2012-01-01 あけましておめでとうございます
■ダメだこりゃ
なんと田原総一朗は、いまだに外国から見れば「フクシマ=ニッポン」ということを理解してなかったらしい。
ダメだこりゃ。
日本人は「なんで外国じゃ、福島から何百キロも離れた地域で取れた農産物も買ってもらえないんだ!?」と憤る。
でも、そう言ってる人は、今もう一度スリーマイル事故が起きたらアメリカ農産物を買いますか?
ところでスリーマイルとはどこか? ペンシルヴァニア州だそうだ。俺も知らんかった。ペンシルヴァニア州とはどこか? 東海岸だそうだ。俺も知らんかった。
ならば西海岸のカリフォルニアとは5000km近く離れている。それでも「アメリカ産」というだけでカリフォルニア産をも敬遠する日本人は少なくないだろう。
寿司屋に行けばオレンジ色のサーモンが売れている。現在日本は鮭の多くを南米のチリから輸入しているが、あの細長いチリのどこで獲れた鮭かなど、ほとんどの人間は気にしていない。というかチリ産ということ自体知らん人の方が多かろう。
皆さんは、ロサンゼルスとサンフランシスコがどれぐらい離れてるか知ってますか? モスクワとペテルブルクがどれぐらい離れてるか知ってますか? 北京と上海が(以下略:無限に可能)……じつは俺もわかってない(笑)
それで「福島と○○は××キロも離れてるのに」とか言ってくれてもさあ……。
みんな、世界地図見ようぜ。
そしたらそんだけで気づくことはたくさんあるから。
まあ、田原総一朗が「原子力戦争」の原作者とは思えぬボケぶりでしたので。
とりあえず本年が昨年よりは良い年になることを祈るとしましょう。
2011-12-31 それでは皆様よいお年を
■本年の言い訳
というわけで例年やってる「本年の私的ベスト10」なんですが……情けないことに最初に言い訳です。本年は本業やら何やらで無駄に多忙のため(単なる当人の不手際)、仕事と無関係な読書とかがろくに進まず、ほとんど内容がガラガラです。
(まあ仕事と震災に関連して、インタビュー取材とか、人の話を聞いた物では面白い経験が結構ありましたが、これはこの欄で取り上げる物ではないので)
最初に順位のみ挙げておくと以下の通り。
1.(とくになし)
■葦原骸吉2011年の収穫
1.(とくになし)
本年は「とくになし」です。
あえて言えば、震災やら、原発事故やら、カダフィ謀殺やら、ビンラディン謀殺やら、ロンドン暴動やら、中国列車事故やら、健康診断の結果が高血圧やら、友人が借金返さんやらの現実の前に、読書やら映画鑑賞やらが吹っ飛んだということで。
2.映画『拝啓総理大臣様』監督:野村芳太郎
以前取り上げた『拝啓天皇陛下様』の姉妹編のようなもの。ただし主人公はまったく別人で完全に戦後の話。単に渥美清が似たような性格の人物を演じているだけ。
話の舞台は1964年、東京オリンピックの年だ。主人公は落ちぶれた元漫才師で、元の相方(演じるのは長門裕之←若い頃は桑田佳祐そっくり)はその妻と組んでテレビで売れっ子になっている。そこで主人公は自分もGIとの混血の少女を新たな相方にして再デビューをはかるのだが……というお話。
序盤で主人公のやってる仕事は「犬殺し」、相方はGIと混血の「黒んぼ」、その相方の母親の現在の亭主は耳が遠い「片つんぼ」、主人公が路上で喧嘩する相手は「吃り」、そして主人公の以前の相方は売春婦の「パンパン」……とまあ、どう考えても現在の地上波では放送できない設定!!(笑)
内容は、昭和30年代当時の格差社会、敗戦直後に生まれたGIとの混血児への差別、急速に進む交通事故問題、当時の土地開発やらテレビ業界の裏、とすさまじい密度。
主人公が相方に選んだ混血児は、実の母に会いに来ても娘だと認めてもらえない。その後、この母親は事故に遭ってうわごとで申し訳なさそうに娘に謝るのだが、現在の亭主が見舞いに来ると、あっさり手の平を返して母子であることを否定する(笑)。ひどい変わり身に見えるが、それが弱い庶民の姿なのだ。
黒人との混血児の娘はすっかり落ち込むが、渥美清の主人公は、自ら顔に泥を塗りたくり、自分も同じだと笑ってみせる。
貧乏人が善良とは限らない。貧困と言えば『闇金ウシジマくん』でも現代型の貧困が描かれているが、最低限の生活は保障されているうえで、目先の欲のため転落した人々の話がメインだ。一方、昭和30年代が舞台のこの作品では「もともと人間はそれぐらい下品でタフ」という前提がある。
漫才師に復帰した主人公は地方のドサ回りで下品な酔っぱらい客にぼろくそにこき下ろされる。芸人とは本来それが当然の世界なのだ。多くの苦労を乗り越えた主人公達は、最後には演芸場の客に楽しげに囲まれている。
ラストシーン、演芸場の客やそれまでに登場した人々の姿と共に「拝啓総理大臣様 この人たちがあなたを選んだのです」というテロップが流れる。
『拝啓天皇陛下様』は、戦時中〜敗戦直後を振り返るノスタルジーを描いた作品だった。主人公の天皇への(一方的な)紐帯に、古き時代へのロマン(といっても美化されてもいない)が感じられた。この点『拝啓総理大臣様』ではそうしたフィルターはなく、当時の現代に生きる混沌とした人生模様をそのまま描いている。だが『拝啓天皇陛下様』ほどわかりやすく愛される有名作品にならなかったのはそのためではないかという気がしている。
だが、本作こそまさに『コクリコ坂』(後述)の補完的内容の作品といえるだろう。
3.漫画『羣青』中村珍(isbn:4091885098)
男なら不幸や貧乏はギャグにもなりえるし、罪を犯してもピカレスクに居直る道がある。だが、それらは女性には成立しにくい。
本作品は、殺人を犯した女二人の逃避行だ。一方はレズビアンで相手を愛しているが、不幸にして一方はそうではない。どう考えても行き詰まりの陰惨なシチュエーションなのだが、それでも、本作品は嫌な感じがしない。
逃避行を続ける犯罪者にも、目先の些末なことで争ったり安堵したりするような何げない「日常」は存在する。ここが重要。
凄くボキャブラリー貧困な表現をすれば「文学っぽい漫画」。「文学っぽい」とはどういうことかというと「『あらすじ要約』を読んでも意味はない」ということ。
ここでハクつけに蓮實重彦とか持ち出してもいいんだけど、つまり、些末なデティール描写の積み重ねそれ自体が、みんな普段気づかずやり過ごしていたり気づいてもすぐ忘れているけれど、「ああ、世の中って(人間って)そういうことあるよな」という説得力をもって何かを訴える作品、ということだ。
本作の主人公二人は、男の都合で勝手に美化されたヒロインとは対極のような、欲もあれば意地も甘えも打算もある女だ、萌えも癒しも純潔性もまるでない。しかし、お互いが相手のために傷つき汚れることで手にする信頼感の温かみ(なのかなあ?)がある。
これは、悪意なくすれ違ってきた人間同士が対等な関係になってゆく物語なのだろう。果たしてその関係が友情なのか憎悪なのか恋愛なのか何なのかはわからないが。
――あ、それとDVするリア充男はべつに殺しても全然OKだから。
4.小説『二度はゆけぬ町の地図』西村賢太(isbn:4043943865)
昨年秋に西村賢太の芥川賞受賞が決まった前後、坪内祐三が『週刊文春』の「文庫本を狙え!」で取り上げていたので「坪内祐三が現代作家を取り上げるとは珍しい」という理由で注目。年が明けてから今更『どうで死ぬ身の一踊り』『暗渠の宿』『苦役列車』などとまとめて読んだ。
西村賢太の小説を読んで居心地が悪くなるのは、多かれ少なかれ思い当たるフシがあるからだ。文学というのはもともと居心地の悪い物なのである。
西村賢太には、昭和戦前の日本人のメンタリティがある。そう、目先の欲望で生きているのが本来の人間の姿だ。
