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【お知らせ】

日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)がAthlete Societyに協力。アスリートのためのソーシャルメディア活用講座を行いました
ボランティアつなぎサービス「skillstock(スキルストック)」開発中

2012-05-29

[]スキルを生かした被災地の課題解決ツアーの打ち合わせに南三陸と仙台に行って来ました

ボランティアつなぎサービス「skillstock(スキルストック)」のチームは、NPO法人「ボランティアインフォ」の大藤さんの案内で被災地をまわってきました。

目的はスキルを活かして、被災地で活動する団体の課題を解決するバスツアーの協力依頼と打ち合わせです。訪問したのは南三陸町の「NPOみらい南三陸」、仙台市若林区の「御町五丁目公園仮設住宅」、仙台市内のみなし仮設で活動する「マートル」、「Dandeらいおん」で、各団体ともに関心が薄れていく中で、自立や持続的な活動についてのお話が出ていました

高速バスで仙台に集合。早朝に出発したので石巻と南三陸をまわり「みらい南三陸」さんに伺いました。防災対策庁舎には視察のバスが訪れていました。

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高台から見下ろした南三陸の町。こちらではフランスから来たグループが視察していました。被害の大きな三陸沿岸の被災地を初めて見たチームメンバーもいて、大きなショックを受けたと話していました。ただ、「自分の目で見る事ができて良かった」とも。まだ、家の土台だけが残る町も被災地のひとつの現実です。

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ここからは各団体の活動と打ち合わせを簡単に紹介します。

南三陸戸倉の仮設住宅を拠点に「女性が元気だと家庭が明るくなり、地域も活気が出る」と活動。地元産わかめの出荷、被災地の人の声を集めた書籍『南三陸町からの手紙』を出版、お花見の開催など仮設住宅でのコミュニケーションにも取り組んでいる。笑顔の素敵な代表の下山さんと大藤さん。

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仮設住宅の女性たちが小物をつくる。現在7人。支援で届いたミシンで自宅作業できるので子供がいる女性もいる新たな作品づくりにも取り組む。布の買い出しなども気分転換になる。作っても買ってくれるのかという不安、継続的な販路に課題。女性たちがつくった巾着や財布など。

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仙台市若林区の沿岸部で被災した女性の手芸団体。モールで販売したり、イベントに出展したりしている。活動者は民間借り上げ住宅に住んでいる方が多く、活動拠点の確保が課題。企業からの支援もあるが、一度に大量に作る事は難しい。被災地の支援の意識は薄れているので今年一年と考え、自立を模索している。

夏祭りや花火大会といった日常的なイベント、子供向けの紙芝居に取り組む。「後世に話し言葉として残したい。防災・減災に役にも立つはず」被災の語り部事業を始めたばかりで、育成や事業化のノウハウが必要。

貴重な時間を割いての打ち合わせでしたが、各団体の皆さんにはスキルを生かしたツアーにも関心を持って頂きました。また、みらい南三陸さんからは口コミで人気のわかめと書籍を、御町五丁目公園さんからは財布などの小物を頂きました。ツアーについては、各団体やバス会社などとも打ち合わせを行い、なるべく早く発表ができるように進めて行きます。

【メディア掲載】

【関連エントリー】

2012-05-22

つながりのジャーナリズム 寺島英弥さんとの対話 第4回「幻想のハッピーエンドなんて誰も信じていない」

当事者が引き裂かれていく中で、地方紙記者の役割を「他の世界とつなぐ」ことに見いだした河北新報の編集委員寺島英弥さん。東日本大震災による影響で新聞発行が危ぶまれる中で、ブログの扱いは「ベルリンの検問所のバーが突然上がった」ようになり、寺島さんは狭い「新聞盆地」を飛び出し、ブログで東北の様子を首都圏や全国の人に届けた。

ソーシャルメディアによって誰もが情報発信できるようになる中で、地方紙記者は当事者とやり取りをする中で、新しいつながりを生み、希望を紡ぐ。

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寺島:伝えたい。だけどいろいろ壁にぶちあたっている記者もたくさんいるわけで。震災報道は、終わりのないマラソンみたいなものなので、その中で疲れ切っていく。自分達も希望が欲しいというのは、みんなで話し合ったということがあるわけではないんですよね。それが報酬みたいなものになっている。

藤代:希望が。

寺島:希望があるんですね。

藤代:僕はすごく嫌なんですね。地域に希望を見いだそうというキャンペーンが…

寺島:地域に希望という…

藤代:なんというか、希望を見いだすことが目的化する記事があるじゃないですか。地域を活性化させようとか。

■希望や地域活性化が目的化する記事

寺島:たいてい自己満足ですよね。宣伝みたいな。

藤代:そう。宣伝みたいな。

でも、寺島さんの記事はそうではないと思うんです。被災地は苦しいけれども、被災地で起きていることは現実を顕にしただけじゃないでしょうか。どの地方だって、人口は減って、若い人も減って、地域産業は苦しい。東京からのお金に頼って、自立が難しい。それが被災地で顕在化しているに過ぎないと思うんですよね。そして、地域を応援するキャンペーンをやる地方紙ででてくる。それって非常にうさんくさい。

寺島:まあ、伝統技ですけどね。

藤代:そう。地方紙のお約束。でも、寺島さんもこれまでのキャンペーンと同じような話をしていると思うんですよ。でも、どこが違うんですかね。

寺島:先が見えない。先が分からないんですよ。ハッピーエンドがあるわけではなくて。幻想のハッピーエンドなんて誰も信じていないし、最悪のことをみんな胸に秘めながら会話をしているんですよね。それを口にしないまでもですね。もう故郷に戻れないんじゃないかとか、あの子はもう帰ってこないんだとか…

最悪のことを経験したり、最悪のことを思いながら、だけど口にせずに向きあってるのが、今の状況だと思うんですね。だから幻想のハッピーエンドなんてまずあり得ないし。そんな先の希望なんて誰にも示せない。自分のことすらわからないんですからね。

だから、その日その日の希望だと思うんですよね。ちっちゃなろうそくの火みたいなもの。共同幻想としての希望なんてものはたぶん誰も信じていない。それぞれに置かれた状況がもうあまりにも違うし、家が残った人、流された人、放射線量の関係で家に帰れる人、帰れない人とかね。だけど欲しい。

