電氣アジール日録

2016-11-06 歴史の捏造について

古事記』の時代サザエさんはいましたか

なんでも日本会議によると、日本模範的家族像はサザエさん一家であるらしい。

日本会議理想サザエさん一家」啓発 24条改正巡り

毎日新聞2016年11月3日 02時30分(最終更新 11月3日 12時49分)

http://mainichi.jp/articles/20161103/k00/00m/040/159000c

阿呆か。

いかに憲法を改正しようとも、かつてのような大家族は復活しない、こんなもんは完全に「絵に描いた餅」である。理由は、産業構造の変化を完全に無視してるからだ。

日本昭和の中ごろまで家族大事する価値観が強かったのは、戦後個人主義に毒されていなかったからとかい精神論の問題ではなく、まず大多数の世帯農家個人商店のような「家業」であり、そこでは家族は最小にして基本の「職場」だったからだ。親族経営農家個人商店も、働き手として子どもとじいさんばあさんが必要だったのである

そうした「家業」がすたれて総サラリーマン化すれば、大家族必要も意義もなくなるのは必然ではないか。本ッ気で大家族に戻したければ、今の日本経済的繁栄を捨てて農村社会に戻れよ。

つーか、よく考えたらサザエさん一家自体、戦後民主主義のもとでできた、せいぜい70年ぐらいの歴史しかないフィクションである

それまで1000年以上も続いてきた日本の伝統的な家族ってのは、武士でも農村でも家督農地)を継承する長男のみがエラく、次男以下は状況次第では家から捨てるものだった(この辺の話は輿那覇潤の『中国化する日本』(isbn:4163746900)にも出てくる。なんと、昭和30年ごろまで農村では長男でなければモテなかった!)

日本会議とその支持者は、神武天皇実在したと主張したり、『古事記』『日本書紀』の内容が大好きなのだから戦後フィクションしかないサザエさん一家などではなく、神代古代天皇家家族構成を理想としないのか?

天照大神は夫のいないシングルマザーで、逆にスサノオも男だけで子ども作ってたな(きっと神代にはiPS細胞があったのだろう)、大国主命一夫多妻ハーレムじゃねえかw

さすがに神代は別としても、神武天皇以降の人皇時代だって、兄妹姉弟で近親相姦一夫多妻の方こそ日本神話が描いてきた美しい「伝統」だぞw

絶対に当たる予言 10年後にドヤ顔させてもらいます

以前も述べたが、現在進行している少子化産業構造の変化が原因にある。

http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20160404

少子化非婚化の原因は若者貧困から賃金を高くすれば少子化非婚化も解決すると主張する人は少なくない。確かにそれも大きな側面だ。

しかし、そう主張する人の多くが見落としているが、合計特殊出生率戦後最低値を更新した「1.57ショック」は、バブル経済絶頂期の1989年だ!! 第三次産業中心社会に移行すれば少子化が進むのはどこの国も通ってきた道なのである。景気が回復しても、それだけで出生率が飛躍的に改善することは多分ない。上記の説明でも触れたが、少子化の打開策は「家業の復活」しかないと思う。

から、ここでひとつ「絶対に当たる予言」をしてやる。

憲法24条が改正されても、絶対に少子化改善しない!!

現状の自民党案どおりに改憲が実現したとして、その改憲を推進した人たちは10年後に必ず、「あれぇ、なんで出生率が伸びないの?」と思う。そして、その理由を「改憲されてもいまだに日本国憲法時代の間違った個人主義価値観に毒された世代がうんぬん」という言い訳正当化する、ここまでテンプレ

――もっとも、この予言は、春が来たら「必ず桜が咲くぞ」とか、夏が来たら「必ず台風が来るぞ」と言うようなものから予言ですらないがw

もちろん、改憲関係ない別の理由で少子化改善すりゃ、そっちの方が良いに超したことはない。

バブルすごい」のディトピア

日経新聞正社員様によると、デフレ不況若者が消費しないせいらしい。

インフレ知らず悲観的…物価2%、ゆとり世代が壁  :日本経済新聞

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nikkei.com/article/DGXLASGF24H0E_V21C16A0SHA000/

阿呆か。

日経新聞正社員様は西友スーパーとか行ったことねえんだろうなあ。西友じゃさも自慢げに「6ヵ月以上値上げなし プライスロック」ってポスター貼ってるぞ。

http://www.seiyu.co.jp/campaign/pricelock/index.html

まさにアンチインフレ権化!! 西友アベノミクスに真っ向から敵対してるじゃねえかw

当然ながら、西友スーパーの愛用者のメインは「若者」ではない、30〜60代の主婦のおばちゃんが大多数である。今やバブル世代含めて標準的専業主婦はみんなデフレ支持なんだよ!!

からずっと思っていたのだが、バブル世代が自慢げに口にする「俺らの若い頃は高級車や高級ブランド品にバンバン金使って消費してたのに、今の若い奴は消費しないからケシカラン」という自慢話は、最低のクソ言説である

それ、戦中派世代の「俺らの若い頃は支那チャンコロ兵と殺し合いしてたのに云々」や、全共闘世代の「俺らの若い頃は機動隊ゲバ棒でぶん殴ってたのに云々」と同じじゃねーか! で、バブル世代はそーいう上の世代の自慢説教いちばん嫌いだったはずだろ?

