Hatena::ブログ(Diary)

博物士

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Wednesday, 2005/08/31

オルガスマシン

[] オルガスマシン  オルガスマシンを含むブックマーク

 イアン・ワトスン(Ian Watson)『オルガスマシン(ORGASMACHINE)』(2001年,ISBN:4877344586)。玄鉄絢少女セクト』において登場人物が読んでいた本として紹介されていたのだが,「作者曰く,ハードコア・ウーマン・リブ小説だそうである」(80頁)ということの意味が図りかねたので,取り寄せて読んでみた。

 培養液の中で畸形に育てた女性の素体に,擬似的な人格を組み込み,依頼者の男性宛に出荷される〈カスタムメイド・ガール〉。乳房を六つ備えられた娘,毛皮をまとう獣娘,乳首をライターに改造された娘。彼女らは記憶と人格を制御され,様々に性的消費をされる。主人公ジェイドは自動販売機に取り付けられ,コインと引き替えに「スロット」への挿入を受け入れる。自由を得た彼女らは蜂起し,男達に立ち向かう――

 う〜 つまらないです。1970年に英国で書かれたサイバーポルノとしてならば意味はあったでしょう(もっとも,本書はポルノ的表現を殆ど含んでいない)。しかし,現実は35年前の空想を遙かに凌駕しており,もはや構想(プロット)単独での驚きはない。ウーマンリブなどという時代的役割を終えた語句で説明されるように,本作は未来を舞台にしていながら過去の話をしている。支配する男性と支配される女性という単純な二項対立に終始しているので,内面性などは全く顧慮されないのも,つまらない理由。文章にしても,まだるっこしくて読みづらい。

 人形に奉仕を強要する(あるいは人形を愛する)ことは,もはや架空の話では済まない。極めて精巧な造形されたラブドールに,AIBOのような仕草を可能とする装置を組み込み,ギャルゲーで培われた感情回路(インタラクティブ性)を搭載させることで,美少女人形を「観用」ないし「愛玩用」として供することは十分に実現可能だろう。技術的課題の解決は目前に迫っている。

 ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史』(2004年,ISBN:4061497189)では,川原由美子の『観用少女』に登場する〈プランツ・ドール〉を美少女像の目指している到達点の象徴としたうえで,「美少女とひとり暮らし」というライフスタイルに伴うリアリティの揺らぎを「倫理」の問題として把握している(190頁以下を参照)。そのような問題関心を持たないまま『オルガスマシン』が提示するテーマは,邦訳が出された時点で既に陳腐*1。褒めるべき要素が見当たらない。

 ひょっとして、この作品の正しい読み方は

 “そぉじゃないだろ! ちくしょう分かってねぇなぁ! ヲレだったら……”

とキャラ萌え妄想を広げる事なのかも知れません。

http://www.sf-fantasy.com/magazine/bookreview/020401.shtml

*1:それに対して手塚治虫鉄腕アトム』では,人間とロボットの結婚に際して苦悩する姿を描くなどしていた。〈アトムの命題〉は今なお有効である。

Tuesday, 2005/08/30

知の教科書 フロイト=ラカン

[] フロイトラカン  フロイト=ラカンを含むブックマーク

 新宮一成(しんぐう・かずしげ)=立木康介(ついき・こうすけ)編『知の教科書 フロイトラカン』(ISBN:4062583305)を読む。

 この本からは,〈分かってもらおう〉という意欲が伝わってこない。どうしてなのかを考えながら頁をめくっていたところ,どうやら次の箇所が背景として作用しているのではないかと思えてきた。

  • 精神分析家になるためには精神分析を受けなければならない。(201-202頁)
  • ラカンの生前に出版された唯一の書『エクリ』(Les Ecrits)を読まなければならない。(213頁)

 つまるところ,精神分析を受けて精神分析家になり原書を読みなさい,そうすれば精神分析が分かるでしょう(そうしなきゃ分からないよ)――という姿勢で書かれている。問題意識を持った読者には,すこぶる有用な書なのであろう。私のように,そもそも「精神分析とは何か」についての知見を得ようとしている入門者にとっては,かなりきつい。

 それでも一通り目を通したおかげで,勉強にはなった。

 第二部「フロイトラカンのキーワード」では,「ラカンから出発してフロイトへ遡るという方法」を取る。すなわち,ラカンのタームとフロイトのタームをスパイラルで結び,フロイトのどのような〈発見〉をラカンが〈継承〉したのかを解きほぐしていく。これにより,理解は出来ないまでも,両者に差異があることまでは確認できた。

 第三部「三次元で読むフロイトラカン」は,実践編とでも言うべきところ。これにより,〈精神分析〉という枠組みを用いて何をやろうとしているのか――解釈法学で言うところの《射程範囲》が見えてくる。

 それにしても,敷居の高い書である。読みこなすには,先に入門書を読んでおくか,別に基礎知識を仕入れておく必要がありそうだ。しっかりした書評は,こちらへ譲ることにする。

http://d.hatena.ne.jp/./PreBuddha/20050514#p1

Monday, 2005/08/29

カーニヴァル化する社会

[] カーニヴァル化する社会  カーニヴァル化する社会を含むブックマーク

 鈴木謙介(すずき・けんすけ)『カーニヴァル化する社会』(ISBN:406149788X)を読む。講談社現代新書の表紙は改悪です。

 現状認識については悪くない。しかし,理論化に失敗している。

 冒頭,50頁まではとても面白い。第1章「〈やりたいこと〉しかしたくない――液状化する労働感」は,私の専門領域と重なることもあって,とても刺激的であった。

 ニート(NEET)に「働く意志」が存在していないことを手がかりに議論が始まる。鈴木は,これを社会的なトレンドの変化として捉え,「甘え」「意欲」「自身」といった言葉で表される内面の問題として考察する。そして,〈やりたいこと〉が重要性を持つようになったのは環境的な要因の変化によるものであるとし,予期的社会化(期待的社会化)という社会学の概念を提示する。具体的には,会社に入る前の学生時代に,自らが所属していない準拠集団(=社会人)を拠り所として,自身の行動様式を学習・決定していく過程のことだという。それが雇用を巡る社会構造が変化したことにより,「就職に際しての予期的社会化」は困難な選択を強いることになる。〈やりたいこと〉はよくわからないが〈やりたいこと〉を見つけるために頑張る――という論理は自己展開し,ループする。

 加えて,若年層のフリーター状態が継続するのは,親世代の願望が関わっていることを指摘する。すなわち,既得権益として正規雇用に就いている男性の年長世代が,非正規雇用として安い賃金で雇用される若者に「たかる」。就業に恵まれない相対的な弱者たる若者は,恵まれた親世代に「たかる」。こうしたたかりあい構造が若年就業の問題の背景にあると指摘する。

http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/005/ 鈴木謙介インタビュー(1)

 本書の問題点は,この次からである。ここで鈴木は,「ハイ・テンションな自己啓発」(=いつか本当にやりたいことを見つけるんだ!)と,「宿命論」(=やりたいことなんて見つからないんだ)とに分断される自己というモデルを提示する。そして,それが第2章で述べる「情報社会における監視」,さらに第3章「自己中毒としての携帯電話」と繋がっていくのだと言うのだが,さっぱり理解できなかった。モデルの構築に失敗しているように思えるところ。

 終章「カーニヴァル化するモダニティ」で,ようやく理解可能な地平へと帰ってくる。ジークムント・バウマンを引き合いに出し,瞬間的に盛り上がる「ハイ・テンションな自己啓発」を「カーニヴァル」と言い換える。そこでは,「感動」は目標の達成に対して与えられる「結果」ではなく,それ自体が「目的」であるようなものであるとし,自己目的化する感動カーニヴァル化の源泉であると説く。

 ――それで?

 著者自らが,瞬間的な盛り上がり=カーニヴァルとして書き連ねているような印象を受ける。意欲が空転を起こしているのではないだろうか。〈カーニヴァル化〉という切り口を示したという点は興味深いのだが,何のための概念提示なのかが不明瞭。

[] 萌え四コマの特性  萌え四コマの特性を含むブックマーク

http://blog.livedoor.jp/sweetpotato/archives/30765705.html

 id:SweetPotato さんによる最終取りまとめ。

 私はこれらの定義を融合して修正を加え、「萌え4コマ」の特性を以下のように与えたいと思います。

(中略)

 ここで「定義」ではなく「特性」としたのは、どんなキャラ(あるいは萌え要素)に萌えるかが人によって異なる以上、万人に共通した萌え4コマの基準=定義を与えることはできないからです。

(中略)

 結局、あなたが萌え4コマと思うものが萌え4コマである、という単純かつ当然の結論に至るまでに、回り道の回り道を長々として難しく考えすぎたということでした。しかし、やはりこの単純かつ当然な結論が、やはり本質なのではないかと思いました。

4コマ漫画読みのblog :: 結局「萌え4コマ」とは何だったのか

 この端緒となっているのは id:mikasa-dora さんから報告のあった,作り手の側からの証言。

http://d.hatena.ne.jp/mikasa-dora/20050827/p1竹本泉×芳文社編集部)

http://d.hatena.ne.jp/mikasa-dora/20050827/p2海藍×芳文社編集部)

 これらを読んで感じたのは,定義する(define)という態度そのものが効力を失った時代フェーズにあるのだろうか,ということ。これは先ほど評した『カーニヴァル化する社会』に通ずるところのように思われる。〈そこにあるもの〉を〈私の感覚〉で楽しむ〈祭り〉に,出発点の理論化は不似合いだ。カーニヴァルの意義を切々と説くなど,無粋だろう。

 いずみのさんによる「萌えの入口論」も,「定義をしないこと」を訴えかけることから始まっていた。違和感があって指摘はしてみたものの(id:genesis:20050818:p1),出発点については「それはさておき」という態度を取ったため,各論部分のどうでもいいようなことについてしか述べられず,まったく有効ではなかった*1。私の覚えた違和感の正体は,感覚的理解(皮膚感覚)の有無が深い淵として眼前に立ちはだかっていることの認識であったように思われる。


▼ 追記

http://d.hatena.ne.jp/snyd/20050828#1125251636

 つかさ 「ねえ、こなちゃん。萌えってなぁに?」(中略)

 こなた 「とりあえず、この単語を自然ととらえてる人がオタクじゃないかというのが私の意見。認識うすかったり、猛烈に反発するのが一般人。」

らき☆すた より引用

――うわ,オタクでも一般人でもないよ,私。どうしよう*2

*1:もっともこの件については,力量差が多分に関係していることを率直に認めざるを得ない。

*2:え〜と,〈サブカルオタ〉?