そして、そういう単純さゆえにこそ、彼の藤澤清造への献身的忠誠心も貫かれているのだろう。先に挙げた『拝啓天皇陛下様』の主人公の昭和天皇への忠誠のように。
5.映画『スーパー!』監督:ジェームズ・ガン
6.映画『キック・アス』監督:マシュー・ボーン
人を殴れば自分の拳も痛むし汚れる。そう「正義」は自分勝手だし痛い。でも、痛くてもやり通すから意義があるのだ。暴力の臭いが社会の目に見える場から脱臭された日本ではうっかり忘れられている問題。悪者が斬り殺せるのは時代劇だけだもんね。
あと両作品とも痛感するのは「アメリカ白人男も大変だな…」といった所。
7.TVアニメ『UN-GO』脚本:會川昇
坂口安吾の『明治開化 安吾捕物帖』がアニメ化というので「おおっ!」と思い、実際に放送が始まった物を見て「おおっ?」と意表を突かれる。
恐らく企画が持ち上がったのは1年ぐらい前だろうが、311以降の情勢を意識して設定や脚本を直したんだろうなあ、という印象が濃厚。劇中はSF的な架空の「戦後」だが、大きな災厄を誰かのせいにしたいという群集心理、陰謀論に流れるネット世論などへの皮肉は、じつに2011年現在の世相を反映している。
安吾は『堕落論』で、敗戦をきっかけに人間の本音が露呈したことを前向きに受け止めていた。それを311後の風景に重ねたのだろうなあという意識がうかがえる。でも、じつは人間は堕落一辺倒にばかり行けるものでもなくて、目先の生活がそこそこ整えば偽善者に戻る、ってのも人間なんだけどね。その違和感が『続・堕落論』の方にはにじんでるわけで。
まあしかし、この歳になると「真実」を暴くことにこだわる探偵の結城新十郎より、事件関係者の感情とプライベートを守るため、社会正義に反しない範囲で話のつじつま合わせをするメディア王の海勝麟六の方が気持ちがわかる気がする(って、俺もジャーナリストの端くれの末席ならそんなこと言ってちゃマズいんだが)。
まあ安吾自体、戦前に書いた「文学のふるさと」じゃ、文学とはアモラル(無道徳←反道徳ではない)とか言って善悪など超然とした態度を取りつつ、戦後は競馬の不正摘発などという細かいことに異常にこだわってる。安吾の中にも、真実にこだわる結城新十郎と、アモラルな海勝麟六の両方がいたと考えるべきなのか。
この『UN-GO』では『堕落論』などの引用が何度か出てきたが、わたしが個人的に安吾のエッセイで最高の名言と思っているのが出てこなかったのは少々残念。それは、太宰治の追悼文として書かれた『不良少年とキリスト』の一節。
「原子バクダンで百万人一瞬にたたきつぶしたって、たった一人の歯の痛みが止まらなきゃ、なにが文明だい。バカヤロー。」
311以降の今のご時世にも、皮肉な意味ですごく合ってると思うんだけどね。
とりあえず『鋼の錬金術師』の旧シリーズもだったが、水島精二&會川昇は原作付き作品の方が良いと確信。
それにしてもフジテレビ「ノイタミナ」枠の深夜アニメはたまーに予想外の変化球が来る。今年前半の『C』なんて金融や証券の「マネーゲーム」を本当に文字どおりデジモンバトルにしてしまうというぶっ飛んだ設定でひっくり返った。本年は深夜アニメは豊作。
8.小説『ギリシア神話』エディス・ハミルトン/山室静・田代彩子 訳(偕成社)
数年前PHP文庫で『世界の神々がよくわかる本』という本の執筆に関わって以来、資料のため世界の神話の本は何種類も読みあさっているが、本書はわたしが中学生の頃、初めて読んだギリシア神話の本。
前から再読したかったんだけど、本年やっと中野区立中央図書館で発見、よもや児童書コーナーにあるとは思わなかった。しかし500ページもある大著だ。
ギリシア神話では神々が天地を作ったのではなく、天地が神々を生んだ、という説明が四半世紀前の初読以来、強く印象に残っている。
ギリシア神話の文学書と言えば岩波文庫にもなってるブルフィンチ版が有名だが、本書の方は編者が女性のためかロマンチックな書き方になってる話が多い。男装美少女キャラの元祖・女狩人アテランタの話は今読んでも萌え。ゼウス神の訪問を受けた老夫婦「バウキスとピレーモーン」の話は泣ける。
9.映画『コクリコ坂から』監督:宮崎吾郎
現実の昭和30年代はもっと、貧乏で大家族が多いから喧嘩も絶えず、プライベートもくそもなく、それゆえにこそ簡単に人は笑い、泣くものだ。観終わった後「こんな単純なオチでいいのか?」と思ったが、よく考えてみたら本作品は「少女漫画」で「ファンタジーとしての昭和30年代」なんだからまあいいやと納得する。
公開直後から、若い主人公達が古い建物を残すことにこだわるのがおかしいという意見が飛びかっていたらしい。
しかし、現実の1960年代の反体制運動の多くは、古い地域エゴイズムに結びついていた。三井三池炭坑の閉山反対闘争しかり、三里塚の空港建設反対運動しかりだ。当時若者に人気のあった高倉健なんかのヤクザ映画だって、大抵、仁義も何もない経済効率中心の新興勢力に対し、古い仁義を守る側が孤独な戦いを挑む話が主流だ。
本作では、バンカラ風の風間君とインテリ生徒会長の水沼君のコンビがいい。
意図したものか不明だが、本作のような「バンカラとインテリ」のコンビは、勝新太郎の『兵隊やくざ』シリーズでの大宮二等兵と有田上等兵、白土三平『カムイ伝』での、農民一揆リーダーの正助と権など、1960年代の作品には結構あった筈だ。
監督の親父である宮崎駿の映画では、男同士の信頼関係の描写は少ない(せいぜい『ルパン三世 カリオストロの城』のルパンと次元・ルパンと銭形警部、あるいは『紅の豚』のポルコ・ロッソと飛行機整備の爺さんぐらい)。
今後、宮崎二代目が先代とは別の意味での「ファンタジー」(要するにロリコン風味ではなく万人向けの男の子路線)を開拓してくれることに期待したい。
10.エッセイ『「日本史教科書」再読ドリル』小島毅
『週刊新潮』の連載記事。現在有名な武将が生きていた当時の呼び名や役職の実像など、時代劇で定着している通説を覆すような話が山盛り。
筆者が本来は日本史の専門家ではなく中華文化圏の思想史の研究者のためか、大陸や朝鮮半島から見て、あるいはより大きなアジアの通商史や文化史の中での日本史というお話も多い。
終盤は、明治期の日清戦争、日露戦争などを清朝や李氏朝鮮の立場から記すという興味深い論点を示し、このまま第二次世界大戦まで行くのかとワクワクしていたら、明治末まで来たところで連載が終わってしまった。最終回では、諸般の都合により連載を終えることになったとかなんとか記されてる。
保守系の『週刊新潮』にしては異彩を放つ内容、と思ってたんだけど、これは何かの圧力があったんでしょうかねえ……。この連載では、名指しこそしないものの石原慎太郎都知事のことをやたらボロクソにこき下ろしてましたし。
列外.TVドラマ『琉神マブヤー』
沖縄が生んだローカルヒーロー。てきとうな砂浜や野原で怪人と殴り合うだけのすさまじく低予算なゆるさ加減に癒される。
じつは先にも述べた「人を殴れば自分の拳も痛むし汚れる」がテーマ。終盤は、力のない沖縄がいかに生き延びてきたかと重ね合わせて観ると感慨深い。
■葦原骸吉が選ぶ2011年度の「空気読まない大賞」
日本社会では「空気を読む」ことが何より美徳とされる。が、以前も述べたけれど、わたしは「空気を読め」というのは、結局は人に同意を迫る暴力だと思っている。
そして、狭い世間で目の前にいる身内だけの「空気を読んだ」ために、より広い視野では、崖から落ちる場合もあり得る。
そんなわけで、いろいろな意味で日本も危機に陥った本年「あえて空気を読まない」ことによって偉業をなした英断の人物(栄誉部門)を表彰するとともに、逆に目先の空気の奴隷となって恥をさらした人物(ワースト部門)をやり玉に挙げたい。
