電氣アジール日録

2016-07-21 ゴジラ対あまちゃん(『シン・ゴジラ』公開記念)

ぼくのかんがえたさいきょうの「宮藤官九郎脚本ゴジラ

オール特撮オタクとしては、庵野秀明ゴジラの新作を撮ると聞いたときは少なからず期待した。そのとき脳裏をよぎったのは、若い頃の庵野らが1980年代当時に製作した『八岐大蛇の逆襲』とか『帰ってきたウルトラマン』イメージだったのだが、劇場予告編を見た限りでは何とも言いがたい……。

さて、数年前、Twitterでよくある大喜利的なタグで「こんな新作ゴジラはいやだ」というネタがあり、そのなかで「宮藤官九郎脚本ゴジラ」というものが挙がっていた記憶がある。しかし実際、自分はふと一瞬「クドカンゴジラ、案外と有りかも知れない」と思った。

おい待て、石を投げるな! 俺が考えたのは「怪獣災害」に直面して、怪獣駆除やら人命救助やらに従事する特殊公務員スポットを当て、『木更津キャッツアイ』と『海猿』をアウフヘーベンしたようなノリの作風だ。

あるいは、すぎむらしんいちの愛すべきDQN自衛隊マンガ右向け左!』を、若い頃の庵野秀明が傾倒していた岡本喜八戦争映画のようなタッチ映像化して、それに途中からゴジラが出てくるイメージとでもいえばよいか

さしずめ、物語舞台はどこかのさびれた地方都市主人公は、自衛隊あるいは海上保安庁とか消防庁レスキュー隊の落ちこぼれ隊員の青年3〜5人ほどのグループ。中高生当時からそのままつるんでいるマイルドヤンキー集団で、20代かばになってもいまだに高校の頃の憧れのマドンナを取り合いしてるような下世話な連中。

ところが、そんな主人公たちの住む街にゴジラ出現の報が届く。当然、不真面目な主人公たちは保身意識丸出しで隊を辞めたり逃げることを考えるが、幼なじみヒロイン親族だかが乗った船がゴジラに沈められてシリアス空気になるとか、地元役所に勤めてるヒロインが逃げずに居残って地元民の救助に邁進するとか言い出したことから、不真面目な主人公たちも真面目に戦う気を起こす。

しかしそこはクドカン調で、たとえば、仲間に向かって格好よく「俺が死んだら彼女のことは頼む」とか言いながら、直後にすかさず「くそっ、俺が死んだら彼女うまいことやる気だろ、許さんぞ!」とかいう本音(心の声)が入るような演出

――と、そのような卑小な人間たちの下世話な営みを問答無用で吹き飛ばす巨大な災害としてゴジラが描かれるわけだ。

「全体小説」としての怪獣映画

畏友・奈落一騎氏は以前「怪獣映画は全体小説であってくれなくては困る」という意味のことを述べていた。全体小説とは、政治社会から男女の営みやら個人の悩みまでを視野に入れ、世の中全体をそのまま描くような文学のことである

東宝の初代『ゴジラ』以来、日本オーソドックス怪獣映画は、政治家軍人庶民科学者ジャーナリスト、果ては怪獣を見せ物にする興行主やら宇宙人まで、あらゆる階層人間が登場し、その右往左往が描かれる。単刀直入に言えば、都市破壊する巨大な怪獣は、社会のあらゆる階層人間をもれなく巻き込む「戦争」または「災害」あるいは「文明のマイナス面」のメタファーだった(『ゴジラヘドラ』なんかは良い例)。

昨今、政治家軍人の出てくるドラマ映画は多い。だが、そういう作品はとにかくシリアスに真面目に描かなければならないという強迫観念が感じられて息苦しい。

戦争災害対策や人命救助に従事する者だっての子だ、下世話な欲や保身意識だって当然ある。でも、それを乗りこえて危険に飛び込むからこそ感動的なのではないか? 『海猿シリーズのヒットはその辺が背景にあったはずだ。岡本喜八監督戦争映画(『肉弾『英霊たちの応援歌』『地と砂』など)は、そういう等身大兵士を描いた作品が多い。

と、いったことを考えると、NHKドラマの『あまちゃん』はやはりよくできていたと思う。この作品は恐らく、東日本大震災を正面からストレートに取りあげた最初テレビドラマのはずだが、物語の3分の2まで、えんえん東北田舎町と東京に集う駆け出しのアイドルたちのしょーもない下世話な人間関係しか描かれない。

以前も書いたが、三陸駅長大吉地元活性化のためと称してデタラメ公私混同をやるおっさんだし、ユイの兄ヒロシはひたすら情けないニートである――が、そんな連中だからこそ、後半の災害復興編で彼らが地元のため一致団結して立ち上がる姿は感動的だ。