そして、ここが重要なのだが、バブル世代が高級車や高級ブランド品などの高額消費に金を使ったのは日本経済のためなんて大義ではなく、自分快楽のためだろ!! なんでそれを自慢げに威張ってんだよ?

平成生まれが聞いても信じないバブル時代真実

昨今では「20〜30年早く生まれてバブル時代に生きたかった」とホザく若者もいるそうだが、以下は1970年生まれでバブル経済絶頂期に20歳だったわたし経験証言である

(1).バブル時代にも貧乏人とブラック企業はあった

(2).バブル時代オタク人間以下の最底辺の身分だった

(3).バブル時代大学企業体育会系帝国だった

(4).バブル時代にはすでに深刻なモテ格差がはじまっていた

(5).バブル時代日本人海外で嫌われていた

まず(1)、わたし高校卒業直後の1989年最初に就いた仕事は福岡市内の新聞配達員で、配達のみ集金業務なしの契約だったが、本来ならば専業職員がやるべき広告チラシ折込などの雑務もやらされ、実働時間は集金業務ありの学生配達員と同じだったのに、賃金は集金業務なしの金額だった。しかも1日10時間以上労働はザラで、残業代は出ない。大企業ならいざ知らず、地方中小事業所なんて当時もそんなもんである

(当時は「ブラック企業」という言葉と概念がまだなかっただけだ)

次に(2)、一部で言われ古されているがバブル絶頂期の1989年には、幼児誘拐殺害藩の宮崎勤逮捕されて、一気にオタクバッシングが広まった。

バブル崩壊後の長期不況お金のかかる娯楽(高級車、高級ブランド品、ゴルフワイン料亭ディスコを貸切にしてナンパなパーティとか)がすたれた結果、2010年代現在、「消去法のように」若者の娯楽としてはゲームアニメ漫画の地位が向上した。しかし、1989年当時は、お金のかかる娯楽の方が圧倒的に主流だった。

現在ディスコを貸切にしてナンパパーティするウェイ系リア充オタクの身分差が「貴族と下級市民」ぐらいの感覚なら、1990年当時には「皇帝奴隷」ぐらい感覚のだった。

続いて(3)、1990年代後半以降のITの普及で、現在でこそオタク向けデスクワークは圧倒的に増えた。ところがバブル時代当時、ビジネスは圧倒的に「夏でもネクタイスーツ」で、「大きな声を張り上げ」、「手で触れる実体のある商品」を直接に取引先に営業するのが中心で、企業ではそういうのに向いてる人材いちばん重宝された。つまりはバリバリ体育会系である。当然、ホリエモンみたいな奴なんてまだ影のような存在しかない。当時の若者がみんなマネをしたタレントとんねるず石橋と木梨だ。

そして(4)、バブル時代とえいば、『POPEYE』だの『ホットドッグ・プレス』だの『MEN'S NON-NO』だのの雑誌流行ファッション女子ウケるオシャレな店など、「モテマニュアル」を押さえてないと相手にされないとしきりに喧伝された時代だった。結婚相手の条件は高身長高学歴高収入の「3高」なんて言われた時期。あと、「20代女性人口がXX万人も男性より少ない」なんて報道もよく聞いた。

この当時に比べれば、若者貧乏がめずらしくなくなって無駄な見栄を張る必要がなくなった現代の方が、ある意味では健全に思えてならない。

最後に(5)、今の日本で「爆買い中国人」がよくコケにされているが、あれはバブル時代フランスシャネル本店の前に行列をなした日本人買い物客とかの姿とまったく同じである日本人ニューヨークロックフェラーセンターの前の土地を買い取ったときなんざ、アメリカじゃひどい憎まれようでしたよ。

――上記のようなバブル時代真実って、テレビ昭和回顧ネタとかじゃ絶対に語られない。ウケないからだろうね。結局みんな「見たいものしか見ない。「日本スゴイ」ネタと同じだ。

2016-09-30 「リベラルなエンタメ」はあり得るか?

ヒロイズムの否定しかできない左派の愚

このブログでは毎度のように周回遅れで後出しネタだが、今さらこの辺の話について。

https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/770565856199790592

シン・ゴジラ』に限らず、ここ数年というもの、自衛隊ともコラボした『ガールズ&パンツァー』だの『ゲート』だの、日本アニメやらゲームではウヨにウケるミリタリ系エンターテインメント作品のヒット作が続出し、共産党やら社民党やら民進党関係者だの左翼リベラル派がそれに噛みつき、「ブサヨエンタメ言論弾圧者」というレッテルを貼られるというダメループがくり返されている。

そういや、少し前には、産経新聞社月刊正論8月号で、桜井浩子ウルトラマンについて語ったりしてた。

おいこら、俺はもうすでに10年近く前から言ってるぞ日本左翼は今、「面白いもの」「カッコよいもの」「夢」保守陣営に取られてる事実を率直に考え直して頂きたいってな!!

