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最新刊『東日本大震災後文学論』

3月10日発売!





2050-04-03 会員一覧

笠井潔─かさい・きよし
1948年東京生まれ。1979年に『バイバイ、エンジェル』で第5回角川小説賞受賞。主な小説に『ヴァンパイヤー戦争』、『哲学者の密室』、『群集の悪魔』、『吸血鬼精神分析』、評論書は『テロルの現象学』、『国家民営化論』、『例外社会』など多数。
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小森健太朗─こもり・けんたろう
1965年大阪生まれ。東京大学文学部哲学科卒。1982年『ローウェル城の密室』江戸川乱歩賞候補、1994年『コミケ殺人事件』でデビュー。主な小説は『マヤ終末予言「夢見」の密室』『大相撲殺人事件』『グルジェフの残影』『ネメシスの虐笑』など。『探偵小説論理学』は第8回本格ミステリ大賞評論・研究部門および第63回推理作家協会賞(評論・その他部門)受賞。
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飯田一史─いいだ・いちし
一九八二年生まれ。ライター。グロービス経営大学院経営研究科経営専攻修了(経営学修士/MBA)。著書に『ウェブ小説の衝撃』(筑摩書房)、石黒浩との共作小説『人はアンドロイドになるために』(近刊)など。主な寄稿媒体に「新文化」「ユリイカ」「QuickJapan」「Febri」「エキサイトレビュー」などがある。Yahoo! ニュース個人オーサー。
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海老原豊─えびはら・ゆたか
一九八二年、東京生まれ。第二回日本SF評論賞優秀賞を「グレッグ・イーガンスパイラルダンスを」で受賞(同論考は「S-Fマガジン」二〇〇七年六月号に掲載)。「週刊読書人」「S-Fマガジン」に書評、「ユリイカ」に評論、「本格ミステリー・ワールド」「荒巻義雄メタSF全集」にはエッセイの翻訳を寄稿。SFを切り口に現代文化(小説、映画、漫画、アニメ、ゲーム)等を論じている。

杉田俊介─すぎた・しゅんすけ
一九七五年生まれ。批評家。著書に『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)、『無能力批評』(大月書店)、『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテ品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『宇多田ヒカル論』(毎日新聞出版)など。
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蔓葉信博─つるば・のぶひろ
一九七五年生まれ。二〇〇三年から評論活動を開始。「本格ミステリー・ワールド」「本格ミステリ・ベスト10」「ユリイカ」「ジャーロ」などに寄稿。年刊ベストアンソロジー『ベスト本格ミステリ2016』(本格ミステリ作家クラブ編・選)に「江戸川乱歩と新たな猟奇的エンターテインメント」が選ばれた。
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冨塚亮平─とみづか・りょうへい
一九八五年東京生まれ。アメリカ文学/文化。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程在学中。論考に「世界は情報ではない 濱口竜介試論」限界研編『ビジュアルコミュニケーション 動画時代の文化批評』(南雲堂、二〇一五年)など。専門はラルフ・ウォルド・エマソンなど一九世紀アメリカ文学。主な関心領域は一九世紀以降のアメリカ文学、批評理論、映画。図書新聞ジャーロなどに書評、映画評を寄稿。

西貝怜─にしがい・さとし
一九八四年東京生まれ。白百合女子大学大学院文学研究科言語・文学専攻博士課程在籍。アルテス・リベラレス開発研究所研究員。専門は科学文化論、近現代日本文学、行動生態学論文に「虚像の「御主人」と幸福の倫理芥川龍之介「白」論」『国文白百合』(印刷中)、「現代日本における科学文化論の展望―科学思想史から鎌池和馬とある魔術の禁書目録』の作品論へ」『世界史研究論叢』第6号(二〇一六年)など。
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藤井義允─ふじい・よしのぶ
一九九一年東京生まれ。限界研編『ポストヒューマニティーズ』にて「肉体と機械の言葉―円城塔石原慎太郎、二人の文学の交点」、『ビジュアル・コミュニケーション』では「拡張するアニメ―3DCGアニメ論」を寄稿。限界研編『21世紀探偵小説』作品ガイド、「ジャーロ」(光文社)、「ユリイカ」(青土社)、「本格ミステリー・ワールド」(南雲堂)などにも文章を寄稿している。

藤田直哉─ふじた・なおや
一九八三年札幌生まれ。評論家。二松学舎大学和光大学非常勤講師東京工業大学大学院社会理工学研究科修了。博士(学術)。単著に『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(作品社)、『シン・ゴジラ論』(作品社)。笠井潔との対談『文化亡国論』(響文社)。編著『地域アート美学/制度/日本』(堀之内出版)など。
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宮本道人─みやもと・どうじん
一九八九年東京生まれ。東京大学大学院理学研究科博士課程在籍。物理学専攻で神経生理学を研究しながら、批評を軸に執筆活動を行う。共著に『ビジュアル・コミュニケーション』(南雲堂)、『フィールド写真術』(古今書院)。「ユリイカ」などに寄稿。「新しい科学文化を作る」をテーマとして、オープンサイエンス、映像表現、SFを中心に論じている。
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Webサイトhttp://dohjin.tumblr.com/

渡邉大輔─わたなべ・だいすけ
一九八二年生まれ。映画史研究者・批評家。専攻は日本映画史・映像文化論・メディア論。現在、跡見学園女子大学文学部助教日本大学芸術学部非常勤講師著作に『イメージの進行形』(人文書院)、共著に『見えない殺人カード』(講談社文庫)『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)『アジア映画で〈世界〉を見る』(作品社)『日本映画の海外進出』(森話社)『アピチャッポン・ウィーラ セタクン』(フィルムアート社)など多数。
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2017-10-25 『東日本大震災後文学論』出版記念イベント配布リーフレット掲載!

『東日本大震災後文学論』出版記念イベント

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2017年8月30日に限界研編『東日本大震災文学論』(南雲堂)の出版を記念してトークイベントが開催されました。限界研メンバーである杉田俊介、藤井義允、藤田直哉に加え、ゲストに編集者・文芸批評家である仲俣暁生さんを迎え、「いま、震災文学を読む」と題して議論をしていきました。



仲俣暁生×杉田俊介×藤井義允×藤田直哉
「いま、震災文学を読む」
東日本大震災文学論』(南雲堂)刊行記念
http://bookandbeer.com/event/20170830_bt/


震災文学」について、年代を超えて様々な意見が出され、「震災後文芸」、死者復活論、東北ユートピア論、ディストピア化する世界など、多岐に及ぶ議論がなされました。

今回の限界研ブログでは、そこで配布されたそれぞれの登壇者が選ぶ「いま、読むべき震災文学リスト」を特別掲載したいと思います。本リストは各登壇者が考える「震災文学」をそれぞれの視点から五冊選び、論じたものになっています。

震災文学」とは一体どのようなものなのかを知れるリストになっています。是非ご笑覧いただけたらと思います。

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2017-03-20 座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後2)

座談会 
東日本大震災震災後のポリティカル・フィクション(後・2)



参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉



* 『シン・ゴジラ論』Bパートをめぐって――そして『ガルム・ウォーズ』

杉田 藤田さんはまとめサイト的な『シン・ゴジラ』に対して、批評の側からまとめサイト的に振る舞っている面があると思うけど、もちろんそれだけだとは全然思わないんですよね。やっぱり藤田さんがコミットする価値判断は、最後のゴジラのしっぽの話だと思う。ゴジラのしっぽは死者たちの群れであり、それは東北震災犠牲者や、原発事故の被害者たちの怨念象徴するものであると。そうしたゴジラ象徴的に、東北から東京へとやって来て、不公平を是正しようとするわけです。お前ら東京人も、冷温停止したゴジラと共にずっと生きろと宣告するかのように。「東京原発を!」じゃないけれども。
あの判断が藤田さんに固有の、一番強い解釈だと僕は思った。それは「政治か芸術か」「倫理か美か」というアングルとしての対立を打ち砕くような、むしろそれらが反転しあってある種のメタ快楽を、メタ倫理を生み出していく……そしてゴジラ一種宗教的な対象になっていく。それは現代的な美学論+政治論の一歩、さらに先を目指し、切り拓くような、藤田直哉という批評家の新しい理論の提示であり、だからこそ、僕は藤田さんの今回の『シン・ゴジラ論』を高く評価します。
しかしその上で言いたいのは、藤田さんの論が今回、ゴジラをある種の消費可能な宗教的対象として捉えてしまうのは、どうなんだろうか。天皇国体の話が出てくるけれども、ある種の靖国神社みたいな話になってしまっていないか。つまりゴジラの存在を、ある種の飼いならされた死者たちの次元に落としこんでいないか。実際に、現実のネトウヨオタク安倍晋三も『シン・ゴジラ』を喜々として享楽していますよね。彼らの精神は全くこの映画によって揺るがされない。内省もしない。するとこの映画は、東北の死者や犠牲者怨念によって東京を脅かすどころか、歴史修正者たちに都合のいい、靖国的な、死者たちの国家利用の、鎮魂(たましずめ)の媒体として機能してしまってはいませんか。

藤田 既に機能しているから、機能の仕方を変えるために言説空間に介入したというか……。違う、そうじゃない、これは東北怨念で、原発を押し付けた東京への報復としてゴジラが来ているんだぞ! ということをこの本で突き付けたかったんですよ。批評の力で、彼らを根本的に揺さぶりたかったわけですよ。その説得力がどのぐらいあったかは分からないですが、そう解釈するための「証拠」はきちんと用意しているつもりで。たとえば一作目の『ゴジラ』から、本多さんが山形出身で、二・二六にも連座しかけるギリギリにいたとか。地方の怨念の問題は「ゴジラ」というキャラクターに潜在的にあったことを示しているつもりで。僕の批評を読むことによって、そのように『シン・ゴジラ』を根本的に解釈し直してほしいんです。

杉田 いや、『シン・ゴジラ』という作品は実はやっぱりそうは読めないんじゃないですか。

藤田 読める。

冨塚 藤田さんの本は最終的に、シン・ゴジラ象徴天皇であるという結論になったと私も思います。天皇といえば、過去のゴジラ論には、ゴジラ皇居に行かなかったことを問題視する文脈がありますよね。これはお二人が原稿を書き終えた後で出た本なので後出しになりますが、ユリイカシン・ゴジラ特集では大塚英志さんがこういうことを言っています。ゴジラ東京駅で最後、冷温停止するんですが、その時ゴジラの顔が向いている方向が皇居であると。要はあそこで止まらなければそのまま皇居に行っていたかもしれない。ただし皇居に行かせなかった……。

藤田 でもそれはその前に巨災対の連中に振り回されて、ぐるぐる回って、最後に向いた顔の向きじゃない(笑) 

冨塚 冷凍液を入れられた際に一歩踏み出したのも皇居の方向、と書いてありました。その後見直して確認したわけではないですが(笑)。詳細はここでは省きますが、大塚さんの議論では、ゴジラ皇居に行くことは、父殺しと共に、胎内回帰をも意味します。そこで、ではなぜ皇居に行かせずにそこで止まらせたかというと、それが今の天皇制に対する断念だ、という解釈です。「お気持ち」などに共感させてしまう、情動的な天皇の存在を断念しているんだと。(さらなる後出しをすれば、信用するかは別としても庵野氏が『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』でのインタビューで、皇室については扱うな、と厳命されていたと話していましたが)これ、藤田さんと真逆だと思うんですよね、そういう意味では。

笠井 加藤典洋はむしろ靖国神社を踏みつぶせ、って言っている。

冨塚 シン・ゴジラに関するインタビューでは横田基地福島第一原発に行かせるべき、とおっしゃっていましたね。

藤田 『シン・ゴジラ』が、天皇の問題を意識していたことには、製作陣の証言があるので間違いないと思うんだけれど、どういう「解釈」が可能かはわかれるだろうね。そういう「大御心」を勝手に各々が読み取ったり解釈しなきゃいけないような装置こそが「天皇」であって、その構造を作品に移し変えて温存しているよね、っていうのが僕の意見。だから「断念」ではないと思う。大塚さんが言いたいことは分かるが、それならこの映画の解釈誘発システムそのものも撃たないとダメだと思う。
杉田さんの問いに戻るんですけど、ゴジラを飼いならしているんじゃないか問題は、確かにその通り。加藤典洋さんもゴジラが戦後に無菌化、衛生化されて、ハローキティポケモンになった、ということをちょっと否定的に述べていた。僕はそれを再検討して、第四章で、無害化されてかわいい化されたゴジラとか、BL化されるゴジラの話を書いて、いい可能性もひょっとしたらあるかもしれないと書いた。ここはあの本の未解決課題です。一応、デュピュイとピンカー議論を引き合いに出して、「暴力」を「虚構化」することが人類の文明の進化だ、と肯定的に捉えうる可能性を示したけど、一方で「虚構化」には問題があるのも間違いがない。そこは丁寧に個別に見ていくしかない気がしています。
シン・ゴジラ』は前半もしくは中盤に、飼いならせないゴジラの姿、暴れる姿をきちんと出していた。ゆえにそういう飼い慣らしからはあの映画は免れ得ている瞬間はある、というのが僕の考えです。もちろん映画にした時点で飼いならしてはいるんですよ、フィクションですからね。

杉田 そういう揺らぎがある、ということですね。

笠井 まあ平成ゴジラ以降はまた別だけど、昭和ゴジラはやっぱり駄目だね。高度成長のヒーローだから。もう一度変わるのは、平成大不況の後ですね。

藤田 確かに子育てしたするゴジラはどうかと思いますね。『怪獣大戦争』や『怪獣総進撃』のゴジラはあまりよくないですね。八四年以降、また凶暴化してていいんですけどね。

笠井 あの映画が、憲法を改正して非常事態条項を入れようとかいうプロバガンダの種に使われるから危険だというのも、反対に、逃げ遅れた市民を見て首相が発砲中止を命じたのは、戦後民主主義の精神に忠実で素晴らしいと評価するのも、発想は同じですね。そういうふうに作品の一部を引っ張り出してきて政治的効用をあげつらうことに、批評的な意味はない。あるとすれば政治的な意味です。

杉田 僕は芸術を特定の政治的立場から批判しているのではなくって、一貫して、政治と芸術の対立を超える新次元の「芸術」の強度を描くことが最も「政治的」である、「芸術は政治的に中立だ」も「芸術より政治が大事」もダメだ、と言い続けているつもりなんですけどね。実際に、作品としての『シン・ゴジラ』は批判したけど、庵野秀明は評価しています。しかし、あなたはこんなもんなんですか、とも言いたい。

藤田 政治と芸術を安易に切り離して考えるべきではないという考え方には同意します。が、杉田さんの考える「新次元」や「ポストヒューマン」の具体的なあり方が見えてこない。

杉田 今の話を聞いていて、僕はぐるっと回って、ツイッター炎上した僕の『シン・ゴジラ批判はやっぱり正しかったんじゃないかと思いはじめています。藤田さんは、じつは自分の『シン・ゴジラ』の解釈を十分に信じ切れていないから、唐突にBパートが出てくるんじゃないですか。科学技術をめぐる倫理的な葛藤自体を永久革命的に継続していくという方向を示しながら、最後に突然、北野武松本人志怪獣映画を持ち出して、今までの話を全部ひっくり返す。これはやっぱり自分の『シン・ゴジラ』解釈を信じきれていないのではないですか。

藤田 いや、突然でもないんですよ。これは第三章で検討した「ゴジラのかわいい化」に関する揺らぎに対応しています。「かわいいゴジラ批判の中には倫理的な脅迫の側面があることを問題視していたわけです。第五章のままで僕が論を終えたら、現実の福島被災地根拠にして倫理的脅迫を行うようになってしまい、自分の批判したことを体現してしまってブーメランになるんですよ。だから第五章で終わりではダメだった。次の章(北野武論)が必要だった。

杉田 つまり僕は、ゴジラ美的かつ宗教的なシンボル(国体)として祭り上げて享楽するのではなくて、かといって笑いに逃げるのでもなく、ある種のゴジラになっていくことが重要じゃないかと思いはじめていて。

藤田 逆だな。いかにゴジラにならないかが重要だな。

杉田 いや、僕らはゴジラ的人間になっていくべきなんですよ。

藤田 「人間ゴジラ」としてこの本に出てきたのは、三島由紀夫です。ボディビルディングしている自分を「ゴジラの卵」と呼んでいる。しかし、じゃあ「卵から孵った」ゴジラになった三島由紀夫が何をしたかと言えば、クーデターの呼びかけと自殺でしょう。

杉田 三島由紀夫じゃないんですよ。科学の矛盾を科学自身によって乗り越えねばいけない、そうした矛盾の象徴としてのゴジラゴジラは僕らに諦めを許さない、という倫理象徴だと、藤田さんはそう言っている。しかしそのゴジラ的な倫理の、倫理主義的な息苦しさを、藤田さんは最後にBパートで笑いによって吹き飛ばすわけですね。しかしその倫理から笑いへ、という構成がやっぱり少し違うと思っていて。つまり、AとBが内在的に繋がっていない。Aの臨界点からBが内在的にBの議論が開かれるのではなく、笑いという特権的なポジションを外側から持ち出してきて、それまでの議論(A)全体をひっくり返している。そこでは、無内容な「笑い」が無邪気に特権化されていると思った。しかしそもそもゴジラ的な倫理というのは、むしろ震災や戦争すら享楽してしまうような感覚と、執拗に倫理的であり続けようとする意志のようなものが、混然一体になっていたんじゃないですか。僕らはその可能性を突きつめて、むしろ、さらにゴジラ的な人間になっていくべきじゃないか。

