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2012-05-12

つながりのジャーナリズム 寺島英弥さんとの対話 第1回「暗闇の中でブログがつながった」

河北新報の編集委員寺島英弥さんに初めて会ったのは2007年10月、東海大学の河井孝仁先生の紹介でした。地方メディアやジャーナリズムのあり方を語り合った興奮を抑えきれず、夜に長いブログを書いたほどでした(新聞、ジャーナリズム、コミュニティについて長いメモ)。その後、ドコモモバイル社会研究所の調査でご一緒して「地域メディアが地域を変える」という本に関わり、スイッチオンプロジェクトや日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)の立ち上げを後押しして頂きました。一緒に新たなジャーナリストのあり方を模索する仲間であり、記者として大きな目標でもあります。

寺島さんは、佐々木俊尚さんの「当事者の時代」で、同じ被災者という当事者になったことで共感によってつながる物語を紡ぎだすことが出来るようになった事例として紹介されています。しかしながら、私には寺島さんは震災前と何ら変わらないように見えていました。当事者、寄り添う、東日本大震災でも使われるようになった言葉への違和感を抱えながら、寺島さんの考えを聞くために仙台に向かいました*1

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<2012年5月1日河北新報会議室>

藤代:よろしくお願いします。まず寺島さんがブログ(河北新報のSNSふらっと内にある「Cafe Vita」)を書き始めた理由と東日本大震災後にブログでの連載「余震の中で新聞をつくる」を始めた理由を教えてください。

寺島:たまたま2年前(正確には2009年8月)からですか。うちのメディア局長(佐藤和文さん)にすすめられて。

藤代:すすめられたんですか。

寺島:きっかけはね。生活文化部長やってたので、部の活動とかですね、部員の記者たちの活動とか、生活文化に関するようなトピック。新聞に読者をネット読者をもっとつけようということで、編集局に一応公認のブログとして始まったのがきっかけ。震災が起きたときは石巻に取材にいくことになったんですけど…

藤代:僕が電話したとき。

寺島:そうですよ。あの時です。まさにあの時でした。なかなか出撃の声がかからなくて、自分としては何をしたらいいんだろうというのが分からなくて。編集委員なので、部下を持っているわけではないし。ただ、誰かがこれを記録しなきゃならないんじゃないかということがありましてですね、まず社会で何が起きているかということをブログにとにかく書いていこうと、それがはじまりでした。

■暗闇で繋がったブログ

ご存知のように新聞が発行できるかというのが当初はありました。翌日やっと8ページの新聞ができて…いわゆる紙の新聞の危機だったんですよね。私はそれをひしひしと感じて、今こそブログの可能性というものを震災の渦中で試してみるときではないかと思いまして、それでまず、自分の身の回りで起きたこと、編集局の中で起きたこと、新聞づくりの現場のことを記録していこうと思い立って、14日の夕方から始めました。

その晩の内に確か4件の返信(コメントの書き込み)がきたんですよ。ひとつは同じ地方紙人で「河北さんの編集室がどうなっているのか非常に心配していたけれども、読んで非常に安心した」というのがありまして、それこそ2年近くやったとはいえ、こういう渦中というか、暗闇みたいなところで、繋がることができるというのをその晩に実感したんですよね。

それで書き続けなければならないと思ってですね、やるうちに石巻に取材にいくことになって取材現場に出るようになったので、取材で出会ったもの、見聞きしたもの、風景から人から、語ることであるとか、自分がそれ以前に見てたこと、してたことであるとか、土地についてですね…そしたらたちまちこう、なんていうんでしょうね。ノートがいっぱいになっていくわけですが、それを書ききれないですよね。一本の記事の中には。

藤代:なるほど。

寺島:削って、編集して、一本の記事を100行なら100行を最終的に書くというのが新聞の記事ですから、その中でも書ききれないことが山のようになってですね、伝えきれないことですね。現場いった人みんなそう思ったに違いないんですけど、その一本の記事とか一枚の写真ではとても伝えきれない。ノートにいっぱいになったことをとにかくその自分が出来る範囲であれとにかく伝えたいという風な思いになったんですよね。ブログならそれができる。取材して新聞記事を書く、それが終わってから今度は夜中とかそういう時にブログを書くというそういう生活が始まったということです。