Sunday, 2005/08/28

[] ルーヴル美術館  ルーヴル美術館を含むブックマーク

ルーヴル美術館 (別冊太陽)

 『別冊太陽 ルーヴル美術館』(2005年,ISBN:4582944825)を眺めて楽しむ。

 写真の質がとても良い。画集として満足のいく出来映え。絵画が末尾に置かれており,オリエント/イスラム/ギリシア・ローマ・エトルリアに力点が置かれているのが特徴だろうか。彫刻や工芸品へと感心を誘導しようという編集方針が感じられる。

 学芸員らによる解説文は,ちょっぴり堅く,よそよそしい。おそらくヨーロッパ言語で書かれたものを翻訳しているせいだろう。

[] ルーヴル美術館の楽しみ方  ルーヴル美術館の楽しみ方を含むブックマーク

ルーヴル美術館の楽しみ方 (とんぼの本)

 ムックの上品な味わいを楽しんだところで,こってりしたものも欲しくなった。そこで,赤瀬川原平(文)+熊瀬川紀(撮影)『ルーヴル美術館の楽しみ方』(1991年,ISBN:410601999X)を読む。こちらはエスプリが効いていて実に面白い。バランスなどそっちのけで〈変わったもの探し〉に明け暮れる。まず,流血シーンをコレクション。それから床。絵の中に書き込まれた「水滴」に,大理石に彫られた「紙」。極めつけは,画集には絶対に登場しない〈ヒビ〉探し。よくもこれほど斜に構えられるものだと惚れ惚れする。粋だ。絵画が好きではない人でも,きっと美術館に行きたくなるような本。

[] マテュー・マニュゼスキ  マテュー・マニュゼスキを含むブックマーク

 14時より,札幌コンサートホールKitaraにて,マテュー・マニュゼスキ(Matthieu Magnuszewski, 1981-)フェアウェルオルガンリサイタル。

 よりによって同じ中島公園が同じ時間帯にマラソン大会のゴール地点になっていて,辿り着くまでにひどく苦労した。

  • N.deグリニ オルガン曲集 第1巻「オルガン・ミサ」より
  • J.P.スヴェーリンク 大公のバレット
  • D.ブクステフーデ パッサカリア ニ短調
  • F.-C.deアラウホ 2本のソプラノの分割ストップのための第2旋法によるティエント
  • J.S.バッハ 「恵み深きイエスよ,よくぞ来たりき」 BWV768

 前半は以上の5曲。テンポのゆったりした,あまりコントラストのはっきりしない曲が続いた。周囲から寝息が聞こえてくる。

  • L.ボエルマン ゴシック風組曲 op.25
  • R.シューマン ペダル・ピアノのための練習曲
  • F.リスト コラール「アド・ノス,アド・サルタレム・ウンダム」による幻想曲とフーガ

 後半は,うってかわって荘厳な曲。長大なリストのコラールが秀美。アンコールは,

Saturday, 2005/08/27

スペイン「ケルト」紀行

[] スペイン「ケルト」紀行  スペイン「ケルト」紀行を含むブックマーク

 古代のヨーロッパ中央部を席巻していた民族,ケルト人(ガリア人)に興味が湧いてきたので,積み上げてあった蔵書の中から武部好伸(たけべ・よしのぶ)『スペイン「ケルト」紀行――ガリシア地方を歩く』(2000年,ISBN:4882026473)を探し出して読む。

 まず,副題にあるガリシア地方の説明からしないといけませんね。イベリア半島の北西部のことです。リアス式海岸の名前の由来になった場所で,漁業が盛ん*1。寒冷で多雨な西岸海洋性気候で,赤茶けた大地のイメージで語られる「スペイン」とは程遠い場所。言語的にも異なっていて,ポルトガル語と良く似たガリシア語が普及している。

 ガリシア地方へは,紀元前6世紀頃にケルト人が定着。長らくローマの支配を逃れていたが,紀元前19年,皇帝アウグストゥスの治世に征服される。

 二千年も前にローマの影響下に入ったうえ,イベリア人との混血が進んだのだから,ケルトの名残など消え失せていると私は思っていた。そんな認識を改めさせてくれたのが本書。

 著者は〈ケルト文化圏〉をテーマに著述活動を展開するエッセイスト。曰く,ガリシアは「ラテンの鎧を着たケルト」なのだと言う。ローマに征服されなかったアイルランドと異なり,ガリシアはすっかりローマ化(ラテン化)してしまった。それでも,著者はガリシアに残る〈ケルト〉を次々と探し出していく。オウレンセ(Orense)のバグパイブ楽団,セブレイロ村(Cebreiro)にある石の家パリョーサ(palloza),丘陵に設けられた集落ヴィラドンガ遺跡,「ティル・ナ・ノーグ」を望む最果ての地にあるバローニャ遺跡,それにサンタ・テクラ遺跡。

 スペインの側から観察したのでは目にとまらないであろう〈ケルト〉を浮かび上がらせてくれる興味深い本であった。意気込みの余り,些細なことにも「これもケルト! あれもケルト!!」という論調になっているのはご愛敬。

*1:ちなみにスペインでは,イカもタコも良く食べます

Friday, 2005/08/26

ローマ人の物語 〔6〕

[] パクス・ロマーナ  パクス・ロマーナを含むブックマーク

 塩野七生(しおの・ななみ)『ローマ人の物語――パクス・ロマーナ』を読了。

ローマ人の物語〈14〉パクス・ロマーナ(上) (新潮文庫) ローマ人の物語〈15〉パクス・ロマーナ(中) (新潮文庫) ローマ人の物語〈16〉パクス・ロマーナ(下) (新潮文庫)

 権力基盤を手中に収めたオクタヴィアヌスが,国父アウグストゥスとして帝政ローマの礎を築いていく時期について。

 初代皇帝という後世からの呼び名とは裏腹に,派手な振る舞いが見られない。それ故,個人の伝記にすると冴えない存在。それを,塩野が作家という視点から観察し,想像力で繋ぐことにより再構成を試みている。そこで語られるのは「時間をかける」「実利を取る」ということの意味。そのコントラストとして,「血の継承」という妄執に囚われた老人という一面を描いているのも興味深かった。

Thursday, 2005/08/25

少女セクト

[] 玄鉄絢少女セクト 玄鉄絢 『少女セクト』を含むブックマーク

http://blog.livedoor.jp/yuri_amagasa/archives/30503809.html (百合な日々 :: 雨傘さん)

 こちらで絶賛されていたので,玄鉄絢(くろがね・けん)『少女セクト』(ISBN:4877348824)を買い求めてきた。

 なるほど,これは秀作です。

 分類してしまうと,女学校における百合もの。収録されている7話において,それぞれにカップリングを成立させていく。そのせいで登場人物が多く,ストーリーに絡んでくる人物に限っても15人いる。そのままでは拡散していってしまいそうになるところだが,表紙に登場している二人(内藤桃子と藩田思信)をストーリーテラーとして介在させることで繋いでいる。

 しかし,この設定が一読しただけでは理解しがたい。基礎知識を与えられずに『蓬莱学園』の世界に放り込まれたような――では伝わらないか。ん〜と,エロパロ同人誌に例えると,「絵が綺麗なので買ってきて読んでみたら元ネタを知らないのでキャラがどうしてこんなことをしているのか良くわからないけれどシチュエーションだけでも萌えるので満足」というような状態。ストーリーから切り離されたところでドラマは演じられている。それが本作に浮遊感をもたらしているのだろう。

 起承転結の「起」を欠いているので,なぜ彼女たちが思慕の情を抱いているのかは明かされない。キャラが立つ前に早くも事に至っている場合も多い。「どうして好きになったのか?」などはお構いなしに,「好きになったらどうするか?」を描いていく。

 他方,背後に緻密な設定が用意されているであろうことは随所から伝わってくる。単行本化にあたって書き下ろされた〈人物設定〉を読んで,ようやく睦み合っていた彼女たちが何者であったのか(そして何を描きたかったのか)が事後的に理解できたという話も幾つか。2つある学生寮につき,入寮生の世帯所得や浴室の面積といったことがストーリーの外部で披露されるのは,作品にリアリティを与えるという目的を失った作者の自己満足ではないのか,という疑念を私に抱かせる。難読な名前の少女たちを次々に繰り出してくるのも,設定に過剰な思い入れを持つ作家が陥りがちなパターン。

  • 第一話。石動菖蒲(いするぎ・あやめ) × 鷹代紅緒(たかしろ・べにお)。幼馴染み。
  • 第二話。藩田思信(はんだ・しのぶ) × 燕条寺真弥(えんじょうじ・まーや)。御主人様に命令する忠犬。
  • 第三話。狛井時雨(こまい・しぐれ) × 狛井千鶴(こまい・ちずる)。姉妹。
  • 第四話。鷲見雛(すみ・ひな) × 弓梢朋衣(ゆはず・ともい)。調教。
  • 第五話。鳰旦蕗(ねお・あさふき) × 犬吠崎雪華(いぬぼうざき・せつか)。屈折と交錯。
  • 第六話。甲斐盟絵(かい・ちかえ) × 葦切誌乃(よしきり・うたの)。魔法。
  • 第七話。諏訪部麒麟(すわべ・きりん) × 吉岡柴(よしおか・まつり)。バニーさんとネコ。
  • そして締めくくりに,藩田思信×内藤桃子*1の予兆を示し,ひとまず第一幕を閉じる。

 それにしても,である。『少女セクト』の質の高さと品の良さは,特筆に値する。感動はしないが感心させられる。さわやかに淡い刺激が広がるシードルのような作品*2

http://www.lo-tek.info/玄鉄絢

*1:わかっている人には説明不要だと思うけれど,[攻×受]です。

*2:cidre(仏)。微炭酸の林檎酒。sidra(西)に同じ。→Wikipedia

kuroyagisantarakuroyagisantara 2005/08/26 10:13 そんなにわかりにくいかしら。単にストーリーラインがカップルの数だけあって、順番に提示しただけではないかしら。後半が出ればはっきりすると思いますが、恐らく内藤×藩田組はメインのラインで、他はそれに絡むということでは? 本作における問題はむしろ少女たちの絡み方にあると思います。つまり少女たちが全体として群像になるのか、それとも(第七話までで提示された、一種セカイ系的な)二者関係のままで終わるのか、今後の展開が気になるということですが。まあ、簡単に言うと第七話までで「起」かな、と。

genesisgenesis 2005/08/26 16:31 端的に言って,わかりにくいと思う。上述のように整理すれば全体構造は割と明快なのだけれど,それに気づくまでは混乱していました。私,キャラクターを識別するのが苦手なんだよ〜 第七話までが長大なプレリュード(序曲)だとすれば納得のいくところ。

ELEMENTCROWELEMENTCROW 2005/08/26 18:58 確か某青年向け雑誌に連載してた記憶が…。
普通にその雑誌系列の物とばかり思っていましたが、そういう捉え方もできるのか…

genesisgenesis 2005/08/27 00:01 掲載誌は『コミックメガストア』の2003年8月号〜04年8月号です。▼ 〈80年代少女まんが〉で育った私は,媒体によって作品を性格づけるということをしないですね。細分化が進んだ現在では,「どこに掲載されていたか」によってラベリングするというのは自然な思考なのだと思いますけれど。

Wednesday, 2005/08/24

[] 大学院はてな :: 刑事裁判の被告って?  大学院はてな :: 刑事裁判の被告って?を含むブックマーク

 本日放映のクローズアップ現代 『法廷で訴えたい 〜犯罪被害者 遺族の声〜』 を観ていて気になったこと。番組の最初の方で,「法廷の左側に検察官が,右側には被告と弁護士が座ります」という場面がありました。

――どうして「被告」なん? 「被告人」でしょ??