藤代:そうですね。

寺島:だから今までのような地域キャンペーンのようなあり方ではないんですね。

藤代:でも、なんかたぶん本当はそうだったんじゃないかなあって思うんですよ。僕の故郷の徳島でも、島根や鳥取でも。口には出さないけれど、この地域が終わりだなと思っている人いるような気がするんです。

寺島:ああ、なるほど。

藤代:だから、これまでの新聞の地域おこしキャンペーンのような安易な答えを出すことが軽いというか、説得力がなくなってきている。寺島さんの言葉が胸に響くのは、被災地の人だけ響いているわけではないと思うんです。多くの人が反応して、東京の人も読んでくれる。

僕が思うのは、誰しもが幻想のハッピーエンドなんてないって分かっている。だけど、小さなその希望がないと心が折れてしまう。

■ちっちゃな希望の火を分かち合うブログ

寺島:フィクションでは作り出しようのないものがある。自分たちが向き合うのは、リアルな現場の人達。特にその中のこう、なんか一個一個の、なんていうんだろうなあ。一個一個のちっちゃな現実の中の希望の火というのを分かち合ってくれる人もいる。これはブログで分かりました。

藤代:ああいう現実を見せられて、答えないじゃないですか。寺島さんのブログには、答えなんて載っていない。でも、けっこう苦しいと感じる読者もいるんじゃないかなと思うんですよ。答えがない原稿ってけっこう辛いんじゃないのかなって。記者のなかには、結論を書かないのはおかしいという人もいるかもしれない。新聞には結論が書いてありますからね。

寺島:記事の前文には、その時点で切り取った結論がね。それがリード文ですからね。

自分たちが抱いたほっとするものが次々と覆されてきたという連続だったんですよ。こういう方針で行こうとなったときに、ホットスポットが見つかったり、ある日突然政府から避難しろと電話がかかってきたり。だからもう何を信じたらいいのかわからないという。それまで何世代にもわたって引っ越しなんてしたことなかったような人達が、仮設住宅にいたりとか、息子娘を頼って首都圏にいったりとか。

何というのかなあ。「ふんばる」でもブログでも紹介したのですが、飯館村から福島市の仮設に避難したおばあさんたちの活動。昔着てた服をつくり直して、また着てという伝統があって、それを仮設住宅で取り組んで「までい」という名前をつけた(仮設の日々を支える)。そしたら、その活動が3月11日に千葉のそごう柏店で展示即売をやったら、ものすごい人が来て400点くらいが完売した。

活動の師匠役になっている人も80歳を超えているおばあちゃんなんですよね。村を離れるというとき3ヶ月くらい寝込んで「死にたい」って言ってた人が、仮設住宅で桜祭りっていうお花見会をやるようになったんですね。歌を歌ったり、みんなでいろんなものを一緒に食べたり(までい着の母)。

こないだの土曜日にそこに行ったのですが、おばあちゃんが「自分が今生きているのは本当に不思議だ」と。「までい着の取り組みをやろうと言ってくれた人がいなかったら、私はいまここにいなかった」と泣くわけですよね。その時々の絶望みたいなものと、すごくちっちゃな嬉しいこととかっていうのの繰り返しなんですよね。

私がずっとふんばるで書いてきた佐野さんという人なんです。

藤代:はい。

寺島:とても明るくて朗らかの人なんだけど、飯舘村の自宅にものをとりにひとりで車で帰るときに、泣いてるとうのを初めて聞いて、私びっくりしたんですよね。果てしのない終わりのない繰り返しの中でみんな生きていて。その中で、自分が解決策を提案できるわけでもないですよね。

までい着の活動を紹介したり、師匠役のおばあちゃんがいると聞いたら、「ふんばる」に今度出てくださとか。小さな本当関わりに過ぎないんだけれど「死なないでよかった」という言葉を聞くと、記者にとっての報酬というのはそれなんじゃないかなと。

藤代:なるほど。寺島さんの記事は人生なんですね。人生って苦しいことがいっぱいあるじゃないですか。外からみてると順調に見えるような人の人生でも、とてもとても大変なことがあって。今日へこんだらまた明日いいことがあるの繰り返しっていう話はなんか人の人生とあんまり変わんないなと思ったんですね。寺島さんは、人間の記録をずっとやっているのかなあと話を聞きながら思ったかなあ…

■一人ひとりの人生が震災の歴史

寺島:ひとりのもの書く人間にできることなんていうのは本当に限られたことでしかないですよね。その人の人生変えるなんていうことはできることでないですからね。

でも、俺が思うのは、一人ひとりの人生が歴史なんですよね。ひとりひとりのその一日一日というのが。たった一日のことを一回のブログで書くわけですが、それが震災の歴史なんですよね。結局地方紙がやってきたことっていうのは… 東北大で河北新報が連携講座をやっていて…

藤代:はい。

寺島:非常勤で行ってるんですよね。そこで河北新報、地方紙の誕生と生き方みたいのを話しました。

河北新報は、明治維新で敗軍になって、貧しい一山百文だといわれたところから*1始まった。そういうところに原発がやってきて、たくさんの金が落とされて依存せざるを得なくなり、58基中の18基が東北にあるような。

でも、反対する人間のこともちゃんと書いてきた。南相馬市(当時は原町市)が防災計画が原発から10キロで終わりはおかしいと意義を唱えた記事だとか、100年そういうことを記録してきた。それは311につながっている。それが地方紙の役目なんだという話をこの前東北大の学生さんたち話したわけですよ。自分がやっていることはその延長線にあるものでしかないということを。新しいメディアを使ってですね。

ひとりひとりの人生に留まらず、歴史の記録だとと自分でどっかで思っているところがあってですね。だからやめられないというところもあるんですよ。自分のそのブログも終わりがないんじゃないかという風に覚悟していることがある。

藤代:途中で言おうとしてやめたんですよ。講演や講義で話すんですが、ジャーナリストっていうのは、反権力とか社会正義をとかじゃなくて、記録をする人だと。

寺島:立会人みたいなものですね。

藤代:はい。歴史を刻む人です。(続きます)

