Hatena::ブログ(Diary)

スネ夫は奇形児

2018-10-04

ももいろクローバーZ 舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』感想(第ニ幕) #DYWD

■ヘヴン成長期
ヘヴンを結成した彼女らは、第二幕でももクロ楽曲によるライブを立て続けに行う。
現実そのままの振り付けで再現されるが、それはライブではなく、あくまでもライブの演技である。

高城:歌う部分はあくまで役の中の私たちがやっていることであって、ももクロの私たちではないです。4人で歌ったり踊ったりする曲ももちろんあるんですけど、他の出演者さんたちもたくさん出てくださるので、皆さんにはライブというよりは物語の一つとして見て楽しんでいただけたらいいなと思っています。

引用元
https://spice.eplus.jp/articles/206390


このあたりの重層性が、素朴にペンライトを振ったりコールをしてよいのか観客たちが悩む理由になっていて、なんならSNSに上がっているファンたちの感想の3割ぐらいは、ペンライト・コールを巡る鑑賞マナー議論にすらなっているんだけど、まあ、それはいいや。しょうもないから。

ヘヴンは、振られた課題を打ち返すようにライブを重ねるだけで、エスカレーター式にCDデビューチャート1位、大型会場でのライブといった輝かしいキャリアアップへと結実していく。
こういう動員の倍々ゲームは、ももクロのキャリアを戯画化した展開だね。

でも、堕天使ミーニャが仕込んだ試練として、3曲ごとの節々でコンスタントにメンバーの脱退に見舞われる。

夢は楽しい。
しかし、<ダンス=夢>は個々人で違う。
だから、脱退・卒業という別れが生じる。
しかし、人間がそれぞれ自由意志を持つというのは本来善いことなはず。
これは肯定されなければならないということを、夢のオーナーであるカナコは重々に理解している。
だからカナコは、辞めていくメンバーに
「それが正解!○○が望んだことなら、それをするのが正解」
「踊ることが楽しい私達は、踊ることが正解!」
と全員を肯定しながら笑顔で送り出す。

そんなライブ→脱退→ライブ→脱退の連続サンドイッチを繰り返すうち、最終的にカナコ、しおり、あやか、れにの4人へとヘヴンは収斂していく。
ヘヴンとして4人で踊っていられる歓びは、事故に遭う直前、前世同等にまで至る。

かつて生まれ変わって不全感に苛まれていた3人が自由、喝采、勇気を手に入れ、そしてカナコはそんな仲間を手に入れたということでもある。
第一幕で示されたオプティミスティックな快楽は、ここまで引き続き延長される。

(もう、口語体は半分諦めるわ。文章に贅肉を足すみたいでけっこうしんどいし)

■魂の疲弊
しかし残酷に、夢は有限であることが示される。

ヘヴンのアイドル活動の集大成になるスーパードームライブの前夜、二人の堕天使が対話する。
坂上は、ここに至るまでカナコの逸脱を許したことについて、カナコにもはや情を抱いているのではないかとミーニャに問いかける。
ミーニャは喝破する。
確かにカナコはかわいげのある存在と言えるかもしれない。
しかし、カナコは転生を拒んだために"魂の成長"の機会を失っている。
<時空の鍵>を持たせて泳がせたのは、"魂の成長"のきっかけを与えんとする「偉大なる神への責任感」であると言う。

完全な神が、なぜわざわざ不完全なる人間を世界に配置したのかという問いは、キリスト教神学の古典的なイシューだね。

キリスト教の中では多くの場合、神が人間(に授けられた理性や意志の力)を試していると説明される。
であれば、なぜ魂の転生を司る坂上とミーニャが天使でなく、堕天使であるのか、という疑問も解消される(このへん個人的に気になってた)。
天使とは神の完全性に開かれ、身体性を持たない純粋観念のような存在であるとされる。
いっぽう堕天使とは、"自らのため"に神を求める(最終的には自分が神に置き換わろうとする)という序列の錯誤を犯したために、善悪や真偽といった不完全な対立項的世界へと堕落させられた天使と人間の中間存在である。
ひいては、堕天使とは、神が人間の意志の力を試す体制の一環であるとされる。
エデンの園に現れた蛇も、こうした構想のもと神に泳がされた存在である)

すると、坂上とミーニャに任されている転生の事務処理業務はあくまでも"方法"であり、それによって達成しようとしている要件は、人間に"魂の成長"をもたらすことである。

二人は、カナコの魂の疲弊に気づく。
転生を拒み、身体という媒体を持たないまま活動するカナコの余力は限界に近づいていて、もうすぐこの夢の世界は終わると。
夢は夢自体のみで存立する純粋観念ではなく、外部資源(魂の身体性)に依存するものだと、ここで気付かされる。

また、夢ないし並行世界論は、歴史が複数化するという問題を孕んでいる。
ありえた世界の束から、恣意的な一つを選んで生きているかのように、すなわち、いまいるこの場所は本質的な一つonenessではないと感じられる空虚かつ再帰的な存在感覚だ。

この問題を、演じ手としてのれにちゃんは正確に理解している。

「(高田れにという役について)何故この子はこんなに不安をかかえているんだろうって…。高田れにちゃんの中にはいろんな自分がいるんじゃないかなって。そのいろんな自分のどれが本当の自分であるべきか、わからない状態?だからこそ不安だし自分自身と葛藤してるのかなって」

引用元
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』パンフレット P22


ビューティフル・ドリーマー
並行世界の問題を考えるなら、やっぱりこの作品には触れておきたい。

『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の重要な先行的作品として、押井守出世作でおなじみ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』がある。
本広克行はもともと押井守オタクとして有名で、インタビューでも『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は『ビューティフル・ドリーマー』を参照して作ったことを公に語っている。

僕は押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)という作品が大好きなんです。最初は現実だと思っているんだけど、途中でこれはおかしい、こんなにうまくいくのはおかしいとみんなが言い始める。脚本の鈴木聡さんにあの映画を見てもらいました。

引用元
https://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/pickup/15/1008498/091401454/?ST=trnmobile_f


『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は、『ビューティフル・ドリーマー』を見たことがある人間からすると、本当に「あー、ビューティフルドリーマーだ」と思わずにいられない。
(そういう声は、俺以外にも『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の感想を漁るとよく目にする)

ビューティフル・ドリーマー』の舞台は、友引高校の学園祭前夜。
誰もが翌日の学園祭の準備に慌ただしくしている。
風紀委員会と各クラスが争い、クラス同士も資源確保で対立し、みんなが喧騒に明け暮れながら、同時に命を燃やすような楽しさを憶えている。

そんな中、一人だけ、温泉マーク(という名前の教師)が気づく。
この「学園祭の前日」が、無限に繰り返されているのではないか、ということに。
つまり日がまたがるたび、みんなの記憶がリセットされ、同じ日をループする。

何日も経たないと生じ得ない建物や資材の疲労に気づく。
試しに友引町から抜け出そうと試みても、迷路のように路地が複雑化されているし、それでも町の境目に近づくと、行き止まりにぶちあたる。
友引高校のみんなは、<この時間・この場所>から抜け出せない。
そのことにほかのキャラクターたちも気づくが、ループから抜け出す方法を見つけられずにいる。

この反復世界は、夢邪鬼という妖怪が、ラムの夢――ダーリンや友引高校のみんなと変哲のない幸せな毎日が送りたい――を具体化した世界だと後にわかる。
それが判明したとき、この反復世界を抜け出すべきか、あるいは、幸せなのだからこのままでもよいのではないか、というモダンな問いが生まれる。

人間は、歴史の反復から逃げ出せない。
いま起きている新しい出来事のすべてが、過去すでに起きたことの反復であるように感じられるのは極めて現代人的な感覚だ。

歴史なき反復とは一種の幸福の究極形でもある(すでに完成された幸福のあり方が実現しているなら、人間はただひたすらそれを繰り返せばよい)。
しかし、諸星あたるが導き出すのは、歴史の飽和に人間は耐えられないという結論だった。
彼は、この円環から抜け出すことを選び、その権限をもったラムと夢邪鬼に指示をする。

作中、面堂が重要な指摘をする。
友引町はまったく同じ<ここ・いま>が反復されるのに、コンビニの食料、学校や諸星家の電気ガス水道、新聞配達は尽きることなく供給されている。
街の外とつながっていないと供給されないはずの、ふだん生きるうえでグレーアウトされているインフラだけが何ら変更されていない。
この外部供給の矛盾を面堂が指摘したことが、のちのちこれは夢であるという気付きへとつながっていく。

世界史的に、この事実が露見されるのが80年代以降、湾岸戦争から現在に続くまでの世界だと言えるんじゃないか。
終わりなき日常(できれば使いたくない言葉だけど)も、歴史の終焉フランシス・フクヤマ)も、観念論の帰結の一種である。
内閉的な自己言及・自己生産によって、際限なく経済(幸福圏)を維持拡張できるという信仰、それの有限性・物質性を晒したのが、アメリカと資源国家との摩擦である湾岸戦争9.11、あるいは日本の緩慢な日常に対する3.11であった。

<夢=非歴史的な反復>の内閉的幸福を支えているのは、身体に養分を与える外部である。
夢の世界は無限ではない。
だから、人間は歴史の環に戻らなければいけない。
ないし、人間は歴史の飽和に耐えられるほど、頑強な存在ではない、というのが諸星あたるが行き着いた『ビューティフル・ドリーマー』の結論だと思う。

■残余する現実
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』にようやく話を戻せば、カナコの魂は、疲労を蓄積する一種の身体性を持っていた。
ミーニャはカナコに、この夢に近く終わりが来ること、それは舞台中央のモノリスに映った月が消え、新月になるまでだと告げる。

ちょうどそのころ、カナコ以外の3人はスーパードームのライブを前後して、話し合う。
ヘヴンの活動はあまりに都合よく進みすぎている、としおりが指摘する。

ライブの直前、存在論的疑問が緊張の音を立てた瞬間、スーパードームの音声が止まり、アンフィシアター全体の客席に照明が灯される。
フィクションである壇上空間に、容赦なく客席の現実が流入し、夢の皮膜が突き破られる。
(という演出がなされる)

我に返った3人から、疑問が噴出する。
しおりの結婚式はどうなったのか?
あやかが次の月曜に控えている演劇部の練習は?
れにが受け持つことになった302号室の田中さんの看護は?

本来生きるべき現実は別の自分たちに任され、いまの自分たちはヘブンが存在する並行世界を生きているのかもしれない。
しかし、転生先である世界がいくつあろうが、そのどれかに振り分けられる魂が一つであれば、魂はユニークな存在なはずだ。
にもかかわらず、自分たち(魂)はここにいる。
並行世界のうちの一人という説明は、整合性に欠けている。
であれば、自分たちの住む世界が変わったわけでなく、カナコの夢の中にいるのではないか?と、れにが正鵠を射る。

いまこうして夢を生きていても、据え置かれた現実世界のコンフリクトは、まったくそのまま保存されている。
また、夢とは歴史を複数化する戯れでしかないことに3人は気づく。

<カナコ=ラム>の夢の世界に、彼女らが求める親しい人物たちが引き込まれ、円環的に閉じ込められること。
その空間の非歴史性にさまざまな問題が見いだされることが、『ビューティフル・ドリーマー』と『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の共通点だった。

事の次第を察した3人のもとに、ミーニャと坂上が現れ、れにの明察にお墨付きを与える。
そして私たちと手を組み、カナコに成仏をするよう一緒に説得してくれ。お前たちもあの平凡な現実に戻るべきであると説く。

かつて4人は死に分かたれたため、夢の世界に退避し、非歴史的な幸福圏を作り上げた。
その充足感において、夢は可能である。
しかし、夢を審判するのは夢自身でなく、その外部である。
この展開において、「夢は現実に勝てない」という楔が打ち込まれる。

もはや、夢と現実どちらを是とするかといった二者択一の問題系にとどまるなら、これ以上変わりある答えは出てこない。

とすれば、彼女らが一点突破的に持ちうる解決策とは、「夢と現実」その二項対立のフレーム自体を乗り越えることになる。
これが『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の終盤、クライマックスの問題になってくる。

■「夢×現実」の止揚
カナコはミーニャに、もう少しの夢を続けたいと猶予を嘆願する。
ほかの3人もカナコを信じ、もうしばらく夢を続けたいと願う。

ミーニャは「バカの仲間もバカってことね」と言い、これを拒絶する。
ここで、ももクロ楽曲の中でも光と影の闘争的な色合いを強く持つ『黒い週末』がかかり、堕天使と4人の闘いが始まる。

夢の存続をめぐる決定権は、この舞台の中心を占める者たちに託されると言わんばかりに、ミーニャと坂上が従える堕天使の集団が『黒い週末』を歌い、4人を端へ追いやる。

牽制をそれとして理解する様子もない4人は、わきの階段で堕天使たちの歌と踊り(マジで上手い)を楽しそうに眺める。
あーりんは途中どう見てもペンライトを振る動きをしている。

しかし、いたずら心から4人は舞台に返り、あーりんとミーニャが、カナコとミーニャが互いのパートを奪い合い、『黒い週末』を、ミュージカルの醍醐味であるグループ闘争の歌曲へと仕立て上げていく。

これまで和解の契機となる音楽はつねに『Do You Want to Dance?』だったが、例外的に『黒い週末』がその機能を果たす。
ラスサビ(ラスト・サビの略)で、"その曲のオーナーであるももクロ"と"歌唱とダンスのプロであるミュージカル俳優"たちがダンスを共にし、互いの強度を一体化させる恍惚には脳を溶かされる。
見終えた後、識字能力がガクンと下がる。

歌が終わると堕天使たちは疲れ果て、舞台の中心を4人に明け渡す。
<時空の鍵>をもうしばらく貸してほしいと言うカナコに対し、ミーニャは渋い顔をしながらも、一度試練を与えた以上、結末の付け方まで彼女らに一任することを選ぶ。

4人は<時空の鍵>をかざし、前世でいつもダンスの練習をしていた体育館裏に移動した。
あれほど夢見たダンスコンクールよりも、こっちのほうがずっと宝物のような場所であるとカナコは言う。

ダンスの当初の認識は、欲望としての夢だった。
キラキラとして、ワクワクするもので、具体的には、自由、喝采、勇気、仲間だった。

しかし4人で夢の時間を過ごしてきた中で得られた認識は、結婚、演劇、病院といった現実世界での抵抗の身振り手振りもまたダンスであるということだった。
現世もまた夢同様にかけがえないことを知る。
カナコは、3人が現実へ帰った後に行なう"ダンス"を「楽しみ」に思うと言い、「ダンスじゃなくても、ダンスなんだね」と受け入れる。
ダンスを夢というトポスに限定させる必然性や権能はない。

夢が終われば、夢の記憶は消えると堕天使たちにかねがね説明されている。
また街中で会ったとしても、私たちは互いを忘れているのかな?とあやかが尋ねる。
忘れないよ、忘れるわけないじゃん、だから、さよならは言わない!とカナコはおちゃらながら答える。
この夢を終えることを決めた彼女らは、別れることを選んだのではない。
"忘れないこと"への賭けをした。

体育館裏の吹きすさぶ風の音の中、アカペラで『Do You Want to Dance?』を口ずさみ、4人最後のダンスを行う。
モノリスに映る月の下、ダンスを行うのは、「Well do you wanna dance under the moonlight?」という原曲の歌詞を想い起こす。
しかし、その月は『Do You Want to Dance?』を踊り終えると同時に消えていく。
舞台は暗転し、彼女らは地下に消える。

坂上とミーニャが現れ『世界の秘密』を歌い、生まれ変わりによって分かたれる彼女らの因果を憂う。
再び4人が現れ、この舞台に当て書きされた新曲『天使のでたらめ』が歌われる。
(これはもう月が消え、カナコの魂が限界を迎えているはずの状態での延長的な戯れである)

Aという夢と、このBという未来があって、神さまがいるならAとBをイコールにしてほしい。
生まれ変わっても忘れない。
嫌になるほど見つめてよ。
という歌詞が歌われる。
「夢と現実」の二項対立を超克し、一つの世界観に収斂されることを祈る曲だ。

この曲は一種の対話劇だったと思う。
一つ目は、堕天使たちが『世界の秘密』で「転生で忘れる」ことが歌うのに対し、『天使のでたらめ』は決して忘れないことを宣言する。
二つ目は、カナコが顔貌や癖の一つひとつを忘れないと言い、「だから来世でもよろしくね」と歌うのに対し、3人は「嫌になるぐらい見つめてね。忘れないでね」と再会の約束に応じる。

カナコは「魂の成長」の契機を与えられた。
それは天界が描くシナリオのとおり、最終的には生まれ変わりと忘却に着地するよう約束された戯れのはずだった。
『天国のでたらめ』は曲名のとおり、そんな天界の規定に抵抗する宣誓歌である。
ないし、この舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』とは、何者でもない愚かな人間が、天界にとって計算不可能なモーメント、すなわち奇跡を生み出す過程の物語だった。

■先行物としての『Re:Story
少し舞台のストーリーから外れる。

『天国のでたらめ』が「Aという夢とこのBという未来」を「イコール」にするよう求めるという構成に対し、たちまち想起させられるのは、つい8月に配信リリースされたばかりのももクロの楽曲『Re:Story』だった。

f:id:ganko_na_yogore:20181004231242p:image

これは『Re:Story』が発表された直後、ジャケットイラストにウケて呟いた内容なんだけど、青々しい夏の静けさの中で、少年たちと宇宙人というまったく異なる歴史の並走が描かれている。
楽曲配信よりも若干遅れて発表された『Re:Story』のMVでは、この少年たちと、UFOから墜落した宇宙人の少女が薄暗い森のなかで出会う。

D



宇宙人の少女は、紫色の服を着たレニスという少年に霊力を施し、ファンキーなダンスを踊らせる。
少年たちはいたく感動し、宇宙人の少女のもとに駆け寄る。
ここでもダンスは、異なる文化(星)の者同士が無根拠に一体化しうる契機として扱われている。

『Re:Story』とは、再帰的な歴史のことを指すだろう。

ももクロファンにとって、どうしても視線を反らし難い問題を言えば、2018年は緑担当の有安杏果が卒業した年であり、ファンもメンバーも、その精神的格闘に明け暮れた印象が強い。
4人になった新生ももクロは、スクラップアンドビルド余儀なくされた。

いかなる困難にさらされても「逆境こそがチャンスだぜ」と捉えるのが、ももクロクラシックナンバー『ピンキージョーンズ』の教えであり、有安卒業の2018年1月以降、いくどとなく、メンバーやファンの口からこの言葉が唱えられてきた。

このとき歴史は、「本来ありえた理念的な正史(5人のももクロ)」と「軌道修正する現実態の歴史(4人のももクロ)」に分岐する。
歴史が複数化する。
人はその比較に絶えず足をつかまれる。
ファンは、ももクロのライブやフォーク村(というももクロが歌唱力・表現力の成長を月次報告するような楽しい番組があるんだよ)など、さまざまな場で「ここに杏果がいたら」と想像させられる。
『Re:Story』とは、逆境へ立ち向かうときに必然的に伴う歴史の分裂であり、精神に課される肉離れの鋭痛である。

しかしこの歌の最後は、リ・ストーリー(再・物語)からザ・ストーリー(この物語)という単数形への言い換えで結ばれる。
ももクロの複数化しかけた歴史(あえて選ぶほかになかった歴史)を、再び単一の歴史(これしかありえない歴史)へと収斂させようという宣言に映る。
ピンキージョーンズ』のイズムにパッチを当てる、新生ももクロに捧げられた曲のように8月当時の俺は感受した。

夢(ありえた並行世界)と現実(これ以外ありえない歴史)を揚棄・収斂させるという問題は、『Re:Story』から『天国のでたらめ』において通貫している。
『Re:Story』がつい2ヶ月前に発表された楽曲と考えれば、舞台制作と音楽制作が互いを参照し合った可能性は低いだろうけど、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』と『Re:Story』はどちらも、ももクロの今日的な痛みを優しく慰撫してくれる。

■夢
『天国のでたらめ』の途中、一人だけ先に消えたカナコは、その曲が終わると舞台脇から白い衣装をまとった天使になって現れる。
ついにカナコが昇天するときが来た。

カナコは「ここはどこだっけ」「名前なんだっけ」と、前世や夢の出来事、名前、時系列を順に忘れていく様を歌う。
他の3人は、自らの手足、衣装、立っているその場を見て戸惑う様子を見せ始める。
カナコの成仏に伴い、彼女らもこの夢の記憶が薄らぎ始めているのだ。

人々が毎朝経験しているとおり、夢はどれほど強烈な印象を残す内容であっても、エピソード記憶としてはたちまち揮発する。
しかし、夢は厳密には忘れない。
フロイトが言うように、人間が防衛機制として記憶を絶えず忘却していったとしても、反復強迫は残余する。
忘却された記憶は、あくまでも「抑圧されたもの」でしかない。
夢の世界を、エピソード記憶としては忘れたとしても、そもそも夢によって表現されるのは、現実の出来事が<暗号化=象徴化>された「形式」だった。
出来事でなく形式であるがゆえに、記憶すること(現実に引き継ぐこと)ができない。
しかし出来事の外郭である形式において、夢はいつまでも反復しうるものとして無意識の中に保存されている。

f:id:ganko_na_yogore:20181004224851p:image

形式が残余するから、それに即した出来事に見舞われたとき、人は懐かしさ、いわゆるデジャヴを憶える。
逆説だが、忘れるとは一種の記憶術であり、夢はその整理である。
記憶を出来事(図)から形式(地)へと変換・圧縮し、半永久的な耐久処理をかける。

エラスムスも「痴愚」の構成物の一つに、「忘却(レテ)」を挙げていた。
それは硬直した老人を若返らせる、いわば転生の術であると。

考えてみれば、カナコの働きかけによって再会した4人は、だからといって交通事故に遭う前の、富士が丘高校のころの記憶が甦ったわけではない。
ダンスを通じて強烈に感じられた「懐かしさ」が、この4人は本源的に出会うべき4人であるという言い知れぬ確信を彼女らにもたらしただけだった。
ないし、4人が再帰的に夢を実現するうえでは、その確信さえあればよかった。
記憶は死や覚醒をもって揮発するが、この4人がまた集うという形式は確保されている。

4人が賭けたのは、そうした意味での「忘れない」ことへの信頼、強度である。
それはあの再会のとき、ダンスによってすでに触知している事実だった。

ワイヤーに吊られて昇天していくカナコを、もうカナコと分からないかもしれない3人が静かに見上げている。

そこに坂下とミーニャ、大勢のアンサンブルの俳優たちが集まり、ももクロの楽曲『HAPPY Re:BIRTHDAY』を歌い、カナコの転生を祝福する。
(ここはまさに天界の楽団という趣で、『黒い週末』に続いてミュージカルの恍惚を極めてくれる)

歌い終えると、しんしんと雪が降り始める。
ももクロの4thアルバム『白金の夜明け』のイントロ曲『個のA、始まりのZ -prologue-』が流れ出す。
これは『HAPPY Re:BIRTHDAY』のメロディをオルゴールで再現し、3rdアルバムのラストから4thアルバムの始まりへと接続する郷愁的な調子の楽曲である。

舞台は、夢から現実(来世)に切り替わる。
大勢のアンサンブルが行き交う様子は、かつて4人が事故を起こした渋谷区の交差点のようにも見える。

現実へと返ってきたしおり、あやか、れにの3人が雪が降る街に現れる。
互いを知らない者同士として、スマホを眺めながらバラバラに歩いてくる。

少し遅れて、来世へ転生したカナコ(であった女性)が現れる。
3人とカナコがすれ違う。
カナコは歩みを止め、懐かしい何かを感じる。

カナコは立ち止まるが、決して、しおり、あやか、れにという3人の名前やエピソードを覚えている(あるいは思い出す)わけではない。
形式として、この3人はかけがえのない存在であるという指向性intentionのみが強烈に喚起されていることが、ざわついたカナコの表情から察せられる。
カナコは3人のもとへ走り出し、「すみません」と声をかける。

逆光に向かって駆け寄るその姿で、舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は終わる。

このとき『個のA、始まりのZ』はインストゥルメンタルとして流れるが、ファンは否応なく、この曲に本来あてられた歌詞を頭の中で再生させられる。
それは夢からの目覚めであり、視界がぼやけた朝焼けの世界の歌詞である。

 眠って 起きたら また始めよう
 夢の中で まだZzz
 あんまり のんびりしていられない
 早くいきたい でもZzz
 たくさん計画があるんだ
 待ちきれないよ
 あずかったままの愛を かえそう

カナコが3人を追いかけ、声をかけるとき、この曲に本来流れる歌詞はこうである。

 懐かしい場所に立とう きみのもとへ
 出逢おう あたらしい自分を みせよう

この言葉とカナコの駆け寄る後ろ姿が、心の中でオーバーラップされるとき、何度鑑賞しても涙が溢れてくる。

夢を終え、また凡庸な現実に帰った彼女らは、記憶(出来事、名前、時間、場所)の一つ一つはリセットされた。
なのに、同じはずの現実がその調子を変える。
何故なら、夢はいつまでも形式において残余するからだ。
それが夢の強さであり、夢は決して無力ではない。
これこそが世界を駆動する源泉である。

「この4人」は現実においても、いつまでも続く。
その祝福に満ちて、舞台は締めくくられる。

〜〜〜
と、だいたい以上が、舞浜アンフィシアターに5日連続通いながら、俺が感じたこと・思ったことをとっちらかした無惨な結果なんだけれども。
メンバーがさまざまなインタビューで語るとおり、この舞台は、観た人に、本当に大事なことの気づきを与えようとする生の讃歌だと思う。

あと、「生と死」「現実と夢」という二枚貝的なモチーフを絶えず往還する『AMARANTHUS』『白金の夜明け』が土台となっていることは、いかなるライトなファンでも容易に気づける。
だとすれば、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は、『AMARANTHUS』『白金の夜明け』のフレームから、『Re:Story』『天国のでたらめ』といった現在形のももクロへと接続される舞台作品であると感じられたな。

それら二曲が新生ももクロに捧げられた祈りの曲であるように、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』という舞台も、ももクロの4人が4人でいることへのアファーマティブな祝福に満ちている。

思えば、毎日劇場を出るたび、急いでiPhoneを開いて感想をEvernoteに書きなぐったり、家に帰ってからさらにExcelで時系列を図表化したりするのが、楽しくて楽しくて仕方なかった。
自らの作品理解に追加・修正がかかる限り、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の肌理に触れ続けられているように感じられた。
その快楽は7回の鑑賞の中で、いまだ途切れていない。

俺にはまだ4回分のチケットがあるし、明日2018/10/5(金)の夜公演から『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の快楽が再開される。