なぜ、ヒロイズム立脚したエンターテインメント右派は相性がいいのに、左翼はそれを否定する側になってしまったのか? たぶん、そのヒントはこの辺↓にある。

なぜ、サヨクリベラルは人気がないのか…社会心理学で原因が判明!?

http://lite-ra.com/2014/11/post-616.html

・サヨが重視する価値観

ケア/危害〉……苦痛を感じている者を保護し、残虐行為を非難すべし。

〈公正/欺瞞〉……ふさわしい人々と協力し、抜け駆けする輩を警戒せよ。

自由/抑圧〉……信頼できないリーダーによる不当な制限を退けよ。

・ウヨが重視する価値観

〈忠誠/背信〉……チームプレーヤーには報酬を、裏切り者には制裁を。

権威転覆〉……安定のために有益な階層関係を形成し維持せよ。

〈神聖/堕落〉……聖なるものを尊び、汚らわしいものを卑しめ。

この分類に立つと、左翼リベラル派の価値観では、歴史物で人気のある主君に忠義を尽くす武将とか、組織や集団の強い団結や戦友愛、崇高な理想への自己犠牲などを美化する作品だのは、みんなNGということになってしまう。

しかしである、逆にいえば、左翼リベラル派の価値観に即したエンタメだっていくらでも成立し得るのだ。横暴な権威への反抗、悪い為政者に対する弱者正義、弱い人間保護し広範な立場の人々と絆を結ぶ……などといったモチーフの作品だ。

あの世界的ヒット作のファン反差別リベラル派?

実際問題過去には広義の左翼リベラル派に人気のあったエンタメ作品は多数存在する。白土三平の『カムイ伝』は、領主の悪政に立ち向かう農民&被差別階級の決起を描いて左翼学生に支持されたし、赤軍派よど号ハイジャック事件ループは「我々は『あしだのジョー』だ」と言った。むしろ、1970年代当時まで、漫画アニメヒーローは、権力に与しないアウトローであることの方が多数派だった。

主人公国家権力側の人間である刑事ドラマだって、『太陽にほえろ!』など、人気があったのは大抵、組織に忠実な優等生ではなくはみ出し者タイプのアウトローキャラである。この図式は『機動警察パトレイバー』『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』『PSYCHO-PASS』にまで一貫している、それどころか、この3作品とも主人公はぜんぜん国家権力に忠実とは言いがたい反逆警官ではないか。

はたまた、現代でも『亜人』『東京喰種』『寄生獣』『仮面ライダーアマゾンズ』など、主人公を世間一般の多数派から迫害される少数者の人外の怪物(端的に言ってしまえば被差別マイノリティ)の側に置いた作品が多数存在し、一定の人気を得ている。本当に社会右傾化しているならこれらの作品がヒットするわけがない、主人公普通人間で、それが人類に害を為す異物を排除するのが一切正しい行為、という作品がばんばん作られてヒットしていなければおかしいはずだ。

Newsweek』の2015年9月6日号に、興味深い記事があった。「ハリポタトランプ旋風を止める?」というもので、アメリカで『ハリー・ポッターシリーズファンに対して行われた調査によると、同シリーズの愛読者ほど、同性愛者やイスラム教徒への寛容度が高く、ドナルド・トランプは、同シリーズの悪役で魔法使い以外の人間にきわめて差別的なヴォルデモート卿になぞらえられるという。

どうよ?

このように、差別的なエリート主義者を嫌な悪者として描くエンタメ」や「悪い権威への反抗をヒロイックに描くエンタメ」や「マイノリティ目線に立ったエンタメはいくらでもあるのに、楽しくそれらを語ることができないのが、今の左翼の本当に救いがたくダメなところだ。

なお、エンタメを禁圧するのは左翼だけとは限らない。戦時中にも娯楽作品は検閲されまくり、傷痍軍人を描いた江戸川乱歩の『芋虫』は発禁にされ、映画『無法松の一生』主人公戦争未亡人に恋心を抱くという内容ゆえ改変を余儀なくされた。

こんな『シン・ゴジラはいやだ!

もし仮に、「右翼的エンターテインメント」と「左翼的エンターテインメント」を、それぞれ純粋に徹底するとどうなるか?

純粋右翼的エンターテインメント

権力、体制はつねに正義である

・もちろん主人公はつねに体制権力に忠実な優等生

職業軍人は全員、清廉潔癖の聖人君子である

少数民族異端マイノリティはつねにすべて悪

・強い者が正義貧乏人はすべて自己責任

・なんの変哲もなく、武力、財力にまさる者がつねに勝つ

主人公側が属する陣営による殺戮破壊は無条件に全肯定

純粋左翼的エンターテインメント

権力、体制はつねに悪である

・もちろん主人公忠誠心ゼロ反抗的性格

職業軍人は全員、卑劣で腐敗している

少数民族異端マイノリティはつねにすべて正義

貧乏人は常に善人、金持ち貴族は必ず悪者

・どういうわけか、武力、財力にまさる者がつねに負ける

・そもそも戦いを全否定アクションやバトルが一切ない

――それぞれどっちも、果たしてそれで面白いですか?

「ウヨ的に正しいシン・ゴジラ」を完璧に徹底したらどうなるか?

