潜在能力を実現する自由

創造的な生活を送るためには、「十分なひま」が必要だ。規律正しい生活をしていると、人はなかなか「自己の内なる創造性」を発揮することができない。創造性を発揮するためには、「十分なひま」がいる。そしてこうした自由時間へのニーズから、人々はますますフリーエージェント的な働き方を求めるようになっている。「フリーエージェント」とは、フリーランス、臨時社員、およびミニ起業家の総称である。

アメリカでは現在、フリーエージェント業に就く人々は、労働人口の四人に一人(約三三○○万人)もいるという(ダユエル・ピンク『フリーエージェント社会の到来』参照)。ピンクによれば、こうした自由度の高い職種が台頭してきた背景には、およそ次のような社会の変化があるという。第一に、生活の安定と引き換えに組織に忠誠を誓うという「従来型の労使関係」が崩れたこと。

第二に、情報技術の発展とともに生産手段が安価となり、起業しやすくなったこと、あるいは仕事の自己管理がしやすくなったこと。第三に、もはや生活の糧を稼ぐことだけが仕事の目的ではなくなったこと、などである。アメリカではこうした社会の変化とともに、自由な働き方が可能になってきた。日本でも同様の現象がみられるが、しかし日本で最近問題になっているのは、組織から自由なフリーターや非正社員の身分が、いかに自由の理想とはかけ離れているか、という負の側面だ。

真相究明に費やす時間

改革審が、今までの日本にはなかった「国民が司法に参加する制度」、後に説明する「裁判員制度」構想を打ち出したことから、一応そうした制度の導入に向けて現実の政治は動きつつあります。その意味で、とにかく、これらの動きは評価すべきで、チャンスでしょう。

しかし、国民の司法参加が刑事裁判に限られるとすれば、それは一種の茶番ともいうべき帰結にすぎません。あくまでも、前章までに述べてきたどうしようもない司法システムにカツを入れることが必要であり、そのために、本来の筋としては、国民の司法参加は民事裁判の領域においてこそやるべきです。

すなわち、今、切実に求められている「国民の司法参加」は、刑事裁判などではなくて、民事裁判の領域における陪審制を中心とする抜本的な司法改革でしょう。その理由をもう少し詳しく述べましょう。裁判手続を裁判官だけに任せずに、国民も参加する手続(陪審制)にしますと、民事裁判が分かりやすくなるだけでなく、裁判が迅速になります。

さらには、国民が参加することによって、真相究明が進むような手続を作らなければならなくなるため、これまでのような、証拠が出てこなかったり、乏しい証拠だけで裁判官にゲタをあずけたりするようなことはなくなります。それらの要請に応えるものとして、アメリカで盛んな陪審制を参考にすることが考えられます。

標準報酬制度と総報酬制

標準報酬制を採用しているのは、健康保険と厚生年金です。加入している人の賃金は千差万別です。個人個人について保険料を計算することはとても複雑で手間がかかります。そこで仮定的な報酬額のランク(等級)を決めます。

これに個々人の報酬額をあてはめて計算します。健康保険は三十九等級あります。標準報酬のランクは最低が月額九万八千円、最高が月額九十八万円です。厚生年金は三十等級です。最低が月額九万八千円、最高が月額六十二万円です。等級数は異なりますが、報酬月額(賃言に対応する標準報酬は、健康保険と厚生年金で変わりありません。

健康保険と厚生年金で、等級の数と最高額が異なるのは、健康保険は払った保険料で給付になんの変化もないのに対し、厚生年金では二階部分として報酬比例部分があるからです。いわゆる貢献原則というもので、保険制度への貢献、つまり保険料を多く払った人には高い給付を行うものです。

この二階部分がなければ、保険料を払う意欲に影響があるかもしれません。ところが、給与が高ければ高いほど際限なく保険料も高くなれば、それを給付に反映しなければなりません。現役の平均給与よりも相当高い年金をもらう人も出てくる可能性があります。これでは若い人が保険料を支払う意欲をなくすかもしれません。

そこで健康保険よりも低い標準報酬月額の上限が定められているのです。健康保険も厚生年金も標準報酬月額の上・下限は、物価上昇率や賃金上昇率を反映して一定年数ごとに見直されます。

