を万代に伝え

いよいよ勝ちを千里に決し

宜しく忠を一朝に尽くすべし



謙信公は越後守護代・長尾家の出自ですから源平藤橘でいえば「平家」の末裔です。

ちなみに名跡を継いだ山内上杉家は「藤原家」の末裔です。

上越市の林泉寺の山門に掲げられた「第一義」の扁額は謙信公が揮毫されたものですが、「藤原輝虎」と署名されています。

(「輝」の一字は足利十三代将軍・義輝の諱を拝名したもの)


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   「第一義」扁額(レプリカ・上越市埋蔵文化財センター)


仏教が日本に伝来して以来、その教えは「鎮護国家」のためにあったことは周知のとおりです。

謙信公は深く仏道に帰依していたことは有名ですが、謙信公にとって「宜しく忠を一朝に尽く」ことは、取りも直さず、此岸、すなわち「この世」に仏国土を築くことだったように感じます。

戦国の武将たちは神仏に対して「戦勝祈願」、すなわち現世利益の信心は持っていたようですが、謙信公が神仏に祈願していたのは「仏敵」を成敗するための筋目が己にあることのアファメーションであったのです。

「非道を知らず存ぜず」とは「己は道に外れず」というのが本義なのです。

道とは即ち「仏道」に他なりません。

私たちが単純に「現代の物差し」で中世の宇宙観や人生観を測ってしまっては「大事」なものを見逃してしまいかねません。

世阿弥の「風姿花伝」の序文にも「まづこの道に至らん者は非道を行ずべからず」とあります。

「非道」とは己が極めんとする道を逸れることを意味するのです。

謙信公は王城の北方を守護する「毘沙門天」たらんという気概で「入我我入」という境地を求めて求道に精励しておられたのです。

「我、毘沙門天となり、この世を仏国土たらしめん」という仏道者の旗印が「毘」の旗印であったのです。

武家に生を享けた謙信公なればこそ、武神としてしか己を活かすこと能わず、僧侶以上に僧侶らしい「いきざま」で戦国の世で「仏法」の法灯を守られていた稀有な存在です。

謙信公が薨去されてから約400年が経過し、僧侶たちは使命感を失い、謙信公が予想だにしなかった事態となっています。

現在、日本の僧侶の大方は在家と同じような、いや金銭的には在家以上の生活を享受し、「出家者」とは言えない実態にあります。

一昨年、「こうやさんフェスタin奈良 〜行くなら高野山〜」の中の催しとして「美・坊主僧侶10人によるファッションショー」なるイベントがありました。

企画をしたのは「高野山真言宗青年教師会」で、全国に約3600ある高野山真言宗寺院の青年教師が運営をしている全国組織。

何を考えているのか・・・高野山金剛峯寺といえば、その塔頭のひとつ無量光院の住職であった清胤から、謙信公は伝法潅頂を受け「阿闍梨権大僧都」となられています。

もう、弘法大師が開かれた聖地でさえ・・・肉食妻帯はもとより、このスノッブさには何をか況やです。





好むと好まざるとにかかわらず、大概の僧侶は「生臭坊主」として寺を世襲し続けています。

社会環境が大きく変化して肉屋、魚屋といった家業が立ち行かなくなった時代にもかかわらず、生臭坊主たちは法的根拠のない寺請制度に安住し、出家せぬ「職業住職」に成り下がっているのです。

江戸幕府はキリシタン弾圧と既存の仏教勢力を体制内に取り込むため、寺請制度により寺院に檀家を宛がい、過去帳という住民台帳(戸籍)を管理させたのです。

戦国時代一向一揆が象徴するように狂信的な宗教アジテーションによる武装化を恐れた江戸幕府は、特定の宗派が勢力を拡大しないよう「宗論」を封じ、僧侶の布教活動を禁じていたのです。

檀家という謂わば「固定客」に庇護された寺院は幕府出先機関となり下がり、僧侶もまた字義の如く「住職」として居座りはじめます。

しかし、「肉食妻帯」は御法度であり、血の繋がっていない弟子が住職を継いではいたのです。

ところが明治を迎え、宗派を問わず「肉食妻帯勝手たるべし」という政令を「何故か」受け入れ、挙って妻を娶り、自分の子供に「住職」という家業を継がせていくのです。

例えば曹洞宗では「葷酒山門に入るを許さず」という石碑を臆面のなく山門前に出し、あろうことか道元禅師が知ったならば怒り狂うであろう「水子供養」に血道を上げている寺さえあります。

