ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

新聞、ジャーナリズム、コミュニティについて長いメモ

東海大学の河井孝仁先生の紹介で、「シビック・ジャーナリズムの挑戦―コミュニティとつながる米国の地方紙」で知られる河北新報の寺島英弥編集委員とお会いして、ジャーナリズムやコミュニティについてディスカッションする機会を得ることが出来ました。

寺島さんは新聞の役割について「新聞の規模にもよると思うが、シビックジャーナリズムは読者と繋がるということ、新聞記者はコミュニケーションメイキングビジネスであるというDNAをシェアしている」と話されていました。私自身も新聞が危機になっているのはネットの影響の前に、コミュニケーションの中心に存在していないことが原因だと考えていたので、非常に共感できました(紙が読まれていないから、インターネットに進出すればいいというのでは本質を見誤ることになる)。そして、なぜ、話題にならないのか、コミュニケーションツールとして機能しないのかという話になったので、ジャーナリズム、コミュニティ、メディアについて、思いついたことをメモ的に書いてみたいと思います。このジャンルに詳しい方や研究者にとっては「何をいまさら」というところもあるかもしれませんがご容赦ください。間違っている点などあれば教えていただければと思います。


- 力を失いつつある新聞とジャーナリズム
なぜ新聞が力を失いつつあるのか。広告収入の低下は、新聞の影響力の低下を示すひとつの事象ではあるが、果たしてインターネットの登場によるビジネスモデルの変化がすべての原因なのであろうか。結局のところ、「話題にならない」=コミュニケーションの中心に存在しないことが、新聞が読まれなくなり、広告が入らなくなった要因なのではないだろうか。

それでは、なぜ新聞が読まれない、コミュニケーションの中心に存在することができなくなってしまったのか。ウェブのマスメディア批判から見出すとすれば「上から目線(権威主義)」「強引なフレーミングによる決め付け」などにヒントがある。新聞がこのような言論を展開する要因は、「みんなに伝えなければならない」といった近代啓蒙主義の枠組みにあると考えられるが、インターネットの登場とグローバリゼーションは近代を揺るがし、国家という枠組みを溶かしつつあり、不安定化した人々や集団はコミュニティに分離されている。国民国家を対象に情報を発信するマスメディアである新聞社は、そのようなコミュニティにおけるコミュニケーションを担うことは難しい。

また「反権力」といった紋切り型の日本におけるジャーナリズム論は、中央集権的な近代構造に依然としてそこにとどまっているに過ぎず、何の処方箋も示せない。ネットワークは中央と終焉という概念を無くし、検索エンジンやポータルによって「繋がる」という自立分散型に移行し、ブログやSNSによって誰もが発信できるようになったことは、媒体とイズムを分離し、発信者と受け手(オーディエンス)を混在化し、互いに影響しあう存在にした。
このような状況において、市民ジャーナリズムが注目されることになるが、大きな広がりを見せない。それはなぜなのだろうか。


- 想像の共同体と新聞の役割
ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行」において、印刷技術とそれに媒介された言語の登場が近代の枠組みを作り出したことを解き明かしている。資本主義と印刷・出版という新しいコミュニケーション技術、人間の言語的多様性は、中世において特権階級の共通語として使われてきたラテン語を衰退させ、聖書だけでなく様々な書籍が俗語によって印刷されることによって、その俗語が利用されている範囲に共同体が分裂していったとする。

さらに、時間概念の変化と消費の存在を指摘している。この時間と消費に重要な役割を果たしたのが新聞である。中世においては神の存在が過去と未来の同時性をもたらしていたが、近代になると『均質で空虚な時間』に変化する。それを自覚させるのは新聞や小説の書き方であり、そして新聞の上すみにある日付であるとする。この日付表示は、翌日には新聞が古くなってしまうという構造をもたらし、印刷物の大量消費を生み出すことになったが、重要なことは日付によって『新聞の読者は、彼の新聞と寸分違わぬ複製が、地下鉄や、床屋や、隣近所で消費されるのを見て、想像世界が日常生活に見目に見えぬかたちで根ざしていることを絶えず補償され』『マスセレモニー、虚構としての新聞を人々がまったく同時に消費するという儀式を作り出した』ことである。