藤田 僕の議論の構成――それは内容とも緊密な関係を持っているんですが――って、常に「相克主義」的とでも言うべきものなんですよ。何かと何かがぶつかったり、境界が変わるところに興味を持つし、衝突して変わっていくことを肯定する。その上で、「倫理」と「笑い」の話をすると、僕はこれは簡単には二項対立にはできないと思っていて……。倫理的であり続ける息苦しさに耐えるために「笑い」を必要とする、という側面がある。倫理超自我機械的な働きのようなものだとフロイトは言っていて、ベルクソンは、笑いっていうのは、機械的な硬直に対して「生」が反撥して緩めることだ、みたいに言っていますよね。これは対立するんじゃなくて、同じものの別の作用というかな。人間がバネだとして、倫理は押さえつける機械で、バネは「ビヨーン」って飛んじゃう。その「ビヨーン」が「笑い」。「ビヨーン」と「圧力」の関係は、バネの材質にもよるので……。陶器でできたバネならちょっと押しただけで割れるしさ。押し付けすぎると跳ねなくなるのもあるだろうし。
もう少し理論的な方向で言うと、「倫理」を齎す源泉が「死の欲動」であったりするじゃないですか。そうすると、倫理が単に正しいものであると思考停止していいわけでもないと思うんですよ。この問題系でいえば、「カントサド」という議論があるけど、倫理は実はサディズムの変形であるのかもしれない。「倫理」が本当に良いものかどうかすらも相対化して考える必要があると思うんですよ。もっと正確に言えば、「具体的にどんな倫理がどうあるのがいいのか」っていうことを、細かく探らないと。
フロイトが書いた「ユーモア」っていう文章を読んでも、倫理ユーモアが単純な対立図式にはなっていない……。「超自我」っていう、自我倫理的な命令を下し続けるところが、同時にユーモアの源泉でもあると言うんですよ。フロイト自身も、この矛盾に自分で驚いていて、「超自我の本質について学ぶべきことがまだまだたくさんある」と書いています。両親のように峻厳であり、同時に、慰めたりアドバイスをする(ユーモアはこちらから生まれる)、そういう「超自我」の両価的な側面に注意を促しています。

杉田 フロイトの中では、タナトスユーモアはそれほどはっきり区別されるものじゃないでしょう。

藤田 時期によって考えが揺れているようなので、僕もはっきりと把握できてはいませんが。「超自我」って、倫理を要請すると同時にユーモアの源泉でもある。これって、ゴジラ的じゃないですか。怪獣映画の「真面目さ」だけではなく、笑ってしまう、笑いものになってしまう側面をも併せ持っている。そういう側面をも無視せずに論じようとした場合、フロイトのこの考えは重要になってくる。そして、この側面の提示は、最近、憲法フロイトを重ねて論じている柄谷行人議論への応答……というか、異論の提示という側面もあります。

杉田 だからタナトスヒューモアが混ざりあっていくゴジラ的な感覚というのを、どうやって自分たちが解き放っていくか。Bパートではそれが論じられるべきだったのでは。そしてそれはポスト・ヒューマンの話だと思っていて。

藤田 ゴジラ的な感覚というのは具体的にはどういうことを意味しているのですか。

杉田 つまり戦争や震災にすら享楽を感じてしまうような、そういう徹底的な消費精神みたいなものがあるじゃないですか。それがそのまま新しい倫理感覚を開いていく。そうした……。

藤田 それはありますよね。宮崎駿だってそうですよね。

杉田 テクノロジーの発達によって人間の主体的美的感性や芸術感覚が進化して拡張していく、という歴史があったわけじゃないですか。ヴィリリオも、映画の技術の発達は戦争やナチスの技術の発達と絡み合っていた、と論じていましたよね。戦争を通して人間的な現実のレイヤー想像力(構想力)自体が変革されてきた。『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』には、そうした、美的なものと政治的なもの、人間的なものと技術的なものが絡まりながら、様々な矛盾や葛藤を抱えながらも更新されていく、という感覚があり、それを漸進的に開き続けていくのがゴジラ的人間なのではないか。藤田さんはすでにそういう認識をつかんでいるのに、最後に倫理強迫批判的に放棄して、特権的な笑いの方向へと逃げている。それは藤田さん自身の身体や欲望を実は自ら裏切っているんじゃないか。

藤田 どうなんでしょうね。それは分からないな。「笑い」が特権的なのだとしても、僕が論じているのは「笑い」が失敗し続ける「滑り」の作品としての『みんな〜やってるか!』ですからね。「笑い」を不発にさせ続け、バーチャルな社会的自殺を反復脅迫的に続ける作品について論じているので、そこにおいてはゴジラと『みんな〜やってるか!』って共通部分があるわけで、そんなに外部って感じがしないんですよ。
「矛盾や葛藤」を抱え込みながら更新することが重要だという主張からしても、『シン・ゴジラ論』に、「外部」と皆さんが思うようなあの章が最後に入って、それ以外の部分と「矛盾」「葛藤」を生じさせて読者を不安にさせたまま放り出すっていう構成は、内容を裏切っていないと思います。

藤井 結局、『シン・ゴジラ論』では最終的に笑いに昇華するという感じなんですよね。

藤田 いや、どうなんだろう。笑いに昇華しようとする試みが無効になる、滑る、という契機の方が重要かな。

冨塚 それは手前にある浪漫主義の話と表裏一体で、両方を往復しなきゃいけないという視点だと思うので、私としては、両者が並んでいるのはいいことだと思います。しかしやっぱり二本立てで、二本目がちゃんと『シン・ゴジラ』の話になっていないのは、ちょっとおかしい。

杉田 やっぱり藤田さんは押井守の『ガルム・ウォーズ』を論じるべきだったんですよ。『シン・ゴジラ』ではなく。二〇一六年の『ガルム・ウォーズ』は、ゴジラ的人間の話ではなかったか。カフカの言葉をもじれば、『ガルム・ウォーズ』は「人間(私たち)と人工生命(ポストヒューマン)の戦いでは、人工生命を支援せよ」という話だから。というか、押井守と『ガルム』は僕が近々論じますが。

藤田 そうですかねえ。

藤井 藤田さん的にはそうじゃない?

藤田 巨災対ゴジラの戦いでは、ゴジラの側に付くという意味ではそうですが、論じるべきだったかどうかで言えば……。

杉田 それをむしろ徹底したのは『シン・ゴジラ』ではなくて『ガルム・ウォーズ』なんじゃないですか。違いますか。

藤田 『シン・ゴジラ論』では書かなかったんですが(書いたけど切ってしまった)、『シン・ゴジラ』は、むしろ押井監督が構想していた、「アニメと実写が融合する」世界を実現させたものと考えうるんだと思うんですよ。『ガルム・ウォーズ』と実写版パトレイバー』のやろうとしたことを、絵や演出においてはより高度に実現させてしまったのが『シン・ゴジラ』だと思う。残念ながら、押井さんは、この作品だけの比較で言えば、負けている。

笠井 僕は『ガルム・ウォーズ』は見られなかったんだよね。田舎に住んでいると、こういうときに不便です。

藤井 『東日本大震災文学論』の藤田さんの論考だと、巨災対的な「一緒に頑張って日本救おうぜ」みたいな人じゃなくて、そういうポスト・ヒューマンのほうに加担するという意見ですよね。

藤田 うん。そうなんだけど、『ガルム・ウォーズ』を論じるべきかどうかというのは、単に「ポスト・ヒューマンを応援する」という物語の側面だけからは導き出せなくて。『ガルム・ウォーズ』含む、後期の押井作品について語るのは、もう少し考えが熟してからにしたい。
ところで、『シン・ゴジラ』での、ゴジラのしっぽにいたのは、最初のボートから落ちた人だ、って監督が言ったらしいんで。ということは、ゴジラはポスト・ヒューマンですね。

笠井 監督がどう言ったか、ということは自説の根拠にはならないよ。作者は次作について嘘をいうかもしれないし、主観的に真実を語っていたとしても、作品解釈の優先権が作者にあるわけではないから。

冨塚 まあでも単純に、使徒は人間で、ゴジラも人間でという話をしている人はたくさんいますよね。人間とゴジラをつなげるというのは、だから別に突飛な発想ではないと思います。人間あるいはポストヒューマンとしてのゴジラ、という点でいうと、年始のテレビ番組に出演されていた村田沙耶香さんが、シン・ゴジラの感想を話しながら、ゴジラが可哀相と言って目に涙を浮かべていたのが興味深かったですね。やはりこの人はそう観るのか、と。

杉田 ゴジラ庵野さんでいえば「使徒」ですよね。使徒は『ナウシカ』の巨神兵の血族でしょう。もともと庵野さんは『ナウシカ』の巨神兵の部分を担当していた。そして『巨神兵東京に現わる』は『シン・ゴジラ』の一つのプロトタイプなわけだから。ナウシカ巨神兵の戦いでは、巨神兵に味方せよ、というのが押井さん。ナウシカ人民もべつに滅んでいい。そういう可能性を『シン・ゴジラ』が十分に突き詰めた、とは僕には思えないんだよね。その場合、ポスト・ヒューマンというのは今はやりの狭義の人工知能ではなく、僕らを既存の「人間」に束縛する地上のあらゆるもの、国家や資本に対して革命闘争(ウォーズ)を仕掛け続けるという感覚でしょう。ポスト・ヒューマンというのは、ポストを目指し続けるということであって……。

藤田 ひっくり返しますけど、常にテクノロジーや制度を自己発明して、乗り越えることこそが人間だとしたら、ポスト・ヒューマンになり続けることは、たんなる人間なんじゃないだろうかな。

杉田 いや、人間主義ヒューマニズム)的ではない人間がいるんですよ。

藤田 人間観もそうなっているし、生活世界のレベルでも「近代的人間」ではない、っていう状態になっているのはその通りだと思う。社会状況やテクノロジーによって「強いられている」だけかもしれないけれど。僕はポスト・ヒューマンに関しては「ポスト・ヒューマンだからいい」とか「そうならねばならない」っていう立場ではなくて、「そうなってるよね」っていう事実認識のレベルの問題と考えていて。批評文を書くときには、「それを語る言語や認識や制度もアップデートしないと歪みで色々起きるよね」っていう立場です。

杉田 それはそうです。だから身体や無意識の欲望においては、現代政治がどんなに退化し保守化しているようにみえても、われわれは着々と進化していますよね。それは主義やイデオロギーの話を超えている。近代的な進歩のみならず、そんな肉体的・唯物論的な「進化」を本当は、僕らは信じるしかないんだ。そうした進化の可能性をラディカルに突きつめるのが『ガルム・ウォーズ』的な「ウォーズ」の意味であって、それに比べたら『シン・ゴジラ』は、明らかにゴジラよりも、巨災対の人間たちに感情移入しやすく作られている。みんな萌えるわけだしね。「人間的」すぎるんだ。強引に読めばゴジラのしっぽの造形に死者を読み込めるだろうけど、それは庵野がしかけた「罠」に過ぎないのではないですか。ゴジラが形態進化するように、作中では巨災隊も何度か形態進化していく。でもあの巨災隊はまだゴジラの形態進化に匹敵していない。日本的オタクナショナリストの集団でしかない。率直に、僕はそう思う。だから『シン・ヱヴァンゲリオン』の組織論がどうなるかに希望を見ようとするわけ。

藤田 だから僕はゴジラが負けたことに怒っているわけですよ。ゴジラはあの真ん中のレーザーを撃ったあとに、原爆を落とされてさらに進化して、全世界に蔓延して、『ワールド・ウォー・Z』みたいに『ワールド・ウォー・G』になった方が面白かった。
「進化」や「進歩」をどう考えるのかは、なかなかに難しい問題です。繰り返しますが、僕は、それは「してしまう」ものだという認識で、しかし、人間が変動する環境に適応するのはしんどいので反動も来るだろうという立場です。「してしまう」度に、受け止め方に混乱が生じると思うので、人間的な意味の次元におけるそれの咀嚼の試みが、作品や思想として現れているのだろう、という理解ですね。なんか突き放しているように言っているかもしれませんが、批評が介入するべきは、その辺りの「科学」「政治」などの変動と、「人間的意味」の軋轢や齟齬の部分なんだろうと個人的には考え、実践してきています。

* 「ポスト」はいかにありうる/ありえないか?

冨塚 巨災対が映画制作チームの比喩だというのは、多くの人が言っています。庵野さん本人が成熟して大人になったと。私も基本的にそういう見方なんですよ。エヴァンゲリオンの時にうじうじしていたのが、今度は一応みんなと戦って、一定の成果を収めるところまでいった。

笠井 彼は自分で会社を作ったから、そういうことを考えないと会社を運営できない(笑)。

冨塚 笠井さんの論考では、六八年世代が切望していた可能性の父として穂積一作がいるとして、そこに父性の復権を見出されていましたが、それは今の庵野的成熟よりも、もっと革命的な主体を立ち上げなければならない、という話ですか。

笠井 まあ革命的じゃなくてもいいんですけど。はじめたことは最後までやらなければならない。それが前提であれば、戦争をはじめるのも慎重になるでしょう。空気と勢いで、それ行け、とはならない。

冨塚 世代的なご自分の責任感というのはもちろん分かるんですが、六八年的な問題のほうが重要であるというのは、単純な感覚としてちょっとよく分かりません。
私は今回の参加者の中ではSEALDs世代に近いです。現政権を支持しているわけではありませんが、しばき隊なども含めた、近年の社会運動にはまったく共感できていません。それらに左翼的なものの更新の可能性を見出せるのか。ちょっとよく分からない。仲正昌樹の『ポスト・モダン左旋回』や、最近では「ゲンロン」の批評をめぐる共同討議で言及されていることですが、特に社会運動やデモが盛んになった2000年代以降、明らかに加藤典洋的な意味での陰影やねじれ、屈折の痕跡が見られない、ストレートな語り口での左翼的な言説の復活、という傾向が非常に強まっているように思われます。
あえて採用している戦略であるとは思うのですが、「テロルとゴジラ」における本土決戦へ向かっていく結論も、ネタやメタのレベルを捨象したベタなアジテーションになっている部分があるようにも感じました。余談ですが、近年私が唯一共感した社会運動団体は、2011年イギリスで活動したDSG(Deterritorial Support Group)です。ネットを積極的に活用した点など、その後のSEALDsなどと共振する要素もありますが、彼らに見られた非常に強いブラックユーモアやねじれの感覚は、素直に戦後民主主義の再興を望んでいるように見えたSEALDsらとは全く異質のものでした。

藤井 僕も世代的にはSEALDsと近いんですけど、彼らはスクールカーストの上位層がそのまま政治活動に参加しているというイメージがすごくある。「俺たちはこんなことをやっているすごいんだ」という自己肯定感。もちろん、そのような人ばかりではないんでしょうが、結局は解散に至ったのを見て、彼らの活動は期間限定の祝祭的なものであって、一貫性のある実存が絡んだものではないんじゃないかって思ってしまいした。またそれゆえに『シン・ゴジラ』で彼らが巨災対に感情移入するのもなんとなく理解できます。だからそういうのは乗れない。

藤田 スクールカーストの下位が反乱を起こしたら参加する? 『桐島、部活やめるってよ』みたいな。

藤井 そっちのほうがいいですね。切迫感を覚えるので。絶対に変えてやるっていう気概がありそうなので。

笠井 僕らも書き方を変えていかないとまずいかもしれないね。藤田君くらいだったら文脈は分かってくれるので省略して書けるけど、さらにまた十歳ほど下の世代になると、知識の前提や文脈が共有されていないから。まあ、昔の人の本を読む時は、誰でもそうだけど。われわれは同時代的な文脈を共有しないまま、カントヘーゲルを読むわけだから。逆にいえば、カントヘーゲルに匹敵するくらい普遍的なことを書けばいいのかな。うん、そういうふうに考えることにしよう(笑)。

藤田 本土決戦と焼野原に対する共感はどう?