「非僧非俗」を宗祖以来の伝統とする浄土真宗の僧侶はいざ知らず、出家し戒律を堅持することが大前転であった天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、日蓮宗が、我先にと「非僧是俗」化していき、その堕落ぶりは目を覆わんばかり。





「遭いがたき仏法」に遭うため、一大決意して「出家」する気概をもった僧侶は少数であり、大半が「世襲」で住職の地位を約束された子息が寺院を継承し、世代を重ねるごとに僧侶は「徳なし、悟りなし、説法なし」と劣化し続けています。

怖いことですが「信心」すらない僧侶も多いように感じます。

「己が寺院の子息として生まる」ことになった歴史的な背景さえ知らない者が、煩悩に塗れながら「住職」という家業を継ぐ・・・まさに寺院の在り様は末法状態!

庶民の先祖を崇拝するこころ、法的根拠の失効した寺檀制度に支えられ、僧侶は安穏と葬儀と法要、墓地管理を「生業」としながら、住職(親)から副住職(子)へ世襲しながら檀家に寄生しています。

一宇を構えず、托鉢しながら説法する清貧な僧侶はどれくらいいるのでしょうか?


鎮護国家はもとより、衆生さえ救えない僧侶たち・・・何故か「寺格」の高い寺院の僧侶ほど「徳」は低く、銀座の高級クラブのホステス顔負けの高額な「御布施」をせしめているという実態。

出家者として清冽に生きられた謙信公が希求した「仏国土」はおろか、堕落しきった僧侶たちによって「葬儀」という儀礼文化さえも死滅してしまうかもしれない世相になってきています。

今の今、いただいた「命」を「使う」こと。

それが使命。

職業僧侶たちよ、

宗祖の熱く高邁な使命感を想え! 

乱世に仏道を歩まれた清冽な謙信公に学べ!





Dies iræ, dies illa
solvet sæclum in favilla:
teste David cum Sibylla

Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus


不識庵

2016-07-10

『 銀の月 』 と COSAコースター

私は月をこよなく愛するものの一人ですが、世に月に魅せられてきた人は古今東西数えきれません。

月をテーマとする写真集は数多いのですが、凡庸な写真を意味なく羅列したものも少なくありません。
しかも、それなりの値段で売られているのですが価格に内容が見合わない・・・

石川賢治氏の「月光浴シリーズ」は悪くはありませんし、写真集としては異例なほど、このシリーズはかなり売れていました。

桑野聖氏が音楽を担当したイメージCDも発売されていたほど。

しかし、です。

私が所有する月の写真集の中でイチオシなのが、2003年に刊行された『銀の月』ピエ・ブックス)。


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   写真集『銀の月』

カメラマンは西島善和氏

西島氏は昭和34年(1959)福岡市生まれ。

日本大学芸術学部写真学科卒業後、フリーカメラマンとなっていらっしゃいます。

平成16年(2004)に「西島写真事務所 &STUDIO」福岡市に設立されています。





私も仕事柄、これまで多くの商業カメラマンの方と接してきましたが、本当に撮りたい被写体だけとって生活していけるカメラマンは皆無といえるほど。

いわゆる「ブツドリ」を淡々とこなしていく地道な撮影で糊口を凌ぐ職業であり、「藝術」として写真を撮るのは「仕事」とは別の世界。

広告代理店や印刷会社に就職せず、フリーでキャリアを積んでこられた西島氏ですが、東京銀座コダックフォトサロンで「moon」(1991)、福岡・Art Spsce貘で「月の夢を見る」(2005)、福岡アジア美術館で「博多湾、海を見にゆく」(2011)と個展を開催されています。

