がるの健忘録

エンジニアでゲーマーで講師で占い師なおいちゃんのブログです。

(ちょっと早いけど)この一年の闘病生活の総括

2015年の9/28に入院、2016/9/28に退院しました、なので。
ちと、この一年を振り返ってみようかなぁ、と。


2015/9/28前後で覚えてるのが
・40度くらいの高熱が数日続いてた
ってあたりですね。


しんどくて飯食えなくて。
相方さんが吸い口で飲み物を飲ませてくれてたりしたんだけど…「吸い口を(相方さんが)買いに行った」記憶がないので、冷静に考えるとこの時点ですでに「定期的に意識失ってた」んだなぁ、って思う(苦笑
朝、4時だか5時だかくらいに「病院行ける?」「………むずい」「救急車呼ぶよ」「……………………うん」って会話で救急車呼んでもらって。
エレベータまで(なんとか自力+補助で)歩いて、そこから車いす的なものに乗せられて、救急車に乗ったのは覚えてる…なんか、かすかに携帯の電話番号(いとこの)とか聞かれた記憶がわずかにあるんだけど…この辺で暗転。


「後日、夢だとわかる」んだけど、色々な夢見てたなぁ…なんかかなり奇天烈なw
いくつか印象的なところとしては
・なんか変なところにいる(比較的家の近所)。携帯電話つかって相方さんがGPSで場所突き止めてくれて脱出
・和室みたいな個室の病院。看護師が全員「動く人形」で、かつ「おいちゃんを閉じ込める」前提で動いていた。携帯電話つかって相方さんに連絡とって脱出
・大きな病院。仏教系なんだけど…
 →昼間は放射線つかって「不動明王の刻印っつか刺青的なもの」が治療にいいと言われてやられたり
 →夜になると「アグニを崇める+性魔術系の魔窟」になって、その儀式につき合わされたり
 →よくわからん乗り物に縛り付けられてたり
 →魔術合戦につき合わされたり
なんか色々w


で、最後の終わってる病院からも、相方さんの協力で脱出して。
具体的には…
・なんか、おいちゃんの入院に固執してる看護師さんがいて
・その看護師さんを育ててたお婆さんがいて
・お婆さんと話をして看護師さん説得してもらいつつ
・その病院には「お見舞いに来たら病室に名前が一覧で(全員分)表示される」システムがあって、相方さんの名前が出てきて
・急いで合流、強行突破で速やかに自主的に退院
ってな流れだった記憶が。
で、強行突破的退院のあたりで、一端暗転。


んで、そのまま吉祥寺で(高熱で食えなかったから)ソフトクリームとか買い食いして、ふらふらしてるうちに、もう一度暗転。


…ふと目を開けると、名前を呼ばれて…ってあたりで現実に帰ってきました。
昏睡からの回復って「緩やか」なので(おいちゃんの場合)。
特に自分の置かれた状況に違和感とか、全くありませんでした。
名前呼ばれて返事して、多分相方さんもいて軽く合図を送って、そのまままた寝て、起きて…って感じで、ゆっくりと現実に戻ってきた感じですね。
ぼ〜んやり、から、ぼんやり、になって、ゆっくり意識がクリアになっていく感じ。


ちなみに「仏教系病院」は「本当に入ってて、本当に逃げてきた」としばらく思っていたので。
多分1〜2週間くらいは「早く病院変わってればもっと早く回復したんだろうなぁ」と本気で思ってました(笑


少し不思議なのが。
おいちゃんはいわゆるICU(集中治療室)に一か月ほどいて。ICUって、面会するときにガチガチの装備するのですが。
夢の中に出てきた相方さんも「同じ格好」だったんですよねぇ。
多分、意識がないなりに「薄目くらいは開いてて」「脳内に情報が入ってた」んだろうなぁ、と。
それ以外にも、仏教系の病院でも「呼吸が苦しい」とか「体が一人では動かせない」とか「おむつ(看護師さんがちょいちょい変えてくれてた)」とか、色々。