藤井 理論的には共感しますが、リアリティはごめんなさい、ないです(笑)。

冨塚 共感、というのとは違いますが、映画の前半に本土決戦欲望へとつながる部分がある、という認識、議論にはきわめて説得力があったと思います。たとえばユリイカの特集でも、笠井さんより十歳ほど下ですが、映画監督高橋洋さんが唯一本土決戦とのつながりについて言及されています。しかし、高橋さんは、その実現不可能な本土決戦欲望から、災害対策映画へとずれこんでいく、ヤシオリ作戦以降の展開に対して、限定付きではありますが肯定的でもあります。私も、どちらかというと巨災対プロジェクトX的な?成熟のあり方には肯定的だったので、その点についてはやはり笠井さんとは判断がずれるかな、と思いますが。

笠井 『ビューティフル・ドリーマー』や『パトレイバー2』に熱狂した押井ファンの中心世代は、君たちよりかなり年長だよね。さらにその下になると、もう通じないんだなあ。

杉田 最後に皆さん、一言ずつ。

笠井 さっきのポスト・ヒューマンっていうのは、「人間」とは近代的な概念であるという前提のもとでのポスト近代的人間と、ボスト・ホモサピエンス的問題がごっちゃになっていたような気がします。フーコーの「人間の終焉」は前者ですね。ポスト近代的人間と、AIやサイボーグ化や生命倫理学的問題がらみのポスト・ホモサピエンスという問題は、いったん切り分けて議論したほうがいい。
ポストといえばポスト・モダン。だからポスト・ヒューマンというのは、とりあえずポスト・モダンに対応する。ポスト・モダンということで、最初に予告していた高橋源一郎論について一言、述べておきます。
浅田彰が『構造と力』で出てきた時に長い書評を書いて、日本みたいな構築もツリーもない国で、脱構築とかリゾームとか言っていると、結局、天皇制のような無構築的構築の土着性抑圧に足をすくわれますよ、と予言した。事実そうなったわけです。つまりモダンがないところで振りまわされたポスト・モダンは、プレモダンを補完し、強化する以外にない。東浩紀の「郵便的」も同じことで、字義的なコミュニケーションが抑圧的なまでに強固な制度性として確立していない、日本みたいな腹芸コミュニケーションや空気的コミュニケーションの国では、郵便は配達されるまでもなくはじめから曖昧に届いているわけで、そもそも誤配もへったくれもない。浅田のポスト・モダンと同じことだよね。
浅田彰は八九年時点でポスト・モダンはもう終わり、やはり日本にはモダンが必要だとか言い始めた。しかしそもそもモダンとポスト・モダンという二元論そのものが駄目だ、というのが僕の発想でした。プレモダンモダンとポスト・モダンがごたまぜになっているのが近代日本で、それを何とかしなければいけない。
芥川龍之介が書いたように、日本には仏や儒教聖人キリスト教の神が来てもみんな日本の神の一人になってしまうという『神神の微笑』の問題がある。つまりアニミズム的なんですが、アニミズムの精神性は地球上のほかの地域では一神教やそれに類する普遍的精神によって全て駆逐されてしまったわけが、なぜか日本ではそうはならなかった。もちろん縄文アニミズムがそのまま残っているわけではない。外来の超越性を吸収して異形のものに変貌した日本型アニミズムに、日本の固有性はあるんじゃないか。本土決戦を呼号していたのにあっさりやめてしまい、昨日まで鬼畜米英だったのに米兵に小石ひとつ投げようとしない、素晴らしい被占領民ですよ、われわれは。戦争の始め方や終わらせ方と、福島原発事故は極めてよく似ている。同じ病気の二つの症状だというぐらい似ている。このニッポン・イデオロギーをなんとかしなければ、われわれは抑圧から解放されえない。
『バイバイ、エンジェル』と高橋の『さようなら、ギャングたち』はタイトルが似ているように、出発点となった時代経験が似ている。でも僕はポスト・モダンには行かなかった。ただし、一神教的な構築が必要だというだけでは駄目なんですね。構築を行い、かつそれを自分で崩すという、右手で編んで左手でほどく二重の作業をしなければ、この国では戦えない。僕が探偵小説を書いたのはそのためなんです。探偵小説は構築しつつ崩すからね。軽くて重いという点も似ています。『バイバイ・エンジェル』は読み捨ての探偵小説だから軽い、しかしテーマは重い。しかし、無構築的構築やニッポン・イデオロギー日本的抑圧に対する了解の違いが、高橋と笠井を大きく分けている。それが〈六八年〉の記憶をめぐる対立になって、いまや極大化している。こうした点について、杉田さんの高橋源一郎論を読んで考えました。

杉田 今の笠井さんの「ポスト・モダン=ポスト・ヒューマン批判は、高橋源一郎への批判を通して僕への批判を含んでいると思うので、最後に応答します。僕は笠井さんのアニミズムや日本型ナショナリズム批判に対しては、ちょっと違う意見を持っています。あり得ない本土決戦や68年革命の再来を目指すよりは、自分たちが革命的人間になるとはどういうことか、そこからどんな集団や組織を作れるのか、そういうことを考えた方がいいのではないか。あえて対立軸を示すと、僕にとっては、一九六八年革命よりも「七〇年的なもの」が大事です。つまり、ウーマン・リブ障害者運動以降の歴史が実践してきたもの。「七〇年」は新左翼/六八年の批判であると同時に、男性・健常者中心の既存の「人間」の概念を拡張し、身体や生命の新たなポテンシャルを解き放とうとするものだった。
土本典昭水俣病患者の話もしましたが、映画はテクノロジーの進歩によって、戦争と虚構、消費と倫理が入り雑じるような新しい官能や享楽が発見され、人間的感覚が拡張されていくわけですよね。宮崎駿高畑勲の作品もそうだけど、アニメとはアニミズムであり、非生命の中に生命を感じとる表現形式だとすれば、その中には高次元のアニミズム、つまり日本的イデオロギーとは異なる「物論的なアニミズム」の可能性が含まれるのではないか。高橋源一郎でいえば、それは生きた人間と小説内のキャラクターがフラットに雑然となっていくポストモダン感覚とも連続しているかもしれない。
つまり、「70年」的なradicalを、僕は現代文化の中で高次元のアニミズムとして開き直したいわけです。岡倉天心は、日本の地理的地政学的な条件(宝物館)によって日本の美の特権性を正当化したけれど、それを「日本は何でも受け入れ、何も受け入れない」という日本特殊性論へ閉じるのではなく、アジア的交通としての雑(丸山真男加藤周一)へと開いていけないか。アジア的な雑種性の一部分として「日本」を捉え直せないか。事実、宮崎さんだけではなく片渕須直さんを含め、ジブリ的なものの最良の可能性の一つはそうしたアジア的な交通(雑種的な多元性)の方へ、日本的ナショナリズムを解き放とうとしたことでした。最近だと思弁的実在論のシャヴィロの『モノたちの宇宙』が唯物論的なアニミズムの可能性を問い直しているけど、僕はそれを〈70年〉的なラディカリズムに接続して更新したい。
さっき、僕らを既存の「人間」に縛りつけるあらゆるもの、国家や資本に対して戦争を仕掛けて「ポスト」を目指し続けるのがポスト・ヒューマンだと言ったけれども、その意味では「絵を描く」すずさんもゴジラ的人間の一人かもしれない。はっきりいえば、『シン・ゴジラ』のどの登場人物たちも(ゴジラを除いて)、『君の名は。』の男女も、こちらを脅かすような凄みがないんだよね。すずさんには不気味な凄みがある。虚構の側からむしろ僕らのこの現実が永久革命されていく、というような過剰さを僕はフィクションの中に欲しているところがあります。
僕の中でも未整理だったけど、今回の座談会を通して、僕にとって大切なのはオルタナ自己啓発(坂口/村田)でもないし、大衆蜂起による社会変革(革命論)でもないんだ、と気付きました。つまり、永遠の自己変革+社会変革の相互作用が必要であり、革命revolutionではなく変革reformが必要だと。この世界の技術的な下部構造の進歩を受け止めながら、自己変革(ポストヒューマンゴジラ的人間)を起こし、それによって世界そのものの変革を試みていくこと。宿命的で唯一的なこの世界(物自体的+偶然的な世界)の苛酷さを認識しながら、自己を変革し、社会を変革すべくコミット=相関していくこと。そんな感じなのかなと思った。
現実の次元においてはリベラルな撤退戦と持久戦を続ける以外ない、けれども他方で、フィクションの次元においてはradicalな変革を徹底的に夢見続けていくということ、そうした分裂的な実践が僕にとっての「政治」なのかもしれない。そんなことも思いました。戦争と虚構をめぐる政治的変革の理論の準備をはじめなきゃ、と思いましたね。

藤田 誤解されがちなんですが、僕は虚構のキャラクターと人間が近づくことや、虚構と現実の区別がつかなくなる状況を完全に肯定はしていないんです。『シン・ゴジラ論』も『東日本大震災文学論』の原稿もそうだけど、政治とフィクション、現実と虚構などが区別がつかなくなっていくポスト・トゥルース的な世界の中で、どういうふうに生きるべきか、どういうふうに世界を見るべきか、その中でどう評論すべきか。そういうことをずっと考えて、書いてきたつもりです。
いま杉田さんがおっしゃったような可能性を僕も考えなくもない。しかし、具体的なビジョンが自分の中でもまだ掴めない。どういう社会を構想し、モデルとして提示できるのか、そろそろ本気でそういうことまで考えないといけないと思っています。
虚構と現実が混濁していくとか、あるいはキャラクター的なものに生命感を感じるような、そういうものから何か新しい人間になっていくというのは、もう事実性として、多分そうなんだろうというのが僕の実感です。ただし、その時にどう変わると良いのか、どう変わったら問題があるのかについて、もっと細かい微妙なさじ加減というか、腑分けというか、解像度の高さが重要というのかな。そのことをもっと細かく見ようというのが、僕の今回の『シン・ゴジラ論』のやりたいことでもありました。その点では、『虚構内存在』からずっと、同じことをやっていますね(笑)。

冨塚 お二人とも、今回の本で山本七平議論を引いて、日本的な「空気」を批判されていますね。笠井さんは山本的な「空気」をニッポン・イデオロギー象徴の一つとして以前から批判されているし、藤田さんの場合は、「空気」の支配力が強まりつつある状況を危惧されているから、逆にいろいろな解釈を並置して並べている。
けれども私は、やっぱり「空気」、そして「現実」それ自体は簡単には変わらない、という感覚が強くあります。しかし、「空気」や「現実」を変えられずとも、個人や小集団で出来ることが何もないわけではない。その可能性は『この世界の片隅に』だったり、坂口恭平村田沙耶香の作品内にあると思います。『東日本大震災文学論』に寄せた原稿では、「空気」や「現実」の同調圧力の強さを受け流しつつ、何ができるか、その可能性をちゃんと考えてみたかった。
最後に、政治とシン・ゴジラの関わりについてもう少しだけ。笠井さん、藤田さんのお二人が独自の政治的主張を作品に読み込んでいく際の、文体の問題がやはり私には気にかかりました。国家や戦争、天皇といったトピックについて書くのであれば、対象がエンタメ作品であるとはいえ、かつて加藤典洋が『敗戦後論』で論じたように、陰影や屈折を含んだ文体というものが必然的に要請されるのではないか。その点で、ベタとネタとメタが常にないまぜになっていかなければならないところ、結論部だけを抜き出せば、今回の笠井さんの論はベタに、藤田さんの論はネタにそれぞれ寄りすぎているきらいがあるように思われ、その点には違和感が残りました。とはいえ、『文化亡国論』に収めれた対談の時点からお二人が「右傾エンタメ」に批判的であったことを考えれば、今回の仕事はその延長線上での新たな展開であり、杉田さんの感想を含む、シン・ゴジラ右傾エンタメとして捉える視点に対するオルタナティブとしても、重要な仕事であると思いました。

藤田 どうだろう。「空気」と「現実」を併置していいものかな。「空気」に関しては、ぼくが生きてきた三十年ちょっとの人生でも、「全然変わるな」っていう印象です。震災のような外部からの理由にせよ、政治やテクノロジー経済が理由にせよ。ただ、政治を動かしているのも、テクノロジーを開発しているのも、経済に関わっているのも、人間だからね。環境を変化させているのは人間なんだ。だから、空気は変化させられるんだよ。個人レベルで一挙に変えれるかは別として、原理的には人間が変えていけるものだよ。
「ネタ」「ベタ」「メタ」がない交ぜになるのは、日本浪曼派がそうだったっていう指摘もあるので、きちんと検討しないといけないかもね。『シン・ゴジラ論』と『東日本大震災文学論』では、僕は結構意図的に、「交わらない」ような並列性を「そのまんま」にしようっていう構成を選んでいます。矛盾や相克が「解決できない」ことに留まり続けるべきなんじゃないかと思うので。ヘーゲル的な弁証法は信じていないし、歴史がそうやって動くことに過大な期待は賭けない。あれこそ矛盾や多様性を一体化させようとする悪しき世界観、歴史観だと思うので。

藤井 自分も富塚さんの感覚は共有します。この日本的空気感の変わらなさに対して諦念というか、順応していくしかないんじゃないか、という感覚がリアリティとしてあります。そしてその方が「気持ちがいい」のではないかという懸念もある。しかし、同時にそのことによる「ファシズム化」が起き、あらぬ方向に行く怖さもあります。結局、各人に主体がないわけですから。
最近思うこととしては、この実存を踏まえた上で新たな生き方を模索できないか、ということです。自己が分裂してアイデンティティが崩壊している中で、協調主義的全体主義に流されず、抗うような自己をどうしたら考えることができるか。加えてそれはかつての家父長的な「強い自己を作れ」とはまた違ったものでありたい。そういう意味ではポスト・ヒューマン的なんでしょうが、その実質性をもっと具体的に、アクチュアルなものとして提示したい。おそらく、そうしないと社会運動にすら接続されないと思います。「とりあえず、今の自分状況を受け入れて過ごしていこう」といった宿命論的になるしかない状況において、それを突き動かすような考えを一歩でいいから進めていきたい。そういった可能性があるにもかかわらず、開けていないのであればそれは「貧しい」と思います。もちろん、絶対性において世の中に順応していくことは幸福量をあげるのかもしれません。ですが、いつか歪みがくるのではないかと思っています。
今はまだ提示できるのが抽象的な言葉でしかないですが、それを少しずつリアリティのあるものとして提示していければと思っています。

<終>

(この記事の一部は、笠井潔藤田直哉杉田俊介+冨塚亮平+藤井義允「『シン・ゴジラ』を撃て!――笠井潔『テロルとゴジラ』、藤田直哉シン・ゴジラ論』をめぐって」(「図書新聞」3292号(2月18日発売号))に掲載されました。)

2017-03-18 座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後1)

座談会 
東日本大震災震災後のポリティカル・フィクション(後・1)



参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉


限界研編『東日本大震災文学論』の刊行を記念して行われた座談会の後半です。今回は2部構成でお送りします。12月に刊行された笠井潔『テロルとゴジラ』、藤田直哉シン・ゴジラ論』(ともに作品社)の話も交えて、震災フィクションについて、また世代間の感覚の違いに照射して議論をしています。



* 笠井潔『テロルとゴジラ』vs藤田直哉シン・ゴジラ論』

杉田 さて、ここから後半になります。
笠井さんの『テロルとゴジラ』と藤田直哉さんの『シン・ゴジラ論』が二〇一六年一二月に、作品社からほぼ同時に刊行されました。二〇一六年はサブカルチャーの領域において、画期的な年になったと思います。『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』という非常に大きな作品が次々と世に出た。『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」に象徴されるように、それらの作品は、震災後の政治や社会の問題とエンターテイメント性を高次元で融合させ、また現実とフィクションが相互に反転し合う(SNS等のネットの力によって政治性や社会問題が話題や議論になり、作品の商品や芸術としての価値をさらに高めていく)ような構造をあらかじめ組み込んでいる。
さらに実際に、震災後の二〇一〇年代のこの国は、現実と虚構、政治と芸術などが奇妙な形でモザイク化していて、リオオンリンピック・パラリンピックのあとの安部マリオ、妄想的なヘイトスピーチ日本会議的な歴史修正主義神武天皇は存在した、等)などが象徴するように、すでに現実と虚構の関係がどこか妄想や神話のゾーンとも相互浸透を起こしはじめているかのようです(かつてヒトラーリーフェンシュタールチャップリンの間に「映画を用いたドイツ国民の神話化」をめぐる戦いがあったことを思い出します)。
僕はそういう状況の中で「ニュータイプの国策映画」「マジョリティの不安を慰撫し、歴史修正的な欲望を満たすためのポリティカルフィクション」等が増えてきつつあるのではないか、と敢えて言ってみたい気持ちもしています。そしてそれはもちろん、この国の戦後史そのものと――日米の従属構造のもと、正義と平和に関する根本的な欺瞞を抱えこみ、「虚構のなかでもう一つの虚構を作る」ような「ごっこの世界」(江藤淳)の中でサブカルチャーを繁茂させてきた――も関わっているはずです。では、そんな状況の中で、作品を批評するとは、どういうことなのか。
笠井さんと藤田さんの二冊のゴジラ論は、政治と芸術、現実とフィクションがモザイク化していく状況に対して非常に自覚的でありつつ、最近よくある「あくまでもフィクションは政治的イデオロギーとは無縁に、中立的に受け止められるべきだ」という形で現政権的なものに加担していくメタ政治的な芸術論とは別の形で、非常に刺激的な政治的+芸術的サブカルチャー批評を実践しているものである、と僕には思われます。つまり、二〇一六年の『シン・ゴジラ』以降の時代に、そもそも批評はいかなるものでありうるか、どうあらねばならないか、を根本的に問わしめるようなポリティカル・フィクション批評になっている。
まず、笠井さんは、藤田さんの『シン・ゴジラ論』を読んでいかがでしたか。

笠井 藤田君の本の中では、ゴジラが戦死者の亡霊である説はいまやスタンダードであると書かれていたが、本当だろうか。スタンダードはいまでも核兵器の象徴という解釈でしょう。ゴジラが戦死者の亡霊だというのは川本三郎が言い始めて、その後赤坂憲雄加藤典洋や笠井など幾人かの論者がこだわっているだけで、とてもスタンダードな解釈とは思えない。それと、様々な象徴がゴジラの中には入っているということは認めるんだけど、どれを取って、どれを切り口にすると話が面白くなるかというだけの問題ではないか。そうすると藤田君の固有の切り口はどこにあるのか。色々書いているけど、どうもよく見えてこない。作品から政治的メッセージだけを抽出して論じるのは批評として面白くないだろう、という主張は基本的に支持します。
吉本隆明はデビュー時から、戦前の共産党プロレタリア文学(ナップの機関誌「戦旗」から戦旗派ともいわれる)の政治主義を批判してきた。戦前は共産党による政策的な干渉があまりにも強く、それに対して作品の解釈から政治性を排除しなければならないということが戦後文学の時代から強調されてきた。そこにテキストの中立性という論点が加わり、一九八〇年代になると、作品の政治的読解や主題主義は反文学的だというポストモダン文学論が、批評ではもちろん、アカデミック文学研究の世界でも常識化される。しかしそれは日本の戦後、特に一九八〇年代以降の、政治は何も考えなくて、自民党政府が適当に社会を転がせばうまくいくんだし、それでいいでしょう、という雰囲気にぴったり合っただけのこと。ノンポリであることは現状維持勢力だったわけだよ。
しかし今のように日本の国家形態が急速に変貌している時に、たんにノンポリであることは、もう現状維持とはいえない。むしろ、安倍自民党に積極的に加担することになる。文学主義的政治排除はかつてとは意味が全く違っている。だから文学主義者がごちゃごちゃ言っても、僕はそんなものには構わずに、「政治主義」的なことを言い続けようと思っています。ただしそれは、作品を政治的メッセージに還元することを意味しない。意識的なメッセージも重要ですが、無意識的な政治性を作品から読みとることも重要だから。

