電氣アジール日録

2008-03-31 ガセネタ

チベットで超大規模油田発見!!(ウソ

1980年モスクワオリンピックが当時の西側諸国にボイコットされた理由は、確か、当時のソ連アフガニスタン侵攻に対する抗議が理由だったはずである。

28年前と現在では情勢は大きく異なるが、現在中国共産党政府によるチベット人民弾圧が進行中でもオリンピックボイコットが起きないとすると、西側諸国の価値判断は――

アフガニスタンチベット

――ということなのだろうか。

だいたい、アメリカが、結局は核兵器を持たなかったイラクには侵攻して、核実験を行なっている北朝鮮には侵攻しないのは、北朝鮮には石油利権がないから、というのはバレバレである。

誰か「チベットで膨大な埋蔵量の油田発見された!」とかのデマを巧妙にでっち挙げてアメリカ国防省モービル石油に吹き込まないものか?

言論の自由と恥の意識

先頃、横浜事件再審を退ける判決が下された。

もっとも、恐らく現在の圧倒的多数の日本人にとっては、まったくどうでもよい他人事であろう(というか、横浜事件て何ソレ? という人の方が99.99%以上か)

――なんてことを考えていたら、深夜に旧知の元先輩と長距離通話して、児童ポルノ規制法は言論弾圧管理社会再来の第一歩だと大真面目に論じている人の意見というものを聞かせてもらった。

以前も一度述べたが、わたしは必ずしも「言論の自由」はとにかくいつでもどんな言説でも一切すべて無条件に保護されるべし、という考え方ではない。

なるほど「表現の自由」、「言論の自由」といえば尊重されるべきものと思えるのだが、「ロリコン表現の自由」、もっとはっきり言ってしまえば「未成熟な女子が登場するえろい漫画ゲーム流通させたり消費する自由」というものは弁護しにくい。

さきに断っておくが、わたしも、リアル中坊当時、チリ紙交換に出されていた週刊プレイボーイグラビアブルック・シールズが『プリティベビー』に出演したときの(つまり13歳当時だぜ)の写真が載ってたのを見てハアハアしたような人間で、今でも中野まんだらけでえろい同人誌やえろくない同人誌を買うような奴だから、世の児童ポルノ規制反対のロリコン他人事のようにバカにする資格はない。いや、恥ずべきだ。

が、世の児童ポルノ規制反対論者が、大真面目に「表現の自由」、「言論の自由」といった言葉を使ったり、真剣な口調で、こうした規制言論弾圧管理社会再来の第一歩だと論じているのを聞くと、どこか違和感を禁じえない。

まず、迂遠な話だが、児童ポルノ規制論議の背景に、ユニセフ関係者など国際的な人権擁護活動家が「子どもの性的搾取反対」を主張している問題がある。

ここで念頭に置かれているのは、ほぼ、発展途上国で年端も行かない子供人身売買されて売春宿などに売られるケースのことのはずである。

東北農村では娘の身売りが相次いだ昭和初期ならいざ知らず、今の日本ではその手の話はまずない。家出少女ヤクザに捕まって風俗店で働かされる程度の話だ(ただし格差社会化が進むとこの手の話は増える可能性はある)。

日本国内のもので規制論議の対象の中心になっているのは、ほぼ漫画だのアニメだのゲームだの二次元フィクション作品だ。

規制反対論者は、二次元フィクション作品の内容に欲情するのは、実体的な被害者存在しない行為だ、と説く。

確かにそうなのだが、「たとえ二次元フィクション作品でも、未成熟な女子を性的対象として描くことが不快」という人間存在する。

たとえばの話である、「ユダヤ人は虫けらだ死ね! 死ね! 死ね!」と叫ぶナチス将校が英雄的な美しいヒーローとして描かれ、ユダヤ人が一切弁護されることなく醜く虐殺されまくる内容の二次元フィクション作品を非常に愛読している人がいたら現実ユダヤ人はどう思うであろうか?