現実のおいちゃんは、結構な状態でした。
とりあえず
・首に点滴+腕に点滴で、点滴6本
・呼吸困難だったっぽくて気管切開
・右手首、動脈に管(採血用)
・左足根本のほうに透析用の管
・鼻から、栄養補給用の管
尿道カテーテル
・おむつ
くらい?
で、ICUなんで当然ですが「バイタル24時間がっつり管理」。
後で聞いた話ですが、大まかには「敗血症」+「多臓器不全」。これに加えて「横紋筋融解症」と「心臓の石灰化」が併発していたようです(心臓の石灰化のみ、現在もまろやかに残留中)。
(このタイミングで悪性リンパ腫がどうだったのかは全く不明)。


ちなみに、入院した2日後に、叔母が説明を受けているのの書類が残ってるのですが。
医師の記述が
「きわめて重篤、危篤状態と考える。全身状態が現状の治療による効果がなければ数日で死に至る」
なので…まぁ、本気で「駄目な状態だったんだろうなぁ」と。


そんな状態が11日間(だったか12日間だったか)ほど続いたので。
いとこや叔母、甥っ子姪っ子たちもそうなんだけど、相方さんの心労たるや…と思うと、今でもちょっとつらいなぁ、と。実際、いとことか「死んだら」を前提の想定もしていたようなので。
あと、お仕事関係であちこちに迷惑かけたり友人が色々動いてくれたり学校の授業が出来なかったり…本当に申し訳ないなぁ、と思ってます。


話によると目覚める数日(?)くらい前から「そろそろ目覚ますと思いますよ」って言われてたようなので、その辺の医者の見極めってすごいなぁ、と。
で、目覚めたわけでございます。


初めは薄い意識もゆっくりとクリアになっていくのですが…とりあえず
・呼吸が半端なく苦しい
・声が出ない
が、気管切開的にまずあって。それに加えて
・体が全く動かない
ってのが、徐々に明らかになってきます。んと…「腕を1cm上げる」が出来ない状態。寝返りも打てないので、看護師さんが(床ずれ防止のために)定期的にごろごろ転がしていた、という。
あと加えて「大体39度〜39.5度」くらいの熱出しっぱなしだったので、その辺もきつかったですなぁ。
あと、下痢。水下痢の極致で、その辺も地味にしんどかった(苦笑


色々とあちこち壊れていたようで。
元々は77kgくらいの体重だったのですが。一瞬(多臓器不全で腎臓が壊れてて排水できないので)90kgくらいまで増えたそうでございます。
その辺は透析で排水。なんか「普通の透析ができない状態」だったらしく、かなり特殊な機材使ってたみたいです。
ちなみに退院時は56kgくらいまで落ちてたので、なんていうか色々と推して知るべし状態。


で…だんだんしっかりしてくる意識、高い熱。
コミュニケーションが取れないので状況が見えず、ゆっくり把握できてくるものの退院の予定も見えず…まぁ「ほんの2〜3週前まで死にかけてた」人間に「いつ退院できる?」聞かれて医者も困っただろうけど(苦笑
妙にはっきりと「…あぁ、東京農大の学祭に行けないなぁ…残念だなぁ」ってのだけ、大変にクリアに記憶してございますw
多分、いわゆる「入院鬱」と呼ばれるものに一番合致する期間って、このころなんじゃなかろうか、と。

この辺は些か後日談なのですが。
「嚥下(飲み込む)訓練をする人」と「運動系のリハビリをする人」がいて、それぞれにリハビリをやっていただいていたのですが。
御二方とも、初めにおいちゃんを見せられた時には「………ど〜すんだこれ(無理ぢゃね?)」って、大変に途方に暮れたそうでございます(苦笑
そりゃそうだw


まぁ。
ICUの中期くらいまでは「自力で数時間の呼吸が困難」だったしなぁ。
ほんのり訓練というか慣らしをやってましたが…1〜2時間で血中酸素濃度がひどい事になって中止、の繰り返しでございました(苦笑


まぁそれでも。
嚥下については、ゼリーを少しづつから初めて…からは割と早かった記憶w
「とろみのついたお茶」があんまりにも嫌で、ちょっとだけ嘘ついてとっとととろみを外していただいたのは、今でも正解だったと、あれだけは思ってますw
差し入れで色々と頂戴して、すべてウマウマといただきましたw