むしろ逆に、最初から災害復興を前面に出して彼らを善良で真面目な人々に描いていたら、あの後半の盛り上がりはなかったろう。落差こそが感動を生むのである

ゴジラあまちゃんウソ

――ときて、『ゴジラあまちゃん』があるとすれば、こんな感じか(入浴中に湯船に浸かって考えた妄想の類)

20XX年、復興が進みつつあった北三陸に、アキの祖父忠兵衛の乗った遠洋漁業の船が北太平洋遭難し、生還絶望的との報が届く。

ほどなく、ゴジラの出現と北三陸近辺への上陸予想が報じられ、北三陸には次々と報道陣や野次馬が集まって来る。観光客の増加を喜ぶ大吉菅原だが、本当にゴジラ上陸すれば町が破壊されるやら放射能汚染やらでたまったものでない。かくして観光協会では連日「ゴジラ対策をどうすっぺ会議」がくり返される。

そんな折、水口勉さん琥珀掘りの最中に地下で巨大な卵のような物を発見する。勉さんは「モスラの卵に違いない」と言いだし、ザ・ピーナッツを呼んでモスラゴジラにぶつけようとするが、伊藤姉妹は両方ともお亡くなりになっていた。

かくしてアキ&ユイ潮騒のメモリーズが「モスラの歌」を歌わされることに。毎度のようにユイは当初困惑顔だが、アキは途中からやけくそ気味にノリノリとなる。

だが、残念ながらモスラの卵と思われた物はマンモスフラワーことジュランの種子で、北三陸には新しい観光名所が増えたものの、ゴジラ対策にはなり得なかったのだった。

紆余曲折を経て結局、初代ゴジラに対して芹沢博士使用したオキシジェンデストロイヤーを使うしかないという話になり、潜水士種市危険任務に志願する。そして出撃の前夜、一升瓶を持ってアキのところに来た種市は、生還できないかも知れない恐怖を紛らわすように痛飲、アキは種市をなだめつつ一杯、二杯と付き合い、結局二人ともすっかり泥酔してゴジラ迎撃に行き損ねる。

そこで、種市代理として作戦に志願したのはベテラン海女の夏ばっばだった。どうせ老い先短いと覚悟を決めていた夏は「忠兵衛さんの所さ行くだ」と決意を胸に秘め、オキシジェンデストロイヤーを手にして潜る。

海底で休息するゴジラのすぐ近くまで来た夏は、オキシジェンデストロイヤーを手放すが、そこでゴジラが目を醒まし、その巨大な口に飲み込まれそうになる。

だが、次の瞬間、突風のような海底潮流が夏をゴジラから引き離し、夏は洋上へと押し流された。ゴジラが視界から消える直前、海中で夏の目の前を横切ったのは、亡き忠兵衛がいつもかぶっていた帽子だった……。

洋上の船で夏ばっばを迎えるアキ、春子らに夏は「忠兵衛さんが守ってくれただ」と涙ながらに語る。その横では勉さんが海を眺めつつしみじみと「あのコジラ最後の一匹とは思えんだ」と呟くのだった。

gaikichigaikichi 2016/07/22 19:29 なんかクドカン自身のネタ企画で『ゴジラ対あまちゃん』が本当にあったらしいことを今ごろ知る。

2016-05-15 文豪パラドックス

宮沢賢治ラノベ作家になり損ねたニート

別冊宝島宮沢賢治という生き方』(isbn:4800254256)が刊行。当方は今回、鉱物音楽、星、農、岩手の郷土などに触れた冒頭カラー口絵と、宮沢賢治少年時代女性関係法華経信仰晩年サラリーマン生活などの生涯を追った第1章を担当

清貧でも自己犠牲的でもなかった前半生

長らく、賢治といえばいかにも生涯を通じて貧しい農民のため自己犠牲的に働いた人物のように誤解されていた。近年ではわりと知られるようになってきたことだが、実際の賢治の半生は、ありていに言えば甘えた道楽である

裕福な家庭に生まれながら地味な家業を嫌がって都会の学校に進み、学費を出してくれた親の意志に逆らって、成人後に「家出」してアルバイトしながら童話を書き、実家資産自費出版したもののさっぱり売れなかった。さらに、教師になったもの学校人間関係を理由に退職、その後は農業を始めるがこれも生活のためではなく、趣味の園芸のように当時はめずらしい西洋野菜や花を栽培しながら下手なチェロ弾きなどに興じる。ついでに、女性にはオクテだったのか草食系だったのか生涯童貞だったとの噂も根強い(実際は、自分は妻子を養う能力資格もないと思っていたのかも知れない)。