そういう自分にとっての"後半戦"の前に、あーりんが言う「思ったことや感じたこと」に区切りをつけられたのは良かったかもしれない。

あーりん、そんなきっかけを与えてくれてありがとう。
また明日、あなたを、ももいろクローバーZを、舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を見に行きます。


〜〜〜〜〜〜
参考図書:
エラスムス痴愚神礼讃
柄谷行人『歴史と反復』
野田努『ブラック・マシン・ミュージック』
岡崎乾二郎(編著)『芸術の設計』
八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』

ももいろクローバーZ 舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』感想(第一幕) #DYWD

■プロローグ
で、順に展開を舐めていくと、ファンとしては、まず先に語った交通事故に見舞われるイントロダクションで泣いてしまう。
落差がすごい。
翌日のダンスコンクール決勝を控え、みんな軽い躁状態になっている。
カナコは、勉強ができない。
いわゆる"どや顔"で、『Do you want to dance?』の冒頭部分「Do you want to dance and hold my hand? Tell me baby I'm your lover man.」という歌詞を、荒井注レベルのカタカナ英語で話すんだけど、
「ドウーユーワナダァン? アン…アッポー オン マイハンズ」と、ピコ太郎にあやかる。
くだらなさに4人とも笑う。

カナコはヘッドホンをつけ、ここ(交差点)で練習しようと言い、4人は踊り出す。
ウキウキとしたビートで楽天的な雰囲気に包まれたとき、ふいに暗転する。
ドガン ガシャン
とトラックの前面が派手にへしゃげるような衝突音が真っ暗な空間に響く。
少し間を置いたのち、4人の死亡を告げるニュース音声が流れ始める。
併せて、荘厳なメロディの、ももクロ3rdアルバム『AMARANTHUS』のイントロダクション『embryo -prologue』が流れる。

真っ暗な舞台の正面には、本広克行が『2010年宇宙の旅』から引用したと言っている巨大なモノリスが屹立していて、そこにタイトルロールが映し出される。
f:id:ganko_na_yogore:20181004224847p:image
本広克行は『幕が上がる』で寺山修司田園に死す』を引用するのしかり、引用対象のセレクトと仕方が映画学科の大学生っぽいんだよな…)

こんなの、ももクロファンとしては、眼球を取り出されて果汁搾りに押し当てられるように、涙が強制的に絞り出される。
ももクロに、もしこんなことが起きて、こんなニュース音声を耳にしたときには、自分はもう生きていられない」と思わずにはいられないから。
(ただ、これぐらいあざとい冒頭の演出は、決して嫌いじゃない)

タイトルロールが流れ終わると、舞台中央の空洞から床がせり上がり、魂となった4人が『WE ARE BORN』をアンサンブルたちと一緒に歌い出す。

これも3rdアルバム『AMARANTHUS』の収録曲ないしリード曲なんだけど、
イントロダクション『embryo』からシームレスに『WE ARE BORN』へつなげられるアルバムの仕組みが、舞台へとそのまま移植されている。
胎内から不完全な世界へ産み落とされる不安と、しかし胎外から差してくる光に向かい進んでいこうという勇気が歌われる曲だ。
つまりは、死んだ4人が生まれ変わるモーメントがここで表現される。

だけど、先に言ったとおりカナコだけが死を自覚できず、天界を浮遊している。
『WE ARE BORN』のオチサビ前に、カナコ以外の3人は舞台から地下へ消えていくんだけど、
カナコだけ曲が終わると、「れにー、しおりー、あやかー」と3人を探し始める。
そこに魂の転生を司る堕天使ミーニャと、その部下の坂上が現れる。
ミーニャがシルヴィアグラブ、坂上が妃海風という俳優さんで、どちらも歌劇のマジのプロ。一挙一動すばらしいので、本当に出演してくれてありがとうという気持ちしかない)

堕天使の二人は、あの日4人とも交通事故で死んだこと、そしてまだ生まれ変わっていないのは、死に気づかずにいるおバカのカナコだけであると説明する。
『世界の秘密』という曲を歌い、天界が定める転生の仕組みをカナコに教える。
「生まれ変わりはある。それは過去から未来でなく、壁の向こう側の並行世界」であると。
魂が転生する先は、死んだ直後の同一世界とは限らず、時代はかえってむかしに遡るかもしれないし、場所や、どの並行世界なのかも変わりうる。
そうした転生先は、ミーニャによってガチャポンでランダムに決められると。
確かに並行世界が前提とした世界であることを、ファンは随所で気づかされるんだよね。

交通事故のニュース音声が流れるとき、ダンス部の4人は富士が丘高校の学生であると言われるけど、これは『幕が上がる』の演劇部がある学校名なんだ。
後に、あーりんがまさに『幕が上がる』の演劇部へ転生していることが分かるんだけど、そこでは、前年の高校演劇のブロック大会で敗退したことになっている。
『幕が上がる』では、高橋さおりという部長の奇跡的な台本・演出でブロック大会はもとより全国大会まで勝ち進むことになっているので、『幕が上がる』とは設定がずいぶん違っている。
そもそも転生したあーりんの役名も『幕が上がる』の"加藤明美"でなく、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』では"渡辺あやか"になっている。
渡辺あやかが転生した先の富士が丘高校には、前世で所属していたダンス部は存在しないことになっている。
別に時代が大きく異なっている様子もない(どちらの時代でも、YouTubeの存在が自明に語られている)
こんな具合に、ファンなら瞬時で分かる世界のねじれが節々にある。なるほど、並行世界なんだなと。

やや拙速にあーりんの話へ逸れちゃったけど、カナコは、さあ、転生するわよとガチャポンを回そうとする堕天使たちの説明を受け入れられず、さまざまな並行世界を自由に行き来できるという球体<時空の鍵>を奪い、その場から逃げ出す。
慌てて堕天使たちが追いかけようとすると、ミーニャがまた悪そうな笑顔で、急ぐ必要はない。カナコを泳がせてみようと言う。
退屈しのぎとして、カナコを試してみようと言う。
(ただし、カナコを泳がせる動機付けは、物語の後半で重要な訂正が入るんだけどね)

■再会
カナコが<時空の鍵>を使い、しおり、あやか、れにの元へ行くと、3人は生まれ変わった先でそれぞれ冴えない日々というか、不全感を抱えて生きているんだよね。

しおりは、結婚を来月に控え、ウエディングサロンでマリッジブルーになりかけている。
親がお膳立てした縁組を受け入れる「いい子」な自分について、その規範を内面化している自分と、空虚に感じる自分とで分裂し始めている。

あやかは、富士が丘高校演劇部の部長を『幕が上がる』の主人公高橋さおりから引き継いでいるんだけど、さおりのような求心力を持てずにいる。
部員たちが演劇にシリアスになってくれないことに苛立っているし、そんな状況に押し流されそうになっている自分の弱さにも懊悩している。

れには、看護師としてオーバーワークの日々に明け暮れている。
仕事にいい加減な同僚たちから、つい率先して面倒事を巻き取ってしまう。
昼ごはん(なぜかフリスビーぐらいの大きさの肉まんを持っている)を食べる時間も取れずにいる(デカすぎるからでは?)
そんな献身的姿勢は、彼女の自信のなさ、弱さに由来している。

こうした3人との再会が、各々のソロパートの歌唱とともに演じられていく。
ももクロのライブをいつも見ている人間としては、玉さん(玉井詩織)、あーりん(佐々木彩夏)、れにちゃん(高城れに)の3人ともが、本当に丁寧に歌ってくれているのが分かる。
バイオリンの音のように、実にきれいに声が伸びていく。

で、3人それぞれのもとへ突如現れたカナコが「久しぶり〜〜〜〜」「また一緒に踊ろうよ〜〜〜〜〜」と駆け寄ると、彼女らは当然、何だこいつは?とめちゃくちゃ怪しがる。
もはや彼女らに前世の記憶、カナコの記憶はないから。

なのにカナコが『Do You Want to Dance?』を口ずさみながら踊ると、3人とも、体が勝手に踊りだす。
踊りながら、自らの手足を眺めて「????」と戸惑う(あーりんだけニヤニヤして、何これウケんだけど、ってなってるのが良い)。
また、なぜかカナコが口ずさむ『Do You Want to Dance?』を聴くと、胸の奥がポカポカしてくると言う。

3人はその言い知れぬ心地よさに、直感的に、いま苛まれている不全感から抜け出す光のようなものを感じ取り、つらい現実(ウエディングサロン、演劇部、病院)を置き去りにして、カナコを追いかける。

個々人パートの最後にあたるれにちゃんが走り出したところで、ももクロの楽曲『LOST CHILD』が歌われる。
直訳して「迷子」。
後々暗示されるけど、このタイミングをもって、3人はカナコが作り出した夢の世界に入り込む。
彼女らが<いつ・どこ>性を失い、(存在感覚的な)迷子になることが歌われているんだ。

この場所はどこなのか問い詰めても、カナコはふんわり「それは私にも分からない」「ロビンフッドがいた森かもしれないし、昭和の時代の近所の公園かもしれない」と答える。
しおりが「私達をこんなところに呼び出してどうするつもり?」と詰め寄る。
カナコは「私が呼んだんじゃないよ。みんなが勝手についてきたんじゃん」と切り返す。続けて「4人でゆっくり話す場所がほしかったの。だから、ちょっとカフェに行くみたいに、これ(時空の鍵)を、ヒュッ、と」と語る。
(一応言っておくけど、俺、会場でコッソリ録音して文字起こしとか、そういう違反行為はやってないからな)

つまりカナコは、3人を誘い、この<いつ・どこ>性を持たないトポスを準備するところまでを行った。
3人はカナコを追いかけ、その世界に入り込んだ。

この双方の積極性がペアリングしなければ、4人で再び集まることはできなかった(カナコ一人の強制力で結集されたわけではない)という事実が示されている。

彼女らは、体に染み付いた『Do You Want to Dance?』をあらためて4人一緒に踊る。
すると潜在していた快楽(=振り付け)が噴き出すように、かつての戸惑いが取り払われた調子で、4人の手足が美しい動きを描き始める。
ダンスを共有することを通じて、かつて死で分かたれた4人が再び合一を果たす。

(いまさらだけど、情報をどんどん羅列的に書いていく局面だと、口語体が全然成立してくんないな)

■ダンス
ここらへんでいったん、この舞台作品において、ダンスとはどういう位置づけなのか補助線を引いておきたい。

そもそも舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』とは、「みんなとダンスがしたい!」という情動を扱う話。
では「ダンス」とは何なのか?が常に問題化される構造になっている。
まず、この舞台で『Do You Want to Dance?』は、共同性を取り戻す契機として繰り返し用いられる。

カナコが3人それぞれと出会い、潜在的な記憶を引き出すためのトリガーとして。
また、4人全員集ったときは、面識を持たずアトランダムでしかなった4人から、共同性を持った4人へ再帰する契機として用いられる。

この楽曲の魔力はすごい。
『Do You Want to Dance?』が踊られれば、言葉による説得がされたわけでもないのに、根拠もなく、一緒に踊った人たちは共同体になる。

こうしたダンスの機能は、さまざまな分野で指摘されていることだと思う。

羅列的な知識で恐縮だけど、たとえば、野田勉『ブラック・マシン・ミュージック』。
ディスコ、ハウス、テクノといった20世紀後半の電子音楽が、シカゴデトロイトのような荒廃した都市の黒人たちによって形成されてきた歴史のダイナミズムを丹念に追う、
まあ黒人音楽の研究書としては、上梓以降、一貫して最重要であり続けている本だけども。

この本が繰り返し訴えるのは、ダンスとは、歴史の異なる者たち(住む街、所属するトライブ、人種、貧富の差)を脱意味/脱歴史化し、同じリズム反復のるつぼの中に溶かし込む機能を持っているものだということだ。
たとえば、チビクロサンボの虎たちが木の下の回転のうちに、一つの溶けたバターになっていくように。
音楽の享受方法にダンスが採用されたことで、70年代以降の電子音楽は、異ジャンルの融合時に本来ありうる調整コストが極めてやすやすとクリアされ、加速度的な発展と拡張を遂げたことを指摘している。

ほかにも、パンコパンダや未来少年コナンを始めとした宮崎駿アニメにおいて、互いの動きを模し合った者同士は漏れなく"仲間"になることを、ササキバラ・ゴウが『教養としての〈まんが・アニメ〉』で分析してたな。

何よりわかりやすいのは、マイケル・ジャクソンの『Beat it』および、それを参照して撮られたももクロ『DECORATION』のMVだ。
元々対立したチーム同士のチンピラたちが、何も対話はしていないのに最後に大団円のダンスをするだけで合一していく。



D




D




とりとめないけど、再三確かめておくべきは、ダンスとは<根拠なき合一>であるということだ。

■起点としての「バカ」
もう一つ、この物語の重要なファクターとして、すべての始源にカナコの「バカ」さがあるということに触れておきたい。

それは、カナコが自分や他3人はもう死んでいることに気づかなかったバカさであり、
また堕天使たちが歌う生まれ変わりのルールを少しも内面化しようとしないバカさが、物語に奇跡を起こすすべての契機となっている。
このフレームは台本の鈴木聡によるものだって、本広克行も語っている。

本広克行 ミュージカルだし、夢の話だから、歌うことも踊ることも何でもやれるんだけど、できあがった脚本を読んで、素晴らしいと思ったのは、それらを結びつけるのが「バカの力」だということ。鈴木さんのすごいアイデアですよ。死んだことも生まれ変わることもイヤだといって、4人が一緒にいる夢を見続けるカナコの物語。僕はやっぱり何かを作り出すのはバカだと思うんです。

引用元
https://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/pickup/15/1008498/091401454/?P=3


なんなら、この舞台の時間の8割ぐらい、カナコは「あは〜」な笑顔というか、彼女の頭上に小学生がよく描く花弁が放射状の花が一輪咲いているのが、ありありと目に浮かぶ。

ここらへんで急にお硬い言葉を使い始めるけど、そんな姿を見て否応なく想い起こされたのは、エラスムスの『痴愚神礼讃』だな。
2〜3年前に読んだとき、俺には、この中世に書かれた本が"ももクロ礼賛"、それも特に"百田夏菜子礼賛"にしか読めなかった。

痴愚神礼讃』っていうのは、中世の人文主義者エラスムスカトリック教会や、それを理論的に支えるスコラ神学を批判した諷刺書として知られている。
痴愚女神moriaが、自画自賛の弁舌を奮いながら、対称的に硬直しきったカトリック教会やそれに関連する人々をこき下ろしまくる。
この本がルターに共感を与え、宗教改革起爆剤になったことは有名だね。
むろん、ここで検討すべきは宗教史的・文学史的意義のどっちでもない。
痴愚を礼賛する理路を一瞥する必要がある。

痴愚女神は、自らの良いところ、痴愚の美徳をいくつも挙げる。
うぬぼれ(ピラウティア)、追従(コラキア)、忘却(レテ)、怠惰(ミソポニア)、快楽(ヘドネ)、無思慮(アノイア)、逸楽(トリュペ)、お祭り騒ぎ(コモス)、熟睡(ネグレトス・ヒュプノス)…
と、ふつうは一蹴されるべきこうした痴愚の要素を丹念に、これがあるから人は生殖ができる、これがあれば人は若返る、とその効能を訴えていく。

ここで大事なのは、人間の感覚的回路はきわめて分裂的で複数化していることを、ひたすら痴愚女神が説いていくところだ。

主体を統御的・単一的にまとめあげる理知性よりも、情念や快楽のほうが感覚回路のレパートリーが多種多様に開かれていると。
エラスムスいわく、理知性が1だとすれば、情念の種類は24個あるとすら言っている(内訳はあんまり説明されないけど)。

もちろん、エラスムスは素朴に反知性主義を唱えているわけではない。
合理性批判とは、漏らさず合理性アップデートをはかることを本義としている。
知性や敬虔といった狭い回路に閉じるよりも、歓びを軸とすることで、より人間は広く世界に開かれる。
大局的に見れば、そのほうが知的・合理的ですらあると。

これを現代の用語で説明すれば、痴愚神礼讃は、リダンダンシーの古典的理論書であると言えるだろうな。
リダンダンシーとは冗長性のこと。
おそらくIT開発とか、なんかの業務プロセスを設計している人とか、ビジネスの畑でこそよく使われる言葉じゃないか。
たとえば機構Aと機構Bはそれぞれ維持コストがかかる別個のシステムなのに、もし一部の機能が重複しているとしたら、それは冗長であると言える。
ふつう合理的に考えれば、システム全体の中で、一機能は一機構にのみ与えることが最適とされる。
でも20〜21世紀のエンジニアリングが気づいたのは、一見合理的に捉えがたい冗長な構造のほうが、往々にしてサステナビリティ(持続可能性)に優れているということだった。
機能を複数化させることで、一つの機構が潰れたときに即時補完ができる。
一個のアンテナが潰れても、別のアンテナの角度調整をするだけで、完全機能停止という最悪の事態を防げる。
また、同じアウトプットであっても、異なる回路・アプローチから得られた結果を相互参照することで、より精度の高い反証的判断が得られる。

同じように人間の身体感覚も極めて冗長に組織されているというのが、アフォーダンスをはじめとする20世紀の認知科学の気づきだったと思う。
人間の知覚・動作を観察すると、デカルト的な心身二元論(脳=知性が身体を統御する)では説明できない様態が数多く発見される。
手足は手足自身が考え、皮膚は皮膚として記憶を持ち、内臓や細胞ですら脳の統御に抵抗し続けている。
こんな具合に、人間身体とは分裂的な一種の闘争の場であるというのが、20世紀以降の生態学の基本的な理解だと思う。

考えてみれば、ダンスというジャンルそのものが、人間は認識の回路がさまざまに分裂していることに対し、極めて自覚的なジャンルだと言えるんじゃないか。
他者に披露したい(視覚的に把握された)動きと、それを生み出すダンサー自身の身体イメージは往々にして一致しない。
つまり、ダンスをビデオテープによって客観的に記録し、それを振り付け情報として人を与えても、そんな視覚的理解でただちに人間は踊れるようにはならない。
必ず、併せて身体感覚への翻訳が求められる。
逆に、一度身体が憶えたダンスは、目をつむりながらでも再現することができる。

カナコたちが死によって、生前の出来事や友人知人の名前といった海馬的な記憶を失っても、身体性を持った魂が直接感覚を保管していた。
そんな前世の感覚を引き出す鍵がダンスであるということが、この舞台作品では執拗に描かれている。
ひいては、おバカのカナコこそ、他の3人よりもリダンダンシーの強度が突出していた。だからこそ、4人を再びつなぎ合わせる契機になりえたということだと思う。

これは現実のももクロにおいても日々認識されていることだ。
本広克行は『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を巡るインタビューで、あーりんが「百田夏菜子がいなかったらももクロなんかできないから」と話していたことを語っている。

ともあれ押さえておきたいのは、痴愚やダンスといった劇中用いられるモチーフはすべてが論理的に結びつき、ストーリーで起きる奇跡を下支えしているということだ。
作劇を務めた鈴木聡は、やれ並行世界だとか、やれおバカといったフレームをなんでもありのマジックワードのようによく自嘲しているけど、全然胸を張ってよいと思う。

■ヘヴン結成
話を『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』のあらすじに戻すと、再び結集した4人は、<時空の鍵>をかざすと誤ってアイドルのオーディションに飛び込んでしまう。
なし崩しに課題曲を踊り、面接で「あなたたちにとってのダンスとは何か、一つの言葉で説明しなさい」と振られたとき、彼女らは自分にとってのダンスの定義を明言していく。

しおりは「自由
あやかは「大喝采」
れには「勇気」
カナコは「仲間」

各々が自らに欠けていると感じ、欲望していたものを宣言するというのはオズの魔法使いのようだけど、すなわちダンスとは、人間が欲望するところの「夢」である。

オーディションに受かった他メンバーを含め、9人で『Do You Want to Dance?』を踊る。
Bobby Freemanの原曲どおりの曲構成で、大人数によるフォーメーションの広がりはミュージカルの醍醐味をはつらつと見せてくれる。
曲が終わって全員が決めポーズをした瞬間、アイドルグループ「ヘヴン」が結成される。

ここでも楽曲『Do You Want to Dance?』は、異なる歴史を持つ者同士を一つの束に収斂させるものとして呼び出される。

この舞台には、夢はいかにして可能か?という問いがあった。
であれば、<ダンス=夢>という構成のもと、その多幸性・冗長性を描くことで夢は可能であるとアファーマティブに示される。
この楽天性へ回帰するところでもって、舞台前半である第一幕が終わる。

(続く)

ももいろクローバーZ 舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』感想(導入) #DYWD

いま、ももクロが舞台というか、ミュージカルが絶賛やっててさ。
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』っていうタイトルのを。
舞浜アンフィシアターっていう本来シルク・ドゥ・ソレイユ用に作られた劇場で。
9月下旬〜10月上旬にかけて、合計19公演やるわけなんだけど、そのうち9月分の7公演を見てきたんだわ。
俺が。好きだから。ももクロが。
あと今週末も、もう何回か見て、合計11回見ることになるのか。
ヤバいな。幸せだな。とんかつ食べながらAV見るよりずっと楽しいわ。

いやさ、おもしろいんだよ。
何度も涙するし、笑わされる。
俺はもはや、ももクロ客観的に評価する視力を完全に失ったファンだけど、それでも頭の中で丹念に形式を追う限り、おそらくコンテンポラリーな枠組みから見ても、非常に美しく作られているんじゃないかと思う。

で、この舞台作品なんだけど、あーりんっていうももクロのピンク担当の子、まあアイドル用語でいう俺の"推し”の子がね(こういうことを言うの恥ずかしいけど)
パンフやいろんなインタビューの場で、この作品を観終わったらぜひ、友だちや家族と感想を語り合ってほしいって呼びかけてるんだよね。

佐々木彩夏
私は映画を観たり、演劇を観たり、美術館に行った後、思ったことや感じたことを話すのが大好き。だから、この舞台を観た後、お友達や家族で、わいわい話して盛り上がってほしいな。転生とか、パラレルワールドとか?正解がないことについて、それぞれの想いをみんなで話してほしい。その時間が楽しいなって思うので。
そしてみんなの話が盛り上がって、また明日からがんばろうって思ってくれたら最高。

引用元
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』パンフレット P25


もともと『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を観ても、感想を書いたり、誰かに話すつもりはなかったんだけどさ。
というのも『幕が上がる』っていう、ももクロが以前主演した映画や舞台作品で、新書相当40,50ページ分ぐらいの感想を書いたことがあって。
俺が。好きだから。ももクロが。
そんで、またももクロの舞台作品が出てきたからって同じことをやったら、そのジャンルを監視してる、芸術に一家言あるやつみたいになるし、キモいじゃん。
俺も自覚と節度はあるんだ。

でも、ももクロファンとしての基本方針の一つに、
「メンバーにお願いされたことには従う」
というのがある。
あーりんが「思ったことや感じたこと」を「わいわい話して盛り上がってほしい」と呼びかけた以上、そうしたい。
俺が人にキモいと思われるかどうかなんて、もはや些末な問題になった。
唾棄する。

が、しかし。
俺にももクロの話ができる友達はいない(理由:性格に問題があるので)
Twitterに書こうにも、獣姦にも劣るとされるネタバレという禁忌を衆目に晒すことになるし、2ちゃんネタバレ感想スレに名無しで書くにしても、おそらく文章量的に「荒らし」になる。

なので、ブログを選ぶことにした。
こうやって、気心の知れた友人相手にファミレスや居酒屋で語る口調で、だらっだらと『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の感想を書こうと思う。

話を聞いてくれるお前のことは、こう設定する。
まず、ももクロに興味のない、外野の人間である。
しかし、俺がいかなるADHD崩れであるかをよく知っていて、どれだけ長時間かつ独りよがりジャーゴンを駆使されても、何ら文句を言わない(=自我の薄弱な)友だちだ。
ないし、そんな存在を"ブログ"が担っていると言えるのかもしれない。

俺はももクロのライブやイベント、あらゆる文物の感想というものは、人に話す・話さないにかかわらず、いつもEvernoteにダラダラ書き留めている人間なんだけどさ(ブログにたまに載せているのは全体の5%にも満たない)。
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』については、そんなチラシの裏を、他人が読んで分かる程度に書き起こしてみようと思う。

まあ、人間って、あらゆる生物のうち、言語を特質とした生き物じゃないか。
だから、ヒトは思ったことを言葉にしないと健康を害するようにできている。
ラカンが言うように、言葉とは、赤子が母の乳房から引き剥がされる代わりに与えられる、おしゃぶりのようなものだ。
その程度の戯れでダラダラと感想を語りたい。
それに、ももクロの楽曲では、"言葉に対する勇気"がさまざまに歌われている。

『走れ!』 −キミの前じゃ素直でいたいんだ
労働讃歌』 −難しいことは掘り下げないとわかんないんだけどね
『Re:Story』 −あるだけの言葉をもってして君と話してたいんだ

こんな精神で、思ったことを思ったままに、全部語る。
長くなる。

ごめんね、ありがとうって。

これも『笑一笑』っていう曲の歌詞なんだけど。

■オーバービュー
まずは、そもそもこの舞台ってどういう作品なんだよってところからだよな。

この舞台の形態は、ジュークボックス・ミュージカルと言って。
つまり、世間に元から流通している歌謡曲を劇中で歌うミュージカルのことなんだけど(わかりやすいのは『マンマ・ミーア!』)、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』では、ももクロももクロ自身の曲を使い、それを行う。

ももクロって4人組のグループでさ。
この舞台では、とある高校のダンス部の4人として現れるんだ。
4人はダンス部の立ち上げメンバーなんだけど、部室も与えられないまま日々練習に励み、高校2年にして、なんと全国のダンスコンクール決勝へ勝ち上がることになった。

で、コンクール前日、渋谷区の交差点で、いよいよ明日だね〜〜〜!!と4人が盛り上がって、思わずその場で練習しはじめる。
すると、交通事故にあい、全員死亡する。
(この死ぬくだりを、こないだ紫担当の高城れにという子がラジオ番組で「ちょっとしたアクシデントで」と説明してて笑った)

彼女らは生まれ変わる。
が、一人だけ、ダンス部のリーダーであるカナコ(百田夏菜子っていうももクロのリーダー且つ、赤担当のお方が演じてらっしゃる。この作品、全員、実際の下の名前を役名に使っている)は、死を理解できず天界を浮遊するんだ。

カナコが転生を拒否したまま、霊魂として他3人のもとを経巡り、また再び4人でダンスをしようとするファンタジー作品であると。
この『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は。
タイトル『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』はその誘い文句であり、同時に本作のキーとなる楽曲名でもある。