運動系は…まぁまぁきつかったかなぁ。そもそも「横紋筋融解症」でまーまー筋肉が溶け出していたので。基礎筋力が大変に低下しておりましてですね(苦笑
とりあえず「手を上げる」「足を回転」から始まって。歩行になるまでにかなりかかった…のですが、意外と速いタイミングで「立たせてもらった状態で自立」はできて、看護師さんが割と総出でびっくりしてたものでございます…バランスの問題だと思うんだけどなぁ筋力ってより。
それでもまぁ「階段の上り下り」を、体力込みで、退院に向けて気合いれてリハビリしたものでございます。


ICUは一か月ほどで脱出。
そのあと(些かすったもんだあったものの)一か月一般病棟で、ちょっとだけ強引に退院いたしました。11月の末頃ですね。
…退院直前くらいには鏡とかも(トイレに行くとかで)見れたのですが………驚くほど「死相が出てる」感じで、正直、ドン引きでした(苦笑


まぁ退院は(強引に)した…のですが、当時は「杖がないと歩けない」状態、かつ退院日は「数分あるいたら体力の限界」なので、十二分に弱っていたんだろう、と思われます(笑
とりあえず「朝昼夜に可能な範囲でお散歩」。相方さんと一緒に、家の周りをうろちょろしてました(笑
食事は「免疫系が落ちてるので、生もの一切アウト」が微妙にしんどい感じ?
そこまで強い欲求ではないのですが、とはいえ刺身だめ寿司だめ生フルーツだめ生野菜(サラダ)だめ、だと、少しさみしいなぁ、とか思いつつ、な感じでございました。


杖は年が明けて1月くらいには大体不要になって。
常駐仕事もわずかに再開して、ゆっくりと回復ルートに…と思ったのですが、ここで二発目がやってまいりました。


確か2月の後半くらいからだったかと思うのですが、胃痛が出てきて、それがだんだんひどくなってきて。
でまぁそれとは別に、(相方さんが糖尿とかでお世話にもなっているので)別の病院に移動したい、というお話をしていて、許可をいただいて。
大体月に1〜2度ほど通院していたのですが。「2〜3週ほど胃痛がひどくて、飯もあんまり食えない(おもに御粥)」という話をしても特に反応がなかったので、あんまり深刻にとらえていませんでした。


で、旧病院にいった次の週に新しい病院(東京医大)に伺って。
見てもらった先生が開口一番「念のために胃カメラ。明日の朝入れるから来てね」と言われて。
翌日、胃カメラを(本当にほうほうのていで)飲んで。…検査のはずなのに、大分と酷かったらしくその場で薬が処方されまして。
翌週に通院したら、言われたのが悪性リンパ腫


この時点では進行度合いなどは不明なので、とりあえず
・血液内科の先生とつなげる
・どっかのタイミングで入院治療
と聞かされてました。


まぁ当然「ググるよね?」ってんである程度の情報を得つつ、速やかに血液内科の先生の診察。
CTとMRI取って、PET検査の予約入れて。
些か前後が記憶怪しいのですが、とりあえず「いずれにしても一端入院治療しましょう」とのお話だったので。
大体2週間とのお話だったので「じゃぁGWとかちょうどいいよねぇ」ってんで、4/28の木曜日から予定を入れました。確か、4/11の週だったと思います。


4/25に先生から留守電が入っていて「一端入院取りやめ。通院してきて」って連絡が入ってきまして。
……なんじゃらほい? と思ったのですが、ここで可能性としては2パターン考えられました。
・思ったより軽微だから、入院中止して様子見
・思ったより重症だから………はて?


