背徳のメス

著者:黒岩重吾
発行者:佐藤隆
発行所:株式会社 新潮社
1960年11月 第一刷発行

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 「斎賀君、君の言ってることは子供の質問だよ。人間て奴はね、一つの面だけで生きているんじゃないんだよ。人間も三十半ばになると、色々な垢を身につける。だがね、その垢を落とした時、中身まで腐っていたら、その人間はお終いだよ。確かに君の言う通り、人さまから見れば僕は垢だらけだ。しかしな、最も大切な中身は海からあげたばかりの刺身のように、生き生きしているんだ。外見だけ綺麗な服装をして、中身の腐ってふにゃふにゃしている奴より、僕はずっとまともな男だと思っているよ」

 「さー、わたしにはあなたのおっしゃる意味がよく分りませんが」

 斎賀は鼻白んで答えた。

 「こんな簡単なことがわからないようじゃ、人間を廃業するんですな」

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 第44回直木賞受賞作品「背徳のメス」読了。

 母から「黒岩重吾は面白いから一つは読んでおくといい」と言われ読む事にした。黒岩重吾と言えば検索してもらえばわかる通り、古代史を多く手がけている。…私はあまり古代史が好きではない。歴史が分からない阿呆だからだという説明が的確だろう。知ればきっと面白いのだろうけれど、齧ってもいない知識で読むのはこの上なく失礼だと感じてしまうので手が伸びない。なので一番目についたこの本を選ばせてもらった。

 時代背景が物凄く古く、院内で軽々しく煙草が吸える、ホテル代が600円、給料が1万〜2万という、そんな頃の話。
 院内で起こったとある事件に対し、植秀人が色々と探って行くという内容なのだが、人間の増悪とは恐ろしいものだと感じた。"欲"が人間らしさを纏う作品は久々である。"欲"なんてものは人様々だ。あのバックが欲しい、この服を身に纏いたいという小さな物から、あいつを殺したい等という恐ろしい物、世界征服するぞー!なんていう馬鹿げた物まで、総て"欲"なのだ。だが、この作品に出てくる欲は前者が一番多い。人間とはこうも汚いものなのかという事を総て過ぎ去った大人と呼ばれる人種から見る"欲"がこれなのではないのだろうか。其れは実にちっぽけで哀れな物もある。が、其の人にとっては重大で其れを糧にする位の物になる時もあるのだ。

 推理小説なので少しずつ謎が紐解かれる。「まさかあの人が犯人だなんてー!!!」なんていう驚きは無かったが「あれ、この人関係無いのかな?」という所からひょこっと犯人が出てくる感じ。そのような感じは結構安心して読めて好きである。思いもよらずに新犯人が出てくるなんていう突拍子も無いものより少し犯人が読める位が丁度いい。テストで自分の答えが合っていたかのような気分は、その先を読ませる原動力になる。

 推理小説でなくてもよかったのではないのだろうか?と、思う節もあるが、これはこれでよかったと思う。ただ、やはり時代背景が古いのと、物語が繰り広げられる土地が大阪なので、関西弁が多様されそういう部類の本が嫌いな人にはオススメ出来ないかも。私は古い病院のシステムもまだわかる方なので楽しめた。「嗚呼、もうその消毒薬は使っていないよ…」等という意味のわからない所でも。(笑)


背徳のメス (新潮文庫 く 5-3)

背徳のメス (新潮文庫 く 5-3)