民事訴訟
原告 が 被告 を訴える
刑事訴訟
検察官 が 被告人 を訴える

 NHKへクレームの電話をしたのですが(19時38分),その場では「調べます」とだけ言われて電話を切りました(こちらの名前を聞かれる事はなかったので,もちろんその後の返答もない)。で,訂正も入らなかったので*1調べてみたところ,これは常日頃から故意にやっている事だったんですね。

 いくらなんでも,これは酷いんじゃないかなぁ。裁判員制度の導入が近づいている時代なのに,誤った基礎知識を広めてどうする気だろう。マスコミが勝手に法律用語を改変していい理由は無いと思うよ。

*1:日弁連の人は,コメントの中でちゃんと「被告人」と言っていました。

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Tuesday, 2005/08/23

極楽スペイン/ポルトガルの暮らし方

[] 極楽スペイン/ポルトガルの暮らし方  極楽スペイン/ポルトガルの暮らし方を含むブックマーク

 書店で海外紀行の棚を眺めていたら,見覚えのある風景が。これ,バレンシアの市役所広場にある噴水だよ!

 そんなわけで表紙買いしてきたのが,東佐智代*1+日高充子*2『極楽スペイン/ポルトガルの暮らし方』(山と渓谷社ISBN:4635240851)。

 表紙をめくると,そこにはバレンシアの地図。裏表紙の側には,マルベージャとリスボン。この3都市における日本関連情報が紹介されることは希有なことで喜ばしいのだけれど,いったい本当に利用されるのか心配になる。

 取り上げられている場所の偏り方もすごい。マドリッドやバルセロナが,まったく出てこない。登場するのはコスタ・デル・ソル(フエンヒローラ),コスタ・ブランカ(アリカンテ),バレンシア――と地名を並べても伝わらないか。『日本での暮らし方』という本で,札幌と富山と佐賀が紹介されているようなものだと思ってください。

 でも,この偏り方がいい。

 私自身,大都市が嫌いで,バレンシアという地方都市に留学しました。「なんとなく」暮らすなら,大きすぎず小さすぎもしない中くらいの街に住むのがいいと思う。そんな選択をした人達の実例を集めている。背伸びしたところがなく,地に足がついた暮らしが伝わってくる。そう思いながら読んでいたら,知り合いが出てきて驚きましたけれど*3

 この本を支えているのは“No pasa nada”(何でもないさ)という前向き思考。かといって駆り立てているわけでもなく,肩の力をスッと抜いてくれます。したたかに生き延びるコツなどは書かれていませんので,スペイン暮らしに夢を見ている人には,物足りなく感じられことでしょう。でも,この本から聞こえてくる「どうにかなるよ〜 大丈夫だよ〜 はにゃ〜ん」という囁(ささや)きに乗せられると,ふらふら〜っと空港に立っていて,気がついたら何年も日本に帰っていないや,ということになっちゃうかも。じゅうぶん麻薬成分を含んでいます。Con uidado!(気をつけて)

*1:あずま・さちよ。ライター,通訳・翻訳業。1966年生まれ。同志社大学文学部卒。1989年にマドリッドへ語学留学。そのままスペインに住み続け,現在はサラゴザ在住。

*2:ひだか・みつこ。テレビドラマの原作・脚本家。1946年,東京生まれ。ポルトガル在住10年目。

*3:「手作りジュエリーの職人」で登場する美津穂さんとは,一緒にワインを飲みに行ったことが…… 料理研究家の茶多さんは,直接会ったことはないけれどMLの有名人だし。

Monday, 2005/08/22

ヒトラー 最期の12日間

[] ヒトラー 〜最期の12日間〜  ヒトラー 〜最期の12日間〜を含むブックマーク

 『ヒトラー 〜最期の12日間〜』を観てきました。

 いい映画でした。政治的な意味合いで取り上げれば色々と言えるでしょうけれど,私はそういう語り方をするつもりはありませんので……。人間の織りなすドラマが最も端的に表れる戦争を描いた,手堅い映画だという印象を受けました。演出過剰なハリウッドには真似できそうにない,生真面目な作りには好感が持てる。

 上映中,過労自殺や,組織と個人のことなどを考えていました。この映画を,労働法の教材として観ていた人は,そうそういないと思いますけれど。破滅へと向かう組織から〈降りる〉ことが出来なくなって,先に個人(特に中間管理職)が自滅してしまう。周囲の人間や,後世の人間ならば「どうして避けられなかったのか」と思うようなことなのに。そのメカニズムは同じだなぁ――と思いながら。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050822

Sunday, 2005/08/21

symphonic=rain DPC

[] symphonic rain, unaccompanied suites  symphonic rain, unaccompanied suitesを含むブックマーク

舞台探訪

 工画堂スタジオくろねこさんちーむ)『シンフォニック=レイン*1にて登場する場面に,イタリアの光景を重ねてみる。

http://symphonic.g.hatena.ne.jp/genesis/20140505/p1

 来月末,乗り継ぎのためにローマへ立ち寄る予定があるのだけれど,残念ながら取材に出かけるだけの余裕は取れませんでした。『GUNSLINGER GIRL』&『BITTERSWEET FOOLS』の舞台探訪*2は,そのために撮影したわけじゃないので構図が不正確だし。改めて出かけなくては。

DPC

 “digital picture collection”(ISBN:B0002WTLLA)。

 うわぁ,これが本体と別に存在している(いた)というのは,大問題ですよ*3。3編のオリジナルノベル(外伝)が収載されているのですが,『雨の始まり』は“音の妖精”についての物語解釈を左右してしまう代物。

 個人的な感想ですが,「通りがかりの通行人の足にしがみついて移動するフォーニ」なんていう描写をされたら,ますます虫っぽく思えて嫌(^^;

 収録されているイラスト22枚は,いずれも美しい。

Soundtrack

 すっかり気に入ってしまったので,ボーカルアルバム“RAINBOW”を購入。

 トルティニタ(中原麻衣)の「秘密」や,フォーニ(笠原弘子)の「空の向こうに」などは,ここ一箇月ほど1曲リピートで飽きずに聴き続けています。

シンフォニックレイン ボーカルアルバム「RAINBOW」

 もちろん,岡崎律子さんの唄う“for RITZ”も忘れてはいません。でも,聴いているうちに「涙がほおを流れ」てしまうので,辛いんですよね……*4

 もし,岡崎さんのファンで,このアルバムに特別な想いを持っている人は,是非とも『シンフォニック=レイン』という作品に触れて欲しいと強く願う。この旋律,そしてこの歌詞は,雨の降り続く街ピオーヴァの中にあって光り輝くものだと思うから。

For RITZ

postlude :: evangelist

 この作品を評価する言葉を探すために,かなり熱心に評論を読みふけりました。美少女ゲーム運動,ギャルゲー表現,雫の時代,青の時代,内面の発見,傷つける性,主体性を消し去るプレイヤーキャラクター,メタリアルフィクション,物語における観測問題――そうした要素が収斂する場所に2004年がある*5。そして,そこで『シンフォニック=レイン』は生まれ落ちた。でも結局,

それでも、あえていう。これは傑作である。

http://d.hatena.ne.jp/./show-must-go-on/20050119#p1 (kaienさんの過去ログ)

この一言で足りました。

 〈ゲームという表現〉が〈ゲームにしかできない〉ものを模索した末,〈プレイヤーの中で収束する物語〉として『シンフォニック=レイン』が奏でられた。これは,聴衆を必要とする交響曲。

 これから先,ゲーム評論の場で発言することがあるかもしれません。そのときも私は,福音を伝え続けていくことでしょう。

http://www.nankyoku-koubou.com/symphonic-rain/ (なんきょく工房)


▼ 追記 (2005/08/22)

 歴史的な位置づけの部分について,反論を頂きました。

 ノベル系ゲームのカウンターとしてそのまま取り上げると、後で禍根を残すように思う。

http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050822#p1

 白状しておくと,私は演奏パートでは即座にESCキー,だったので意識に昇ってません。ADVパートを重視しすぎだというのは,その通りでしょうね。

 もっとも私は,『Fate』や『ひぐらしのなく頃に』は葉鍵系の〈ハイパー・ノベル〉とは別な文法に沿うものと把握しています。2004年は「流れ」そのもののが構造的に変化を起こしたのではないかと見ているので。“S=R”にしても「ノベル系ゲーム」の系譜に押し込もうとしているわけではありません。ゲームシステム(ゲーム性)が重要な役割を果たしているという点において,“YU-NO”や“Ever17”と同じ地平に立つことが出来た希有な例ではないかと理解します*6

 「カウンターをあてた」という表現は不正確だったかな。ハイパーノベルの文法に則した“振り”をすることで成立させているシナリオ構造のことを言いたかったのですが。tdaidoujiさんが〈拡散〉という表現で述べておられることは,私が〈収束〉と言っていることとコインの裏表であるように思えます。私は,「観測者である私」の主観しか問題にしていませんでしたので。

▼ 追記 (2005/08/23)

 観測問題について,エレさんにコメントを送りました。

http://blog.livedoor.jp/element0006/archives/50016977.html

*1:初回限定版:ASIN:B0001FG72E,DVD通常版:ASIN:B0001FG72O,CD通常版:ASIN:B0001FG724,愛蔵版:ASIN:B0009RNAT2

*2http://sowhat.magical.gr.jp/ciao/fratello.html

*3:従前別売りであったが,愛蔵版には含まれている。

*4:今,この文章も泣きながら書いているのですが。

*5:流れから抜け出していったものとして,同じ年に“Fate/stay night”が登場した。流れの中に踏みとどまったもののうち,正統を歩んだのが“CLANNAD”で,カウンターをあてたのが“symphonic rain”。こういうゲーム史上の整理でどうだろうか。

*6:“Ever17”は評論を読んでいるだけなので,この位置づけは不正確かもしれません。ただいま取り寄せているところ。

黒胡椒黒胡椒 2005/08/23 03:19 シンフォニック=レインでは歌詞が物語の伝達手段として重要な役割を果たしています。ですから従来のノベルゲームにオペラ的な色彩を加味したモノととらえたほうがいいのかもしれません。さらにキーボードを叩いてフォルテールを奏でる時、プレイヤーは演奏家になるわけです。卒業演奏時、実際にヒロインの後ろでフォルテールを弾いているような感覚は従来のゲームではなかなか味わえません。歌詞が物語の一部であり、卒業演奏においてはプレイヤーも演奏家として物語の創造に参加することになるわけです。END時のスタッフロールで流れる挿入歌も、ヒロインの心情をよく表していますし歌詞なしでは成り立たない物語なのです。

プレイヤーが物語の創造に参加するという意味においてシンフォニック=レインは、ノベル系とは異なる一段上の新しい表現形式を模索しているように思えます。

>tdaidoujiさんが〈拡散〉という表現で述べておられることは,私が〈収束〉と言っていることとコインの裏表であるように思えます。私は,「観測者である私」の主観しか問題にしていませんでしたので。