新聞は近代を生み出したひとつの要素であり、『国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(イマジンド・ポリティカル・コミュニティ)』をつなぎとめるメディアであると言える。

日本において新聞は、江戸時代の瓦版などを原型にしながら、近代の幕開けとともに形をなしていくことになる。明治4(1871)年に「横浜毎日新聞」が創刊されたのを機に、多数の新聞が発刊されるが、政府の統制によって姿を消し、次第に政治評論を中心とした「大新聞」と市井の出来事を伝える「小新聞」に別れていくことになる。門奈直樹は「ジャーナリズムの科学」において、そのような歴史的な発展について『近代的中央集権国家の支配体系の確立にみあったメディア状況があったこともいなめない』とし、政府のメディア政策は『新聞紙ハ人ノ知識ヲ啓開スルヲ目的とスベシ。人ノ知識ヲ啓開スルハ頑固偏●ノ心をヲ破り、文明開化ノ域ニ導カントスル也』と紹介している。

ヨーロッパにおける新聞は、中世における抑圧から人々を解放し、近代的な市民階級の成立に大きな役割を果たしたとされるが、それでも資本主義の発展とともにその商業主義の拡大と権力への迎合が進み、批判が行われることとなる。一方、日本の新聞ジャーナリズムにおいては、戦前は国家のメディア統制に従い、戦後自由になっても、ウォッチドッグの役割を十分に果たすことなく権力構造に組み込まれて第四権力化したとの批判が根強いが、そもそも近代という仕組み自体を輸入したことに加え、その近代啓蒙主義(文明開化)の展開の為のメディア政策の一環として新聞が存在していたことを考えれば、何ら不思議ではないと言えるのではないだろうか。


- 「われわれ」の終焉
その啓蒙思想如実に現われている言葉が「われわれ」である。しかしながら、最近では新聞社の記者が使う「われわれ」という言葉のアジェンダ設定力に疑問が投げかけられている。ジャーナリストの佐々木俊尚は「フラット革命」において、新聞記事中における「われわれ」は終焉を迎えたとし、その理由を1)グローバリゼーション、2)人口構成の変化、3)雇用の市場化(「みんなと同じように生きていく」という中流幻想の破壊)、4)格差社会、5)日本社会の精神性の変容、の5つの要因に求めている。『戦後の五十年あまりを形成した企業とマスメディア中心の共同体の枠組みが崩壊し、企業の擬似ゲマインシャフトが消失し、マスメディアの共同体幻想も通用しなくなり、そうやって再び人々は漂流し始めている』と指摘している。

「想像の共同体に」は、共産主義ナショナリスト、マス・マルコ・カルトディクロモが出版した作品が取り上げられ『(我らとは)インドネシア人読者の集合体に属するひとりひとりの青年、したがって、黙示的に、インドネシア人の「想像の共同体」の胚胎を意味している。マルコがこの共同体を名称によって特定する必要などおよそ感じていないことに注意しよう。それはすでにそこに存在しているのだ』とし、『想像の共同体は、我らが青年が読んでいるということを我々が読むという二重性によって確認される』としている。書き手による無意識的な「我々」という発信が、オーディエンスによって確認れることによって、「インドネシア人である」という枠組み、想像の共同体を確固としたものにするという構造があったが、もはやそれが通用しなくなっている。「われわれ」の終焉は想像の共同体=国家を意味するとすれば、近代的枠組みのなかで啓蒙的言説を繰り広げるマスメディアである新聞の影響力も低下することは想像に難くない。

