破綻した三題噺「安倍、デムーロ、白鵬」

安倍晋三首相が米議会で演説したことをうけ、名演説だ評価はAプラスだといった高評価が新聞・テレビを中心に行われる一方、
あんなものはアメリカでは誰も興味を持っていない、あのバカでかい文字のカンペは何だ、
グローバル人材育成とか文科省が銘打ってるくせに国のトップがグローバル人材でないことを露呈したとか、
一部の跳ねっ返りが色々言っているのが昨今の情勢のようです。
バカでかい文字のカンペなんて菅直人元首相のころには露呈していた事実であり、
それほど重要なことではないような気がするのですが。


さて、政治のことはさておいて、全く関係のない話をしましょう。
今年の3月1日付けでミルコ・デムーロ騎手とクリストフ・ルメール騎手の2人にJRAの通年免許が交付されたことは、
競馬ファンであれば当然知っている事実です。ルメール騎手は色々あったとはいえ、2人とも大きな重賞をすぐに勝ったので、
両人ともフジテレビ系列の競馬中継の勝利騎手インタビューを受けることになりました。
そのインタビューを見て思ったことといえば、
「なぜ彼らに日本語のコメントをさせることにJRAと競馬マスコミは躍起になっているのか」ということでした。
免許交付以前は通訳の外国語訳に外国語で答えるというあり方が標準的だったのが、
3月以降は通訳がいるにもかかわらず、彼らは頑なに日本語を話そうとしています。
これを単純に、彼らがJRAという日本語の環境に積極的に馴染もうとしているからだと、
解釈するのは簡単ですし、その要素が全くないとは間違いなく言えないでしょう。
JRAの日本人騎手の有力どころに外国語が堪能な人がいるという話は聞いたことがありませんから、
彼らと日常会話等々をこなそうとするならば、彼らから歩み寄るのが最も単純な道ではあります。
ですが、僕みたいな自称跳ねっ返りからすれば、「郷に入っては郷に従え」という「ことわざ」にかこつけて、
彼らに日本語を強制させているようにしか見えないのでした。
だからといって、僕は彼らが日本語を全く喋れなくてもいいと主張したいわけではないのです。
この日本という国で成功を収めるには、「日本文化」なるものといかにうまく付き合っていくかが求められます。
外国の人と見れば僕たちはすぐに「ナットウは食えるのか、スシは食えるのか、ハシは使えるか」・・・というように、
「日本文化」への同調性を測ろうとしてしまいます。
この「日本文化」へのつきあいでストレスを溜めてしまうようでは、この国で成功するのは難しいように思えます。
それを避けるには一定以上の同調性を発揮するか、またはフィリップ・トルシエサッカー日本代表監督のように、
自分を一切曲げないかでしょう。デムーロルメールの両騎手は、現状どうやら前者を選択したようです。
そのためには、将来的には使う日本語を可能な限りネイティブに近くしていくことが必要になってきます。
この「エキゾチックな国」で、自分の腕のみを頼りに戦う彼らを暖かく見守っていくべきだと僕は思います・・・が、
今の段階で彼らに対するインタビューの受け答えで日本語を強制するのは、明らかに時期尚早です。
もっと上達を待ってしかるべきでしょう。それに加えて「スポーツジャーナリズム」のあり方にも明確に反しています。
ラキシスキズナを負かしたり、ドゥラメンテを見事に乗りこなした彼らです。
その騎乗のポイントを、彼らが最も語りやすい言語で語らせ、それをわかりやすくファンの耳に届ける事が、
「スポーツジャーナリズム」の本質ではないのでしょうか。
彼らのまだ拙い日本語では、それを語るのに満足な表現ができているようには到底思えません。
それとも、日本の「スポーツジャーナリズム」は、外国人が「日本文化」に従属する様子をお茶の間に流すことが、
西洋への劣等感にまみれた「エスニックジャパニーズ」へのとびきりの処方箋とでも思っているのでしょうか。


同じことは相撲にも言えます。「日本の『国技』」たるかの競技は、
新人の段階で日本語の習得が義務とされ、また日本国籍を持たない人物が親方になることができないのは周知の事実です。
現在におけるこの「競技」の最高のプレイヤーである白鵬関は、これらの制度的「問題」をある程度乗り越えたにも関わらず、
2013年の九州場所で彼が稀勢の里に敗れた取り組み後における観衆の反応を大きなきっかけとして、
「日本文化」とのつきあいに苦悩しており、それが最近のマスコミ対応に現れていると聞きます。
長らくマスコミは「強い日本人力士」の不在と並んで、「日本人力士」が優勝から遠ざかっていることも憂慮していますが、
国籍上日本人である旭天鵬関が優勝した瞬間、「日本出身の力士」に表現を入れ替えました。
これらのことは、近年常に言われ続けている「強い(民族的な)日本人力士」の不在に対する、
相撲ファンを始めとした人々の感情の表出ということになると思うのですが、
このことはつまり、白鵬関があらゆる手段を尽くしても、彼が永遠に「日本人」とはなれないことを表しているのでしょう。
現に日本国籍を取得したかつての琴欧洲関、現在鳴門親方として活動している安藤カロヤンさんは、
力士時代に培った流暢な日本語の会話能力を保持するにもかかわらず、執筆するブログは片言の日本語で一貫しています。
それは、当然本人の意志なのでしょうが、僕たち日本人はそれを見て勝手に「いじらしさ」を感じているのです。
僕たちの中には、外国出身の人々に対して、彼ら彼女らがどのような振る舞いをもってしても、
「日本文化」の中に完全に受け入れることはないという規定性があるのかもしれません。
それはつまり、白鵬関自身にとって「日本人」となることに対する不可能性を表わし、
それは、彼が目指す「相撲道」なるものの体現者になることの不可能性として映っているのかもしれず、
彼はそのことに絶望を感じているのかもしれません。
スポーツエリートが「不格好な」相撲から軒並み「スマートな」野球とサッカーに引きぬかれ、
しかも少子高齢化でプレイヤーが続々減少していく昨今、「日本人力士」、それも「エスニックジャパニーズの力士」に、
国際競争力を求め続けることはもはや無理な話ではないのでしょうか。
相撲の国際化が叫ばれて随分経ちました。今や相撲を見る側も国際化を果たすべき時なのではないかと、僕は思います。