日本民族は優秀であるから、ゴジラは秒殺されて何も問題は起きない

放射能を脅威として描くのは反原発厨だ、ゴジラの攻撃でみんな健康になる

在日米軍正義の味方である日本への核攻撃を検討するはずない

――こんなもんスリルサスペンスも何もないわい!

「サヨ的に正しいシン・ゴジラ」を完璧に徹底したらどうなるか?

自衛隊は戦わない。日本人は全滅する

――これではそもそもお話が成立しねえよ!

この調子で「ウヨ的に正しい」パトレイバー攻殻機動隊をやると、主人公は最後まで警視庁に反抗せず何もドラマが起きないし、逆に「サヨ的に正しい」作品にしたら、主人公は何もせずテロリストが勝ってしまう。そんなもん面白いかってのw

すべてのエンターテインメントプロパガンダになり得る

急いでつけ加えておくが、わたしは今回、漫画映画アニメゲーム小説などを「右翼的な作品」「左翼的な作品」に分ける気は一切ない。というか、それは一番不粋でつまらん行為である

作品が娯楽として面白いか面白くないかと、ウヨ的かサヨ的かは関係がない。というか、人間快楽原則には、上記の「リテラ引用記事のようなウヨ的要素とサヨ的要素が常に混在している。悪い権威への反抗を描く作品がみんなサヨ的とは限らず、逆に、忠誠心や戦友愛物語がすべてウヨ的かといえばそんなことはない。

たとえば『水戸黄門』はどうか? 最終的に庶民を救う黄門様は幕府権力人間だ、しかし、毎回の悪者は悪代官とか悪徳商人とか庶民をいじめる強者・プチ権力者だ。「領主側の人間はみんな善人、農民一揆指導者はつねに悪者」なんて時代劇が流行ったためしはない。

忠臣蔵』は主君への忠誠の物語だが、四十七士の討ち入りはときの幕府権力の秩序を乱す行為なので切腹を余儀なくされ、しかしそれゆえ庶民に支持された。

自己犠牲ヒロイズムといえば、日本では特攻と結びつけられるからウヨ的に解釈されがちだが、ヘミングウェイ原作の『誰がために鐘は鳴る』では、ファシスト軍と敵対する人民戦線側に属した主人公自己犠牲的な死を遂げる。

また、サヨ的立場だと愛国ナショナリズムが悪なら、英国に対するアイルランド人中共に対するチベット人イラントルコに対するクルド人など、少数民族の熱烈なナショナリストによる解放運動とかはどうなるのか?

先に『亜人』などは被差別マイノリティ視点の作品としたが、常に「マイノリティ=反権力的」とは限らない。むしろ、『寄生獣』や『デビルマン』以来この手の作品は、主人公が人外の存在でありつつ、多数派人類(秩序)の味方をするのがパターンだ。しかし、だからといって多数派人類がただ善良な存在とは描かれない場合も多い。

それにだ、冒頭で触れたように、今日でこそ左派がさまざまなエンタメ作品を戦争バンザイの内容だと叩いているが、今や古典といえる佐藤健志ゴジラヤマトぼくらの民主主義』(isbn:4163466606)の手にかかれば、初代ゴジラウルトラマン宇宙戦艦ヤマトもみんな戦後民主主義に毒された作品だったことになる。

……ほらね、こういうことを言い出すと、もはや何がウヨ的で何がサヨ的やら、わからなくなってくる。

ウヨの快楽とサヨの快楽は共通する

思うに、ウヨの快楽にもサヨの快楽にも共通するものがある。それは「大きなものとつながりたい願望」だ。ただし、その対象が、自国、自民族のみか、他国、多民族も含めているか範囲の違いなのだ右翼世界を「内と外」に分けて内の味方をする。左翼世界を「上と下」に分けて下の味方をする。そしてどっちも、自分の属する陣営(ウヨなら国家民族、サヨなら階層社会的少数派身分)に甘いw

ナチス宣伝大臣ゲッベルスは、クライマックス労働者資本家に暴動を起こす『メトロポリス』を絶賛して、監督フリッツ・ラングユダヤ系!)にナチスへの協力を求めた。すぐれたプロパガンダ映画技法は、右派にも左派にも流用できるのだ。

で、今回の結論を述べると、すぐれたエンターテインメントは、しようと思えば、ウヨ的解釈もサヨ的解釈もできる。逆に、先に触れたウヨの快楽、サヨの快楽をどちらもまったく否定した「無色透明エンターテインメント」があったとしても、面白くも何ともない。良くできたウヨないしサヨ的プロパガンダ作品も大量に存在し得るが、わたし個人の好みとしては、様々な要素が入りまじった結果、ウヨだかサヨだかわけがわからんぐらいがちょうど良い気がする。

2016-08-11 死ん・ゴジラ

「個としての人物」を描かないことで成立した傑作

で、公開から2週間も経つからもうネタバレも気にせず今さら『シン・ゴジラ』の話。

  1. 全体の印象
  2. 人物
  3. 見せ方
  4. ゴジラ自体

妄想

ところで、本作に登場しなかった今上天皇はどうしていたのだろうか。政府は退避を進言するだろうが、お優しい明仁天皇のことであるから、311の時から考えて、まずは「都民を置いて一人だけ逃げるわけには行きません」と発言しそうである。さらに都民に対し「軽挙妄動は慎み、落ち着いて避難してください。皆さんが力を合わせれば東京は必ず再建できます」といったビデオメッセージを出しそうだ。