水越伸は2002年に出版した「新版デジタル・メディア社会」において、インターネットによって国民国家体制がゆらいでいるとして『国民国家が共有する距離と時間を超えて結びついた人々は、明らかに新しいかたちのシンパシーを共有し始めている。それは国民意識のような大きな物語ではないが、かといって駆ると集団のような堅く閉じた小さな物語でもない』と見通している。


- 地方紙、市民ジャーナリズムの捉え方
インターネットにより誰でも自由に発信できるようになったことで、市民ジャーナリズム、オルタナティブジャーナリズムという観点から市民の情報発信を捉える動きも登場している。オーマイニュースJanJanなどが代表格といえるだろう。
例えば、オーマイニュースは韓国において、市民記者という新たな手法を取り入れ権力と一体化していた新聞社への対抗言論として登場し、2002年の大統領選では、与党候補ながら不利といわれた盧武鉉大統領の逆転勝利をもたらしたとされているが、これは遅れてきた近代を実現したに過ぎない。ライブドアのパブリックジャーナリズム、日本版オーマイニュースなども、マスメディア批判を行っているが、啓蒙主義的なマスメディアに取って代わる、つまり「われわれ」こそが「われわれ」であるという考えであるとすれば、結局のところ迎合するにしても対峙するにしても国家という権力が存在する近代という枠組みに縛られているとも言える。新たなジャーナリズムを担えるものにはならない。

一方では、地域社会やコミュニティにおける日記的コミュニケーションとして、そのコミュニティをエンパワーメントする目的としてメディアを運営している人たちと、非常に端的に言えば朝日に合格しなかった人が、新たなメディアをもてるようになったので発信している人たちが、ひとくくりに市民ジャーナリズムや市民メディアと呼ばれることによって実態が見えなくなり、議論がすれ違う要因ではないだろうか。

林香里は「マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心」において、1)ジャーナリズムという主体的な意識活動はマスメディアの周縁に宿る、2)ジャーナリズムの新しい可能性は近代自由主義思想の延長線上には、もはや見出すことはできない、3)マスメディアというシステムは、現代社会において「公共性のアンヴィヴァレントな潜在力」をもつ。そしてそれは、文化の違いを超えて認められる、との仮説を打ちたて、日本の新聞の家庭面やアメリカのパブリックジャーナリズム運動といった事例を検証している。

マスメディアという媒体とジャーナリズムという「イズム(主義)」を分離しようと言う試みであったが、マスメディアから逃れられないことを、林自身が『周縁性を特性とするジャーナリズムであっても、マスメディアを中心として展開される情報化社会の舞台からは降りることはできない。ゆえにマスメディアの影響は周縁のメディアにおけるジャーナリズム活動に波及することが避けられない』と認めている。

強固な中央集権的な近代が存続し、その啓蒙の役割を担うマスメディアが強固であれば、その中央にいる人にとって支配的な考えではないマイノリティの意見は特に紙面が限られている新聞やテレビには掲載される可能性が少ない。さらに、新聞自体が国家や地域というリアルに存在するがゆえに、そしてマスを対象に情報を発信するマスメディアという存在であるがゆえに、民主主義を担保する多様性といったものは周縁にしか存在し得ないのかもしれない。そしてそのアジェンダは、周縁と中心部を行き来することにより、マスで共有されたり、されなかったりする。

しかしながら、自律分散をその根底に持つインターネットの登場により(初期のインターネットはポータルサイトによるリンクがあり、中心と周縁が存在したかもしれないが)中心そのものが存在しなくなった(林もアメリカのパブリックジャーナリズム運動を紹介する際に『議論はあまりなされないまま「新聞販売地域(あるいは放送到達地域)=パブリック=コミュニティ」の図式が暗黙の前提となっいる』とその限界性と問題を指摘しているが…)。中心と周縁という概念そのものが近代の遺物なのではないのだろうか。次のパラダイムに進もうと試みつつ、現状のマスメディアと新聞からジャーナリズムを読み解いてしまうことで、依然として近代の枠組みから抜け出せていないように思える。


