〈空気系〉試論

よつばと!』、『あずまんが大王』、『ARIA』、『苺ましまろ』、そして『ヨコハマ買い出し紀行』。
僕はこの辺りの作品群に、とても近いものを感じるのです。それは、物語全体を通した主題、テーマというものに起承転結を持たない点です。違う言い方で言うならば、1話だけでも、その主題がきちんと描写されている、ということになりますか。
http://blog.livedoor.jp/m_s_r/archives/50629525.html (高橋理化)

今回は空気系の特徴を考えてみたいと思います。

  1. 着地点の予想ができない点
  2. 世界がしっかりと構築されている
  3. キャラクターは世界を離れない

http://blog.livedoor.jp/m_s_r/archives/50632371.html (高橋理化)

構造の面からのコメント

 作品群から共通点を見出そうとするにあたっては,性格がずれる『あずまんが大王』をひとまず除外した方がいいのでないかと,感じました。
 その理由は,4コマまんがという形式に関係があります。いわゆる〈ストーリー4コマ〉の場合,此処の作品を連続させると背景からストーリーが浮かび上がってくる,という構造を取ります。〈ストーリー4コマ〉の例としては後藤羽矢子『どきどき姉弟ライフ』,海藍トリコロ』『特ダネ三面キャプターズ』,蒼樹うめひだまりスケッチ』の作品などを挙げることができるわけですが,これらと『あずまんが大王』を比較してみると,オチの弱さが(起伏の無さ)が特徴です。
 この視点で見てみると,考察対象に浮上してくるのは『ぼのぼの』です。『あずまんが大王』と『ぼのぼの』の関連性については,伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』(ISBN:4757141297)の第2章で議論を提起しているので,そちらを参照してください。伊藤は,いしいひさいち以降に「起承転結というセオリーからの離脱」が起こり,いがらしみきおにおいて「ドラマティックな出来事を語ることからの徹底した脱却」が生じたことから,副次的な効果として「ゆるやかに連続したエピソードを語るという形式」の導入が可能となったことを指摘しています(同書51頁)。換言すれば,「〈物語〉のもたらす快楽から,キャラたちが戯れるさまを眺め,寄り添うことの快楽へのシフト」(同書53頁)。前掲のエントリーにおいて《空気系》と定義された作品群は,『ぼのぼの』から『あずまんが大王』を結ぶ線上で明確に意識されるようになったパラダイム・シフトを色濃く反映したもの,と見ることもできるでしょう*1
 そうしてみると,後から物語を獲得した「4コマまんが」と,手塚治虫地底国の怪人』にはじまる「ストーリーまんが」とは,いったん分けて考察した方がいいように思うのです。考察の結果,「エピソードとエピソードをつなぐ物語」の弱さにおいては類似性が見出せるにしても*2

モチーフの面からのコメント

 前掲エントリーでは「着地点の予想ができない」ということをメルクマールに立てておられますが,これは物語の駆動力に帰着させることができます。《空気系》に定義される作品群は〈物語〉の駆動力が弱いがゆえに「結末が描かれなくても構わない」ということではないでしょうか。
 そこで,考察対象に加えておきたいものとして,鬼魔あづさ夜の燈火と日向のにおい』(1997-2003年)を挙げておきます。幽霊と女子高生と猫と青年のハートフルな同居生活を,8年間に渡って連載し続けた作品。
 作品に充満する空気が心地よいということは,エピソードの中に悪意が潜んでいないと捉えることができるかもしれません。ビジュアルノベルにおける〈仲良し空間*3とも共通する要素ですね。いわゆる「日常パート」では,解決すべき大きな困難を存在させていない。克服すべき試練が無いから登場人物の成長も起こらない。しかし,心地良さが溢れる空間は現出する。
 そこから考えると,「閉じた空間である」ということは必ずしも独立したメルクマールではないように思います。人間関係が広がれば広がるほど,害意を持つ人との接触が生じやすくなるということなのかもしれない。
 以上,何か参考になれば。

追補

▼ 2006年9月5日13時43分
 同じ「考察」という表現を使っていたので混乱が起きていたようです。
 『ぼのぼの』は,『あずまんが大王』の位置づけを確かめるうえでの補助線として考察に値するだろう,の意です。比較対象とした方が良かったかな。グループの中に入れてしまうと違和を生じると思いますが,型を崩した点に於いては先駆的な意味があると思います。
 『夜の燈火(あかり)と日向(ひなた)のにおい』は,何も起こらない〈日常〉描写が連ねられているという点で,中核的な位置づけを与えても良いかと思うので,まさしく作品群の内部に置かれる考察対象だと考えました。
▼ 2006年9月5日15時29分
 id:cogni さんから,柄谷行人の「日本近代文学の起源」にある

周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner man において、はじめて風景が見出される。風景は、むしろ「外」をみない人間によって見出されたのである。

を引用した〈風景〉に関する指摘を受けて思ったこと。考えようとしている〈空気〉には2つの意味がありそう。どうも「登場人間たちを包む外的環境としての空気」と「キャラクターたちの内面の集合体として醸し出される空気」というのがあって,区別が必要なのではないか。後者は〈なごみ系〉とでも称すべき別カテゴリーになる。

バカ背景イズム(『ARIA』『BLAME!』)と低回趣味(『苺ましまろ』『あずまんが大王』)は似て非なるものなんじゃないかしらね。
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060905#1157433156 (夏葉薫)

この指摘でも,背景に着目しています。
 そうすると,先ほど否定した「キャラクターは世界を離れない」の部分ですが,これは場所性(キャラクターが配置される空間に対する作品内での叙述)という観点から捉えなおした方が良いかもしれません。『北へ。』における北海道,『BITTERSWEET FOOLS』におけるフィレンツェといった〈風景〉が果たす役割として。


▼ 関連

以下,定義に関する考察を中心にしているもの。

*1:ただ,ここで出現時期について言及しておくと,『ヨコハマ〜』や『夜の燈火〜』の方が『あずまんが大王』よりも先行しています。確かに『あずまんが大王』はマンガの潮流を大きく変えた存在ですが,このグループの中で牽引力を持つ存在ではない。先導者を探すのであれば,藤島康介ああっ女神さまっ』に着目すべきでしょう。『女神さまっ』には,物語が疾走する話(非日常)と駆動しない話(日常)とが混在しています。

*2:思うに,「エピソードとエピソードをつなぐ物語」の有無だけでは当該グループの特徴を表せない。吾妻ひでおの不条理ギャグにも共通する要素だからである。それ故に,エピソードで取り上げられているテーマ(モチーフ)の性質について考慮すべきだと思うところ。

*3:http://www.tinami.com/x/interview/04/page5.html