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2017-02-13 仕事選びの考え方

自分視点自分欲望仕事は選ぶ

給料がいいい、この業界企業は伸びそう、

歴史があるので安定していそう、

どうせ同じ仕事なら、その方がいい。

しかしそれを優先して考えると、

そこで働いても楽しくない。

仕事や同僚のスピードに追いついていけない。

安定はしているけど、結局ここにいる自分ってなに?

という感じになりかねない。

スキル資格は、自分が楽しい、継続してやっていけるだけの興味がある、といったことがないと、中途半端になるし、資格だってペーパードライバーだったら、価値が全くなくなるしそのために努力した時間お金だって無駄になるかもしれない。

資格給料の高さって、考えてみると多少の長短はあっても、短い期間の喜び、ちょっと得な話にすぎないということがわかる。

地位だって同じようなことが言える。

課長に昇進した、うれしい。

そう思えるのは数年だろう。

早い人間は、他の成長可能性の高い部門で活躍しているが、

自分は、地味でもうすぐなくなるような部署、ということになれば、

とっちも楽しくないし、やる気も失せる。

そのうち同僚が次長に昇進すると、さらに落ち込む。

そのことの繰り返しかもしれない。

もちろんそんなことは全く気にしない。

自分自分さ、と思えるならそれこそが自分らしさだが。

ピーターの法則というのは、組織観点から見た個人能力の成長可能性だと思う。

能力が発揮されているうちは、昇進するが、その能力無能力化した時に、

そのポストで止まる、という法則だ。

この昇進を自分の興味というように言い換えたらどうだろう。

興味っていつまでも同じであることもあるし、

途中でどんどん変形していくこともある、

それでも自分で興味を持ち続けることをやっていれば、

ポストの代わりに楽しさややりがいは尽きることはない。

だから、最低限売っていけるだけの条件が揃えば、

自分本位で、本当に興味が持てることに取り組んでいった方が

人生は楽しいし、充実感を味わえるのではないだろうか?

そんなことをしていて、歳をとった時の生活はどうなる?

それは自分責任をとるしかない。

しかしこれだけは言える、歳をとった時の性格の安定のために、

いまの時間や過ごし方を犠牲しにするという計算は成り立たない。

わかるよね。

充実した人が年をとっても、充実しているので、心配することがない。

充実した生活を送った人と後々の安定した生活のために、たのしくもないしごとをしてきたひとの生活は、そもそも、同じ選択肢を持つことはない。

そのはずだ。

2017-02-08 エンプロイアビリティ

2017-02-06 祈る ということ

祈る、という言葉は軽い気持ちで使うことはあるが、

真剣な気持ちでそう宣言したことってないと思う。

祈るには、願いを叶えて欲しいという気持ちベースにあるが、

『困った時の神頼み』というように、その願いがすぐに結論が出るようなものの時に、

お祈りすることが多い。

ところが、先日読んだ本では、祈るというのがただひたすら願う、祈るおはすごく難しいことだという。おそらく雑念が入って、3分もできないだろうと。

たしかに、願っているという状態は、あの人がこんなことを言っていたし、あんなことが起きると、こうだろうな?とか、いろいろな考えや思いが浮沈する。

それは軽いシミュレーションのようなものと言ってもいいかもしれないし、ただ気を紛らわしていて、なんの解決にもならないかもしれない。

しかし、ペンを持って紙に書き出すと、ちょっと違う。

本当の整理やシミュレーションにつながって、なんらかの居直りに近い、結論に届くことがある。

以前、訳のわからないクレーム処理に当たった時など、『ああこういうことは、お門違いから無視しよう。これは共感できるけど、自分にはどうしようもないので、それは伝えよう。それにkンなに長い時間話していても同じことなので、どこかで区切ることを提案しよう』というように整理できて、すごく気分が軽くなったことがある。