藤田 僕の『シン・ゴジラ論は』は無数の解釈を大量に引用して、いろいろな解釈を誘発するゴジラというキャラクターの存在意義を浮かび上がらせよう、という戦略の本です。なので、僕独自の切り口は明示されていない、と読まれる可能性は高いかもしれない。しかし、この方法論が有効だと考えて、選びました。それぞれの人間が、自分の見たいようにしか物事を見ていないということを浮き彫りにすることが重要だと思ったからです。
僕の独自な解釈が唯一あるとしたら、享楽と倫理の相克を重視したところではないでしょうか。

笠井 『シン・ゴジラ』についてそこに重点を置いたのは、宮台真司だと思う。

藤田 プロレタリア文学の一部のように、教条主義的に共産党系の左翼が「真理」を指導するやり方には問題があったように思います。ただし一方で杉田さんが『シン・ゴジラ』について書いた時に多くの人が言ったように「虚構は虚構であり現実とは何の関係もない」「エンターテイメントは単なるエンターテイメントだ」っていう態度も、事実とはズレていると思うんですよ。必要な態度は、政治的解釈と芸術的解釈を両立させることだと思っています。それを「ポリティカル・フィクション批評」と仮に名づけてみようかと思いますが。

笠井 両方といっても、蔵原理論や社会主義リアリズムのような政治主義には今や何の力もないわけで。

藤田 そうかもしれないけど、可能な限り、作品に内在する多様な政治性のベクトルをたくさん引き出す。そういう場としての作品のあり方を示すことで、両方の立場に立つ、あるいはどちらの立場にも立たないゴジラ論を戦略的に目指したつもりなんです。

杉田 「現実と虚構」「政治と文学」という従来のアングルがすでに無意味になっていて、今はむしろ、「芸術を政治的に論じるべきではない」という言い方によって、現政権維持的なものやネトウヨ的なもの(ネトウヨと結託したオタク的なもの)が左派を叩くロジックになっているわけですね。政治的中立というメタ的な政治的言説を右派が多用するわけですね。僕が『シン・ゴジラ』をニュータイプの国策映画であり御用映画である、という批判をツイッターでしたら、ネトウヨオタク連合軍が僕を総攻撃してきた。その辺は藤田さんの本にも延々と数ページにわたって引用されています。
しかし、そういう「現実と虚構」「政治と文学」という対立のさらに先の次元の政治的芸術論、あるいは芸術的政治論を開こうとしているのが、藤田さんのゴジラ論ではないか。それは決定的に新しい、と僕は思ったんですよ。そして笠井さんの『テロルとゴジラ』もやっぱりそうですよね。笠井さんの政治的立場に共感するか否かは別として、一周回って、そういうアクチュアルな新しさを感じたんですね。そもそも、芸術と政治、美と暴力が綯い交ぜになっていくような高次元の快楽であり、享楽があるわけですね、対象としての『シン・ゴジラ』には。

藤田 『シン・ゴジラ』については、安倍首相ゴジラに言及して政治的なパフォーマンスに使っている。それでいえば、アメリカのトランプも、WWEというプロレスを利用していて、オーナーのマクマホンをレスラーがやっつけるというリアリティショーになっているんですが、マクマホンをトランプがやっつけていた(笑) 彼の、フィクションを操作する能力と、現実の政治的能力は、重なっているように僕は思う。
クールジャパンソフトパワー戦略というのも、文化的コンテンツの魅力によって国際政治を武力ではなく別の力で勝ちぬこうという戦略なわけだから、同じ力が内政に使われることに疑問の余地はないわけ。この状況では、フィクションと現実の政治をかつてのように簡単には切り離すことはできない。さらに現代は、特に情動政治の時代ですから、美や崇高や愛着などの感情も駆動しながら政治は動いていく。そういう状況の中で芸術やフィクションが果たす機能を考えていくには、批評の役割もまた更新されざるをえない。

藤井 小口日出彦の『情報参謀』という本がありましたね。自民党民主党政権に負けた時にどういうメディアコントロールの戦略をとったかについて、実際にそれを行っていた人が内部事情を書いた。限界研が昨年に出した『ビジュアル・コミュニケーション』で提示したように、メッセージ以外のところでの機能というのがすごく大きくなってきた。そうなってくると言葉そのものの力は後退せざるを得ないと思います。ロジカルな説明よりも感覚的なビジュアルを重視するわけですから。

杉田 『テロルとゴジラ』第吃瑤力盛佑蓮元々限界研の幾つかの論集に収録されていたものですが、〈68年〉と〈現在=2010年代〉を繋ぐために、現代的なサブカルチャーの中にサンディカ(労働や生存のための組合的なもの)の可能性を探し求めていく。その試行錯誤の記録に読めました。笠井さんはなかなかそれを十分に言い切れなかったんだけど、『シン・ゴジラ』によって何かが一気に決壊した、という印象がある。
それでいえば、僕にとっては特に、最初の『ゴジラ』の芹沢博士を「革命家」として解読しているのが斬新でした。芹澤博士は、オキシジェンデストロイヤーという新技術の破壊力を恐れながらも、その破壊力を享楽しようとしたのではないか。革命家としての芹沢博士は、東京人を守ってゴジラを自己犠牲的特攻によって殺害するのではなく、ゴジラと共闘して、革命的な本土決戦を遂行し、日本政府アメリカ国家を打倒するべきだったのではないか、と。そこは藤田さんのゴジラ論が享楽を重視する点とも重なりつつ、お二人は政治や革命に対する態度は異なりますよね。

笠井 享楽に関していうと、コリン・ウィルソンが『賢者の石』というSFホラー小説を書いている。超越体験というか、麻薬でもバクチでもいいけど、脳内物質がドバドバ出てきて、異世界に迷い込むような体験がありますね。しかし問題はそういう超越体験そのものではない。それによって何が見えるか、それが大事なんだとウィルソンはいう。たとえば仏教の修行で、脳内麻薬を念じるだけで出せるようになるらしいけど、脳内麻薬を大量分泌させることによって見えてくる何かがある。だから僕の場合、享楽も怖くて楽しいということそれ自体が問題ではなくて、それによって何が見えるか、何を見すえられるか、そっちが大事なんだけど。

藤田 脳内麻薬的な話で言えば「享楽」と「萌え」の違いが、時代の感性の違いとして象徴的かなと。「享楽」には、どこか死に近づくっていう側面、「死」がその究極だっていうところがあると思うんですよ。でも、暴走族って減っているし、死に接近して享楽やエロティシズムを得ることを望む感性そのものが今の世代にはあまりないんじゃないか。ゴジラには、死にまで至るまでの享楽や、心中的なエロティシズムがある。バタイユなら「聖なるエロティシズム」と言うものがあると思う。
六八年の運動には、享楽を志向していた側面があると思います。ゴジラ的衝動、戦後民主主義をぶっ壊したいという衝動、何もかも破壊してしまいたいという「享楽」への衝動があった。笠井さんと押井守さんの対談集『創造元年1968』を読むと、それが形を変えて虚構化され、『ビューティフルドリーマー』や『パトレイバー2』になったのだと読みうるように書いてあった。
六八年と二〇一一年の運動には差がある。それは、この感性の差と同様の差。六八年世代は戦後民主主義をぶち壊そうとした。しかしSEALDs世代は決してそうではない。これまでの民主主義を壊そうとはしていないし、むしろ守ろうとしている。多くの若者が非正規雇用になって、これ以上社会がよくなるとも思えない。そういう二十一世紀の若者にしてみれば、戦中派と六八年世代の間の父子的な対立そのものに、関心の持ちようもないのかもしれませんし、「本土決戦」や『AKIRA』的な「全部壊してしまえ」よりも、『シン・ゴジラ』後半の「日本を守る」「立て直す」の方が共感を生みやすいという時代状況と呼応した感性の差はあるんでしょうね。

杉田 笠井さんの巨災隊に対する評価も両義的ですよね。巨災対はさらに進化して、岡本喜八の映画シリーズでいう「独立愚連隊」的なものになるべきだった、と。巨災隊のメンバーがリビングデッド的な存在をも招き入れ独立愚連隊的な組織へとさらに形態進化し、それがゴジラと共闘して、日本国家とアメリカを革命的に同時破壊する――という反日+反米のビジョンを、あえて『ゴジラ』の中に強引に読み込もうとしている。しかしその場合、ゴジラの現実的対応物は何だろう。そして巨災対的/独立愚連隊的なものの現実的等価物は。そこは気になりました。
笠井さんはゼロ年代サブカルチャー論の中ではサンディカの可能性を探し求めたり、無差別殺人者的な「歩く例外状態」を限定付きで肯定していたんだけど、しばき隊やSEALDs国会前デモの中にそうした可能性を見出した、ということでしょうか。

笠井 見出したとまでは言えないな。見出せないだろうか、という感じかな。

藤田 彼らの中にも日本イデオロギーや、ファシズムにつながる側面があるとは思いませんか? SEALDsの牛田君と奥田君の対談で、自分たちの理想は巨災隊だったというのがあって、正直それはダメだろうと思ったんですけど……。

杉田 SEALDsとしばき隊でも、だいぶ組織原理が異なる気がするんですけど。

笠井 僕が注目したのは、しばき隊ですね。「テロルとゴジラ」の前半では、桐山襲という六八年作家について陣野俊史が論じた『テロルの伝説 桐山襲烈伝』(2016年)の議論を批判しているんだけど、陣野さんは、連合赤軍事件のリンチ事件がブランショの「明かしえぬ共同体」を思わせるとか、とんちんかんなことを書いているわけです。バタイユがつくっていたアセファルという結社は、まさに独立愚連隊的なものを目指していた。一人、病気で死期を悟っているコレットという女性がいて、その人は自分で犠牲になることを申し出たようだけど、結局、実行には至らなかったらしい。つまり、供犠において死を共有するような共同性でなければ、ナチの黒魔術的な結社性には対抗できない、という発想があったんですね。そういったイメージなんだよね、巨災対が独立愚連隊化するというのは。

杉田 ファシズムによってナチズムを浄化する、みたいな……。

藤田 ファシズムに近いがそうではないぎりぎりのラインの代替をバタイユは模索し、それをファシズムそのものにぶつけて欲動の流れを変えようとしたが、失敗した。そう見るべき。大岡淳さんが編著なさった『21世紀のマダム・エドワルダ』でのバタイユ解釈が、今バタイユを再読するときに参考になるかと思う。

笠井 バタイユができなかったことを実行したのはシモーヌ・ヴェイユだ、というのが僕の理解です。『サマー・アポカリプス』という小説で書きましたが、ヴェイユカタリ派の秘儀であるエンドゥーラ──なんというか、密教の補陀落渡海みたいな、一種の自殺行です──を模して餓死自殺したわけだから。

藤田 巨災対はリビングデッドになるべきだったって解釈は、面白いですけど、正直に言えば、ロジックが少し分からない部分がある。僕は今回のゴジラゾンビに似ていると思っていて……あのしっぽからあの後、全世界へ小さなゴジラが拡散して……。

笠井 だから巨災対ゴジラ化しなければ、本当はゴジラに対抗できない。
 
藤田 ゾンビになる前に止めちゃった。『新世紀ゾンビ論』で書いたのですが、ゾンビってグローバルな脅威の象徴なんですよ。それを一国の中で止めてしまうというのが、『シン・ゴジラ』のナショナリスティックな限界かな。『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』を読むと、増殖するゾンビのような脅威としてゴジラを描く方向性は実は当初はすごく強かったのだけれど、東宝の意向で抑えられてしまったよう。

笠井 ヤシオリ作戦というのは、ようするに退魔の儀式ですよ。科学の装いをとっているけど。半ば神の領域に入った祭司が、荒ぶる神や祟り神を払うための儀式をやらねばならない。最初の『ゴジラ』では芹沢という祭司がいたけど、『シン・ゴジラ』の中にはそういう神憑りな人はいない。結局、最後の作戦は土建国家的な土木関連技術の勝利であって、あれはちょっとおかしい。

藤田 彼らが実写でありながら半分アニメ的なキャラであることが、僕にはリビングデッド性があるようにも見えます。「キャラクター」というのは、生きているのか死んでいるのか分からない中間的な存在だから。

笠井 でも僕が好きなのは、カヨコ・アン・パタースン石原さとみ)だから。巨災隊のメンバーではない。

藤田 塚本晋也さんの「あ! これは極限環境微生物だ!」とか、あれもちょっと神懸り的というか、シャーマン的な部分ありませんか。

笠井 それはオタク的なおかしさであって、シャーマン的なおかしさとは違うでしょう。カヨコはシャーマン的ですね。 

藤田 カヨコについて笠井さんほど重要視している人を、僕はまだ三人しか知らないです(笑)。

杉田 SEALDs非暴力を強調します。それに対し、しばき隊はちゃんと敵を認定して、少なくとも言葉の次元では暴力的な罵倒や実力行使を避けずに、敵の絶対的な排除を目指しますよね。あれは……。

笠井 世界は多様な力が交錯する場ですから、すべての行為が多かれ少なかれ暴力的ですよ。DVの例を挙げればわかるように、殴らなければ暴力的ないとはいえない。だから、自分の行為の暴力性について、人は常に自覚的でなければならないわけです。ガンジー非暴力は、敵の暴力を引きだし身に蒙ることで敵の正体を暴露し、敵の正統性に打撃を与えるための行為で、きわめて暴力的な戦術です。しばき隊の場合、今の対権力関係では、在特会を実力で粉砕するとこちらの被害が大きいので、とりあえず手は出さないというだけでしょう。いまのところ、口で言っているだけなら逮捕されない。

杉田 ああ、なるほど。そうか……。笠井さんは、しばき隊の暴力性の延長上に何らかの革命性が出てくるのを期待しているんですか。それこそ、独立愚連隊的な……。

藤田 そこは杉田さんが『ゲンロン4』の原稿で書かれいていた、SEALDsロスジェネ的な被害者意識やドロドロしたルサンチマンとは無縁であることへの違和感とも関係する問題でもあるのではないですかね。一方はルサンチマンがない、一方は暴力も辞さない。ゼロ年代の貧動と一〇年代以降の運動の質的な差をどう考えれば良いのか。

杉田 僕は正直に言って、『オネアミスの翼』の続編じゃないけど、自分がもう一度組織や運動に深くコミットすることについては、試行錯誤中である、としか言えない情けない状況です。例えば限界研がサンディカになって、規模はともかくいつか巨災対的な組織へと形態変化していく、可能性はあるんだろうか。

藤田 巨災対について僕は否定的に書いたので、それはどうとも答えにくいですね。

杉田 僕は格差論壇や反貧困運動みたいなものがあった時にデモに参加したり、フリーターズフリーという共同組合的なサンディカを作っていたんだけど、やっぱり社会革命を欲望する火種は今もありますよ。社会を変革し続けなきゃダメなんだと。正確には、自己変革と社会変革が絡み合っていかねばダメだと。最も深く自分を変えることが、最も遠く社会を変えることだ。そういうラディカリズムの火種がある。
しかし他方で、しばき隊的なものへの違和感もやはり僕にはある。在日コリアンに対するヘイト的なものをつぶすためには、容赦ない罵詈雑言を発していて、それ自体が別の過剰な暴力に陥っていく。それはかつて新左翼マッチョな正しさに酔って女性や障害者差別に陥っていったからくりと、何が違うんだろう。もちろん、キング牧師とマルコムXの関係も複雑だし、非暴力抵抗を言ったガンジーだって必ずしも直接暴力を否定してはいない。それはわかる。笠井さんは、そこは一九六〇年代の新左翼モラリズムによる共同観念→連合赤軍事件)と六八年的なもの(集合観念=大衆蜂起)を切断し、内ゲバ的ではない戦術的な暴力性を肯定するわけだけど、正直、僕にはそこの差異がまだよくわかっていなくて。
敵対の線を引いて、敵を叩く時にこそ、自分の中の暴力をさらに叩いて無化していく、つまり、ある種のタナトスによる内なる暴力の浄化が必要なんじゃないかな。それは暴力への居直りでもなく、無謬の非暴力を掲げることでもなく、超暴力――暴力によって暴力を超え続けること――というか……。抽象的なことしか今は言えないけど……それはやはり「70年的なもの」が試行錯誤してきた問いであるという気はする。まだうまく考えられないな。

笠井 われわれは暴力から逃れることはできない。暴力を外側から否定しても暴力から逃れることはできず、可能なのは暴力性を自覚し、暴力を浄化することだけだというのが『テロルの現象学』の結論でした。限界研のサンディカ的再編に関連して言うと、プルードンを読んだほうがいいと思う。近代社会主義の一つの原点はプルードンで、もう一つがブランキです。マルクスはそれを弁証法的に止揚としたと称するわけだが、簒奪してねじ曲げた家だけです。その二つの原点がいまだに問題になっている。ブランキは政治闘争主義ですよね。プルードンの場合は、一種の協同組合主義的アナキズムだから、どうやって自分たちがなんとか食っていくかを一生懸命考える。この二つの関係をどういうふうに捉えるか。プルードン主義的なものだけだと最終的に改良主義になるわけです。
例えば一九〇五年のロシア革命の時のスローガンというのは、全部、改良的課題。体制の変革などには直接関係しない。しかしこういう要素なしでは、革命という社会的大変動は起こらない。これはもうはっきりしている。プルードン的なものとブランキ的なものが押し合いへし合いしながら、緊張関係を保ちながら転がっていくことによって、社会は現実に大きく変わってきたし、そういう緊張関係なしでは大きく変わり得ない。それがこれまでの歴史が示すところです。
たとえば小熊英二という人は、東大全共闘は無謀な決戦主義にすぎなかったから駄目だと、否定的に切り捨てるんだけど、彼はそういう矛盾を抱えた社会変革の人間学的な根拠というものが、感覚的に理解できないんだろう。