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*1:「白河以北一山百文白河の関より北は、ひと山で100文の価値しか持たないと新政府から蔑まれた

2012-05-16

つながりのジャーナリズム 寺島英弥さんとの対話 第3回「地方紙の記者は新聞盆地の住人だった」

河北新報の編集委員寺島英弥さんは、被災地を丁重に取材する中で引き裂かれていく当事者を目撃し、厳しい状況の沿岸部から仙台に戻ることができる立場に罪悪感を感じたことをブログにつづります(三陸の被災地へ ・2日目/綾里)。

東日本大震災の被害者として「お互い様」な立場のはずの被災者と記者、被災者同士が同じではないという現実。アメリカで学んだシビックジャーナリズムであれば、多様な声をとにかく集めるフォーラムをつくる、となるところがとても言い出せない。報じる立場としてのジレンマをどう消化するのか。

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寺島:いろんな現場が多すぎて突き詰めることができなかった。現場に行かなくてはならないっていう生活。それもまた引き裂かれた自分ですよね。その中を往復しなければならないっていう。

藤代:そうですね。

■できることは外の世界とつなぐこと

寺島:これは自分の中でも解決できない。だからこそ自分のできること他の世界とつなぐ… 例えばジャズ喫茶の店主の話(ジャズ喫茶、みたびの夢/その1)もそうでした。被災地と外の世界というのが繋がったことで5千枚というレコードが大船渡にある。

藤代:そんなことになってるんですか。

寺島:3月11日に

藤代:再開したんですか。

寺島:ええ。だから、外の世界に繋ぐのはできる。「ふんばる」(河北新報の連載)という記事自体が東北への応援ということでやってきた。それをさらに首都圏まで繋いでということをブログの役割に自分なりにしたんですよね。例えば、福島県の新地町っていう宮城県境にある街にりんご農家があって(リンゴ畑に吹く風)。

藤代:ああ、はい。風評被害で注文が来なくなったりんご農家のお話ですね。

寺島:筑波の研究機関に毎月のようにりんごを検査で送って、やっと合格が出て、ブログやツイッターも始めて。「福島の農家は人殺し」という言葉もあるような中で勇気をもってネットに入っていって。それでもやっぱり注文が来なくて、というのをふんばるの中でもブログでも書きました。

藤代:読みました。

寺島:ブログがですねツイッターで繋がって、江川紹子さんがりんごを買ってくれたというようなことがあったり。なんていうんですかね。外と繋ぐ。外の世界と被災地のただ中との間にいる人間にできることっていうのはそれがあるのかも知れないというのがだんだんと思いましたね。

藤代:これって地方紙の今までの役割的にいうと、かなり逸脱があるんじゃないかと思うんですよね。地域の外と繋がっていくというのは、今まで全国紙がやってきたわけですよね。

寺島:でしょうね。その通りだと思います。

藤代:ですよね。でも、インターネットとソーシャルメディアの登場で地方の記者もついに全国の人とつながる事ができるようになったってことを僕はずっと言い続けてきたけれども、寺島さんがついにそれをやってくれたんだなって、すごく嬉しく思っていたんですよね。

寺島:藤代さんにそういって頂くと俺も目が覚めるような気持ちでですね、

藤代:でも実は難しいじゃないですか。寺島さん以外の人が、じゃあこれ外の世界と繋がるっていうと、実はどっぷりこう記者自身も

寺島:会社の中に?

藤代:会社の中もあるし、その東北っていう枠組みとか、宮城っていう枠組みであったり、の中にいてしまう。新聞記者って以外と交遊関係少ないじゃないですか。どうやったら、外とこういう、繋がれる活動ができるようになるんですかね。

寺島:あの、盆地の中の住人ですよね。ひとつのね。

■記者は新聞盆地の住人

藤代:そうですよね。新聞盆地みたいですよね。

寺島:新聞盆地ですよね。それぞれの新聞ってそういうものでしたもんね。

藤代:そうですよね。

悲から生をつむぐ 「河北新報」編集委員の震災記録300日

寺島:横に繋がりがなくて、ジャーナリズムの世界なんていうのも、実はそれぞれのなんかその新聞ジャーナリズムの世界があってそれぞれの古井戸の。

藤代:そうですよね。新聞は新聞。なかなか雑誌ジャーナリズムの人とは出会わない。(寺島さんのブログが本になった『悲から生をつむぐ 「河北新報」編集委員の震災記録300日はJCEJの前身イベントでの出会いがあった)

寺島:そうですよね。そういうところはやっぱり盆地の住民だった。藤代さんのようにそこを飛び出して、自ら道を開拓するしか生き方がないんだろうか。藤代さんをまぶしく思う地方紙記者もたくさんいると思う。

藤代:いやそんなことはないと思いますけど

寺島:そんなことないです。まあなんでしょうね。ひとつは、震災という渦中の中でものすごく状況が一変してしまったということあって。

ひとつ例にあげると、編集局の中でもそのブログの扱いが変わりましてね、ブログというかネットが開かれたんですよ。それは俺がブログで「余震の中で新聞をつくる」っていうのをやりたいんだっていったときに、編集局長が即座に「やってみたらどうだ」と言ってくれました。新聞は8ページしかなくて、新聞の危機だというのはまぎれもない。とにかく、あらゆる発信手段を試さなきゃっていう、そういう空気になった。それで、メディア局とか夕刊編集部だとかが、ツイッターを始めた

どうしても新聞社は取材で知り得た個人情報みたいなやつは書くなとかっていうのあったじゃないですか。

藤代:はい。非常に難しいですよね。どこまで、書くんだと。

寺島:そうですよね。ええ。だから結局コラムとか、デスク日誌だとか、そういう風なことしか書けないのかなという。下手に書くと炎上するぞ、炎上したらどうすんだというのが、上の人たちのブログ感みたいなものですよ。それが渦中ではとにかく試してみるしかない、やってみようというのがあって、要するにベルリンの検問所のバーが突然上がっていた、という風な。「さあじゃあ行ってみよう」という風な状況に似てるなと思ったんですね。だからありのままに書くようにしたんです。