そして、とりあえず皇太子以下の皇族は先に京都か葉山那須に脱出させたのち、皇居の地下壕で美智子皇后と一緒にテレビ報道を観ながら「海洋生物学者だったおもうさまなら、ゴジラ細胞サンプルが見たいと言いそうだねえ」「そうですわねえ」などと語り合っていそうな気がする。

また再録

かつて雑誌『TONE』第2号(2005年6月刊行)に執筆した原稿

■「戦争」を描いたヴィジュアル作品レビュー10

 (1)映画ゴジラ』(1954年監督・本多猪四郎

水爆が生んだ怪獣は、日本だけを襲う祟り神】

 怪獣ゴジラが最初に銀幕に登場したのは、まだ戦争記憶も生々しかった1954年昭和29年)、ビキニ水爆実験が行われ、第五福龍丸が被爆した年だという。

僕らの記憶で最初に見たゴジラの姿は、カラー映画になってからの、人類の味方として悪役怪獣と戦うゴジラだった。けれど、怪獣図鑑にはゴジラ水爆実験によって生まれたと書かれ、最初のゴジラを説明する白黒の写真では、逃げまどう人々の姿も、破壊された東京風景も、まるで戦争映画のように暗かった。

 水爆が生んだ怪獣ゴジラは、多くの戦没者を出した南の海から現れ、本土決戦を避けた帝都を襲う、それは空襲の再来のように、平和戦後に生き延びた者たちを脅かす。主人公の一人である平田昭彦演じる芹沢博士は、傷痍軍人を思わせる眼帯をしていた。どこか戦争で生き残ったことへの罪悪感を抱えた芹沢博士が、自らの造った化学兵器によってゴジラと相討ち心中することで、やっとゴジラの災厄は払われる。それは特攻のようだった。

 この最初のゴジラ戦争の匂いが漂うのも当然だった、『ハワイマレー沖海戦』を撮った特撮監督円谷英二に、自分自身特攻隊に行ってたかも知れない平田昭彦ほか、作り手自身も戦争経験者ばかりだった。当時の観客が銀幕の中に見たのは、恐らく、巨大な怪獣の恐怖に仮託された、つい十年前に見た空襲原爆の惨禍の再現だろう。しかし、そんなPTSDを起こすようなものに、なぜ人々が集まったのか……それは同時に、死者とお互いとの共通体験を再確認する儀式だったからではないか?

 その後もゴジラやほかの怪獣たちは、高度経済成長期の驕りへの戒めのように、高層ビルの街を破壊した、しかし、やがて戦後の豊かさが世を覆い尽くし、戦争記憶が消え、恐怖の対象だったはずの原子力産業利用も普及する内に、ゴジラは、払ったはずの厄を内に取り込むかのように、戦後日本を襲う悪い怪獣と戦う「戦後日本の守り神」へと姿を変えていった――要は、お子様向けに怪獣プロレスを演じるヒーローに姿を変えたということだが。そして70年代も中頃、高度経済成長期が終わり、巨大なものがすたれると共に、怪獣たちも退場した。

 それから10年、高年齢化したファンの声に押される形で、1984年ゴジラは再び渋い悪役として銀幕に復活した――しかし、作り手側自身も戦後世代になったゴジラには、真面目なテーマを言わんとしても、どこか空疎お題目感が拭えなくなってしまった。「ゴジラ核兵器の恐怖の象徴」という言説は、ひょっとして、単に「ゴジラは単なるお子様向けじゃなく、大人の観賞に耐える真面目な映画だ」と言うことで、自分の地位向上をしたかった怪獣マニアたちの方便で、今やいい年した怪獣マニアが珍しくもなくなったら無用になったってことか?

 しかし、2001年の『ゴジラ モスラ キングギドラ 怪獣総攻撃』では、久々に忘れられていたゴジラの姿が甦った。ゴジラ放射能火炎を吐いた次の瞬間、破壊された都市にはきのこ雲が上がる、まるで歩く原爆だ。天本英世演じる老人が「ゴジラ戦没者たちの怨念集合体だ」と語る。昭和29年の最初のゴジラの襲撃で家族を失った防衛軍の橘准将は、魂鎮めのようにゴジラを海に返す。だが、彼は芹沢博士のようにゴジラと一緒に死ぬことはない、なぜなら結局、橘も戦後生まれだからだ。

 平成16年2004年)、50歳となったゴジラは、老いた悪役レスラーのように、最後の花を咲かせて一応の引退を遂げた。しかし、この微温な平穏が続くのなら、ゴジラはまたいつか東京を襲わねばならない。戦争記憶を忘れてしまった僕らに、それを叩きつけてくれるために。

あと、この原稿のさらに1年前わたし『架空世界の悪党図鑑』の「加藤保憲」の項目で「あの加藤が最後の一匹とは思えない……。ゴジラと同じく、彼はきっと、また東京を襲うであろう」と書いたのだが、『シン・ゴジラ』には嶋田久作も出ていたw