「空気読まない大賞」(栄誉部門)
まず、栄誉部門はこの人……オリンパス前社長マイケル・ウッドフォード氏。
オリンパスの幹部たちにとって、粉飾決済の問題は「わかってても言わない話」で、問題にしないことが「空気を読む」ことだったのだろう。が、この正直な英国人社長は、日本人の身内にしか通じない空気を読まなかった……というか、かようなマレビトでなければ問題の指摘ができなかった点に事態の深刻さがある。
ウッドフォード氏のインタビュー記事を読むと、戦後の日本企業がコンセンサス造りで発展したのを賞賛しつつ、そのコンセンサスが今では逆に会社を縛っていると指摘してる、日本人としては「嫌ないいこと」言うなあ、という気分。
じつは、わたしの父はかつて、地元の工業高校を卒業後、長野県の諏訪にあるオリンパスの工場で働いていた。
ときに1997年末、定年退社の手続きのついでに上京してきてわたしに会った親父は、「山一証券が潰れるご時世なんだからお前もちゃんとした所で働かなきゃダメだ」と言った。ところが、そのオリンパスが山一証券と同じく会計情報の「飛ばし」をやっていたとあっては、親父も浮かばれまい。
「空気の奴隷賞」(ワースト部門)
そして、ワースト部門はこんバカ者……九州電力会長・松尾新吾死。
東電もオリンパスもだが、黒幕は会長、社長は簡単にクビを切られる。
九電の「原発賛成集会やらせ問題」については以前も書いた。
せやろうな、エラか人はみーんな全員、原発ば続けないかんと思っちょるやろ、松尾君のまわりの友達だけはな。
ほんで「やらせ」問題の発覚後、どげん見ても佐賀県の古川康痴事の内意があったんはバレバレやのに「佐賀県知事は関係なかばい。俺ら九電が勝手にやったこつばい」の一点張り。九電本社と佐賀県庁の半径3メートルの狭い世間じゃ、それが「空気を読む」なんやろうけど、身内の空気は読めても、その外の空気は無視かよ。さすが、福岡が九州王国の首都やと思うて九州の外は見らん博多もんばい(※追記:松尾君は長崎出身らしいが、まあ福岡在住なので)。
あ、改めて言うちょくばってんね、松尾君も古川君も「今は世間を敵に回してんが、オレは玄界原発の早期再開と、今後も原発推進が日本のために必要と思うけん、あえて『やらせ』ばやったったい!!」とか、本気で思うちょるなら、ハッキリそげん言え! そげんな信念もなかくせ目先の調子だけ合わせても、恥かくだけばい。
……といったところで、九電では狙ったようにちょうどこの寒い時期に原発を全停止させて、九州人は電力消費5%節電が課せられちょるそうで難儀ですが、来年は本年よりはマシになると思いたいので、ともあれ皆さま良いお年を!!
lotus3000
2011/12/31 18:12
お疲れ様でした。いい年でありますように。
gaikichi
2011/12/31 19:09
ありがとうございます。よいお年を。
2011-12-23 オタク・ウヨク・サヨク
■オタクは右傾化したのか?
先日、今さらネット世論での麻生太郎人気について述べたが、あえて今さらついでに「オタクは右傾化したのか」について考えてみたい。
ハッキリ言って「オタクと右翼・左翼」という話は、それで一冊本が書けるだけの(しょーもない)論題になるが、俺のような泡沫の書き手にそんな原稿を依頼する酔狂な編集者もいないか。
1980年代当時から「右翼とか左翼とかいう語句は将来死後になる」とさんざん言われてきたが、今のネット世論では一向に死語にならない。どーしてもそういう分類をしたがる人がいなくならないわけだ。
結論から言ってしまえば「オタクに右翼も左翼もない。自分の趣味をスノッブに権威づけするため、時代状況によって都合良く、左翼っぽいことを言うオタクと右翼っぽいことを言うオタクがいただけ」というのがわたしの持論だ。
何の文化ジャンルでも、ジャンル自体に右も左もない。たとえば文学者にも、三島由紀夫みたいな右派と大江健三郎みたいな左派がいて、それぞれのファンがいる。映画でも演劇でもロックでも何でも、個々の表現者や個々のファンには右っぽい心性の人も左っぽい心性の人もいる。まあ実際は無党派が圧倒的多数だけどね。
それと同じで、結局「オタク文化が左翼と相性良かった側面/右翼と相性良かった側面」は、見いだそうとすれば双方にあったということだろう。それを検証したい。
(注1:年寄りの話なので無駄に長いです。何度かに分けてお読み下さい)
(注2:この論考は当方一人の世代経験に基づくので穴だらけで不完全です。いずれ他の優秀な方々によって本論考の補完が行なわれることを期待します)
■(1)1960〜1970年代の初期SF文化と左翼
「オタク」の語句もなかった1960〜1970年代当時、最初期のSFファンの中には、左翼志向のある人も少なくなかった。
『日本沈没』ほかで有名な小松左京は、元共産党の山村工作隊員である。中村真一郎、福永武彦、堀田善衛による映画『モスラ』の原作『発光妖精とモスラ』は露骨に反核小説だった。
以前も述べたが、かつての左翼の心情と言えば進歩主義と科学信仰だった。このため1957年にソ連が世界初の人工衛星打ち上げに成功すると、当時「ソ連は未来の国」と思った知識人は少なくなかったようだ。
SFとはサイエンス・フィクション=空想科学小説であるから、初期のSF作家、SFファンが科学主義・進歩主義者が結びついたのは想像に難くない。
特撮と反戦・反核思想
『ゴジラ』や『地球防衛軍』などの東宝特撮怪獣映画は反戦色が強い。これは円谷英二が戦時中、海軍の宣伝映画である『ハワイ・マレー沖海戦』(実際は宣伝映画の枠を超えた歴史記録映像である)の特技監督を行なったため、戦後に戦争協力者の汚名を背負い、その忸怩たる思いが関係していたと思われる。
さらに初期のウルトラシリーズは『ウルトラセブン』の「超兵器R1号」みたいな反戦・反核風の作品が多い。これは当時ベトナム戦争中で、米軍の前線基地だった沖縄(本土に返還前!)出身の金城哲夫や上原正三が脚本に参加していたことも関係しているだろう。
――ただし、逆に当時から、SF特撮と右翼的心情が相性良かったという傍証も挙げられる。押川春浪による『海底軍艦』の原作は、明治期に書かれた、当時の日本の海外進出に迎合した娯楽小説だ。
また、円谷英二らは東宝特撮映画の常連スタッフ・キャストは『太平洋の嵐』ほか、1950〜70年代の東宝戦争映画のスタッフ・キャストとほぼ重複する。
漫画と1960年代反体制文化
漫画読者の高年齢化が進んだのは1960年代からだが、その頃の漫画文化にも、当時の反体制文化の影響がある。白土三平の『カムイ伝』は、領主と農民・非人階級の闘争を描き、全共闘の学生に階級闘争の物語として愛読された。
全共闘の学生といえば『少年マガジン』愛読といわれ、赤軍派のよど号ハイジャック犯が「我々は『あしたのジョー』である」と発言したのは有名だ。
『ガロ』『COM』といった当時のアングラ的劇画雑誌も、当時のミニコミなどの反体制文化と通じる部分がある。ただし、これは寺山修司などと同じで、もっぱら文化的前衛というスタイルであって、単純な左翼とは言えないが。
当時の漫画文化擁護者は、どちらかといえば左派リベラル系だった。筑摩書房は1969〜70年に全20巻を超える『現代漫画』全集を出しているが、この編集委員は鶴見俊輔と佐藤忠男と北杜夫だった。1960〜70年代に活躍していた最初期の漫画評論家の一人・石子順は、呉智英から「日本共産党の御用評論家」と評されている。
当時の左派リベラル文化人が漫画文化と結びついたのは「大人・権威・体制vs子供文化・反権威・反体制」というベタな見方と無関係ではあるまい。