私は西島氏の個展を鑑賞する機会に恵まれませんでしたが、『銀の月』は「ボク宝(ほう)」に指定するほど気に入っています。

もうカバー、帯のセンスから漂う気配・・・たまりません。


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   絶版なのが惜しまれます


「夜空に見えたのは銀色の月
 始まるのは、美しい月とあなたのモノクロームストーリー
 今夜あなたの枕元にこの一冊を」

 この帯のコピーでわかるとおり、全ページがモノクロームです。

 かつて写真集や図録はモノクロームでした。

 初期のカラー図版は、その時代においては鮮烈だったでしょうが、いま昭和50年代頃までのカラー図版を見返すと「・・・」

しかし、モノクロームの良さは観るもののイメージが無限に広がっていくこと。


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   奈良薬師寺の相輪に懸かる月


文章を読みながら映像が鮮明に喚起されてくることがあるように、この写真集は時を経ても「古さ」とは無縁であり、私を思索の森に誘ってくれます。

多くの写真集の運命ですが、すでに絶版となっていることが惜しまれます。

さて、月といえば最近、スグレモノを購入しました。

下の画像、ある商品なのですが一体何かお判りでしょうか?


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   リアルな月面・・・


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   そして地球、日本も見えます


これは「COSAコースター」という商品。

水を吸い取るコースターで表面はセラミック製で裏面はコルク仕様となっています。

地球そして月の2枚セットです。


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   こんなパッケージで売られています


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   こんな便利なコースターがあるとは!


このコースター、グラスに付いている水滴やテーブルにこぼれた水滴を吸収してくれるスグレもの。

濡れたグラスと一緒にコースターが持ち上がることもありません。

自然に乾いていき、吸水力は失われません。





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   わが書斎でも大活躍です


この素晴らしい商品を開発したのが、大阪市平野区に本社をおく株式会社マグネット( magnt)

この社名は「笑顔や幸せを引きつける、大切な人と人を近づける」そんな雑貨を提供していきたいという想いから命名されたようです。

「実用性、適正価格、デザイン 私たちが考える雑貨とは、ちゃんと使う事が出来て、かつ面白い、かわいいと思っていただけるデザインやアイデアを付属したものです。それによって値段があがるのではありません。『これなら買える』価格に設定する為に商品の構成を試行錯誤します」

たかが雑貨、されど雑貨です。

どのような仕事であれ、人を幸せにする仕事は尊いものです。

いや、そうでなければ仕事する意味がないと言えるでしょう。

ちなみに、幸を偏にもつ「執」という漢字があります。

固執、執着、偏執など、ひとつの事象にとらわれる様を意味しています。

旁は「丸」ですが、これは「人が跪き体を屈め、両手を前に出している様、そして「幸」は両手を縛り上げる「手枷」を表現しているのだそうです。

自利の状態とは斯くの如し。

ホント、こころが囚われないようにしないと・・・

「しあわせ」は「仕合わせ」とも書きますが、語源は「し合わす」。

すなわち、人と人とが巡りあう「縁」が「しあわせ」なのですが、モノとの出会いも実は気が遠くなるほど、多くの人が「し合わす」ことで成立していることに気づきます。

「モノより思い出」ですが、モノも人生の大切な思い出を演出してくれることに感謝ですね。



不識庵





銀の月

銀の月


2016-07-01

氷室の日(氷室饅頭と前田綱紀)

季節はうつろいでいきます。

二十四節気では夏至から小暑を迎える時節となりましたが、本日7月1日は「氷室の日」。

氷室京介の誕生日やデビューした日ではありません。





北陸金沢の「氷室の日」。

加賀藩政時代には6月朔日(旧暦)を「氷室の朔日」と称し、毎年冬の間(大寒の雪)に白山山系に降った雪を氷室に貯蔵し、6月朔日に「白山氷」と名付け、桐の二重長持ちに入れ、江戸徳川将軍家へ献上していたそうです。