藤代:寺島さんと取材相手との関係は相当ブログで書かれてますよね。

寺島:そうですそうです。この人がどんな状況でどういう風なことで悩んでいて、というのをありのまま書く。結局その、ありのままっていうのが、つまり、藤代さんの本(「発信力の鍛え方 -ソーシャルメディア活用術」)の中にも神は細部に宿るという言葉がありましたよね。自分もそうだと思っていて、それで出会った相手にはブログで書かせてもらいますからと伝えるようにしてます。

その人とは、2度3度と会っていく事になるわけですよね。通っていくことになるわけです。書いた記事を送って見てもらうと「これが俺の生き様だなあ」と相手が言ってくれるわけです。一度としてそれで抗議をもらったりしたことはないです。

もともと記者っていうのは、絶対的他者として当事者と出会うわけなんですが、新聞に記事を書いて、それを相手に送って、それによって信頼を得て、その人のことをさらにブログで書くという関係づくりが自然にできていったということが大きいのかなと。

■新聞記事ははじまりに過ぎない

藤代:それってもう、新聞記事がはじまりっていうことですね。全然終わりじゃない。

寺島:新聞記事ははじまりです。きっかけです。その後の変化の中から続報というのも何本か書いてきました。

藤代:それがすごくおもしろいなあと。普通の記者って新聞記事かいたら終わりと思っているじゃないですか。

寺島:ええ。多分。これは俺の思い込みかもしれないけど、全国紙だと遠くから来て取材してまた遠くに帰るとかってなると、一回の記事を切り取って、これが被災地の実情ですと書いてそれで終わり。地方紙の記者は、仙台に帰って、また峠をこえて会いにいく。新聞記事をきっかけに縁を重ねていくというんですかねえ。

藤代:うん。なんかこう、この寺島さんの考えを伝えるのがすごく難しいといつも思うんです。なんだろう。踏みとどまったり、一緒に生きていくっていうのはあるんだけど、日常に戻る罪悪感っていうのがあるわけじゃないですか。

やっぱり、さっきおっしゃっていた絶対的な他者として会うっていうのはやっぱりあるじゃないですか。その人の人生に変わることっていうのは私たちにはできないわけじゃないですか。生きるのはその人であって。でも、絶対的他者じゃなくて、繋がっていく。人間としてその繋がっていく関係。そういう関係って何なんですかね。ジャーナリストは、旅人的な一期一会だから書けるっていうのがあった。だけど地方は留まっているから、そんな簡単に書けない。さっきのお巡りさんとの関係みたいに癒着になってしまう(第2回を参照)のでもない。これは、一体なんか、どういう風な言葉で表現したら良い立場なのかっていつも思うんですよね。

■記者は人生を代われない

寺島:東京なんかで「こういうことやってるんです」と活動を説明すると「じゃあ客観性はどうなんですか」と質問されるんですね。客観性という言葉はすごくあの…客観性なんていうものさしはどこにもあるわけではないんです。都合のいいときに客観性という言葉を使っているだけで、主観でしかない。

現場にいって真っ裸になった人たちと出会ってのこちらも真っ裸になってその場所で付き合わない限り聞く事はできない。遠くはなれて、カメラで写真を一枚とったからって何にも伝えられるものはない。

藤代:どうしても対立軸的に考えてしまう人がいます。客観的なものと当事者、どちらかだという風に考えてしまうと思うんですよね。なんか今の僕たちの話はどちらでもないような気がしているんですよね。

なんかその、地方紙の記者って時に農作業を手伝ったり、収穫を手伝ったりしてしまう。僕とかもそうでした。でも、最後にその土地に踏みとどまってりんごをつくるのはりんご農家の人じゃないですか。記者じゃない。だけどもすごくシンパシーを抱いて、一人の人間としてその人と付き合って、そのなんていうんだろう。僕も答えはないんです。

僕はずっと誰もが情報発信できるようになったときの当事者や新聞社の役割について考えてきました。私はりんごを売ってます、風評被害で売れませんと伝えるのは、もはや当事者でもできる。そこに寺島さんがいって、話を聞いて、誰かになにかを伝えることの意味はどこにあるんでしょう。

寺島:そうですね。自分にできることは非常に限られていて… えー、俺は藤代さんにさっき取材するときにもう一人の俺がいるんじゃないですか、と言われて「はっ!」て思ったんですよ。そういったことを出会った当事者が知る事で、ひとつでもふたつでも新しい繋がりができることで、希望を見いだしていく。

また、記者達がという話に戻りますけれども、それぞれに被害を受けていて自分たちの希望も欲しいんです。記者たちも誰かがこんなことをやっているということを知って、希望を見いだしたい。そして読んでいる人と分かち合いたいっていうことがあるんですね。

二度目の3月11日が過ぎて、これからはどんどん風化が進んでいく。そして当事者が引き裂かれた状況というのが次々と出てくる中で、前のようにはなかなか東京からも取材が来なくなった、忘れられていくんじゃないだろうかとか、再建はいつなのかとか不安を持っている。その中で生き続けていくというのは本当に大変なことですからひとつでも小さな希望をつくっていきたい。(続きます)

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2012-05-13

つながりのジャーナリズム 寺島英弥さんとの対話 第2回「新聞原稿でもルポでもない文章と引き裂かれる当事者」

東日本大震災の被災地のただ中の地方紙、河北新報の編集委員寺島英弥さんは、「出撃(現場に取材に行く事)」出来ない中で同僚の記者の活動をブログに記録し始めます。ブログ「Cafe Vita」で始まった記録のタイトルは「余震の中で新聞をつくる」でした。紙の新聞の危機を感じながら、ブログの可能性にかけた寺島さんに反応が届き、つながる実感を持てたといいます。

「余震の中で新聞をつくる」の特徴は、とにかく文章が長いこと。そして、インタビュー相手の言葉だけでなく、寺島さんの心象風景も、相手とのエピソードも「です、ます」調で綴られます。その理由を聞く中で「ルポ」という言葉が出てきました。

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藤代:ルポ調。うん?