当時はまだ、保守的な大人は若者文化を弾圧する側だった。今でこそ外国からきたポップミュージシャンが武道館で公演するのは珍しくないが、1966年のビートルズ来日時、大日本愛国党の赤尾敏総裁は、武道館の使用に猛反対している。
■(2)1980年代の「軽薄短小」若者文化とオタク
1980年代に入ると、実際に「おたく」という語句と「いい歳して漫画やアニメやゲームのマニア」というスタイルが生まれる。
その頃にはSFや漫画のマニアも大衆化している。当時は「軽薄短小」の時代と言われた。オタクも基本は享楽文化であるから、とくに思想性はない。
ただし、当時はまだ、漫画やアニメやゲームなどのオタク分野も含め、映画や演劇、ロックなどのサブカルチャー自体がまだ文化的マイノリティの側で、政治的な左翼ではないものの、一種の「反権威」意識のようなものがあった。
同人作家出身の当時の漫画批評家・富沢雅彦(浅羽通明『天使の王国』に詳しく書かれてる)の文章などには、そうした「反メジャー文化」志向が漂っている。
また、マイナーな文科系趣味であるSFや漫画・アニメのマニアサークルが充実しているような学校は、たいてい一定以上の偏差値の高校・大学だった。
当時の高偏差大学の文科系サークルというのは、まだサークル棟で左翼セクトの息が掛かったような市民運動系サークルと肩を並べることが多かった筈だ。
また、初期に同人誌を出そうとしていた者がノウハウを学ぼうとすると、これも左翼市民運動系が多いミニコミ文化と隣接することになる。
(もっとも、左翼系サークルと接していても影響を受けるより、むしろ反発が募る場合も多かったろうけれど……)
1982年に設立された漫画出版社ふゅーじょんぷろだくとは、腐女子向けBL二次創作アンソロジーを主力商品としてきたが、1980〜90年代に漫画評論誌『COMIC BOX』を刊行していた(今もあるのか不明)。この『COMIC BOX』は、漫画評論誌なのにエコロジーやら湾岸戦争反戦の特集をやるような不思議な雑誌だった。ミニコミ的な所からスタートしたマイナー漫画編集と、左翼市民運動の空気が結びついていた一例である。
漫画やアニメやゲームなどのオタク分野も含め、文学や映画や演劇やロックなどのサブカルチャーに耽溺する者の多くは、もっぱら都会的な個人主義者だ。これを単純に左翼とは言わないが、どちらかと言えば、近代的戦後的価値観の方だろう。
一方、体育会系や不良は、昔ながらの地縁、血縁、先輩後輩関係や義理人情を重視する。本来の右翼的価値観に相性が良いのはそっちだった。当時、オタク文化を含め、享楽的な若者文化と右翼的心情は相性が良くなかったのだ。
正確なタイトルを失念してしまったが、確か1989年に宮崎勤が逮捕された直後頃、月刊『OUT』にみんだ☆なお(眠田直)が寄稿した短編のマンガで、右翼団体がオタク弾圧をはかり、オタク集団の戦隊ヒーローが迎撃するという内容の作品があったはずだ。
1980年代冷戦と若者文化
小林よしのりが1982年当時「週刊ヤングジャンプ」に連載していた『マル誅天罰研究会』では、泡沫サークルに属する主人公たちを、悪役である体育会系の右派学生が弾圧する。その黒幕ボスは「徴兵制復活をたくらむ学長」だ。
別に当時の小林よしのりは左翼で、後に転向したわけではない。小林よしのりは厳格な寺の子として生まれながらギャグマンガ家になった、それを恥じる意識ゆえか、昔から軽薄な世相に冷や水をかける作品ばかり描いてる。当時は時代状況から「軽薄な世相に溺れてると、軍国主義の復古的な大人に足元すくわれるぞ」という論調だっただけだ。
これは小林よしのり一人に限らない。1980年代当時は「管理社会」「管理教育」ということがやたらに言われた。まさに1984年から1988年に「週刊モーニング」に連載されてた江川達也の『BE FREE』を読み返すと、その時代の雰囲気がわかる。この作品でも悪役は「校則・体罰で生徒を束縛するファシスト教師」だった。
1980年代当時の若者文化が敵視した「管理社会」「管理教育」イメージは、深い部分では冷戦体制と関係している。当時は本気で米ソ核戦争の危機が煽られてた。
1985年のOVAアニメ『メガゾーン23』は、1980年代当時を模した宇宙都市内に戦争の危機が迫り、主人公たちの憧れのアイドル歌手が軍服を着て徴兵動員のプロパガンダ映像に出演する場面が皮肉っぽく描かれる。
当時はこのように「軍国主義復活の恐怖」を煽る作品は結構多かった。
とはいえ、一方で説教臭い反戦メッセージを嫌うオタクもまた結構いた。
確か当時のゆうきまさみの短編作品には、過激な反戦運動家のため、ガンダムやマクロスのような派手な戦闘シーンのあるアニメが弾圧され、マニアが地下活動家のようにこっそり隠れてそういう作品を視聴するという話があった。
実際、メカ兵器好きのミリタリオタなら右派的心情になる方が自然だ。
1970年代末に爆発的人気だった『宇宙戦艦ヤマト』はかなり右派的心情だし、1980年代の『超時空要塞マクロス』の敵である文化にうとい田舎者のゼントラーディ人は、露骨に当時のソ連のロシア人のイメージだ。
1982年には、ガイナックスの前身DAICON FILMが『愛国戦隊大日本』なんてアマチュア映画を作っている。もっとも、これはあくまで右翼をパロディしたおふざけ作品だが。でも当時、冒頭に書いたような「ソ連は未来の国」と思ってた古株SFファンには、本気で怒った者もいたらしい。
■(3)1990年代前半 戦争観の変化とリベラル左派への懐疑
1989年にはベルリンの壁がなくなり、1991年にはソ連が崩壊し「社会主義や共産主義は一切間違ってました」ということになった。
しかし長期的視野で見た場合、冷戦体制崩壊より1991年の湾岸戦争の方が、オタク文化に影響しているかも知れないという気がする。
これも以前に述べたが、湾岸戦争を機に「ボタンを押してミサイルを発射するだけのゲームのような戦争」のイメージが広まった。
従来、兵器好きのミリタリオタでも、血みどろの大量殺人が行なわれる戦争を楽しく語るのはためらわれたはずだろうが、直接的な殺人や戦死体が描かれない戦争イメージの定着で、そのへんの敷居はかなり低くなった筈だ。
また、当時、社会党や共産党や左派系市民団体が派手に反戦を訴えたが、アメリカ軍はあっさりと圧倒的勢いで勝利した(実際には戦闘に勝っただけでフセイン政権は生き延びた)。これで反戦論が大幅に説得力を失い、「ハイテク兵器カッコいい」と大手を振って言えるようになった面はあるだろう。
差別との戦いとの戦い
1990年前後には「『有害』コミック論議」というものが起きている。現在まで尾を引く「児童ポルノ規制」だの「非実在青少年」だのの問題の走りだ。
(もっとさかのぼれば、1970年代に永井豪の『ハレンチ学園』がPTAに叩かれた話とかもあるが、感覚的に現在と地続きなのはこのから時期あたりからだろう)
この手の表現規制問題がややこしいのは、表現の規制を唱えるのが保守権力ばかりではなく、むしろフェミニスストなどの反差別主義者であるということだ。
すでに1980年代末には「ちびくろサンボ絶版事件」が起きている。古くから慣れ親しまれた絵本が、黒人差別的であるという理由で葬り去られたという話だ。
さらに1993年には、筒井康隆の「断筆騒ぎ」という事件が起きた。国語教科書に採用された筒井作品がてんかん患者を差別していると見なされた件だ。当時、筒井康隆はまだかろうじて、若者向けサブカルチャー作家のイメージがあった。
右翼ではなく、反差別のリベラル左派の方が「言葉狩り」のような理不尽な形でサブカルチャーを弾圧するという事態が一般的に認知されるようになったのは、この「ちびくろサンボ絶版」から「筒井康隆断筆」の時期からではないかと思う。