藤代:繋がっている感じっていうのは、なんかおもしろいなと思うんですけど、マスメディアの人って情報発信するのが仕事じゃないですか。新聞を発行したり、テレビに電波を送り届けたりするわけですけど。寺島さんがたった4件の返信みたいなものを実感として受け止めたのかというのがすごく興味深いなと思ったんですよね。

シビック・ジャーナリズムの挑戦―コミュニティとつながる米国の地方紙

寺島:リアルタイムのことだったというのがあるんですよ。

自分はアメリカでシビックジャーナリズムを調査してきて(フルブライトで留学した。その成果は「シビック・ジャーナリズムの挑戦―コミュニティとつながる米国の地方紙」にまとめられている)、いわゆる高みから見下ろす新聞じゃなくて、いかに地域の読者なり地域に住んでいる人と繋がれるかっていうのをテーマにしてきたつもりだったんですけど。まさにそれを実感できた。どこにも電話も繋がらない、外界でこちらをどう思っているのかとかということは全く分からない状況のなかで、新聞の記事の反響だって分からないわけです。必死で情報を求めてこちらも誰が読んでいるのか、どこまで届けられるか分からないし、というような状況の中で書いているので、その中で返信があったというのはですね、暗闇の中で誰かの手と誰の手なのかわからないけれど繋がったと。

藤代:届いているんだなあと。

寺島:ええ。そうですね。

藤代:前に寺島さんとブログの話をしたときに、取材だと、どこまでブログに書いて、どこまで記事に反映するのか悩ましいですよねみたいなことをおっしゃっていたのを覚えているんです。これってツイッターをやっている記者とかでもすごい悩ましい問題だと思うんですよね。今回は、紙面に書いてあるものを紹介して、そのエピソードをブログに紹介していくという、かたちになっていますよね。寺島さんの中でフォーマットが確立したのはいつ頃なんですか。

寺島:いつですかね。自分のこれは取材記録だと思ったんですよね。そのものが。だから、こうありのままにどういう理由でこの時この人にあって、どんな順番で質問してとかって、もうとにかく編集とか考えないで、ノートの流れにあるのをそのまま書こうと思ってですね、だから思ったことは一つの新聞記事だけではどうしても伝わる範囲っていうのはもう決まってますから、届く範囲っていうかですね。ブログで書く事によって、さらに遠くまで遠心力をつけてとばせるなあと。あっごめんなさい。はずします。ちょっとだけ。(電話がかかってくる)

寺島:大変申し訳ない。

藤代:いえいえ。

寺島:あれ、どこまであれしたか。あ、そうだ。

藤代:ブログを書いた話。

■削る事なんで何ひとつない

寺島:そうですよね。それで、もう、編集するっていうかね、削るっていうのはもう、今回はもうできないと。削るものなんて何ひとつないという風に思いました。だからもう、ありのまま全てをやっぱり伝えなきゃというのがあってですね。私「ふんばる」っていう藤代さんにも読んでいた連載をやりました。あれは震災の渦中にいる人たちの歩みから、我々がどう生きているのかを共有しようという武田(真一)報道部長の提案で引き受けたんですけれど。あの連載は現場で会ったその人にために書きたいと思ってしまうんですよね。この人にやっていることを周りの人に知ってもらいたい、この人のやっていることをとにかく読者に届けて繋げたいと。

藤代さんの本(「発信力の鍛え方 -ソーシャルメディア活用術」)の中にも、記者時代に書く記事で繋ぎたいっていうそういう言葉あって、私も共感しました。ブログであれば、新聞記事の届く限界といいますか、それさえ超えられると。

藤代:新聞は配るとこまでしか届かないですからね。新聞紙面からの反応とブログからの反応に違いはあったりするんですか。

寺島:当初はその周りの人たちが電話かける余裕がなかったんですよね。

藤代:そうですよね。今日を生きるのが精一杯でしょうから。

寺島:そうですよね。だからその人(ふんばるで取り上げた人)に新聞を山のように送って「どうぞこれ配ってください」と、そんなことをやりました。もう一つは、被災地のことを首都圏や被災地外の人達にブログに読んでもらう。そうすれば被災地の状況をよりリアルにわかってもらえるんじゃないか。だから、新聞記事は「です、ます」では書かないんだけれども、ブログの方は「です、ます」にしたというのは、感情を込めて、あるいは、断定してとか言い切ってとかして、自己満足にならないように務めて冷静に、あるがままに書くために文体を「です、ます」にしたという経緯があってですね。