杉田 ジョルジュ・ソレルに笠井さんは近いような気もするのですが。

笠井 ええ、近いところはあります。

杉田 ソレルは上から暴力(権力)を批判して、下からの暴力をロマン主義的に肯定しますよね。つまり、ゼネラルストライキ的なものによって、国家機能を停止へ追い込もうとする。その場合も経済的な漸進的改良よりも、神話的な力をそこに注ぎ込んで、国家と資本に対する闘争を祝祭的に組織していく。笠井さんのヴィジョンでは、巨災対ゴジラが連合し、暴力的な享楽によって日本+アメリカを同時破壊的に停止させていくのだから……。しばき隊にもそうした享楽があるってことでしょうか。

笠井 ガンジー非暴力もまた暴力だとすれば、暴力と非暴力が対項的に存在するわけではない。平和的なデモだってデモンストレーション、示威行動なんだから、実力の誇示なわけです。たとえ警官に石を投げなくてもね。平和なデモと暴動状態になって石を投げることとの間に、質的な断絶はない。連続しているんです。だから必要なのは、今この力関係でどういう戦術が有効なのか、という適切な判断でしょう。

杉田 ああ、なるほど。そうか。

笠井 それからもう一つ。SEALDsに関しては、二〇一一年にアラブの春とか、ウォール街の占拠などの社会的な運動が連鎖しましたよね。それの日本版があり、今も続いている、という文脈で理解するわけです。二〇世紀的な左翼性から断絶し、そこから次の一歩を踏み出したところで生じた大衆蜂起という共通性がある。東アジアでは香港台湾、日本、韓国というふうに大衆蜂起が国際的に連続しているわけだよね。そういう流れの日本における形態が、反原連、しばき隊、SEALDsとしてある。こうした歴史的な流れを念頭に置きながら、それを基本的に支持する、というのが僕の立場です。ステイトメントなんかを読むと、SEALDsに言説化された思想的独自性があるとは思えませんが、僕は彼らを支持します。

藤田 理論的な事柄に迷い込みすぎるのを意識的に回避する戦術を採用しているようですね。

笠井 ただしSEALDsの牛田悦正君なんかは、「笠井さんは戦後社会は滅びよと言うけれど、我々にとってはもうすでに滅びている、滅ぼすまでもないんだ」、って言うんだよね。その感覚はよく分かる。

藤田 僕も牛田くんからは、「あなたたち大人は無責任だ」、って批判されました。ついにそう言われる「大人」になったのかと感慨深かったです(笑)。

杉田 ゴジラはもう全部破壊して、去ったあとだったんですね。

笠井 戦後社会の廃墟の中でどうやって生き延びるか、そのことを大きな借金を抱えながら俺は考えています、と言われると、なるほど、と応答するしかないよね。

藤田 僕は『シン・ゴジラ』の享楽と倫理を重点的に論じているわけですが、今の時代で享楽を擁護すると、赤木智大的な戦争待望論とか、華々しく特攻して自殺するとか自爆テロをしようという話につながりかねない。SEALDsの若者が根本的に享楽志向ではないのは、戦争反対の立場と関係するのかもしれない。焼野原にはしないのだ、そちらへの欲動は抑圧するのだ、という無意識的な選択というか、覚悟かもしれない。

笠井 そこは僕もまだ的確につかめない。千年王国主義運動は、すでに一五世紀くらいから続いているわけだから。現代の「雨傘」とか「ひまわり」が完全に非暴力なのかといえば、それもちょっと違う気がする。そもそも議会を集団で占拠するというのは、明らかに非合法的な実力の行使、ようするに暴力でしょう。

藤田 千年王国主義に対抗するに別の千年王国主義しかないのか、それとも別の答えがあるのか……。「欲動の政治」で言えば。日本人は戦後になっても、特攻隊的なロマンティシズムを鎮められていないから、フィクションの中で特攻のロマンや戦争の享楽を描き続けて、それによって死の欲動を昇華し続けてきた側面がありますよね。フィクションの中で浄化していたそれが、最近は現実の政治の現場にまで出てくるようになってきてしまった感が……。

笠井 僕流に言えば、最後まで徹底的に戦わなかったから、いつまでも曖昧にしっぽをひきずって断ち切れないんだよ。

藤田 『この世界の片隅に』『君の名は。』『シン・ゴジラ』という二〇一六年のエンターテインメントが重要だと思ったのは、これらが破壊や戦争が気持ちよくて面白いものだ、ということをきちんと明示したからです。震災という、スペクタクルかつ、悲惨なできごとに直面したときに僕らの中に起こった解決不可能なジレンマを直視させてくれる作品だった。それで心理的な浄化を起こしたのが、ヒットの心理的な理由なのではないか。

笠井 いや、『この世界の片隅に』はそれにはあてはまらないと思う。

藤田 着色弾のシーンでは、破壊の美しさとか戦争の美しさを描いていませんでしたか。『君の名は。』では、街をぶっ壊したと後に知ることになる隕石を見た主人公が、美しい、と言うシーンがある。破壊とか戦争とか震災とか、倫理的に対峙すべき対象にすら、僕らはスペクタクルを感じて興奮する。そういう矛盾、情動のいかがわしさにちゃんと向き合って、そのこと自体に僕らを直面させたのが、これらの三作の非常に重要なところだった。集団心理学的に、そのような機能を果たす作品が必要な時期だったのでしょう。

* 〈68年〉や社会運動に共感しない立場から

杉田 ところで、藤田さんや僕なんかは、社会運動や政治の話を、屈折やねじれを感じながらも継承する意志があると思うんだけど、藤井さんや富塚さんは、たぶん、全然違いますよね。

藤井 そうですね、はい。社会運動の話は全く分からないし、政治的な話は正直にいえばすごい遠い。いろいろと本を読んだりとか、職場にいる全共闘の記憶がある人に話を聞いたりはしていますが……。たとえば『シン・ゴジラ』等についても、率直にいえば、どうしても政治とフィクションを切り離して鑑賞したい、という気持ちが強いんですよね。周りの人たちから「お前そんな見方をしているのか、ばかじゃないの」みたいに批判されることへの怖れも僕の中にはあります。それは若者のSNS的な空気とも関係するかもしれません。それこそ、協調主義的全体主義です。フィクションフィクションとして受容するということを強迫的にさせられている気がします。

藤田 美的なものに耽溺して政治的なものを忌避する態度こそが逆説的に政治的に強い力を持ってしまった、それがファシズム的精神を生んだんだ、という橋川文三の議論を現代的に解釈して『シン・ゴジラ論』で展開したけど、それについてはどう思いますか。

藤井 『シン・ゴジラ』自体はそこまでの深い話ではない、という気がしますけれどもね。

藤田 プロパガンダってのは、意識されないところの次元で影響を与えるものだよ。リーフェンシュタールしかり、エイゼンシュタインしかり。

藤井 現代のコンテンツに対しては、ファシズム的な危機感はないということです。もちろん、僕自身は無意識の政治性への関与を理解してはいるつもりです。ただ、そもそも美的なものに耽溺していないんです。『シン・ゴジラ』もある意味ネタとして消費していたので。
中村文則論でファシズム的な感覚を提示しましたが、それはコンテンツに対してではなく、コミュニケーションに対してファシズム的な感覚があると言った方がいいでしょうか。同様に、どちらかというと社会運動といった政治性よりもそのようなコミュニケーションの方に、少なくとも僕は実存が絡んでいます。

藤田 「美的なものに耽溺」っていうのは、現代風に言い換えて僕がイメージしているのは、「萌え続けている」とか「ずっとソーシャルゲームをやり続けている」とかなんだけどね。コミュニケーションに関しては、最近は自律した「コンテンツ」という概念が成立しにくくなっている鑑賞環境があるから、二つを分ける必要はないのでは。そういう構造に変動していること自体が兆候的なことだと僕は思っているけど。
ファシズム」の語源って「束」だから、人間を集団で束ねることと関係しているわけで、コミュニケーションにその顕著な兆候が見えてくるのは全く正しい。

杉田 藤田さんの『シン・ゴジラ論』を読んで、一番何かを感じたのはどこですか。

藤井 複数の意見をいろいろと引用しているところが面白かったです。それこそ評価軸が全く割れる意見や感想もふくめて。たぶん藤田さん個人の解釈だけを見せられても、僕は納得できなかったと思うんですよ。そういう意見もあるよね、ぐらいです。しかしあの本はそれ自体が「まとめサイト」みたいな感じで機能していますよね。「俺の考えた最強のゴジラ論」みたいなものを見せられてもしょうがないわけです。

笠井 作品が政治的プロバカンダとして利用され得るのは事実です。しかし、そんなものは誰の目にも見えやすいから、批判するのも簡単。問題はむしろ藤田君が言ったような、美が美として高度な政治性を発揮するような場合ですね。

冨塚 まず、お二人やそれ以外にも多くの論者に指摘されているトピックとして、『シン・ゴジラ』は無数の解釈を誘発する作品であり、どんな解釈も代入可能であって、どれが唯一の正解とは言えない、という点は重要だと思います。そもそも、『ゴジラ』シリーズ自体にそういった要素が強いのに加えて、かつて無数の謎本を生んだ『エヴァ』の庵野総監督が、今回も明らかに自覚的に様々な仕掛けを作中に導入しています。
その上で、すでに数多く描かれているシン・ゴジラ論を分類すると、大きく分けて、あくまで作中で明示されている要素を材料に論じるか、ある種の二次創作的な想像力とともに、あるべきシン・ゴジラ像にまで踏み込んだ議論を展開するか、の二通りに分かれるように感じます。私は、普段文学研究を行っているのと、『ゴジラ』、『エヴァ』両シリーズにさほど思い入れがないこともあり、前者の視点でシン・ゴジラを観ましたが、お二人の論には明白に後者の視点が見いだせました。
そうした、作品そのものから離れていくような強い結論は、一方で高い批評性と魅力をもちますが、他方である意味で「自分は社会にこうなってほしい」という願望を示すものとなってしまう危険性をも孕んでいるのではないか。例えば、私は笠井さんの映画後半の展開に批判的な議論と、藤田さんの本でも紹介されている杉田さんのツイート群は、おそらく作中で描かれる巨災対のあり方への不満をある程度共有しているものとして読みました。その上で、「フィクションは政治的イデオロギーとは無縁に受け止められるべき」と言うつもりは全くありませんが、作品に描かれていない方向に政治性を読み込むことの危険性には常に自覚的である必要があると思います。
もちろん、庵野氏が多くの仕掛けを自覚的に埋め込んでいるからこそ、単なる監督の意図の解説にとどまらない議論を行うには、時には作品から遊離する過激さが必要となることは理解できますし、その意味では二冊ともを楽しんで読んだことは間違いありませんが。
また、結論部を別とすると、藤田さんの書き方は、作品論というよりは、観客論の要素がつよく、いわば「『シン・ゴジラ論』論」というべき部分がありますよね。

藤田 そうだね。無数の読みを誘発する装置としての、虚焦点みたいな『シン・ゴジラ』を炙りだしたいので、観客論や、「論」論を方法論として意識的に選んだね。

冨塚 加えて、駄作として切り捨てられているB級の作品群をも含めた『ゴジラ』シリーズの各作品に関する議論も、読みどころの一つでした。『シン・ゴジラ論』での解説を読んでも、改めてそれらの作品を観よう、という気持ちにはなかなかなれませんでしたが(笑)。そうした、多岐にわたる切り口のある本ですが、私はやはり日本浪漫派の批判が藤田さんの関心のポイントなのかなと思いました。もっと言うと、急に最後に話が飛んで、北野武の『みんな〜やっているか!』の話になるところ。あそこが本当に主張したかったことだったのではないか。とはいえ、そうなると、やはりもはや『シン・ゴジラ』論ではなくなりますよね。

藤田 北野武について熱い想いがずっとあったことは否定しない。ただ、「作品に描かれていない方向に政治性を読み込むことの危険性」については、分かった上でやっている、と答えるしかない。作品を解釈し批評して、自分の論を世間に問う、という行為には、絶対に、「意見を世に発して、(ほんの少しになるかすごくでっかくなるかは予想できないにせよ)状況を変える」行為遂行的な側面はある。科学的な客観性に徹することは、作品を論じる場合には不可能なんじゃないかと思うんだよ。

冨塚 もちろん個人の意見が入ることは前提です。先ほども言ったように、作品に必ずしも準拠していないことを政治的に主張してしまうことには固有の危険性があるのでは、という疑問です。

藤田 作品論やテクスト論的な規範からすれば、言っていることも分かる。学術的な論文の場合はその規範は強く必要だよね。一応、僕も大学院でてるんでトレーニングも積んでいるし、ずっと考え続けてきているよ。『シン・ゴジラ論』の中でも、ロラン・バルトのテクスト論と、イーザーの読書行為論と、イーグルトンを理論的参照点として比較しながら自身の方法論を少し話したつもりなんだけどね。結論だけ言えば、「学術論文」であったとしても、作品を論じる場合に自然科学的な規範で論じるのは、不可能ではないとしても、重要な「魅力」の部分を失ってしまう。「批評」の、飛躍や乱暴さを危険として孕む在り方のほうが、作品を論じる際に、対象に対する誠実さとして重要なんじゃないかと思うんだよ。
イーグルトンの『批評の政治学』の結論部分の「政治的批評」によれば、どんな価値判断も、必ず政治性を帯びざるを得ないわけですよ。ニュートラルに論じるという形式、態度、それ自体も政治性を帯びる。だとしたら、それも自覚的に織り込んでやるしかないよね。

冨塚 価値判断が悪いのではなく、価値判断と二次創作的な想像力がつながってしまうことを問題視しているということです。

藤井 僕は読んでいて、藤田さんは何か苦しそうだな、と感じました。多分、普通なら仮想敵がいて、自分の言いたいことをそれにぶつけるんでしょうけど、そういうやり方だと、様々な解釈の中の一つというレベルに引きずり落とされて、今のSNS時代の空気に飲み込まれてしまう。だから藤田さん自身を一旦メタレベルに押し上げるために、全部の論をまず俯瞰する。まとめる。そういうやり方じゃないとそもそも主張ができなかったのではないか。そこが苦しそうだと思いました。
現在、自分の主張を流通させることは非常に難しいと思います。それこそ、ビジュアル・コミュニケーションが台頭してきていて、情動性こそに重きが置かれる時代であり、自分の言説は二の次です。また、周りの批判的な言葉や擁護する言葉といった多様な言説によって身動きが取れなくなる感覚がすごくありました。結局は他の人が言ってるよ、といった形です。その中でいかに言葉、つまり言論を成り立たせるか、ということで藤田さんは苦しんでいるのではないかと思ったんです。

冨塚 繰り返しになりますが、作品から直接に読みとれないことを、俺はこういう展開をしてほしかった、というふうに政治の話と絡めていくのは、やっぱりちょっと問題だと私は思います。

藤田 既存の先行文献に全てあたるというのは、学術的には「基本」というか「普通」のやり方だと思うよ。評論の場合、字数の制限や執筆時間の問題でみんな書かないけど、「巨人の方の上」に乗っている者として、先行研究にあたるのは普通のこと。自分の言いたいことを既に言っている人がいたら、わざわざ自分が書く必要ないわけだしね。過去の議論によって学んで、引き継いで、批判的に継承しながら発展していく「知」なり「学問」への最低限の礼節だよ、それは。
政治の話に関しては、ある作品は時代と政治と社会の文脈の中にあるわけだから、内部構造の次元と外部環境の次元、両方から読まないと駄目っていうのも、文学研究などでは「普通」のことでは? たとえば芥川龍之介江戸川乱歩を、当時の時代状況やテクノロジーの環境との関係で論じる研究は、(意識的に選択されたテクスト論がむしろ例外であって)ノーマルだっていう印象があるけれど。

笠井 作者の真意はどこにあるのか、という読み方はあまり面白くない。庵野秀明は本当のところ何を言いたかったのか、という論争にはたいして意味はない。そもそも庵野は解釈や議論を観客に挑発するため、意図してギミックを詰め込んでいるのだし。
もう一つは、杉田流儀でこの作品がどんな政治的機能を持つのか、ということを批判したとしても、政治的機能には尽くされない領域があるでしょう。こういうふうに政治利用されるからこの作品は駄目だ、逆に利用し得るからこの作品はいい、という政治主義的な価値評価は前提としてまったく駄目。それはとっくの昔に、スターリン主義芸術理論の批判で語られたことです。『容疑者X』論争のときから、僕は批評を政治化しようと思って発言してきましたが、もちろん社会主義リアリズムの昔に戻ろうというわけではない。『容疑者X』論争の直後に、ミステリ誌「ジャーロ」に連載した『探偵小説論検戮任蓮⊂赦遜蘿代の蔵原惟人や中野重治や若林初之輔の批評や理論についても検討しました。平林というのは、同じプロ文でも蔵原や中野などの戦旗派でなく文戦派系で、探偵小説批評にも熱心な、ベンヤミンと共通するような発想の批評家です。
この二つはもう、もっとその先の話をした方がいいと思う。

(後・2に続く)

2017-03-11 座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(前)

座談会 
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(前)



参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉



3月10日(木)に限界研編『東日本大震災後文学論』が発売されました。震災とフィクションについて東日本大震災から6年経った今、再び考え直すような論集になっています。
その刊行を記念して新メンバーを加えた限界研会員で座談会を行いました。6万字を超える大ボリュームの議論を前後半に分けて掲載します。3月11日の今回は座談会メンバーの『東日本大震災後文学論』それぞれの論考の話を中心にお送りいたします。