漫画やアニメやゲームの表現規制問題をめぐって、現在のネット世論では、表現規制派のなかでも日本ユニセフ協会のアグネス・チャンは人権主義者の左翼と見なされ、右派のオタクからは激しく嫌われているのは周知の通りだ。
ただし、表現規制問題では、一筋縄で行かないねじれも起きている。
日本の政治家では、東京都知事の石原慎太郎を始め、表現規制は保守系・自民党に多い。逆に、「表現の自由」を標榜して規制に反対する立場は、民主党、社民党などの左派リベラル政党に多い。
これは、先に述べた通り、漫画文化草創期の1960年代当時には「大人・権威・体制vs子供文化・反権威・反体制」という図式があった名残もあるかもしれない。
■(4)1990年代後半 オタクの国粋化と差別のポップ化
1990年代の後半のオタク文化といえば「『エヴァ』バブル」である。1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』のヒット以後、急にスノッブなアニメ評論が増えた。さらに押井守監督の『攻殻機動隊』がアメリカで大ヒットしたとかで「ジャパニメーション」とか、のちには「クールジャパン」なんて言葉が普及し始めた。確か『現代思想』が最初の「ジャパニメーション」特集を行なったのも1990年代後半だった筈。
つまり、従来「漫画やアニメやゲーム=子供の文化」として低く見られていたが、「漫画やアニメやゲームは日本が世界に誇る文化」という神話が広まった。
厳格な伝統文化を背負う右翼が若者文化を弾圧するようなイメージから一転して、自分らの方こそ日本文化を背負っているという意識の変化、つまり「オタクの国粋化」が起きてきたわけだ。
また、1990年代後半からインターネットとオタク文化が結びついてきた。個々のオタクが自宅の自室にいながら、ネット上で情報発信・交流できる。となれば、先に述べた1980年代当時のように、異ジャンル文化サークルが呉越同舟するような状況は減り、左翼臭のする他の文化系サークルと接するような機会もなくなる。
『戦争論』とテポドン
こうした中、1998年7月に小林よしのり『ゴーマニズム宣言戦争論SPECIAL』が刊行されている。この本の影響力は今さら言うまでないだろう。
当時「ネトウヨ」という言葉はなかったが「コヴァ」と呼ばれた小林よしのり口真似エピゴーネンが大量発生したものだ。
ただし、小林よりのり自体は本来、あんまりオタク文化と相性がよい漫画家ではない。『ゴーマニズム宣言』の前身となったエッセイ漫画『おこっちゃまくん』や初期の『ゴーマニズム宣言』で、アニメ絵の美少女キャラが好きなオタクをかなり辛辣に描いている。
1995年のオウム真理教サリン事件以降は、オウム信者に同世代として共感的な宅八郎と対立している(宅八郎はアニメやマンガからの影響が強い世代としてのオウム信徒への共感であって、オウムの教義への共感ではない)。
1988年にはさらに、北朝鮮のテポドン打ち上げが始めて行なわれた。それまで、若者サブルカルチャーの範囲内では、テリー伊藤の『お笑い北朝鮮』のように「北朝鮮はヘンな国」という見方はあっても、本気で日本に対する脅威と見なす視点は乏しかった。しかしテポドン打ち上げ以降、急に「北朝鮮の脅威」イメージが具体化してきた。
差別ブームの先鞭
また、1998年にはインターネット上で「高卒差別」のマミー石田という人物が登場し、低学歴を嘲笑する「ドキュン(DQN)」という語を広めた。これが現在に至るネット世論での「差別ブーム」の走りといえる。
はっきり言ってしまおう。差別は楽しい、だって優越感が得られるもの。元がコンプレックスのある日陰者ならなおのことだ。これまた以前も述べたが、オーストラリアで有色人種差別の過激発言を飛ばしている芸人は、白人の中の少数派のアイリッシュ出身だそうである。事態の図式はどこの国も変わらない。
広義の文化的マイノリティであるオタクには「コンプレックスと裏腹のエリート意識」がある場合が少なくない。
とくにインターネットが普及し始めたばかりの時期は、パソコンはまだ高価で、PCユーザーは理系の高学歴者が多かった。1998〜2000年頃、ネット内で「ドキュン差別」が流行した背景には、そんな事情もあるだろう。
当時の「ドキュン差別」は、まだ一種の偽悪ポーズ、過激なアングラを気取った少数派の態度だった印象がある。しかしこれがその後のネット世論での「差別はしてもよいのだ」という空気の形成の契機になったのは確実だろう。
■(5)2000年代前半 小泉改革の功罪
インターネットの普及初期にも、どこの誰が被差別部落出身だったり在日だと暴露するようなサイトはあったが、ごく少数派のアングラ系サイトだった。
それがゼロ年代前半、小泉純一郎首相のもとで新自由主義が進んでから、ネット世論で少数被差別者への差別的言辞が急激に広まった感がある。
かつて、高度経済成長期に日本全体から貧困が消えると、左翼の主張は、女性や被差別部落出身者、在日朝鮮人・韓国人、身体障害者、高齢者などの少数被差別者の人権擁護という方向に進んだ。確かに1970代当時にはまだそうした人々が名実ともに弱者だったといえる。しかし、一億中流の80年代には激しい差別は視界から消え、さらにバブル崩壊後の90年代には、普通の日本人男性でも就職難が増えてきた。ところが、左翼は「普通の日本人男性」が困ってても弱者として擁護してくれない。
本来オタクは日陰者だった。そこでオタクが社会的な少数被差別者の側に自己を投影する心性の持ち主になったとしても、決しておかしくはない。
実際、1970年代のヒーローは、『カムイ伝』のカムイは非人階級、『デビルマン』の不動明は半分悪魔、『仮面ライダー』の本郷猛は怪人バッタ男、と、普通の人間から外れた存在として描かれ、言わば少数被差別者の側が少なくない。このパターンはゼロ年代も『鋼の錬金術師』のエルリック兄弟などに見出せる。
オタクに人気の萌え美少女キャラの類だって、魔女とか吸血鬼とかアンドロイドとか地上侵略に来た海洋生物とか、少数被差別者のように「普通の人間ではない」存在として描かれたキャラは少なくない。涼宮ハルヒはオタクの本音を吐露するように、はっきり「普通の人間に興味はない」とまで言った。
しかしながら、上記のような考え方では、少数被差別者ばかりが偉く「普通の日本人男性」の自分はヒーローになれないのか? ということになってしまう。
わざわざあえて「普通の日本人男性」を肯定する思想はずっとなかったのだ。
そんな中、2001年に発足した小泉政権の「改革」は、自由競争原理によって公務員などの特権を破壊すると期待されて支持を受けていた、当時は。
それで「弱者を自称する人間が税金で助けてもらおうというのは甘え」という考え方が広まった。具体的には、従来の左翼が「弱者」と規定してきた女性、被差別部落出身者、在日朝鮮人・韓国人、身体障害者、高齢者などへの非難だ。
要するに小泉政権下の新自由主義によって「普通の日本人男性」が初めて、堂々と少数被差別者を批判して良い大義名分を手に入れたと考えることができる。
しかも、1990年代末からの「ジャパニメーションは日本が世界に誇る文化」という伝説の流布によって、オタクの間には「自分たちは日陰者ではなく、自分らの方こそ主流」という意識が芽生えてきた。となれば、オタクが少数被差別者を差別したい心性になってもおかしくあるまい。
さらに、2002年には日韓共催ワールドカップでの韓国の態度が注目され、同年中の小泉純一郎総理訪朝で北朝鮮が日本人拉致を認めた。これでネット世論では一気に、韓国と北朝鮮は差別してオッケーという空気が広まった。
