ことばの力

 外山滋比古「ことばの力」(中公文庫、ISBN:4122016940)読了。
 世に名文家と言われる人は数多くいるけれど、《言の葉》に関して書き連ねている人となると、外山滋比古が思い浮かびます。私が随筆というものを意識するようになったのも、教科書に載っていたこの人の文章がきっかけだったように思う。
 本書で繰り返し登場する話題は、《音声としてのことば》。近代日本の文化は史部(ふみとべ)的な性格を持ち、語部(かたりべ)が虐待されていたのではないかと言う。ここで一瞬、天原ふおんカタリアツメベ探訪談」が頭をよぎったのだが、それはさておき。曰く、文字を中心とした教育に力点が置かれたため、耳と口のことばがおろそかにしてしまったのではないか、と。
 ここに興味深い指摘がある。小学校の3年生ぐらいまでは、先生の話を聞くことが勉強の中心であるが、45分間という授業時間、聞き続けられるだけの耳の《しつけ》が出来ていない。その理由を考えるに、子供に教えるべき大人たち自体からして「ことばの耳がよくないのではないか」と言うのだ。
 これは一理ある。以前、学習塾の教壇に11.5年間ばかり立っていたのだが、学年が下がるほど、授業を成立させるのが難しかった。教える内容は簡単。小学4年生だと「火事を発見したら、どうしますか?」「119に電話する!!」という程度。困難なのは内容ではなく、所定時間の間、生徒を座らせ続けることであった。経験からいうと、小学校で成績の悪かった子供が中学校で急に伸びるということは、まずない。少なくとも義務教育レヴェルでは、先生の「話を聞く」ことが能力に直結する。その能力は学年が進んでも差が開く一方で、後から身につけるのは至難の業。独学が重要になる大学受験で逆転がありうるけれど、それでも15年間のうちに開いた学力差を乗り越えるのは容易ではない。就学前の幼児期に言葉の訓練をしたかどうかは、一生に関わるものだと思っている。
 ただ私にしても、「耳の訓練」ということまでは考えが及んでいなかった。でもご安心めされよ。かの外山氏にしても、相手の名前を聞いて覚えるのは難しく、初対面の人から名刺をもらい、目で見ることで安心すると述べているのだから。