表題曲『Do You Want to Dance?』だけ、ももクロの内製物じゃなくて、外部から供給している。
Bobby Freemanによって作られた、50年代アメリカの雰囲気をよくよく表現したロックのクラシックナンバーなんだけど、映画『アメリカン・グラフィティ』に挿入歌として使われている。
(個人的にはロジャー・コーマンの最高傑作『ロックンロール・ハイスクール』で、カメオ出演したラモーンズが歌う場面のほうこそ思い出深いけど)



D



D



アメリカン・グラフィティ』自体が、50年代後半〜60年代前半の古き善きアメリカを象徴するナンバーを流しまくる、ジュークボックスのような映画になってるんだよね。

たとえば、『アメリカン・グラフィティ』の影響下で撮られた『グリース』は、ピンク担当、あーりんの2018年ソロコンサートの世界観に援用されたし、『アメリカン・グラフィティ』に登場した伝説的ラジオDJ、ウルフ・ジャックマンは、その影響力から日本に小林克也およびスネークマンショーを生み出した。
小林克也とは、ももクロが毎年バレンタインにやっているイベントの直近回で共演していてさ。
小林克也ももクロにウルフ・ジャックマンのDJ精神を伝授していたりする。
ももクロとの遠縁な関係はこんなところか。

で、『Do You Want to Dance?』に戻ると。
この曲のポイントは、まったくメッセージ性などないということだと思う。
女の子をダンスに誘う甘ったるいナンパ文句を3パターンほどリピートするだけ。
日本の文化で喩えれば、「キミ、カワウィーネー」ぐらいのことしか言っていない

Do you want to dance and hold my hand?
Tell me baby I'm your lover man
ダンスしよう ぼくの手を取ってさ
聞かせてよベイビー 恋人はぼくだって

Well do you want to dance under the moonlight?
Squeeze me baby all through the night
月明かりの下で踊ろう
キミを夜通しギュッと抱きしめるから

Do you do you do you do you want to dance
ミキミキミキミ ダンスしようよ
Do you do you do you do you want to dance
ミキミキミキミ ダンスしようよ
Do you do you do you do you want to dance
ミキミキミキミ ダンスしようよ


見ての通り、ただキミとダンスがしたい!という指向性だけが示されている偏差値5の楽曲だ。

死んで天界を浮遊するカナコは、幸せの絶頂にいたあの仲間たちとまた踊りたい。
その気持ちを表明する曲で、『Do You Want to Dance?』は舞台の節々で歌われ、踊る。
(俺は『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を観るたび、シナリオや時系列をExcelに整理してるんだけど、そこで数える限り、8回歌われてるな)

同時にこの曲は「幸せだったあのころ」を象徴している。
アメリカン・グラフィティ』の場合、当時冷戦ベトナム戦争アメリカは国家不信に陥っていた。そんで、かつて50年代のアメリカはただただ楽天的で幸せだったなーということを、アイロニカルに振り返る構造の映画になっている。
楽天的な楽曲だけど、楽曲と自分との間には、アメグラなら<ベトナム戦争>、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』では<交通事故>といった「死」の切断線が引かれている。
単純にブギウギイエイ!な曲ではない。
この曲をビーチボーイズラモーンズがカバーするときもだいたいそう。
楽天性への再帰」として歌われる。
だから、舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』で、楽曲『Do You Want to Dance?』を「<幸せだったあのころ=前世>を取り戻そう」というメッセージ媒体として用いるのは、アメリカ本国の流儀をちゃんと踏襲していると言える。

話の本筋に進むと、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は、作品の冒頭、ダンス部の4人はすでに完成された幸せの絶頂期にいる(ふつうの青春ドラマならここがクライマックスになる)。
それが、開始2〜3分で、たちまち死によって打ち切られる。

驚くべきは、アイドルのミュージカルなのに「希望に満ちた世界を生きていても、物質として壊れたら全部おしまい」という事実を見せつけるところから始まるのが、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の特色なんだ(いざ字に起こすとひどいね)

魂として天界をさまようカナコは、また4人で集まりダンスがしたい!という強烈な欲望を持っている。
しかし、転生を拒み、肉体を持たずにいる以上、現実世界において再びその願いを実現させることはできない。
だから、カナコは<非現実としての夢>の世界を仮構し、そこに他3人を呼び込んだのち、<欲望としての夢>を実現しようとする。

見ての通り、それなりに倒錯的なことを試みている。
だから、何らかの事由をもって現実から引き剥がされた者たちにとって、「夢はいかにしか可能か?」という問題と格闘する物語になっていると思う。

ここまで語っておいて何だけど、作品自体は、至って明るい。
たとえば宮崎駿アニメ作品も、つねに死を重要なファクターに据えつつ、子どもたちの鑑賞に耐えうるように。
この舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』も、ついこないだ、子どもが泣いたり大声を挙げたりしてもOKなファミリーデー公演が設けられ、終演後には、子どもたちがドゥユドゥユドゥユドゥユワーナダーンス?ってロビーや帰り道で踊っていたという話があるぐらいなんだよね。

作品のざっくりした輪郭はそんなところか。

(続く)

2016-11-21

【NY】ももいろクローバーZ 「アメリカ横断ウルトラライブ」感想(4/4)

11/19
NYでは朝から昼過ぎにかけて、MOMAに行き、長年書籍でよく慣れ親しんできた近代美術の数々を生で鑑賞した。

下記のツイートにある現地の人たちの感動を、俺は美術で味わってきた。




会場のプレイステーションシアターには、14:30ごろから並び始めた。

開場すると、空港の搭乗時よりも厳しいセキュリティチェックが行われる。
俺の前の女性は、リュックの中の化粧ポーチからメガネケースまで中身を開けてチェックされていたし、セキュリティのスタッフはモバイルバッテリーを手にこれは何だ?安全と判断して良いのか?と数秒フリーズしていた。それぐらい一点一点を吟味している。
(でもモバイルバッテリーの存在は知ってろよと思った)
巨大ビルを飛行機2機で破壊された都市の荷物チェックは、ノコギリで襲われた日本のアイドル業界のそれとは綿密さが違う。

長い荷物チェックの並びを抜け、フロアに入ると、アリーナに相当する最前スペースが5列分ぐらいまで埋まっていた。
その後ろにある二段目のフロアがガラ空きだったので、そこの最前中央を取った。
ステージとほぼ同じ高さで、何にもさえぎられず、まっすぐパフォーマンスを見ることができる。
遅く並んだ割には、かなり良い位置が取れたと思う。
後になって知るが、この場所は上下左右すべてにおいて中心部なので、ステージ上のメンバーが会場中央に目を配るとき、「うわっ、こっち見てる!」という錯覚を毎分味わえる。

VIPイベントの写真撮影時、この日も三度目の幸運に恵まれた。
撮影の自ブロックにおいて、最前列のうちの一人になった。
壇上に上げられる前に、あー、嬉しいなぁと思っていると、ほかのファン同士が推しの真後ろに行けるよう急いで位置交換を行っていた。
あーりんは奥から2番目なので、れにちゃん推しの人が、しおりん推しの人が、夏菜子推しの人がバトン渡しのように俺を前へ前へと通してくれた。
壇上に並び終わり、一番前にメンバーが座るとあーりんは俺のやや斜め前になった。

こんな具合。
黒が俺で、濃いグレーが後で話に出てくる夏菜子推しの人。
f:id:ganko_na_yogore:20161122011736j:image

俺を気遣い、奥に回してくれた夏菜子推しの彼のほうがあーりんに近い位置になった。
彼が俺に、すみません!と言う。
いやいやいやいやいやいや、これでも十分幸せですよ!と言ったら(50cm先の有安さんのうなじの美しさに見とれていたし)、彼が前を向いて「あーりん!」と叫んだ。
最前にいるあーりんがパッとこちらを振り向く。
夏菜子推しの彼は、ここにあーりん推しがいるよと俺を指差す。
あーりんが俺を見て、なーにー?と聞いてきた。

ここまで2秒ほどの出来事である。
幸運はつねに試練の形で与えられる。

あーりんに何て答える?
いや、というか、もうあーりんが俺を見ている。
フリーズするぐらいなら何でもいいから何か言わなければ!!!

と0.5秒で思い詰めた自分が発した言葉には、自分自身、驚いた。

「どうも!」

あーりん「なにが!?笑」

俺は年内をめどに死んだほうがいいな、と思いつつ、しかし反省している暇はない。
慌てて頭を仕切り直し、本当に言いたいことは何だろうと考え、「何があっても一生ファンでいます!」と言った。
撮影が控えているので、あーりんは前に向き直しながら、「あはは!うれし〜」と言った。

最後、お見送りで並ぶメンバーの前を、一列ずつ壇上の客たちがはけるときに、あーりんの前を通ると、あーりんが俺のことを覚えていてくれたのか、あっ、と気づいた顔をして、あらためて「ありがとね〜♪」と手を振ってくれた。

舞台袖にはけた瞬間、夏菜子推しの彼に、腰が鋭角になるほど頭を下げ、ありがとうございます!!!と礼を言った。
前後にいた他のあーりん推しの人たちも、やったじゃないですか!!と興奮気味にハイタッチを求めてきてくれた。
こんなに素朴にキラキラしたファン同士の交流をするのは初めてだった。
(恥ずかしいので、いつか彼らと別の現場で再会したら、申し訳ないけど死んでもらおう)

たった数分であれ、あーりんが俺の顔を覚え、俺のことを気にかけてくれた。

真面目に言うが、俺はもう一生ライブやイベントでの席運、つまり"近さ"に恵まれなくてもいい。
何ならチケットにまったく当たらない呪いにかかっても、そんなことはももクロファンをやめる理由に何ら値しない。

元から一生ももクロファンでいると自分の中で誓いを立てているが、それをあーりんに明言した。
俺はあーりんより14歳年上だから、あーりんが80歳になったとき、94歳のファンでいよう。
いつか遠い遠い未来、あーりんが天国に召されるとき、マホロバケーションのMVにある天界のライブ会場で、ピンク色の魂の一つとして先入りし、開演時間を待ちわびていよう。

以上は自慢話だろうが、しかし書いた意義を説明したい。
形態はどうであれ、俺に限らずメンバーの姿形を真近で見て、ときに言葉を交わし、多幸感に包まれたファンはたくさんいる。
たとえばアメリカの人たちは、OVERTUREの練習会を終えて、壇上から降りるとき、メンバーにハイタッチのお見送りをしてもらっている。
ファンが感涙を流す場面は、会場ごとに何度も繰り返された。
この撮影会では俺だけが特別な思いをしたのではない。
それだけ神イベ(アイドル業界用語)だったのだ。

この多幸感に包まれた観客たちが、VIPイベントを終え、1時間先に控えているライブに臨むとき、自分たちは命を捧げるように今日を楽しもうと心に誓う。
その素地は、これまでのライブ本編を、一般チケットで入ってきた人たちも歓喜の渦に巻き込む空間にしていったことに大いに作用している。

プレステシアターの一般入場が開始しても、例のセキュリティチェックのおかげで少しずつしか人が入ってこない。
それでもわかるのは、ニューヨーク一般チケットは、本当にももクロを知らない、あるいは名前しか知らないレベルの人がかなり多くいる。
服装や立ち振る舞いが、見るからにふつうの、オシャレで遊び慣れしてそうなニューヨーカーたちなのだ。




VIPイベントの終わりに川上マネージャーから説明された通り、VIP320枚に対し、一般は700枚売れたと言う。
おそらくハワイもLAも、一般入場よりVIPのほうが多かったと思うが、NYは一般VIPの2倍にまで上回った。
ハワイとLAで"ヤラれてしまった"アメリカ人たちの口コミの力とスピードはおそろしい。
最低限通路にすべきスペースを残すと、プレステシアターのフロアはほぼ満員になった。

ハワイやLAと同じく、これまでどおりパフォーマンスをすれば、初見の人たちでも何ら問題なく楽しませられることは確信していた。
場所によって手の抜き方を考えるようなグループでないことは知っている。
それでも、他の2会場に比べて、すでにももクロの楽しみ方を知っている人とそうでない人の比率において、NYは後者に寄っている。

ハワイが熱狂と叫びの空間で、LAが幸福に満ちたラウンジだったとしたら、NYは最後に来て"挑戦"だった気がする。

開演時間の8時を過ぎても、現地の人たちがライブに臨むためのグッズを買おうとしている(嬉しいじゃないかさ)のを待つと、ずいぶん遅れての開演になった。
『さくらさくら』の舞いから始まり、『夢の浮世に咲いてみな』『MOON PRIDE』の冒頭曲を聴いているとき、ふとホノルル空港に降り立ってからいままでが随分長い道のりのように思えてきた(思えばずっとせわしなく動き回ってきた)。
アメリカツアーで聴けるこの奇跡のような『夢の浮世』も『MOON PRIDE』も、もうこれが最後なんだ、と思うと、VIPイベントでの多幸感も入り混じり、涙が出てきた。

ニューヨーカーたちは、会場内のただならぬ盛り上がりに、なんだこれは?と初めは驚いた様子だったが、やはり文化的に洗練された人たちだからか、初めてのアイドルライブを楽しもうと順応に努めていることが見て分かる。

初見の彼らはコールなど入れようがないが、ノリノリに体を揺らしていたり、キャッハーと笑顔だったり、なんだこれは?楽しいぞ!となっている様子が二段目のフロア最前からよく見渡せる。
この客席を目にできることも、ツアーに参加した大きなバリューだと思った。

アンコールになり、田中将大応援曲『My Dear Fellow』が歌われた後、矢継ぎ早に怪盗少女につなげられたとき、会場全体が"プッツン"した気がする。
ニューヨーカーももクロの既存ファンたちが溶融し、ハワイやLAと何ら遜色ないレベルの歓声やコールが沸き起こった。

続く『ニッポン笑顔百景』でアンコールが締めくくられたとき、これで終わりだと思ったニューヨーカーたちが出口に向かい始める。
しかし、ダブルアンコールが響き出した瞬間、多くのニューヨーカーがフロアに戻り、最後の一曲を見届けることを選んだ。

メンバーがダブルアンコールに応じて現れたとき、夏菜子が「また来年もここに来れるよう、私たちはこれからも駆け抜けていきます。その思いを込めて…『走れ!』」と(俺の記憶では)言った。

4月にこのアメリカツアーが発表されたとき、企画のコンセプトは正直よく分からなかった。
というか、おそらく運営側もそんなにカチッと考えていない気がして、ファンブラックボックスの中身を考えるのはくだらないと思っていた。
俺はただ盲目的なファンの一人として、単に「やるなら行こう」と思った。

このライブがアメリカ横断ウルトラクイズ様式を踏襲しているとおり、ももクロアメリカ進出させるというよりも、日本人をアメリカに連れて行くイベントだと川上マネージャーも何かの折に発言していた。
つまり、ある種、日本人による内向的なアメリカ旅行付きのライブであると。
しかし、ハワイ、LA、NYを回って実感させられたのは、日本人たちが思う以上に世界はももクロに開かれている、ということだった。

『走れ!』が歌い終わったとき、すべてやりきった感に包まれた。
これでアメリカツアーは完全に終わった。
客出しのBGMが『あの空へ向かって』から別の音楽に変わった後も、「世界のももクロNo.1」コールが継続している。

ももクロはおそらく、夏菜子や川上マネージャーが示唆したとおり、来年もアメリカでライブを行うだろう。
もっと長い目で見れば、ヨーロッパツアー、アジアツアーもいずれ行うと思う。
たとえば2015年福岡ヤフオクドームでライブをした翌年には、ドームトレック2016で全国のドーム・スタジアムを回ったように。

このアメリカツアーは、これから先の展開を自ずと予感させられる形の成功を収めた。
それはどの都市で何人動員したといった量の問題ではない。
行く先々の都市でアメリカの人々に聖痕を刻み込んだ、という質的な意味で成功を収めている。
それを見届けることができた。

また次も行こうと思う。

NYのライブが終わったとき、会場内に寂寥の念は感じられなかった。
終わったのでなく、ここからが始まりだという兆候的な予感に満ちていたことを、ありありと思い出す。

【LA】ももいろクローバーZ 「アメリカ横断ウルトラライブ」感想(3/4)

アメリカツアー三箇所とも演出セットリストに大きな違いはない以上(※)、ハワイの感想が大枠をすでに果たしている。
LAとNYは、差分を主に語る。

※今回の演出セットリストが練りに練り上げられた解であることは、ハワイの感想に書いたとおりよくよく実感している。回ごとの大差はないことは必然的である。

===
11/17 LAでは、朝早くから会場のWilternに並ぶことにした。
(といっても、朝8時から並び出してすでに40番目ぐらいだったときは食欲を失った)

理由は以下のとおりだ。

・LAの行きたい観光スポット(ゲッティセンターとハンティントンライブラリー)はどれも距離が遠く、時間消費が激しい
・LAは温暖気候なので、長時間動かなくてもそれほどつらくならない
・三箇所のうち、一つぐらいは「前のほうで見る」を体験しておきたい

並んでみて実感したのは、アメリカの人たちは「ライブ会場に並ぶ」ことのルール付けがけっこう緩い。

チケット種別であるgeneral admissionをGoogleで調べた時点で知っていたことだが、アメリカは整理券を配るという文化があまりなく、ライブなどで良い位置を取りたければ好きなだけ早く並べばよい、といった考えが基本にあるらしい。
人気公演なら10時間待ちする人など、まあいるだろうね、のレベルだという。

また、日本では並び方一つで近隣施設からクレームが来るが(それはしかるべきクレームだと思うが)、アメリカでは道や出入口を完全に塞ぐなど、あきらかに実害的でない限り、あまり誰も文句を言ってこない。

事実、早くから並んでいるLAの人達はけっこう大きい木製の長椅子を持ってきているし、並んでいる人たちが一箇所に集まり歓談し、歩道の半分ぐらいを塞いでも、いまだ誰それと揉め出す気配はない。
(俺が気づいていないだけかもしれないけど、目立つレベルのことはなかったはず)

俺も14時になりホテル(会場から徒歩1分)のチェックイン時間になったときや、飲み物を買いに行くときには、ちょくちょく席を外す程度の緩さで行列に参加した。
(みんな、ここは誰それの場所だと互いに覚えあっている)

俺は基本的にモノノフとの横つながりは作らない人間だが、たまに会場や行列で隣の人に話しかけられれば、礼節をもって明るく世間話ぐらいする。

LAでは特に行列中、いろんな人が自分の並び位置を離れて話しかけてくる。
行列が一種の社交空間になっていた。
ファン同士による食べ物の差し入れや自作グッズの配布も回数がとても多い。
この社交性は、ハワイとはあきらかに違う部分だと思った。

れにちゃん推しのおじさんに話しかけられ、彼に聞いた話では、前日50人ほどの現地のももクロファンによるオフ会が開かれたらしい。
現地人のもよおしといっても、コネクションさえあれば、日本からやってきた人もどうじょどうじょと招かれる場だったという。
(そのおじさんも参加したそうだ)
前日のオフ会で会った人たちが、翌朝Wilternの行列で、やあやあ、と再び顔合わせする。
いわばオフ会のリレーションがそのまま移植されたのが行列の社交空間だった。
(と話を聞いて理解した)

ポカポカした気温と、たまに人に話しかけられるおかげで、開場までの8時間をそんなに長くは感じなかった。

LAでは、開場後、VIPイベントの写真撮影タイムにおいて、脳が溶けるような幸運に恵まれた。
Twitterに一度書いて、品性に欠けると思いすぐ消したが、ブログくんだりまで見に来るやつには何を書いてもいいと思うので、もう一度ここに記す。

写真撮影で50〜60人ごとのグループに分けられるとき、目の前で、はい、いったんここまでと俺のところで切られ、自ずと次の自ブロックの一人目になった。
誘導された位置はこんな具合だった。

f:id:ganko_na_yogore:20161122010759j:image

メンバーが全員1m以内にいる。
かつ撮影のグループ全員が整列を終えるまで、ずっとメンバーはこの位置にいる。
近いし、長い。
ふだんのライブと比較すれば、顕微鏡で覗いているように感じる。
予期せぬ位置への誘導とメンバーの近さにより、俺は完全にこの位置で驚いた顔をしていた。
れにちゃんが手を振ってくれた。
振り返すと、れにちゃんは俺の驚いた顔に苦笑した。
あーりんに手を振ってみた。
振り返してくれた。
あーりんにも同様に苦笑された。

恐ろしいことに気づいた。

この距離ではメンバーに手を振ったりした場合、ほぼ確実に何らかの反応をしてもらえる。
メンバーのパーソナルスペースに漸近しているため、彼女らにとってスルーできる距離ではないのだ。
ふだんこちらがライブ中、イベント中にメンバー名を叫んだり手を振るとき、それはあくまでも存在肯定の身振り手振りであり、そこにキャッチボール性は期待していない。
だからこそ、一方的に好きなだけ手を振っていいし、名前を叫んでもいい。
しかし、ここでは勝手が違う。
メンバーがしっかり反応してくれるから、俺が好きなだけ手を振ったり話しかけたりすれば、それだけメンバーの時間を奪い、果てはイベントの進行を妨げる。
なんていうことだ…。
ここではファンとしての身振り手振りに責任が生じる。
("責任"だけ背景に岩文字で)
そう思った時点で動けなくなった。
何ならジロジロ見つめるだけでも、怖がらせてしまいそうだ…と思った。
じゃあ、どうすればいい?
アイドルを前に悠然とすればいいのか?
憧れのアイドルを前にして悠然とするファンって何だ?
それも違くないか?
何か模範例はないか?

ももクロ以外のアイドルの握手会などで、憧れのアイドルにフランクに笑顔で話しかけるファンの姿を思い浮かべた。
あれも実はダウンタウンと共演する芸人たちみたいに、はつらつとしているように見えて裏ではゲロを吐くぐらい緊張しているのかもしれない。
一種の強さとして、アイドルと相対するとき、笑顔でいるのかもしれない。
そう考え、笑顔にした。

あれ?
しっくりきた気がする。

なるほど、こうか!!!!!!!!!!!

人は極限に立たされたとき、1分間で成長できる。
いつかこの日を思い出してきっと泣いてしまう。

LAのライブの盛り上がりは、相変わらず凄まじいものだった。
横から見た場合の会場の作りは、だいたいこんな形だった。

f:id:ganko_na_yogore:20161122013529j:image

二階席がある。
一階席は(この規模の会場では本来使わない言葉だが)深く沈んだアリーナと、階段状になったスタンドがある。
こうしたRepublikとは異なった階層的な会場の作り、さらにそもそもステージがけっこう高めなことにより、ステージ上のメンバーが見れない人はそんなに発生してない(と思う)。

ハワイで発生した圧縮は、LAでは起きなかった。
ファンたちはメンバーを視認することさえできれば、前へ前へ押し寄せることはない。
また、Wilternは天井が高いため、人の体温によって会場内が蒸れて、すえた空気になることもない。
Republikにあった野生的な熱狂は、あの建物の作りも大きく関係していたことに気付かされた。

だからといってLAのライブの盛り上がりは、ハワイに見劣るものではない。
ギラついたスラム感だけが抜けていると言えばいいだろうか。
さらにLAは先述のとおり、客同士のリレーションがかなり高度に構築されている。
ハワイでの盛り上がりはそのままに、この会場内が国籍を問わず、まったく一つの幸福圏であるような柔らかみがあった。
ダブアンまで終わったとき、外国人たちは歓喜の声を上げ、自分たちはとんでもないものを見たという驚きに包まれた顔をしている。
俺の近くにいた現地の人は、モモカー!!!!!モモカー!!!!!と目を見開いて繰り返し咆哮していた。
この幸福感と驚き(情報処理が追いつかない)がないまぜになった彼らの様子に、既視感を覚えた。
Twitterにも書いたことだが、2011〜2012年ごろ、ももクロのライブやDVDを見た人たちがかかった熱病に近い。




ここにいる現地人の彼らは、次またアメリカでライブをやるなら、万難を排して来るだろう。
またそのとき、身近な"感染者"を引き連れてくるだろう。
そんな楽観的なことを抵抗なく考えてしまうのは、「この高揚」の次に何が起きるのか、を過去すでに経験して知っているからだ。

===
最後に些細なことだけど、地味に驚いたことが一つある。
『キミノアト』の歌い方が音源寄りに戻った。

ハワイでは、
旅立つたぁ↑めにぃ↓
無理にかくぅ↑したぁ↓
というこぶしの入った歌い方がされていたけど、LAをもって(次のNYでも)フラットな音源寄りの歌い方に、数年ぶりに戻っていた。

一部の人はキミノアトのこぶしの入った歌い方を忌み嫌っているが、俺はそれほど気にならない。
歌い方がむかしに戻ったことに、単純に「へー」と思ったので、ここに書いたまでと強調しておく。

(ずっと音源を親しんできた現地の人たち向けに、ツアー中に限り音源寄りの歌い方を選んだ、という可能性もあると思う)

【Hawaii】ももいろクローバーZ 「アメリカ横断ウルトラライブ」感想(2/4)

11/15 14時ごろ、ホテルにチェックインし荷物を置いたら、ペンライトとiPhoneモバイルWi-Fiだけの身軽な格好で(すなわちそれを手に握っただけの全裸の状態で)ハワイのライブ会場であるRepublikに向かった。

途中、Twitterで人様のつぶやきを検索し、開場前の行列模様を確認すると、みんな会場の外壁に背をつけ、座って列をなしている。

昼食をまだ摂っていなかったので、座った並び方ならモノを食べやすい環境だろうと思い、道すがらのダイナーでオムレツプレートを購入した。

行列の最後尾に到着すると、みんな立っていた。
泣いた。

地べたに座れるのは朝早くに並び、会場の真近に位置できた人たちの特権であることを知った。

それでも買ってしまったものは仕方ない。
オムレツプレートを開いた。
立ったまま左手にプレート、右手にフォークで食べようとしたが、なぜかフォークでオムレツを断ち切れない。
オムレツの底部にカリカリのベーコンが敷き詰められていることに気づいた。
フォークを左手、ナイフを右手に持たないと食べられない。

恥ずかしいが行列の中、座って膝にプレートを乗せ、優雅にフォークとナイフでオムレツを食べ始めた。
恥は、旅に出れば少なからず湧いて出る粕である。
「まあ、知り合いはいないし」の精神だったが、後ろから「すみません、ここは空いてますか?」と尋ねてきた人の顔を見て吃驚仰天した。




なぜ人が好きなアイドルグループのライブに来たときに、
その行列の最後尾でフォークとナイフでオムレツを食べているときに、
ももクロファンという伏線など一切なかった昔の同僚が、
よりによってハワイという数限られたファンしか来ない場所に、
しかも行列の真隣に、

現れるかなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

と根源的な問いを神に発した。
心の中で響いてきた神の答えは「プゲラ」だった。

何より、お互いあーりんの担当カラーであるピンクのTシャツを着て、推しかぶりアイドル業界用語)をしていることも何となく気まずかった。

もともと当時の部署は異なり、気心の知れた仲ではなかったので、互いに一瞬、下からライトを当てられた顔で瞳孔を開かせただけで、見知った仲という体での会話は発生しなかった。
以降この人は、ライブの感想に(および俺の人生に)登場してこない。

===
16:50

開場し中に入ると、日本で例えれば、リキッドルーム程度の箱だった。
前もった噂ではRepublikは1500人のキャパシティと言われていたが、直に立った感想では、たぶん500人も入らないんじゃないか。
(でも俺は測量士ではないので、この感覚に根拠はない)
最前列とステージの間には、1mの距離もない。
6万人のスタジアムを埋めるももクロのライブを、こんな弁当箱の中で見れるのか?という驚きに入場一番で包まれたファンは多いだろう。
後方にラウンジもあるので、おそらくライブハウスだけでなくクラブの機能も有している。
廃墟のような外観から察するに、ここで日ごろドラッグ闇金の受け渡しなどが行われている可能性は60%ぐらい見積もってもよいと思った。

ほどなくVIPチケットを購入した人たち向けのイベント(meet & greet)がスタートした。
内容は割愛する。
VIPチケットを買った人間に絞られている場なので、運営サイドが内容の一般公開を自明と見なしているか定かでないからだ。
むろん、そんなにキリキリ言われることもないだろうが、そもそも他の人が俺より上手にレポートしてくれる。

VIPイベントが終わると、本編のライブ開始まで1時間半、フロアのその場で待たなくてはならない。
(休むためにフロア外に出れば、せっかく得た好位置を失うことになる)
なにぶんフロアはぎゅうぎゅう詰めなので、床に尻をつけて座ると周りの面積をいくぶん奪うことになる。
本当に耐えられない人だけが腰を落とし、だいたいの人たちは立ちっぱなしという状況になっていた。

あいにく俺は元々腰が弱いほうなので、途中で耐えきれず、尻をつけず膝を曲げて体を落とす座り方をした。
その瞬間、真ん前の人の尻が俺の顔とキスできる距離にある状態でブーーーーーと屁をこいてきた。
漫☆画太郎作品で屁を浴びた人たちがよく言う「くせーーー!」「目にしみるーーーー!」が頭の中で再現された。

この屁は偶然だろうか。
もし、座ることのマナー違反に怒りを覚えた彼が、たしなめる意図をもって屁を放ったのだとしたら俺にはとても耐えられない。

19:45ごろから、開演前をしめす和楽器のBGMが流れ始める。
観客たちの期待がふつふつと高まっていく。
20時きっかりになっても、まだ始まらない。
そんなのはよくあることだし、別に責められる話ではないが、狭い空間で長時間まだかまだかと待ちわびてきた観客たちは暴発寸前といった趣きで、推しのメンバー名を叫び始める。
これは場を盛り上げるための歓声というよりも、咆哮に近かったと思う。
熱気も、イキフンでなく、物理的な気温のほうの意味で高まっている。
腕を持ち上げてみると、頭上にこもった熱気に火傷しかけた。

開演した。

童謡の『さくらさくら』に乗せて、華やかな着物を着た花柳社中(と後で知る)の二人が舞いをする。
舞いの片手には、花をたっぷり実らせた桜の枝を持っている。
『さくらさくら』のメロディが一巡すると、曲にビートが乗り、ピッチが上がり、ついにステージ上に、キラキラの光沢を帯びた着物に包まれたももいろクローバーZの5人が現れた。

※衣装はこれ
f:id:ganko_na_yogore:20161122010225j:image

美しい。
本当に美しいと思った。
黒を基調とした暗い空間の中で、メンバーの5色がミラーボールのような輝きを発している。
美しいと言っても、見とれる類の受け止め方はされていない。
フロアの観客たちは、美しさに絶叫した。
ライブの開演時によくある、フーーーや、イエーーーーではなく、

男「うあ゛ーーーーーー」
女「かわい゛い゛い゛い゛ーーーーーー」

といった、語尾に濁点のつく叫喚がほうぼうから聞こえてくる。
あの空間では、頭をかきむしる、正気を失う美しさだった。

『さくらさくら』に合わせて、れにちゃん、ももか、しおりん、あーりん、かなこの順番で並びから一歩前に出て、桜の枝花を片手にひらりと舞を見せる。
観客たちに"メンバーの実在"を教えてくれる。
『さくらさくら』が流れ終えると、スポットライト外に一度下がったメンバーたちが着物を脱ぐ。
より身軽な桃神祭2015の衣装になったところで、メンバーはステージ前面の位置に着き、座る。
そして『夢の浮世に咲いてみな』のイントロが流れ始めた瞬間、フロア中に甲高い歓喜の声が上がる。

脱いだ着物は、もうこの先では現れない。
言うなればライブの冒頭で、美のためだけに(自律的な美として)用意されたものだった。

今から振り返ると、だいぶむかしに読んだ中井正一美学入門』で紹介されていた古代中国守衛の話を思い出す。
冬の城門を見張る守衛は、その場を一切動かず、外敵が潜んでいるかもしれない地平の先をじっと見据える。
何時間も動かないから、彼の鎧は、全身が霜で凍りついていく。
守衛の交代時間を迎え、彼が務めをまっとうし、その場を動く瞬間、鎧をまとっていた氷がシャンシャンと光り輝きながら地面に落ちていく。
この氷の輝き、「耐え忍んできた人が身軽になるときの輝き」が、古代中国の美の理念型として語り継がれていたと言う。

開演直前のRepublikを包んでいた暴発的とも言える興奮は、よくも悪くも、観客たちにかけられていた抑圧に起因しているだろう。
開演まで長時間立ちっぱなしだったことだけに絞った話ではない。

ここにいる人たちはハワイまで来た。
そのために慣れない言語に何度も触れてきた。
固い意志と煩雑な手続きをもって、はじめて到着できる土地である。
現地の人たちは、会場のアクセスに優れているが、もっと深刻な抑圧にさらされてきている。
すなわち、「ずっとこのときを待っていた」。
こうした抑圧が、ももクロが身にまとった着物の輝きによって、そして早々に脱ぎ捨てられ身軽になることによって浄化されていく。

ファンたちがハワイに来たのは何のためか。
ももクロのライブを見るためである。
しかし、ライブにたどり着くまでの過程が長いから、美味しい食事や観光など、その他の目的が次々と付随し始める。
ももクロだけじゃなくて、観光も楽しみだな☆」と思う。
それはおそらく正しい。
なのに、ライブが始まるとき、みぞおちに走るざわつきとともに、いや、やはり自分たちは"これ"が目的だったのだと気づく。
ここに向かうまでのあの楽しい時間の過ごし方は、実は、ずっと"これ"の待ち方の変奏だったのだと自覚する。
そして、ついに"これ"すなわち、ももクロのライブのときが来た。
その気づきと喜びに咆哮する。
爆発する。

『夢の浮世に咲いてみな』のイントロが流れた瞬間、フロア内に圧縮が起きた。

観客たちが前へ前へと押し寄せ、その力が少しでも弱い人間は後ろへと逆流させられる。
俺は、ももクロの小さい会場のライブにこれまで一度も当選してこなかったので、初めての圧縮体験だった。
一度上げた腕を肩より下にさげられない。
前の観客たちの腕が林のように生い茂り、その隙間からしかステージ上のメンバーを見ることができない。
よくアイドル好きの人たちが、現場を自嘲し「オタクは臭い」といった話をするが、俺は運が良いのか4年ほどももクロのコンサートに行く中で「うわっ、くせえ!」と思ったことは一度もない。
しかし、この日のRepublikは臭かった。
ファンたちが圧縮で互いの汗を交換する。
ふだん運動しない人間同士が皮下に溜め込んでいた老廃物をミストのように吹き付け合う。
本当に臭い。
なのに、涙が出そうなほど熱狂している。

リンクは失念したが、どこかで見かけたツイートによると、二曲目『MOON PRIDE』で、コールの勝手を知らない現地の女性が盛り上がりすぎて、アアアアアアーーーーッッッッと叫んだと言う。
ただ直情的に叫ぶのは、あの空間の特徴をよく表しているなと思った。

尋常を逸した興奮と、アイドルの現場の勝手をそこまで知らない外国人たちが加わること、この二つによって観客たちの姿勢に変化が生じた。
つまり、ライブ中のコールや歓声が、プロトコル共同体の成員認定をし合うための立ち振る舞いルール)でなく、情動の発露という原始形へと揺り戻されている。
(ないし、あの場ではプロトコルとしての要素が徹底的に希薄化されている)
叫びは、情動発露の最小単位だった。

「現場の雰囲気」の話はここまでにする。
演出の話に移る。

今回のセットリストおよび演出は、日本の四季を表現したものである。
アメリカツアーの演出家を担当したあーりんが直接そう言っているし、ライブ中の英語ナレーションでも、季節パートが変わるたび説明されている。

セットリストに対する季節の区切りかたは、たぶんこうだろう。

さくらさくら
夢の浮世に咲いてみな
MOON PRIDE
マホロバケーション
キミノアト

ココ☆ナツ
ワニとシャンプー
ももいろ太鼓どどんが節

ムーンライト伝説
Zの誓い
ザ・ゴールデン・ヒストリー

空のカーテン
サンタさん
あの空へ向かって

  • アンコール

LinkLink
行くぜ!怪盗少女
ニッポン笑顔百景

  • ダブルアンコール

走れ!

※LAとNYでは、『LinkLink』が『CHALA-HEAD-CHALA』に差し代わっている。
※NYではアンコールに、さらに『My Dear Fellow』が追加されている。

『マホロバケーション』の後、メンバーが一度はけると、花柳社中の踊り子が番傘を用いた舞いを行う。
舞いながら傘を一つずつ、計5つをステージ上に置くと、再びメンバーが現れ、その傘を持って『キミノアト』が歌われる。
確かにこの曲の歌詞には「入れてくれた傘のようにやさしい色をしてた」とある。
また『キミノアト』は「旅立つ君」に捧げられた曲であるから、卒業シーズンである春に位置付けられるのだろう。
("早見あかりのことを歌っている説"を引き合いには出したりしないからな)

今回のツアーでは、ヒダノ修一の和太鼓パフォーマンスも掛け値なしに素晴らしかった。
曲の合間に現れ、和太鼓の超絶技巧ソロを披露する。
用いる楽器は和太鼓だが、残響を伴わせながら乱反射的な打楽器音を響かせるという点で、ジャズドラムの披露に近いと思った。
ヒダノ修一はセットリスト内でも『ココ☆ナツ』や『ももいろ太鼓どどんが節』に演奏で参加する。
そのとき、和太鼓にマイクはつけられていない。
メンバーの歌声やトラックはスピーカーから出力されるいっぽう、和太鼓は生音で並走し、会場内の低音に厚みを与えている。
特に『ももいろ太鼓どどんが節』では、メンバーたちも「ももクロ和楽器レボリューションZ」で身につけたスキルを活かし、ヒダノ修一含め計六人で和太鼓を披露した。

『ザ・ゴールデン・ヒストリー』で収穫の秋が歌われた後は、メンバーがはけると、花柳社中の二人が大きくふわふわした羽衣のような布をたゆたわせ、舞う。
その布が舞い上がった下をくぐり、メンバーたちが現れると「冬が来た」ことを曲中最後に告げる『空のカーテン』が歌われる。
(おそらく、ひらひらした布は「カーテン」から連想されたものだろう)

例示が長くなったが、つまり幕間の演目一つひとつは、ライブそのものと溶融するように関わってくる。
幕間は、流れをリセットするためのものでなく、逆に、流れ(季節)を途切れさせず次にパスするためのものである。
あーりんは以前、月刊TAKAHASHIの演出について、セトリの曲すべてその配置に意図があるから、ファンのみんなも読み解いてほしいな、とすごいことを言っていた。
賑やかな曲目の水面下で、論理的な連綿を潜ませるというあーりんの演出方法は、アメリカツアーでも踏襲されていた。
むしろ、その形式において、完全に次のレベルに達していることを見せつけてくれた。

アンコールを除いた本編最後の『あの空へ向かって』は、『キミノアト』とは対象的に、「光きらめく明日へ ぼくらは道を進むよ」「希望信じて進めば、どんな壁も乗り越えられる」と、不安な向こう側へと旅立つ自分たち自身に捧げられた歌である。

『キミノアト』が卒業していった後の話であるから春に位置付けられるいっぽう、『あの空へ向かって』はこれから旅立つ卒業前の、冬の終わりに位置付けられる。

(話を逸らすと、不安に溢れる外界であっても光の差す方向ならそこに向かわなくてはいけないという決意は、『WE ARE BORN』の胎内から出るくだりの歌詞でも歌われている。『あの空へ向かって』がももクロの始まりを歌ったように、『WE ARE BORN』も、ももクロ第三章の始まりを歌った曲だった)

一年を終え、世界が配置を変えていく「卒業」というモーメントを、冬(あの空へ向かって)と春(キミノアト)で挟み込むことで、あーりんが組んだセットリストは、終わりが始まりであるような循環的な構造を実現している。

あーりん推しにとって、このライブはとても幸せで、かつモニュメンタルな時間だった。
あーりんの知性を一生かけて追っていきたい。

この完成された本編を終え、アンコールに移ったとき、次はコンセプトにとらわれない軽やかな時間になる。
続くダブルアンコールは完全な自然発生だった。

ファンにとってダブアンは背徳的である。
予定時間の範囲内で余力を残さず出し切ってくれているメンバーに対し、酷な身体的負荷を与えることになりかねない。
また、すでに会場の時間制限ギリギリまで上演してくれている場合、ダブアンはおもちゃをせがむ子どものわがままになる。
だからこそ、メンバーが満面の笑顔で現れ、「ダブルアンコールありがとうございました!」と言われたとき、まず深い安堵を覚える。
そして本当の最後の曲として、「走れ!」と言われたとき、その安堵を受け継ぐように、気持ちは歓喜に変わっていく。
笑顔が止まらない。

すべてが終わったとき、圧縮と高揚で、もう全身バラバラになるような疲労感に襲われていた。
しかし、疲労感は自覚されず、こんなに幸せな空間があるのか?と驚きに頭は支配されている。
その驚きを友人知人同士で確かめ合う興奮した声がほうぼうから聞こえてくる。
そこには英語も飛び交っている。

後ろにいたハワイの女性は、目を見開き、あーーあーーあーーと、もはや無国籍喃語を発していた。
このライブを見たハワイの人たちは、もう決定的に、不可逆な一種の楔を打ち込まれるように、ももクロが好きになるだろうと思った。
そう確信させられる歓声と熱気だった。

ももクロアメリカツアー初日、ハワイ公演は成功した。

【はじめに】ももいろクローバーZ 「アメリカ横断ウルトラライブ」感想(1/4)

さる4月2日、ももクロはドームトレック2016千秋楽西武ドームday1で、ハワイロサンゼルスニューヨーク三箇所によるアメリカツアーを今年11月に行うと発表した。
この発表を西武ドームで聞いたとき、「あー、ついに来たな」と思った。

元々こういうツイートをしていた。




ももクロはよく知られるとおり、2010年冬に日本青年館で単独ライブを行って以降、回を重ねるごとに動員数を倍に倍に増やしていった。
そのピークは2014年夏、日本最大の会場である日産スタジアムを2日間使用したことで迎える。
(動員数の倍々ゲームにおいて、よく国立競技場が一つの到達点と見られるが、単純に量の観点から見れば、決定的な楔が打ち込まれたのは国立の次に行われた日産スタジアム2daysなはずだ)

これ以上の大きなキャパは用意できない。
GLAYの20万人ライブのように広大なサラ地を野外会場にするような力技を行えば話は別だろうが、それは設備構築の予算がちょっとした街づくり並みに膨れ上がり、どれだけ動員しても破壊的な赤字を避けられないため、多くのアーティストたちにとって現実的な手段ではない。

首都圏にある万単位の会場をグルグル使い回し、人気の上昇に合わせて開催日数を増やしていくという方法もなくはない。
しかし、2015年からは、むしろ会場のアクセス性によってキャパ問題を調整するということが行われてきた(と思っている)。
つまり遠い会場、行きにくい会場を選ぶことによって、購入のニーズを抑えさせるという手法である。

以上のように書くと聞こえは悪いが、遠くてもなお本当に見たいと思う人にチケットが行き渡るよう苦肉の配慮がされたということだ。
また、(もっとも効果的なロケーションである)関東圏を中心に人気を確立したももクロが、次は地方の人たちに会いに行くという極めて正当的な順序を踏んでいるとも言える。

地方による大型ライブを順に書くと、

2015年福岡ヤフオクドーム
→初の関東外のドームコンサート。
福岡空港および博多駅からのアクセスはよく、博多という土地柄、ホテルも潤沢にある。
食べ物も美味しい。
中洲の風俗で一発抜けることを付随的な喜びと取るファンも散見された(できれば、ももクロのライブを見た後、よしっ、ライブも終わったし一発抜くか〜とか思わないでほしい)
これはまだ遠征慣れしていないファンたちへのスターターキットだったと後に気づく。

2015年静岡エコパスタジアム
→関東に近づいたが、5万人キャパの会場の最寄りが田舎駅のため、行き帰りの混雑は群衆事故が起きてもおかしくないレベルになった。
飲食店やホテルも遠くに分散して確保しないといけない。
「確かにスタジアムだけど、ちょっと」と誰もが思うロケーションだが、百田夏菜子が開催前のインタビューで屈託なく「私だっていつも静岡から通ってるから、みんなもたまには静岡に来てほしい」という一言で、問題は綺麗に無化された。

2015年軽井沢スノーパーク
長野は関東の隣県だが、「山の中でやる」という角度から攻めてきた。
電車だけでなく、シャトルバスに乗り継ぐ必要がある。
それほど大繁盛を想定していないスキー場に、移民級の人数を招き入れる。
細い山道を何千人もシャトルバスピストン輸送するため、レギュレーションやフローが複雑化した。
何より寒い。
俺を含め、スノーウェアを持ち合わせていない人たちは一式を買い揃える必要がある。
このあたりから、徐々に遠征慣れしてきた人たちに「チケット代は全予算のうち誤差の範囲内」というコンセンサスが確立していく。

■ドームトレック2016
ナゴヤドーム
札幌ドーム
京セラドーム
福岡ヤフオクドーム
西武ドーム

一つ一つの会場は、該当地域の都市部からのアクセスに優れ、中パンチ程度の威力しか持たない。
しかし、それを2ヶ月間に5回繰り返すという波状攻撃へとシフトした。
質ではなく量の攻め方になっている。
同時に、このツアーによって未踏だった地方のスタジアム・ドームたちに、おおかた「済」のスタンプが押された。

ロケーションの攻め方という点でも、会場の選定においても、アクセス性による調整は「国内でできることはやり尽くした」感がある。
その思いがあり、「ももクロのために海外旅行に行く日は遠くない気がする」とつぶやいた。

遠征地が発表されたときのプライマリーな快楽は、頭の中で預金残高、日々の収支、スケジュール調整の可能な幅を思い描き、

「あー、頑張れば行けるな」

演算結果が叩き出されたときに、静かにみぞおちあたりから湧いてくる火照りである。
このとき人間は、顔が孫悟空になる。

アメリカツアーの詳細が発表され次第、タスクを書き出した。

・ライブチケットの購入(そもそもこれをクリアしないといかなる計画も立てられない)
パスポートESTA申請
・空路の確保
・宿の確保
・必要な持ち物、情報、その揃え方

Excelに線表を作り、以上のタスクマイルストーンと矢羽に書き起こした。
また、分単位の旅程表を作成する。

アメリカツアーが発表された時点では、職場では長期休暇を大変取りづらい立場にあった。
自分が成果をアウトプットしさえすれば、出勤日をいじくりやすいバックヤード寄りの職掌に移れるよう社内で画策した。
(まさか同僚たちも急にモチベーションが上がった様子で、キャリアパスを名乗り出た俺を見て、アイドルのライブのためとは思っていなかっただろう)
それらすべての作業が幸せだった。

海外旅行ってこんなにめんどくさいんだ

うわっ、こんなに高くつくんだ

国内旅行の比じゃないわ

へー、なのに下手したら現地の悪者にむしられて死ぬんだ

こうしたハードルの高さ一つひとつを、まるでハチミツを舐めるくまのプーさんのように、甘い愉悦と感受した。

たとえば、演劇の世界において、円熟した実力を持ち合わせているのに全国行脚を禁欲的に行わず、ホームである劇場まで客たちが足を運ばなければ観劇できないようにしている劇団が、まま存在する。
あるいはウィリアム・フォーサイスは、ダンサーが劇場内を飛び出し、客たちがそれを追いかけないと鑑賞できない公演を組んだという。
彼らは自らのパフォーマンスに対し「移動を介さないと感得できないもの」があると考えている。

これを客側の目線に立って言えば、おそらく人間には、労苦を経ないと解放されない感覚野がある。ならば労苦それ自体も作品鑑賞のうちである。
俺にとってももクロアメリカツアーは、ももクロアメリカツアーに行けるようになるための調整をしている時点から始まっていた。

そして、ついに11/15〜19にかけて、ハワイロサンゼルスニューヨークの三箇所でライブを見てきた。
この文章は、ニューヨークから東京に帰る18時間フライトを有効活用し、iPhoneでしこしこ書いている。

俺は、アイドルのライブの感想をブログに書くことは相当ダサいというイメージを持っていて(そしておそらくその感覚は正しい)、これまで禁欲的に避けてきた。

しかし、不思議なもので海外を回ってまでして見たものは、何かしら記録をつけたいと思えてくる。
インターネット上に海外旅行ブログというジャンルが確立しているのは、俺がいま憶えているこの下腹部の火照りが人類普遍のものだからだと、この5日間で悟った。

というわけで、ハワイロサンゼルスニューヨーク、それぞれのライブの感想を書いていく。

旅行記ではないので、どこの山を登ったとか、どこで死にかけたといったももクロと関係のない話はバッサリ割愛する。

たまにブログを書くたび切に思うことだが、本当に、別に読まれなくてもいい。

2015-05-23

ももいろクローバーZ 舞台『幕が上がる』感想

先日、菊地成孔ジャズミュージシャンの立場として映画『セッション』が許せないと、1万6千文字の感想(=批判)を書いていた。
スマホでいくらスクロールしても、右側のスクロールバーが水銀の体温計程度のプルプルした動きしか見せない。
長え〜(笑)とウケていたが、そういえば自分も映画『幕が上がる』の感想で同じことをしていたなと思い、Wordで文字数カウントしてみたら、2万2千文字だった。
自分のほうが狂っていた。

それだけ、あの映画への愛憎が、箱根の火山のようにうごめいていた。

いっぽう、俺は映画を見るよりも前から、舞台『幕が上がる』に強い期待を寄せていた。

俺が見たかったのは、ももいろクローバーZ平田オリザコラボレーションだった。

映画の制作というものを、ある種、ももクロ平田オリザの間を往復する文化的な情報伝達の道すじと考えれば、本広克行喜安浩平はウルトラ電流イライラ棒のようにジグザグしたトラップであり、それをくぐり抜けて良質な作品ができあがるかどうか…という偏見に満ちた見方が、俺の映画『幕が上がる』に対する基本姿勢だった。

そうした中、早くから告知されていたとおり、舞台は平田オリザが台本を書き下ろす。
本広克行が引き続き演出に回るが、映画における喜安浩平の役割は平田オリザがとって代わる。
演劇はその作家の本領でもあるため、相対的に見て、平田オリザ作品と呼びうるものになるだろう。

だから、『幕が上がる』の制作発表がされた時点から、映画よりも先の舞台"にこそ"期待していたと言える。

この初春、舞台に向けて、平田オリザによるワークショップが再び組まれたという。
また、平田オリザはしばしば本広克行が監督する稽古場に立ち寄り、指導に加わっていたと聞く。
舞台『幕が上がる』の"平田オリザ度"の高さに期待を募らせた。

ももクロはこれから何十年も活動していく中で、いずれまた映画に出るだろう。
(それがメンバー全員揃う作品かどうかは分からないけど)
しかし舞台は、この次がいつなのか、そもそも次があるのかどうかすら定かでない。
それだけ、ももクロの活動史の中で特異性を放っている。

客席が900人というZEPPブルーシアター六本木の空間で、俳優たちの息遣いまで演技の一環として享受できる中、ふだんのライブパフォーマンスに比べても、DVDで再現しえない鑑賞体験の質が特に際立っている。
だから、この舞台だけは本当に見たいと思った。

運良く、映画の前売券を使った抽選を通じて、2回分の公演を確保することができた。
(5/7、5/20のそれぞれ18:30開演の回)
5/24の千秋楽は、六本木へライブビューイングを見に行ける予定にある。
俺は卑しい育ちだけど、最近のチケット運には恵まれている。

舞台『幕が上がる』は、一度目に見た時点で感動した。
二度目に見たときも、既視感を憶えるような隙などなく、前回気付かなかったさまざまな機微を楽しむことができた。
LoGirlで川上アキラと百田夏菜子が言っていたとおり、この舞台には複数回の鑑賞でようやく見えてくる重層性がある。

舞台『幕が上がる』は、吉岡先生から退職の手紙を受け取った後の、県大会を目前に控えた時期をえがく。
主人公の高橋さおりが谷川俊太郎の詩『二十億光年の孤独』からインスピレーションを得て、劇中劇銀河鉄道の夜』に台詞を書き足す。
それを、演じる部員たちに落とし込む突貫工事の期間中の物語である。
結果的に、『銀河鉄道の夜』の劇中劇にフォーカスされた話になっている。
原作小説にもない高い解像度で、劇中劇の全容があきらかにされる。

この舞台『幕が上がる』は、映画で割愛されていた原作の内容を掘り下げるといったケチくさいことをしていない。
原作や映画にはなかった新たな側面(主題)を創発するということに、果敢に取り組んでいる。

本広克行演出に回ることに対し、誰しも腐心していたであろう、映画でさんざん盛り込まれたあの"遊び心"は、今回の舞台では禁欲的だった。
ありがたい。
というか、本広克行はそのあたりの映画の演出について、「もっと遊びを排して、ストイックに作ってもよかったのかもしれない」と、軽く後悔している胸中を舞台『幕が上がる』のパンフレットに書いている。

舞台の始まりは、吉岡先生の退職を知らされてから、初めての稽古日。
0場(開場〜開演の客入れ中に、少数の俳優が舞台に出て演技をし始めるところ)で、坂倉花奈の演じる1年生が現れ、セットの準備や台本読みをするところから、ゆるやかに芝居がスタートしていく。