――しかし、このような実像こそかえって現代には親しみの持てる存在ではないだろうか。宮沢賢治童話作家を志した大正時代は、児童雑誌の『赤い鳥』が創刊され、「子供向けの読み物」というジャンルの勃興した時期だ。当時の賢治はさしずめ、ラノベ作家をめざして上京して挫折したあと実家資産でだらだら生活するニートだったのである

賢治が友人や元教え子にあてた手紙などを読むと、若い頃の賢治は「いずれ俺は高く評価されてすごくビッグになるぞ」という自負心の持ち主だったことがよくわかる。

そんな賢治だが、人生最後の数年は、近隣の農家のため作物や地質などに応じて肥料を配合して使用量を計算する肥料設計仕事無償でこなし、岩手県酸性土壌を改良するため石灰の販売に奔走した。これは単なる盲目的な自己犠牲でもない。賢治には生活に苦しむ農民を傍目に趣味芸術に興じてきた「負い目」もあったし、一方で自分農学校で見つけた知識と技術有効に生かさねばもったいないという意識もあったはずだ。

おバカ想像力効用

じつを言うと、わたし宮沢賢治の書いた物にはそれほど惹かれない。賢治の作品世界といえば、もっぱら『銀河鉄道の夜』のように一直線に理想を追う主人公か、『どんぐりと山猫』のようなナンセンス風味の小話、あるいは『春と修羅』収録の一連の詩など人と自然関係を描いたものか、亡くなった妹に寄せるシスコンぶりなどである

つまり、俗欲もあれば保身意識もある等身大人間同士の、男女やら親子やら組織内の軋轢やらを描く作家ではない、リアルなダークさが足りないのだ。確か吉本隆明は、賢治の詩は自然描写の豊かさの反面、人間関係の描写に乏しい点を指摘していたはずだ。

しかしそれでも、賢治の表現力と想像力はすごいと思う。川の中で水の泡が弾けるのを「クラムボンはわらったよ」などと書く言語感覚、人工物がほとんどない地方山道にずらりと並ぶ電信柱兵士の行軍に見立てるというセンス……こういう一見ばかばかしい子供のような想像力が、地味な灰色現実も楽しく味わえる心の豊かさではないか。

賢治は『農民芸術概論要綱』で、「曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術宗教もあった」と書いた。日本の農民は万葉集時代から、こういうセンス自然なかに風流や美や楽しさを見いだしていたのではないか。

宮沢賢治はウヨのカルト信者か?

さて、宮沢賢治を愛好するインテリ、とくにリベラル派の多くが眼を背けて、できればないことにしたいと思っている要素が、賢治の熱烈な法華経信仰国柱会との関係だろう。

賢治は最大の親友だった保阪嘉内にしつこく国柱会への入信を迫ったのが原因で友情が決裂した。この国柱会といえば、満州事変立役者石原莞爾も参加していた国家主義団体だった。また、二二六事件の青年将校に影響を与えた北一輝や、血盟団事件を起こした井上日召法華経の熱烈な信徒である

もとより法華経を奉じる日蓮宗は、日本大乗仏教のなかでも個人の救済ではなく天下国家の救済を唱える宗派だが、昭和初期には国家社会主義ファシズムとの関係が深かった。つまり、宮沢賢治潜在的ファシストカルト信者だった可能性が充分ある。

この点について、2014年刊行の『別冊太陽』の宮沢賢治特集で、精神科医斎藤環は「宮沢賢治ファシストではない。なぜなら禁欲的だったから」と説いている。ひどい欺瞞だ。バカを言うな、ファシズムとは禁欲を説く思想だろうがw

北一輝に触発された皇道派青年将校も、ドイツで初期のナチズム運動に参加した若者らも、貧しい農民や都市底辺層立場から、当時の都会のちゃらちゃらしたブルジョワ文化を敵視し、体育会系の結束と堕落した上流階級の打倒を唱えた。

どうも精神医学世界ではファシズム性的サディズムを結びつけた分析もあるようだし、講談社選書メチエ『愛と欲望のナチズム』(isbn:4062585367)によれば、ナチス時代ドイツでは多産奨励のため早婚が奨励されて10代の男女がやりまくっていたというが、少なくとも大衆運動としてのファシズムの建前は、個人の自由な欲望を規制して、軍隊的な規律と統制のもとに国民を団結させるというものだ。

むしろ、宮沢賢治がもし健康な身体の持ち主で、徴兵検査に脱落せずに軍隊に入っていれば、それこそ持ち前の禁欲的な思想東北の貧しい農民への同情から皇道派青年将校の同志になっていた可能性が充分にあったのではないだろうか。

実際、賢治は戦争軍隊も批判していない。1918年徴兵検査を受けたときには、父あての手紙で「戦争とか病気とか学校も家も雪もみな均しき一心の現象に御座候 その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候」と書いている。

