ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

つながりのジャーナリズム 寺島英弥さんとの対話 第2回「新聞原稿でもルポでもない文章と引き裂かれる当事者」

東日本大震災の被災地のただ中の地方紙、河北新報編集委員寺島英弥さんは、「出撃(現場に取材に行く事)」出来ない中で同僚の記者の活動をブログに記録し始めます。ブログ「Cafe Vita」で始まった記録のタイトルは「余震の中で新聞をつくる」でした。紙の新聞の危機を感じながら、ブログの可能性にかけた寺島さんに反応が届き、つながる実感を持てたといいます。
「余震の中で新聞をつくる」の特徴は、とにかく文章が長いこと。そして、インタビュー相手の言葉だけでなく、寺島さんの心象風景も、相手とのエピソードも「です、ます」調で綴られます。その理由を聞く中で「ルポ」という言葉が出てきました。


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藤代:ルポ調。うん?

寺島:自分をうまく切り取ってばっとみせる、みたいな。そういうものじゃなくて、相手はいて、その人のことを自分はただありのままに伝える。そういう自分は役目だと、取材の現場にいるときに思ってしまうんですよね。自分ができることってなんだろうかって、現場にいるとき記者はみんな思ったと思うんですよね。
でかすぎて、フレーミングができない。切り取れない。その中でも、その人の想いなり、その人の経験なりをいっぱい切り取って新聞記事一本にまとめて。後はその人に会いに行ってくださいというしかないわけなんですね。読んだ人がその人に直に会いに行って、という体験を時間の流れを含めて、まるごと追体験してもらいたいというのがあります。時間の流れというのはどうしても新聞の限られた行数の中ではやっぱり伝えられないですね。

藤代:そうですね。

寺島:それをなんとかブログの文章で、時間の流れも含めて、自分がそこにいた、立ち会った時間の流れそのものをいろいろ伝えられないかと。

■新聞原稿でもなくルポでもない文章

藤代:読んでいてすごく思うのは、寺島さんの言葉が伝わる感じがするんですよね。新聞ってできるだけプレーンになろうとするじゃないですか。フレーミングはあるにしても客観的な記述で記者の存在を消す。一方でルポは「俺は見た!」というパターン。

寺島:そうですね。そこから始まりますね。
言語としてのニュー・ジャーナリズム
藤代:そのどちらでもない。寺島さん自身も、自然に書いてあって、飾らない寺島さんがいて、それを通して読者が取材対象者を見るというのは、これまでにない文体だと思うんですよ。今回、寺島さんとお話する前に玉木さんの「言語としてのニュージャーナリズム」を読み返しました。カポーティから始まる流れ、ハルバースタム沢木耕太郎とか、中立や客観報道ではなく、取材相手と関わっていく。寺島さんもそれに近いと思うんですが、なんとなく違う気もしたんですが…

寺島:あの、ルポでも自分の中で一旦記事を噛み砕いて消化して、そこから出てくるものじゃないですか。濃縮する。自分の中で消化して、もういっぺんだした言葉。だけども、今回の場合には、自分ではもう消化しきれないような体験をみんなもっているわけですよ。ナラティブっていうんですかね。そういうのを語るうちに。あの、聞き語りとも違うんですよね。それをちゃんとまず伝える、ありのままに。

藤代:なるほど。

寺島:聞いている私がいる。聞いている私がこう思った。私がこう思ったっていうのは、その人(取材相手)がその場で生き様とかを語ることに、自分が影響するものではなくて、あくまで自分も聞いてて、こうそのときにこう思ったっていう、のを置かなければいけないと思うんですよね。

藤代:それはあの、あれですか。ここだといるじゃないですか。藤代と寺島さんがいる。で、いま、会話をしている。ルポだと、一回僕が寺島さんの話を聞いて、私が見た寺島さんということを書く。でも、寺島さんの今回の話は、ここ(頭の上当たりを手で示しながら)になんかもうひとりの藤代がいて、寺島さんの話を聞いた時に藤代が率直に思ったこととか、ああなるほど、今こういう感情をもっているなということも含めて、全部、記述する。この、ここにいる人(頭の上にいる人)が記述しているっていうことですね。

寺島:ああーなるほどね。

藤代:ということなのかなあと、寺島さんの話を聞いて思ったんですが。

寺島:そうですね。確かに。自分はその時こう答えたっていうのも含めて全て。時間の流れ。起きた事。ありのままって結局そういうことなのかなっていう。なんていうんでしょうね。