「物語は音として世界に満ち、心の中で収束する」そういうことなのかもしれませんね。

hajichajic 2005/08/23 13:53 注釈五番に賛成します。Fate、CLANNAD、そしてSRは全て「運命=どうにもならない冷酷な現実(fate)」を舞台に、それらへの「幸せな意味付け(destiny)」を求めて展開された物語でしたが、CLANNADはその解決を(見ようによってはあまりに安易な)奇跡に求め、Fateは(少なくとも現時点では)テーマを解消しきれず、その追求を放棄することで結末を得ています。正確な言い方かどうか自信はありませんが、それでもあえて言うならば、SRとは、CLANNADとFateを止揚した先にある作品です。もちろん、物語としてではなく、あるテーマを追求する、思考の体系としての意味で。

hajichajic 2005/08/23 14:07 つまり、「絶対に起こらない『奇跡』でないと、どうにもならないことはある(CLANNAD)」。けれど、かといって「実際今ここに存在する『現実』を諾々と受け入れる(Fate)」のもどうかなあ哀しいなあ、というジレンマの先に浮かんでいるのが、「何時かきっとわかるから、いいの」すなわち『信じること』(SR)なのだと思うわけです。その文脈で、私はSRを『福音書』と呼びます。たぶん、語義どおりの意味で。

Saturday, 2005/08/20

大真面目に休む国ドイツ

[] 大真面目に休む国ドイツ  大真面目に休む国ドイツを含むブックマーク

 労働契約法制についての研究書を共著で出さないか,という話がありまして。私のところには,労働時間規制についての議論状況を整理するという役割が回ってきました。それで,まずは学説・判例を離れ,周辺状況をさらっているところ。

 で,手当たり次第に集めてきた資料の中に,福田直子『大真面目に休む国ドイツ』(2001年5月,平凡社新書ISBN:4582850901)がありまして。どうでもいいような本は無視することにしているのですが,これはあまりに酷かった。

 明治維新の時代には,英米独仏の「欧米列強」がやっていることなら取り入れましょう,というのがありました。さすがに最近では薄れてきましたけれど。それでも,私みたいに中進国を研究対象にしていると「どうしてスペインを?」と聞かれるので,コンプレックスが無くなったわけではないでしょうね。

 で,本書は題名からしてドイツについての本だということは一目瞭然です。著者略歴を見ると,ジャーナリストだということもわかる。先進国ドイツの礼賛でも賞賛でも構わないので,どういった視線で〈休暇〉を捉えているのかを観察したくて買ってきたのですが……

 「格安ツアーで散々な目にあった」といったゴシップ記事の翻訳ばかりで,もともと低かった期待を更に下回る内容でした。章末に,それらしいデータを載せて“もっともらしさ”を演出していますが,それにしても恣意的だし。実在するかどうかも疑わしい個人の体験談で全体を語られたら,たまったものではありません。

 本書は読みやすくおもしろく書かれてあるが、まじめな社会構造分析の観点からはやや物足りなさを感じる。本書の目的が単にドイツ人の表層を伝えるのであればそれでもいいのだが。(澤田哲生)

Amazon.co.jp の書評より

 こんな不真面目な本でも褒めなきゃいけないなんて,大変ですねぇ。

Thursday, 2005/08/18

ルナティック・パーティ 〔8〕

「萌えの入口論」短評  「萌えの入口論」短評を含むブックマーク

http://www1.kcn.ne.jp/~iz-/man/enter01.htm

 いずみの(id:izumino)さんによる「萌えの入口論」。

 一読したところでは欠点が見えてこない。多方面に目配りが行き届いている。永山薫へのリスペクトを表明しているだけあって,特にセクシャリティの議論が手厚い。

 特に重要なのは,第3章「梯子から内面へ」だろう。不正確とのそしりを受けることを覚悟で整理すると,

  • キャラクターには,内面への「入口」がある :: 萌え要素
  • 〈ぼく〉は,入口に辿り着くための「梯子」を持っている :: 萌え属性
  • 萌えキャラの内側には,〈ぼく〉が入り込める「空虚な空間」がある :: 投影
  • 萌えとは,「他者に入口を作って,その内面に入る」ことで得られる愛情を意味する

このように把握することによって,キャラクターとオタクを同時に〈萌え〉の俎上に載せているところが,この論考の強み。

 ただ,引っかかったところがありました。

 エロ妄想を手掛かりにした「萌え」が流行してくると、更に今度は「エロさの無い萌え」(これを狭義の「萌え」だと定義することも多く、だからスラング的には「純粋な萌え」とでも呼ばれるのだろうか)というものが新たに出現してきた。これは「メカも無く、男性の居場所も無く、エッチな要素も無いのに、何故か男性に消費されてしまう」新しい美少女の形だった。

 ここなのですが,私とは発生順序の理解を異にします。いずみの論考の中では,やおいボーイズラブなどの性倒錯(トランスセクシュアル)まで踏み込んでいるのですが,〈少女まんがを読んだ男の子〉については弱点になっているように思われるところ。すなわち,1980年代中葉に〈乙女ちっく少女まんが〉の流れを汲む作品*1に触れた男の子たちについて。――要は,オタク第二世代である私のパターンのことなんですが(^^;

 もっとも,これは時代を遡ることになるので除外されているのは致し方ない。しかし,これを「新しい美少女の形」とすることには疑いを挟んでおきたい。「新しい美少女消費の形」と言うならば差し支えないのだけれど。

 今を去ること20年,僕らは懸命に梯子を作って垣根の向こうを覗き見し,〈少女まんが〉に住む少女を発見した。そして,〈ぼく〉はガラス越しに少女を眺めていた。侵すべからざる少女の〈内面〉へと立ち入ることなど出来なかったのである*2

 少女まんがを受容してから二度の世代交代が起こり,度重なる消費の末に辿り着いた場所は出発点だった――そういうことなのではないでしょうか。ただ,投影が為される場所や内容は変化していることは間違いないでしょうけれど。

 キャラクターの話に戻すと,「空虚な空間」を取りすぎてリアリティを失ってしまう(キャラの内面が希薄になる)ことを防ぐために,「対象が持つ人間らしさ=リアルな他者性」によるバランスを持ち出している。これもまた,投影の場所を〈萌えキャラ〉の内側に置いたことの影響でしょう(スクリーンが外側にあるならば必要ない)。立論に当たって苦心された跡が見られます。

 しかしそうすると,内面に立ち入る隙を示さないキャラクターに対する萌えは起こりえない,ということになる。いずみのさんは「戦闘美少女」を提示して一応の解決を試みている(あるいは梯子を手に入れた後の問題として)。だが,少女が女性性を保持したまま,男性の視点を経ずに提示された場合,ただひたすらに受領するだけであっても生ずる〈萌え〉というのはあるのではないだろうか。

 これにつき,第4章の「入口論から出口論へ」では『マリア様がみてる』における「男性の脇役」を引き合いに出し,男性が男性性へと帰る「出口」について必要性を示している。しかし,本当に出口は必要なのだろうか。ここで先の問いかけは,入口から先まで踏み込まなければ〈萌え〉にはならないのだろうか――と,言い換えることが出来る*3。このあたりは,『赤毛のアン』や紺野キタひみつの階段』を巡って論じると面白い話題になるかと思う。

ひみつの階段 (1) (ファンタジーコミックス) ひみつの階段 (2) (ファンタジーコミックス)


 感想を添えておくと,「参りました」としか言いようがない。

 論旨から離れたところでは,萌えに接する自分の立ち位置の隔たり具合がわかりました。もともと私は原典主義者で,パロディには徹底して否定的でした。その影響は未だに残っていて,同人誌でもオリジナル性の高いものを評価する傾向にあります。そこへ,

 他人による二次創作作品に触れる、という行為も「萌え」にとっては重要な入口として作用する。つまりその場合、二次創作者の視点を利用することで対象への手掛かりを得ているのである。

第2章 「「視点」が生む入口の重要性」

というような享受の仕方を提示されると,面食らってしまいました。これだと,〈ぼく〉の内側にも他者を投影する空間が広く確保され,次第に没個性化しますよね……。


 最後に情報提供を。

 その正確な時期は定かでないが、オタクの性生活の大革命があるタイミングにおいて巻き起こったことは間違いない。

第3章 「「萌えの世界」に架けられた梯子」

 これは1992年における『美少女戦士セーラームーン』放映がきっかけである,として構わないかと思います。1989年の“M事件”からはじまるオタク氷河期が終わった記念碑ですから。また,パソコン通信を通じて話題になっていった最初の作品でもあるし*4。翌93年には「ふゅーじょんぷろだくと」が,エロパロ同人誌を集めて商業流通に乗せていますが*5,キャラクターを性的に消費する視線が広まっていった表れでしょう。そこへ『赤ずきんチャチャ』『プリンセスメーカー』が追い風として作用していたように記憶しています。


▼ 追記

  • id:REV:20050819#p1
    • かがみあきらは,〈少女まんが〉を解釈・分解・再構成して〈男の子〉でも理解可能なものにしたという意味で交点に位置しており,同列ではなく特権的な存在だと思うん。

*1:具体的には,わかつきめぐみ岡野史佳谷川史子など。

*2ササキバラ・ゴウが言う〈傷つける性〉を,私はこのような文脈で理解している。

*3:いずみのさんは総論で「キャラクターの内面に入る為には、作り手側が用意する「入口」が不可欠である」としている。クリエイターの思考では,このようになるだろう。しかし,受け手たる〈ぼく〉自身が入口を探す,という能動的な楽しみ方の余地を失わせてしまうのではないかと危惧する。

*4「同級生」が発表され,ソフ倫が設立されたのも1992年。

*5:『ルナティック・パーティ』(第1巻:ISBN:4893931296)。それ以前には『シュラト?』『トルーパー』『キャプ翼』といったやおい系が同社の主力商品であった。余談だが,この第8巻(ISBN:4893931741)に載っている大塚ぽてとまつおゆりこ名義)や御形屋はるか(A・KI・RA名義)の作品が気に入っているもので,たまたま手元に残してあった次第。そんなわけで,本日の引用書影に。

hajichajic 2005/08/20 00:24 萌えを「空虚なものだ」と悲しくなるほど十分に認識しながら、それでもごりごり追及してしまうその理由はいったいどこにあるのでしょう。もしかすると、それはある意味一つの「真理への梯子」なのかもしれません。

HODGEHODGE 2005/08/20 00:53 はじめまして。ちょっと気になった部分があったので教えてください。

>やおいやボーイズラブなどの性倒錯(トランスセクシュアル)まで踏み込んでいるのですが

というのは、どういう意味なんですか? 「性倒錯」とは何を指しているんですか? 「トランスセクシュアル」は「性同一性障害」のことですか?

