「ゲーム構造」を巡る探求(1)

http://ter.ath.cx/wiki/wiki.cgi/%a5%b2%a1%bc%a5%e0%a4%c8%a4%cf%c0%b8%c2%b8%b6%a5%c1%e8%a1%a9
を受けて、自分の考えをもう少し書いておくつもりになったので。


http://d.hatena.ne.jp/gamedeep/20061210/1165725539で書いた

その根源は遅くとも生物が遺伝競争を始めた段階から既にあった

の「遅くとも」はその前段に宇宙開闢から星が形成されるあたり、あるいはそれ以前のことを意識した上での表現だった(とか言い出すのはすげー後出しジャンケンなんだけど)。なんでそこまで言わなかったかって? そりゃあなた、「生物が遺伝競争を始めた段階から」で十分なにかがブチ切れちゃってる思考なのに、その上さらに遡ったら読むに耐えない電波理論になっちゃうからですよ。


しかし「ゲーム構造」というものの存在を(仮定として)受け入れ、そのルーツについて考えるなら、この馬鹿げた遡及――宇宙開闢以前までの――は案外馬鹿にできないものとなる。行動原理やら意志とかを全く無視して、単に条件とその下で見られる挙動という「構造」だけに着目して「ゲーム」というものが何時からあったか、ということを考えるということだからだ。
というつもりで考えると、極端な話何らかの相互作用が発生すればそれはもう「ゲーム構造」なのだともいえる。まさしく

「究極のゲームは宇宙!」

なのだと言える。

ただ、宇宙で起きる諸々の相互作用においては初期条件が決まったら乱数的効果(量子の挙動とかが本当に乱数的なのだとしたら)でしか結果の変動が起こらない。思考の始めでいったん忘れた「プレイヤー」なるものの存在はどこにもない。
だが少なくとも地球上においては、ある時期から「プレイヤー」なるものが存在するようになった。そこでなにか質的な変化が起こったんじゃないだろうか、なんて思うのだ。

1 console per what?

PS3とかXbox360って、暗黙のうちに「小家族・核家族化」が強く意識されているのではないか、とか思ってみた。

PS3とかXbox360はそのスペックをまともに出すためにHD環境を要求しやがる。それ自体は技術の進歩って意味では悪いことではない。だがしかし、じゃあその出力を叩き出せる環境が一家にいくつ用意できるのか、と考えてみると、これまで(SD環境)とは一時的にせよ状況がぜんぜん変わってしまうことに気付く。
SD環境はずいぶん安くなった。テレビが一家に1台なんて時代はとっくに通り過ぎた。一部屋に一台、あるいは一人に一台というのが現実で、ロケーションフリーTVの存在などは更にそこすら突破しようとしている流れにも思える。パソコンがあれば(モニタは)部屋に2台以上とか普通だし。本当に「パーソナル」にパソコンを持っていれば一人2台とかの勢いだ。
そんな状況の下、ゲーム機も「一家に1台」よりは「部屋に1台」に近いポジションに位置付けされていたように思う。実際PS Oneとか薄型PS2は明らかにその流れを意識し促進していた商品だろう。

が。
HD環境を「前提」とするPS3Xbox360どもは前提が「一家に1台」以上を許さない値段を叩き出すために、どうしても「一家に1台」のものにならざるを得ない。部屋に籠って黙々と遊ぶというスタイルには向いてない。リビングで一家の共有物を占領しながらというのが暗に求められてしまう。
そのくせ一人遊び用のゲームとかが出まくるわけで、そのへんのねじれに実は問題があるんじゃあるまいか、なんていいかげんな仮説を投げるだけ投げておきたい。


ついでに言うならWiiも「一家に1台」のものだろう。コントローラー振り回すスペースが要求されるあたり特に。でもそれはあのインターフェースを導入した時点でとっくに意識されているだろう。そして実際初期ラインナップにも「家族で遊んでください」というメッセージを感じるわけでそのへん徹底している。ユースケースを想定しまくったアップルらしさというか松下らしさというかそんな感じ。