(これは逆に、パレスチナ人虐殺を唱えるユダヤ人が主人公でパレスチナ人が醜く描かれる内容でも、あるいはチベット仏教僧侶を弾圧する中国共産党員が主人公でチベット仏教徒が醜く描かれる内容でも、はたまた日本人の撲滅を唱える韓国人が主人公の内容でも……セルビア人だろうとフツ族だろうと愛知県人だろうと、いくらでも置き換え可能だ)

ま、いくら「自分はあくまで空想としてそういう作品を楽しんでいるだけです」と言っても、嫌がる人には嫌なものであろう。

いや、こう言ったほうがよいか。

ロリコンは虫けらだ死ね! 死ね! 死ね!」と叫ぶ反ロリコンが英雄的な美しいヒーローとして描かれ、ロリコンが一切弁護されることなく醜く虐殺されまくる内容の二次元フィクション作品を非常に愛読している人がいたら果たして、児童ポルノ規制に反対する論者はどう思うであろうか?

当然、二次元フィクション作品であってもいい思いはしないよね。

「言論・表現の自由」という普遍的な社会正義大義名分として、未成熟な女子を性的対象として描く表現もまた出版の自由が保護されるべきだと主張するのであるなら、逆に、ロリコン差別する主張を唱える「言論・表現の自由」も認めなければ、ムシの良い一方的欲求でしかない、それでは広範な普遍的な支持や理解は得られないであろう。

あるいは、児童ポルノ規制ロリコン弾圧は独裁的な管理社会復活の第一歩だと大真面目に語る人間は、では、自分の性癖志向とまったく無関係な、たとえばデブ専ホモが弾圧されたり、熟女物AVが弾圧されても、これに連帯・共闘して「言論・表現の自由」を唱えるであろうかw

しかし、本気で、自分はただ「えろい漫画アニメゲームが自由に観たい」という自分の個人的性癖志向を唱えているのではなく、普遍的な「言論・表現の自由」のために闘っているのだ、と主張するのなら、そうでしなければ欺瞞である。

「言論・表現の自由」を唱える人間の多くが念頭に置いているのは、実際のところ「自分の言論・表現の自由」だ。みな往々にして普遍的な「言論・表現の自由」を言うなら、自分と敵対的な相手の「言論・表現の自由」も認めなければならない、という問題をよく見落としているが、これは欺瞞である。

しかし実際、とにかく無制限に「言論・表現の自由」が保証された世の中とは、つまり、先のような、ユダヤ人罵倒しまくるネオナチの言説も、パレスチナ人を罵倒しまくるイスラエルの言説も、チベット仏教徒を罵倒しまくる中共の言説も、日本人罵倒しまくる反日韓国人の言説も、それをそっくりひっくり返した嫌韓厨の言説も(ほかにもクロアチア人だのツチ族だのマリ共和国のドゴン族だの以下無限に可能……)いくらでも無制限に垂れ流されて良い世の中、ということになる。

さて、そんな世の中になったとして、楽しいだろうか?

わたしは一個人的には、世の中がギスギスしすぎないためにはどこかで、お互いに遠慮し合う謙虚さが必要だと思う。

というわけで、わたし個人は、あまりロリコン弁護を声高に叫ぶことが得策だとは思えないでいる。

そもそも、ロリコンというのは性癖志向であって、生存権のかかった問題とは言い難い。

たとえば愛煙家煙草を好むのも性癖志向といえる。嫌煙権の普及は愛煙家には厄介だが、煙草を吸わないせいで死ぬということはないのだから反論は難しい。

はたまた、鯨以外に食べるものがない人間捕鯨を禁止されたら死活問題だが、ほかにいくらでも食べるものがあるなら、「鯨を獲らなくても良いではないか」という意見に反論するのは難しい、これと同様だ。

たとえば同性愛性癖志向の問題として考えられるが、嫌がるノンケ人間を襲ったりせず、同性愛志向のある人間同士の双方合意であれば、非難はされるべきではなかろう。

が、成熟した男性が未成熟な女子に欲情するという性癖は、世間的なひんしゅくの対象となる。なぜかというと、実行した場合、相手の自由意志によらない一方的な関係になる場合が多いからだろう。

成年男性との性行為込みの交際関係を(金銭的利益目的でなく)みずから希望する未成熟な女子というのは、まったくいないわけではないだろうが、絶対的に少数である。

直截な言い方をしてしまうと、成年男性だ未成熟な女子と性行為に及んだ場合、女子のほうは痛い思いをする可能性が極めて高いし、妊娠などした場合、母体の身体的負担は成熟した女性よりはるかに高く、ちゃんとした赤ちゃんが産めない可能性が高い。

これでは倫理的に問題視されるわけである。

(まったくの余談だが、逆に、成年女性と未成熟な男子の性行為では、痛い思いも大してないだろうし、成熟した女性妊娠するのに身体的な問題はない。なんという理不尽な非対称性!