名君として名高い五代加賀藩主の前田綱紀は、金沢城下に氷室を設け下々の者たちにも夏に氷を食することを許したそうです。

もっとも今日と異なり、夏の氷は大変に貴重なものであり、財力を持っていた商人たちが贈答用に利用していたにすぎず、一般の庶民には無縁の贅沢品だったようです。

そこで、氷の代わりに麦で作った「氷室饅頭」を食べ無病息災を願う慣習だけが残っているのです。

この氷室跡は兼六園南端、山崎山の麓に現存していますが、昭和61年(1986)より、湯涌温泉観光協会では金沢市の協力を得て氷室の復原に着手。

湯涌の氷室小屋は玉泉湖の湖畔に、間口4メートル、奥行き6メートル、深さ2.5メートルの茅葺き屋根小屋として復原され、毎年1月の最終日曜に復原した氷室に貯蔵し、6月末日に氷室から氷を切り出して、石川県知事金沢市長、加賀藩下屋敷があった東京都板橋区に献上しているとか。

さて「氷室饅頭」なるものを本年初めて食する機会に恵まれました。

金沢市内の和菓子屋が挙って作っているようですが、やはりブログ「森八 長生殿」でご紹介した老舗の「氷室饅頭」を食したくなるのが人情。


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   金沢の老舗といえば森八


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   熨斗の後には意匠が入っています


黒漉し餡の入った酒饅頭で、皮は白、紅、緑の3色があります。

やや腰高のしっとりとした生地に瑞々しい黒漉し餡を包んで蒸し上げられた饅頭です。


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   三色で見た目も艶やかです


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   和菓子を愛でるという瑣事も大事


う〜ん、美味しい・・・筆舌に尽くしたい味わい。

ちなみに前田家御用達であった御菓子司だけに、なんと今でも東京に居を構える前田家御当主に「氷室饅頭」を献上している由。

森八では6月下旬から7月1日まで販売されますが、決して7月2日以降に製造販売することはないのです。

消費期限は製造から32時間・・・



閑話休題



さて、氷室の名君・加賀藩第五代目藩主の前田綱紀について少々書いておきましょう。

加賀前田家の家風を確立した名君であり、藩祖である前田利家は傾奇者で勇猛な戦国武将として、つとに有名ですが、この綱紀公は当代屈指の教養人であった人物です。


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   前田利家像(金沢市:不識庵撮影)


藩主として在位されている間、領国経営に緩みはなく、新田開発などの経済振興や当時としては珍しい社会福祉政策にも尽力。

江戸城内における謁見の序列も破格でした。

元禄2年(1698)、五代将軍・徳川綱吉からは外様大名であるにもかかわらず、御三家に準ずる待遇を受けています。

綱紀は加賀藩4代藩主・前田光高の嫡男として生を受けました。

母は水戸藩徳川頼房の息女で3代将軍・徳川家光の養女として前田家に輿入れしています。

藩祖・利家の曾孫に当たり、幼名は犬千代丸。

正保2年(1645)に31歳という若さで逝去した父・光高の後を襲い、犬千代丸は僅か3歳にして5代目藩主に就いたのです。

小松で隠居していた祖父・利常(3代藩主)が再度藩政をみることになります。


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   前田利常像(小松市:不識庵撮影)


承応3年(1654)犬千代丸は元服し綱利と名乗り、徳川将軍家との紐帯を深めるため、保科正之の二女である摩須子(徳川秀忠の孫)を妻に迎えます。

万治元年(1658)、利常が逝去し、岳父である保科正之の後見で綱紀は藩政改革を断行していきます。

新田開発などの農業振興はもとより、「荒政の九法」で知られる飢饉に備えた郡村の組織化など、その後の加賀藩農政の規範となります。

当時、加賀藩が飢饉に備えて創設した「義倉」は、金沢城下に1カ所、越中に3カ所、能登に3カ所、常時10万石から20万石に及ぶ米が備蓄されていたといいます。

利常から始まり、光高、綱紀の三代にわたる加賀藩の農政は、荻生徂徠の『政談』で「加賀の国に非人一人もなし 真に仁政なり」と称賛しているほど。

志の高い為政者は・・・いま、いるのでしょうか?