矛盾ギャップ作家甲斐

――このように、書いている作品の内容や世間に定着したイメージと実像のギャップ矛盾に満ちているからこそ、人間としての宮沢賢治面白い。いや、ドストエフスキーしかり、トルストイしかり、多くの作家がそういうものだ。

じつは、別冊宝島の同じシリーズで昨年末に刊行された『夏目漱石という生き方』(isbn:4800250587)でも、「親友」「芸術」「結婚」「死」「高等遊民」など、一部の項目を執筆した。宮沢賢治とは対照的に、夏目漱石はそれこそ等身大近代人の男女やら親子やらの生ぐさい人間関係ドラマを書いてきた人物だ。

漱石といえば、みずから「小さくなって懐手して暮したい」と述べていたぐらいのニート願望者であるしかし、東大文学教師の職こそ放り出したものの、作品中でさんざんぼろくそに書いた妻子は放り出さず、自分文学の師として慕う若者らの面倒はいとわなかった。実人生不自由を受け入れていたからこそ文学では本音を吐いていたともいえる。

こんな文豪ストレイドッグスの新キャラはいやだ

2016-04-25 カルトにつける薬

宗教の分類は教義より信仰実践形式

熊本震災の発生以降、また過剰な「不謹慎狩り」が続いているようだが、幸福の科学地震便乗商売はもうちょっと批判されていいだろう。

http://togetter.com/li/963539

大川君にとっては、人がばんばん死ぬ災害も自説を宣伝する利用素材でしかないらしい。地震が起きて喜んでる反原発厨を非難する人は、同じように大川君のことも非難しなくては不公平ではないか。

ネット上では幸福の科学に対する批判も多いが、その中でよく目にするのが「オウムと同じカルト」という物言いである。だが、同じカルト宗教でもオウム真理教幸福の科学創価学会は大きく異なる。同じく人体に有害病原菌でも、エボラ出血熱エイズウイルスでは対処法もぜんぜん異なるのだ。そこはきちんと見きわめなければならない。

日本多神教ゆえ寛容」という認識の浅さ

宗教の分類で重要な点は、教義内容もさることながら「信仰実践形式である。たとえば、イスラム教の大きな特徴は、飲酒豚肉食などを禁じたり、毎日決まった回数メッカの方角に礼拝するといった戒律に支えられた習慣だ。

だが、じつは大乗仏教在家信徒だって本来はちゃんと戒律があり、イスラム教と同じく飲酒は禁じられているのだ。さらに、同じ大乗仏教でも宗派ごとに信仰実践方法は異なる。例を挙げると、浄土宗系なら念仏禅宗系ならば座禅修行といった具合だ。

これに対し、日本神道は明確な経典もない自然発生的な信仰から戒律などなく「ゆるい」宗教認識されがちだ。ところが、神道だって本来は、禊だの祓いだの生活習慣と密接な行事がたくさんあり、古代中世には人柱殉死風習だってあった。

もともと神道とは、豊作祈願や収穫祝いなど農耕儀礼と深い関係にあるが、戦後日本では産業構造の変化によって土着の農村共同体解体された結果、神道の習慣が形骸化しただけの話だ(これはエマニュエル・トッドも『シャルリとは誰か?』(isbn:4166610546)の冒頭部分で指摘している)。

たまに、イスラム原理主義などと比較して「日本多神教ゆえ寛容」などと言う人がいるが、重要なのは一神教多神教かといった教義内容よりも、身体を動かす宗教的習慣が形骸化しているかいないかの違いだろう。

高学歴インテリオウムに引っかかったワケ

では、先に挙げた3つの宗教団体のおもな信仰実践手法比較するとこうなる。

まず、オウム真理教信仰実践は、ヨガなどによる神秘体験が大きな要素だった。この神秘体験とやら、実際にはドラッグ使用していたというが、麻原こと松本智津夫鍼灸師としての東洋医学知識が反映されている。

地下鉄サリン事件が起きた1995年当時、オウムでは上祐史浩青山吉伸など、一流の高学歴エリート幹部を務めていた点が大いに不思議に思われた。これは、いくら書物から得た学識のある人間でも、こと身体に関しては抜け穴だったからだろう(当時、橋本治もこのようなことを述べていた筈だ)。

いわば、将棋に関しては一流の名人が、まったく異なる競技である柔道の達人に敗れて、相手に心服してしまったようなものだ。一時は、1980年代一世を風靡した宗教人類学者中沢新一のような大インテリまで、うっかりオウム理解者になっていた。

一方、幸福の科学信仰実践は、大川による偉人霊言やら宇宙構造やらについての本を大量に読んでお勉強し、試験で良い点数を取ると教団内で階位が昇進するというものだ。いかにも「東大卒」が売りの教祖らしい発想である