寺島:自分をうまく切り取ってばっとみせる、みたいな。そういうものじゃなくて、相手はいて、その人のことを自分はただありのままに伝える。そういう自分は役目だと、取材の現場にいるときに思ってしまうんですよね。自分ができることってなんだろうかって、現場にいるとき記者はみんな思ったと思うんですよね。

でかすぎて、フレーミングができない。切り取れない。その中でも、その人の想いなり、その人の経験なりをいっぱい切り取って新聞記事一本にまとめて。後はその人に会いに行ってくださいというしかないわけなんですね。読んだ人がその人に直に会いに行って、という体験を時間の流れを含めて、まるごと追体験してもらいたいというのがあります。時間の流れというのはどうしても新聞の限られた行数の中ではやっぱり伝えられないですね。

藤代:そうですね。

寺島:それをなんとかブログの文章で、時間の流れも含めて、自分がそこにいた、立ち会った時間の流れそのものをいろいろ伝えられないかと。

■新聞原稿でもなくルポでもない文章

藤代:読んでいてすごく思うのは、寺島さんの言葉が伝わる感じがするんですよね。新聞ってできるだけプレーンになろうとするじゃないですか。フレーミングはあるにしても客観的な記述で記者の存在を消す。一方でルポは「俺は見た!」というパターン。

寺島:そうですね。そこから始まりますね。

言語としてのニュー・ジャーナリズム

藤代:そのどちらでもない。寺島さん自身も、自然に書いてあって、飾らない寺島さんがいて、それを通して読者が取材対象者を見るというのは、これまでにない文体だと思うんですよ。今回、寺島さんとお話する前に玉木さんの「言語としてのニュージャーナリズム」を読み返しました。カポーティから始まる流れ、ハルバースタム、沢木耕太郎とか、中立や客観報道ではなく、取材相手と関わっていく。寺島さんもそれに近いと思うんですが、なんとなく違う気もしたんですが…

寺島:あの、ルポでも自分の中で一旦記事を噛み砕いて消化して、そこから出てくるものじゃないですか。濃縮する。自分の中で消化して、もういっぺんだした言葉。だけども、今回の場合には、自分ではもう消化しきれないような体験をみんなもっているわけですよ。ナラティブっていうんですかね。そういうのを語るうちに。あの、聞き語りとも違うんですよね。それをちゃんとまず伝える、ありのままに。

藤代:なるほど。

寺島:聞いている私がいる。聞いている私がこう思った。私がこう思ったっていうのは、その人(取材相手)がその場で生き様とかを語ることに、自分が影響するものではなくて、あくまで自分も聞いてて、こうそのときにこう思ったっていう、のを置かなければいけないと思うんですよね。

藤代:それはあの、あれですか。ここだといるじゃないですか。藤代と寺島さんがいる。で、いま、会話をしている。ルポだと、一回僕が寺島さんの話を聞いて、私が見た寺島さんということを書く。でも、寺島さんの今回の話は、ここ(頭の上当たりを手で示しながら)になんかもうひとりの藤代がいて、寺島さんの話を聞いた時に藤代が率直に思ったこととか、ああなるほど、今こういう感情をもっているなということも含めて、全部、記述する。この、ここにいる人(頭の上にいる人)が記述しているっていうことですね。

寺島:ああーなるほどね。

藤代:ということなのかなあと、寺島さんの話を聞いて思ったんですが。

寺島:そうですね。確かに。自分はその時こう答えたっていうのも含めて全て。時間の流れ。起きた事。ありのままって結局そういうことなのかなっていう。なんていうんでしょうね。

藤代:あんまり寺島さんの中では今の話は自覚したことがないんでしょうか。

寺島:ええ。もう一人の自分とかっていうのはあんまり考えたことなかった。藤代さんに言われて…

■記者と当事者の関係

藤代:佐々木さんが書いた新しい本(「当事者の時代」)に寺島さんが当事者になった記者として紹介されてますよね。確かに、寺島さんは本とか、いろんな講演でローカルの記者は当事者であらねばならないみたいなことをおっしゃっている。

寺島:ええ。シビックジャーナリズムの私なりの訳といいますかね。

藤代:でも、どうも納得がいかなかった。寺島さんが取材対象に、すごく寄り添っているのは知っているんだけれど、いわゆる当事者ではないんじゃないかなと。当事者っていっしょになっちゃうというか。べったりくっついて。僕は社会部のサツ担当っていうのは当事者になってたと思うんですね。自分がお巡りさんになった気になって、お巡りさんと一緒に事件を解決して。

寺島:なるほど。そういうことですよね。

藤代:ですよね。

寺島:一緒に打ち上げして。

藤代:そして警察の代わりに論評する。でも寺島さんのいっている当事者はそうではないような気がしてたんです。

寺島:あの、たぶんですね、自覚せざるを得なかったことっていうのが、自分の実家が被災地になったということ。みんなそうなんですけど。気仙沼総局長は大槌でご両親をなくされた、そういう人ばかり。自分も2週間ぐらい実家帰れなかったんですね。交通が遮断されたり、三陸に取材に行ったりとか。遠くにいながら原発事故の行方というものをとにかく祈るような気持ちで、最悪の事態にだけはならないようにという、それしかできないという自分がいて。

でも、親はこんな年寄りに放射能なんてもう怖くないんだと。だから心配しないでお前がんばれというわけですよね。そのことに、こっちはもう焦り、というかですね、それに甘えているなと分かりながら、次の取材に行く。だから、取材現場で被災者に会えば、「いやあ、本当に大変でしたね。こんなことになってしまってね、うちのいなかでも浜の方が津波でもう、友達のいた集落もみんななくなっちゃったてね、うちは米倉なくなったくらいで大丈夫だったのよ、だけど放射能が来ましたねー」っていう、お互い大変でしたね、みたいなところから始まるんですよね取材が。東京からきたなんとか新聞ですが、お話聞かせてくださいとか、そういう風な取材じゃないんですよね。

もうお互い様みたいな感覚っていうんですかね。やっぱり被災地の人間同士みたいなそういうところがあって、だからほら腕章していったんですよ。腕章していくと、大船渡でも陸前高田でも石巻でも、向こうからきたおばさんとかおばあちゃんがとかが、「ご苦労様、頑張ってね」とこちらを見ていわれるんです。頑張ってねって、自分が家を流されて、家族も死んじゃったような、ねえ、自分の家の跡に位牌がないかと探しにきたような人たちから頑張って下さいねとかご苦労様と言われるわけなんですよ。当事者性ってたぶんそういう風なことなのかなと自分でも思ったんですね。