■(6)2000年代後半 非モテ運動と麻生ブーム
――以降は現在と地続きである。2005年にはオタク受けしやすいアニメ絵の『マンガ嫌韓流』が刊行されて大ヒットし、口真似の元ネタを小林よしのりから山野車輪に取り替える人間が続出した。
ただし一方では、オタクの中でもインテリ層の一部には「左翼=インテリ/右翼=頭の悪い大衆」という意識が残っているようだ。また、自分たちを少数被差別者の側に自己規定するようなオタクもまだいる。
2007年に「アキハバラ解放デモ」なるものをやった非モテ運動の左派は、中核派と一個人的友人として仲が良かったそうである。
とはいえ、一個人的には、これが正統な左翼の系譜とも思えない。
かつての左翼は「世界の飢えた労働者」という階級全体の解放を標榜していた。しかし、左派系の非モテ運動というのは「弱者=正義」という左翼の論法を、「非モテという弱者」を自称する自分たちのためだけに都合良く利用しているだけにしか見えないからだ(もっとも、男尊女卑の右派も非モテも多いようだが)。
それに「弱者=正義」という論理は左翼の中でしか通用しない。社会の多数派を敵に回すような反体制的ポジションを標榜するより、何もしなくても既存の権威が自分たちを肯定してくれる方が楽だ。
そうした感情を反映してか、漫画ファンで知られる自民党の麻生太郎は「『ローゼンメイデン』を愛読」という神話が広まった。
麻生太郎の年齢を考えれば「『ローゼンメイデン』も」読んでいたとしても、一番に好きな漫画は『ゴルゴ13』などの1970年代の劇画だろうと想像が付くだろうに「大物政治家が自分と同じ物を好き→自分も権威づけらえる」と思ったのだろうか。
そんな麻生太郎が2008年には内閣総理大臣に就任し、保守愛国なオタクは「俺たちの麻生」と呼んで盛り上がった。
わたし個人の印象を言ってしまえば、結局、ゼロ年代後半に起きてきた非モテ左派の運動も、麻生太郎を支持した保守系のオタクも、承認欲求を満たすためのツール、自分を肯定してくれる権威を欲していただけではないだろうか、という気がしている。
漫画やアニメやゲームなどの表現規制問題に関しても、右派のオタクは「漫画やアニメやゲームは日本が誇る文化なのだから云々」と言い、左派のオタクは「表現の自由」と言って自分を悪い権力者の弾圧に抵抗するレジスタンスのように語る。
だが、どっちも直接の動機・目的は自分の見たい物が見たいという欲求ではないのか。その点は左派のオタクも右派のオタクも同じにしか思えない(本当に「言論の自由」が目的というなら……というお話は、以前にこちらで書いた)。
オタクは保守ではなく排外主義か
現在のネット世論では、韓流ドラマやK-POPを敵視して、韓流ドラマの多いフジテレビやスポンサーの花王への非難する声が広まっている。
Amazonで花王製品を非難するコメントを書いている者が、一方でどんな商品に好意的コメントを書いているかを見ると、彼らの趣味の傾向がわかる。萌えアニメやギャルゲーに関するアイテムのコメントがかなり目立つ。
なるほど、今や「自分たちの好きなオタク文化=日本文化の主流」という意識の人々なら、外国文化の普及に警戒するのは道理かもしれない。
(補足:韓国や中国が現在も反日教育を行なっているのは事実である。そこで「日本が否定される→自分が否定される」という意識から韓国や中国に反発を抱く心理は道理としてはおかしくはない。ただし「漫画やアニメやゲームは日本が世界に誇る文化」という神話が定着する1990年代以前であれば、自分を「自国内では伝統保守価値観から外れた文化的マイノリティ」と自己認識するオタクも少なくなかったはずで、別に「日本」が否定されても「自分」が否定されたとは思わなかったのではないか?)
しかし、そもそも、つい数年前までサブカルチャーの土俵で韓国が意識されたことなど、ほとんどなかったはずだ。
日本ですでにアニメやアイドルが若者文化として定着しきっていた1980年代当時、韓国はまだ軍事政権だった。韓国で日本やアメリカのような「若者文化」が本格的に広まったのはやっと1990年代後半以降である。しかも軍事政権時代の名残で、公式には1998年まで日本のテレビ番組や音楽の自由な消費は禁止されていた(代わりに海賊版が大量に横行していたが)。
本来の文化的な価値観をいえば、韓国の方がよほど「右翼的」である。現在も徴兵制があるし、愛国教育が根強く、男尊女卑や年長者への敬老意識など、日本よりも保守的だ。
だが、ネット上で政治的に保守を標榜している人々の間でも、こうした意味で韓国を評価する意見は、どーいうわけかついぞ見かけない。
こうした点から、現在の「右派」系オタクというのは結局「保守」ではなくただの「排外主義」なのではないかという気がしている。
もっとも「保守」とか「愛国」を標榜する若者の内実が変容してきているのは日本だけではない。廣済堂新書『中国人の腹のうち』(isbn:4331515729)で加藤徹先生が語っていたところによれば、中国でも、愛国デモを男女交際の出会いの場に利用するような若者が現われているそうだ。
……そういや最近、似たような話をどこかの国の韓流番組規制要望デモでも聞いた気がするな(ギャフン)
2011-12-06 切れば血の出る共同性と中身スカスカの共同性
■アムウェイのキモさの正体
先輩「ネットで変なビジネスに勧誘された。なんか、アムウェイとかのネットワークビジネス(マルチレベルマーケティング、連鎖販売)みたいな感じ」
わたし「へえ」
先輩「でもさ、確かにアムウェイとかって、皆で集まって大声でスローガンを合唱したり気持ち悪いけど、そーいうのって住友商事やパナソニックみたいな一流の大手企業でもやるわけじゃん。新人社員が日の丸はちまき締めて『みそぎ研修』とか一時期よく話題になっただろ」
わたし「ああ。でもさあ、ああいう一流企業とアムウェイみたいなネットワークビジネスはハッキリ違うところがあるんだよ。普通の会社は、入社したらみんな机を並べて一緒に何時間も仕事して、一緒に取引先に営業に行くよね。でもさ、アムウェイみたいなビジネスは同じ職場に出勤しない、会員が個々バラバラに自分の利益のために物を売るだけ……わかる? アムウェイみたいなネットワークビジネスは、ああやって儀式的な集会で無理やり一体感や高揚感を作らなきゃ、共同性が維持できないんだよ」
先輩「なるほど」
わたし「戦時中に『ハワイ・マレー沖海戦』っていう海軍航空隊の記録映画があったけど、あの映画に出てくたような少年飛行兵も、大勢で声を張り上げて体操したり、日の丸はちまき締めて『天皇陛下万歳』とか『大日本帝国万歳』とか大合唱してた。あれも現代の目で見ればカルト宗教みたいだろう。でもさ、彼らには口先だけでなく、首から下の行動で生死を共にしてたわけね。この点、現代のアムウェイみたいなネットワークビジネスは個人の欲だけが目的じゃん。だから『このビジネス、僕は儲からないな』とわかったらすぐ辞めて逃げる」
先輩「実際に儲かる奴もたまにはいるんだろうけどね」
わたし「ああ、何千人一人かは本当に儲かってるだろう。でも、その陰で何千人もの『うまくいかなかった例』は一言も言わず。何千分の1かの『儲かった例』だけ何千回も強調してくり返し言う。すると聞いてる方は『儲かった例』が全部だと思っちゃう。これがあいつらの手口なんだよ。ネットワークビジネスの勧誘はウソは言ってない。ただ悪い話を一切隠して言わないわけだ」←QB(キュゥべえ)と同じだw
■文化的な無責任/汗臭く泥臭い責任感
「オタク」と「ヤンキー(DQN)」という二項対立でものを語りたがる人は多い。先日、こういう意見を目にした。