0場を終えて開演すると、稽古場に部員たちが一年生→二年生の順に集まり、他愛もない雑談や発声練習、ストレッチが行われていく。
ここで早速、同時多発会話が繰り広げられる。
ある一角はストレッチしながら、また別の一角はセットを組みながら会話し、集団ごとに分立して賑わっているが、三年生が登場すると、全員が同じ方向を向いて「おはようございます!」と力強く挨拶をすることで一つになる。
かと思えば、稽古の準備作業の再開によって、再び各々の行動が分裂し始める。
このランダム性と規則性の繰り返しは、まるで分子を拡大して観察したときの動きのようだった。

リアリズム演劇の潮流を遡れば、ステラアドラーは芝居を構築するにあたり、「役の内面を表現する」という問題構成を禁忌とし、むしろ感情に伴う「行為」の織り重なりによって演劇のリアリティを表現すべきと考えた。

たとえば「彼を愛している」という感情は、本来、外在的に観測不能なものである。
しかし、彼を愛している"から行われる行為"であれば、コートを着せてあげる、一緒に歌う、ダンスをする、体を冷やさないよう窓を閉める、といった具合に多様に表現することができる。
リアルさ=役柄の重層性を、内面や個性といったマジックワードで処理するのでなく、こうした外在的な事実の織り重なりで作り上げていくように説いた。

舞台『幕が上がる』序盤の稽古場のシーンも、部員たちの機微の一つひとつに解釈を寄せる暇なく(少なくとも1〜2回の鑑賞では)、誰がどういう動きをしたか、誰が何を発言したかという事実性の乱反射を披露している。
これこそ、街中を歩くときであれ、Twitterタイムラインを眺めるときであれ、我々がまさに日ごろ生きる「現実」のあり方に違いない。

部員たちが喋るとき、多くの場合、ペアストレッチやセットの組み立て、台本をパラパラめくるなど、併せて何かほかの動作も行っている。
これが、平田オリザのよく言う「分散」や「負荷」かと、ようやく生で拝めたことを嬉しく思った。

「負荷」がとりわけ顕著なのは、準備運動の昂じたガルルと高田(伊藤沙莉)が連続ジャンプをするところだろう。
(映画で狂ったダンスをしていた二人が、引き続き近い役割をまかされている)
連続ジャンプを終えた後、二人はぜえぜえと激しく息切れする。
彼女らが飛び跳ね、疲労しているという点において、これは演技でない。
事実飛び跳ね、疲労している。
ここはコメディリリーフだが、芝居という嘘の中に、俳優自身にとって現実としか言いようがない様が(ほとんど話の筋に関係なく)挿し込まれることで、ゆかいな緊張感が生み出されていた。
(観客たちは、息切れしているガルルと高田を愛おしく思う)

この序盤は、ドラマティックな展開をまだ先に控えている段階にあるが、静かにさまざまな諸力がひしめき合うことの"豪華さ"として見れば、作品全体の中でも目を見張るものがあった。

そして『銀河鉄道の夜』の稽古が始まり、劇中劇が仔細に繰り広げられていく。
舞台の場合、映画以上に声量を張り上げないといけないため、その語気に合わせ、掛け合いがやや早めに、リズミカルに行われる。
いくらか芝居の調子が高まってきたところで、適宜さおりから演出指導が入る。
それを受け、指導前・指導後の変化を演じ分けるという丁寧な作業が披露される。
演じ分けているのは、冨士ケ丘高等学校の演劇部員であり、そして舞台『幕が上がる』にキャスティングされた現実の面々でもある。
現実とフィクションの人間双方に等しく課せられた演技という、劇中劇ならではの重層性をここで実感させられる。
(この演技指導のビフォーアフター披露するのは、実は映画であまり掘り下げられていない芸当だった)

次に、家に帰ったジョバンニが母と話をする対話劇になると、多くの部員たちは出番からあぶれることになる。
しかし、あるところで別の部員が母の台詞をハモり、その役を引き継ぎ、いっぽうジョバンニでも同じようなハモり→引き継ぎの連鎖が行われ、そのまま双方の役を部員たちがバトン式に演じ合ってていく。
母やジョバンニを演じるのは、誰でもなく、そして誰しもである。

ここでも、しばしばさおりから「そこもうちょっと間を取って」と演出指導が入り、「はい」と応じることで、俳優であり部員である顔が呼び戻される。
つまり、稽古の中で、役柄から部員という社会的立場まで、さまざまな属性が絶えず入れ替わる。
タマネギの皮を何枚も剥ぐうち、中枢たる実にあたることなくタマネギがすべて消えてしまうように、あるいはバッハやコーダルなモダンジャズのように、薄膜の折り重なりがその作品のすべてであるような構造を有していた。

人々が一つのまとまった流れを成し、かといって、その塊に注視すれば一人ひとり異なる個人を識別させられるという意味では、劇中で取り上げられるミルキーウェイのようにも思えた。

明美ちゃん演じる先生が言うように、「天の川」と呼ばれる光のもやは、実際は膨大な星々の集合体である。
逆に、われわれ人間のように離ればなれである個物たちは、宇宙のはるか遠くから見れば、地球という一粒の点、あるいは光のもやとして同一化する。
このようにミルキーウェイは、分節(任意の部分を有機的なひとまとまりと見なすこと)と、その分節が解体されることの循環構造を持っている。
こうしたミルキーウェイ的な分節性を、舞台『幕が上がる』の通奏低音として提示するのが、序盤の稽古場のシーンであるように感じられた。

だとすれば、その通奏低音のうえを流れるドラマティックな主題は、次の2つになるだろう。

・中西さんの失語
・なぜカンパネルラのお父さんは、息子の死に平然としていられたのかというガルルの問い

まず、カンパネルラの濡れた髪(溺死痕跡)をジョバンニが拭こうとするシーンで、カンパネルラ演じる中西さんが失語に陥り、その日の稽古が中断される。

翌日、さおりは学校の屋上で明美ちゃんから「中西さんは以前岩手に住んでいて、東日本大震災の後に引っ越してきた」ことを教えられる。
中西さんがカンパネルラの溺死にかかわる場面で喋れなくなったのは、その背景のせいではないかという推測が自ずと立ち上がる。

後日さおりは、カラオケボックスで三年生だけの稽古の場を設ける。
意外にも呼びかけに応じてくれた中西さんは、心配するさおりやユッコ、がるるに対し、胸中を語る。
自分が震災当時、岩手に住んでいたといっても停電を2日間こうむっただけであり、そのせいで被災地の惨状も数日遅れのワンクッションを挟んで知らされた。
しかし、いくつもの命が失われていったあのとき、地理的に、岩手県の中学生たちは「なぜ自分が生きているんだろう」と思ったこと、感じたことを中西さんは涙ながらに語る。
いわゆるサバイバーズ・ギルト災害などで運良く生き延びた者が感じる罪悪感)である。

なぜあのかけがえのない人々が死ななければいけなかったのかという問いは、彼らに対し、自分は生き延びるに値する理由や因果を持っているのかという問いを誘発する。
災害などで突如襲ってくる死は、人それぞれの価値に応じて振り分けられたことでなく、ただの偶有的な事態に過ぎない。
この「自分が生きている」事実の偶有性(たまたま性)を受け入れられないことが、サバイバーズ・ギルトの核を成す。

たとえば、ホロコーストで親兄弟を殺されながら生き延びたレヴィナスは、「死」とは、語りかける宛先の絶対的不在であり、死者の歴史をつむぐこと(代弁すること)の暴力性ないし、言語行為の不可能性をあらわにするものだと語っている。
中西さんも、カンパネルラの役を通じて、震災のとき身近に触知した死を思い起こし、言葉を失う。
彼女は、感情の高ぶりが冷めやらぬまま、次の稽古日には必ず顔を出すと言い、カラオケボックスを後にした。

〜〜〜
ここでいったん話を変える。

上で書いたとおり、この舞台では劇中劇銀河鉄道の夜』にフォーカスをあてている。
ようやく劇中劇の全容があきらかになった中、特にプリオシン海岸で発掘している大学士の描写一つひとつを楽しむことができた。
そこでは、宮沢賢治の原作に対する細かな造詣を見て取ることができる。
ひいては、文学者であり仏教徒である宮沢賢治が、同時に「科学」をどう捉えていたかという問題を暗示している。

劇中劇の大学士は、「白亜紀白鳥」を見つけたことを喜び、またジョバンニとの話の中で「天空の地層は複雑ですからね」と語る。
恐竜の時代である白亜紀に、白鳥は存在しない。
また、「天空の地層」は語義矛盾である。
これらの用語は、宮沢賢治の原作『銀河鉄道の夜』の台詞の中にない。

むしろ、その童話に先行する詩集春と修羅』の以下の序文から引用されたものに違いない。

けだしわれわれがわれわれの感官をかんじ、やがては風景や人物を信ずるやうに、そしてただ共通に信ずるだけであるやうに、記録や歴史、あるいは地史といふものも、それのいろいろの論料といつしょに、(因果の時空的制約のもとに)、われわれが信じているにすぎません。おそらくこれから二千年もたつころは、それ相当のちがつた地質学が流用され、相当した証拠もまた次々過去から現出し、みんな二千年ぐらい前には、青ぞらいつぱいの無色の孔雀が居たとおもひ、新進の大学士たちは気圏のいちばん上層、きらびやかな水窒素のあたりから、すてきな化石を発掘したり、あるひは白亜紀砂岩の層面から、透明な人類の巨大な足跡を、発見するかもしれません。


この序文の中に、「地質学」や「大学士」という言葉が使われていることから分かるように、『銀河鉄道の夜』におけるプリオシン海岸の大学士は、宮沢賢治が『春と修羅』で示した科学観を童話の中で代弁させた人物であると考えられている。

上の引用文はいささか読みづらいが、つまりこういうことを言っている。

人々が、「風景や人物」といった日常的な対象の実在性を当然のものと信じているのは、ただ単に視覚や聴覚といった「感官」の結果にすぎない。
見える、聞こえるということをもって、その対象が真であると判断している。
さらに、日ごろから隣を連れ添う人間同士が「ただ共通に信ずる」という事実をもって、日常的確信を一層固いものにしている。
つまり人が何かを信じることは、多くの場合、感覚と共同性の二つに依拠している。
むろんそれは必ずしも科学的な認識ではなく、存外あやふやなものである。

いっぽう、歴史(=地層から読み取れる古代的な地史)を認識する場合、視覚や聴覚といった感覚作用は出番を持たない。
代わりに誰かが提示した研究結果などの「論料」ないし、言語を介して、その歴史が過去実際に存在したことを信じる。
言語に支えられている以上、ある特定の時代のパラダイム、科学技術に依存するため、人々の歴史観というものは「因果の時空的制約のもとに」束縛されている。
これも、認識のあやふやさから完全に自由ではない。
だから、いつか「二千年」もの長い年月を経たとき、現時点では思いもよらない「地質学」が確立していることによって、まったく新しい地球史観が成り立っているかもしれない。
たとえば「気圏」ないし天空に「化石」を見つけるかもしれない。
白亜紀」の地層から、そのころ存在するはずのない「人間」の足あとを見つけるかもしれない。
(過去→現在→未来という単線的な時制秩序が崩壊しているかもしれない)

このように宮沢賢治がユーモラスに示した二千年後の科学像を、劇中劇でガルル演じるプリオシン海岸の大学士が(「白亜紀」「天空の地層」といった言葉の引用を通じて)体現させられている。

つまり、劇中劇の大学士は、現代の科学技術からは想像もつかないような知識体系をそなえたポストヒストリカルな存在として現れている。

そもそも科学者という生き物自体がポストヒストリカルな存在だと言えるかもしれない。
それは、次のジョバンニと大学士の問答にも関連する。

ジョバンニが、化石の発掘に関して「標本にするんですか?」と問いかけるのに対し、大学士は「証明するにいるんです」と答える。
宮沢賢治の原作から、該当の台詞を引用する。

いや、証明するにいるんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらいにできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水か、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。


この大学士は、ある地層の現状を眺めることで、百二十万年前のありようを見て取ることができる。
また、発掘過程の中で、その証拠も「いろいろあがっている」と言う。
つまり、大学士は地質学を学び修め、研究を深める中、現在の形相から過去も一様に把握することができる能力を習得している。

賢治は、生前アインシュタイン相対性理論を学んでいたと言われているが、特殊相対性理論におけるミンコフスキー空間は、プリオシン海岸の大学士が話す問題に近似している。
(賢治も、自らのノートにMincowskiという落書きを残している)

ミンコフスキー空間とは、通常の三次元で言うところの上下・左右・前後に加え、時間も"方向として"加えた空間のことを言う。
過去と未来は、この三次元世界では「もうない/まだない」ものであるが、ミンコフスキー空間では、ただの方向上の違いとして同一空間上に存在するものになる。

プリオシン海岸の大学士が証明しようとしたものは、自らが「現在の形相から過去も一様に把握する」ことができる中(すでにミンコフスキー空間的に地層を把握できる中)、それが「ちがったやつからみても」同様に見えるかどうかということだった。
つまり、「標本」といった情報の体系構築のためでなく、過去を含む時間のうちに生起する一切のものは永在するということ、時制から解放された認識機能の確立を目指していたと言ってよいだろう。

劇中劇のカンパネルラは、続けて「たくさん勉強すれば、本当の幸せを見つけられますか?」という問いを投げかける。

まず、大学士は「それはどうだろう」と、慎重に留保を踏まえる。
しかし「たくさん勉強すれば、本当の幸せを見つけたときに、それを逃さないかもしれない」と優しく語りかける。

このように、勉強(科学)の力をもって「本当」のものを峻別するという話であれば、おそらく『銀河鉄道の夜』の初期稿でブルタニロ博士(セロのようなやさしい声の人)が語った信仰/科学論が、上記の問答の素材とされているだろう。

お前は化学をならつたろう。水は酸素水素からできているといふことを知つている。今は誰だつてそれをうたがいやしない。実験してみるとほんたうにさうなんだから。けれども、むかしは水銀と塩でできているといつたり、水銀硫黄でできているといつたり、いろいろ議論したのだ。みんながめいめい自分の神さまがほんたうの神さまだといふだろう。けれども、おたがひにほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それから、僕たちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももし、お前がほんとうに勉強して、実験でちやんと、ほんたうの考えと、うその考えとを分けてしまへば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰化学も同じやうになる。


科学技術が発展していない世界で、信仰の異なる人々がたとえば「水」の構成を議論するとき、「水銀と塩」「水銀硫黄」といった考えと、おのおの「自分の神さまがほんたうの神さま」であることを主張する。
それはただの水掛け論でしかなく、彼らが同じ神や教義を共有していない以上、最終的には妥協策のようなものとして、信者同士の行動が比較される。
それなら「おたがひにほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれる」といった情緒的な相互理解が可能になる。
仏教徒が捨て猫を拾って助けたことを、キリスト教徒が感心するということはおおいにありうる。
こうした共同性によって、真偽の議論に決着をつけることが、日々この世界では行われている。
むろん、それは人間同士の問題(「僕たちの心がいいとかわるいとか」)に終始するだけであり、結局ものごとの真偽に関して「勝負」がつくことではない、
だから科学をもって「ほんたうの考え」と「うその考え」を峻別する必要性が生じる。
本来「信仰」とは神に向けられたものでありながら、その構造上、人間同士の共同性に拠らざるえない不確定性を有している。
そうした中、宮沢賢治は、「科学」とはさまざまな問題を共同性の次元から引き剥がし、神=真理のレベルに引き戻す審級であると考え、ひいては「信仰化学も同じ」ものに収斂しうると言ってみせた。

いっぽう、『銀河鉄道の夜』にはもう一人の科学者がいる。
ジョバンニから「博士」と呼ばれているカンパネルラの父である。

カンパネルラの父の専攻は定かでないが、彼の書斎を通じてジョバンニとカンパネルラが天の川の知識を得ていたことから、天体物理を学び修めた学者であると推察される。

宮沢賢治銀河鉄道の夜を書いていた1920〜30年代にかけて、ハッブル銀河の光の赤方偏移を観測し、宇宙の膨張を発見した。
宇宙膨張説は、すでにアインシュタイン一般相対性理論によって示されていたため、ハッブルの観測結果はその実証とされた。
アインシュタイン一般相対性理論のさらなる帰結として、宇宙はいずれ収縮することを見出している。
宇宙が拡がる中、その空間内に蓄積していく質量=万有引力が一定を超えたとき、宇宙は収縮に転じ、かつて拡がった時空間の一切が無の特異点へと収斂していく。
これがビッグクランチという説である。

宇宙が拡がり、銀河同士が引き離されている中、万有引力が再びお互いを引き寄せ合わんと潜勢を成していることを、谷川俊太郎は『二十億光年の孤独』の中で、「万有引力とはひきあう孤独の力である」と表現している。

アインシュタイン物理学を学んでいたという宮沢賢治が、こうした宇宙膨張の次の段階を承知していた可能性は高い。
であれば、カンパネルラの父が天体物理を知る「博士」であることと、息子の死をほとんど平然に受け止めたことは、次のように一本の線に結びつけることができるだろう。
つまり、いま引き離されつつあるすべて物質は、いずれ特異点に収斂する。
だから離ればなれになった死者との別れは、ある特定の時制に立脚する限りで「別れ」と言えることでしかなく、本質的には悲嘆に値することではない、と。
そもそもカンパネルラは、ザネリを助けて溺れた川から、そのまま天の川銀河鉄道)に運ばれ、天体物理の世界へと還元されていった存在だった。

先に述べたように、プリオシン海岸で発掘をしていた地質学の大学士は、一切の過去は同一空間上に現前するものと考える点で、ポストヒストリカルな存在だった。
それは宇宙物理の側に立つカンパネルラの父も同じことである。
その二人は、ジョバンニがカンパネルラとの死別を克服する理路を、別様に暗示する二極の科学者たちだった。

以上は俺が勝手に書いていることなので、当然さおりは、別の形でカンパネルラの父の態度、その解釈をガルルに説明する。

劇中劇銀河鉄道の夜』は、ジョバンニが友だちの死を乗り越える話である。
その到達点を目指すにあたり、カンパネルラの父が一緒に息子の死を悲しんでいたら、ジョバンニの悲嘆が持続されてしまう。
だから、カンパネルラの父は、ジョバンニの克服をうながす「役割」をまっとうするため、平然とした様子にえがかれる。
さおりは続けて「大人になるってそういうことなんじゃないかな」と問いかける。

自らが何を言い、どう振る舞うかは、与えられた「役割」というトポスに従う。
それは誰に与えられたとも言えない――強いて言えば、神や自然が振り分けたとしか言いようのない一種の偶有性である。
それを受け入れることが、「大人になること」ではないかと、さおりは考えた。

その形式は、かねてから劇中劇の中で、りんごと椅子を用いてえがかれている。
ジョバンニとカンパネルラの前に、タイタニック号で死んだ少年が現れ、3人のかけあいになったとき、部員たちが役の台詞をバトン式に引き継ぎあう、あの美しい連鎖を再び繰り広げる。
この場面で、ジョバンニ、カンパネルラ、少年の3人ともがりんごを持ち、椅子に座っている。
元々演じていた部員が、次の部員に役を引き継がせるとき、りんごを手渡し、そして立ち上がって椅子を譲る。
その二つを託された部員は、ジョバンニになりカンパネラになり、タイタニック号と沈んだ少年になる。
その位置、その物質を託されることが、彼女らの人称の入れ替わりにつながる。

部員一人ひとりがこうした入れ替わりをスムーズに演じてみせる姿を見て、さおりは、「みんな誰でもカンパネルラになれる」「もう、みんな、ちょっとだけカンパネルラだもん」と言う。
ここでの"カンパネルラ"とは、「みんな、人のために、少しずつ何かができるってこと」の言い換えであると、さおりは補足する。

カンパネルラとは、そもそも川に溺れるザネリを助けるため自らの命を投げ打った存在であり、そして銀河鉄道に揺られながら、自らの死に際に行おうとした「ほんとうによいこと」を、(我が子との死別で悲嘆に暮れているであろう)母が理解してくれるか懊悩する存在だった。
こうした宮沢賢治が理想とした菩薩行的な善と、部員らが演技で実践する偶有性の受け入れが並列され、結び付けられる。

ある存在が果たす機能を、本質的にでなく、偶有的に考えるのは、構造主義的な発想だ。
所定の言語が何を意味しているかは、時代や文化、あるいは会話の文脈によって絶えず変わりうる。
言葉というものを、さまざまな意味が出入りする空虚な箱、ないし偶有的なトポスと考えるのは、丸山圭三郎の影響下で現代口語演劇を理論化した平田オリザらしい仕事だと言える。
平田オリザコミュニケーション論の中で「コンテクスト」というタームを使い、人それぞれの語用のぶれを問題化するのも、彼の言語学的な演劇理論が、現実のコミュニケーションの次元へと拡張されたものと見ていいだろう。

最後に、ブラックホールを目前にしてカンパネルラと別れたジョバンニが丘の上で目が覚めたところで、そのまま劇中劇のラストへと、そして舞台『幕が上がる』の締めくくりまで一挙に演じられる。

舞台は暗転し、木のブロックに上体をあずけて眠るジョバンニの後ろでは、オレンジ、黄、青といった色とりどりの星々がきらめいている。
美術室のディテールが一切片付けられた暗い空間は、部活の稽古場というよりも、彼女らが再現しようとした『銀河鉄道の夜』の世界そのもののように見える。
星々は、壁に仕込まれたものから、空中にぶら下げられたものまでがレイヤー状に重ねられ、夜空の立体性を演出している。

この夜空の暗さと立体性にすうっと吸い込まれたとき、直観的な感動とともに、中井久夫が著書『徴候・記憶・外傷』の中で、ヴァレリーの『若きパルク』を引きながら徴候的世界を語るくだりを思い起こした。

すぎゆく ひとすじの風ならで 誰が泣くのか?
いやはての金剛石(ほしぼし)とともにひとりある このひとときに……
誰が泣くのか? だが その泣くときに かくもわが身に近く。

パルクは深夜にめざめる。おそらく夜の半ばだろう。宇宙の地平に明滅するいちばん遠い星がいちばん近くに感じられ、その他はすべて闇だというなかにめざめる。私が泣くという自己所属性の意識はない。すぎてゆくひとすじのような風にまがう。かそかな泣き声。それは誰の泣き声なのか。パルクはおのれを知らない。身体のほとんどはめざめていないのだから。(…)何の予兆とも知らされていないが、しかし、ほとんど現前するもののない世界だ。これは純粋予感だ。あるいは発生期状態 in stato nascendi にある予感だ。


夜空の星々と、それを感じる不完全な知覚の事実があるだけで、その知覚主体が"私"であるという明瞭な認識や、夜空の下のここがどこなのかという気付きは存在していない。
銀河鉄道の夜』の天気輪の柱あるいはジョバンニが目覚める丘のうえこそ、まさに『若きパルク』のような徴候的世界がえがき出される場面だった。
丘のうえで眠るジョバンニないし玉井詩織の姿に胸打たれながら、そういうことに気付かされた。

そして、この夜空に吸い込まれることが、ひいては玉井詩織の演技に引きこまれていくことへとスライドしていく。
平田オリザ本広克行は、舞台稽古が始まったときから、メンバーの演技力が「映画のときよりもうまくなっている」と評していた。
実際、完成した作品を観劇しながら全メンバーの成長を実感することができたが、それをもっとも確信させられたのは、ラストの玉井詩織だった。
映画のときよりも声が瑞々しくなっているのに、ジョバンニが心に整理のつかないままカンパネルラへの別れの言葉を絞りだす痛切さを、かすかな喉の震え方一つで再現しきっている。
20メートルほど先に壁がある劇場内にもかかわらず、さらに何光年も向こうの夜空を覗き込んでいるように見える。
映画では、これほど切なくジョバンニを演じられていなかった。

舞台の奥、上段に中西さんが(カンパネルラの衣装を着る暇もなく制服姿で)現れ、クルミを叩く。
木のブロックのセットでなく、暗転された階段のうえに立っている。
部活に復帰したという生の現実よりも、むしろ宙に浮かぶ幽体のカンパネルラの分身として現れたように映る。

手を振るカンパネルラにジョバンニが「また、いつか、どこかで!」と叫び劇中劇が終わったとき、中西さんが舞台へ駆け下り、さおりと抱き合う。
その多幸的な空間を祝うように部員全員が壇上に集い、そのままカーテンコールへとつなげられていく。

中西さんが東日本大震災のとき岩手にいて、いまこうして生きていることは偶有的でしかない。
いっぽう吉岡先生を失った後、「大人になる」ことを求められたさおりたちが稽古の最中に気づいたことは、まさに偶有性を受け入れることの必要さだった。
中西さんとて、"たまたま"生きているという事実を、(因果性というオブセッションを抱えず)そのまま受け入れればよい。
偶有性を受け入れることとは、まさに自分たちが作り上げた芝居の、絶えず入れ替わって明滅する役柄(人称=言語的主体)と同じである。
カンパネルラの父が、息子の死に際して内面を空虚化して立ち現れることも、偶有性の受け入れの一つと言える。
さおりらは、稽古しながらそのように思い至った。

以上の意味で、ガルルが自らの役について投げかけた問い(なぜカンパネルラのお父さんが息子の死に平然としていられるのか)は、中西さんが抱くサバイバーズ・ギルトと一本につながる問題だった。

むろん、中西さんは数日部活を休んだだけであり、さおりたちの観念的労力に立ち会ったわけではない。
カラオケボックスで涙した以外に、心のくさびを取り除く契機は与えられていない。
なぜ彼女が明るく部活に復帰するに至ったのかは、明確な説明が欠けている。

しかし、さおりたちが考えた偶有性を受け入れようという命題が、いま生きている中西さんの存在肯定を"暗示"していることは、あきらかである。
さまざまな暗示がひしめき合い、論理構成に多元的な広がりをもたらしながら、最後に、童話ならではの無根拠な合一を果たすというこの構造こそ、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に共振した作りに違いない。
伏線回収だとかシナリオの整合性だとか、そういうものは名探偵コナンにでもまかせておけばいい。

舞台『幕が上がる』には、映画や原作とは異なる、独自の質の感動が確かにあった。
それは先行する『幕が上がる』の諸作よりも、むしろ宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に感じた歓びにこそ近いものだったと思う。

カーテンコールでスタンディングオベーションをするとき、それが毎公演で恒例となっているからでなく、心から感動したからという気持ちで参加することができた。
本当によい作品だった。

〜〜〜
以上をWordで文字数カウントした結果、1万3千文字だった。
俺は狂っている。

明日の千秋楽LVのチケットを発券してこよう。

2015-03-12

ももいろクローバーZ『幕が上がる』感想(3/3)