藤代:ただその当時者性を突き詰めていくと分断されていく自分もあるじゃないですか。一番最初は、地震や津波被害を受けた自分たちという大きな枠組みだったのが、だんだん立場が変わってきて、お互い様というのがなくなって、あそこのエリアは被害が少なくていい、でもうちは流された。もっと早く復興に向けて欲しい。いや、もっと復旧に手厚いものを。いや、だったら早く商店を再開すべきだというようなものが顕在化していくじゃないですか。そして一方では学校や東電相手に訴訟を起こすんだという人も。

■引き裂かれていく当事者

寺島:そうですそうです。一本の記事で、遺族たちがっていう風な、主語では書けなくなってしまうという。みんなそれぞれになんとなく違う、方向にいくとね。それまでは被災して大変状況になった、なになに地区の遺族という一本の記事だったのが、一本の記事では書ききれなくなってしまういくつもの立場ができてしまっている。飯館村でもそうですね。もっと早く逃げるべきだった、村人を留まらせた村長の罪は重いという人もいれば、もう無理なんだから避難してフランスでも西日本でも、移るべきだっていう人もいれば、どうしても難しいとは思いながらやっぱり帰りたいという人もいる。具体的に帰るための目標をつくるためにも除染を積極的にやらなければならないという人もいて。

だけども、ひとりの人間、地方紙記者の数っていうのは限られていますよね。だから、広大な被災地をまわりきれないわけで、出会いきれない人がいて。自分の身体が一つでは足りない、二つ欲しいという風に実感しましたね。本当に何が望みですかって聞かれた時に、身体が2つ欲しいと言ったんですね。だけど1つしかないから自分ができることはとっても限られてて、書けないままのことの方が多いわけですよね。それでもう胸がやぶれそうになるくらい苦しくなって、やっと一本記事を書いて、少し楽になってみたいな。いくつもの立場を同時に伝えるのはやっぱり物理的に不可能なんですよね。だからそこで自分が出会って縁が出来た人っていうのを時間の流れ、変化も含めて書くというか。

南相馬のある農家の人が区長をやっていて、自分の農地を除塩をしてブロッコリーをつくっていきたいと。農家の仲間たちは死んでしまって、その人たちの分までその自分はもう、やれるもんであれやる気のある農家の人たちと一緒に会社でもつくってそういうのをやりたいとかっていうんだけれども、地域のなかでも、まだ自分の身内が見つかっていないとか、それどころじゃないという人。あるいは東電にこんだけ酷い目にあったんだから、もっと区長はそちらで調整をやってくれるべきだと。

藤代:東電と闘うべきだと。

寺島:そうです。そういう人もいれば。だからひとつの集落の中でも、その人自身がいくつもに引き裂かれるような。だから結局その、その人を通して、引き裂かれていく状況を伝えていくということとかなんですかね。

藤代:引き裂かれていくということについては、僕は結構ずっと前から考えてるんです。それは日常に戻るっていうことなんじゃないかなと思うんですよね。その、非日常というのは、実は繋がっている。ひとつになって瞬間みたいのが生まれるじゃないですか。

寺島:なるほどね。

藤代:例えば、昨日のキャンプ(JCEJのジャーナリストキャンプ)でもそうなんですよね。最後みんなで模造紙にひとつの夢みたいなものを書いた時に、一瞬そこで疑似共同体というか、何かひとつの繋がりが生まれていくけれども、結局それぞれの社に戻ったときにまたいろいろな立場があるじゃないですか。被災地もそれと同じじゃないかと。実は私たちは普段から分断されているんだけれど、災害という非日常でひとつになった気がしたけれど、それが戻って行くだけではないかと。今までそこに目を背けてきたと思うんですよ。つまり、書く時に我々って書いたり、南相馬がって書いたり。

でも実はその奥に、たくさんの分裂している地域のコミュニティがあったわけですよね。大きな災害によってそれが見えたことで、簡単に「仙台市民は」と書けなくなるというのはもっともそうだと。でも、それぞれが引き裂かれている中で、ジャーナリストの仕事ってそういう分断された人を一人ずつ紹介していく、多様な側面があることを紹介していくのが仕事なんだろうか。何なんだろうとすごく思うわけです。

寺島:いや本当に。例えば、皆の意見を出し合う場をつくろうというのが、ひとつの方法としてはね、あり得るあれだと思う。シビックジャーナリズムは、多様な声をとにかく集めるフォーラムをつくる、設けるという風なことでしたけども。だけど今回の場合には非常にシビアな現実の中で、それぞれの間に葛藤があったりして、フォーラムをつくるなんていうのはとても現実的じゃないところがあってですね。だから、ありのままをとにかくこう、なんていうか見つづけて行くしかないんですよね。これまでやってきた、地域の問題や課題の実態を掘り起こして、住民の運動を手伝う形で、最後シンポジウムをやって提案して、条例をつくってという経験が今回全く役にたたないんですよね。

被災者に対して、自分は仙台本社のビルの中にいる。結局自分はここに帰って来れるわけですよね。戻れる自分が非常に厳しい状況にいる人たちに、みなさんの多様な意見をぶつけあって、それでその何かを見いだすフォーラムをつくるなんてとてもいえないですよね。

藤代:寺島さんはけっこう早い段階でブログに遠野に戻った時に罪悪感を感じたと書かれていましたよね(三陸の被災地へ ・2日目/綾里)。

寺島:ええ。書きました。

藤代:当事者でお互い様な立場のはずのわたしとあなたが実は同じじゃない、という二つの側面を持っているわけですよね。非常に矛盾した、その枠組みがある。

寺島:全くですよね。

藤代:そういうものっていうのは、どういう風に消化すればいいのかなって思うんですよ。これは寺島さんの中でどう受け止めたんですか。(続きます)