一見してオウム真理教よりも幸福の科学の方が学校秀才を惹きつけそうだし、実際さすがに幹部クラス学歴は高い。しかし、わたしの持論を言えば、中沢新一のような大インテリが支持者になるとは思えない。

しろ大川隆法霊言本に出てくる偉人中学校教科書レベルで、たとえば、カール・シュミット霊言集とか、ハンナ・アーレント霊言集とか、ミッシェルフーコー霊言集なんてもの絶対に出さない。明治天皇霊言本では「睦仁です」ではなく「明治です」と名乗っているぐらいだから、まともな学識のある人間なら相手にしないだろう。

幸福の科学に惹かれるのは、受験勉強は得意だが応用力や創造性のない二流の優等生か、知的コンプレックスのある奴ではないだろうか。

つまり、幸福の科学とは、大川隆法の本だけ読んでいれば世の中の真理が全部わかった気になれて、まわりの人間よりエラくなった気分になれるという、早上がりの「世界観」を提供してくれるシステムなのだ。ま、かつての「ヘーゲル思想」とか「マルクス主義」とか「ポスト構造主義」とか、みんなそういうものとして消費されてきたんだけどね。

大川の著作の内容は薄いが、おかげで100冊でも200冊でも簡単に読めるから、冊数を多く読破したという達成感だけは得られる。ただし、それゆえの波及力の広さだからバカにできない。もし本当に、大真面目にカール・シュミットハンナ・アーレントの分厚い霊言本を出すような団体だったら、信徒数は数千人どまりだろうw

幸福の科学創価学会に勝てない?

ただし、それでも幸福実現党はちっとも公明党匹敵する議席を得られない。幸福の科学の「公称」会員数は1000万人だというが、得票数から推定できる確実な会員数は1020万人らしい。では、公明党の背後にいる創価学会の強さとは何か?

創価学会信仰実践は、基本的に、みんなで集まって「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えるだけである。超かんたんだ。だが、この簡単さこそあなどれない。

お題目を唱えるだけなら、低学歴ブルーカラー層でも、おじいちゃんやおばあちゃんでも容易だ。そうしてお題目を唱える集会に来た信徒同士は「お前の商売最近はどうだい?」「お前の家の母ちゃんの病気は良くなかったかい?」などと近況報告をし合ったり、信徒の横のつながりによって生活上の問題について助け合ったりしている。

戦後高度経済成長期、農村から都市部に流入してきた新しい第二次産業第三次産業従者たちの間で、創価学会地縁血縁共同体の代わりを果たしたという指摘は定番だ。

創価学会は「ご町内共同体の結束」に近いものを身につけている。これに比較すれば、お勉強エリート主義幸福の科学は、地縁血縁に食い込めない個人主義集団から世帯地域を巻き込む力がないと見なして良いだろう。こんな事件が起きてるぐらいだし。

ただし、創価学会だって今後は世代交代が進めばしだいに求心力が低下することは避けられまい。ちなみに、今の自民党政権創価学会とならんで頼りにしているのが神道政治連盟だ。伝統的な神道は、幸福の科学比較すれば、まだしも地縁血縁世間に食い込んでるといえる。それだけ票田としての力があるわけだ。

カルトの「魅力」とは何か?

――と、以上のような理屈幸福の科学の会員にぶつけても、たぶん効果はない。人間には、ネット上の名前も顔も知らんどこかの誰かの批判より、直接に面識のある仲間(同じ信者)の言うことの方を信じる心理がある。

これはカルト宗教に限らず、右や左や上や下の政治思想的な団体でも、ネットワークビジネスマルチレベルマーケティング)にも共通することだが、そういう団体組織信者にとって、その団体教祖は「魅力的」なのだ。あるいは、その団体組織に属することによって周囲の人間より一段高い立場になったようなエリート意識が得られている。

問題は、こういうカルト宗教構成員も、個々にはわたしなんぞよりもずっと、礼儀正しく明るく爽やかで親切な「良い人」が圧倒的に多いという点だ。しかし、そんな人たちが集団になると強烈な同調圧力を振りかざして来るから手に負えない。

以前も述べたが、カルト宗教などが人を「洗脳」する力とは、教祖個人のカリスマよりも、集団がつくりだす「場の空気」の力であり、洗脳とは個人の自由意志が「場の空気」に屈することだ。

一般的に、日本人の多くには宗教と聞けば何かうさん臭く思う心理があるが、それはなぜだろうか? 自分が好きでもない教祖を崇めたり、高額な商品の購入や集会への参加を強要されるからだろうか。しかし、実際には直接的な形で強制するとは限らない。