* 限界研『東日本大震災後文学論』と二〇一六年のサブカルチャー

杉田 さて、限界小説研究会(以下「限界研」)の次の論集は『東日本大震災後文学論』になります。今日の場は、その宣伝を兼ねた座談会ということで、限界研の創始者である笠井潔さんにも参加して頂いています。まず、藤田さんから、そもそも限界研とはどんな組織なのか。そしてなぜ次のテーマが震災後文学になったのか。その辺の説明を、簡単にお願いします。

藤田 限界研はもともと、鶴見俊輔の『限界芸術論』から名前が取られています。大衆文化の変化に注目しながら、かつ、それが政治的なものにいかに関わっているかを分析する。そういう鶴見俊輔的なスタンスを受け継いだ会である、と僕は理解しています。サブカルチャー研究が中心の限界研と、もう一つ、震災後の大衆運動(反原連やしばき隊、SEALDsなど)についての研究会があって、笠井さんや僕はそちらにも参加しています。それらの二つを通して、文化現象と政治的社会的運動が分かちもつ大衆的無意識のゆくえを探ってきました。
今回、震災後文学論をテーマにしたのは、純文学の領域でも震災による様々な変化が見られたということが最初の理由です。僕自身が二〇一五年に「文學界」の新人小説月評を一年間担当して、大きな変化を感じました。フリーター・ニートや格差社会を主題としていたゼロ年代純文学とは明らかに変化があると思い、それが時代精神と連動しているように感じました。僕が昨年編集した『地域アート』もいわば「震災後」のアートの本だし、今回僕が一冊の評論を書いた『シン・ゴジラ』も明らかに「震災後」の作品であると考えています。僕の視点だけから言えば、震災後に文化や社会で起こった変化を総体的に捉えるための総合的な布置の中に、純文学編である『東日本大震災後文学論』が位置づけられます。
東日本大震災後の文学作品の変化を――ただし僕の考える文学はたとえばゲームも入っていて、狭義の純文学に限りませんが――調べることで、今の社会の変化が見えてきたり、文学者たちが何を考えてきたかを広く読者とシェアできれば、それがフィードバックして、何か良いことに繋がるかもしれないし、それが批評の役割の一つだろう、と考えています。まずはそんなところで。

杉田 僕は昨年から限界研に参加した「新人」なのですが、約一年間、震災後文学を共同研究としてずいぶん読みまくりました。僕が覚えているのは、最初に、メンバーの中から企画自体に反対の意見があったことです。そもそも震災文学なんて扱うこと自体が倫理的に問題がある。あるいは逆に、「震災なんてもうオワコン」とはっきり突き放した人もいた。おそらくその言葉は、殺伐とした現代の若者の生の中で、なぜ震災ばかりが特権化するのか、という問いをはらんでいたと僕は受け止めました。ともかく、そのような企画自体に対する違和感からこの企画はじまったのを、よく覚えています。
 その後一年間やってきて、最初に企画自体に反対していた人も、各々の真剣さのあらわれだったとわかったんですね。各人に向き合いかたの違いがあって、それぞれみんな真剣だった。一年間の共同作業を通して、各人の原稿もぐっと強度があがった。結構ギリギリまで、相互批評的にお互いを追い込んだ。それはよかったのではないか。実際に、原稿の中身もねじれや分裂をはらんだものが多い。たんに震災の記憶を風化させないとか、現実に対して無力な文学だからこそできることをやろう、みたいな口当たりのいい話ではない。生々しい傷跡が結果的に刻まれた。実際に、災害の映像や小説にあまり多く接すると、トラウマやPTSDを抱えるという話もあって……。

藤田 実際に僕ら、脱稿の前後は、そうなってましたよ。

杉田 震災から六年目の三月一一日に『東日本大震災後文学論』は刊行予定ですけれども、ある種の過酷なトラウマを分かちあった点も含めて、正統派の文学論集になりました。かなり重厚な一冊になったのではないか。そういう自負が、少なくとも僕にはあります。できるだけ多くの人に読んでほしいですね。
 ところで笠井さんは、今は限界研の名誉会員ということで……現在は定例会には参加していませんが、『東日本大震災後文学論』の原稿は事前にお送りして、いくつか読んでもらいました。率直なところ、いかがでしたか?

笠井 まず一つ印象に残ったのは、冨塚さんが坂口恭平村田沙耶香を論じた原稿の、冒頭のところ。震災直後に何か書くこと自体に納得できないものがある、と書かれていますね。そして今年の『シン・ゴジラ』と『君の名は。』で、五年経って、ようやく納得できる表現に出会ったんだと。それがまずなるほどな、と思ったんですね。とはいえ、僕の考えは冨塚さんとは逆で、いったん大きな出来事の直後に発言し、ものを書いてしまった人間は、その後もずっと持続的に書き続けるべきだと思う。やめてしまったら、その程度のものだったのか、と周りから判断されてしまうから。
昨年の一二月に僕が刊行した『テロルとゴジラ』という評論集の最初に、表題作にもなった「テロルとゴジラ」という文章があります。もともとは君たちからの依頼で、限界研の論集に載せるつもりだったんだけど、時間的に間に合わなかった。枚数もだいぶ長くなったしね。それで単著の『テロルとゴジラ』の冒頭にそれを収めることにした。その「テロルとゴジラ」の中でも、いまだに僕は、しつこく、68年革命や連合赤軍事件のことを延々と書いているわけです。だから、微温的にリベラル化し、68年について書くのも考えるのもやめてしまった同世代、たとえば高橋源一郎坂本龍一のような人たちとは根本的に違うと自負しています(笑)。杉田さんの高橋源一郎論については、後で議論したい。

杉田 ところで、『シン・ゴジラ』とともに二〇一六年の話題作だった『君の名は。』はご覧になられましたか。『テロルとゴジラ』では直接的には論じられていませんが。

笠井 観ました。そもそも僕は『君の名は。』がブロックバスター的な大ヒットになったこと、その理由がよく分からない。誰かうまく説明できる人がいたら、ぜひ教えて欲しい(笑)。絵がきれいだとみんな言うけど、絵の美しさ、特に緑の使い方の美しさは『言の葉の庭』のほうが上だと思う。作品としても『言の葉の庭』のほうが『君の名は。』よりもいいんじゃないかな。
もともと近年のアニメでは、SF的なネタを使った少年少女の恋愛漫画がすごく多いわけだよね。最近だと『orange』(原作漫画・高野苺)というタイムスリップや過去改変を扱った作品があったし、未来の声が聞ける少年が出てくる『グラスリップ』というテレビアニメもそうです。つまり『君の名は。』は、SF的な物語としては、よくあるものだと思う。それがこんなに大ヒットしてしまったのは、僕の想像を超えている。

藤田 僕らは今回、東日本大震災についての文学や映像作品を大量に見て、むちゃくちゃ精神にダメージがきたんですよ。鬱っぽくなったし、感情的な言い合いや喧嘩もずいぶんあった。それはそれで刺激的でもあったんですが、正直、疲れたことも事実で。
そんなときに『シン・ゴジラ』と『君の名は』が出てきた。そりゃスッキリするじゃないですか。『シン・ゴジラ』は東京を爽快にぶっ壊してくれて、『君の名は』は歴史改変的に震災をなかったことにしてくれた。世間の人たちは、震災や犠牲者を忘れさせてくれる、こういう感動充足型のエンターテインメントを待ち望んでいた面もあるのではないかと思いましたよ。願望充足や現実逃避は、問題だと思うけど、必要と思う気持ちも分かってしまう部分もあり。フィクション存在意義を、考えさせられましたよ。

杉田 限界研の中でも、震災後文学に本物の傑作はないのではないか、という消極的な空気が支配的だったところに、『シン・ゴジラ』が公開されて、まさに隕石が落ちてきたようなディープインパクトがあったんですよね。それもまた生々しく覚えています。

藤田 特に飯田一史さんは、ずっと重松清論を書いていたのに、『シン・ゴジラ』を観た途端、『シン・ゴジラ』論へ大きく吹っ切っちゃった。それくらいの破壊力があった。

杉田 飯田さんの論は、論考自体が終盤でぽっきりとへし折れているみたいな、不思議ないびつさがあるよね。それ自体が、現在の震災と文学やエンタメのねじれた関係を象徴していると思う。笠井さんや藤田さんの単著もあわせて、ゴジラの存在は、今回の論集全体に大きな影を落としている。
 さらに『君の名は。』『聲の形』『この世界の片隅に』が公開されて、二〇一六年はアニメ系のエンタメ映画(『シン・ゴジラ』は特撮ですが)にとって、確実に歴史に名を刻むだろう一年になった。震災の影響を受けて、五年かけてそれを物語として昇華してきたわけですね。逆にいえば、いまだに決定打がない純文学と、豊饒な達成を残したエンタメの違いは、どこにあるんだろうか。もっと時間が必要なのか。

藤田 やっとエンターテイメントに震災の経験が昇華できたんでしょうね……。文学作品の場合、構造や語りの技法の面白さはあるんだけど、「おお、これは大傑作だ、歴史を変えた」と言えるほどのものには出会えなかった。限界研の中でもみんなちょっと無理をして傑作を探している、という感じがあった。そこに『シン・ゴジラ』と『君の名は』が来て、何かフェーズが一気に変わってしまった。個人的には、地味で暗くて爽快感のない「文学」の必要性を擁護したい気持ちが今は強いです。

杉田 今回の震災後文学論がもう一年遅かったら、ずいぶん内容も変わっていたでしょう。そもそも純文学中心の論集にはならなかったかもしれない。しかし僕の印象では、『シン・ゴジラ』や『君の名は』は、確かにすごく面白いんだけど、マジョリティとしての日本人・東京人を慰撫し、自分たちはこれでいいんだ、日本人はまだやれるんだ、という前向きな気持ちにさせてくれる。つまり、鬱屈を消し飛ばすような歴史修正的な物語でもあると思う。それがいいことなのか悪いことなのか、批評や解釈を重ねながら、歴史の審判を待つしかない。

* 坂口恭平村田沙耶香をめぐって


藤田 冨塚君はなぜ坂口恭平村田沙耶香を選んだのかを聞きたい。君は最初、この企画にすごく反対していたよね。

冨塚 そうですね。震災を題材としたフィクション化を早いタイミングで行うことには、個人的に強い違和感がありました。震災後の映像作品やアート作品は色々見ていたんですけど、やはりドキュメンタリー志向の作品に光るものがあった。現場を実際に撮影するわけですからね。けれども小説だと、ある個人が頭で考えて物語を書くわけです。しかも多くの場合、直接の被災者ではなく、想像によって書いている。いま現実に起きていることに対して、そういうことをしてしまっていいのか。それが最初の疑問としてあった。そういうものを読みたくない、という強い気持ちがあった。
しかし企画がスタートしたことで、幾つかの代表的作品には読書会を通じて触れることになりました。たとえばいとうせいこうの『想像ラジオ』では、「起きて間もない震災について、文学作品を書いてもよいのか」という書き手自身の逡巡そのものがテキストの中に書き込まれている。それは「俺の考えた震災文学」みたいなものを堂々と出されるよりは全然いい。でも一方でそれは「悩んでいるから書いてもいいんだ」という話なのか。フィクションについては、震災を直接描くのではなく、象徴化の要素や、事実に対するある程度の距離感を持ったものでなければ、なかなか上手く受け止められないという感覚がありました。その点、『シン・ゴジラ』や『君の名は』はエンタメとして十分に見られるレベルのものであって、それぞれゴジラや隕石という象徴によって震災に触れているわけですね。震災を直接描いたり、作者個人の深刻な逡巡や悩みを書くタイプの作品よりも、それらの象徴化されたフィクションの方が私としてはずっと受け入れやすかったです。

杉田 なるほど。

冨塚 最初の『ゴジラ』は一九五四年公開。戦後九年目です。敗戦から十年弱であれが出てきた。そして菊田一夫原作、大場秀雄監督の『君の名は』の三部作映画が完結したのも一九五四年でしたよね。それを早いとみるか遅いとみるかはよくわかりません。今回も二〇一六年に『シン・ゴジラ』と『君の名は。』という二つの作品がたまたま同じ年に大ヒットしたわけですけど、今回はまだ五〜六年目です。最初の『ゴジラ』『君の名は』に比べると、ちょっと早い。きっと、東日本大震災については五〜六年目でそれがエンタメに昇華される準備が整ったんだ、というふうに後々振り返られるのでしょう。
そういう前提がありつつ、私は震災後の作家として坂口恭平さんと村田沙耶香さんについて書きました。坂口さんは震災には深く関わっているけれども、震災についてのフィクションを直接書いているわけではない。震災そのものから考えるというより、彼自分の生活の延長としてそれに触れている。そこがまず私には面白かった。村田さんの方は、震災については直接的には何も書いていない。しかしじつは震災の影響によって、作品にちょっと切断線があったのではないか。それが私の仮説です。つまり、二人とも、まず震災ありき、というダイレクトな関心ではなく、もっと広く、一段階抽象化された形で震災の影響を表現した作家である。ゆえに坂口・村田という二人を選びました。ただ、坂口さんの最新刊の『現実宿り』はおそらくはじめて震災について踏み込んだことも書いています。

藤田 もう少し、震災後文学としてこの二人のどこが重要だと感じたのか、聞いてもいいですか。

冨塚 『ユリイカ』の坂口恭平特集で、杉田さんと篠原雅武さんが江藤淳の『成熟と喪失』に言及していた。ただ、その方向性は異なるものでした。一方で、杉田さんは『成熟と喪失』の成熟モデルを完全に無視して、坂口さんの『家族の哲学』をジャッジすることはできない、という立場を示されているように読みましたが、他方で、篠原さんは『成熟と喪失』のモデルでは捉えられないことを坂口恭平はやろうとしている、そのことを評価している。自分としては今回、篠原さんのラインを敷衍する形で議論を組み立てました。
その上で、原稿のタイトルを「喪失なき成熟」としました。やはり「喪失」はもうあり得ない。もう「喪失」はありえないけど、つまり「喪失から成熟へ」ではない形で、新しいタイプの成熟へ向かっている。そういう作家として坂口さんと村田さんを並べて、つなげてみた。つまり彼らは、震災後の現実の中で新しい家族や集団のあり方を模索している、という認識です。分かりやすい近代家族のモデルにはおさまらない生き方を描いている。

藤田 具体的には坂口モデルと村田モデルはどんな感じで、どこが重なり、どこが異なりますか?

冨塚 坂口さんについては、古い言葉だけどコミューンに近いですね。家族の範囲を拡大して拡張していく。村田さんはよりポストヒューマン的と言いますか、人間としての家族関係はもうほとんどない。赤の他人たちと、ドライに、ただたんに同じ空間にたまたま共存している。そういう関係が繰り返し描かれています。

藤田 村田さんには、情緒や愛情や性愛も関係もないような、種の再生産をしないようなビジョンがありますよね。

冨塚 性愛は描かれているんだけど、互いに理解し合おうという要素はほとんどない。主人公は大体女性ですが、相手の男性については細かく書かれることがなく、人物としての深みもない。

藤田 震災後に日本が揺らされて、集団なり共同体が新しく再編成されようとしている。そういう問題意識の先鋭的な現われなんだと僕は解釈しています。たぶん、しばき隊やSEALDsのような社会運動の集団・組織にも似たような背景があると思う。それは笠井さんの「生存のためのサンディカ」という問題系ともちょっと重なっていのではないでしょうか。新しい集団を創造し、生きかたを革命する、という部分には、一九六八年的なものの反復を感じる部分もあります。

冨塚 いや、私の考えでは、六八年的とか革命という話とは、彼らの試みは根本的に切れていると思う。つまり、彼らには、現実を変えよう、という意識がそもそも見受けられないから。坂口さんが主張したのは「現実を脱出する」という話です。現実は現実である。それはもうどうしようもない。村田さんの『コンビニ人間』に至っては、もうコンビニでずっと働いていればそれでいい。そういう話ですよ。非正規雇用でお金がなくて貧困だから闘争しようとか、そういうことは一切考えない。

藤田 ロスジェネや『フリーターズフリー』的立場から見て、『コンビニ人間』のような人生はアリなんだろうか、理想なんだろうか……

杉田 うーん。どうだろうね。あれが理想かは分からないけど、確かに震災後には、「自己啓発系の社会運動」がリアルに感じられた印象はありますね。坂口恭平さんもそうだし、荒木優太さんの『これからのエリック・ホッファーのために』とか。社会と闘争し変革するのではなく、自分たちのライフスタイルを変えて、オルタナティブな生き方現実をサバイブしていく。かつての格差論壇や反貧困運動には、現実の困難を社会変革によって改善し改良する、という志向があった。震災以降の、二〇一〇年代の自己啓発系のサバイブ論だと、そういう考え方は完全に放棄されていますよね。若松英輔さんの文学論もそうかもしれない。ただし、資本主義を肯定する自己啓発成功哲学)ではなく、非資本主義的なタイプの、社会派でオルタナティヴ自己啓発。そういう意味で僕はSEALDsやしばき隊と、坂口さん・村田さんたちの路線は少し違うイメージがありますね。

笠井 最近の坂口・村田路線と、たとえば「素人の乱」みたいなものは、どういう違いがあると思う?