なんだかとりとめのない話になってしまいました。
当初は「自分の語れる言葉で語ったほうがいいだろ、どうせ官僚が作った英語なんて演説中何喋ってるかわかってないぞ」
などという結論に落ち着かせようと思ったのですが、「同じことは相撲にも言えます。」などと言ってしまったせいで、
もはやラブアンドピースぐらいしか言うことがなさそうです。
競馬で話を終わらせたほうが良かったですね。でももったいないのでそのままにしておきます。

声優・上坂すみれから見る現代日本

 一昨年ぐらいから始まった(たぶん)個人的第三次アイマスブームは、AS組13人からミリオンライブの50人にその軸足を移し、
中の人をさかのぼりつつ、(主にTrySailの3人と伊藤美来さんのせいで)鷲崎健さんとかいう変なおじさんに漂着し、
そこから今更になってA&G NEXT GENERATION Lady Go!!とか聞いている事態を発生させるに至った。
ここでようやく学王ラジオを高森奈津美さんがうまく回せた理由がわかったが、これは別の話。
そこで別の意味で気になる存在として浮上したのが、上坂すみれさんである。
無論、今頃初めてその存在を知ったというわけではないものの、案外彼女を取り巻く状況というのは、
現代日本について考えるのにふさわしい題材なのではないかと思うのである。
 彼女が声優としては異様なレベルのソ連好きであり、その趣味を活かした話術、またはツイート、または声優としての方向性で、
多くのファンを魅了しているのは、ある程度の声優ファンなら常識レベルであろう。
だからといって彼女がソ連が国家の礎とした社会主義共産主義を内面化しているようには思えないし、
アイドル声優として、ファンの諸君から「搾取」(マルクス主義の用法とは大きく異なるが!)している現状は抜けようがない。
そこで、彼女のソ連好きなど所詮「共産趣味」に留まり、彼女もまた自身がトークの部品として使う「資本主義」の一部に変わりないのだと、
例えば一般の声優ファンや、彼女のファンに断言してみると、どういう反応があるだろうか。
愚考する限り、大抵は「そんなことぐらいわかってて楽しんでいる」というような反応が帰ってくるように思われる。
彼女の熱心なファンならば、「それがどうした」と言わんばかりの返答が帰ってくるかもしれない。
実際彼女はインタビューで、芸能活動の政治性を否定し、ある種の「ごっこ遊び」として捉えている、といったような回答もしている。
それを知らずに、ツイッターやニコニコで彼女の「革命的ブロードウェイ主義者同盟」(以下「革ブロ」)がもてはやされていると聞くと、
上坂すみれみたいな『偽物』を崇めて喜んでいるオタクの姿を見て公安警察はほくそ笑んでいるよ」などと短絡的に考えてしまうのだが、
この考えは、そもそもオタクたちが「本物」の「共産主義者」など必要としていないことを見落としている。
結局、彼らのほとんどが求めているのは外面だけが整った「本物」らしさであって、内面を伴わない。
上坂さんの芸能活動が実際には資本主義の構造を呈していることは至極当然なことでしかない。
内面を伴わないから、「団結」と「反抑圧」を訴えて一見マルクス主義的体裁を整えた「革ブロ」の決起集会を、
2月11日の「建国記念の日」に行っても、主催者から参加者に至るまで誰も何も違和感を覚えないし、
むしろそんな日にイベントを挙行することについて「愛すべきオタクの国」日本の「伝統」に合わせた妙案である、
というような気分まで覚えているというのが実情だろう。彼らは年に2回のコミケを中心とした各イベントで、
常に規律化していくことを内外から求められ、また「アニメ最先進国」クール・ジャパンに生きる誇りを内面化していく。
彼らは立派な日本のナショナリズムの尖兵である、というのが僕の持論なのだが、体系的にまとめたことはこれまでなかった。
共産趣味」でなく、ナショナリズムを批判的に捉える左の方のオタクというのは日本にどれだけ生息しているんだろうか?
 ところで、一時期日本共産党がネット上でもてはやされ、党員が増加したとか、赤旗の購読者が増えたとかいう報道があったが、
これも「共産趣味」の延長線上にあったムーブメントだったのではないか。
共産趣味」という概念は、一見左翼との接近性があるように見せかけて、資本主義の側から社会主義共産主義を観察するあり方である。
また「共産趣味」によって「共産主義」を理解するというあり方は、ネットに氾濫するゲイポルノとそれに関する文化に接して、
自分がLGBTに理解があるように錯覚するのと同様のあり方である。それは所詮他文化に対するオリエンタリズムでしかない。
そして同様の構造はそこかしこに見られるものであることを、僕たちは常に自戒を込めて現代を生きていかなければならないだろう。