人を洗脳しようとする集団は、組織団体人間関係に取り込んで孤立感を味わせたり、「団体に従うことが正しい」「疑問を抱く自分の方が間違っている」と"自発的に"思い込むよう誘導していく。わたしは「リバティコープ」の集会でそれを大いに学習させられた。

このような集団に捕まった場合、身を守る端的な方法は「あえて場の空気を読まないこと」である

2016-04-18 陰謀論は願望論である

くり返されるよくあるはなし

熊本での地震発生後、予想通り「被災地朝鮮人以下略デマが発生したという。

ハイハイ、5年前の東日本大震災の時もありましたね、「中国人韓国人被災地物資略奪」系デマ

それで当人主観では善意100%のまま裏取りもせずツイッターの内容を受けて現地警察通報する「無能な働き者」が続発。

福岡県在住のわたし高校の先輩まで被災地警察電話しましたよ。電話口に出た担当者は、ウンザリ口調で「それ朝からXX件目ですよ…」とか答えたそうで。

はっきり言っときますが、この手のデマ拡散警察消防業務妨害になりますからね。警察消防無駄手間かけさせればそれだけ被災者救助は立ち遅れるわけです。

――でまあ、デマへの批判が広まったら今度は「差別者告発したい側の自作自演」って言い逃れが出てくるところまでテンプレ

以前も述べたが、陰謀論は願望論である被災地朝鮮人以下略デマがなくならないのは、「本当にそういうことが起きたらないいな」という願望があるからだろう。

そうなれば大手を振って正義ヅラで自分の嫌いな相手を叩けるのだから

右派人間は「反原発厨のサヨク原発事故が起きるのを願望してる」とか「原発事故が起きて喜んでる」とか言う。まあいるだろうね、そういう人。

でも、右派人間だって罪もないチベット人中共に殺されるたびに、本音じゃ「やった! 中国批判できるネタができた♪」と喜んでるとしか思えない。

逆に在特会などの排外主義団体批判する人々は「彼らを野放しにして本当に在日外国人殺害事件とかを起こしたらどうするんです?」と言うが、本当にそんな事件が起きれば今度こそ世間普通一般人は彼らに対してドン引きだ。排外主義団体もさすがにそれはわかっているようでそうそうそこまでの愚は犯さない。

敵失を待つという発想では永久に勝てない

「敵が悪事を犯して欲しい」というゲス感情は、わたしもよぉーくわかる。

かつて、1999年針生勇雄という男幼児を殺して逮捕されたが、このときわたしは大喜びした。当時の『週刊文春』の記事によれば、この針生は「マルチ商法みたいなもの」に関わっていて「24時間風呂」を売っていたそうだ。

その前年、わたしは「リバティコープ」というネットワークビジネス団体1日付き合わされて死ぬほどうんざりさせられたが、この団体も「24時間風呂」を売っていた。

彼らは高級車高級ブランド品まみれのオシャレでイケてる勝ち組リア充集団で、当時のわたしは、世間多数派が彼らと貧乏ネクラオタクしか前科者の自分のどっちに味方するかと言えば、絶望的に自分が不利と思い込んでいた。ところが、「24時間風呂を売るマルチ販売員」が幼児殺しで逮捕されたと報道され、わたしは「何だあいつらも汚れた犯罪者じゃないか」と、心の底から救われた気分になったのだ。

だが、針生という男によって罪もない幼児が殺されているのである。こんなことで喜ぶのはまったく恥ずべきことだ。思い返しても当時のわたしは本当に醜い(←今も)。

それから数年後、見ず知らずの人から、旧「リバティコープ」残党の作った組織に知人が勧誘されて困っているという相談を受けた。その方にはいろいろ自分の知っていた話を教えたが、「リバティコープ幹部ドラッグパーティをやっていたらしいという噂があったと述べたら、非常に食いついてきた。

その方はそこがまさに「あいつらは犯罪集団」という叩き所になると思われたようだが、組織幹部の言いなりになっている人間に「あいつらは犯罪者だ」と言っても効果は乏しい。なぜなら、たとえ経営者や教組が犯罪者でも、組織信者的会員になっている人にとって、その経営者や教組は「魅力的」だからだ。

一切法律を犯さないけど何の魅力もない男と、ワルだけど魅力のある男なら、魅力的なワルの方についてゆく女性はいくらでもいる。魅力と善悪関係ない。

敵がゲス犯罪者であって欲しいなどと願っている限り、その敵には永久に勝てない。必要なのは敵を貶めることではなく、自分意見の方が支持されるよう自分が魅力的になることだ。

そりゃ、自分が魅力的になるのには努力必要だけど、デマを使ってまでただ敵を貶めるだけなら楽だからねえ。まさに成長する気のない怠惰人間の発想だろう、針生勇雄の逮捕を喜んだ当時のわたしと同じように。

2016-04-04 少子化の真の原因と解決策

みんな勘違いしている少子化の原因

このブログで時期外れの話題を取りあげるのはいもの話だが、「保育園落ちた日本死ね!!!問題はいまだに尾を引いているらしく、4月に入っても山田宏議員の「親の責任だ発言炎上ネタになっている。

少子化の真の原因は「家業」でなくなったから

しかしそもそも根本問題として、なぜ少子化が進行し、なぜ保育園必要なのか?