先に結論を書いておくと、私はDQNは必ずしも成熟しているわけではなく、単に「人生という名のRPGにおける、「メインイベント」の進捗率が速いだけ」だと考えている。
つまり、DQNと称するクラスターに属する人は早く結婚するし、早く子供が生む。だが、それは「成熟」と必ずしもイコールで結ばれるわけではないと思う。
http://blog.livedoor.jp/chikumaonline/archives/53134556.html
興味深い意見だとは思ったが、わたし個人としては、いろいろ見落としすぎなんじゃないかという気がする。
「オタク」と「ヤンキー(DQN)」の違いは単にさっさと男女でつがいになって子どもができて親になるかという問題だけではない。
端的に乱暴に分ければ、オタク人種の多くは文科系でデスクワークの内勤、職業で言えばプログラマや経理や事務員として働くような人で、ヤンキー(DQN)の多くは体育会系のブルーカラー、職業で言えば飲食店や製造業や建設業や運送屋などで働くような人たちだろう。
後者の職業環境においては強固に求められるものがある。厳格な先輩後輩関係、身体を使う仕事特有の危険安全意識だ。
わたしが20代の頃、解体現場で一日バイトしたときなどは、一見いかにも荒っぽいおっさん連中が、すごく厳格な安全点検をやっていた。でなければ解体中の瓦礫が落ちてきて大ケガする職場である。この点、内勤のデスクワークではミスをしても簡単にケガ人が出ない代わりに責任も明確になりにくい。
こうした違いを考えれば、一見「文化的」に見えるオタク系インテリの職場より、ヤンキー(DQN)の職場の方が口先だけでない実体的な共同性が求められるのは、当然というものだろう。
@yukiwochoro choro
地方に残るわしらの世代(30後半)の人間で、大抵地域でネットワーク作ってるのはヤンキーあがり。たとえばまつりの世話したりとか消防団やったりとか、保守系の市議会議員になったりとか。てかオタクだのサブカルだので地域に根ざしてるのはまずいませんから。
もっともわたしは、こういう地方の小さな職場の共同性の束縛が嫌で、東京に逃げてきて、出勤しなくて良い(低収入の)フリーランスなんぞやっとる人間だから、エラそうなことは一切言えない。しかしだからこそ、そーいう自分に欠けている部分を自覚的に直視はしなければならないと感じている。
■「趣味」だけでつながる関係のもろさ
かつて田中角栄は1970年代のロッキード事件で失脚した後も、地元新潟では絶大な支持を得ていた。地元に新幹線を通すなど露骨な利益誘導の賜物だが、彼が良くも悪くも地元民に愛されたのは、そればかりではなかったようだ。
こんな伝説を聞いたことがある。選挙の時、角栄が農村の支持者のもとを訪れて、わざわざ背広姿のまま泥だらけの田んぼに入り込んで農民の支持者と握手したという……これをクサいパフォーマンスと笑うのはたやすい。が、こういう首から下の行動が伴う形で相手と一緒に汚れる覚悟なくして、本当の共同性が生まれるはずがない。
なんでも麻生太郎が韓国でK-POPはすっかり日本に定着したと発言したら(注:麻生太郎自身がK-POPや韓流好きとは一言も言ってない)、そんだけでネット世論では急に麻生叩きが盛り上がったそうである。
数年前のネット世論での麻生太郎人気というのは、結局「麻生太郎はローゼンメイデン愛読」という都市伝説から「自分らの好きな物を総理大臣も好き→自分らも権威づけられる」という虫の良い解釈が広まっただけではなかったのか。
政治家がどんなタレントやサブカルチャー作品のファンであるかは、あくまで個人の趣味、好みの問題であって、政策の中身とは一切関係ないだろう。だというのに、ネット世論の麻生ファンはこんなことで簡単に手の平を返すとは、要するに『韓流・K-POP』も『ローゼンメイデン』も等価というわけか。
麻生太郎の本来の地盤の九州北部には、彼を「地元の気前の良い御曹司」と思って好感を持ってる人もいるだろう。かつての角栄と新潟県民ほどではないにせよ、そういう地元民たちは、こんな趣味の発言ひとつで手の平を返さないと思いたい。むしろ、趣味の話で手の平を返すような共同性しか持ってない人間は離れてくれた方が良いかもね。
まあ、支持者との仲が口先だけになってるのは、自民も民主も似たりよったりだろう。
おいネットワークビジネスと仲良しの山岡賢次大臣、お前が困っても本気で弁護してくれる奴が出てこないのはなぜかわかるか?
2011-11-01 ゼリーボックス仮説(あるいは「箱の中の星座」)
■衣食住が関わらないところに切実さはない
陰謀論は、手っ取り早く「自分が頭よくなった」ような気にさせてくれますからね。「自分以外みんなバカ」という承認欲求を満たしてくれる。「みんな」は騙されているけど、「自分」だけは知っている、と。
古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』(isbn:4062170655)を読む。
この手の社会学的分析というものは、時として、一見きちんと歴史的な資料や数字的なデータの裏づけがあるようで、実際はデータの母数設定やリサーチ対象の偏り、さらには筆者の意図的・選択的な抜き出しがありえる。だが、本書はこの点にはかなり自覚的な方で、筆者の一個人的見解の部分は一応はっきりそう断ってある。
「今日よりも明日がよくならない」と思う時、人は「今が幸せ」と答えるのである。
という見解は「なるほど」と思った。が、本書全体の印象は、わたしがここ数年漠然と思っていること以上の意外性はなかった。若者はケータイとネットとちょっとした顔なじみがあれば生活に充足してる、政治運動やナショナリズムらしき物はあっても、本気で社会を変革すべき飢餓感も必要もないヘタレだからどうせ安心……。
まあ実際、日本が今年8月のロンドン暴動みたいなことが起こる国になっても困る。とはいえ日本が今後下り坂なのは確実、来年すぐ滅亡するわけでもなかろうが(東ローマ帝国は、後半はイスラム諸国に脅かされつつ結局1000年も続いた)、このままでいいのかよ? とは思うけれど、自分程度の頭では切実な主張も出てこない。
古市憲寿は、東京都の「非実在青少年」表現規制に対しては、本当に危機感を感じて動き出した人が多くいたと述べる。が、規制派の石原慎太郎は再選されてしまった。反フジ反韓流デモも一定以上は広まっていない印象。どっちも所詮、漫画やテレビという娯楽メディア表現の枠内での話。
漫画やテレビの内容がどう変わっても、べつに電気が止まったりご飯が食べられなくなるわけではない。でも、衣食住が関われば、政治運動に無関係な層も動かざるを得なくなる。
それで反原発運動はなら反フジ運動よりは格段に盛り上がっているが、これも簡単には一般市民に死者が出たりしないから、まだどこか国民全体の切実感が乏しい。
■陰謀論を望む人々
毎日テレビや新聞やネットでは、今の放射線量はどれだけ危険か、いや大丈夫だと双方の見解が飛び交い、東京電力や、玄海原発を抱える九電と佐賀県の悪行が暴かれている。反原発派の真剣切実さは大変もっともなのだが、たまーに少しだけ疑問に思うのは、一部のメディアや過激な反原発派は「東京電力はクソ外道会社であって欲しい」と思っているのではないか、ということだ(まあかなり事実だろうけど)。
同様の印象は、反韓流・反フジ運動の方にはより如実に感じる。なるほど広告代理店の韓流推しは事実だろうが、たまたまフジテレビの番組の画面に映った「JAP18」という語句が日本を貶める暗号だとか、反フジ運動の人たちは、みずからフジテレビが反日テレビ局であることを望んでないか。「やっぱり反日」と思える要素を見つけては喜んでないか?