■この映画がももクロに何をもたらしたか

前提に立ち返ると、俺はこの映画を"ももクロのため"に見た。

大事なのは、この映画が作られたことが、ももクロにとって良かったかどうか、でしかない。
俺が映画を心から楽しめなかったことなど、本来些末な問題に過ぎない。

結論から言えば、ももクロにとってかけがえない作品になっている。
だから、この映画は断固として「成功」している。

まず映画『幕が上がる』のオフィシャルフォトブックから、百田夏菜子のインタビューを抜粋したい。

百田夏菜子
今までももクロは、ひとつの作品を短期集中でぶわーっと作ってきて、お客さんに見せて、また次のライブに取り組む……それをずっと繰り返してきました。本当にその一回一回、一瞬一瞬が勝負で、だから余韻に浸る間もなかった。『幕が上がる』はその一瞬っていうよりは、なんだろう……ももクロの進み続ける時間とは別に、『幕が上がる』のこの作品だけはずっと時間が止まっていて、いつ戻っても、あの時間が常に流れる。そんな風に感じるんです。

月刊TAKAHASHI 2月号のLVに備え、食事を摂っていた六本木マクドナルドでこの一文を読んだき、泣いた。

ももクロは、"現在"を何より大事にしている。

それは、17世紀の啓蒙主義者たちが、芸術をめぐって古今論争を展開したとき、ウェルギリウスなど古代の偉大な詩人よりも、この現代に書かれた詩のほうが(作品の質どうこうでなく)"現代に位置する"という一点で重要性を持つと主張した論理に、どこか似ている。

たとえば、パッと思いつく限り『CONTRADICTION』の「今日しかない気持ちで勇気を試そう」、あるいは『未来へススメ!』の「振り向かないで突き進むんだ」など、さまざまな曲の歌詞で、過去よりも"現在"にだけ目を向けることが歌われている。

ももクロのメンバーたち自身も、さまざまな試練や新機軸の活動を課せられ、日々成長し、変容していく。
いまのももクロは、いましか見ることができない。
ヘーゲルが言うように、歴史とは反復されないものを指す。
(反復されるなら、それは科学技術である)

この意味で、ももクロも極めて歴史的なアイドルグループだと言えるし、ファンたちが「無印時代」「××新規」というさまざまな時代区分を(特に、新規をめぐって細分化されすぎだろうというぐらい)設けていることからも分かりやすい。

ももクロの大規模なライブは、約半年間を経てDVDBlu-rayになるが、それを後で見ることは、当時の現在性(アイドル用語における"現場")の再現には決してならない。
この「現在を取りこぼす」ことへのオブセッションが、ライブアイドルとしてのももクロの強さの一因を担っているように思う。

俺も、こうしたももクロの在り方にいつも胸を揺さぶられているが、しかし、穏やかならぬ思いも内心抱いている。
"現在"は時間が続く限りいつまでもあるが、そこに立つ物質は有限であり、いつか終わりを迎える。
生命のレベルで言えば死であり、(明美ちゃんが言うように)演劇部の学生には卒業がある。

だからこそ、百田夏菜子が言うとおり、映画『幕が上がる』が「ずっと時間が止まっていて、いつ戻っても、あの時間が常に流れる」作品になったことは、ある種、ももクロが"現在"への抵抗を初めて打ち立てることができたと言える。
それは一つの「達成」である。
だから、六本木マクドナルドで泣いた。

あーりんも、そういう問題を『幕が上がる』の明美ちゃんを演じた中で考えてきた。

佐々木彩夏
明美がさおりに言うんです。「このまま時間が過ぎれば、さおさんがいなくなる日は絶対来る」って。私自身、ももクロに入ってからその終わりにあるものに対してあんまり考えたことはなかったんです。ももクロがいつまであるかは誰にも分からない。とりあえず前に前にってことだけを考えて今までやってきたけど、確かにすべての物事に終わりがあるんだよなっていうのはあらためて考えさせられましたね、ここで。
だから明美ちゃんとしても、ももクロのあーりんとしても、そして佐々木彩夏としても、『銀河鉄道の夜』から受けた影響は大きいのかもしれない。あの作品には「今はたまたま一緒にいるけれど、本来は一人なのかもしれない」みたいな意味も込められてるじゃないですか。

何か生産的な活動をしても、いずれすべて無に帰すと考えたとき、生産の意義はどのように確保されるか。

それは、劇中で(ももクロのメンバー中)自分だけ2年生の役であり、さおりを始めとした3年生の努力に感動しながら、しかし"さおり無き後"の問題に目を向けざるえない明美ちゃんに課せられた問題だった。

たとえば、ももクロアイドルグループとして来たるべく解散の可能性に無縁でない中、国立競技場ライブの2日目のMCで、れにちゃん、あーりん、しおりんの三人が「いつまでも、ももクロを続けられるように」といった永続宣言をし、締めくくる百田夏菜子が「笑顔を届けることにゴールはない」という伝説の言葉を残した。

いわば、可能な限り、死(=解散)の遅延をはかり続けるという誓いによって、これからも続くアイドル活動の意義を暫時確保した形式になっている。
しかし、それはメンバーがファンのことを思い続けるという真摯さに、すべてが託されている。

この宣言に励まされ、生かされているファンは俺を含めたくさんいるだろうが、永続的な活動とは別途に、たとえいつかももクロが無に帰すとしても、なお残り続ける何かを作るという活動軸はないかと、うっすら期待してきたところがある。

たとえば、俺はももクロとは別途に、ボードレールやマネ、あるいは楳図かずおが好きで、それらの作家が取り組んだ現在性のというものの強度を知っている。
彼らは現在というものを、昨日の問題を克服し、そして明日には今日の問題を克服するという弁証法的かつ単線的な時系列の中の、特定の時点として考えたりしない。

むしろ、そうした時制から解き放たれた、絶対零度特異点を確保するということをやっていた。
ここでの特異点Singularityとは、宇宙が膨張から収縮に転じ、ビッグバンが起きたときよりも前の状態――すなわち時間も空間もない無次元に凍結した状態のことを指す。

(簡潔に触れるが、ジョバンニが膨らみ続ける宇宙の中、孤独を感じていたのに、やがてカンパネルラとの共同性を確信することができたのは、宇宙膨張の次に必ず控えているビッグクランチ――特異点への収束が遠い将来控えていることを、銀河=カンパネルラが溺れた川という理解の元、気づくことができたからだ。谷川俊太郎『二十億光年の孤独』も、やがてビッグクランチを引き起こす万有引力のことを「ひき合う孤独の力」と表現している)

楳図かずおわたしは真悟』で、悟とまりんが大人になっていく時間の流れに抵抗し、真悟というノンセクシュアルな子作りを行ったことは、大人でも子どもでもない(そうした時系列から離脱した)特異点を確保しようとする試みだったと言えるだろう。
(さらに言うと、俺が一番好きな映画のスピルバーグA.I.』も同じような問題を取り扱った話だ)

こういった問題であれば、ドゥルーズが『意味の論理学』で説いた「出来事の形而上学」が分かりやすい。
ふつう物語を語るとき、過去(起きた)・現在(起こる)・未来(起こるであろう)の三つで記述されるが、「出来事」の次元で語られるときは、不定詞「起こること」で記述される。

たとえば「水が流れること」と書いたとき、それは過去・現在・未来どの時点にも起こりうる(代入しうる)代数的な記述になる。
歴史的・物語的な記述は、特定時点の状態(例:2015年加藤茶は妻に殺されそう)で書かれるが、それをむしろ上述のように抽象化された出来事の次元に変換する。

ほかにも同様に「日が差すこと」「蒸発すること」といった出来事の次元の記述を多数用い、化学反応連鎖のようにつなげあうことで(=セリー化)、ヘーゲル的・弁証法的な歴史秩序から解き放たれる記述の可能性をドゥルーズは示した。

あーりんは「出来事の形而上学」に相当することを、オフィシャルフォトブックの中で、続けてこう語っている。

この夏、みんなで映画を作ったけど、いつかその時間も終わる。だけど、そこで離れ離れになっても『幕が上がる』は残るんですよね。(…)カンパネルラは死んじゃったけど、でもそこにいたことには変わりがない。死んじゃったからもう終わりじゃなくて、カンパネルラがいたからジョバンニが成長した。カンパネルラとジョバンニの時間っていうのは、たとえカンパネルラがいなくてもなくならないんだなっていうこと。

なぜカンパネルラと永別したジョバンニは、なおも一人でないと言えるのか。
それはあーりんが言うように、カンパネルラを、カンパネルラがいた"こと"ないし、「出来事」の次元に転換するからである。
重要なのは、カンパネルラが生きて隣に連れ添うことではない。

これは平田オリザが提唱する現代口語演劇のありかたにも連動している。
著書『現代口語演劇のために』の中で、一例として「歯が痛い」ことの演技について語られる。

「内面と外面の一致」を重んじるスタニスラフスキーシステムやメソッド技法であれば、悲しみや怒りは、自らが過去に実際体験したさまざまな記憶を呼び起こすことで演じられる。
しかし「歯が痛い」ことは、実際に虫歯にならないと、内面と外面を一致させることができない。
どこか肌をつねったりしても、虫歯特有の「あの痛さ」の質は再現できない。
すなわち、リアリズム演劇は「歯が痛い」ことを取り扱えない。

しかし平田オリザは、リアルな演技というものを、「歯が痛い」ことの再現でなく、「彼は歯が痛いらしい」次元で取り扱うものと考える。
このような観察結果の形式であれば、彼が歯が痛いことが真実かどうか定義せず(言質を負わず)、戯曲を展開することができる。
これは英文なら、ある記述の冒頭に It seems that を置くことになる。
要件をIt("それ"という出来事の次元)でくくり、真理のレベルから宙吊りされた状態にすることで、むしろ対象の意味的な揺らぎを描き出す。
これが現代口語演劇の、まず基礎をなす考え方である。

「真理のレベルから宙吊り」することは、「AだけどAではない」という『幕が上がる』の中枢論理にも結びつく。

あーりんは、『幕が上がる』と『銀河鉄道の夜』から学び得た「一人だけど一人じゃない」形式を、映画の撮影を終えた自分たちにも適用し、「『終わり』はあるけど『終わり』じゃないっていう感覚が今私の中にすごくある」と咀嚼した。

同じく、百田夏菜子も映画『幕が上がる』を「ももクロの進み続ける時間とは別に、この作品だけはずっと時間が止まっていて、いつ戻っても、あの時間が常に流れる」ものとして刻み込んだ。

刹那的な現在主義として駆け抜けてきたももクロが、無時間性の相を確保できたことは、俺が知る限りの活動史において、はじめてと言ってよい。

だから『幕が上がる』が撮られてよかった。
ももクロにとって、なくてはならない作品になったことが、何より嬉しい。

この作品は成功している。

ももいろクローバーZ『幕が上がる』感想(2/3)

■映画の感想

俺が『幕が上がる』の映画化に期待したところは、あの「転回」の構造的な美しさをえがけるか、だった。
それをももクロが演じたら、どれだけ素晴らしい映画になるだろう…。
先行で公開された『走れ -Zver-』のPVの素晴らしさも、一層期待を煽ってくれた。

また、光や自然、生身の人間を演技させることなど、小説にはない映像の長所を発揮できるかどうかも重要だろう。

まず、構造的な美しさは、残念ながら大きく損なわれている。

さおりをはじめとした劇部は、神格たる吉岡先生(その退職)を乗り越える。
しかし、その前から進行していた台本の改稿過程や、地区大会で「高校生らしさに欠ける」と言われたことをきっかけとした「等身大=現実」を巡る葛藤が省かれている。

結果、吉岡先生を乗り越えたと同時に、上記二つの問題も一挙に解決が押し寄せる、あのカタルシスは映画から失われた。
さおりが美術室で部員たちに大会続投の意志を告げ、「行こう、全国」と言うあのシーンは、百田夏菜子のまぶしい演技が爆発しているものの、しかし話の筋としては、意気込みを示したレベルにとどまり「転回」というほどの変身を起こしていない。

さおりがいかなる問題に直面していたのか割愛されたことは、彼女の悩む姿を一義的にすさんだ女子高生へと矮小化してしまうことも併発している。

冒頭のとげとげしい部長挨拶や、母親への冷たい態度。
国語の滝田先生の似顔絵に、シャーペンで何往復も斜線を引くところ。
台本執筆に苦吟したときの悪夢。
プールに落ちた後、正気を失ったままイオンショッピングモールをさまよう姿。

これらによって、平田オリザが言う「ネガティブなものが動機づけならないよう律した、普通の高校生が普通に成長していく物語」という根本的なコンセプトが曇らされている。

さおりが「自分にとっての現実」を巡って懊悩する下りがないため、映画の最後のモノローグで「これが現実だ」と言った場面は、唐突に新しいタームを出てきた感じになっている。

ここでの「現実」という言葉は、原作への配慮から一言触れておかなければいけないタスクと化し、百田夏菜子が、その処理班のような役回りを負わされているように感じられ、つらかった。
映画の前半および終盤に多用されるさおりのモノローグの無粋さは、文脈の不徹底によるところが大きい。

この残念さは、県大会で幕が上がった瞬間に映画が終わることでも、一層強化されている。

長々書いたとおり、『幕が上がる』がさおりや劇部の「転回」をえがく話だとすれば、映画『幕が上がる』は、悟空が初めて超サイヤ人になった瞬間、あるいはその寸前で「鳥山明先生の次回作にご期待ください」と連載終了するような狂気を実行したことになる。

タイトルどおり「幕が上がる」ことで映画が終わるというのは、言葉の引っ掛けとして小洒落ているが、その小洒落ようとしている趣きが、Twitterアルファツイートのようにむしろ鬱陶しく感じられた。

また、ジョバンニがラストで「一緒に行けないことは、僕も知っていたよ」と言うのは最終稿の内容に相当するが、その上演が、劇部がまだ「転回」を果たしていない凡ミス連発だった地区大会、あるいは稽古の場面に譲られている。

その尺を削って、県大会に回してよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

話は脇道に逸れるが、原作にいた、劇部の重要なサポート役をになう「わび助」という二年生男子が、映画では削られている。
映画では男女の恋愛要素を排するため、劇部を女子だけで構成したためと公式に説明されている。
実際、わび助は原作の中でさおりに恋をしている。

だから、わび助と同学年の明美ちゃん(あーりん)にさおりへの同性愛的な尊敬感情を持たせたことで、削られた男のキャラクターを巻き取らせた。
こうして明美ちゃんの役回りを膨らませることは、「3年生の主役4人 with 明美ちゃん」といった、SPEED新垣仁絵、ミニモニの外国人と同じような不均衡の構図を打破する意味でも、賢明かつ正解だったと思う。

明美ちゃんが後ろからさおりに抱きつくシーンを見たとき、ということは、ラストの県大会での大成功時、わび助の代わりに泣くのはあーりんに託された???と思い、期待した。

ふだんあまり泣かないあーりんが、ひとつの大きな到達点で感情を爆発させるというのは、横アリ2daysの2日目、春の一大事2013の2日目に共通するモチーフである。
また、地区大会でミスの火蓋を切った立場として、明美ちゃんの心に残されていた傷がたちまち快復されていく浄めの涙にもなりうる。

映画の中で、それとなくメンバーごとの担当カラーを小道具に添えたり、あるいはめざましテレビの三宅や松崎しげるといった関係人物を登場させるという「ももクロのディテール」には一切感心しないが、先に述べたあーりんが泣くタイミングのような「ももクロの在り方」を映画で再現することは好意的に思う。
というか、そのために5人の演劇少女が奮闘する『幕が上がる』が選ばれたのだと思う。

だからこそ、県大会の上演を省略して映画が終わった瞬間、死んだ。
(個人的には、原作のわび助なんて、最後に泣くことに存在意義の7割があったのに)

ここまで長々と不満を書いているが、なにも原作の構造をそのまま踏襲してほしいわけではない。
代わりに、どう映画用の美しい形式を作れるかが勝負なはずだ。

残念ながら、その意匠喜安浩平の脚本から感じられなかった。
インターネット上で本作が批判されるとき、その矛先はもっぱら本広克行に向けられているが、個人的には、喜安浩平にも「別にそんな巧みな人じゃなくない?」という疑問を抱いている。

吉岡先生のえがき方も弱かった。
黒木華の演技に不満はない。

原作での吉岡先生は、新入生歓迎公演を見た時点で、劇部に興味しんしんだった。
また、彼女を副顧問につけることは、さおりが交渉するまでもなく溝口先生が先に決めていた。
つまり原作での吉岡先生は、初めから劇部のサポートに前向きだった。

また、吉岡先生は稽古中、さおりや部員たちにテクニカルな指導、加減のうまい気遣いを適宜入れる。
この具体的な描写の数々で、吉岡先生が「マジの才能の持ち主」であることに真実味が与えられ、さらに劇部との有機的(あるいは依存的)な連帯も確固たるものになっていく。

さおりが初めての台本執筆にもかかわらず、後に劇部を全国大会へ牽引するほどの作品を描き上げることができたのも、吉岡先生がさまざまな本を読ませたり、アドバイスをしたからこそという理由付けがあったはずだ。

こうした吉岡先生を肉付ける描写一つひとつが、退職の手紙をカタストロフィックな事件にする。

しかし映画での吉岡先生は、なし崩しで劇部の面倒を見ることになったうえに、テクニカルな指導が省かれているため、最初から最後まで、どこか劇部にクールな距離を置いた印象が強い。
また、学生演劇の女王と言っても、その説得力は肖像画を実演してみせたワンシーンにすべて託されてしまっている。

吉岡先生の肖像画自体、演じる最中、頻繁に画面が切り替わり、さおりのモノローグがかぶせられるといった編集により、黒木華が撮影の場で実際にやってみせたという即興演劇の緊張感が損なわれている。

さおりは退職を決意した吉岡先生に対し、憎まない、しかし許せない、というアンビバレンツな感情を抱く。
しかし映画では、吉岡先生の神格性が厚みに欠いているため、退職の絶望感がそれほど大きなものにならず、「まあ、ここで先生を恨んでも仕方ないべ。次行こ、次」的な"大人の受け止め方"を観客にさせてしまう。
アンビバレンツのレベルまで、見る側の心を導いてくれない。

画面の切り替わりがかかることの不満は、ももクロが演じた肖像画にも同じことが言える。
(このあたりは、公開前に映画関係者たちの称賛一色だった中、大林宣彦だけがキネマ旬報本広克行に指摘していた弱みでもある)

モンタージュのない継続時間が演劇の特質なら、たとえ映画でもアンゲロプロスやカサヴェテスのように、長回しで撮ったものを長回しのままつなげばよい。
ももクロがよい演技をしてくれたなら、あとは画面の切り替わりを最小限に抑えるだけでよいはずだ。
それができない勇気のなさは、誰に起因するのか教えてほしい。

こうした不満があってもなお、やはり、ももクロの演技はみずみずしい。

吉岡先生の退職後、夏菜子が部員たちに大会続投を告げるシーンで、演出ノートを手に少し声をうわずりながら「ここには、本当に、たくさんのことが書いてあるのね」と言うとき、鑑賞した3回とも涙した。

有安は、駅でさおりと語り合うシーンや、大会続投の宣言を見届ける場面で、涙を目にため、しかしそれを頬に落とさないまま涙袋や顎をわずかに震わせる。
その抑制は、映像に心地よい慎ましさをもたらしている。

ほかにも、冒頭の焚き火のシーンで、あーりんが『だって あーりんなんだもーん☆』のケーキ帽をかぶって現れるときや、まだ誠心学園の劇部生だった有安が地区大会後に階段から降りてくる場面を見るたび、とても重要な、かけがえのない存在が現れた…という喜びに胸が満ちてくる。

学校の屋上で、ユッコと中西さんがペンキ塗りをしながら心の溝を取り除いていくシーンで、背後の教室でクレイジーな踊りをしているがるるが映るとき、アクメ屋台さんのこのツイートを思い出した。




がるるのあのダンスも、もし目の前でされたら笑い死ぬものだった。
ともすれば、ユッコと中西さんが括弧付きの「いい子ちゃん」に見えかねない和解の場面で、がるるの踊りは心地よい形で、うまく気を分散させてくれた。
そんながるるの、ロミジュリ守衛を演じるときに垣間見える美しさも印象深く残っている。

合宿に向かうバスで、あーりんがペコちゃんのポップキャンディ片手に「さおさん?」と声をかける場面を(我ながら恍惚を憶える理由がよく分からないが)何度となく反芻している。

物語の時系列から解き放たれて、独立したみずみずしい記憶として目に焼き付いているシーンは数多くある。
それでも、演出次第(ないし余計な演出を削ること)で、もっと輝きを引き出せたのではないかという思いは拭えない。

余計な演出であれば、さおりが見る悪夢の、

「台本が書けず悩む→頭が沸騰する→うどんがグツグツ煮えている」

という最低なユーモアセンスに、初めて見たとき眉間に数億本の皺が寄った。

そのとき流れる『Chai Maxx ZERO』で、主演の5人がアイドルグループであるという現実に引き戻される。

よくももクロと各々の役柄について「まるで当て書きのようだ」と言われているが、メンバーたち自身は、むしろ自分と案外違うと感じる部分に着目し、素のももクロでなく、ももクロ以外になりきろうと(演技に真摯たろうと)努めた思いをよくインタビューで語っている。
それを監督も支えてほしかった。

悪夢のシーンに関して、本広克行は「こういうのがあると予告編がよくなる」と言っていた。
また、登場するうどん脳は、本広克行の地元香川アピールだ(ふざけんな)。
プロモーションのために映画が汚損された、という印象を拭えない。
悪夢シーンそのものが、この映画を見る現実における悪夢だった。

この文章の冒頭で「光や自然(…)など、小説にはない映像の長所を発揮できるか」と書いたとおり、自然描写にも触れたい。

物語の冒頭、敗北した地区大会のセットを燃やすシーンは、原作では、重要な寓意が込められた場面だった。
そこでは焚き火の炎が縦に長く伸びる。
さおりはこの日、火を見ながら「部長を頑張ろうと思った。本当にすごく思った」ことを後に振り返る。
火を見て衝動に駆られるのはフロイト理論のようだが、ここで重要なのは、あれほど嫌がった部長の務めを、ほとんど無根拠に受け入れるくだりになっている点である。

これは、おそらく『銀河鉄道の夜』における「蠍の炎」を模している。
蠍は、日ごろから小さな虫を食べて生きてきたが、ある日、イタチに追われ、自らが捕食対象に成り下がって逃げ惑う。
すると井戸に落ちてしまい、イタチに食べられず、ただ無為に死んでいくことを悟る。
蠍は、自分がこれまで食べてきた虫のように、黙って我が身をイタチに捧げていれば、イタチも一日を生き永らえることができただろうと思い、逃げたことを悔いる。
そして神に「どうかこの次にはまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをお使いください」と祈り、その瞬間、蠍の体は燃え上がり、銀河を照らし続ける赤い炎に変わった。
ジョバンニは、この炎を見て、「僕はもう あのさそりのようにほんとうに みんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」「僕たちしっかりやろうねえ」と菩薩行的な善を決意する。

それと同様、さおりも縦に伸びる火を見て、自らを劇部への捧げ物にすることを決意した。

映画では、こうした美しい炎の自然描写が省かれているため、なぜさおりがあれほど嫌がった部長をなんだかんだ受け入れたのか分かりづらくなっている。

自然描写と言ってよいか分からないが、この映画で満足した数少ない点として、美術室の作りが挙げられる。

さおりたちが美術室に入ると、さらにその奥(画面左端)に教員室の入り口がある。
そこの扉は開かれていて、中から吉岡先生の姿が見える。

ある建物の核心的な居室が奥に秘められながら(観測者は壁一枚隔絶されながら)、しかし扉は開かれているというモチーフは、フェルメール絵画のようでおもしろかった。
(これはニコラス・ウィンディング・レフンオンリー・ゴッド』でも、絶えず反復されていた構図だった)

f:id:ganko_na_yogore:20150312121421j:image:w360 f:id:ganko_na_yogore:20150312121420j:image:w360

さおりが吉岡先生に肖像画の実演を要求するとき、美術室でなく、教員室の中に足を踏み入れていたとおり、そこに立ち入ることが核心部への接触を意味している。

また、吉岡先生の机は、カーテンの開かれた窓際に置かれ、読み書きにあたっては自然から採光している。
隣の戸棚には美術標本や書物など、いわば世界の縮小物が立ち並ぶ中、実際の自然は、模造品を読み取るための光源としてしか使われない。
こうした構図を用い、当の人物が美術や人文科学という「媒体性」のレベルに属していることを指し示すのは、ジョナサン・クレーリーが『観察者の系譜』の中で、フェルメール『地理学者』『天文学者』に指摘したことと同じである。

f:id:ganko_na_yogore:20150312121423j:image:w360 f:id:ganko_na_yogore:20150312121422j:image:w360

だから、吉岡先生は登場時点では、何らかの経緯をもって演技の道を諦めた新任の美術教師として登場している。
しかし、吉岡先生が肖像画を実演するにあたり、窓を開き、読書や美術制作にとって邪魔物でしかない「風」を取り入れた瞬間、彼女は美術教師とは異なる位相――すなわち「女優」へと変身する。
こうした変身の様相は、原作にない、映画だけに特権的に与えられた描写だった。

以上のようなことを本広克行が考えているわけはないが(というのも、あまりにも俺の個人的趣味に引き寄せて感じ取ったことでしかないので)、とはいえ、このシーンだけ舞台装置の使い方が卓越していたことは確かだと思う。

最後に、ある告白を踏まえて、映画でもっとも感動したことを話したい。

まだ『幕が上がる』が撮影されていた初秋のころ、俺はエキストラとして撮影現場にもぐりこんだ。

当時SNSに多数寄せられた目撃情報により、ももクロ本広克行のもとで映画撮影をしていることは、非公式に広く知れ渡っていた。
本広克行は、何を撮影しているかはあかさない限りで、日ごろから無料メルマガを使い一般人のエキストラを募集している。
そこに潜入することが、ももクロのファンの間で小さな流行になっていた。
実際、俺が行った撮影現場でも、スタッフが席を外している待ち時間中、エキストラとして集まったほかの人たちの談話から「エビしゃち」「氣志團」といった関連ワードが頻出していた(そこは我慢しろよ)。

むろん、これは制作側にとって不本意ながら流出した情報に違いない。
だから俺が撮影現場に潜り込んだことは、アイドルのプライベートを付けてまわるストーカータイプの縮小版といって相違ないことだった。
当時は撮影現場から帰った後、ついにこういうことをやってしまった…という取り返しのつかない思いに襲われた(というか、いまも罪責の念を持っている)。