- グローバル化のもたらしたコミュニティ
それでは国家に変わるものは何であろうか。ジェラード・デランティは「コミュニティ グローバル化と社会理論の変容」において、それは復元しつつあるコミュニティであると指摘する。グローバリゼーションは、暴力やストレスといった不安、社会に対する不安を高めつつも、コミュニケーションの可能性をさらに推し進めている。その新しいコミュニティについて『リアルなコミュニティと想像されるコミュニティの区別を放棄する必要がある。地域を基盤とするコミュニティに対し、新しい脱伝統的なコミュニティ − ヴァーチャル・コミュニティ、ニューエイジ・コミュニティ、ゲイ・コミュニティ、国民共同体、エスニック・コミュニティ、宗教的コミュニティ − はその質を異にしてるが、しかし、新しいコミュニティも現実を生み出す力を持っている。こうした新しいコミュニティは、新たな状況を定義し、それによって社会的現実を構築する強大な力を持っている』と新たな概念を打ち出し、『ナショナルな経験や想像の枠組みが破綻を来たしている中で、コミュニティは復元力を維持し、多くのケースにおいてその他の言説の想像のための基本モデルや認知的枠組み、象徴的な資源を提供している』としている。(実は、アンダーソンは『日々顔を付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は真偽にってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される』という本質的な指摘を行っているが…)。

例えばSNSやブログは、近代と印刷技術と新聞の関係と同じように、インターネットとウェブがポストモダンによって生み出されるとともに、それを作り出しているとも言えるのではないか。ブログやSNSは、あくまで一人称の主体によって書かれるものであるが、人々は流動的な社会に個では耐えられず、コミュニティにその存在そ帰属させるが、従来のようにコミュニティが地域性や国家によって同心円状の広がりを持つものではなく、複数が同時に存在するものとなる。ブログにおいては検索エンジンが、SNSにおいては特にミクシィにおいてはコミュニティによって、その複数のコミュニティを持つことは構造化されている。

ただし、注意しなければならないのはグローバリゼーションは国家を崩しつつも、ナショナリズムの再来をももたらしている。が、それは中央集権的啓蒙と言う意味はもはや持ち得ない。そうすれば、マスメディア、ジャーナリズムはどのようなものとして今後存在するのであろうか。
新聞はどうか、全国紙は生き残るとしても、日本という大きな物語をオーディエンスに確認するという役割は薄れ、啓蒙主義的なものからの脱却をはかり必要がある。地方紙は、中央から地方へ、つまり中心から周縁への伝達と伝播という考えからは脱却する必要はあるだろうが、リアルな土地という結び付きは比較的想像が残りやすいとすれば、生き残るチャンスはあるように思える。そのためには、コミュニティを「つなぐ」存在としてメディアデザインが変更される必要があるだろう。

ある種のポストモダン的な媒体に変化を遂げたとき、そのときのジャーナリズムとはどのようなものになるのか。想像の共同体が崩壊しつつあるとはいえ、統治機構としての政府は日本においては、ヨーロッパのように少しずつ国を超えたものになってはいない。新たな役割がもたらされるのか。また、発信者とオーディエンスが混在となったことによる、真の媒体とイズムの分離はどう考えればよいのであろうか。

朝日・日経・読売、業務提携の意味

週刊ダイヤモンドが「スクープ」として報じた朝日+日経+読売=ANY構想が正式に発表されました(MSNサンケイニュースが記者会見を詳しく報じています)。3社は(1)インターネット分野での共同事業(2)販売事業分野での業務提携(3)災害時等の新聞発行の相互援助を行うとのことで、新事業のため民法上の組合を設立して、数億円規模の事業費は3社で均等に負担するとのこと。インターネットでの提携、ニュースポータルを前面に押し出した内容になっており、注目も集まっているようですが、新聞業界にとっては配達など分野での業務提携のほうが衝撃が大きいでしょう。

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