そう、前から思ってたことだが、陰謀論って「そうだったらいいな」という願望論じゃないのか? 自分の直面する問題は全部あいつらのせいだ、という……
じつは昨年『世界の見方が変わる「陰謀の事件史」』(isbn:4569675336)という本に関わり、陰謀論の構造について簡単に解説した。少し引用しておく。
かつて「外国製のメンソール煙草を吸うと勃起不全になる」という噂があった。きわめてシンプルな形で、この話には陰謀説の基本構造が詰まっている。
まず、外国の煙草という点、陰謀を仕掛けているのは自分たちの共同体の外部にいる者であるという認識だ。次に、メンソール煙草という、現在はともかく、この噂が有名だった当時には少し珍しかったアイテムにまつわる話という形式。
そして、深読みすれば、この噂が生まれた理由は、オシャレなメンソール煙草を吸う人間へのコンプレックスの裏返しではないか、と考えることもできる点だ。
自分たちと認識を共有しない人種、民族、宗教、思想や、見慣れない新奇な事物への違和感、偏見、反発が陰謀説と結びついていることは多い。
多くの陰謀論は、一見きちんと歴史的な資料や数字的なデータの裏づけがあるようで、実際はデータの母数設定やリサーチ対象の偏り、さらには筆者の意図的・選択的な抜き出しが少なくない(古市さんは違いますよね?)
先日、それをうまく説明するモデル像を思いついた。
角度を変えれば見え方も変わる「箱の中の星座」
たとえば、透明なゼリーの詰まった四角い立方体があって、その中にピンクや緑や青の色鮮やかなチョコチップの粒がいろいろと浮かんでいるのを想像して頂きたい。
ある角度から、ゼリー中のピンク色の粒だけ、あるいは緑色の粒だけをつなげてみれば、なんだかそこにピンクの線や緑色の線があるように見ることもできる。
しかし実際には、最初から意図してそんな線は作られておらず、乱雑にさまざまな色の粒が浮かんでいる。星座のように、見る人の解釈で線を見いだしているだけだ。
また、立方体をどの面から見るか、角度を変えれば線の形はぜんぜん違ってくる。
陰謀論的解釈というのは、すべてそういうものではないのか? 「あれもこれもユダヤ人が関わってる」とか「これは暗号に違いない」とか、同じ色の粒だけを、ある一面の角度からだけつなげて意図的な線があると主張しているようなものだ。
同じ対象でも、見る角度によって見え方は大きく違ってくる。……読売新聞は立方体を上面から見ているが、しんぶん赤旗は立方体を真横から見ていたり、海外メディアのロイターやウォールストリートジャーナルは立方体を真後ろから見ていたり、誰かは真下から見ているかも知れない。
『カイジ』の地下チンチロリン編でも語られていたが、全六面のサイコロ状の立方体は、どの角度から見ようとしても、最大で一度に三面までしか見えない。真の像を確認するには2人以上の視点を総合的に照らし合わせなければならないわけだ。
当然、わたしの書いている見方も事実の一側面でしかない。そして実際の現実は立方体の6面どころですまず、人の数だけ見方がある。
■…以下は宣伝です
とりあえず今の自分にできる仕事は、多様な物の見方の一解釈を示すことと、若者が「今が幸せ」と思ってしまう日本というシステム(終身雇用が建前で、30歳過ぎて独身親元住まいでも文句は言われず、空気さえ読んでりゃ場から脱落はせず、ケータイとネットで孤独は紛らわされ、100メートル歩けばコンビニがあって24時間欲しい物が買える環境?)の足元を認識し直す、という程度だ。
――以上のような感慨もあって、このブログでは最近の自分の執筆仕事のことを挙げてなかった。でも、一緒に仕事をしている友人、仕事上関わった人たちには、自分なりの指針をはっきり持とうとしている人も少なくない。
最近関わった主な仕事
○雑誌『For Everyman(フォー エブリマン)』
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20111023
畏友・河田拓也君の編集による雑誌。当方は竹中労『庶民列伝』(isbn:4380072169)の書評を寄稿。かなり前に書いた物だが、創刊号を貫く趣旨――震災後の状況を踏まえて、今の日本人が忘れかけている本来の戦後日本人の生活実感とそこにあった意識を見直すこと――に沿ってボツを免れたというのなら幸い。
月刊『ヒーローズ』(http://www.heros-web.com/)の創刊準備号として夏コミケで配布された冊子。当方は『ウルトラQ』〜『帰ってきたウルトラマン』の脚本に関わった上原正三氏のインタビューを担当。といっても3Pの短い記事。6年ぶりに取材した上原氏からは貴重な歴史証言が続出。同席した八木毅氏(深夜枠の『ULTRASEVEN X』シリーズ構成などを担当)らの意気込みも頼もしかった。金がなくても環境が整ってなくても、作りたいものがある人間は作りたいものを作る。
○新書『中国人の腹のうち』(isbn:4331515729)
京劇や漢詩を専門とする中国文学者・加藤徹先生の談話をまとめたもの。異民族と地続きで対峙する大陸国家の環境が漢民族に与えた影響(町も家も城砦で囲む。いざとなれば土地を捨てて逃げる)、愛国デモを男女の出会いの場に活用したり日本と大差なくなってる若者像など、随分いろんな話を聞かせて頂きました。
○文庫本『時代の流れがすぐわかる「業界再編地図」』(isbn:4569676901)
金融から宗教まで日本のあらゆる産業と文化に関わる企業、団体の集合離散の変遷を追った本。当方は電力、鉄鋼、製紙、自動車…などの明治期から現在に至る合併・分裂の歴史を担当。日本の電力会社の独占体制のいびつさ、1980年代末の日米構造協議の各産業への影響など、調べてて地味に勉強になった。
○文庫本『こんなに違うよ! 日本・韓国・中国の会社』(isbn:4569677207)
昨年刊行されて増刷9版まで行った『こんなに違うよ!日本人・韓国人・中国人』(isbn:4569675328)の姉妹編。中国や韓国の企業には、ずさんな安全管理、日本や欧米製品の模倣などツッコミ所も多い。しかし、迅速な意志決定や転職の多さなどのフットワークの軽さが日本にない強みなのも事実。隣国を見ていれば、良くも悪くも翻って日本の企業体質の長短が見えてくる。
○書籍『「仏」と「鬼」の謎を楽しむ本』(isbn:4569796095)
○書籍『ブッダの秘密』(isbn:4569796842)
○書籍『「聖書」と「キリスト教」の謎を楽しむ本』(isbn:4569799590)
執筆のため調べていて痛感した点を述べると、まず当たり前と言えば当たり前だが、日本は大乗仏教の国なので、やはり「世界の仏教」を論じる場合は大乗仏教の立場で書かれた本が多い。あと、多くの資料でバチカン市国の成立は1929年と書かれているが、なぜこの時期にイタリア政府がバチカンの自治を認めたかは説明されていない。当時のイタリアはムッソリーニ政権で、カトリック聖職者には反共産主義のためファシスト党と一時的に協力関係だった者が結構いた側面は無視されている。