女性子供が産まなくなり、産んでも保育園に預ける必要が生じた理由を問われれば、多くの人は「世の中の価値観が変化したからだ」と答えるだろう。ここまでは中学生でも想像できるレベルの話だ。では、なぜ世の中の価値観が変化したのか?

ここで「悪い左翼フェミニズム女性社会進出を唱えたり、日本国憲法家族の絆より個人主義を広めたせいだ」としか答えられない人間は、永久事態を解決できない。

左翼フェミニズムなんざ明治時代平塚らいてう時代からあるわい! じゃあなんで明治時代から昭和40年代まで少子化が起きなかったのか? 戦後日本国憲法採用していない日本以外のヨーロッパ先進国台湾韓国シンガポールアジア新興国でも少子化が進行したのか? 説明してみろや。

少子化の真の原因は産業構造の変化である

第三次産業従事者の増加と反比例して少子化は進行してきた。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5240.html

http://osan-kojo.com/osan/image/osannodata02_01.gif

昭和30年代までの日本の大多数の世帯は、農業漁業ないし個人商店などの「家業従事者であり、自宅やすぐ側にある農地がそのまま仕事場となる職住一体の環境生活していた。そして、農家個人商店では、一家のお母さんも育児だけにかまけず働くことが珍しくなかった。「専業主婦日本の伝統」なんて大ウソである!!

ただし、家業時代、働くお母さんに"出勤"の必要はなかった。農家には定時の出勤時間も決まった昼休み時間もないから仕事の合間を見て家事育児は可能だった。個人商店だって店番をしながら合間を見て家事はできる。

わたしの旧友(お子さんのいる女性)の祖母は、「昔の農家じゃ籠に赤ちゃん入れて畑に連れて行って、横に置いたまま仕事してたものさ」と語っていたという。

また、かような職住一体の家業環境は代々継がれてきたものから祖父母がいる3世代同居が普通に成立していて、家事育児祖父母に助けてもらうこともできた。

それが崩れたのは、1960年代日本高度経済成長を迎え、サラリーマン世帯化が進行して以降だ。多くの勤労者は都会の会社に勤務するため都会の通勤圏にある新たな住宅に住むようになったことで、職住分離が起きる。しかし、祖父母の世代は住み慣れた田舎に残りたがるものから結果的核家族化が進行した。

それでもバブル時代までは亭主の稼ぎだけで子供が養えたが、社会高学歴化とともに学費を含めた子供養育費は高騰し、今や共働き必要事態となっている。

左翼フェミニズムには功も罪もない

女性社会進出諸悪の根源」という保守論客の言説がおかしいのは、先にも触れたとおり、そもそも昭和30年代以前には農家個人商店のお母さんだってみんな働いていた点をきれいさっぱり捨象している点である

逆に言えば「女性もばりばりと学歴をつけて仕事キャリアを積むべき」という左翼フェミニズムは、日本においては社会に害毒を与えるほどの存在にすらなっていないと断言して良い。

女性叩きがお好きな保守主義者は「今の若い女は個人主義で贅沢で結婚して子供を産まないからケシカラン」と言いたがる。だが、これを左翼フェミニズムのせいにするのは無理がある。

ためしに渋谷原宿路上で「結婚相手年収が最低でもXXX万円以上」とか言ってるギャル1000人に「上野千鶴子を愛読してますか?」と聞いてみろ? 1人残らず上野名前さえ知らんぞ! 1万円ぐらい賭けてもいいw

「今の若い女は個人主義で贅沢で結婚して子供を産まなくなった」のは、左翼フェミニズムのせいではない! 日本が豊かになった結果、みんなが贅沢の味を知ったからだ。そして、それを招いたのは戦後自民党の推し進めた高度経済成長政策である。アフリカの最貧国ならばいまでも子だくさんではないか。

くり返すが、左翼フェミニズムなど平塚らいてう時代から存在した。しかし、イデオロギーけがあっても、それを実現できる社会環境がなければ空理空論なのだ高学歴女性社会進出が本格的に実現したのはやっと1980年代の話である

むしろ、日本において女性社会進出を説く左翼フェミニズムは、自民党が成し遂げた高度経済成長による産業構造の変化に後づけで乗ったに過ぎない。

社会が豊かになれば教育が普及し、教育が普及すれば個人主義が進み、少子化が起きる」これは日本に限らずあらゆる国に見られる現象だ。実際、エマニュエル・トッドは、2011年アラブの春以前から中東北アフリカ諸国識字率の向上とともに少子化が進展していた事実に着目していた。

精神論少子化対策を説く愚

それでも、少子化は「日本国憲法家族の絆より個人主義を広めたせいだ」と信じたがっている老害は、憲法改正すれば事態改善すると思っている。阿呆か。

じゃあ子だくさんが普通だった戦前農村人間は、一人残らず大日本帝国憲法の条文を意識しながら生活してたというのか?