しかし現実には、ロリコンの反対の「成熟した女性が未成熟な男子に欲情する現象」は少ない。これは、昔から、男性女性に対して「若くて外見が可愛いこと」を求めることは多くても、女性男性に「若くて外見が可愛いこと」を求める例は少ない(それよりお金を儲ける能力や地位などが重視されるのか?)ためだろうか。まったく皮肉な話である。

※あくまで「成人男性→未成熟女子」に比べて「成人女性→未成熟男子」は、比較的に身体的な問題が低い、というだけで、当然、道義的な問題は別問題として存在する

無論、日本ロリコンの多くは、実行をとこなわない空想で済ませている。

しかし、「自分はあくまで空想としてそういう作品を楽しんでいるだけです」と言っても、それが不快という人間存在する、という上記の話になる。

といっても、先にも述べた通り、自分はべつに、世のロリコン他人事として嘲笑う気は一切ない。

自分も恥ずべき存在だと思っている。

そう、個人の性癖志向というのは、場合によっては、恥かしいものなのである。

でも「恥かしいけど、俺はこれが好きなんだ、仕方ない」というものであったりする。

そういう恥の意識込みのうえで主張して初めて、説得力があるものではないか。

ところが、それをすっ飛ばしていきなり「言論・表現の自由」とかいう『普遍的な社会正義』を持ち出したり、大真面目な顔で「児童ポルノ規制ロリコン弾圧は独裁的な管理社会復活の第一歩」などと言われると、そんなご大層なこと本気で考えてんですか? まずは等身大の自分の欲求の問題でしょ、とツッコミを入れたくなるわけである。

――さて、では、こう言ってるわたしが、もし自分が書いているものが言論弾圧されたらどうするかって?

まずは自分の書いているものを非難する人間意見を聞いて、そちらのほうが正しいと納得できれば筆を収めることもありえるだろうが、そうでなければ、当然抵抗する。地下出版でも何でも他の手段を講じるだろう。

だが、これは「わたし個人の言論の自由」であって、ぜんぜん普遍的な「言論の自由」の問題とは思わない。だから、世の児童ポルノ規制反対論者がこれに連帯・共闘してくれなくても、連帯・共闘してくれても、どっちでも良いです。

産業革命市民革命の関係

(※以下は、仕事で19世紀帝国主義に関する本をいくつか読んでてふと思いついたこと。例によって根拠薄弱な素人の思いつきレベルの域を出ません)

18世紀以降の産業革命では、まず紡績機械の発達で織物・服飾産業の生産量が増大し、さらに、蒸気機関を利用した交通システム鉄道と遠洋航海が可能な汽船)の普及で市場が拡大した。

19世紀以降の欧米列強諸国が取り組んだ帝国主義植民地獲得戦争とは、単なる領土と資源(人的資源奴隷を含む)の確保だけではなく、「市場」の確保を目的としている。これを可能ならしめたのは産業革命といえる。

産業革命は、従来の伝統権力者である貴族・封建諸侯よりも裕福な産業資本家市民階級ブルジョワジー)を生み出した。産業資本家は、さらなる自己の利益拡大のため、産業革命を進展させた。

産業資本家の財力、政治力の拡大は、従来の伝統権力者である貴族領主(封建諸侯)の権威の相対的な低下をもたらしたはずである。

産業革命市民革命の先発国だったイギリスフランスでは、こうして産業革命市民革命が相互作用し、帝国主義市場」獲得戦争を推進したのではないか、と考えられる。

では、市民革命と連動しない産業発展はありえるか?