「重症ならとっとと来い、って言われるよなぁ」とか思いつつ、比較的楽観的に「軽かったのかな?」とか考えておりました。


で、4/28。
診察室が開いてなかったらしく、処置室で軽く診察されてから告げられたのが「PET検査の結果、ステージ4であることが判明しました」の台詞。
胃のほかに、左肺がぴっかぴかに光っていて、光ってるってのはがん細胞が山盛りでいる証拠。
それ以外に腸にもあちこち点在、右足太ももにも少量。
散らかりまくってる、見事な「ステージ4」でございました。


………うんぶっちゃけますとですね。
本当は、ちょっとだけ、泣きたかったです。
「………なんで?」と。


ググって調べていたので生存率とか見ていたのですが、ステージ4だと5年生存率が結構下がるので。
「ステージ2かな? 3だとやだな。でも軽微っぽいからまだ1なのかな?」って思ってた所の「ステージ4宣告」だったので………結構つらかったですねぇ正直。


先生の話だと
・とっとと入院
・入院期間は伸びる。正確なところは不明
ってお話だったのですが。
「入院期間が不明瞭に伸びる」のはうれしくないニュースですが、とはいえステージ4だとすると是も非もない状態なので。そのまま「緊急入院」に変更して、午後からの入院になりました。


このタイミングであちこち連絡をしたのですが…とりあえず「情報を正確に」を第一前提にしすぎて「ステージ4の悪性リンパ腫です」って話をストレートに持って行った結果、いくつかの所で大変に大騒ぎをさせてしまいました…申し訳ない。


とりあえず治療を始めたのですが…いやまぁ可能性は示唆されていたのですが、治療の途中で「普通よりもちょっと悪質なリンパ腫」であることが判明しました。42%だかくらい、バーキット腫に寄っている感じ、なんだそうでございます。
これがなければ「3コース目以降の抗がん剤治療は通院」だったのですが、これがあるので「毎コース入院(EPOCH+R療法)」という形になりました。
…いや正確には「一応通院して弱めの(普通の)抗がん剤(RCHOP療法)って選択肢もあるけど、あんまりお勧めしない」と言われて、お仕事その他を天秤にかけた結果として「3週間のうち8日入院くらいなら、なんとか」という結論に達して、受け入れました。


…これも後で調べたのですが。
仮定として「ガチバーキット」だった場合、通院のほうの治療だと、生存率が結構下がることが判明(苦笑)。長期生存率10%は、さすがにロールする気分にはなれないw
医師が「できれば通院治療は避けたい」って言ってた理由がよくわかった(笑


抗がん剤治療は、地味に「体のダメージが蓄積する」ので、日増しにしんどくなっていくのですが。
それでもまぁ「なんとかならんもんかなぁ」とか思いつつ、まずは一端「治療できないほど体力を落とさない」事を第一に考えて、日々もくもくとやってました。
その辺は「悪性リンパ腫 http://d.hatena.ne.jp/gallu/searchdiary?word=%2A%5B%B0%AD%C0%AD%A5%EA%A5%F3%A5%D1%BC%F0%5D 」のタグでもご覧くださいませw


んで、二回目のPET検査。
…本当は8/10だったのですが、熱だして1週間入院してたので、翌週の8/17に検査、となりました。
ちなみにこの「抗がん剤のあとの熱」ですが、調べると「発熱性好中球減少症」という、割と致死攻撃力の高い現象らしくて。そりゃ医師もさんざん、退院のたびに「熱が上がったら夜中でもすぐに連絡よこせ!!」って言ってくるわけでございます(苦笑


PET検査の結果は入院中に聞くとの事で、入院しまして。
先生から「結果は良好だったんで、今回で抗がん剤治療は一端終了。ただし骨髄への抗がん剤とリツキサンが(2コース目からやってるから)これだけ5コースなので、これも6コースはやっておきたいから、最後に3日だけ入院」とのお話を受けて、色々とほっとしました。
で、そのあと別の先生から、なんかの会話でさりげないタイミングで「画像寛解してるからねぇ」とさらっと言われて、初めて「………あぁ、寛解したんだ!!!」と理解をしました。いやまぁ「結果良好」が寛解だったのだと思うのですが、とはいえ「寛解」という単語をダイレクトに伺うと、喜びもひとしおでございます。


で、本日退院。
…地味に「骨髄への抗がん剤」と「リツキサン」の副作用が出てますが(ほのかな悪寒、微妙な吐き気など)、まぁシリアスなものなどはなく。
あとはこのまま寛解を維持して完治に持ち込み…つつ、ゆるゆると、心臓のほうの治療の開始でございますw