直接対決すれば母親はすぐ間違いを認めるだろう

私は当初家内から話を聞いたとき、これは母親のまったくのカン違いで、直接対決すれば母親はすぐ間違いを認めるだろうと簡単に考えていた。そして妹たちも、すぐ謝罪すると思っていた。そこが肉親の情というものかもしれないが甘すぎた。相手は私が考えた以上にしたたかで、4人揃って自分たちのそれぞれの非を決して認めようとはしなかったのである。

私は、いまでも大学1年の終わりではなく1年浪人してちょうど受験期にこの騒ぎにぶつかっていたら自分の人生はどうなっていただろうと考えることがある。父方と母方を通じで父親と伯父・叔父8人のうち、1人として浪人を経験せずに大学を出たものはいない。したがって、この想像は決してありえなかったことではない。

そのときはゴタゴタで受験に失敗し、もちろん奨学金も家庭教師の口もなく、そのまま社会に出て働きながら自活しなければならなかったろう。少年のころからの志望だった新聞記者にもなれなかったし、フリーの物書きにはいつの日かなれたにしても大変なハンディを背負ってスタートしなければならなかっただろう。そう思うと50年経った今でも眠れぬ夜がある。

この学資騒ぎ以降、私の胸中で親と妹、4人に対するなにかがプツンと切れた。切れたものは、もはや絶対に元に戻ることはありえない。正直にいえば顔を見るのもイヤになったという心境になったのである。母親は伯父も祖母も死んでからの20年近く唯一の肉親だった弟、つまり私の叔父ともカネをめぐって絶縁状態になっている。

母方の祖母が死んだとき、毎月仕送りを受けて暮らしていたのだから大した額ではないが、預金の残高があった。一部はかねてからの仕送りを貯めたもの、ごく一部は私が富山に講演にいったときに見舞いとして講演料を置いてきたものだが、大半は叔父が母親の最期に不自由がないようにとまとめて渡してあったものである。その残高に関して母親が子供は3人いたのだから自分にも3分の1を貰う権利があると言い出した。

上の妹によると母親と富山で暮らしていて、何かと面倒を見てきた下の妹には、祖母は生前になにがしかを渡していたが、自分はなにももらっておらず死後に預金の残りから渡すという話になっていたので、それを母親が代わりに主張したのだという。そんなカネをもらう筋合いなどどこにもないではないかといっても、だってお祖母さんの遺言だものという。もらってなにが悪いという顔つきである。

この一件で叔父は実に不愉快な思いをしたらしい。当然のことである。彼はシベリア抑留から帰った新婚早々のサラリーマンの薄給の中から自活している学生の私にしばしば小遣いをくれたし、大阪にいた親たちが東京の私の家にきたときには、彼らをご馳走に連れ出してくれた。彼らが最終的に東京に住むようになったときも、この問題が起きた後にもかかわらず、ともかく訪ねてくれた。しかし母親は、このとき下を向いたきり押し黙り、ついに一言も発しなかった。

国家神道」は「精神の近代化」を妨げた

天皇現人神」というバカげた「妄想」からなる国家神道は、今日に至るも深刻な後遺症をわが国に残している。さすがに、天皇崇拝者はほとんどいなくなったが、日本人のマインド・コントロールされやすさと妄想に対する抵抗力のなさ、という形でその後遺症が残っているからである。

明治の国家神道は、江戸時代の封建思想からなる「心の蓋」を西欧文明の力でこじ開けて、日本人の「精神の近代化」を図る絶好の機会を今日に至るまで失わせてしまったのである。

日本は明治以降、国家神道に基づく国民統合によって、たしかに物質面や社会制度などの面では近代化に大成功した。しかし、精神面では逆にその国家神道によって近代化に大失敗するという逆説が生じたのである。

むろん「精神の近代化」の失敗は今日に至るも続いている。それが今日の日本人のマインド・コントロールや妄想に対する抵抗力のなさと、それと表裏一体の「編されやすい」国民性に現れているのである。

今日、戦後の日本はマッカーサーGHQによってマインド・コントロールされたものだ、との見解が一部の識者にある。その指摘は正しい。だが、そのマインド・コントロールされやすさは明らかに戦前の国家神道の成果であって、戦後の産物では絶対にない。