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2012-05-12

つながりのジャーナリズム 寺島英弥さんとの対話 第1回「暗闇の中でブログがつながった」

河北新報の編集委員寺島英弥さんに初めて会ったのは2007年10月、東海大学の河井孝仁先生の紹介でした。地方メディアやジャーナリズムのあり方を語り合った興奮を抑えきれず、夜に長いブログを書いたほどでした(新聞、ジャーナリズム、コミュニティについて長いメモ)。その後、ドコモモバイル社会研究所の調査でご一緒して「地域メディアが地域を変える」という本に関わり、スイッチオンプロジェクトや日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)の立ち上げを後押しして頂きました。一緒に新たなジャーナリストのあり方を模索する仲間であり、記者として大きな目標でもあります。

寺島さんは、佐々木俊尚さんの「当事者の時代」で、同じ被災者という当事者になったことで共感によってつながる物語を紡ぎだすことが出来るようになった事例として紹介されています。しかしながら、私には寺島さんは震災前と何ら変わらないように見えていました。当事者、寄り添う、東日本大震災でも使われるようになった言葉への違和感を抱えながら、寺島さんの考えを聞くために仙台に向かいました*1

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<2012年5月1日河北新報会議室>

藤代:よろしくお願いします。まず寺島さんがブログ(河北新報のSNSふらっと内にある「Cafe Vita」)を書き始めた理由と東日本大震災後にブログでの連載「余震の中で新聞をつくる」を始めた理由を教えてください。

寺島:たまたま2年前(正確には2009年8月)からですか。うちのメディア局長(佐藤和文さん)にすすめられて。

藤代:すすめられたんですか。

寺島:きっかけはね。生活文化部長やってたので、部の活動とかですね、部員の記者たちの活動とか、生活文化に関するようなトピック。新聞に読者をネット読者をもっとつけようということで、編集局に一応公認のブログとして始まったのがきっかけ。震災が起きたときは石巻に取材にいくことになったんですけど…

藤代:僕が電話したとき。

寺島:そうですよ。あの時です。まさにあの時でした。なかなか出撃の声がかからなくて、自分としては何をしたらいいんだろうというのが分からなくて。編集委員なので、部下を持っているわけではないし。ただ、誰かがこれを記録しなきゃならないんじゃないかということがありましてですね、まず社会で何が起きているかということをブログにとにかく書いていこうと、それがはじまりでした。

■暗闇で繋がったブログ

ご存知のように新聞が発行できるかというのが当初はありました。翌日やっと8ページの新聞ができて…いわゆる紙の新聞の危機だったんですよね。私はそれをひしひしと感じて、今こそブログの可能性というものを震災の渦中で試してみるときではないかと思いまして、それでまず、自分の身の回りで起きたこと、編集局の中で起きたこと、新聞づくりの現場のことを記録していこうと思い立って、14日の夕方から始めました。

その晩の内に確か4件の返信(コメントの書き込み)がきたんですよ。ひとつは同じ地方紙人で「河北さんの編集室がどうなっているのか非常に心配していたけれども、読んで非常に安心した」というのがありまして、それこそ2年近くやったとはいえ、こういう渦中というか、暗闇みたいなところで、繋がることができるというのをその晩に実感したんですよね。

それで書き続けなければならないと思ってですね、やるうちに石巻に取材にいくことになって取材現場に出るようになったので、取材で出会ったもの、見聞きしたもの、風景から人から、語ることであるとか、自分がそれ以前に見てたこと、してたことであるとか、土地についてですね…そしたらたちまちこう、なんていうんでしょうね。ノートがいっぱいになっていくわけですが、それを書ききれないですよね。一本の記事の中には。

藤代:なるほど。

寺島:削って、編集して、一本の記事を100行なら100行を最終的に書くというのが新聞の記事ですから、その中でも書ききれないことが山のようになってですね、伝えきれないことですね。現場いった人みんなそう思ったに違いないんですけど、その一本の記事とか一枚の写真ではとても伝えきれない。ノートにいっぱいになったことをとにかくその自分が出来る範囲であれとにかく伝えたいという風な思いになったんですよね。ブログならそれができる。取材して新聞記事を書く、それが終わってから今度は夜中とかそういう時にブログを書くというそういう生活が始まったということです。

藤代:繋がっている感じっていうのは、なんかおもしろいなと思うんですけど、マスメディアの人って情報発信するのが仕事じゃないですか。新聞を発行したり、テレビに電波を送り届けたりするわけですけど。寺島さんがたった4件の返信みたいなものを実感として受け止めたのかというのがすごく興味深いなと思ったんですよね。

シビック・ジャーナリズムの挑戦―コミュニティとつながる米国の地方紙

寺島:リアルタイムのことだったというのがあるんですよ。

自分はアメリカでシビックジャーナリズムを調査してきて(フルブライトで留学した。その成果は「シビック・ジャーナリズムの挑戦―コミュニティとつながる米国の地方紙」にまとめられている)、いわゆる高みから見下ろす新聞じゃなくて、いかに地域の読者なり地域に住んでいる人と繋がれるかっていうのをテーマにしてきたつもりだったんですけど。まさにそれを実感できた。どこにも電話も繋がらない、外界でこちらをどう思っているのかとかということは全く分からない状況のなかで、新聞の記事の反響だって分からないわけです。必死で情報を求めてこちらも誰が読んでいるのか、どこまで届けられるか分からないし、というような状況の中で書いているので、その中で返信があったというのはですね、暗闇の中で誰かの手と誰の手なのかわからないけれど繋がったと。

藤代:届いているんだなあと。

寺島:ええ。そうですね。

藤代:前に寺島さんとブログの話をしたときに、取材だと、どこまでブログに書いて、どこまで記事に反映するのか悩ましいですよねみたいなことをおっしゃっていたのを覚えているんです。これってツイッターをやっている記者とかでもすごい悩ましい問題だと思うんですよね。今回は、紙面に書いてあるものを紹介して、そのエピソードをブログに紹介していくという、かたちになっていますよね。寺島さんの中でフォーマットが確立したのはいつ頃なんですか。

寺島:いつですかね。自分のこれは取材記録だと思ったんですよね。そのものが。だから、こうありのままにどういう理由でこの時この人にあって、どんな順番で質問してとかって、もうとにかく編集とか考えないで、ノートの流れにあるのをそのまま書こうと思ってですね、だから思ったことは一つの新聞記事だけではどうしても伝わる範囲っていうのはもう決まってますから、届く範囲っていうかですね。ブログで書く事によって、さらに遠くまで遠心力をつけてとばせるなあと。あっごめんなさい。はずします。ちょっとだけ。(電話がかかってくる)