祈るってどういうことだろう。

その解決の仕方とか、生涯になることなどを排して、ひたすらその問題が1日もはやく解決することを願う。その一点なのかもしれない。

そうすれば、その集中力の強さが、時空を超えてその問題に到達して解決の穴を開けるのかもしれない。

祈る、ということ何は何以下、宗教とか呪術のような奥深く暗い響きがある。

日常的ではない。

だから、シミュレーション心配することや、課題の整理といったことに置き換えられない何かなのだろう。

そういうことがあるのだと知っておいてもいいかもしれない。

いざ何もできなくなった時に。

2017-01-30 自分探しの、自分って

最近でこそ、自分探しということばはあまり見かけなくなった。

流行語のように、自分探し旅行に行く。

自分が探せなくなった仕事を辞める。

方針が定まらない、一つに集中できない。

そんなことを自分探しと言っていたのかもしれない。

確か養老孟さんだと思うが、

自分探しといっているひとは、当の自分というものは変わらないと思っているんじゃないか、という指摘をしていたが、いわれてみればなるほどですよね。

自分というものがあるなら、それは探せる。

でも自分がわからないのに、その自分を探すことはできない。

仮にいまこの時の自分がはっきり見えていたにしても、

それを探しているときに、自分は変わらないままでいると言えるだろうか。

全く変わらない自分

変わらずに残る自分と、変わっていく自分

その合計である自分は、やはり変わっている。

時間が経過するだけで、細胞は何千何万と入れ替わっていくし、

目の前の風景も、体を包む温度も風も変わっている。

それが生物である自分生き方だから、変わりゆく自分を探すということは、

自分が考える自分の方向にむけて、自分を変える経験を作り出すことじゃないか。

理屈っぽいが、そう考えると、それをいつも考えながら、なるべく多くの行をし、経験したほうが得のような気がする。得?って言っても、それは誰が何を得した、というよりは、生きる喜びっていうものを、多く味わえるというくらいの得ってことだけどね。

だから、自分が変わっていることを自覚しないと、あっとう間に過ぎ去っていく過去の自分を探すってことにもなりかねない。それって単なるいい思い出だったり、もう戻れない、終わったものを探すということ。

それを続けるって、寂しいね。

ひとはよく死ぬために生まれ、生きていると言われる。

確かに死ぬのだから、始点と終点時間の流れをいうとそうなる。

しかし、生きているってことは、その始まりと終点ではなくて、その過程だ。

それも一直線ではなく、山あり谷あり、逆戻りや立ち止まることはないにしても、意識面では太かったり細かったりするということはあるはずだ。

その一瞬一瞬は、意識を高揚させたり落胆させたりする。だから、一点だけを取り上げて眺めてみても、人生って意味がない。最近そう思うようになった。

生きているってこそは連続の中にあって、山谷があって、嬉しいことも悲しいことも、成功も失敗もある。

当然楽しい経験を多く長くして生きていきたい。

でもオール100点というのはない。

そういうものだと考えたら、まはちょっと我慢しておいて次の楽しい体験の準備をしようと考えるほうが、健全だ。

自分探しって、だから腰を据えて、楽しいことを探したり作ったり準備することって考えたほうがいい。

2017-01-29 形こそ、感情のもと

悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ。

アドラーはこう言っている。

そう形をしっかりとれば、そのようになる、できるのだ。

内田樹さんも言っているように、母親のように日々の仕事料理洗濯ということだけど、をしていると、母親のような気持ちになってくるのだそうだ。

実は僕も家族が怪我をしたり不在だったりした時に、

洗濯(といっても洗濯機に放り込んで干すだけだが)や料理野菜を切って煮詰めるだけのスープ岳、毎日飲んだ)をし、洗い物をしていると、そうした主婦家族のために家事に勤しむ主婦のような気分になったものだ。

剣道で言えば残身をしっかりとれるように打ち込め、とよく言われた。

オートバイコーナリングでも、コーナーを綺麗に回り終えた姿をイメージできると、コーナリング問題なくスムーズに行くと言われている。

そのように考えると、プロジェクト恋愛でさえも、うまくいった状態イメージできれば、いいアプローチができるかもしれないと考えるだろう。

でもそうはうまくいかない。そこに相手気持ちというものがあるからだ。

しかし、無駄ではないだろう。

まず、プレゼンがうまくいったイメージを持って準備をし、実行すれば、効果的だろうし、自信を持って仕事を進めれば、周囲も安心しててっつだてくれるかの可能性も高まる

だから、今目の前の問題も、それがうまくいった後のイメージを作るのは重要なことになる。誰も成功させるためにやっているのだから、成功した状態をはっきりさせなければ、行動自体曖昧になる。

形から入るというのは、成功の癩であり、それにつながる流れの形である。

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