genesisgenesis 2005/08/20 04:16 HODGEさん,ご指摘ありがとうございます。▼ まず「性同一性障害」(gender identity disorder)を意味していたわけではないことを明らかにしておきます。▼ 「性的倒錯」はパラフィリア(paraphilia)のことなのですが,それだとフェチズム,サディズム,マゾヒズム,ペドフィリア...と包含する内容が広すぎます。ここでは「男性性と女性性の混交・交錯」についての話題(具体的には永山薫が『網状言論F改』所収の「セクシュアリティの変容」で扱っている内容)に限定をかけようとしたところです。▼ 指摘を受けて調べてみたのですが,「トランスセクシュアル」(transsexual)にしてしまうと,GIDに結びついてしまうようですね。私の理解が足りませんでした。▼ この場合,「クロスジェンダー」(cross-gender)とも表現できるのですが,それだと意味するものが弱すぎます。▼ ここでは,小谷真理さんの表現に沿って「ジェンダー・パニック」(性差混乱)と訂正することにいたします。至らぬ点がありましたこと,どうぞご容赦くださいませ。

genesisgenesis 2005/08/20 04:31 hajicさん,『シンフォニック=レイン』舞台探訪でイタリアに滞在中じゃありませんでしたっけ?(汗)▼ 私は〈萌え〉を空虚なものとは思っていないですよ。いずみのさんは精神分析に由来する「投影」を持ち出して説明を試みていますけれど,私も〈萌え〉は自己愛へ帰着するものだと考えていますから。男女の性的営みが介在しないので,子供は生まれない(=生産的ではない)ということは確かですけれど。でも,創造的ではないとは思われないのです。

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Wednesday, 2005/08/17

ローマ人の物語 〔5〕

[] ユリウス・カエサル ルビコン以後  ユリウス・カエサル ルビコン以後を含むブックマーク

 勢いに任せるまま,塩野七生(しおの・ななみ)『ローマ人の物語――ユリウス・カエサル ルビコン以後』を読了。

ローマ人の物語〈11〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(上) (新潮文庫) ローマ人の物語〈12〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(中) (新潮文庫) ローマ人の物語〈13〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(下) (新潮文庫)

 紀元前44年3月15日,カエサル暗殺さる。あまりに淡々とした叙述に驚く。塩野は次のように述べ,シェイクスピア(すなわち16世紀末の英国人)は共和制末期のローマ人とは別の価値観に立っていたことを示す。

 このブルータスが高い評価を受けるようになるのは、コスモポリスであったローマが崩壊して一千五百年の後に都市国家(ポリス)を再建することになる、イタリアのルネサンス人によってである。『ジュリアス・シーザー』も、イギリス・ルネサンスの人シェークスピアの作であった。

 その後13年に渡る内乱を経て,カエサルが後継者に指名したオクタヴィアヌスが権力闘争に打ち勝ち,初代皇帝アウグストゥスとして立つところまでが本巻。「帝政を確立した人物」が,天才カエサルに比べれば弱点の多い人であったこと,そして,その弱点を埋め合わせていったのかが興味深かった。

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Monday, 2005/08/15

ローマ人の物語 〔4〕

[] ユリウス・カエサル ルビコン以前  ユリウス・カエサル ルビコン以前を含むブックマーク

 塩野七生(しおの・ななみ)『ローマ人の物語――ユリウス・カエサル ルビコン以前』を読む。

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫) ローマ人の物語〈9〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(中) (新潮文庫) ローマ人の物語〈10〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(下) (新潮文庫)

 冒頭では,前巻の繰り返しになる内容を,カエサルという人物からの視点で叙述し直す。そこで語られるのは,共和制ローマ(元老院体制)の綻び。ここで登場する人物たちを,塩野は[野心]と[虚栄心]の組み合わせで位置づけてみせる。中盤からは『ガリア戦記』を追う。戦役を終えたとき,元老院はカエサルを反体制であるとみなす。そして,カエサルルビコン川の岸に立った。

 カエサルへの心酔を表明してやまない塩野の手になるものであるから,前巻までの冷静さはちょっぴり薄れる(愛慕の情が透けて見えるのだ)。かといって,個人の伝記には陥らないよう自制していることも分かる。

 カエサルという人物を離れてみたときには,中部ヨーロッパの成り立ちを思い描くための触媒として興味深かった。現在の地図を見ながらだと,どうしても国境というものに思考が縛られてしまう。それを,「ライン川の手前に住むガリア(ケルト人)諸民族」と「ライン川の向こうから圧迫を加えてくるゲルマン人」という構図で大まかに描いてもらうことにより,ローマン・ガリア(=フランス文明)という概念を自分のものにできたことは大きな収穫であった。

reds_akakireds_akaki 2005/08/16 01:41 http://d.hatena.ne.jp/reds_akaki/20041119#p4
に塩野七生『ローマ人の物語』と重信房子について書きました

Friday, 2005/08/12

ユリイカ 『オタクvsサブカル!』

[] オタクvsサブカル  オタクvsサブカルを含むブックマーク

 熱い日差しを避けて家の中にこもり,ユリイカ臨時増刊『オタクvsサブカル!』(ISBN:4791701372)を楽しんで午後を過ごす。

 最終戦争(ハルマゲドン)が起こるのかと思いきや,いきなり共存共栄を唱えたり*1,ただひたすら自分史の編み上げに徹することで他人と相対化することの無意味さを諭したり*2,芸として内ゲバをやってみせたり*3,「それはさておき」と少女論をぶちかましたり*4――。芸達者な執筆陣が豊富なおかげで,読み応えのある「娯楽雑誌」に仕上がってます。

 つまるところ,この本を読んで理知的に論評しようとした瞬間,おたくは「サブカルオタ*5になってしまい,問題自体が収斂して消滅してしまうんですよ。所詮,おたくもサブカルも「サブカルチャー」内部の微妙な差でしかない。盛り上げるなら,森川某でも連れてこないと(笑)

*1吉田アミ 「一〇年前の世界と一〇年後の世界を発見する件について」

*2田口和裕 「おれとサブカル

*3前島賢 「僕をオタクにしてくれなかった岡田斗司夫へ 断絶と反復と」。『ユリイカ』ではオタク第三世代が第一世代を攻撃するという構図になっているのですが,〈セカイ系〉の話題からオタク第二世代に噛み付く番外編(?)も面白かった。
http://d.hatena.ne.jp/cherry-3d/20050803#p1

*4堀越英美 「家政婦はオタクVSサブカル論争に旧制高校生の亡霊を見た!」

*5更科修一郎は,〈萌え〉を志向するオタクの態度を相対化し,時に内部批判を行うのがサブカルオタなのだ,と説く。」

Thursday, 2005/08/11

ほんわかちづる先生 〔1〕

[] ほんわかちづる先生  ほんわかちづる先生を含むブックマーク

 かがみふみをの『ほんわかちづる先生』の第1巻(ISBN:4812462185)。

 表紙のちんまい女の子が塾の先生です。これでも。そして,見た目通りにドジっ娘。得意技は居眠り。

 「加賀美ふみを」に性表現抜きの四コマ漫画を描かせたらどうなるか――という期待と予想をそのままに実現した「和み系ちんまり塾講師ライフ」。ももせたまみせんせいのお時間』と設定がかぶるのですが,それでもみか先生は人間でした。ちづる先生は,もはや愛玩小動物……。

 頭身の低い女の子の愛くるしい姿を眺めて楽しむ高尚な趣味の持ち主(ロリコンとも言う)ならば,表紙買いでも後悔はしない。ストーリーの強度はあまり高くないので,この作品に笑いや感動を求めるのは不適切。ほんわかほんわか。

http://www.new-akiba.com/news/0508/12/02/index.html (しばた@OHP)

[] 教養としての〈美少女ゲーム〉  教養としての〈美少女ゲーム〉を含むブックマーク

http://d.hatena.ne.jp/cogni/20050811/1123724631 に寄せて*1

 美少女ゲームにおいてシナリオへの着目が始まったのは,エルフ(elf)が1992年に「同級生」を投入してからのことだと私は見ています。エロゲーのノベライズとして実質的に最初の成功を収めたのも『同級生――もうひとつの夏休み』(ISBN:4847031156,1994年)だったことが傍証になります。『まほろまてぃっく』以前,中山文十郎という原作者は,こうした流れの中で評価を受けていました。

 そこへ,アリスソフトも『AmbivalenZ ―二律背反―』(1994年)でビジュアルノベルに挑む。そこにリーフ(Leaf)という弱小ソフトハウスが参戦しようとしたとき,特異なシナリオに絞って一点突破をかけた,という構図を描きます。

 ゲームシステムについて言及したのは,「同級生2」あたりで複雑さが高まりすぎたことへの反動としてハイパーノベルが導入されたのではないか,と思えるからです。他方,そうした流れに乗らず,ゲームシステムの練り上げに邁進するによって,剣乃ゆきひろの名作『DESIRE‐背徳の螺旋‐』『EVE burst error』『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』が生まれたものと思います。

 前史から紐解き始めることによって葉鍵系の特質が明らかになる,と考えています。『雫−しずく−』(1996年)は,無から突如浮上してきたものではない。こうした歴史的位置づけは〈へたれインテリオタ〉なら知っておくべき〈教養〉に含めておき,次世代へと伝えていってもらいたいなぁ,ということなのです。

*1http://d.hatena.ne.jp/cogni/20050809/1123519761 に対する私のコメントに対するコメントに対してのコメントが本稿です。

cognicogni 2005/08/12 07:21 なるほど、ゲームシステムに目を向ける意味が分かりました。「同級生」からの一連の流れも確かにインテリなら知っておくべきだと考え直します。背景に流れる物事を見い出しているご意見、とても参考になります(自分もそういう鋭い考察眼を持ちたいものです)。

genesisgenesis 2005/08/13 00:10 何か参考になるところがあれば幸いです。さすがに私も全体に目配せしているわけではないので体系を組むのは出来ませんが,各論部分で何かお手伝いできればと思います。

Wednesday, 2005/08/10

姑獲鳥の夏

[] 姑獲鳥の夏  姑獲鳥の夏を含むブックマーク

 映画『姑獲鳥(うぶめ)の夏』を観てきた。

http://www.herald.co.jp/official/ubume/

http://www.ubume.net/

「この世には不思議なことなど何もないのだよ」

 いや,この映画が眼前にあることが不思議なんですけれど……。何というか,学芸会?