ゆえに、戦後日本をもしスターリンマインド・コントロールしていたら、日本は間違いなく第二の北朝鮮となっていたであろう。それはサリン事件でオウム信者が教団を離脱した後、別のカルトに簡単に引きずり込まれてしまうのと同じことなのである。

それに、同じくマインド・コントロールされるのなら、天皇現人神やスターリン主義よリアメリカ民主主義のほうがずっとましだと私は思う。

厳格な緊縮財政政策を発動

マルコスも二大政党のもとで戦われた一九六五年の総選挙で大統領に選出された。一九六九年の総選挙でも、マルコスはフィリピンの選挙につきものの「カネとネポティズム」にまみれながらも、ともかくも民主的手続きをもって大統領に再選された。アメリカン・デモクラシーの「ショウ・ウインドウ」としてのフィリピンの代議政体は、少なくとも形の上では守られていたのである。

しかし、行政府が弱体であり、権力をもつ官僚テクノクラートをシステムとしてもっていなかったこの時点でのフィリピンは、財政的規律が弛緩しており、膨大な財政赤字を恒常化させていた。これに危機感を抱いたマルコスは、国際通貨基金の援助をえつつ、厳格な緊縮財政政策を発動した。

放漫な財政に馴れきってきた経済はこれにより「貧血状態」となり、ベトナム戦争の鎮静化にともなう「特需」の減少がこれに重なって、この時期のフィリピンは極度の経済的低迷を余儀なくされた。緊縮財政に対する国民諸階層、産業界からの批判は鋭く、マルコスはここに大統領三選禁止条項を無効化して、一九七三年九月、戒厳令を布告した。政治権力のすべてをマルコスに集めた、個人的色彩の強い集権的権威主義体制への移行であった。

予算改革とは何か

これまで、日本の予算過程にみられる特徴と問題点をみてきた。予算の編成や実行の細部に入り込むほど、手続きの複雑さの陰で既得利益を追求する官僚制や政治家の姿が明らかになり、うんざりさせられる。予算の構造はあまりにも巨大であり、それがいかに負債を積み上げようとも、市民には「家計」ほどリアルに危機の様相が伝わってこない。それをよいことに、将来の財政状態などまったく考えずに、目先の利益だけを追っているのが、予算をめぐる政治の実態であるといってよい。

もちろん、これまでにも、幾度となく予算の構造の改革が指摘されてきた。それは外部の専門家による提言ばかりではない。政府自身、たとえば高度経済成長が軌道にのった一九六二年に第一次臨時行政調査会を設け、予算制度の改革を審議している。戦後初めての赤字国債の発行を受けて大蔵省が試みた「財政硬直化キャンペーン」も、その一種であるといってもよい(山口二郎『大蔵官僚支配の終焉』岩波書店、一九八七年)。さらに、赤字国債の発行が本格化する七〇年代末に試みられたスプリングーレビューも、予算改革の試みの一部ではあったろう。

とはいえ。「これでは財政は硬直化する」「破綻する日は近い」といわれようとも、政治の世界には。危機を煽っているとしか受け取られてこなかった。そこには、経済成長による増収への安易な期待が横たわっていたといってよい。しかし。驚異的経済成長など、とうの昔に過ぎ去った。それどころか、ポスト冷戦の世界は、市場のグローバル化を押し進めている。「一九四〇年体制」とまで一部の経済学者が形容する官僚制に仕切られた市場を前提とするかぎり、日本経済の復興など覚束ないだろう。ということは、「経済成長さえすればすべてが解決する」は、まったくの「神話」にすぎない。

こうした「神話」のもととなった驚異的経済成長は、予算改革にとっては不幸な経験であったかもしれない。それに支えられてか、先進国のなかで日本ほど、予算改革に無頓着な国もない。予算改革は、たんに予算の編成や実行手続きの改革を意味しているのではない。なによりも、財政運営のなかで堆積してきた政策・事業を、充当経費のみならず実施機構や人員をふくめて評価し、予算に「合理性」をもたせるために必要なのである。

いいかえるならば、予算のライフサイクルに応じて政策・事業評価が可能となるように、中央行政機構、中央と自治体との関係、国会の組織と審議手続きなどの全般にわたる改革を、指向するものでなくてはならない。この意味では、予算改革はまさに政治改革に等しいのだが、以下、なかでも重要なそして基礎的な検討課題を指摘しておこう。