藤代:あんまり寺島さんの中では今の話は自覚したことがないんでしょうか。

寺島:ええ。もう一人の自分とかっていうのはあんまり考えたことなかった。藤代さんに言われて…

■記者と当事者の関係

藤代:佐々木さんが書いた新しい本(「当事者の時代」)に寺島さんが当事者になった記者として紹介されてますよね。確かに、寺島さんは本とか、いろんな講演でローカルの記者は当事者であらねばならないみたいなことをおっしゃっている。

寺島:ええ。シビックジャーナリズムの私なりの訳といいますかね。

藤代:でも、どうも納得がいかなかった。寺島さんが取材対象に、すごく寄り添っているのは知っているんだけれど、いわゆる当事者ではないんじゃないかなと。当事者っていっしょになっちゃうというか。べったりくっついて。僕は社会部のサツ担当っていうのは当事者になってたと思うんですね。自分がお巡りさんになった気になって、お巡りさんと一緒に事件を解決して。

寺島:なるほど。そういうことですよね。

藤代:ですよね。

寺島:一緒に打ち上げして。

藤代:そして警察の代わりに論評する。でも寺島さんのいっている当事者はそうではないような気がしてたんです。

寺島:あの、たぶんですね、自覚せざるを得なかったことっていうのが、自分の実家が被災地になったということ。みんなそうなんですけど。気仙沼総局長は大槌でご両親をなくされた、そういう人ばかり。自分も2週間ぐらい実家帰れなかったんですね。交通が遮断されたり、三陸に取材に行ったりとか。遠くにいながら原発事故の行方というものをとにかく祈るような気持ちで、最悪の事態にだけはならないようにという、それしかできないという自分がいて。
でも、親はこんな年寄りに放射能なんてもう怖くないんだと。だから心配しないでお前がんばれというわけですよね。そのことに、こっちはもう焦り、というかですね、それに甘えているなと分かりながら、次の取材に行く。だから、取材現場で被災者に会えば、「いやあ、本当に大変でしたね。こんなことになってしまってね、うちのいなかでも浜の方が津波でもう、友達のいた集落もみんななくなっちゃったてね、うちは米倉なくなったくらいで大丈夫だったのよ、だけど放射能が来ましたねー」っていう、お互い大変でしたね、みたいなところから始まるんですよね取材が。東京からきたなんとか新聞ですが、お話聞かせてくださいとか、そういう風な取材じゃないんですよね。
もうお互い様みたいな感覚っていうんですかね。やっぱり被災地の人間同士みたいなそういうところがあって、だからほら腕章していったんですよ。腕章していくと、大船渡でも陸前高田でも石巻でも、向こうからきたおばさんとかおばあちゃんがとかが、「ご苦労様、頑張ってね」とこちらを見ていわれるんです。頑張ってねって、自分が家を流されて、家族も死んじゃったような、ねえ、自分の家の跡に位牌がないかと探しにきたような人たちから頑張って下さいねとかご苦労様と言われるわけなんですよ。当事者性ってたぶんそういう風なことなのかなと自分でも思ったんですね。

藤代:ただその当時者性を突き詰めていくと分断されていく自分もあるじゃないですか。一番最初は、地震津波被害を受けた自分たちという大きな枠組みだったのが、だんだん立場が変わってきて、お互い様というのがなくなって、あそこのエリアは被害が少なくていい、でもうちは流された。もっと早く復興に向けて欲しい。いや、もっと復旧に手厚いものを。いや、だったら早く商店を再開すべきだというようなものが顕在化していくじゃないですか。そして一方では学校や東電相手に訴訟を起こすんだという人も。