 京極夏彦の原作(ISBN:4061817981)を,あえて要約すると「視える≠在る」そして「主観≠客観」。それを映像で表現するのは無理があったんじゃないかなぁ,と。ポイントになるあのシーン,素直にやるならフレームワークを主観的に構えないと辻褄が合わないのに。

 不自然にスポットライトが使用されていることから思いついたのですが,もっと白々しく,「演技っぽく」演技したら,また違ったのではないかと(簡単に言うと,古畑任三郎)。オペラなどの舞台芸術なんかだと,観客が見ているものと,出演者が見ているはずのものは違う――という表現があるし。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050810

Tuesday, 2005/08/09

フロレアール

[] フロレアール  フロレアールを含むブックマーク

 昨日,元長柾木との関連で触れた『フロレアール 〜すきすきだいすき〜』(13cm,1999年7月)。

 なんか「すごいことをやろうとしていた」ことだけは強く覚えているのだけれど,細部を思い出せなかったので,ざっと読み返してみる。

(この先はネタバレがあります)

続きを読む

Monday, 2005/08/08

美少女ゲームの臨界点

[] 美少女ゲームの臨界点 :: 暮れゆく『雫』の時代  美少女ゲームの臨界点 :: 暮れゆく『雫』の時代を含むブックマーク

 注文しておいた本が,ようやく届いた。波状言論美少女ゲームの臨界点――HajouHakagix』(ISBN:4990217705,同人誌出版)。2004年8月刊行の評論集。折しも学会誌の原稿を書いているところだったのだけれど,気分転換と称して少しずつ読む。

 副題が〈はかぎくす〉となっていることからわかるように,葉鍵系*1に連なる作品群を歴史的に総括しようというもの。

 表紙絵に目をこらすと右側には“A I R”の神尾観鈴。左の少年は……“To Heart”の藤田浩之だろうか? 装画を新海誠が手がけているのだが,彼こそが本書の示した枠組みに終焉をもたらした人物の一人というのが皮肉である。わずか8年で駆け抜けた時代の表象。私はこの絵を,勝手に「茜雲のむこう、永遠の場所」と呼んでいる。

http://www.hajou.org/hakagix/

「どうか幸せな記憶を。」

 佐藤心更科修一郎元長柾木東浩紀による共同討議。

 本書では,『雫−しずく−』(1996年)に始まり,『To Heart』(1997年)によって完成された様式(フォーマット)に沿う表現行為を〈美少女ゲーム運動〉とする。この運動は,1998年から99年にかけて急速に豊穣さを増し,『A I R』(2000年)によって臨界点(critical point)に到達した。しかし,その瓦解も急速に起こる。早くも翌2001年,『月姫』『ほしのこえ』のブレイク,『ファウスト』系の誕生などにより流れが変化。そして『CLANNAD』(2004年4月)が最後の徒花(あだばな)であった――という史観をとる。

 つまり,すでに『雫』の時代は終焉を迎えており,我々は墓標の前に立っているのだ。それを気づかせようとするのが本書。自らが切り開いたギャルゲー評論(と,それを育んだ時代)に,自ら〈終油の秘蹟〉を行おうとする姿が涙を誘う*2

 ここに漂う悲壮感は,「1996年以前」を知らない世代には伝わらないかもしれない。私は愚鈍なので『月姫』では気がつかなかったのですけれど,『Fate/stay night』で一つの時代が終わったことを実感していました。

 ゲーム史上における位置付けですが、力作かつ大作ではあっても新しい領域を開拓したわけでは無かったように思います。奈須きのこの構築する架空世界が充実した、ということに留まるでしょう。

 構成ですが、各々のルートに入ってしまえば分岐が無い一本道であることからわかるように、3巻に分かれた紙の本に近い組み立てを取っています。むしろ本作は、本として執筆した方が主題を明確化するのに相応しい。私は“Fate”を、ゲーム(ビジュアルノベル)としての側面よりも、衛宮士郎の自己追求を描いた物語であるという点で評価します。

http://d.hatena.ne.jp/genesis/20040512/p1

 あいまいな書き方をしていますが,率直に言ってゲームとしての“Fate”を褒めてません。こんなの前時代の小説じゃないか,ギャルゲー表現としては新しいものなんか無い――と。この文を書いた時は,未だ戸惑っていたんですよね,従来とあまりに違う異質さに。どうしてゲームなのに本やアニメと同じことをやるんだろう,って。念のために言っておくと,美少女ゲーム「ではないもの」としてならば,私も“Fate”は面白い作品だと思ってますよ。それで,これは3冊の本であるものとして評価を進めたものです。

 それが今回,ようやく言語化できる手だてが見つかりました。つまり,既に時代は次のフェーズ――本書の表現によると「ゲームのような小説のようなゲーム」の時代へと移行している。時代が戻ったのではなく,〈美少女ゲーム運動〉の反動を踏まえて次の段階へと進んでいた(それを私は,1980年代後半の復権かと誤解していた)。“雫の時代”の価値観で語ろうとしていたのが,そもそもの間違いだったわけです。〈美少女ゲーム運動〉によって育まれたものは,膨張し,拡散しており,特定のジャンルを成立させるものとしての機能的役割を終えていた*3

 もちろん“Fate”には〈美少女ゲーム運動〉から引き継いだもの――例えばキャラクター指向などがありますから,断絶があるわけではない。ただ,リアリティを伝える(私が責任を引き受ける)ための手段として選択肢が存在しないし,シナリオには〈弱さ〉というモチーフも登場しない*4

 思えばその前の3年間,『痕−きずあと−』的な要素を残す『月姫』と,シナリオ構造をメタな視点で見る『歌月十夜』しかやっていなかったのです。『AIR』によって美少女ゲームの極み(限界)を突きつけられてしまって以来,急速に興味を失ってしまっていて。その点,東らの悲壮感を(感覚的にではありましたが)同時代的に受け止めており,本書の枠組みには賛同できます。

 常々言ってますが,私はオタク第2.7世代。オタク第3世代が享受すべきものは,遺伝子の中に組み込まれてはいないので,理解と解釈によって咀嚼してからでなければ摂取できないのです。間違っても『ファウスト』なんて読めない。『イリヤの空、UFOの夏』も途中放棄したまま。この先は“雫の時代”の残滓をすすりつつ,細々と語り部として記憶を紡いでいくことにしようか……*5

美少女ゲームの起源」

 ササキバラ・ゴウ(1961年生まれ)へのインタビュー。本書は,ササキバラの提示した〈傷つける性*6が思想的バックボーンになっていることが確認できる。先日書いたコメント*7と同じような観点から東浩紀が質問を発しており,私の見方が的はずれなものになっていなくて安心しました。

 興味深かったのは,姿の見えないオタク第二世代について。〈美少女ゲーム運動〉では作り手の立場にオタク第二世代が居て*8,それを第三世代が消費している――という構図だという。自分と同世代に位置している人達(昭和40年代生まれ)が作り手に回っているというのは盲点でした。私は,誰が書いたかではなく,どんなことが表現されているのかに興味が向くので,クリエイターのプロファイルには注意を払っていなかったのです。

「『雫』の時代の終わりから」

 原田宇陀児(はらだ・うだる,1973年生まれ)へのインタビュー。

 ササキバラ論考〈傷つける性〉のそもそもの起源は『WHITE ALBUM』にある。その原田はというと,『雫』に惹かれて高橋龍也へのリスペクトを表明した。〈美少女ゲーム運動〉を『雫』の時代とも呼び替えるならば,まさに時代の申し子といえる。

 聞き手の佐藤心(1979年生まれ)が無邪気な生徒に見えるのは,私が年老いたオタクであることの証明でしょうか(泣) 図らずも佐藤は,オタク第二世代と第三世代の断絶とを明確化させている。全国各地のコミュニティはローカルな小集団ごとに活動していて,「オンリーイベント」など無くて,萌えとエロには区別があって,ぷに絵が異端視されていた――ということを参照できるように残しておかなくては,後の世代が「昭和70年代」,すなわち私たちを育んだ十年間の評価を誤りかねないという危機意識がもたらされる。

「時代が終わり、祭りが始まった」

 シナリオライターである元長柾木(1975年生まれ)による回想。作り手であるだけに「同級生」(1992年,elf)から考察を書き起こしており,『To Heart』を重要視するなど,捉え方が他の論者と異なっているところが注目に値する。

 そして驚くべきことを告げる。『君が望む永遠』(2001年,アージュ)で既に『雫』の時代は終わっていた,というのだ。元長に言わせれば,死したる者への「告別式」が『CLANNAD』だと。そこで提示されるのが,題名にある「時代が終わり、祭りが始まった」という歴史観である。簡単にまとめると,次のようになる。

製品型
ビジュアルアーツVisualArt’s)方式,スクリプト志向
祭り型
ちよれん*9方式,アニメ志向

この見方が面白い。『君が望む永遠』(あるいは『月姫』)を,仕掛けられた〈祭り〉によってヒットした最初の作品とする。そして『君望』が,『雫』や『ONE』のような〈作品〉としての美少女ゲームを抹殺したのだ――という。〈祭り〉型に連なる流れに『D.C.〜ダ・カーポ〜』『マブラヴ』『斬魔大聖デモンベイン』『月は東に日は西に』(いずれも2003年)があり,『Fate』がとどめになった,と見る。

 こんな面白いこという人物――業界の流れを内側にいながら覚めた目で見ている元長柾木とは何者だろうと思ったら,『フロレアール』(1999年)の作者でしたか……。この時期,ギャルゲーから身を引いていたのに,たまたまこの作品だけはプレイしていまして。表層部(のかわいらしさ)と深層部(の不条理さ)の落差に驚いたことを強く覚えています。なるほど,メタ好きの東浩紀が着目するわけだ。私も,ここまで来たらとことん突き合ってやろうと思い,『未来にキスを』(2001年)をMKに注文してきました。

「萌えの手前、不能性にとどまること――『AIR』について」

 東浩紀(1971年生まれ)による『A I R』の読み解き。第一部を「父の不在」*10,すなわち,国崎往人観鈴&晴子と接近して家族になろうとする(観鈴から見れば父親的な存在になろうとする)が失敗する物語,と把握する。そして第三部を「プレイヤーの不在」,つまり,カラスの“そら”として傍観者であることを余儀なくされる物語と位置づける。このようにキャラクターとプレイヤーの2つのレヴェルにおいて挫折させられることにより,より強く無力感は私たちのものとして認識させられる。この逆説的な仕組みを「メタリアル・フィクション」であるとする論考。

「『雫』の時代、青の時代。」

 更科修一郎(1975年生まれ)の文。

 題名の「青の時代」って,ピカソ――じゃ変だな。三島由紀夫ですか? 過剰な自意識が破滅を導く様を綴った物語。だとしたら,ずいぶんと自虐的かつシニカル(冷笑的)です。

青の時代 (新潮文庫)

 前半は,更科が美少女ゲーム業界へと関わっていった時期の自叙伝。面白いのは共同討議の方にあって,「加野瀬未友というヘンな編集長」は「第一世代の言論が面白くないから,第二世代の言論を取り入れたいという,1.5世代的な人です」という説明があったりする(116頁)。

 後半は非常に鋭い指摘を含む。本当に面白いのはこちら。他の論者は「なんとなく感じているけれど上手く言葉にならない」ことを書いているが,更科は思いもよらないことを言ってくれる。

  • To Heart』は,オタク的に先鋭化した[物語]たる『エヴァ』に対する保守反動(=1980年代ラブコメの正統な後継者*11)である。
  • Kanon』までの短い期間に,〈零落したマッチョイズム〉と〈少女幻想〉*12が融合した「乙女ちっくイデオロギーの楽園」が構築された。
  • 〈零落したマッチョイズム〉とは,主人公が社会と戦って成長するマッチョイズム(=大きな物語)をノイズとして嫌悪する態度である。
    • これに対し,本来のマッチョイズムを体現した作品の例として,小池一夫『傷追い人』がある。ここでは,主人公のヒーロー性を強調するためにハーレムが作られた。この系譜に『月姫』や『ガンスリンガー・ガール』を位置づけることができるが(!!),遠野志貴やジョゼがマッチョな行動を取ることはない。
  • オタクというトライブ(部族)を支えているのは,社会と切り離された楽園願望である。二次元の少女から社会性というノイズを剥ぎ取ることで,恋愛という幻想は純化され,楽園は強固になる。
  • 乙女ちっくイデオロギーにとって,[プレイヤー=男性=主人公]もまた少女を傷つける加害者であり,ノイズである。
    • A I R』とは,少女の内面という楽園を守るために男性が次々と消去され,終局的には主人公の存在すら排除してしまう過程を描いた作品である(乙女ちっくイデオロギーの先鋭化
  • 先鋭化に耐えられないユーザーは保守反動の動きを起こす(オタクナショナリズム*13)。その流れは二つ。