帝国主義時代、英仏の発展に遅れたドイツロシアでは、殖産興業が、産業資本家市民階級の成長による「下から」の自発的なものではなく、英仏の海外領土拡大に対抗して国力を高めるという、「上から」の政策として行なわれた。

ドイツではこれが成功したといえる、なぜかというと、18世紀にフリードリヒ二世王が初等教育制度を整備して以来の元から教育水準の高さがあり、手先の器用な人間が多く、また勤勉を美徳とするプロテスタンティズムの影響があったからと考えられる。

しかしロシアではあまりうまくゆかなかった、これは、高学歴階級が圧倒的に少なく、国民の大多数が農民(農奴)で中間市階級も少なく、国土が広すぎて産業システムを効率よく全国的に普及させるのが困難だったかではないか、と考えられる。

清朝では、異民族の文化を見下す中華思想がさらに近代文明の導入を遅らせた。

しかし、日本日本も同じく市民革命を経ていないにも関わらず産業発展には成功した。何しろ、1860年代末に近代産業システムの導入をはじめてから、たった30年余りで、ロシア相手の戦争に勝利(それも主におもに、機械化された海軍力で)しているのだし。

では、日本の産業近代化が成功した理由は何か?

明治維新後の段階では、日本には、産業資本家市民階級ブルジョワジー)などほとんどいなかった。産業近代化ドイツロシアと同様「上から」の政策として行なわれた。

これが日本でことのほかスムーズに進展したのは、そもそも明治期の日本では、伝統権力者としての貴族領主(封建諸侯)というものがすでに解体されていたからではないか、と考えられる。

歴史的に、貴族領主(封建諸侯)の財源は、領地からの年貢収入が主である(戦時にで戦果を上げれば恩賞を得られたが、代わりに指揮下の騎士傭兵への軍費は自腹だった)。

明治維新ブルジョワ市民革命ではなかった。しかし、版籍奉還・廃藩置県によって、それまでの貴族領主(封建諸侯)の土地支配制度は解体された(ただし農村地主支配は強固に残った)。

明治期の日本には「華族」(爵位保持者)というものがあったが、これのほとんどは領主として領地を治める土地貴族ではない。

同時期のヨーロッパ諸国の多くは、依然として土地貴族存在し、またこれに準じる階層として、イギリスならジェントリ、ドイツではユンカーと呼ばれる郷紳階級があった。

日本の「華族」は、維新の元勲、公家、旧藩主などだったが、その多くは、もはや領地支配者ではない。明治維新で四民平等が唱えられて以後、士族の多数は、領地を治める領主ではなくなった。

廃藩置県後しばらくは、旧領主が横すべり的に知事を務める例もあったが、次第に領主−領民という昔からの支配体系は解体された。

では、失業士族の多くはどうしたかというと、新政府の官吏や軍人になるか、商工業転職したわけである。

商売を始めたは良いが「士族商法」と呼ばれて失敗した人間は多かったようだが、一方、岩崎弥太郎渋澤栄一など、下級武士出身の産業資本家は少なくない。

ドイツイタリアは、日本と同じく1860年代に政権の統一と近代中央集権化を成し遂げたが、これは実質、従来からある地方領主が、それぞれプロイセン王国サルディニア王国の支配下に入った、ということで、その後も昔からある領主・土地貴族が存続した。

これと比較すると、日本明治維新のほうが、ドイツイタリアの国土統一運動よりも、一度旧来の支配体系をまっさらにしての新政権建設という性格が強かったといえるのではないだろうか。

gryphongryphon 2008/03/31 23:54 うーん、例えばこのブログ内の
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/searchdiary?word=%bb%d9%c6%e1
のハイライト部分をですね、「いい気持ちはしない」から「世の中がギスギスしすぎないため遠慮すべきだ」「具体的には該当部分を削除してくれ」と言われたら、どう答えるのが正解ですかね?