■引き裂かれていく当事者

寺島:そうですそうです。一本の記事で、遺族たちがっていう風な、主語では書けなくなってしまうという。みんなそれぞれになんとなく違う、方向にいくとね。それまでは被災して大変状況になった、なになに地区の遺族という一本の記事だったのが、一本の記事では書ききれなくなってしまういくつもの立場ができてしまっている。飯館村でもそうですね。もっと早く逃げるべきだった、村人を留まらせた村長の罪は重いという人もいれば、もう無理なんだから避難してフランスでも西日本でも、移るべきだっていう人もいれば、どうしても難しいとは思いながらやっぱり帰りたいという人もいる。具体的に帰るための目標をつくるためにも除染を積極的にやらなければならないという人もいて。
だけども、ひとりの人間、地方紙記者の数っていうのは限られていますよね。だから、広大な被災地をまわりきれないわけで、出会いきれない人がいて。自分の身体が一つでは足りない、二つ欲しいという風に実感しましたね。本当に何が望みですかって聞かれた時に、身体が2つ欲しいと言ったんですね。だけど1つしかないから自分ができることはとっても限られてて、書けないままのことの方が多いわけですよね。それでもう胸がやぶれそうになるくらい苦しくなって、やっと一本記事を書いて、少し楽になってみたいな。いくつもの立場を同時に伝えるのはやっぱり物理的に不可能なんですよね。だからそこで自分が出会って縁が出来た人っていうのを時間の流れ、変化も含めて書くというか。
南相馬のある農家の人が区長をやっていて、自分の農地を除塩をしてブロッコリーをつくっていきたいと。農家の仲間たちは死んでしまって、その人たちの分までその自分はもう、やれるもんであれやる気のある農家の人たちと一緒に会社でもつくってそういうのをやりたいとかっていうんだけれども、地域のなかでも、まだ自分の身内が見つかっていないとか、それどころじゃないという人。あるいは東電にこんだけ酷い目にあったんだから、もっと区長はそちらで調整をやってくれるべきだと。

藤代:東電と闘うべきだと。

寺島:そうです。そういう人もいれば。だからひとつの集落の中でも、その人自身がいくつもに引き裂かれるような。だから結局その、その人を通して、引き裂かれていく状況を伝えていくということとかなんですかね。

藤代:引き裂かれていくということについては、僕は結構ずっと前から考えてるんです。それは日常に戻るっていうことなんじゃないかなと思うんですよね。その、非日常というのは、実は繋がっている。ひとつになって瞬間みたいのが生まれるじゃないですか。

寺島:なるほどね。

藤代:例えば、昨日のキャンプ(JCEJのジャーナリストキャンプ)でもそうなんですよね。最後みんなで模造紙にひとつの夢みたいなものを書いた時に、一瞬そこで疑似共同体というか、何かひとつの繋がりが生まれていくけれども、結局それぞれの社に戻ったときにまたいろいろな立場があるじゃないですか。被災地もそれと同じじゃないかと。実は私たちは普段から分断されているんだけれど、災害という非日常でひとつになった気がしたけれど、それが戻って行くだけではないかと。今までそこに目を背けてきたと思うんですよ。つまり、書く時に我々って書いたり、南相馬がって書いたり。
でも実はその奥に、たくさんの分裂している地域のコミュニティがあったわけですよね。大きな災害によってそれが見えたことで、簡単に「仙台市民は」と書けなくなるというのはもっともそうだと。でも、それぞれが引き裂かれている中で、ジャーナリストの仕事ってそういう分断された人を一人ずつ紹介していく、多様な側面があることを紹介していくのが仕事なんだろうか。何なんだろうとすごく思うわけです。

寺島:いや本当に。例えば、皆の意見を出し合う場をつくろうというのが、ひとつの方法としてはね、あり得るあれだと思う。シビックジャーナリズムは、多様な声をとにかく集めるフォーラムをつくる、設けるという風なことでしたけども。だけど今回の場合には非常にシビアな現実の中で、それぞれの間に葛藤があったりして、フォーラムをつくるなんていうのはとても現実的じゃないところがあってですね。だから、ありのままをとにかくこう、なんていうか見つづけて行くしかないんですよね。これまでやってきた、地域の問題や課題の実態を掘り起こして、住民の運動を手伝う形で、最後シンポジウムをやって提案して、条例をつくってという経験が今回全く役にたたないんですよね。
被災者に対して、自分は仙台本社のビルの中にいる。結局自分はここに帰って来れるわけですよね。戻れる自分が非常に厳しい状況にいる人たちに、みなさんの多様な意見をぶつけあって、それでその何かを見いだすフォーラムをつくるなんてとてもいえないですよね。

藤代:寺島さんはけっこう早い段階でブログに遠野に戻った時に罪悪感を感じたと書かれていましたよね(三陸の被災地へ・2日目/綾里)。

寺島:ええ。書きました。

藤代:当事者でお互い様な立場のはずのわたしとあなたが実は同じじゃない、という二つの側面を持っているわけですよね。非常に矛盾した、その枠組みがある。

寺島:全くですよね。

藤代:そういうものっていうのは、どういう風に消化すればいいのかなって思うんですよ。これは寺島さんの中でどう受け止めたんですか。(続きます)
→第3回「地方紙の記者は新聞盆地の住人だった
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