 このあたりは,クラクラするほど素敵です。

「すべての生を祝福する『AIR』」

 佐藤心による。どうしても見劣りがしてしまう。

まとめ

 そこそこ自分たちのことを語れるだけの能力と自覚を身につけたオタク第二世代が,後ろを振り返って「さようなら」と言うための本です。もちろん,BGMは『鳥の詩』で。2004年に無理にでも切断面を入れることで“あの時代”を特別なものと切り離し,純粋さを保とうとする潔癖主義,純潔志向な態度だったりもしますけれど。

f:id:genesis:20050809044258j:image

 そこまで退却的な態度を取らない人でも,現在オタクというトライブが置かれている状況を見渡すために有用な文献かと思います。特に,更科修一郎元長柾木は,有益な視座を提供してくれる。分断など起こっていないとするにしても,どこが接点として機能しているのかを考える素材になる。

 それにしても,〈美少女ゲーム運動〉という名称については,誤解を生みかねないと危惧します*14。正しくは〈少女に内面という可傷性を発見した童貞たちがゲームの中に生きる美少女キャラクターに乙女ちっくイデオロギーの楽園という物語を仮託し自らは敗走する運動〉のこと,なんですが……。つまり,この枠組みに沿わない[美少女ゲーム]も脈々としてあるので,困惑させてしまう。これは,別な名称を与えた方がいいでしょうね。《はかぎくす症候群》(hakagix syndrome)などでは,いかがでしょうか。思えば,私たちはあまりに病んでいたから。

 それにしても,本書に言及している人が少ない(2,000部が出ているようですけれど)。面白い本なのに……*15


▼ 追記(2005/08/11)

  • http://d.hatena.ne.jp/cogni/20050809/1123519761
    • 認知科学徒留学メモ :: インテリオタのための教養としてのエロゲー。Windows時代に入ってからの作品史を種類別に整理している。それ以前の御三家時代(elf+アリスソフトD.O.)は,そろそろ記録の整理に入らないと誰も言及しなくなってしまいそう……。私見としては,「泣きゲー」のようにプレイヤーの受け止め方によって分類する方法だと,1990年代前半におけるゲームシステムの変化を捉えられなくなるのではないかと思います。

*1:いちおう説明しておくと,LeafそれにKeyという2つのソフトハウスを指すスラング。

*2:ここの主語は,東浩紀。他の参加者は,大枠で賛成しつつも,微妙に距離を置いている。

*3:それをササキバラへのインタビューでは,1970年前後において「ジャンルとしてのサイエンス・フィクション」が「価値観としてのSF」へと捉え直されていく状況になぞらえて説明されている。

*4:これは,本書の出版後にブレイクした『ひぐらしのなく頃に』で顕著だと思う。

*5:余談ですが,私は1994年から96年まで,PC-VANのパソコンゲームSIG(jGAMETHEORY)でSub-OPをしておりました。しかも,90年代前半に主流だった過激な性表現を重視するグループとは反対の立場を取り,シナリオ性の高い作品を評価をするレビュワーとして活動していた。そんなわけで,“雫の時代”が幕開ける瞬間を見ていた証人だと思う。2001年1月にPC-VANがサービスを終了して“古巣”を失ったことも,美少女ゲームへの関心を削いだ一因。

*6:『新現実 vol.2』(ISBN:4047213926,2003年3月)所収。

*7http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050728/p1

*8:例として,高橋龍也麻枝准原田宇陀児奈須きのこ元長柾木らの名を挙げている。

*9:千代田区に本社を置くアージュ,オーバーフロー,ニトロプラスの連合体。

*10:東の言う「父の不在」とは,神尾家に父親の姿がないといった意味ではない。フロイトにいう「エディプス・コンプレックス」に由来するもの。『新世紀エヴァンゲリオン』において,シンジがゲンドウ(家父長)に対して抱く葛藤を想起してもらうとわかりやすいかと思う。

*11http://d.hatena.ne.jp/cuteplus/20040921/p3 に,更科による補足がある。

*12:1970年代後半の〈乙女ちっく少女まんが〉に込められていた性抑制的かつ内向的な価値観。更科による「N.C.P. システム化された幻想に対する違和感と、誰かを思い出せない理由。」あたりを参照のこと。

*13:関連して,http://d.hatena.ne.jp/cuteplus/20040611/p1

*14:「オタク公民権運動」を意識しての命名なのだろうとは思うのですが……

*15:本書を面白いと思うかどうかは,『WHITE ALBUM』への評価で決まるのかなぁ。私は,あの痛みが好き(それも澤倉美咲&緒方理奈シナリオの)。Leafの作品で,最も高く評価している。

osamuohosamuoh 2006/05/15 22:49 私も”美少女ゲームの臨界点”を読了したのですが、

どうして、わざわざ東氏が”美少女ゲーム”にかかわったのかがよくわかりませ。

世間一般の常識の線では、あきらかに、プレイステイションやXボックスのほうが、面白く、迫力もあるとおもわれます。

”美少女ゲーム”ゲームの世界では一番面白くない種類にぞくすると思われるのですが、それでもなお
東氏が、あえて美少女ゲームを選択しいるのかが、どうしても解りません。何故でしょうか?

h-osamu@d6.dion.ne.jp
http://www.k2.dion.ne.jp/~pensee

genesisgenesis 2006/05/16 00:36 『動物化するポストモダン』から『ゲーム的リアリズムの誕生』にかけての時期に東浩紀が関心を持っていたのは〈物語的想像力〉によってもたらされるリアリティでした。それが顕著に表れている例として,ノベルゲームという素材を採用したのだと思います。「迫力がある」から,「面白い」からといった尺度でリアリティの強弱を検討しているわけではないのです。

osamuohosamuoh 2006/05/16 18:16 h-osamu@d6.dion.ne.jp
http://www.k2.dion.ne.jp/~pensee

<物語的想像力>と言う言葉に大いに感動しました。

 せっかく感動しておいて、それ以上考えるのは自分でも嫌なのですが、東氏の友人達の多くのいわゆる教授の方々が、それは東氏の<欲望>ではないかと言っているのを良く聞きます。

 東氏は、ちゃんと婚姻もなしとげられており、お子さんもお持ちになっているので、フーコーやバタイユのように大きく<侵犯>する、妙な<欲望>とは違い、かなり信頼の持てるものであると思われますが、東氏が取り上げる作品が、みなすべて<18禁>である事とも、ほんの少し関係あると思うのですが、どんなものでしょうか? あまり考えても仕方の無い事なのですが・・・・・・

genesisgenesis 2006/05/16 18:43 正直に申し上げて,東浩紀が性に対して示す態度をどう捉えるべきなのか,良く分かりません。何故かというと,確かに東は「美少女ゲーム」を題材にして論を物しているのに,コンテンツの中で表現されている性を巧妙に避けて論じているからです。このねじれこそが東の論調の特徴なのですが,その理由は本人に聞いてみたいところです。

Friday, 2005/08/05

不条理日記

[] あじま  あじまを含むブックマーク

 ある雑誌のバックナンバーを探して古本屋へ行ったところ,お目当ての品は無かったものの,掘り出し物を発見。吾妻ひでおの作品集(奇想天外社版)が,各105円。ありがとう,B◎◎K・OFF!

  • 『パラレル狂室』(昭和54年発行の第3版)
  • 不条理日記』(昭和54年発行の第3版)
  • 『メチル・メタフィジーク』(昭和55年発行の第2版)

 大事に保管されていたことがわかる保存状態で,紙は四半世紀を経て劣化しているけれど焼けがまったく無い。ほくほく。

 最近,大塚英志ばかり読んでいたので「吾妻ひでおは偉大である」「まんが史は吾妻ひでおによって書き換えられた」「吾妻ひでお手塚治虫の正当なる後継者である」というのが刷り込まれていたのですが―― それを差し引いても新鮮かつ強烈。

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Thursday, 2005/08/04

GAOGAO! 3rd ワイルドフォース

[] 《萌え》についての言語学的実証研究  《萌え》についての言語学的実証研究を含むブックマーク

● 「萌え要素」という言葉には二種類の使われ方がある

 ひとつの意味は、評論家の東浩紀が『動物化するポストモダン』で提唱した造語である「萌え要素」。

 もうひとつは、単純に「萌え」と「要素」という二単語を組み合わせただけの日本語「萌え要素」。

http://d.hatena.ne.jp/izumino/20050803#p1

 いずみのさんによる調査研究。前者はキャラクターのパーツを指し,エレメント(element)に相当する。それに対して後者の用法はファクター(factor)としてのそれであり,「要因」や「原因」と置き換え可能であるというもの。そして,後者の用法の方が一般化しており,この場合にはパーツを表すものとして「萌え属性」が使われる傾向にあると言う。

 たまたま当所でも,同じ資料を使って前日のエントリー*1を書いています。先方へは,昨晩のうちにコメントを書いてきました。

# genesis 『 私は東浩紀の用法で《萌え要素》を用いておりました。そうすると,作品の性格として〈萌え〉を志向しているものを指しているかどうかを述べたい場合――具体的には引用されていた事例のような場面で困るのですが,思い起こしてみると《萌え成分》ないし単に《萌え》と表現していたように思います。▼ 《萌え属性》ですが,これは人に対する attribute ないし property のことだと考えておりました。すなわち,読み手なりプレイヤーなりが,どのような《萌え要素》を好んで消費しているのかを表示するためのものとして,です。』

 未だ言い足りないので,これを補足しておきます。

 自分語り(カミングアウト)をしておくと,私はえびふらい『夢で逢えたら』(1991-93年)でネコミミに目覚め,フォア・ナインの『GaoGao!』シリーズ(1994-97年)*2で動物耳の奥深さを知りました。その甲斐あって,あさると彪さんが描かれるような「ふわふわのしっぽ」を目にすると萌えます*3。この場合,私の〈萌え属性〉はケモノ娘さんであり,〈萌え要素〉は猫耳なり尻尾なり首輪なりである,という言い方になります。

 東浩紀の用法に従う以上,《萌え要素》が萌えを掻き立てる部品を指すことが私の出発点*4。そこから順に言葉を当てはめていっています。ちなみに私は,属性と言われると,

c:\> attrib +r *.*

が思い浮かぶMS-DOS世代。そのため,属性の言い換えとしてはアトリビュートプロパティ,すなわち「特質」や「特性」がしっくりくるのです。

 私の理解するところでは,東的に《萌え要素》という時には,物語(ドラマ)から孤立してキャラクターに対し配置されるものという意味合いがあったように思います。*5この文脈が脱落したところにおいては,いずみのさんが指摘したような状況が発生するのは自然なことかと思います。「キャラに備わった萌えさせるための要素」とも「私が萌えを感じる要素」とも読めますので。私も違和感を感じていたのですが,その正体が掴めました。