しかし、いまやエキストラに参加したことを振り返るツイートブログの記事が、たくさん散見される。
みんな、ふつうに、素朴に、書いている。

つい先日のももいろフォーク村でも、「私もエキストラとして参加しました」と書かれたファンからのお便りがふつうに採用され、読み上げられる場面があった。
映画の情報解禁から久しい現状、もはや運営は、当時のエキストラ参加をそれほど大きな逸脱行為と考えていないのだと思い、ここに書くことにする。

俺は、演劇部のみんなが、東京の小劇場(こまばアゴラ劇場)で前衛的な演劇を見るシーンに参加した。
(映画の中では、俺は"無事"フレームアウトしているので映っていない)

あの日、劇場客席のやや右側に寄って座るメンバーを見たときの衝撃を忘れない。
小劇場のように、暗い中、部分的に強い照明が当てられている空間では、メンバーの肌や髪がふんわりと光を反射する。
すると黒いバックで、まるでラファエロが描く聖母や天使のように、身体から半径数センチ、柔らかな光が発せられている。

ラファエロダ・ヴィンチよりも前の時代、聖母や天使など神性を帯びた存在を絵画にえがくときは、「後光」として、背後に記号的な円が付け足された。
これがルネサンス期の光学の発見により、柔らかい後光へと翻案されていく。
すなわちラファエロなどがえがく聖母の輝きは、「絵をふんわりした感じにしました」というエフェクトのためでなく、そのモチーフが神性を伴う存在であることを標識的に指し示すものだった。

これは、ただの美術史的な理解であり、そこに込められた「神性」を経験的・直観的に理解しているわけではない。

しかし、あのとき俺は、小劇場内に座るメンバーを、ルネサンス絵画が目指していた先の実例のように見た。
ラファエロがえがく光が示そうとした神性とは「こういうことか」と、小劇場内で柔らかな光をまとったももクロを通じて知った。
それはもはや知識でなく、直観的な感覚として、確かに。
あまりの美しさに、頭の背後でビッグバンの爆発音が聞こえた。

この喜びは、映画『幕が上がる』の中でも追体験できる。
小劇場の場面そのものは尺が短いため、そこではない。

メンバーが演じる肖像画
あるいは県大会の前日、5人が音楽室に集まり「ありがとうございました!」と叫ぶシーンで、あの「身体から半径数センチ、柔らかな光が発せられている」状態が再現されている。

3回見たうちの3回とも、ももクロのメンバーが光っているという単純な事実に涙した。
これが、俺のもっとも感動する場面だった。

映画への不満は多い。

それでもやはり、ももいろクローバーZは美しい。

(3/3)へ

ももいろクローバーZ『幕が上がる』感想(1/3)

俺は、ももいろクローバーZを愛している。

さる昨年10月末、映画『幕が上がる』の制作が発表され、先行的にエンディングテーマ『走れ -Zver-』のPV(パイロット版)が公開されたとき、その美しい映像に涙しながら「俺はこの映画を、本気で、見よう」と心に誓った。

ひとまず理解の手助けになるであろう本を11冊ほど読んだ。

<原作>
平田オリザ『幕が上がる』

<演劇論>
平田オリザ『演劇入門』『演技と演出』『平田オリザの仕事〈1〉現代口語演劇のために』
リー・ストラスバーグ『メソードへの道』
ロバート・H. ヘスマン『リー・ストラスバーグアクターズ・スタジオの俳優たち―その実践の記録』
ステラアドラー『魂の演技レッスン22 〜輝く俳優になりなさい』

銀河鉄道の夜
宮沢賢治銀河鉄道の夜新潮文庫)』
見田宗介宮沢賢治―存在の祭りの中へ』
西田良子『宮沢賢治銀河鉄道の夜」を読む』
石内徹(編)『宮沢賢治銀河鉄道の夜」作品論集』

※そのほかにも映画『幕が上がる』を取り上げた雑誌など多数

このうち原作は3回読んだ。
もはやストーリー展開で手に汗握る系の楽しみ方は、初めから放棄している。
映画を見て"楽しむ"のもよいことだが、それよりも「この映画によって、ももクロが何を成し得たか」を、よりよく理解したいと願った。
(得た知識の8割は、作品理解とあまり関係してこなかったけど)

ファンの中では少ないほうだろうが、映画は現時点で3回観ている。

結論から言うと、俺はこの映画にたくさんの不満を抱いている。
ももクロが心血を注いできた映画を手放しに好きになれないことは、いまこうしてタイピングしながら頭を伏せ、「あああああ」とうめくぐらい、つらく思っている。

しかし、誓いのとおり、いまの俺にできる限りの精力をもって見た。
俺は、このブログを遡ると延々と鑑賞記録をつけているようにこれまで何千本と映画を見てきたが、一つの作品鑑賞に対し、これだけ労力を注いだのは初めてかもしれない。

その結果を、「原作の感想」「映画の感想」「この映画がももクロに何をもたらしたか」の3つに分けて記す。
(いちおう言っておくと、"ネタバレ"は一切配慮せずに書く)

4ヶ月以上にわたって全力をついやしたことが、いかなる文章量になるか想像し、そして許してほしい。

というか読まれなくていい。

〜〜〜

■原作の感想

映画『幕が上がる』には、平田オリザによる原作小説がある。
それが元本であるから、映画の理解に原作がいかなるものなのかは欠かせない。

映画『幕が上がる』の公式サイトで平田オリザがコメントに書いているとおり、原作小説は「2011年1月にフランスの子供たち向けに『銀河鉄道の夜』を舞台化するため、パリに長期滞在していたときに、稽古と並行して書いた小説」だという。

この舞台版『銀河鉄道の夜』を実際に見た人のブログを一瞥する限り、その内容はクルミを鳴らすシーンをはじめ、『幕が上がる』内の劇中劇と一致している。
つまり、『幕が上がる』の中の劇中劇は、青年団が上演した『銀河鉄道の夜』をそのまま移植している。

平田オリザによる『銀河鉄道の夜』は、むろん宮沢賢治の原作そのままでなく、文化を隔てたフランス児童向けに「男の子が友達の死を乗り越えて成長していく」主題を「とてもシンプルに構成」したものだと言う。
参考URLhttp://www.aihall.com/drama/24_gintetsu.html

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、光彩豊かな寓意表現の中に、さまざまな主題を読み取ることができる。
「ほんとうの幸い」を巡る倫理問題(自分個人の幸福は、一切衆生を幸福に導けるまで完成しないという菩薩行的な善行観)。
プリオシン海岸で化石を発掘する大学士からうかがえる科学と信仰の問題。
また、物語全体に通底する宇宙論などなど。
そうした中、平田オリザは、孤独と友情に揺れ動くジョバンニの姿から「人は一人かどうか」という主題に重きを置いた翻案を行っている。

「シンプルに構成」したといっても、そこには劇作家として円熟した平田オリザなりの多義的な意匠が込められている。
それを一介の女子高生が書けたとしたら、どのような過程を経るのだろうか?を再現した小説と言える。

このように仮定(コード設定)を踏まえて、世界を構築していくことは、リアリズム演劇の歴史的指導者ステラアドラーが提唱し、平田オリザ自身も自著でしばしば重要なタームとして用いる「想像力」の実践と言えるだろう。

主役である演劇部の部長にして演出・台本をになう高橋さおりは、芝居にのめりこむ前の時期、ある苛立ちに揺らいでいた。

中学二年生くらいから高校一年生くらいまで、だからえっと、十三歳から十五歳くらいまで、たしかに私は、何かに苛立っていた。
それはみんな、そういうものなのだろうけど、でも、いまならその苛立ちの所在が分かる。
私は、何ものにもなれない自分に苛立っていた。
本当は何かを表現したいのに、その表現の方法が見つからない自分を持て余していた。
もう少し勉強すれば、地域で一番の進学校にも行けたのに、通学の長さを理由に、行きやすいいまの学校を選んだ自分が嫌いだった。
演劇は、そんな私が、やっと見つけた宝物だった。
でも、その宝物を大事にしない演劇部の先輩たちに苛立っていた。
いや、その苛立ちが、自分の身体のどこに巣くっているのかさえ気がつけない自分のことを嫌っていた。

人は、然るべき努力を経れば、目指す結果を得られるようになっている。ないし、その経路に開かれている。
にもかかわらず、努力にセーブをかけることで何にもなれずにいるという、深刻な悩みとは言いがたい"ふつうの女子高生"ならではの緩慢な「苛立ち」を持っていた。
緩慢がゆえ、苛立ちは当初、無意識下に潜在されていて、のちのちそれが氷解されていったとき、事後的に自覚される。

このあたりのことについて、まだ曖昧な認識のもとで書かれた『銀河鉄道の夜』の台本は、凡ミスを連発しながらギリギリ通過した地区大会の講評で「高校生らしいオリジナリティがない」と言われ、さらに「なぜ銀河鉄道の夜なのか、モチベーションが分からない」と指摘される。
(指摘の方向性は異なるが、吉岡先生からも「ラストの台詞が足りない」と言われていた)

いっぽう他校の演劇作品で、イジメや受験戦争など高校生の問題をわかりやすく取り扱うものが、括弧付きの「高校生らしさ」をえがいた芝居として高い評価を受ける。
さおりは、そうした「等身大のふりをして高校生の問題をわざと深刻に描くような芝居」が好きでないことを自覚していく。

だから、かつて吉岡先生に「等身大の悩みや苦しみや喜び」が書けないことを相談した際、「そんなものは私に聞かされても困る」と小気味良く一蹴したこの人を信用しようとすら感じたのだった。

では、大人が一方的に投影してくる「等身大」でなく、本当に自分が大事と思う「現実」とは何か?
これがさおりの核心的な問題意識であり、その答えを得ることが、台本の最終的な完成(ラストの台詞の追加)につながっていく。
それは次の難関、県大会に控えている。

平田オリザは、原作の執筆について、こう言っている

トラウマとかイジメとか、ネガティブなものが何かの行動の原因になったり、きっかけになったりするようなことがないように、自分を律して最後まで書き続けました。普通の高校生が普通に成長していくという物語を書きたいと思いました。

ここで「律する」ことの対象と言われているとおり、「ネガティブ」な問題にさらされた高校生をえがくことは、安易であると前提されている。
いわば、「ふつうの高校生」の多義性をあつかうことの宣言だと受け取れる。

さおりは自らが抱くフラストレーションをそれとして自覚できない、フラストレーションの二重体として存在している。
トラウマやイジメ」といった明示的な問題が露見している状況は、むしろ物語の構造としては「普通」の二重性よりも、ワンランク単純だと言える。

さおりが自分にとっての「現実」とは何かを解消するよりも先立ち、演劇部の精神的支柱だった吉岡先生が、女優の道を選び直し、突然退職する。

部員全員にあてた別れの手紙では、「自分はどこまでも女優だった」ことを率直に語り、いっぽう重責を残されたさおり個人宛ての手紙には、宮沢賢治の詩『告別』を書き添える。

これは宮沢賢治が農学校の教師を辞めるとき、絶対音感オルガンの才能を持った生徒に向けて書いた詩だった。
その生徒は農家の子で、家業を継がなければならず、いずれ音楽の道を諦めなければいけない。
賢治は彼の非凡な才能を称賛しながら、しかし「おまへの素質と力をもってゐるものは 町と村との一万人のなかになら おそらく五人はあるだらう」と言い、「それらのひとのどの人もまたどのひとも 五年のあひだにそれを大抵無くすのだ 生活のためにけづられたり 自分でそれをなくすのだ」と憂う。

続けて、「きれいな音の正しい調子とその明るさを失って ふたたび回復できないならば おれはおまへをもう見ない」と突き放し、しかし彼の楽才がいかに輝きあるものか再び謳い上げたのち、「ちからのかぎり そらいっぱいの光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ」と励ましの言葉で詩を結ぶ。

そこには、生徒を教える立場を放棄するにもかかわらず、音楽の断念を絶対に許さないある種の傲慢さと、それほど彼の才能をかけがえなく感じている痛切な気持ちが、ぐらぐら揺らぎながらつづられている。

さおりは突然の事態に呆然とするが、一晩を経て、吉岡先生を失ったいまも部長として全国大会への道を進み続けたいと部員たちに宣言する。

二日後、現代文の授業で谷川俊太郎『二十億光年の孤独』に触れる。
さおりは、その詩の中の「宇宙はどんどん膨らんでいく それ故みんなは不安である」という一節に直観を得て、台本のラストに台詞を書き足し、最終稿として完成させる。

それは、

吉岡先生から私に、私の戯曲に足りないと言われていたものが、いまはある。吉岡先生が観ることのできない舞台に、吉岡先生が観たかったものがある。吉岡先生に観せたかったものがある。

という自負に結びつく改稿だった。

県大会当日、吉岡先生という神格を失ったことを受け入れた劇部は、まるで臨死体験を経て丘のうえに蘇ったジョバンニのように霊感を得て、一人ひとりが完璧に『銀河鉄道の夜』を演じていく。
中西さんは、新しく書き足された台詞も、もう何年も演じ続けてきたことの反復のように、まるでカンパネルラが、やむにやまれず答えているように肉迫してみせる。

さおりは、そんな部員たちが舞台上へ次々飛び込んでいく姿を見て、「私は、次の出番に向けて舞台袖に立つ俳優の姿が好きだ。(…)こんなに真剣で純粋な眼差しを、普段の人生で、私たちは、あまり目にすることができないから」と思う。
同じ戯曲をミスだらけで上演した地区大会と打ってかわり、県大会の上演中は、この時間がいつまでも続けばいいのに、と感じることができる。

そこでさおりは「あっ」と気づく。
自分がこの芝居で何を書こうとしていたのか、そして自分にとっての「現実」とは何か、数学者のひらめきのように、すべてが氷解していった。

ジョバンニは、たくさんの人と出会って成長をしていく。『みんなで卒業をうたおう』の主人公が、先輩を一生懸命好きになることで、他の友だちや学校を好きな気持ちが広がっていったように。
「大人になるということは、人生のさまざまな不条理を、どうにかして受け入れる覚悟をすることです」
何の授業だったか、ずっと前に滝田先生から習ったような気がする。
ジョバンニは、親友カンパネルラの死を受け入れていく。いや、本当は、夢の中で最初にカンパネルラに出会ったときに、その髪の毛が濡れていたときに、もうジョバンニは、カンパネルラがこの世にいないことは分かっていたんだ。でも、親友を失う辛さ、その理不尽さに耐えるためには、宇宙を一周巡るほどの旅が必要だった。

さおりは「不条理」を受け入れることを、実はすでに体現している。
ジョバンニが直面した「理不尽さ」が、上記引用のとおりカンパネルラの死であり別れであったように、さおりにとってのそれは、吉岡先生との別れである。
吉岡先生は、さおりを、演劇部を裏切った。
しかし、吉岡先生があれほど演劇というものを大事にし、血の通った指導をしてくれるような人だからこそ、女優の道に回帰するということは完全に正しいのだとさおりは理解できている。

それでも、さおりは全国大会を目指す演劇部部長を一任されている。
その立場で、県大会を目前にして演劇部を放棄した吉岡先生を許すことは、たとえ心情的に許したいと思ったとしても、決して認められない。
そう自分を律さなくてはいけない。

その相反する思いを

吉岡先生を許さない。それでも吉岡先生を恨まない、憎まない。

という形で表現する。

この「許さないけど恨まない」は、劇中劇のジョバンニが最後に気づく「一人だけど一人じゃない」という主題と同型を成している。
というよりも、『幕が上がる』の中には、「AだけどAじゃない」図式が幾度となく反復される。

こうしたパラドックスないし二重性のレベルにとどまり、その磁場で思考することが、滝田先生がかつて話した「大人になること=不条理を受け入れること」であり、ひいては、この二重性を体現するトポスが、彼女たちにとっての演劇だった。

ジョバンニ同様、さおりも自分が吉岡先生をはじめ数多くの人たちと出会い、さまざまな本や詩に触れてきたことは、上述のような事実に気づく道のりだったのだと悟る。

この舞台には「等身大の高校生」は一人も登場しない。たぶん、そんな人は、どこにもいないから。現実の世界にも、きっと、いや絶対、いないから。
進路の悩みや、家族のこと、いじめの話も一つも出てこない。
こっちはもちろん、現実世界にはあることだけど、やっぱり私たちの、少なくとも、いまの私の現実ではない。
私にとっては、この一年、演劇をやってきて、とにかくいい芝居を創るために悩んだり、苦しんだり、友だちと泣いたり笑ったり喜んだりしたことのほうが、よっぽど、よっぽど現実だ。この舞台のほうが現実だ。

大人が投影してくる観念的な"等身大"よりも、いま取り組んでいる演劇こそが私たちの現実だという考えは、「現実」をその言葉のとおり、事実性のレベルに還元している。
このように事実性の次元で考えることを、さおりは劇中劇の中で、クルミという道具に託した。

ジョバンニがカンパネルラの死を受け入れたとき、遠い彼岸にカンパネルラの幽霊を見る。
物言わぬカンパネルラは、かつてジョバンニと一緒にプリオシン海岸で拾ったクルミを叩き、音を響かせる。

ジョバンニも慌ててまさぐると、ポケットの中にクルミを見つけ、その物質性に、自分がかつてカンパネルラと一緒だったことの確かさを見い出す。
これをもって「一人だけど一人じゃない」という命題が完成する。

そうだ!思い出した。高校二年生のときの滝田先生の現代文は、夏目漱石の『三四郎』を一学期かけて読むという授業だった。
熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……、日本より頭の中のほうが広いでしょう」
私たちは、舞台の上でなら、どこまででも行ける。どこまででも行ける切符をもっている。私たちの頭の中は、銀河と同じ大きさだ。
でも、私たちは、それでもやっぱり、宇宙の端にはたどり着けない。私たちは、どこまでも、どこまでも行けるけど、宇宙の端にはたどり着けない。
どこまでも行けるから、だから私たちは不安なんだ。その不安だけが現実だ。誰か、他人が作ったちっぽけな「現実」なんて、私たちの現実じゃない。
私たちの創った、この舞台こそが、高校生の現実だ。

この「どこまでも行ける」ことと「不安」の関連を見たとき、最近読んだ八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』に書かれていた中世哲学における自由意志論を思い起こした。

キリスト教世界において、楽園を追放される前のアダムとイブは、神との有機的なつながりのもと全能に包まれていた。
そうした世界では、人間は神的な真理に完全に開かれているため、「AとBのどちらを選べばよいか」という局面がなく、判断や行為はすべて一択で進められる。
つまり楽園という世界では、「自由」という問題構成を必要としない。

しかし、堕落によって神の全能から引き剥がされたとき、人間は自らの脆弱な「理性」をもって物事を弁別しなければいけなくなる。
そこで初めて「自由」という問題が発生する。

近代的な枠組みの中で「自由」とは、ふつう人間が近代的自我として確立する(無限たる神に再び近づく)至上命題のように思われるが、むしろ原義的には、人間の弱さ、有限性に条件づけられている理念だった。

話を戻すと、かつてさおりが無意識下で苛立っていたのは、「自由」にさらされているためだった。
その気になれば、地域で一番の進学校に行ける。
人は可能性に開かれている。
しかし同時に、"果てまで"行くことはできない。
可能性が完全に開かれていても、当の人間そのものは、有限性の次元に立脚する。

その限界に晒されながら、「どこまでも行けるから、だから私たちは不安なんだ」と言う。

「どこまでも行けるのに、どこまでも行けない」という論理は、引き続き「AなのにAではない」図式をえがきだす。
その二重性にさらされることが、さおりの言う「不安」だった。
しかし、さおりは「その不安だけが現実だ」と気づく。

「AなのにAではない」という相反する論理を誤りと見なすのでなく、さおりは滝田先生が言う「大人になること=不条理を受け入れること」のとおり、パラドキシカルな二重性をそのまま「現実」として受け入れた。

ここでさおりは、「どこまでも行けないけど、どこまでも行ける」という命題から感じていた「不安」を、その表裏一体の反面、「自由」の位相へと転換し、再理解する。

また、さおりが導き出したように、
不安=自由
不安=現実
かつ、
現実=舞台
というとき、そこで得られる結論は「舞台=自由」ということである。
こうして、

私たちは、舞台の上でなら、どこまででも行ける。

という『幕が上がる』の中核を成す台詞に結びつく。
自分にとっての「現実」とは何かを見つけ出したこと、その論理的な転換が、彼女にとっての成長だった。

この転換は、世界の切り替わりでもある。
見田宗介宮沢賢治銀河鉄道の夜』を、「転回」の物語であると言った。

ジョバンニが銀河鉄道から帰り、丘を走って下りたときから、彼を取り巻く世界の色調は180度転回する。
かつて冷たい言葉を投げかけてきた友だちは、ジョバンニに「走り寄って」きて話しかけてくる。
とりつくしまもなかった牛乳屋には、いまや親切な男の人がいる。
そして、母親の待つ熱い牛乳はいまやこの手にある。
カンパネルラのお父さんによれば、長らく不在にしていたジョバンニの父はもう家に帰ってきている――あるいは明日には帰ってくるはずだと言う。

ある状況を肯定したいとき、無条件に肯定的なシチュエーションをあつらえるという童話の特権が『銀河鉄道の夜』では実践されている。

これと同じことが、『幕が上がる』の富士ヶ丘高等学校の演劇部にも起きる。

銀河鉄道の夜』上演のラストで、さおりが最後に書き足した台詞が語られる。

ジョバンニ:カンパネルラ、僕は今日の学校での最後の時間、本当は眠っていませんでした。いや、眠っていたのだけど、君の声に起こされた。
君は僕をかばってくれたけど、でも君は、君と僕は一つではないと言った。僕は、とても悲しかった。悲しかったけど、本当にそうだと思った。
どこまでも、どこまでも一緒に行きたかった。でも、一緒に行けないことは、僕も知っていたよ。
カンパネルラ、僕には、まだ、本当の幸せが何か分からない。
宇宙はどんどん広がっていく。だから、人間はいつも一人だ。
つながっていても、いつも一人だ。
人間は生まれたときから、いつも一人だ。
でも、一人でも、宇宙から見れば、みんな一緒だ。
みんな一緒でも……みんな一人だ。

遠くの高く積み重ねたキューブの上に、カンパネルラが立って手を振っている

ジョバンニ:カンパネルラ!

カンパネルラ:…………(クルミを叩く)

ジョバンニ:クルミだ!(ジョバンニも、ポケットの中からクルミをさがし出す)このクルミは、たしかに僕の手の中にある。カンパネルラ、僕も、ずっと持ってるからね。

カンパネルラ、手を振る。

ジョバンニ:カンパネルラ!
また、いつか、どこかで!

この台詞には、さおりの成長が寓意的に集約されている。
それをジョバンニ演じるユッコも理解しているから、最後の台詞は、ただの台本の読み上げではない血が通った演技になりえた。

終演した瞬間、それまで聞いたことのない量の拍手が鳴り響く。
緞帳が下りた後、反対側の舞台袖にいるがるるがガッツポーズし、舞台上の(かつて溝を抱えていた)ユッコと中西さんは抱き合い、わび助は泣いている。

さおりは、鳴り止まずどんどん大きくなる拍手の中、ヘッドホンを外して舞台袖から飛び出し、奇跡を終えたばかりの舞台空間に駆けていく。

その後のエピローグで語られるとおり、富士ヶ丘高等学校の演劇部は県大会および、次のブロック大会も1位で通過し、翌年の全国大会への切符を勝ち取ることになった。
(その全国大会は、卒業後のさおりたちが出られる幕ではない)

以上のように、かけがえのない存在との別れにより心痛に暮れた後、世界が「転回」するという流れは、『銀河鉄道の夜』を反復した構造に違いない。

つまり、さおりと吉岡先生の二人は、ジョバンニとカンパネルラの関係を模している。

東京合宿の夜、遅く合宿所に帰ってきた吉岡先生からタバコのにおいを嗅ぎとった流れは、吉岡先生が高校演劇とは異なる大気(女優回帰の道)に飛び込んでいたという事実を示し、ひいては、ジョバンニがカンパネルラが濡れていること(すでに溺死し、冥界に属している痕跡)に気づいたくだりに似ている。

『幕が上がる』は、さおりを巡る物語と劇中劇が絶えず往還し、互いに参照しあう二枚貝の構造を持っている。
劇中劇のジョバンニとさおりは、ともに歩んで答えを見つけ出し、「転回」を果たす。
そして祝祭的な結末へと向かっていく。

原作が持つ並々ならぬカタルシスは、こうした構造的な美しさが導き出したものに違いない。

(2/3)へ

2015-02-19

4)-総論- 私は生涯結婚すべきでないことの証明

定義1.私は、「自分は自分が生かすべき」という倫理観を強固に有している。

定義2.女性はごく例外を除き、「結婚」が代表する非対称型の人生設計モデルを採用している。

〜〜〜

定理1.「定義1」と「定義2」の不一致につき、私は女性の大半を、自らと同一線上に立つ「人間」と見なせない。

〜〜〜

定義3.「定理1」は倫理の不一致である。倫理の不一致は、知性やユーモアの不一致にもつながる。ほとんどの女性と会話をしても「おもしろい」「ためになる」と感じることはなく、当たり障りのない上辺程度のやりとりしか成立しない。それは社交上、責務としてやらざるをえない営みである。

〜〜〜

定理2.「定義3」につき、私にとって女性の大半は、自らと同じ「人間」と感じられないことにとどまらず、交流することで心労を負う存在である。

〜〜〜

定義4.私は自らの幸せを確保することに全精力を注ぎ、そこから他人の幸せに労力を割きうる余裕はほとんど得られていない。

〜〜〜〜

定理3.「定義4」と「定理1」の複合につき、男性に保護者性を求める前提のもと、恋愛の営みを望んでくる女性を目にするなら、それは私が自らの幸せを確保するための限りある人的資源を略奪してこようとする「盗賊」であり、「敵」である。
女性は「定理1〜2」につき、「無関心あるいは心労の対象」であるが、さらに「敵」としての認識が加わり、「憎悪の対象」へと格上げされる。

〜〜〜

定義5.私にとってすべての女性は性欲の対象である。

〜〜〜

定理4.「定理3」と「定義5」の複合につき、ほとんどの女性は「性欲の対象かつ、憎悪の対象」である。

定理5.性欲は自慰行為でおおむね解消できるため、女性唯一の功利性は不問とされる。

〜〜〜

結論.以上をもって女性は「憎悪の対象」でしかないため、私は結婚をすべきでない。

- - -

<仮説1>
すべての女性が「非対称型の人生モデル」にのっとっていたり、「知性やユーモアに欠けている」わけではない。
探せば、同じ「人間」と認めうる女性に巡り会えるかもしれない。
であれば、非婚と決め込まず、引き続き理想の女性を追い求めるべきではないか。