gaikichigaikichi 2008/04/01 02:48 では、まずなぜ該当箇所はこう書いたかの当方の見解。
明確に1949年10月以降の中華人民共和国共産党政権を指す場合は「中国」が妥当。
清朝なら清朝と書くのが妥当。前漢王朝なら前漢王朝と書くのが妥当。
しかし、古代の周王朝あたりから清朝あたりまでを包括した場合、「歴代中華人民共和国王朝」という表記は絶対に変です。
「ロシア三百年」とは言えても「ソ連三百年」などという言葉はおかしい。同様に、「中華人民共和国四千年」という表現ではどう考えてもおかしい。
昔からある表現で地域としての”China”を指す語句としては「支那」が妥当と考えるので、
当方は、具体的に、清朝とか元朝と指定しない包括的な場合は「歴代支那王朝」という表記にした次第。
以上に異論があるといわれた場合、「『一般論として』それはおかしい」と言われても、当方は合理的な理由があるつもりなので、納得はいたしかねます。
ただし、もし「『自分は一個人として』支那という表現に心が傷つく」と、一個人として、わたし一個人に対して意見する方があれば、その方個人に対する礼儀の問題として、遠慮することも考えます。
この場合は「歴代中華王朝」となら言い換えても別におかしくはないでしょうから。
(正確には地域としての”China”を指すのが「支那」、文化圏としての場合は「中華」と記すのが妥当と考えてますが、該当の箇所の記述は、どちらでも通用する文脈でしょうから)
というわけで、(これが普遍的正解とは思いませんが)、わたし個人の方針としては、どこの誰ともわからない曖昧模糊とした「遠慮自粛すべきという空気」相手に遠慮などしませんが、一個人として「『俺がいやだから』表現を変えてくれ」という方が直接わたしにご意見頂ければ、考慮します。

bakuhatugorobakuhatugoro 2008/04/01 18:11 他人が傷ついたり、不快だったりするからそれをしないというのは、「思いやり」とか「恥の意識」って個人の徳目としては立派だけど、それがルールになっちゃうと自縄自縛になるよ。
「エロ」の話にしても、骸吉君の美意識と含羞には頷くものの、同時に「正しいことではないから」規制されても仕方がないってことになると、それは怖いなと思う。正しいことしか表沙汰に出来ない世界っていうのは怖い世界だよ。むしろ、恥ずかしいものだからこそ守られなければならないんじゃないか?
例えば今、映画『靖国』に対して自民党議員が「政治的に偏ってる映画に助成金を出すとは何ごとだ!」って言ってるけど、これに対してエロマンガ雑誌の編集者の塩山芳明さんは「自らが信じる靖国神社万歳映画への助成の可能性を摘む」バカだと批判していてhttp://www.linkclub.or.jp/~mangaya/nikkann.html俺もこの意見に同意。
ただ、無制限の言論の自由が現実に存在するとは自分は全然思ってなくて、何より自分自身、強面な人たちに脅かされたら、よほど拘ってることでもない限りびびって引っ込めちゃうと思うし。
ただ、「他人に迷惑だからいけない」が原理になっちゃうことは怖いことだと思う。骸吉君同様、俺も「自分がこれこれの事情で困るから」って話だったら、よほどのことでない限り譲歩しちゃうと思うけど。

gaikichigaikichi 2008/04/02 01:58 ひとつ断っておくと、別にわたし自身がロリコンを(また、何でもいいんだけどほかの言説を)弾圧したいわけでもなんでもないんですがね。
ただ、言論の自由という問題とはまた別軸の問題として、人間には個々人の「快/不快」というものがあり、不快がる人間の前では遠慮するという礼儀の問題はあるでしょう、と。
たとえばもし煙草の煙を嫌う人が居れば、少なくともその人の前で吸うのは慎むというのが、一対一の人間関係における礼儀でしょう。
これは、どこの誰とも分からぬ相手からの糾弾に脅えて主体性のない「自主規制」をやるとかいう意味とは全然違う。
無論、遠慮しない自由もあります。
遠慮とは自発的な良心にもとづくものだから、当然、拘束力はありません。
遠慮する気がなければ遠慮しなければ良い。
だだ、そのせいで気まずくなったり糾弾された場合は仕方ありません。
「空想でもそれを不快がる人間がいること」について書きましたが、こう書いたのはほかでもありません。
そう書いたわたし自身、毎日毎日、脳内でネットワークビジネス従業者を「これならナチスの収容所の方が100兆倍も人道的だ!」というぐらい残虐非道に大虐殺する空想ばかりしていますが、たとえ空想であっても、確かに当事者は嫌だろうな、こういう空想は、空想であっても、本来は恥ずべきだな、と思うからです。
でもわたしはそういう空想が大好きでやめられません。
これを糾弾された場合、自分は人権侵害者だと正直に認めます。