2016-07-21 ゴジラ対あまちゃん(『シン・ゴジラ』公開記念)

ぼくのかんがえたさいきょうの「宮藤官九郎脚本ゴジラ

オール特撮オタクとしては、庵野秀明ゴジラの新作を撮ると聞いたときは少なからず期待した。そのとき脳裏をよぎったのは、若い頃の庵野らが1980年代当時に製作した『八岐大蛇の逆襲』とか『帰ってきたウルトラマン』イメージだったのだが、劇場予告編を見た限りでは何とも言いがたい……。

さて、数年前、Twitterでよくある大喜利的なタグで「こんな新作ゴジラはいやだ」というネタがあり、そのなかで「宮藤官九郎脚本ゴジラ」というものが挙がっていた記憶がある。しかし実際、自分はふと一瞬「クドカンゴジラ、案外と有りかも知れない」と思った。

おい待て、石を投げるな! 俺が考えたのは「怪獣災害」に直面して、怪獣駆除やら人命救助やらに従事する特殊公務員スポットを当て、『木更津キャッツアイ』と『海猿』をアウフヘーベンしたようなノリの作風だ。

あるいは、すぎむらしんいちの愛すべきDQN自衛隊マンガ右向け左!』を、若い頃の庵野秀明が傾倒していた岡本喜八戦争映画のようなタッチ映像化して、それに途中からゴジラが出てくるイメージとでもいえばよいか

さしずめ、物語舞台はどこかのさびれた地方都市主人公は、自衛隊あるいは海上保安庁とか消防庁レスキュー隊の落ちこぼれ隊員の青年3〜5人ほどのグループ。中高生当時からそのままつるんでいるマイルドヤンキー集団で、20代かばになってもいまだに高校の頃の憧れのマドンナを取り合いしてるような下世話な連中。

ところが、そんな主人公たちの住む街にゴジラ出現の報が届く。当然、不真面目な主人公たちは保身意識丸出しで隊を辞めたり逃げることを考えるが、幼なじみヒロイン親族だかが乗った船がゴジラに沈められてシリアス空気になるとか、地元役所に勤めてるヒロインが逃げずに居残って地元民の救助に邁進するとか言い出したことから、不真面目な主人公たちも真面目に戦う気を起こす。

しかしそこはクドカン調で、たとえば、仲間に向かって格好よく「俺が死んだら彼女のことは頼む」とか言いながら、直後にすかさず「くそっ、俺が死んだら彼女うまいことやる気だろ、許さんぞ!」とかいう本音(心の声)が入るような演出

――と、そのような卑小な人間たちの下世話な営みを問答無用で吹き飛ばす巨大な災害としてゴジラが描かれるわけだ。

「全体小説」としての怪獣映画

畏友・奈落一騎氏は以前「怪獣映画は全体小説であってくれなくては困る」という意味のことを述べていた。全体小説とは、政治社会から男女の営みやら個人の悩みまでを視野に入れ、世の中全体をそのまま描くような文学のことである

東宝の初代『ゴジラ』以来、日本オーソドックス怪獣映画は、政治家軍人庶民科学者ジャーナリスト、果ては怪獣を見せ物にする興行主やら宇宙人まで、あらゆる階層人間が登場し、その右往左往が描かれる。単刀直入に言えば、都市破壊する巨大な怪獣は、社会のあらゆる階層人間をもれなく巻き込む「戦争」または「災害」あるいは「文明のマイナス面」のメタファーだった(『ゴジラヘドラ』なんかは良い例)。

昨今、政治家軍人の出てくるドラマ映画は多い。だが、そういう作品はとにかくシリアスに真面目に描かなければならないという強迫観念が感じられて息苦しい。

戦争災害対策や人命救助に従事する者だっての子だ、下世話な欲や保身意識だって当然ある。でも、それを乗りこえて危険に飛び込むからこそ感動的なのではないか? 『海猿シリーズのヒットはその辺が背景にあったはずだ。岡本喜八監督戦争映画(『肉弾『英霊たちの応援歌』『地と砂』など)は、そういう等身大兵士を描いた作品が多い。

と、いったことを考えると、NHKドラマの『あまちゃん』はやはりよくできていたと思う。この作品は恐らく、東日本大震災を正面からストレートに取りあげた最初テレビドラマのはずだが、物語の3分の2まで、えんえん東北田舎町と東京に集う駆け出しのアイドルたちのしょーもない下世話な人間関係しか描かれない。

以前も書いたが、三陸駅長大吉地元活性化のためと称してデタラメ公私混同をやるおっさんだし、ユイの兄ヒロシはひたすら情けないニートである――が、そんな連中だからこそ、後半の災害復興編で彼らが地元のため一致団結して立ち上がる姿は感動的だ。

むしろ逆に、最初から災害復興を前面に出して彼らを善良で真面目な人々に描いていたら、あの後半の盛り上がりはなかったろう。落差こそが感動を生むのである

ゴジラあまちゃんウソ

――ときて、『ゴジラあまちゃん』があるとすれば、こんな感じか(入浴中に湯船に浸かって考えた妄想の類)