- - -

定義6.「理想の女性」と巡り会うことは、まず現実的に見て叶わない。一人の男が、女性の人となりを深く把握できるほど交流をはぐくめる人数は、せいぜい10人前後と見ていいだろう。その分母に対し、「理想の女性」と巡り合い、しかも恋愛関係を築ける可能性は限りなくゼロに近い。人生は有限であり、実現可能性の高いことに優先的に時間と労力を注がなければいけない。

定義7.自分にとって都合のよい女性像を、空想の中でなく、現実において求めることは、審美的に見て「醜い」ことである。童貞の男が自らの尊厳が崩れないよう現実の女性に処女であることを求めたり、あるいは40代のブスが結婚相談所で年収1000万以上身長180cm以上を求めるといったよくインターネットの記事があげつらうパターンを想像すればよい。それと同質のことである。

〜〜〜

定理6.「定義6〜7」につき、確率論的かつ審美的に見て、私は「理想の女性」を求めるべきでない。

- - -

<仮説2>
そういうことであれば、無理に理想の女性を探し求めることはない。
これまでどおり変わらぬ社会生活を送っていればいい。
しかし、その中で、もし偶然に同じ「人間」と呼びうる理想の女性と出会えたなら、その女性とは結ばれるべきではないか。

- - -

定義8.私は、自分以外を保護することへの強い忌避感情を持っている。「定義4」にあるとおり、自分一人を生かすこと以外に割ける余裕は持ちあわせていない。妻あるいは子どもといった「守るべき」関係を作ることは、認知的不協和やプレッシャーから心身に失調をきたす。その失調を回避しようとすれば、保護責任を放棄しなくてはならない。すなわち家庭内別居なりネグレクトなりが行われる。それは女性や子どもを不幸にする。

定義9.人を不幸にしてはいけない。

〜〜〜

定理7.「定義8〜9」につき、理想に敵う女性が現れたとしても、私は結婚をすべきでない。

定理8.「定理7」をもって、すべての局面において私は結婚すべきでないという全称命題になるに至ったことを、ここに宣言する。

〜〜〜

これだけ話せば、
「ああ、お前は結婚すべきじゃないな」
「その遺伝子を金玉に閉じ込めたまま死んでくれ」
と思ってもらえるだろう。

ありがとう。
ようやく分かってもらえた。

俺は生涯結婚しない

3)女性は人間ではない

俺は社交性に欠いているが、それでも生涯通して会話をしてきた女性は何百人といる。

一度は性に絶望した人生だったが、ある時期「もしかしたら自分もやはり恋愛できるのではないか」という望みを胸に、女性と交際したことだってある。
セックスは気持ちがいい。

しかし、経験的に得られた結論は、女性はことごとく「人に支えられるモデル」を採用して生きているということだった。
男に頼りがいある男らしさを求め、「女の子扱い」されることを望む。
ペニスがヴァギナを埋めるセックスの凹凸構図と同様、非対称型によるセクシズムにのっとっている。

こうした非対称型のジェンダー構造を、上野千鶴子は『家父長制と資本制』の中で資本制になぞらえて図式化している。
(本がスキャナーにうまく収まらないので、一から絵に起こしたズラ)

f:id:ganko_na_yogore:20150219112540p:image

産業革命以後、市場経済が際限なく拡大を推し進めるにあたり、二つの外部――すなわち自然と家庭から限りある資源を搾取してきたことを、この図は指し示している。

ここでの「市場」は公共性を、「家庭」は共同性をつかさどる。
旧来の社会は、公共性に参与する者(その多くは男)だけを「人間」と見なし、その範疇から漏れて「家庭」をつかさどる役目に押し込められた女性たちは「人間以外」という扱いを受けるため、労働法などの市場ルールから隔絶された人的搾取を受ける。

これはマルクス主義フェミニズムが指摘した経済的構造であり、克服されるべき家父長制の様態である。

フェミニストたちは理論的言説を通じて「家庭」の脱神話化をはかり、女性と家庭の規範的結び付きを解体してきた。
家事労働のコストを削減する家電製品の発達あるいは、男女雇用機会均等法の施行は、まだまだ進歩の余地を残しながらも女性の市場参加を促している。

こうした波を受け、いち市民として、言葉を司る主体として、公共圏に飛び出していく女性は立派な「人間」に違いない。

現代とは、もはやそういう時代なのだ。

にもかかわらず、"ふわっふわな私を、優しくて時にはガツンと言ってくれる男の人が包み込んでくれるべき"というふざけた被保護的セクシズムに毒された女性ばかりじゃないか、世の中には、というのが俺の抱く不満だった。

もっと言ってしまえば、家父長制を内面化し、自らが「人間以外」であることを受け入れた女性ばかりが世に溢れている。

コミュニケーションするときは論理よりも感性を重んじ、文化には形式的なダイナミズムよりも様式美を求める。
共同体の外側に出るときに必要になる普遍言語を用いるのでなく、閉じた輪の中で親密さや序列を確かめ合うことに、時間と、金と、言葉を費やす。

むろん、それが単なる趣味の話であれば問題ないが、市民社会において甘やかされる側に立とうという経済的・政治的チートの姿勢をそこに見い出すたび、「女性は人間ではない」という思いに打ちひしがれる。

女性の多くはユーモアを持ち合わせていない。
ないし、それは自分の負うべき役割だと思っていない。

ユーモアベルクソンが説くように、社会にメンテナンスを施す批判力を潜在させている。
弱い者が抵抗の姿勢を持ったときに生じる、主体化の意志である。
(たとえばTwitterで人気取りの作法を励行して力を蓄えようと努める人たちよりも、むしろそうした権勢に抵抗の意志を示す人たちにこそおもしろさが宿っているように)

あらゆる局面において客体であらんと志向する女性が、ユーモアを持たないことは必然的な事態と言える。

ときには知性(よく学び、よく考えること)すら、女性は男の役割であるように考えている。
例示として、ナミキさんのこのツイートは分かりやすい。




自らの性あるいは様式美を高度に洗練させている女性ほど、何ごとかに詳しくなるような知性と遠い位置に落ち着く。
このツイートについている160以上の「お気に入りに登録」は、おのおのが自らの経験則を参照したうえで実感した「うむ、確かに」のオーケストラである。

俺がこの文章の中で使用している知性・倫理ユーモアという言葉は、古典的な哲学の問題系「真善美」に対応させている。
その三項は密接に連関する。
いわば、女性が「自分はすべて自分が生かすべき」という倫理的要請を持たないことが起点になり、知性とユーモアが欠落するという事態は起こりうる。

あいにく非対称型のセクシズム(ないし異性に魅力を憶える仕組み)は、倫理と関係しない。

女性は、男が「私を守る力ある存在」であれば魅力を感じる。
小学生のころは足が早い男子が、中学生のころならバスケサッカーがうまい男子が、たとえ頭が悪かろうが、あるいは学級内のイジメに加担していたとしても、女性は「力」が宿っている一点に魅力を憶える。

一部の女性「そんなことないよ!」

うるさい。
そんな男子に事実膨大なバレンタインチョコレートが集まっていたことを知っている。

よくインターネットの記事が書くとおり、「いい人」はモテない。
むしろちょっと悪いぐらい――自分本意な「押しの強さ」を持った男のほうが好かれる。
倫理は性において等閑視され、ただ「力」の強弱というファクターが優先される。

よく分からない。
倫理が無視されるとはどういうことだ。
倫理のほかに何が大事だと言うんだ。

ひとえに「性が倫理と関係しない」ことは、カテゴリーの問題、すなわち性と倫理はそもそも異なる位相に属することを意味している。

性とは、つまり遺伝子の指令だ。
生物としての個体は、来るべく死をまぬかれない。
自分がいかに生き、労働であれ創作であれ、さまざまな実りをこの世界に残してもいずれすべて無に帰す。
代わりに別個体の生産すなわち、生殖によって種を保存することで、"引き継ぎ"をはからなければいけない。
だから人はセックスがしたい。異性と付き合いたい。結婚したい。子どもをもって明るい家庭を築きたい。
そう望まなければ、人生は目的因を失い、すべての営みが空転する。
ということになっている。

くっだらない。

しかし、この考えに反発しようといくら言葉を費やしても、多くの場合、空虚でしかない。
性は言語ではないからだ。
つまり、俺がここで書いているように性の下劣さをいかに言葉を弄して暴き立てたところで、性欲は消滅しない。
性は(遺伝子を背後に)物質性を備えている。
俺も毎日シコる。

小中学校のころのつらい時期、男も女性も等しく俺を殺そうとする外敵だった。
しかし時期を経て、俺を水面に引き揚げ、最低限の呼吸を許してくれたのは同性、男たちだった。
彼らはユーモアセンスを持ち、知識を愛し、たとえ俺が不潔でも、俺の「話す内容」だけには耳を傾けてくれた。
そして俺に興味を持ってくれた。

いっぽう女性は、不潔な存在と交流しない。
女性が魅力的な男性の条件を挙げるとき、容姿や社会的ステータスを差し置いて、必ずといっていいほど「清潔感」が重視される。
むかしTwitterでこう書いた。




そもそも不潔であることが、何に支障をきたすのか考えたい。
悪臭を放つなどは、寿司屋での喫煙者非難されてしかることと同様、公衆悪と言えるが、それ以外の問題であれば、つまり感染症を引き起こすおそれであり、その多くは粘膜と粘膜をこすり合わせる性行為の局面に存在する。

ならば、単純に不潔な異性とは性行為をしなければいい。
しかし女性は、不潔な男との"会話すら"拒絶する。

かつて不潔だったことは俺の自責に違いない。
しかし、女性に「不潔が問題にならない一般的なコミュニケーションすら拒まれる」のに不条理を感じることが、幼いころから、女性観の中枢に深い根を下ろしている。

性的なことが、性以外のコミュニケーション全面を支配する。
このことは、上のツイートに書いたとおり、女性が「男性を性の対象としか見ない『肉』である」という結論を導き出す。
一般的には、「異性を性の対象としか見ない」ことは、男の咎であるように考えられている。
しかし俺が経験的に実感したのは、その逆だった。
「不潔か清潔か」すなわち、粘膜がこすれ合う局面を全コミュニケーションの基準に据えるのは、女性が特権的に持つ発想だった。

その発想は、対象を拒絶するときに用いられる「生理的に無理」という表現に集約される。
「生理的」と口にされるとき、もはや倫理どうこうは検討されていない。
この倫理等閑視される「生理的」言辞に対する強烈な違和感を、村田似さんはこのツイートで簡潔かつ的確に表現している。




「生理的」な感覚だけを根拠に、その状況すべてに判断を下すなら、当の女性は「生理反応を出力するだけの器官」にすぎない。
「器官」の世界に善悪などあるはずがない。
ならば村田似さんが言うように、「人ぐらい殺してもいい」世界が成り立つという理屈になる。
それがいかに狂ったことか、「生理的」な感覚を何より重んじる女性たちは、少しでも考えてみたことがあるのか。

俺はいまでこそ清潔という作法を習得し、女性がたいして警戒した様子もなく接してきてくれる。
しかし、その事実に「ヤッピー!!事態は改善された!!!!」と思うことはない。

むしろ、目の前の女性が「俺が清潔だから接してきてくれている人」なのだと判断できたとき、表裏一体のように「あのつらかった時期、俺を殺そうとしてきた女性たちと同類なんだ」と判断してしまう。

当たり前のことを言うが、かつて殺そうとしてきた人とは、一緒になれない。

=======

やはり、女性への軽蔑の念を書き出すと止まらない。
しかし、すでに「生涯結婚すべきでない」ことの土台となる理屈はおおよそ出揃った。

次で、最後の作業に移る。

(続く)

2)文物主義

上述のとおり、俺は中学生のとき精神の危機に瀕していた。

あのときの孤独感は、骨折したときの痛みに近い。
毎分毎秒、自我を崩落させるほどのつらさが希釈なく襲いかかってくる。
このつらい時間を埋めてくれる何かがないと"死ぬ"と感じたとき、細かいことは忘れたが、気が付くと図書館に通っていた。
何か情報を取り入れている間は、外部のことを忘れられる。
それも多少難しいぐらい、全神経を注がないと読み進められないような堅い文物ほど、その目的に適っている。
この時期、人生でもっとも本を読んだ。

パウル・クレーの『造形思考』、あるいは思索ナンセンス選集『杉浦茂のおもしろ世界』は、絵において理知的であることと自由であることは無矛盾に両立することを教えてくれた。

漫画の棚に向かうと、図書館に置かれている漫画作品の多くは手塚治虫なので、まずそれを読み漁った。
次に漫画史の本を読み漁ったことが、生まれて初めて何がしか「歴史」というものを意識しながら文化に触れる機会になっていった。

定期的に手に入る小遣いは手を付けず、すべて貯金箱に納め、1万円を超えるたび、順次まんだらけ中野本店に持っていってすべて漫画に変える生活を送った。
特に楳図かずおのエッセイ『恐怖への招待』に収録されている短編漫画『Rojin』に心が打ち震えた。
偉人格言集からリンクし、背伸びしてゲーテニーチェなどを読んだ。
時間とは、死とは、成熟とは、といったあらゆる哲学的な疑問は、そんなことを考えていること自体どこか恥ずかしく、人にわざわざ話すものではない(どうせ嘲笑される)と思っていたが、俺など歯牙にもかけない深さで取り組んでいる人々がたくさんいることを知った。
ただ直に接する機会がない、あるいは生まれた時代が違うだけで、世界には素晴らしい人たちが"いる"。

カント純粋理性批判の中で「月の住民」という比喩を書いている。
われわれ(地球上の)人間たちがのっとっている諸法則を、その土台ごと批判的に組み替える可能性を持った外部のことを擬人化した表現である。
思索する者が、通念まかりとおっているさまざまな規定性を批判するなら、究極的に、どこに共同性を見い出すかと問えば、所与を共有しえない遠い世界から見据える異星人――すなわち「月の住民」になる。

実際に異星人の存在を観測できるかどうか(利害のかかわりを持つ存在になるかどうか)が問題なのではない。
その外部の実在を信じていることが、理性そのもの(反省的判断)の駆動要因になる。

俺にとって文物の作者たちも、「月の住民」の縮小版として同じ機能を持っていた。
たとえ直に接する存在でないとしても、彼らが"いる"と思えることが、世界に絶望せず、自律に努める根拠たりうる。
俺は多くのものを軽蔑しているが、それを超える量の尊敬を持っている。

中学時代、友だちがいなかった。
しかし、図書館に通い詰めて以降、さびしさは薄まっていった。
手に取る文物は、ただ非人間的な形をしているだけで、これらが「友だち」なのだという感覚を持てたからだと思う。

たとえば絵を模写することは、作者がどう作品に取り組んだか追体験的に読み取る過程を持つ。
すると随所で「ここはすごい、真似できない」「ここは手を抜いたな」といった感慨を憶える。
その認識も、理解を深めるうち「あ、そうじゃなかったか」とたびたび修正を強いられる。
この理解過程は「会話」に近い。それもかなりダイナミックな。
本を読むにしても、日ごろから抱いている疑問を教師のもとに持ち寄るように読めば、会話に近いプロセスが成立する。

会話が成立するとなれば、自分にとっての友だちとは、一義的に文物である。
たまに実社会の人間と仲良くしうることがあっても、それは相手が文物として強度を持つほどユニークな人だったということに過ぎない。

以上の考えを持てば、必然的に「文物が第一であり、その次に実社会上の人間たちがいる」という序列ができあがる。
だから、たとえば会社の飲み会など交遊全般に対し、つねに「それは文物に勝てるのか」という視点で評価してしまう。
評価してみて文物に勝てなければ、政治的なしがらみがない限り、誘いを断る。
(つまりほとんどの場合、断る)

もし人間も一種の文物と見なした場合、その評価基準は何になるだろう。
友人相手に、コメンテーターや評論家のような情報発信を求めることは通常ないので、やはり「ユーモア」になると思う。

この考えが転じて、誰かと交友する(あるいは異性と交際する)にあたり、最優先かつ最低限これさえあればよいという条件は「ユーモア」になった。

そもそも自分自身、それほどおもしろい人間ではない。
(この自戒は、けつのあなカラーボーイの人たちと接するたび一層思う)

ユーモアセンスがある人としか仲良くできないとは、あまりに偉そうな言い方なので、慌てて修正したい。

つまり俺の背後には、自宅の本棚、図書館TSUTAYA、全国の美術館や映画館が控えている。
この状況下で、人と一緒にいるときに「帰って本や映画を見たい…」と感じさせないパワーが交友の条件になるというのは、行動経済学を引っぱり出さなくても、瞬時に理解できる帰結だと思う。

申し訳ないが、それを求めている。
それは多くの場合、叶わない。

だから俺の携帯電話には、歯医者や床屋も含め、電話帳が30件しかない。

(続く)

1)個人主義

幼いころ、多動児だった。
あまり多くは語りたくないが、頭が悪いことと不潔であることを極めていた。

俺はハゲている。
ハゲデビューは早く、小学3年生あたりから頭頂部が薄い。
当時はJリーグ全盛期だったので、運動音痴な俺を指して、よく「サッカーのできないアルシンド」と言われた(そんな社会の負債でしかない存在ってある?)。
自分以外に小学生の時点でハゲている親族は見当たらないので、さすがに遺伝子だけのせいとは考えづらい。

おそらく不潔だった時分、洗髪を怠った結果だと思っている。
いまでこそ毎日風呂に入り、歯を磨いている。
鼻毛を切るし、両津勘吉になるのを避ける程度に眉毛も手入れする。
爪に垢が詰まっていることもない。
清潔なつもりでいる。

フロイトいわく、赤ん坊は放っておけば自らの糞便を口にするが、それを親が制止することが「文明/文明外」の弁別の第一歩になる。
古代ローマが巨大な地下水路を設け、糞便を地上から隠ぺいする衛生管理を行ったことで西欧文明の端緒たりえたように、清潔であることは「文明参加」のチケットになる。

いまでこそ俺も清潔を通じて社会に紛れ込んでいるが、たとえばガス室から逃げおおせたユダヤ人強制収容所で施された刺青を腕に残しているように、俺の頭頂部のハゲも「かつて不潔だった」事実を一生忘れさせまいと刻み込まれたスティグマのように思える。

俺は不潔だった。
そして小学生のころ、多動児なりによく授業を妨害し、汚い言葉を口にした。

教師や親、あるいは同級生たちからたびたび叱責されても、ちびまる子ちゃんの山田のように「あはは〜」と痴愚の道を突き進んだが、いっぽう多くの人々が「demioくんは終わっている」と言うのを聞くうち、客観的・科学的に見れば、やはり自分は終わっているんだろうという考えが深く刻み込まれた。

その考えは、思春期になり幼さゆえの衝動を失うと、重く静かなダメージに変わっていき性格が暗くなった。
根本敬松尾スズキ福満しげゆきもそうだったというので、「調子に乗ったバカガキが一転し、中学生になると暗くなる」のは多動児あるあるなのだと思う。

結果、中学生のころには「頭が悪い」「不潔」に加えて「暗い」の三重苦を負った。
さらに言えば顔の造形もよくないしハゲというハンディキャップもあるので、数えるだけ増えていくn重苦だった。
女子からは嫌われ、人付き合いにも消極的になり、中学3年間で放課後に友だちと遊んだことは一度もなかった。

それなりにつらかった。

誰とも支えあうことができないという前提のもと、自らの幸せは自分一人ですべて構築しなければいけないというオブセッションを持った。
読書、映画、音楽、洋服、おいしい店で食事することなど、いまでこそ人生を忙しくする程度にさまざまな趣味を持ちあわせているが、いずれも友人の輪の中ではぐくんできたものではない。
ただ一人で完結する「半径1メートルの幸福圏」を構築していく営みだった。

以前(一人暮らしをしているとき)こういったツイートを書いた。





趣味も、このように快のコックピットを作り上げていくことの同類項として存在する。

また、いま俺は無職だが、昨年度まで社会人として自活していた。
すなわち、n重苦の身分から、どうにかして一定の社会性を得てきたと言える。

お腹に力を入れた聞き取りやすい話し方、スーツと靴の選び方、あるいはカラオケでの時間の過ごし方…など、ふつうの人なら自然に体得していくであろうあらゆる挙動を、社交ダンスの素人がステップを学ぶようなたどたどしさですべて習得してきた。
それは本当に辟易する勉強量だった。
スラムダンクで陵南バスケ部の面々が、顧問から「お前たちがやってきた練習量を思い出せ」と煽られたとき、全員の顔に縦線が入る。
俺はいまだ欠損だらけの人格だが、それでも"社会性"の習得に対し、陵南バスケ部と同じ吐き気を憶える。

かくなる多動児から自立するまでの過程で、「自分はすべて自分が生かすべき」ということが強固な道徳律になった。

人は一人である。

たとえばTwitterなどで多くの人とつながり、有機的な連帯を築けていても、その社交場は薄氷のうえに設営されている。

食うに窮して故郷に帰る、心の病を患う、誰と誰がセックスする、といった偶々でしかない、しかし物質性をもった出来事によってたちまち人と人のつながりは解体される。

そうした"死"を見届けることへの覚悟、いつか一人に戻る可能性に覚悟をもった者だけが、薄氷上の戯れに参加する権利を持つ。
言い換えれば、「死を共有する」ことだけが共同性の可能な在り方だと信じてやまない。

(続く)

0)女性を人間と呼べるかどうかはまだ議論の余地があるだろうが、俺が生涯結婚すべきでないことに疑いの余地はない。

俺はよくTwitterで女性を叩く。
女性という生き物を軽蔑し、憎らしく思っているからだ。
そして同時に、女性に劣情をもよおす。
軽蔑しながら勃起している。

勃起は、すごい。
勃起は自律神経だから、理性とリンクしていない。
たとえばエロ本に載っている全裸の女性に興奮したとき、それがただの表象物だと知らないペニスは、そのエロ本の中の全裸の女性に挿入するため、膨らみ、硬化する。
あるいは、職場の女性のシャツのたゆみからブラジャーが覗けたのに勃起したときも、ペニスは職場の女性に挿入する準備として勃起している。

勃起しているとき、実際セックスできる状況かどうかという理性的な判断に関係なく、ペニスは必ず"そこに入ろうとしている"。
これほど強い「存在の希求」があるだろうか。

かくなる勃起が、軽蔑という拒絶の系と同時に成り立つことは、神が男に残した致命的な「バグ」に違いない。

あるいは、エンジンというものが極端な温度差によって激しいピストン運動を実現するように、人類にも上述のような矛盾(温度差)が施されたことによって、かの進歩と繁殖が促されてきたのかもしれない。
この問題は根深い。

俺は、女性に対する「軽蔑勃起」を、さまざまな言葉の変奏として、これまでTwitterでつぶやいてきた。
Twitterを始めてからずっと、と考えれば、かれこれ4年間は続けていることになる。

こんにち、Twitterで女性を叩くことは一般化している。
俺に限らず、多くの人が行う。
もはや実際に女性が嫌いか否かなど問題でなく、ただ広く共有された「ウケる技術」に堕していると言えるかもしれない。

女性を軽蔑するツイートをしたとき、「お気に入りに登録」のうち、少なくない割合が女性からだったりする。
そういう女性のアカウントを開き、ツイートを遡ると、同性(すなわち女性)を叩いていることがある。
つまり、女性同士が蟲毒を繰り広げている中、そのソースとして参照されている。

女性を叩くことは、男にとって「ウケる技術」に、女性にとっては「卓越化の技術」になっている。
かのように一般化している。

こうした状況にいつも嫌気がさしている。
賢明な人たちは、女性を叩くツイートに飽きている。

もんっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっのすごく飽きている。

だから俺も女性を叩くツイートを少しセーブしているところがある。

しかし、前提を確かめると、そもそも俺は「芸風」で女性を叩いているのではない。
繰り返すと「女性という生き物を軽蔑し、憎らしく思っているから」だ。
飽きるどうこうでなく、事実陳述をしている。
生じた衝動を言葉にせず溜めこむことは、心身によくない。
小鳥が日々さえずるのも健康のためである。

にもかかわらず、女性への鬱屈とした感情を抑え込んでいることは、それがトレンドに順応した小賢しい振る舞いにすぎないことを含め、自分を抑鬱的な気分にさせる。

そうでなく、もっと、しっかりと伝えたい。
私は、本当に"女性が嫌い"なのだということを。

"女性が嫌い"であると言っても、それは心の内側の話――「言ったもん勝ち」なことでしかない。
だから、この思いをより外在的なレベルに置き換えると、俺は「生涯結婚しない」という決意を持っている。

ときどき人と将来のことを語り合うとき、結婚するつもりはない旨を話さざるえないことがある。
しばしば、

「またまたー」
「なに言ってんのー」
「キミがその気になればイケると思うんだけどなー」

といったことを言われる。

それは俺の人となりを見る限り、決して結婚に絶望すべきほど低劣を極めた印象は抱かないという温かい評価のようである。
もしくは、たとえば小学生の男子が性の照れから「オレ、女なんて全然興味ないしぃ」と強弁するのを、微笑ましく諌めてくれているようにも思える。

しかし、俺も決して人の気を揉もうとして非婚を言明しているわけではない。

たとえば俺は、社内で何らかの改善計画を立ち上げ、いろいろな人たちに役割と期限を割りあて、何か問題が起きれば情報収集に努め、導き出された原因にもとづいた対処を実行し、経過観察まで完遂する、といったことができる。

その程度にリアリスティックな思考回路を、自分の将来設計にも用いた結果として「生涯結婚しない」という結論に至っている。

だからこそ、結論に至るまでの理路は決してシンプルでない。
「結婚すべき」と説いてくる人に何か答えるとき、1時間のプレゼンテーションが許されているわけではないため、簡潔に「きっとDV夫になるので」といった答え方で濁す。

5割は、軽蔑の眼差しをもって、話を切り上げてくれる。
もう5割は、ただの露悪的な冗談と受け取り、引き続き「彼に人の愛の素晴らしさ、家族を持つ喜び、愛する妻がいつもそばにいる安らぎを教えてやろう」という意気込みで語りかけてくる。

つらい。

なのに、こういった「結婚を説かれる」ことが年に数回、コンスタントに発生する。
地味に気苦労を負う。

そんな中、俺はブログを持っている。
「1時間のプレゼンテーション」に代わる場を持っている。
だから、ここに「生涯結婚しない」考えを書き残そうと思う。

長い文章になる。
でも、なぜ女性が嫌いなのか、なぜ結婚しないのか問われるたび、「詳しくはwebで」の一言で応じられるようになると考えれば、むしろ長い目で見て「字数の節約」になるはずだと信じたい。

〜もくじ〜

1)個人主義
2)文物主義
3)女性は人間ではない
4)-総論- 私は生涯結婚すべきでないことの証明

(続く)