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシズカニワラッテヰル」





志のない政治家、経営者、宗教家のつまらない醜聞が多い御時世、体調管理に留意していかねば・・・まずは自己管理が肝要。

その上で「利他のこころ」で少しは人の役に立たねば・・・

とまれ、まもなく梅雨明け、暑さが本格的になる小暑を迎えます。






不識庵

2016-06-30

善光寺如来は嘆いて御座す

先日、愚かな余りに愚かな僧侶のスキャンダルが報じられました。

毎日新聞が6月26日に配信した記事をヤフーニュースで読んで慨嘆しました。

ニュースのタイトルは「善光寺トップの貫主がセクハラ 信徒が辞任勧告」


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   ヤフーニュースより


記事の内容は以下のとおりです。

長野県善光寺に2人いる住職の1人で、天台宗『大勧進』トップの小松玄澄(げんちょう)・貫主(かんす)(82)が職員にセクハラや差別的発言をしたとして、善光寺大勧進の信徒総代が25日、『生き仏と言われる僧侶にあるまじき行為。直ちに辞任を求める』とする勧告書を小松貫主に手渡した。

同日に総代会が開かれ、総代12人の総意で勧告書の提出が決まった。勧告書などによると、小松貫主はセクハラやパワハラを受けたとして抗議した大勧進の60代女性職員に対し、小松貫主が昨年8月に不当な担当替えを命令。

同10月には、別の職員に対し、女性職員について差別的発言をしたとしている。

小松貫主を巡っては、過去に女性問題に端を発し民事訴訟に発展した辞任騒動があり、信徒総代はこの際にも辞任を求める申し入れ書を出した。

勧告書では、過去から続く一連の小松貫主の態度や今回の差別的発言などを『看過できない』と問題視し、辞任を要求。

春日英広・筆頭総代によると、小松貫主は勧告書を受け取ったが、『差別的発言はしていない』と否定し、辞任をするか態度を示さなかったという。

天台宗の住職らで構成する『一山(いっさん)』も差別的発言問題を受け、今月23日に小松貫主に本堂への出仕を禁止する通告書を渡している」





あまりにも有名な寺院の貫主の不祥事に暗澹たる思いです。

「生き仏」ならぬ「生臭坊主」の醜態に怒りを通り越して悲しくもやるせない気分です。

今年に入ってからでも、国内最大級の仏教系宗教法人である曹洞宗大本山では東京国税局から指摘を受け、追徴課税数千万円を納めています。

東京新聞(2016年2月12日)では次のように報じています。

「国内最大級の仏教系宗教法人『曹洞(そうとう)宗』では、一般の僧侶らが大本山の高僧に会いに行く際、高額な『お気持ち』(献上金)を持参するのが習わしになっている。大本山総持寺横浜市鶴見区)のトップらが4年間で計四千数百万円の献上金を個人的に使うなどしていたところ、東京国税局から『いったん総持寺の会計に入れた上で、給料としてもらうべきだった』と指摘された。源泉所得税の徴収漏れで、総持寺が納めた追徴税額は千数百万円。宗教界に横たわる不明朗税務の一端が浮かび上がった」

全文はコチラで読めますが、もう腐りきっています。

ことほど左様に僧侶たちは時代の経過とともに「堕落すべくして堕落」していきました。

まずは江戸幕府の宗教政策としての「寺請制度(寺檀制度)」、明治政府による太政官布告第133号「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」、そして日清戦争から大東亜戦争に至るまで「非戦」を主張するどころか国威発揚に「翼賛」した挙句、戦後を迎えて今日に至ります。

もう日本の仏教宗派を問わず、世襲制が大前提で「僧侶」としての資質のない子息(または息女)が寺院を継承していくことにより「信仰」とは別に次元、すなわち「職業」としての僧侶に成り下がっています。

日本人の先祖崇拝に寄りかかり、寄生しているといって過言ではないでしょう。

今回、問題を起こした小松玄澄なる人物が貫主を務める善光寺については説明を要しないほどの超有名寺院です。

現存する善光寺本堂は宝永4年(1707)に再建されたもので、昭和28年(1953)には国宝に指定されています。

国宝に指定されている木造建築物としては3番目に大きいといわれる壮麗な本堂に秘仏として鎮座する御本尊も、さぞやお悲しみのことでしょう。

善光寺は「一光三尊阿弥陀如来」を御本尊とし、数え年で7年に一度の御開帳の時だけ特別に拝観することができるのは「秘仏」の御本尊ではなく「前立本尊」。

今風にいえばレプリカ(複製)ですね。その前立本尊が秘仏化しているのですから、なんとも不思議な話です。

この善光寺如来尊は、インドより百済を経て日本に仏教が伝来した際に欽明天皇に献じられた我国最古の仏像とされる三国伝来の仏像でなのです。

ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩従える独特の三尊仏で、天皇家より蘇我稲目が下賜されますが、物部尾興等の奏請により難波堀江に打ち捨てられます。