20XX年、復興が進みつつあった北三陸に、アキの祖父忠兵衛の乗った遠洋漁業の船が北太平洋遭難し、生還絶望的との報が届く。

ほどなく、ゴジラの出現と北三陸近辺への上陸予想が報じられ、北三陸には次々と報道陣や野次馬が集まって来る。観光客の増加を喜ぶ大吉菅原だが、本当にゴジラ上陸すれば町が破壊されるやら放射能汚染やらでたまったものでない。かくして観光協会では連日「ゴジラ対策をどうすっぺ会議」がくり返される。

そんな折、水口勉さん琥珀掘りの最中に地下で巨大な卵のような物を発見する。勉さんは「モスラの卵に違いない」と言いだし、ザ・ピーナッツを呼んでモスラゴジラにぶつけようとするが、伊藤姉妹は両方ともお亡くなりになっていた。

かくしてアキ&ユイ潮騒のメモリーズが「モスラの歌」を歌わされることに。毎度のようにユイは当初困惑顔だが、アキは途中からやけくそ気味にノリノリとなる。

だが、残念ながらモスラの卵と思われた物はマンモスフラワーことジュランの種子で、北三陸には新しい観光名所が増えたものの、ゴジラ対策にはなり得なかったのだった。

紆余曲折を経て結局、初代ゴジラに対して芹沢博士使用したオキシジェンデストロイヤーを使うしかないという話になり、潜水士種市危険任務に志願する。そして出撃の前夜、一升瓶を持ってアキのところに来た種市は、生還できないかも知れない恐怖を紛らわすように痛飲、アキは種市をなだめつつ一杯、二杯と付き合い、結局二人ともすっかり泥酔してゴジラ迎撃に行き損ねる。

そこで、種市代理として作戦に志願したのはベテラン海女の夏ばっばだった。どうせ老い先短いと覚悟を決めていた夏は「忠兵衛さんの所さ行くだ」と決意を胸に秘め、オキシジェンデストロイヤーを手にして潜る。

海底で休息するゴジラのすぐ近くまで来た夏は、オキシジェンデストロイヤーを手放すが、そこでゴジラが目を醒まし、その巨大な口に飲み込まれそうになる。

だが、次の瞬間、突風のような海底潮流が夏をゴジラから引き離し、夏は洋上へと押し流された。ゴジラが視界から消える直前、海中で夏の目の前を横切ったのは、亡き忠兵衛がいつもかぶっていた帽子だった……。

洋上の船で夏ばっばを迎えるアキ、春子らに夏は「忠兵衛さんが守ってくれただ」と涙ながらに語る。その横では勉さんが海を眺めつつしみじみと「あのコジラ最後の一匹とは思えんだ」と呟くのだった。

gaikichigaikichi 2016/07/22 19:29 なんかクドカン自身のネタ企画で『ゴジラ対あまちゃん』が本当にあったらしいことを今ごろ知る。

akakiTysqeakakiTysqe 2016/08/02 12:31 シンゴジラ、IMAXぢゃ無くていいから手近の映画館で急いで観る事をお奨めします。

2016-05-15 文豪パラドックス

宮沢賢治ラノベ作家になり損ねたニート

別冊宝島宮沢賢治という生き方』(isbn:4800254256)が刊行。当方は今回、鉱物音楽、星、農、岩手の郷土などに触れた冒頭カラー口絵と、宮沢賢治少年時代女性関係法華経信仰晩年サラリーマン生活などの生涯を追った第1章を担当

清貧でも自己犠牲的でもなかった前半生

長らく、賢治といえばいかにも生涯を通じて貧しい農民のため自己犠牲的に働いた人物のように誤解されていた。近年ではわりと知られるようになってきたことだが、実際の賢治の半生は、ありていに言えば甘えた道楽である

裕福な家庭に生まれながら地味な家業を嫌がって都会の学校に進み、学費を出してくれた親の意志に逆らって、成人後に「家出」してアルバイトしながら童話を書き、実家資産自費出版したもののさっぱり売れなかった。さらに、教師になったもの学校人間関係を理由に退職、その後は農業を始めるがこれも生活のためではなく、趣味の園芸のように当時はめずらしい西洋野菜や花を栽培しながら下手なチェロ弾きなどに興じる。ついでに、女性にはオクテだったのか草食系だったのか生涯童貞だったとの噂も根強い(実際は、自分は妻子を養う能力資格もないと思っていたのかも知れない)。

――しかし、このような実像こそかえって現代には親しみの持てる存在ではないだろうか。宮沢賢治童話作家を志した大正時代は、児童雑誌の『赤い鳥』が創刊され、「子供向けの読み物」というジャンルの勃興した時期だ。当時の賢治はさしずめ、ラノベ作家をめざして上京して挫折したあと実家資産でだらだら生活するニートだったのである

賢治が友人や元教え子にあてた手紙などを読むと、若い頃の賢治は「いずれ俺は高く評価されてすごくビッグになるぞ」という自負心の持ち主だったことがよくわかる。

そんな賢治だが、人生最後の数年は、近隣の農家のため作物や地質などに応じて肥料を配合して使用量を計算する肥料設計仕事無償でこなし、岩手県酸性土壌を改良するため石灰の販売に奔走した。これは単なる盲目的な自己犠牲でもない。賢治には生活に苦しむ農民を傍目に趣味芸術に興じてきた「負い目」もあったし、一方で自分農学校で見つけた知識と技術有効に生かさねばもったいないという意識もあったはずだ。

