好き好き大好き超愛してる。

著者:舞城王太郎
発行者:鈴木哲
発行所:株式会社 講談社文庫
2008年6月13日第一刷発行

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「柿緒、誓うね。僕はもう一生、柿緒以外の女の子のことを誰も好きにならないから。絶対に」。たとえ心底言いたいことを本気で言っていたにしても、その言葉は耐え難く薄っぺらで、僕も、きっと柿緒もうんざりする。僕も柿緒もその誓いがやぶられるのを知っている。人間の生は記憶で縛られるような脆弱なものではないのだ。柿緒が、でも「私も」と言ってくれる。それは僕の無神経に対する厭味ではない。心優しい柿緒が、冗談じみた言葉を言って僕をフォローしてくれたものでもない。柿緒もまたその台詞を僕と同じく心底言いたくて本気で言ってくれているのだ。「私もこれから一生他の人のことなんて好きにならないよ?」。

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 舞城王太郎の本を読むのは実は初めてで、触手があまり動かなかった事を正直に告げよう。ましてや「好き」や「愛してる」などという言葉が入っている本を私は心底嫌う。人間の愛というのは様々であって、だが、多くの人は「感動的な愛」を求めて涙する。その習慣が私は大っ嫌いだ。

 勧められたから読んだものの、購入してから結構な時間が経っている。やはり”苦手意識”というのだろうか、真っピンクな表紙は私の手を止める事を何度かしたが、読んでからはすぐだった。2日に渡ってしまったが、読む時間が睡眠時間の前だったという事を言い訳にさせていただく。きっと日中何も無い日に読めたのだったら、私が此処にこの本の感想を書くのに3時間はかからなかっただろう。(まぁ本の頁数も物を言うかも知れないが。)

 読み終わった後に感じた感想としては「世界の中心で愛を叫んでる場合ではない」。が一番最初に。今回感想を中心として書かせていただく物語は、柿緒という女性に降り注ぐ”死”が前提になってる。柿緒には弟が居て、恋人が居て、病気が居た。そこには何があったのか。苦しみがあった。悲しみがあった。痛くてたまらない何かがあった。それは引っ括めて”愛”なのかもしれない。”愛”=”美しい”という定義は無いのだ。≠で繋ぎあうわけでもない。”愛”があるからこそ、生まれる憎しみはあれど、その憎しみも全て”害悪”では無い。感情は時として残酷だ。其れは生きている私たちが常日頃から感じる事かも知れない。其れが詰め込まれている気がする。

 例えば柿緒が私だったら…治(恋人)が私だったら…。等という読み方はしていないので涙を零す事(感情移入)は無かった。何故ならこれは「彼等」の”愛”だからだ。

 それにしても舞城王太郎の文章は全てこうなのでしょうか?区切りをどこでつけるかというと、第一章等、そういう所で区切らなければいけないので時間を結構気にしてしまうかもしれない。

 後、きっと、声に出したらとても気持ちいいだろうなと思った(特に「ニオモ」の話や「柿緒Ⅲ」)。私たちは綺麗な愛情のままでは生きていけない。


好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)