杉田 「素人の乱」は昔からあるアナーキズムの系譜というか、集団生活を大事にしますよね。だけど村田さんや坂口さんは、個人主義が強い。坂口さんも個人ベースで、あくまでも家族の拡張の話にとどまる。社会的な連帯とかまではいかない。坂口さんはラディカルな面と同時に極めて保守的な面があって、一貫して、九州男児的な家父長への憧れがありますよね。
僕は必ずしも江藤淳の成熟モデルによって坂口さんを裁いてはいません。江藤淳的な「喪失から成熟へ」というモデルとは異質なものを見ようとしています。つまり拡張家族であり、オルタナティブ家族ですよね。ある種の融通無碍で群体的な家族イメージを描くんだけど、それがそのまま、妙に家父長的な権力性を強化もしていて、そういう矛盾が坂口さんの面白いところ。家族を拡張し群れを生きることの困難を体で生きてしまっているのではないか。彼は無償や贈与を言うけど、承認欲求資本主義的な欲望もすごくあるでしょう。そういう両極がすごく人間くさいよね。

冨塚 そうですね。ただ、従来のいわゆる、統一的な一つの人格の内部に矛盾する要素が共存している、というモデルと、坂口さんや村田さんの作品で描かれる人物像には微妙な差異があるという気もしています。では逆に、場面ごとに分裂した自己が共存する、解離的な、最近の平野啓一郎の用語でいえば「分人」的モデルに相当するか、といえばそうとも言えない。そんな彼らの描く人格モデルを、論考では主にイギリス対象関係論、特にウィニコットの母子関係をめぐる議論と突き合わせて検討しました。坂口さんにおいては、単なるバラバラな自己の併存ではなく、その重ね合わせが、村田さんにおいては複数の自己を棲み分け、切り離そうとする際に出会う抵抗、暴力の問題などがとりわけ重要であると考えています。

* 中村文則をめぐって

藤田 3・11以後の運動や集団を見ていると、集団形成のレベルで互いの関係性や空気を読むことへのシフトが起きていて、基本単位がかつての個人ではなくなっていると感じる。SEALDsの本や笠井さんとしばき隊の野間易通さんの対談本『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』(2016年)を読んでいても、そう思う。

藤井 僕は今回、中村文則を論じましたが、最後は『私の消滅』を取り上げています。感覚的にも「今、人間のあり方が変わっている」という印象がある。ポストヒューマン的と呼んだらそれまでですけれど。現在は物事の土台がころころ変わっていく世の中だと感じます。男性と女性の性差も消えていくし、レズビアンバイセクシャルへの偏見も少なくなっている。そして、それに対する違和感もあまりなく、表面上ではそんな社会に対する順応性が高まっている。僕は職業柄、若者たちを日頃から見ていますが、とにかく環境に対する順応性が早い。いろいろなものをすごく受け入れていく。
ただ、彼らが「多様性を受け入れよう」などといった考え方や、確固たる自分を持っているかというと、そうではない気がする。その場その場で何でも受け入れて生きていく。そのことを僕はアイデンティティの分裂や崩壊の問題として、中村作品に即した形で論じました。中村作品の中には崩壊や分裂の感覚が震災以前からあったけど、震災後により強くなったと思います。

藤田 社会の流動化やインターネットによって、個が分裂したり流動化しやすくなったのはあるでしょうね。そこへ震災が来て、さらに個が揺さぶられた。集団生活や運動のあり方も流動的なネットワークへとさらに変化しているという側面もある。一方で、ナショナリズムや、強くて巨大なものに一体化してしまおうとする情動も強くあるように感じる。個が解体された後に、「束」として大きなものに流されても困る。そういう状況を前提として、どうするのか、ってのが、藤井くんの解釈する中村文則のテーマだよね。

杉田 中村さんは近年、純文学ミステリの臨界点で小説を書いていますが、今年の『私の消滅』でも脳科学や精神医学マインドコントロール等の知見を使って、記憶の捏造や人格の入れ替えがすでに技術的に可能になった状況の中で、じゃあ「私」とは何か、新しい倫理とは何か。そういうモチーフを、純文学ミステリの境界上で描いている。あるいは宮内悠介さんの『彼女がエスパーだったころ』も、最新科学と疑似科学、技術と宗教のぎりぎりの境界線から、新しい人間像や言葉が産まれる直前の、胎動や予兆みたいなものを感じさせて面白かった。
笠井さんによると、本格派探偵小説第一次世界大戦の「ポスト」の小説であって、それゆえに大量死と大量生(人間の価値の匿名性)が問われることになった。それは内容と形式の両面から言える。中村さんや宮内さんの作品は、形式的にも根本的に壊れている感じがする。世界構造のカタストロフィがあり、従来の「人間」や「現実」の前提が崩れていく。それを感覚や欲望のレベルで小説化している感じがある。それはたんなる構成や技巧の問題ではなく、思想の問題に食い込んでいる。映画だと森達也の『FAKE』とか、外国作品だけど『サウルの息子』なんかも、科学と宗教、ドキュメントとフィクションの区別がメルトダウンしていく世界を描いていました。

藤井 中村文則の作品もそうですし、僕自身にもいわゆるポスト・トゥルース感覚はあります。オックスフォード辞典が今年の言葉に選んだ言葉です。ポスト・トゥルース的状況はかつてもあったとは思うんですが、現在は情報が氾濫して「何が正しいかわからないけど、とりあえず自分が気持ちい方向に向かおうよ」といった動きが出てくるようになった。しかも、それが個人レベルでもそうだし、国家からの情報からもそうです。原発の内部がどうなっているのか分からないし、どのぐらい安全かもわからない。科学的なものの確実性を実感できない。そのようなリアリティの中に生きているから、普通の人もポスト・トゥルース的なリアリティになりやすい、という環境があるのではないか。

杉田 原発公害事故によって、科学と疑似科学、理性と感情の間に引かれていた境界線が大きく攪乱された感じは確かにあった。ある種の科学畑の人たちが自分の間違いや判断ミスを全く認めず、延々と誤魔化したり。メルトダウンなんてない、お前らは情弱でデマで陰謀論を振りまくな、って言ってたのに。そういう現実の底が抜けた感じを刻まれたような気はする。

藤田 震災以前までだと、国家の統計や科学的なデータはある程度信頼ができていた、少なくとも今よりは信頼ができていたんでしょうね。原理的にというよりは、生活感覚の次元で。

笠井 とりあえず信頼しておこう、という約束にリアリティがあったわけだよね。それが本当なのかどうか、厳密に考えていくと最終的な結論が出せないような部分もある。けれども社会を回していくために、とりあえず本当のことや事実といえることはある、というような約束でやってきた。しかし、そうした相互了解が崩れはじめた。今では、相手をやっつけるためには何を言ってもいい。嘘でも出鱈目でもいい。相手の言葉が嘘だって証明するには、時間も手間もかかる。そのタイムラグを活用して嘘を言いまくって勝利する。至る所でそうなって、嘘の勝利が堆積して、本当に現実社会が変わってしまう。

冨塚 トランプがなんだかんだで勝ってしまった。ツイッターなど日々ネットでもそういう状況が拡大している。感情のぶつけ合いですよね。情動という動物的な、喜怒哀楽のレベルでの戦い。論理的にどちらが正しいかとは関係がない。私はあまり「震災で何かが変わった」とは言いたくないですけど、やはり震災直後にツイッターなんかで色々なデマがバーっと拡散したときに、「この人は信頼できる」と思っていた学者とかが結構とんでもないデマを平気で拡散していたりして、びっくりした。
ただ、感情とか情動ではダメだから、啓蒙してみんなで成熟しましょう、というやり方でやっていけるのか。私はそのことにも結構、疑問を持っています。感情ばかりになってしまった、そこから成熟する道があるのではないか。
笠井さんと藤田さんのゴジラ論はフロイトを参照されていたと思うのですが、フロイトでいくと去勢されて大人になるんだというモデルでしょう。しかしそのモデルで押していくだけではもうやっていけないのではないか。立木康介さんが『露出せよ、と現代文明は言う』で紹介されていましたが、メルマンら現代フランス精神分析の臨床家たちによると、成人の幼児化が世界的にものすごく進行していて、患者の治療がちゃんと終わって、去勢されてしっかりした人格を獲得する、というケースが極めて少なくなっているらしいんですね。それを踏まえて、私の原稿では、もともと幼児の対象関係を扱っていたクラインウィニコットの議論を、大人である坂口さんや村田さんの作品の登場人物の分析に関しても参照しています。

杉田 震災後の雰囲気の中で吉川浩満『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』、カンタン・メイヤスー『有限性の後で』、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』などの本が売れたり、話題になったりしたことは、少し分かる気がするんです。この世界のベーシックな前提やルールすら、まったく無意味に偶然的に、昨日までとは別様に書き変わるかもしれない。たまたま「この世界」は存在しているけど、もしかしたら人類は存在しなかったかもしれないし、明日突然全てが絶滅し消滅するかもしれない。しかもそれは、神の必然的な意志のためですらない。どうでもいい偶然や、くだらない打算の結果にすぎない。そういう理不尽な環境変化の中で、どうやって適応してサバイブしていくか、という感じですかね。

藤田 先に冨塚くんのフロイトに関する問いに答えておくと、あの本はフロイトを使ったけど、僕自身は、現代を分析するには脳科学とか実験心理学の知見を応用するべきだと考えている。ゴジラを論じるときには適していないのでその道具立ては使わなかったけど、脳科学や実験心理学などの知見を応用して現実のプロパガンダや情動政治は行われているわけだから、そこを突いていかなければならない。道具立てはアップデートしなくてはならないというのはその通り。道具立てをアップデートしたら、「人間観」が自然と変わってしまうんだけれど。
今回の震災はやはり情動政治の時代の震災である、というのが大きい。情動政治とは、ポスト真実の時代において、事実や真実を無視して、単純にどう大衆の情動を動かしたかで票を集められるということ。それはトランプが勝った手法でもあり、『情報参謀』に書かれている自民党メディア対策を見る限り、日本の政治もそうなようですね。アニメオタクネット右翼になりやすいという説をぶちあげて炎上したことがあるんだけど、情動や感覚への刺激を中心としたコンテンツに親和性が強い人は、情動政治の影響を受けやすいという相関があるんだと解釈するべきなんだと今になると思う。

杉田 欧米は少なくとも日本より先へ行っているだろう、近代化が進んでいるだろう、という人類に対する安心感を持っていたら、じつは安倍や橋下のようなジャパン・スタンダードこそが世界のフロンティアだったと……。

藤田 皮肉なことですけどね。震災後文学の中でも、倫理や正義感が危ないものに使われかねない、という危惧が盛んに描かれていた。確かに、正義感や倫理観を刺激してコントロールするような、炎上商法やら炎上政治が蔓延っている時代です。加藤典洋さんも最近の『世界をわからないものに育てること』で、みんなが情動的に一つの方向へ、倫理や正義の名のもとに行きやすくなった「感動社会」を震災後の大きな特徴として見ていた。では、そこにどう抗うか。かつてのファシズムとは異なる二一世紀型のファシズムのようなものに、どうやって抵抗するか。
情動政治に対しては論理的な啓蒙は効きにくいでしょう。気持ち的に安心したいとか、不安を解消したい、幸福になりたいという方面からアプローチしなきゃならない。真偽や事実ではなく、「気持ちよさ」を優先してしまうという感性の次元に揺らがしていかなければならない。『シン・ゴジラ』って、すごく情動にアプローチする作品で、だからこそ、この時代においては有効な毒にも薬にもなりうる、そこが重要だと思ったので『シン・ゴジラ論』を書いたところはある。

藤井 オタクってすごい情動的な存在だったと思うんですけど、震災後あたりから徐々にそれが一般化してきた感覚があります。二〇一六年は『シン・ゴジラ』とか『君の名は』とか、あるいはポケモンGOとかプレイステーションVRとか、最近のヒットするものって、もともとオタクたちに需要があったコンテンツが一般的に普及しただけではないのか。例えばドラマの『逃げるは恥だが役に立つ』が最近はブームですけど、あの「恋ダンス」が流行った背景も、アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』の「ハレ晴レダンス」がネットを通じてブームになったことの延長線上にある。VRは『電脳コイル』や『攻殻機動隊』などの想像力です。あと『君の名は。』の聖地巡礼。これももともとはオタク的な消費活動だったわけですよね。このことは注目すべきことだと思います。

笠井 全然関係ないけど、聖地巡礼が今年の流行語らしいがメッカは別に混雑していないとか、中田孝が言っていたな。『君の名は。』がらみの聖地巡礼ブームは、ハサン中田の耳まで届いたらしい(笑)。

杉田 先ほどの『サウルの息子』や『FAKE』はドキュメンタリーフィクション、あるいは必然性と偶然性、科学と宗教などの境目が判然としなくなり、モザイク状になった世界を描いていて、ポスト・トゥルース的かつポストヒューマンな時代の最先端を行っていると思うんだけど、どちらも最後に、ある種の宗教的な「奇跡」が訪れるんですよ。虚実皮膜な感じで。それをどう考えればいいのか。
 中村文則の『教団X』も、仏教・キリスト教・天皇制・民間信仰などを宗教混合させたメタ的な宗教の上に、さらに量子論や素粒子論、宇宙物理学などの科学理論を上乗せして、ポストヒューマン時代の新しい物語を語ろうとするわけですね。村上春樹はかつて『ねじまき鳥クロニクル』の後にオウム真理教に対する物語論的な対決を試みたけど、中村さんはそれを継承しているとも言える。『教団X』は、現代の最先端と切り結んでいるようにも見えるし、オカルト疑似科学に撤退しているようにも見える。その辺はどうなんでしょう。

藤井 中村作品が表現していることはすごく分かるんです。『教団X』では宗教的な対立を描いています。それこそ片方の宗教はオウム的なもの。もう一方はかなりゆるい宗教で、先ほど杉田さんの言っていた様々な宗教や科学的知見を混合させたような宗教集団です。またさらにはファシズム的なものに発展するような日本に蔓延する協調主義的全体主義をも対置している。ちなみに協調主義的全体主義は震災後には強く感じたものでした。先ほどの情動によるカスケード現象と似ているかもしれません。オウム的な宗教と協調主義的全体主義は人々を安易に自己規定して気持ちよくさせてしまう「悪」として描かれ、それを乗り越えるために別の宗教を描いているわけです。
そして『教団X』の最後では、オウム的な宗教は崩壊し、対比されていた宗教は教祖を変えて生き残る。そして「すべての多様性を愛する」という言葉によって最後を締めくくっています。「善」とは何か、「悪」とは何か、またその中で生きている「私」とは何か、を考えている作品だと思います。
ただ、それで大丈夫なのかという感覚も僕のなかにはありました。それだと他のカルトな宗教と同じようなことになるんじゃないか、ということです。結局あれも、特定の宗教が正しい、というように読めてしまうんですよね。本当に多様性を大事にする宗教ならOKだ、と。ただ、それだとオウムなどと同じ過ちを犯しかねない。もちろん中村文則自身も、そうした宗教性を完全な答えとして示しているわけではないと思いますが……。

藤田 「宗教」をテーマにしてしまうことは分かる。理不尽や大災害や死や苦しみがあったときに、宗教的なものに救済を求めてしまう。そういうふうに人間の心や脳の仕組みができていること自体は、やむを得ないことじゃない? たとえば玄侑宗久さんの『光の山』は、放射性物質を集めて福島へやったらピカーっと光って、お坊さんが「大丈夫だ、大丈夫だ」と言って「だいじょうぶだぁ教」みたいになって、放射能を浴びに全世界から人が来て観光地化する話。ブラックユーモアなのか本気なのか分からない作品。あれに被災地宮城県の雑誌が震災文学賞をあげてしまうわけじゃない。あれはどう思う? 『無常という力』を読んだら、放射能を楽しむみたいなことも書いてあって、結構マジなんじゃないかと心配なんだけど。

藤井 『光の山』は良くも悪くも教科書的な震災後文学でしたね。

杉田 玄侑さんは神道系の学者さんとの対談で、放射性物質八百万の神になり得ないのか、みたいな話をわりとガチで話していて、不思議な過剰さもあるんですよね。いい意味で狂っているというか。

藤田 古川日出男も、「被災地で被爆しなければならない」という神の声みたいなものに呼ばれて現地に行ったら、自分の小説のキャラクターが呼んでいたという、昔のライトノベルのあとがきみたいな痛い(がゆえに、切実さを感じさせるような)小説を書いている。それをどう考えていいのか、未だに単によく分からない謎のしこりのように、僕にはある。
一般論として言えば、宗教的なモチーフが急に震災後には出てきた。『想像ラジオ』もそうだよね。これまで久しく扱われてこなかったような、宗教的・霊的な次元に、現代の作家が踏み込んで、良くも悪くも「新しい」表現がされているのが現在だと思う。
ところで、『教団X』に戻るけど、宗教に対抗するのに宗教を描く、物語に対抗するのに物語を描く手法で本当によかったのだろうか。村上春樹が『1Q84』で宗教をテーマにしていたけれど、彼の戦略は「物語に対抗するには物語だ」っていう手法だよね。それに対して、「物語」ではなくて「事実」などが大事ではないかという批判があったのを思い出してます。

藤井 それが『私の消滅』のモチーフなんだと思います。僕もだから、手放しに『教団X』を誉めることができなかった。中村論を書くのに、結構時間がかかったんです。論を提出した時も藤田さんに「もう一歩ほしい」と言われました。
僕が中村文則を選んだのは、彼は直接的には震災を描いていなくて、僕自身も震災に対するリアリティが全然なかったからです。逼迫感とか切迫感はまったくなかったですね。そういう気持ちに忠実に、何かを書いてみたかった。

藤田 『君の名は。』で、神社のパワーで奇跡が起きてタイムスリップしちゃうのはどう?