前にも書いたが、小学校卒が大多数だった明治から戦前日本庶民憲法の条文を頭にたたき込んで生きていたなどありえんだろwww

仮に戦前の方が道徳的だったとしても、それは憲法の条文なんて国の中央が定めた大上段なものによってではなく、農村社会での地縁血縁共同体による信頼関係相互監視などに支えられていたはずだ。そして、こうした農村社会共同体を、ずばり自民党による戦後高度経済成長による産業構造の変化が解体したのである

そこで精神論だけ昔の物を再び持ち出したって、通用するわけがない。

日本以外で少子化が深刻な国と言えば、同じく儒教文化圏台湾韓国シンガポール、そしてカトリック圏のイタリアスペインである。いずれも共通するのは、産業構造は変化したのに大家族を良しとする伝統価値観だけ存続している点だ。

一方、先進国でも早い段階で社会価値観が脱宗教化(世俗化)を果たし、個人主義が進んだフランスオランダデンマークなどは、シングルマザー支援共働き支援など産業構造の変化に対応した政策が功を奏して出生率回復成功している。

少子化価値観の変化の問題から精神論で解決できるなどと考えるのは愚の極みだ。それでも精神論を唱えるバカが絶えないのは精神論にはお金がかからないからだろう。

ぼくのかんがえたさいきょうの少子化対策

以上を踏まえて、わたしが考える有効性の高い少子化対策は「家業」の復活である

少子化の発生以前は職住一体が当然であり、職住分離が家事育児の困難の元凶だ。したがって、自宅で家事育児をしながら仕事のできる環境を推進すればよいのだ。

からわたし育児仕事の両立のため、日本大企業に対し、在宅勤務の大々的導入を提案する。

現実問題として、現代ホワイトカラー業務はこれだけIT化が進んでいるのだから顧客取引先と直接接する営業販売部署以外なら、会社に出勤するのは週に一度のミーティングや報告を行う曜日のみで問題なく回るのではないか?

かつてわたしが勤め人をしていた最後の時期(2001〜04年)の仕事は、WEBデザイン顧客データベース構築、会計管理などであったが、1日の勤務時間中、職場上司に直接に顔を突き合わせて話をする必要はほとんどなかった。

在宅勤務者ならば、仕事の提出納期さえ守れれば、勤務時間をいつ捻出するかは自由だ。赤子を横に寝かせたまま書類作成だってできる。いや、昭和30年代までの農家個人商店はみんなそうしてきた(つけ加えれば、わたしの幼児期には母も自宅で簡単な時計部品作りの「内職」をしていた。1970年代にはそんな仕事もあったのだ)。

先日『週刊新潮』に掲載された夏樹静子の追悼記事によれば、彼女出産直後、毎日赤子が昼寝する2時間執筆にあてて小説を書いていたそうである作家という自宅で仕事ができる身分ゆえの育児仕事の両立だ。

在宅勤務には仕事上の情報漏洩というセキュリティ問題もあるが、そこは会社オフィスに一人一台のPCを置いたものと同じ感覚で、各人に仕事専用PCを貸与すればよい。

また、みずから「自宅勤務だとだらけてしまう」と言う人間がたまにいるが、そういう人間は逆に考えるべきである自分は自宅が仕事場個人事業主で、会社から仕事を請け負っているのだと。少なくともわたしは、そういう認識11年間フリーランスを続けてきた。

――どうですか? 経団連の皆さん(←絶対に俺のブログなんか読んでない)

gaikichigaikichi 2016/04/05 15:42 政府機関がはっきりこう書いてたな
http://www.gender.go.jp/public/kyodosankaku/2013/201306/201306_08.html
>戦前までは、農業など、家業が中心の時代でした。
>当時は、工業やサービス業でも、町工場や商店などは一家総出の家業として営まれていました。そこでも、女性は貴重な労働力として、経理や店番、時には肉体労働など、生産活動に従事していたのです。
>農家では、母親が乳児を田んぼに連れて行って、農作業の間に授乳するなど日常茶飯事でした。

――それでも「専業主婦=日本の伝統」とかホザいてる奴は、日本国政府・自民党政権の見解に異議を唱えているわけですね。