藤代:なるほど。

寺島:新聞と同じではブログでは伝わらないなということで、自分がしゃべってる通りに書いていこうと。その人と会話しているみたいに。

藤代:ブログでつながった具体的な例、反応はありますか。

寺島:あの、当初なかなかあの、ブログになかなかコメントしにくいような内容っていうのがあったと思うんですよね。なかなかね。

ただ、相馬の自分の実家のことを書いて、北関東に避難した南相馬のおばあちゃんたちが「ふるさとに帰りたいっていう民謡を涙ながらに歌ってた」っていうのを書いたときには(盆踊りの夕)、遠くで読んでいるその地方出身の人からはコメントがありました。あとは、もうひとつ。陸前高田で再建したそのジャズ喫茶を津波で流されたマスターの話を書いた時は、メールが山のようにきましてですね。応援したい、ジャズのレコード持っているんだけど送りたいとかですね。(ジャズ喫茶、みたびの夢/その1)あとは、その相馬でやはり津波が来るっていうときに漁船がたくさんあちこちで巻き込まれたんですが、300隻くらいあったのが100隻くらいになった。それを書いた時には(相馬/南相馬へ 津波からの生還)佐々木俊尚さんや糸井重里さんが紹介してくれてブログのヒット数が1万2千でしたかね。いや違う。1万5千ヒットでしたね。河北新報

藤代:始まって以来。

■ブログはマスメディアに成り得る

寺島:ブログというのはマスメディアにも成り得るんだなというのが初めて分かった。それまではヒット数なんて別に気にしていませんでしたけど。100、200とかから始まって、それが300になって、1000になって、読んでいる人たちがいるっていうことがだんだんわかってきましてですね。

藤代:そういう感覚って新聞社にいるとなくないですか?

寺島:ないですね。全くないですね。来るのは記事でなんか間違っているところあったぞとか

藤代:反応って言うとだいたいろくな反応じゃないのが新聞のお約束ですよね。

寺島:なかなか新聞に反応は来ないですよね。読者から手紙やはがきが来たりはありますけどね。

だから、それでそのなんでしょうかね。一番最初に来たのをその日のうちに読むという、あの暗闇の中でっていう話をしました。それまでブログをやっていたんですけれど、そういうリアルな渦中で繋がり合えるっていう実感を持てたっていうことです。

藤代:あの文体がすごく僕は興味があるんですね。新聞の連載「ふんばる」は、新聞のスタイルじゃないですか。

寺島:ええ、そうですそうです。

藤代:なんかきちんと新聞っぽい。だけど寺島さんのブログはいわゆる従来の新聞文体とは随分違います。読んでいると寺島さんがそのまず取材対象者たちに会ったという出来事。それから会った時の様子。たとえば今日だと、僕が書くとすれば、久しぶりに会う寺島さんは、スーツに身を包んでいて元気そうでしたみたいなところから始まるじゃないですか。これってありなのかなっていう。

寺島:人間一番自然な伝える方法っていうのは話し言葉だと思うんですよね。私は新聞の投稿コラム書いてくださいってよく勧めるんですよ。投稿書いた事ないんですっていう人には、あなたが例えばその話してくださいと頼まれたときに何から話し始めますかって、そういう風なことをよく言っていた。話し言葉こそが全ての始まりじゃないかとか、そういのがあってですね。読んでくれる人に自然に聞いてもらえるというか。新聞記事ってどうしても断定調なので。

あの、自分の感覚といいますかね、自分の思いというか。それを凝縮して、なんていうんでしょうね要領よくまとめて伝える。感情を一行で直すってどうだろうなっていうところが我々悩むじゃないですか。たった一行なのが新聞記事。「なになにで」とか「である」とかってどうしても断定調になってしまうし、ルポみたいな感覚になる。自分の感性だとか感覚だとか。そういうものでルポ調みたいなものになってしまうところがあるじゃないですか。

藤代:ルポ調。うん?(続きます)

第2回「新聞原稿でもルポでもない文章と引き裂かれる当事者」

【関連エントリー】

*1:このインタビューは新聞通信調査会の「大規模震災時における的確な情報流通を可能とするマスメディア・ソーシャルメディア連携の可能性と課題」の調査として行っています

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