しかし、推古天皇10年(602)年に信濃国人若麻績東人(後の本田善光)がこれを奉載して祀ったのが信濃善光寺なのです。

白雉5年(654)よりは秘仏となり、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして「前立本尊」が造られたといわれます。

しかし、です。

善光寺に絶対秘仏として祀られた「御本尊」は三国伝来の本仏ではなく、本物の御本尊は山形県米沢市法音寺に御安置されているのです(と信じたい)。

「絶対秘仏」ですから未来永劫、その存在を確認することができないのですから、善光寺には肝心の如来像はなく、謙信公ゆかりの法音寺にある善光寺如来像が真仏であるとする説を信じるのも一興。








歴史に詳しい方ならばご存知でしょうが、善光寺の一帯は善光寺平と呼ばれ奥信濃とも称された地域です。戦国時代、甲斐の虎こと武田信玄による信濃侵攻により、この地域の領主たちは越後の龍こと上杉謙信公に失地回復を哀願するのです。

世に「川中島の戦い」と称される戦国時代を代表する戦は都合5回、長期に渡る攻防戦なのですが、最終的に実効支配したのは武田側です。





武田軍により領土を失った一人・信州中野城主・高梨政頼は戦国の兵火から善光寺御本尊を守るため、神仏に深く帰依していた謙信公に奉じたという伝承が残っています。

謙信公は居城の春日山城内に如来堂を建立し、毘沙門堂「泥足毘沙門天」と併せて深く奉祀されたのです。

その後、謙信公が薨去され、上杉家は豊臣政権下で会津若松へ国替え、慶長6(1601)、関ヶ原合戦後、米沢に国替えとなりますが、善光寺如来尊も謙信公の御尊骸と共に越後春日山城会津若松城米沢城へ御遷座されます。

謙信公の大志を継がれた景勝公は、米沢城本丸の一角に藩祖として謙信公を祀る御堂を建立、御堂本殿の中央に謙信公の御尊骸を、右に善光寺如来、左に泥足毘沙門天を御安置。

さらに、二ノ丸に御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺を建立して供養勤行が厳修されます。

明治に入ると、神仏判然令により米沢城内より法音寺は歴代藩主御廟所のある現在地に移転、明治9年(1875)には本丸の御堂が解体され、謙信公の御尊骸は御廟所中央の現在地に御遷座され、善光寺如来、泥足毘沙門天法音寺に勧請され現在に至っています。

さて、ここで興味深い話があります。

法音寺に安置されていた善光寺如来像を明治32年(1899)に、最後の米沢藩主であった伯爵・上杉茂憲公が同寺を訪れ、修繕するために如来像を東京に持ち出したというのです。

この間、善光寺から上杉家に返還請求があり、茂憲公は内諾したと言われています。

しかし、紆余曲折の末、米沢法音寺に如来像が戻されたのは昭和4年(1929)ですが、昭和8年(1933)には如来像を東京に「出開帳」させています。

一方、善光寺に御安置されている絶対秘仏の如来像は武田信玄により善光寺ごと甲府に移されたとするのが善光寺側の主張。武田家滅亡後、織田信忠によって岐阜の伊奈波へ、さらに本能寺の変を機に織田信雄尾張国甚目寺へ、さらに徳川家康により遠江国鴨江寺、そして甲斐善光寺へと戻されるも、慶長2年(1597)には豊臣秀吉が甲斐から京都方広寺へ勧請。

しかし、秀吉の病は善光寺如来の祟りであるという噂が広まり信濃善光寺に戻されたというストーリーです。

主観において嘘も真もありませんから、少なくと戦国の世、信濃善光寺で「秘仏」とされていた御本尊は、謙信公が春日山に勧請されたと信じております。

これは私が「謙信公びいき」であることによりますが、戦国乱世にあって仏道に深く帰依し「人の道」を歩んだ謙信公こそ奉戴するに相応しい人物であるからなのです。

平成という元号とは裏腹な「末法の世」を救う求道者は何処に御座すのか?