寺島:大変申し訳ない。

藤代:いえいえ。

寺島:あれ、どこまであれしたか。あ、そうだ。

藤代:ブログを書いた話。

■削る事なんで何ひとつない

寺島:そうですよね。それで、もう、編集するっていうかね、削るっていうのはもう、今回はもうできないと。削るものなんて何ひとつないという風に思いました。だからもう、ありのまま全てをやっぱり伝えなきゃというのがあってですね。私「ふんばる」っていう藤代さんにも読んでいた連載をやりました。あれは震災の渦中にいる人たちの歩みから、我々がどう生きているのかを共有しようという武田(真一)報道部長の提案で引き受けたんですけれど。あの連載は現場で会ったその人にために書きたいと思ってしまうんですよね。この人にやっていることを周りの人に知ってもらいたい、この人のやっていることをとにかく読者に届けて繋げたいと。

藤代さんの本(「発信力の鍛え方 -ソーシャルメディア活用術」)の中にも、記者時代に書く記事で繋ぎたいっていうそういう言葉あって、私も共感しました。ブログであれば、新聞記事の届く限界といいますか、それさえ超えられると。

藤代:新聞は配るとこまでしか届かないですからね。新聞紙面からの反応とブログからの反応に違いはあったりするんですか。

寺島:当初はその周りの人たちが電話かける余裕がなかったんですよね。

藤代:そうですよね。今日を生きるのが精一杯でしょうから。

寺島:そうですよね。だからその人(ふんばるで取り上げた人)に新聞を山のように送って「どうぞこれ配ってください」と、そんなことをやりました。もう一つは、被災地のことを首都圏や被災地外の人達にブログに読んでもらう。そうすれば被災地の状況をよりリアルにわかってもらえるんじゃないか。だから、新聞記事は「です、ます」では書かないんだけれども、ブログの方は「です、ます」にしたというのは、感情を込めて、あるいは、断定してとか言い切ってとかして、自己満足にならないように務めて冷静に、あるがままに書くために文体を「です、ます」にしたという経緯があってですね。

藤代:なるほど。

寺島:新聞と同じではブログでは伝わらないなということで、自分がしゃべってる通りに書いていこうと。その人と会話しているみたいに。

藤代:ブログでつながった具体的な例、反応はありますか。

寺島:あの、当初なかなかあの、ブログになかなかコメントしにくいような内容っていうのがあったと思うんですよね。なかなかね。

ただ、相馬の自分の実家のことを書いて、北関東に避難した南相馬のおばあちゃんたちが「ふるさとに帰りたいっていう民謡を涙ながらに歌ってた」っていうのを書いたときには(盆踊りの夕)、遠くで読んでいるその地方出身の人からはコメントがありました。あとは、もうひとつ。陸前高田で再建したそのジャズ喫茶を津波で流されたマスターの話を書いた時は、メールが山のようにきましてですね。応援したい、ジャズのレコード持っているんだけど送りたいとかですね。(ジャズ喫茶、みたびの夢/その1)あとは、その相馬でやはり津波が来るっていうときに漁船がたくさんあちこちで巻き込まれたんですが、300隻くらいあったのが100隻くらいになった。それを書いた時には(相馬/南相馬へ 津波からの生還)佐々木俊尚さんや糸井重里さんが紹介してくれてブログのヒット数が1万2千でしたかね。いや違う。1万5千ヒットでしたね。河北新報

藤代:始まって以来。

■ブログはマスメディアに成り得る

寺島:ブログというのはマスメディアにも成り得るんだなというのが初めて分かった。それまではヒット数なんて別に気にしていませんでしたけど。100、200とかから始まって、それが300になって、1000になって、読んでいる人たちがいるっていうことがだんだんわかってきましてですね。

藤代:そういう感覚って新聞社にいるとなくないですか?

寺島:ないですね。全くないですね。来るのは記事でなんか間違っているところあったぞとか

藤代:反応って言うとだいたいろくな反応じゃないのが新聞のお約束ですよね。

寺島:なかなか新聞に反応は来ないですよね。読者から手紙やはがきが来たりはありますけどね。

だから、それでそのなんでしょうかね。一番最初に来たのをその日のうちに読むという、あの暗闇の中でっていう話をしました。それまでブログをやっていたんですけれど、そういうリアルな渦中で繋がり合えるっていう実感を持てたっていうことです。

藤代:あの文体がすごく僕は興味があるんですね。新聞の連載「ふんばる」は、新聞のスタイルじゃないですか。

寺島:ええ、そうですそうです。

藤代:なんかきちんと新聞っぽい。だけど寺島さんのブログはいわゆる従来の新聞文体とは随分違います。読んでいると寺島さんがそのまず取材対象者たちに会ったという出来事。それから会った時の様子。たとえば今日だと、僕が書くとすれば、久しぶりに会う寺島さんは、スーツに身を包んでいて元気そうでしたみたいなところから始まるじゃないですか。これってありなのかなっていう。

寺島:人間一番自然な伝える方法っていうのは話し言葉だと思うんですよね。私は新聞の投稿コラム書いてくださいってよく勧めるんですよ。投稿書いた事ないんですっていう人には、あなたが例えばその話してくださいと頼まれたときに何から話し始めますかって、そういう風なことをよく言っていた。話し言葉こそが全ての始まりじゃないかとか、そういのがあってですね。読んでくれる人に自然に聞いてもらえるというか。新聞記事ってどうしても断定調なので。

あの、自分の感覚といいますかね、自分の思いというか。それを凝縮して、なんていうんでしょうね要領よくまとめて伝える。感情を一行で直すってどうだろうなっていうところが我々悩むじゃないですか。たった一行なのが新聞記事。「なになにで」とか「である」とかってどうしても断定調になってしまうし、ルポみたいな感覚になる。自分の感性だとか感覚だとか。そういうものでルポ調みたいなものになってしまうところがあるじゃないですか。

藤代:ルポ調。うん?(続きます)

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*1:このインタビューは新聞通信調査会の「大規模震災時における的確な情報流通を可能とするマスメディア・ソーシャルメディア連携の可能性と課題」の調査として行っています