gryphongryphon 2008/04/02 06:02 上の「支那」の話、当然私も呉浅羽の流れをかじったから存じてるし、正しさも大いに認めてるんですよ。
ただそうすると、その差というのが
■その表現を公で行いうると裏付ける理論があるか
■個別具体的に「不快である」と直接言ってくる人がいたか
というなら、嫌韓や児ポル(関連)の表現も、当事者の大半は「俺はその二つをクリアしているぜ」と自認しているのではないでしょうか。
あと、これは私がムハンマド風刺画問題を追っていく中で感じたのですけど(もし興味あるなら拙ブログを「ムハンマド」でご検索ください)、「相手にXXをやめさせる」のと「自分がXXをする」というのは、やっぱり前者のほうのハードルを高く設定しないと回っていかないんと思うんですよ。

そもそも上の所論で言えばどうだろう「児童ポルノ(関連)表現を認める代わりにに『児童ポルノ好きは抹殺せよ!』表現も認めるか?」「それとも両方「遠慮」するか?」という問いなら、当事者の利害的にも、また原理的な正統性としても後者のほうが本来的には支持されるんじゃないかしら。

gryphongryphon 2008/04/02 07:28 今「やじうまワイド」の情報ですが本日全国紙1紙がドキュメント映画「靖国」の上映中止を取り上げたそうです。
「表現の自由」「それへの批判の自由」プラス「遠慮(自粛)」という点で非常に興味深く、このエントリにも関連するんじゃないでしょうか。参考情報として

gryphongryphon 2008/04/02 07:29 何度も失礼、訂正一箇所。「1紙」は誤記で「4紙」です

gaikichigaikichi 2008/04/02 21:21 映画『靖国』上映中止は、具体的に誰に遠慮してなのかが曖昧にされてますね。上映してから苦情がきたというわけでもないし。
アメリカ映画の『MISHIMA』が上映できないのは三島由紀夫の遺族に配慮して、と具体的な個人が対象でしたが。
あと、繰り返しますが「礼儀の問題としての遠慮」というのは当人の善意に基づく自発的なものだから、一切拘束力はありません。
以前『永久保存版』の高井守(汎田礼)氏が書いていたところによると、旧ユーゴスラヴィアがうまくいっていた時期は、ムスリムがラマダンの絶食に入っている間は、キリスト教徒もムスリムの人の目の前でうまそうに飯を食うのは遠慮する(ムスリムの人がいない場所で食べる)、逆に、クリスマスにはムスリムの人もキリスト教徒に挨拶程度のプレゼントをする、という習慣によって、お互いギスギスしないように保ってたそうで、こういうのが礼儀かなあと思うんですが、それを条例で義務づけたりするのは無粋の骨頂。
でも、この例は、単なる善意だけでもなく、お互いギスギスするのを防いで身を守るためのリアルな生活の知恵でもあったはずでしょう。

bakuhatugorobakuhatugoro 2008/04/03 10:45 「礼儀の問題としての遠慮」に対しては、同意見だし何も反論することないよ。何もかも闘争とルールで四角四面にギスギスした状態よりも、大抵のことはそうした習慣や配慮で誤魔化し誤魔化しやっていくに越したことは無いと思うし。
ただ、安易に快、不快とか迷惑をルールの根拠にして拡大することには慎重すぎてすぎることはないと思う。

「迷惑は消極的概念であり、権利は積極的概念である」「消極的概念に過ぎない迷惑を積極的概念である権利に転化すればどういうことになるか」「迷惑を避けることを権利とする様な被害防止機構を完璧にして行かうとすれば、人間はやがて身動き一つ出来なくなる」(福田恒存『嫌煙権的思考を排す 人権と人格』)

言論の権利、エロい妄想をする権利は積極的概念だけど、それを迷惑に感じることは消極的概念でしょう。骸吉君の上の文章だと、前後を同列に考えてしまっている所はあるように見えるよ。
gryphonさんが言われてるのってこういうことだと思うけど。
だから、エロいヤツやエロな文化が存在することを認めて、骸吉君の言う旧ユーゴの例のように、衝突と配慮を重ねた上で、それなりの融通と懐深さを持った習慣や文化が生成されていくのが理想だと思うんだけど。

『靖国』の上映中止騒ぎは、内部事情は知るよしもないけど、ちょっと昭和天皇崩御の時の自粛騒ぎを思わせるね。