おバカ想像力効用

じつを言うと、わたし宮沢賢治の書いた物にはそれほど惹かれない。賢治の作品世界といえば、もっぱら『銀河鉄道の夜』のように一直線に理想を追う主人公か、『どんぐりと山猫』のようなナンセンス風味の小話、あるいは『春と修羅』収録の一連の詩など人と自然関係を描いたものか、亡くなった妹に寄せるシスコンぶりなどである

つまり、俗欲もあれば保身意識もある等身大人間同士の、男女やら親子やら組織内の軋轢やらを描く作家ではない、リアルなダークさが足りないのだ。確か吉本隆明は、賢治の詩は自然描写の豊かさの反面、人間関係の描写に乏しい点を指摘していたはずだ。

しかしそれでも、賢治の表現力と想像力はすごいと思う。川の中で水の泡が弾けるのを「クラムボンはわらったよ」などと書く言語感覚、人工物がほとんどない地方山道にずらりと並ぶ電信柱兵士の行軍に見立てるというセンス……こういう一見ばかばかしい子供のような想像力が、地味な灰色現実も楽しく味わえる心の豊かさではないか。

賢治は『農民芸術概論要綱』で、「曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術宗教もあった」と書いた。日本の農民は万葉集時代から、こういうセンス自然なかに風流や美や楽しさを見いだしていたのではないか。

宮沢賢治はウヨのカルト信者か?

さて、宮沢賢治を愛好するインテリ、とくにリベラル派の多くが眼を背けて、できればないことにしたいと思っている要素が、賢治の熱烈な法華経信仰国柱会との関係だろう。

賢治は最大の親友だった保阪嘉内にしつこく国柱会への入信を迫ったのが原因で友情が決裂した。この国柱会といえば、満州事変立役者石原莞爾も参加していた国家主義団体だった。また、二二六事件の青年将校に影響を与えた北一輝や、血盟団事件を起こした井上日召法華経の熱烈な信徒である

もとより法華経を奉じる日蓮宗は、日本大乗仏教のなかでも個人の救済ではなく天下国家の救済を唱える宗派だが、昭和初期には国家社会主義ファシズムとの関係が深かった。つまり、宮沢賢治潜在的ファシストカルト信者だった可能性が充分ある。

この点について、2014年刊行の『別冊太陽』の宮沢賢治特集で、精神科医斎藤環は「宮沢賢治ファシストではない。なぜなら禁欲的だったから」と説いている。ひどい欺瞞だ。バカを言うな、ファシズムとは禁欲を説く思想だろうがw

北一輝に触発された皇道派青年将校も、ドイツで初期のナチズム運動に参加した若者らも、貧しい農民や都市底辺層立場から、当時の都会のちゃらちゃらしたブルジョワ文化を敵視し、体育会系の結束と堕落した上流階級の打倒を唱えた。

どうも精神医学世界ではファシズム性的サディズムを結びつけた分析もあるようだし、講談社選書メチエ『愛と欲望のナチズム』(isbn:4062585367)によれば、ナチス時代ドイツでは多産奨励のため早婚が奨励されて10代の男女がやりまくっていたというが、少なくとも大衆運動としてのファシズムの建前は、個人の自由な欲望を規制して、軍隊的な規律と統制のもとに国民を団結させるというものだ。

むしろ、宮沢賢治がもし健康な身体の持ち主で、徴兵検査に脱落せずに軍隊に入っていれば、それこそ持ち前の禁欲的な思想東北の貧しい農民への同情から皇道派青年将校の同志になっていた可能性が充分にあったのではないだろうか。

実際、賢治は戦争軍隊も批判していない。1918年徴兵検査を受けたときには、父あての手紙で「戦争とか病気とか学校も家も雪もみな均しき一心の現象に御座候 その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候」と書いている。

矛盾ギャップ作家甲斐

――このように、書いている作品の内容や世間に定着したイメージと実像のギャップ矛盾に満ちているからこそ、人間としての宮沢賢治面白い。いや、ドストエフスキーしかり、トルストイしかり、多くの作家がそういうものだ。

じつは、別冊宝島の同じシリーズで昨年末に刊行された『夏目漱石という生き方』(isbn:4800250587)でも、「親友」「芸術」「結婚」「死」「高等遊民」など、一部の項目を執筆した。宮沢賢治とは対照的に、夏目漱石はそれこそ等身大近代人の男女やら親子やらの生ぐさい人間関係ドラマを書いてきた人物だ。

漱石といえば、みずから「小さくなって懐手して暮したい」と述べていたぐらいのニート願望者であるしかし、東大文学教師の職こそ放り出したものの、作品中でさんざんぼろくそに書いた妻子は放り出さず、自分文学の師として慕う若者らの面倒はいとわなかった。実人生不自由を受け入れていたからこそ文学では本音を吐いていたともいえる。

こんな文豪ストレイドッグスの新キャラはいやだ