 《萌え成分》については,「シュークリーム分」と同じ由来を持つ転用ですから,いずみのさんが

なんとなく「最近萌え成分が不足がちだから、萌えアニメでも観て補給せねば」みたいな、栄養素のような言い回しを連想しますし。

と述べられるのは,まさしくその通りです。個々のキャラクターの仕上がりを説明するためのものとしては不向き。しかし逆に言えば,総体としての作品について論ずるには便利な言い回しだと思います。「『ココロ図書館』や『苺ましまろ』には〈萌え成分〉が豊富に含まれている。でも,〈萌え成分〉の他には何もない」のように*6

 話を根源的なところにまで差し戻すと,そもそもの《萌え》についての共通の理解が得られていないということもあるのでしょう。特に意識せず,単に「好み」「趣味」の言い換えとして《萌え》を用いる方が多くなったかと思います。用語が一般化して拡散したということでは,《萌え要素》と同じ。私は斎藤環に従い,《萌え》をセクシャリティにおける「虚構コンテクストへの高度な親和性」*7と把握します。端的に言ってしまえば,キャラに対して肉体的に欲情できるかどうか。

 私個人としては用語の使い分けをしていても,その用法が一般的ではないとなると,これは気をつけないといけません。


▼ 追記(2005/08/05)

http://d.hatena.ne.jp/taketooru/20050803#p3 (酒出とおるの日記)

 私の文章は「萌え要素の発見」だけを考慮に入れて書いたものですが,こちらは「萌えキャラの生成」にまで踏み込んでいます。[第1段階]キャラクターを萌え要素へと分解する(カテゴリー化=記号化),[第2段階]萌え要素の集合体を対象としてキャラ萌えする,[第3段階]萌え要素を付与して,萌えキャラそのものを形成する――ということを例を踏まえて説いています。ここで言う第3段階は,東浩紀流に言うと「データベースをもとにしたシミュラークルの生成」となるでしょうか。

 で,私は第3段階のものを生理的に受け付けないので,原理的な理解に留めているわけです。酒出とおる氏の表現を借りれば,「空中分解」してしまった定義を必死になって守りながら用語の用法を割り出しているのであって,傍から見れば滑稽なことでしょう。

*1http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050803/p1

*2:原画:わつき彩雲さん。詳細については,次のサイトを参照。
http://www.campus.ne.jp/~ishigami/AMUSEC/BISYOU/DEEPREV/REV-GAO.htm
引用画像は,第3作『ワイルドフォース』のパッケージ画。

*3:実は,Firefox のエンブレムにも,ちょっぴり萌えたりする。

*4:『動ポモ』ではデ・ジ・キャラットを図示し,[フリルをつけまくったメイド服に白い猫耳帽子,猫手袋,猫ブーツ,そして猫しっぽ]といったものを《萌え要素》として例示している。

*5:そのため,物語の進行から生じるものである〈ツンデレ〉を《萌え要素》として述べるのは不適切だと私は考えています。さすがに古典的・原理的すぎる理解だと思いますけれど。

*6:ケンカ売ってますが,私はこれらの作品が,どうしても読めないのです。ぎりぎり境界線に位置するのが『今日の5の2』。物語の求心力に惹かれる読み方をしていることの負の側面だと思う。どうせ私は団塊ジュニア……

*7:斎藤『戦闘美少女の精神分析』49頁。

taketoorutaketooru 2005/08/07 02:15 はじめまして、酒出とおると申します。こちらの見解非常に興味深く拝見させていただきました。バックグラウンドが豊かで私も参考にさせていただきたいと思います。
>《萌え》をセクシャリティにおける「虚構コンテクストへの高度な親和性」
とするという言説は非常に的確であると感じました。ただ、<萌え>の使い方が拡散してしまってきているために、これとは別の意味でも用いられることが多くなってきたようにも感じます。
こちらの日記ではまだ分析を続けていこうと思っていますので何か気付いたことがあればお知らせください。
お邪魔いたしました。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050804

Wednesday, 2005/08/03

あずまんが大王〔4〕

[] モエヨン・クロニクル  モエヨン・クロニクルを含むブックマーク

 id:SweetPotatoさんによる「『萌え4コマ』歴史・現状・展望」補足」に寄せて。

http://blog.livedoor.jp/sweetpotato/archives/29178186.html

 わざわざ私の名前を出していただき恐縮です。真摯にテーマを追いかける姿勢には敬意を表します。読み手が,それぞれ好き勝手に消費しているだけでは評論活動が意味を失いますので,ささやかながら私からの応援的コメントを送ります。

 私も,『あずまんが大王』が萌え四コマの原点であるという主張に賛同します。萌え4のクロニクル(年代記)においては前史,すなわち萌え四コマが生まれるに至る道のりの中で『ももシス』が登場するものと位置づけています。その理由を,《萌え》の定義とマンガ表現論に絡めて述べておきます。

 良く使われる《萌え要素》という表現は,東浩紀が『動物化するポストモダン』(2001年)で提唱したデータベース・モデルに由来するものです。ここで留意しておきたいのは,東の示したものは「徹底して禁欲的なモデル」であり,性的な意味合いを極力排しているということです。それというのも,『動ポモ』は斎藤環戦闘美少女の精神分析』(2000年)への回答として書かれたものであるからです*1。ラカン派の精神科医である斎藤は,欲望(性欲)から《萌え》という現象を眺めます。それを衛生化しよう(セクシュアリティを排除しよう)と試みたのが東である,と位置づけて見ています。

 その斎藤が,あずまきよひこについて興味深いことを述べた文章があるのです。しかも,それまで《萌え》がわからないと言っていた斎藤が,『あずまんが大王』によって「ようやく《萌え》の感情に開眼した」と語っているのです*2。そんな斎藤が萌えたと言っているのですから,そこにはセクシャリティを語る文脈があります。

 斎藤は,『じゃりン子チエ』と『あずまんが大王』に共通点が多いことを指摘します。具体的には「作品世界の構築が,キャラクターの会話を軸にして成り立っている」と言う。そのうえで,『あずまんが大王』の画期的な点は「学園ものの定番ともいうべき恋愛ドラマを一切排除した点」とする。そして,同性集団を恋愛抜きで描くことにより「ドラマの強度は背景に退き,かわって繊細な関係性の味わいが前景化してくる」と述べています。ここで述べられているような特質を踏まえて『ももシス』の構造を考えると,未だ萌え四コマとしての独自性を獲得するには至っていないように思われるところ。

 ちなみに,以前にも紹介した伊藤剛の論考では,『あずまんが大王』と『ぼのぼの』(1996年〜)との相似を述べている*3いがらしみきおが「起承転結からの逸脱」を行って表現上の可能性を広げ,それが「ストーリー四コマ」をもたらしたものとみる。また,そのことがキャラがテクストとの一対一対応的な結びつきを必要としない状態をもたらし,キャラが図像だけでも成立できる状況――伊藤の用語で言えば,キャラの自律化に至ったのだと述べる。それ故,

 「少なくとも『ぼのぼの』以降の四コママンガとは,「萌え」の土壌として適した制度的存在であると考えることができる」

とする*4

 マンガ史を〈表現〉の観点から観測すると,やはり『あずまんが大王』は特権的な立場にあるものと把握すべきではないでしょうか。そして,『あずまんが大王』を原点に置く立場をとったとしても,そこに至る歴史(前史)が否定されるわけではありません。そのことを言うために,二人の論者の言説を引用しました。

 id:SweetPotatoさんは,

 私はオリジナル萌え4コマ作品の原点は「あずまんが大王」にあると考えます。その理由は、この作品が雑誌『電撃大王』で成功したことにあります。

とし,掲載媒体によって性質を推し量ろうとしています。しかし,描かれた作品の内容を見ることでマンガ表現論的に性格づけを考えるということも可能なのではないでしょうか。

 何故かというと,掲載誌が何であるかというのは補助的要素にしか過ぎないと考えるからです。例えば,竹本泉。『さよりなパラレル』のあとがきが象徴的なのですが,第4巻(ISBN:4812450594,1996年)の時点では,最近の仕事の割合は

[少女誌:32%,少年誌:24%,マニア誌:24%,ゲーム誌:4%,その他(ゲームの仕事):16%]

だと,半ば自虐的に述べています*5。でも,媒体が何であろうと,「竹本泉作品=変なの」であることに変わりはないですよね*6。他にも,流星ひかるの作品は一貫して〈乙女ちっく少女まんが〉の文法に則していたりする。

 『ももいろシスターズ』『せんせいのお時間』は,意識的に性的な表現を組み入れています。しかし,それが必ずしも《萌え》であることを意味するわけではありません。私は斎藤による《萌え》の定義に従うのですが,そこでは関係性への同一化がキーワードになり,フェティシズムの一種として捉えられます。してみると,ももせたまみの開けっぴろげな作風は,もともと性欲を満たすことを目的とするポルノグラフィからの援用であるように感じられるのです。

*1:このことは,『網状言論F改』(ISBN:4791760093)所収の「「萌え」の象徴的身分」67頁からも確認できる。

*2:『ユリイカ』2003年11月号(ISBN:4791701127) 特集「マンガはここにある」所収 「[作家ファイル]マンガ最前線の45人」131-132頁。

*3:『ユリイカ』2005年2月号(ISBN:4791701305)所収 「大阪は『ぼのぼの』やねん。――『あずまんが大王』から見た萌え、四コマ、マンガの現在」

*4:なお伊藤は,『あずまんが大王』を「萌え」の範疇に入れることすら異論があるかもしれない,としている。伊藤は,「これがキャラの魅力,キャラのもたらす快楽にオリエントしたものであることは明白であろう」として,同作品を《キャラ萌えマンガ》,SweetPotato論考で言う《萌え四コマ》に含める態度を表明している(脚注1を参照)。

*5竹本泉は,講談社『なかよし』でデビューしており,少女まんが家であることをアイデンティティに打ち出している。かつては主人公の性別によって少年漫画と少女まんがを区分することも出来たのだが,社会が中性化した今日では,その分類法が無力化されていることは説明を要しないことと思う。念のため例を挙げておくと,大島永遠女子高生─バカ軍団─』の物語構造は〈少年漫画〉のそれです。

*6:これが新井葉月だと,出自は同じなのに,『コミックハイ!』ではセクシャリティを前面に出した表現をしている。これなどは,媒体による差が感じ取れる例。余談ですが,もともと葉月さんは少女の内面を丹念に描き出す作風で抜きんでいただけに,「少女生理学」を読んでいると狂おしいほどの衝動に突き動かされます。

Monday, 2005/08/01

[] 大学院はてな :: 合宿(3日目)  大学院はてな :: 合宿(3日目)を含むブックマーク

 ニセコでの研究会合宿。

 現在の日本を代表する労働法学者である西谷敏教授に来ていただき,「労働法の危機と再生の課題」と題して講演をしていただいた。内容は此処で紹介できないのですが,研究者(の卵)として,実に考えさせられる内容のお話でした。

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