閑話休題



今回の善光寺貫主の不祥事は氷山の一角に過ぎないと感じます。

戦後の社会構造の変化(都市部への人口集中と地方の過疎化)、それに伴う核家族化は好むと好まざるとにかかわらず「法的な根拠のない形骸化した寺檀制度」を根底から揺さぶっています。この実態は鵜飼秀徳氏の著書『寺院消滅』などで詳述されています。

有体にいえば「僧侶」が堕落しきっていることに僧侶自身が無自覚であることが問題です。

まず、僧侶は「日本史」における仏教の歴史を学ぶべきでしょう。

中世において仏教は権力者として政治介入し、強大な力をもっていたわけですが、戦国期に信長秀吉、家康といった天下人が「宗教の恐ろしさ」を否というほど思い知らされ、結論からいえば寺檀制度により「体制内」に取り込んだ訳です。

幕府から宗派によらず布教自体は禁じられ、檀家を監視する代わりに一定の収入を確保できる本末寺の組織で「お上」の下部組織となった訳です。

つまり、寺檀制度は信仰に基づくものではないため、なぜご先祖が「曹洞宗」なのか「真言宗」なのかは意味がほとんどありません。そう、キリスト教は弾圧され、仏教といえども宗派を選ぶ自由がない時代に「菩提寺」が成立しているのです。

私は葬式仏教を否定するつもりは毛頭ありませんが、お釈迦様や宗祖もあずかり知らぬ寺檀制度に安住し布教しない寺院の御本尊は阿弥陀如来や釈迦如来ではなく、「神君徳川家康公」の図像こそ祀るべきではと考えます。

しかし、この制度を作った江戸幕府は、とうの昔に滅んでおり、明治以降もご先祖さまを祀るために檀家と檀那寺としての寺院との付き合いが継続してきただけなのです。

さらに問題なのは明治初めには神仏判然令が出され、仏教は「廃仏毀釈」という復古主義と新国家の権力によって蔑にされてしまうのですが、政府は神社に社格を定め、官国弊社の職員を神職として優遇する一方、僧侶には江戸幕府が禁じていた「肉食、妻帯、有髪の禁」を解くのです。

勿論、これは「肉食、妻帯、有髪」しなければならないという法律ではありません。

しかし、多くの僧侶たちが戒律を堅持し得なかったのです。つまり出家者は出家者でなくなってしまったのです。弘法大師や道元禅師やも、さぞお嘆きのことではないでしょうか。








但し、真宗は非僧非俗を打ち出した宗祖の親鸞聖人以来の伝統で「肉食、妻帯、有髪」でしたから例外です。





すべての宗派は戒律をなし崩しにし、「肉食、妻帯、有髪」が当たり前になっていくのです。哀しいかな「世襲」により寺院は家業となってしまった訳です。

極論すれば、信心のあるなしに関わらず「息子(あるいは娘)が寺を継ぐ状態にあり、いまや「葬儀法要」と「墓」の管理者に成り下がっているといえるでしょう。

勿論、徳の高い僧侶も少なくないでしょうが、社会構造的に「寺院」「僧侶」が本義から大きく変質してしまっている事実にさえ無頓着な「僧侶」が多いのも確かです。

自分が信じてもいない「御仏の教え」を檀家に信じなさいと説教するとすれば、それは精神的な詐欺行為以外の何ものでもありません。

勿論、檀家が多いブルジョワ寺院ばかりではなく、兼業しなければやっていけない僧侶や寺院も多く、廃寺となるケースも珍しくありません。

戦後70年が経過し、日本が戦後レジュームから脱却しなければならないのと同様に、寺院は江戸幕府明治政府行政上の保護や恣意的な政策によって堕落してしまっていることを自覚するところから始める必要があります。

「死とは何か」「信仰とは何か」という問いに真摯に向き合う「出家者」が増えることを切に願います。

善光寺如来は嘆いて御座す!

志高い僧侶は「寺檀制度」という江戸幕府が定めた既得権に寄り掛かるのではなく、「寺院」を出でて布教のために東奔西走していただきたい。







不識庵