藤井 ダメです。『君の名は。』は結構冷めて観ていました。二人の間に起きた奇跡が世界を救うとか、「結局こういうオチか」といった感じです。中村文則は『教団X』のあとに更に『私の消滅』を描いて、自分が提示したメタ宗教をも乗り越えるような気概を感じました。それは決して楽な営みではないでしょう。かつて様々な知見を混ぜ合わせてギリギリのところで作り上げたものをまた自ら壊そうとしているわけですから。しかし、その書き続ける姿勢にこそ僕は中村文則作品に希望を感じ取ったのかもしれません。「書き続ける」といった運動こそがもしかしたらその宗教すらも乗り越えられることなのかもしれない。そうしないと、最後に書いた結論が固定化されて、結局は安易な「善性」を標榜することになってしまうので。そういったことが物語レベルでも製作レベルでも見られるのが、中村文則という作家だと思います。ですが『君の名は。』は、少なくとも物語レベルにおいてはそんな苦しみが感じられない。入れ替わりといった主体分裂の表現は現代性を感じましたが……。
ただあのデジタル映像はよかったと思ってしまう自分もいました。もちろん、かつてのデジタル加工をしていないアニメと一緒くたにしては絶対にダメです。だけど多くの人は「アニメ」とか「ポスト宮崎」などといった言語的なくくりによって、両者を同等に見てしまう錯覚が起きていますよね。「今までのアニメとは違ってすごく映像が綺麗」みたいな。根本的に違うんだからそりゃそうだろうと思ってしまいます。『君の名は。』が流行った理由としてはそうした錯覚と、ツイッターとかLINEが普通の世代からすると、簡単に発信しやすいということがあるんでしょうね。絵がきれいだったとか、「ストーリーがおもしろかった」とか。ストーリーとか単純にループしているだけなのに。

冨塚 『君の名は。』が一番まずいのは、男女がお互いが入れ替わっているから、厳密にいうとあれは他者ではなくて半分は自分なんですよね。たぶんそれが多くの観客に受けた原因の一つだとは思いますが。つまり、自分のことを好きなわけじゃないですか。すごいナルシシズム的な作品だと思った。これは、先ほどの成人の幼児化、という話とも関係しています。感情しかなくて、自分しかないから、自分と同じものを共有している相手を好きになってしまう。『言の葉の庭』や『秒速5センチメートル』などの過去作では、「運命の相手」幻想は最終的に退けられます。多くの論者が指摘する通り、柄谷『日本近代文学の起源』の風景論とあまりにも重なる、ナイーブな私小説と同種の要素を感じるとはいえ、最終的には他者の視点が入ってくる点が魅力だったと思います。対して、『君の名は。』は、新海誠の今までの仕事をひっくり返してないか。そこが受け入れがたかったですね。

笠井 山田正紀はもう全面否定。「あんなのは電通アニメだ」って怒っていたよ(笑)。

藤田 新海誠はもともと、セカイ系的な、ナルシスティックな、快感原則の世界に閉じていくタイプの作家なので、僕としては正直、『君の名は。』の以前とあまり変わっていないと思った。ただ、『君の名は。』は、震災を快感原則の世界に封じ込めている。そこが問題だと思う。それに対しては、『シン・ゴジラ』の方が現実界的なリアルに触れる感触があった。ただ、『君の名は。』の構成と編集はすごい。スマホ世代のリアリティの感覚を体現していて、そこは重要だったと思う。『シン・ゴジラ』もスマホで撮影した映像を随分使っていたけどね。これは渡邉大輔さん言うところの「映像圏」的な分析が必要なところだと思うんだけど、ヒットの理由のひとつにそれがあるのは確実。

笠井 『君の名は。』の男の子と女の子の人格が入れ替わってしまうという設定、あれは大林宣彦の映画『転校生』(1982年)が下敷きになっている。『同級生』のお父さん役は尾美としのりという人なのだけど、彼はNHKのテレビドラマ『あまちゃん』(2013年)で、主人公の能年玲奈のお父さんの役もやっているんだよ。『あまちゃん』も、最後の方は震災後の日本を描いているよね。『この世界の片隅に』のヒロインの声優も能年玲奈(のん)がやっているわけだし、そうすると、『君の名は。』と『この世界の片隅に』は、ある意味で、『転校生』の尾美としのりという父親の、二人の娘的な存在が枝分かれして主役をつとめている、とも言えます。
ハフィントンポストのインタビューで新海誠は、3・11以前と以後の時代感覚の断絶を強調していました。オタク的な純愛と喪失の物語には、もはやリアリティがない。これからは世界を救い恋愛にも成功するリア充の物語だと。こうした意味で『君の名は。』のリア充路線は、新海なりの3・11総括の産物なんでしょう。

* 『この世界の片隅に』をめぐって

冨塚 たとえば『この世界の片隅に』は、震災ではなく広島の原爆の話ですけど、結構時代考証をやって、過去は変えられない、という大前提でつくられています。歴史改変物みたいな考え方とは違いますよね。私にとっては、そうした『この世界の片隅に』のほうが好みでした。

藤田 あれ、リアリズムだとかみんな誉めているけど、あんな主人公がいるわけがないというところにみんな目をつぶるのはなんなの? ほかの部分のリアルな考証があるのに、すべてあんなに受け入れるキャラクター造型には「リアルな考証」があるとは思えない。そのリアリティの断層の利用の仕方が気に食わないんだよね。リアリティないじゃない。あんな家事ばっかりやらせていたら、絶対に『楢山節考』のババアみたいになるはずなんだよ。戦争が起きていて受け入れて、楽しく生きていますみたいな人を現代に描くころの意図を考えるに、そこが気になる。震災で被災して、放射能が降っていて、周りで人が死んでいても、家事やってのうのうと生きていなさいよ、という話でしょ。でも、肝心の「生きる」主体に大きなフィクションがあり、それを覆い隠すような構造になっている。腹立たしい。

冨塚 「この映画は反戦映画ではない」と批判している人もいましたね。私はあの映画にそんなツッコミを入れることの意義はよくわかりませんでしたが。

笠井 反戦じゃなくても全然構わないんだけど、見える光景が一面的すぎて気になった。突然訪ねてくる幼なじみの水兵がいるでしょう。あとは義理の父親ね。この人は工場で戦闘機のエンジンを開発していたらしい。ああいう人たちの視点からは、戦争はヒロインと違った見え方をしていたはず。なにしろ戦争は仕事ですから。一般の日本人にとって戦争とは、なによりも儲かるものでした。同時に面白いもの、最高のエンターテインメントでもあった。自分の頭の上に爆弾が降ってくるまでは。いいか悪いか、その評価はともかくとして、ほとんどの日本人が戦争を儲かるもの、面白いものと捉えていた事実をないことにしてはいけないでしょう。リアリズムを標榜するならなおさら。しかし過剰にイノセンスなキャラクターを主人公として設定することで、戦争は天災みたいなものだから仕方ない、日常生活を淡々と生きることが貴重なんだ、という方向に観客は誘導されていく。それは歴史の完全な偽造とは言わないけれども、かなり一面的な見方です。作者が戦争を一面的に描き、観客がそれを感動とともに受け入れる。このようなシステムには納得できないところが残ります。

藤田 そうですよ。三・一一の後に、『方丈記』や「無常」の話が大量に出てきたんですよね。第二次大戦の時も小林秀雄とか、色々な人が戦争を「無常」によって天災のように受け止めた。しかし、自然災害と人災は違うわけです。戦後はその反省から始まったはずだった。人災を無常として受け止めていたらみんな無責任になるし、止められるものも止められなくなる。丸山真男山本七平堀田善衛たちはそう考えた。その知的な蓄積はなんだったのか……。
東日本大震災と原発事故があり、再び戦争が起きるかもしれないと言われているときに、無常観的な世界観として人災を受け止めるものを描くのは、戦後の知的反省や蓄積を無にしている感じがする。僕は嫌だった。

冨塚 それは一人の生活者が、当時の環境下でそういうふうに暮らしていたかもしれない、という一つの視点じゃないですか。すずさんがそう受け取ったからといって誰もが戦争を無常として受け止めて良い、というメッセージを発しているわけではないですし、私は別に何ら問題はないと思いますけど。

杉田 僕は『この世界の片隅に』はかなり好きです。2016年にこの映画があってよかった、救われたと思った。『シン・ゴジラ』や『君の名は。』は、並行世界や多世界解釈が、東京中心のマジョリティたちの自己肯定したい、という気分を正当化するためのギミックとして使われている。それが不気味でした。震災後の世界と早く和解したい、鬱屈や亀裂を埋めたい、という歴史修正エンタメだと思った。「すばる」(2016年12月号)に掲載した『君の名は。』論で、僕はそれを「セカイ系」から「ワカイ系」へ、と名づけたんだけど、全然流行らなかったですね。
それに対して、『この世界の片隅に』は、平行世界(歴史修正)の話ではなく、「この世界」の一回的で苛烈な唯一性を受け入れていく。そしてすずさんの「絵を描く」という生存の技法によって、「この世界」の動かし難さを多重化=拡張していく話だと思う。その意味で『シン・ゴジラ』や『君の名は。』とは根本的に異なる原理があるのではないか。それは素朴実在的な意味でのリアリズムとも違うと思う。
それから、そもそもすずさんには、ある種の脳の障害があると思うんだよね。

藤田 あの映画を、「すずさんという一人の人間が生きていたということを描いているのだ」という人がいるけど、そもそも論として、アニメのキャラなんだから、生きてないでしょう。作り物ですよ。「すずさんが受け取った」のではなくて、それも作り手がそう意識的に描いているのだから、批判的な検証の対象にするべきでしょう。
それとは別に、杉田さんがすずさんを障害者に認定して擁護するのはずるい気がする。障害者だから思想的に問題があっても看過すべきだっていうロジックを使おうとしている。しかし、作中で明示的に障害者だと描かれてはいなかったですよ。

杉田 いや、すずさんが終始あんなにぼんやりしているのは、ものすごく受身的で、流されやすくて、受動的な存在だけれども、それによって戦争へと至っていく「この世界」に対する人間の根本的に無力さを強調しているのではないか。それをひとまず受け入れながら、しかし絵を描くという技術によって現実のレイヤーを(メタ化ではなく)重ね描きし、多重化して、生き延びる道を試行錯誤していく。それは素朴リアリズムではないけれど、普通の意味でのメタフィクションでもない。あの映画の中では誰も「この世界」のメタには立てないわけだから。メタではなく「片隅」を強いられていく。たとえば、東日本大震災の時にも、避難所で発達障害自閉症の子どもたちがどう生活していたか、というルポルタージュもあったりしましたよね。

藤田 自閉症とかだったら、すずみたいに社会生活はうまくいっていないでしょう。

杉田 そうとも限らないよ。それにすずさんの場合、あれはある種の知的ハンディゆえに認識のゆっくりさか、何らかの認知的な障害なんじゃないかな。

藤田 そうなのかなあ。

杉田 さらにそれをコミュ障っぽいといわれる能年玲奈さんが声を吹き込んでいるところが、アニメ映画としてすごくよかった。つまり、「片隅」感が二重三重になっているんです。正直、僕は原作のマンガ版よりも、アニメ版の方が好きだった。アニメの能年さんの「声」によって、はじめて原作マンガの意味がわかったと思えた。これは「手」と「声」の映画だったんだと。
それと、広島の呉市が舞台であることがポイントなわけです。呉って軍港だから、たんなる「可哀想で悲劇的な犠牲者」の象徴にはなりえない。敵地に武器や兵器を送って、占領したり殺したりする拠点なのだから。こうの史代さんは、かつての『夕凪の街 桜の国』(2014年)に対する批判をじっくりと吟味して『この世界の片隅に』を描いたと思う。ドキュメンタリー監督の土本典昭は、水俣という場所は公害の犠牲になったけれど、同時にチッソという会社はアジアなどの海外にどんどん公害をばらまいてもいた、加害と被害が重層的に捩れているんだと。そこから水俣病の映画を延々と撮り続けたわけだけど、『この世界の片隅に』にもそういう重層的な認識が明らかにあると思う。

藤田 どうなんだろう、まずあの世界に「メタ性」はあると思う。作り手と観客は作品世界の外、メタ的な次元にいる。その上で、絵を書く作中の人物の行為は「重ね描き」「多重化」ではなくて、アニメを製作する行為と入れ子になっているように思う。それを現実に移し替えたら、戦争が起きていても絵を書いてPixivに投稿し、アニメ見て萌えてやりすごせ、という話になっちゃう。

杉田 「絵を描く」ことは、極限状況の中で生きのびるための技術(テクネー)そのものだよ。荒井裕樹さんが障害者アートを健常者の鑑賞から解き放って「生きていく絵」と呼び直しているけれど、そういうものではないか。そもそもあれはアニメに対するメタ構造というより、絵画/マンガ/アニメなどを重ねて、戦争という現実の圧倒的な非現実感をズラして、襞を作っていくわけだから。

藤田 戦争がどんなに起きていても、どんなに悲惨なことが起きていても、無視しようと。女性が風俗で働くはめになっていても、全部無視しようということになりませんか。社会に起きている問題や、巨大な状況を無視して、「絵」や「芸術」の世界に逃避し、耽美的な態度でやり過ごすっていうのは、どうなんだろう。

杉田 いや、逆でしょう。どんなに徹底的に無力な立場(片隅)に置かれてすら、「この世界」に対する何らかの反撃と抵抗の方法があるんだよ。たとえ全体としてのマクロな戦争状況を変えられなくても(現実に対する戦い方を社会批判や社会変革「だけ」でイメージするのもおかしいと僕は思う)、人はこんなふうに倫理的に、苛烈に、しかも楽しく幸福に生き延びることができると。あの映画はそういう臨界的な倫理の可能性を開いていると僕は思ったな。

冨塚 いまの杉田さんの話でいうと、私の坂口恭平村田沙耶香についての論は、現実がでかくて変えられなくて、自分の小さい箱庭の中で想像力でなんとかしようというモデルなので、形式的には同じかもしれません。やはり現実を変えようという意識はもちろんあっていいのだけど、私自身がまずそういうのに乗れないんですね。すずさんにしても、坂口さんや村田さんにしても、現実を変えることへの関心よりは、現実はどうしようもないけど生き延びなければいけないからどうしよう、というところから小さい世界をつくっていくという方向にいっているのではないか。

藤田 しかし、すずさんが生き延びたのは運でしかないでしょう。ただの運だよ。

冨塚 精神が病んでも自ら死なないためにどうするか、という話ですよ。

笠井 坂口安吾に『真珠』(1942年)という短編小説がある。真珠湾攻撃のときに特殊潜航艇の特攻隊に参加した軍人を想像する話なんですね。坂口安吾とおぼしき語り手が、太平洋戦争の対戦のとき小田原にいるわけですけど、そこに「がらんどう」というあだ名の床屋の親父がいて、その親父にはすごくヌーボーとした、まるですずさんのような性格の妻がいるんだ。「何か戦争がどこかで始まったようですね」とか、その奥さんはヌーボーと口にする。まさに頭上に爆弾が振ってきてもまだ茫然としているような、人生の脈絡とか何かがほとんど理解できないような、そういう日常性の世界で存在している人がいる。
吉本隆明の「大衆の原像」ってそういうものだよね。魚屋のおかみさんが魚を毎日さばいて売っているように、余計なことは何も考えない。そういう大衆に対して丸山眞男みたいな啓蒙インテリは、市民として知的に引き上げようした。しかし吉本は「そんなことをしても無駄だ」と批判した。その「がらんどう」のおかみさん的な、すずさん的な存在形態が知的に上昇することよりも、思想的に自立することが問題なんだ、というのが吉本の自立思想になるわけですね。
しかし一九八〇年代になって、結局「がらんどう」のおかみさん的、すずさん的な民衆も普通に『an・an』に載っているような服を買えるようになった、それは素晴らしいことではないか、と吉本は言いはじめた。それを読んで僕はなんとなくがっかりした。『an・an』に載っているような服を着たからといって、大衆が思想的に自立したわけでもないと思う。吉本がそれをよき兆候として全面肯定したというのは、どうなんでしょうね。
つまり、そうした「大衆の原像」みたいなものをどの観点から語るか、という問題だよね。吉本の場合は、自分は知識人だという自覚はあるわけだよ。では、『この世界の片隅に』の原作者や監督は、どの立場からあのキャラクターを描いているのか。観客はどの立場からそれを見ているのか。義理のお父さんとか、下士官クラスの人もいるわけでしょう。どの立場で言っているのかが議論の前提として確認されるべきです。さらにもうひとつ、そういう知的なヒエラルキーがいまや穴だらけになって流動化している、という面もあるわけ。そういう幾つかのことをわきまえて話さないと、なかなか話は先にうまく進まないのではないか。

杉田 僕はたぶん、あれは徹底的にメタ(超越)がありえない世界として構成されていると思いました。そういう内在的で平面的な世界を人はどう生きられるか。それは「大衆と知識人」みたいな図式的な問いとは、少し違うのではないか。そもそも、吉本隆明のたとえば『最後の親鸞』などは、知識人だろうが大衆だろうが、誰もが平等に、生活と観念の分裂を抱えざるをえない、という話だと思うんですね。すずさんだってじつは、大衆であると同時に、現実から遊離していく眼差しも持っている。絵を描くことで生活から解離して、現実をズラしていくわけだから。吉本の親鸞論も、大衆存在のモデルを痴呆症(認知症)で考えたりしています。

笠井 でも吉本が『この世界の片隅に』を観ていたら、感動していたよね、絶対。「これこそ大衆の原像だ」とか。戦中の日常生活を描いた作品なんて、これまでもたくさんあったわけだよ。今井正の戦争映画とか。五十年代から六十年代の前半にはたくさん作られた。かなりあとですが、アニメでは『火垂るの墓』もありましたよね。
だけどそれらでは、知識人である作家が生活者としての大衆を描いているという視点ははっきりしている。日教組の教師が、子どもを連れて映画を見せる。それはすずさんレベルの小学生を知的に上昇させることだった。戦争はひどいものです、二度と起こしてはいけません、というふうに啓蒙する。今回の『この世界の片隅に』に関しても、作者が価値的な意味で劣っている者を見下しているという意味ではないんだけど、やっぱり上から見ている感じもある。とはいえ1950年代の反戦映画とは違うわけで、そこがどうもよく分からない。

杉田 社会的な階層でいえば、まずこれはダブル主人公ですよね。すずさんと義理のお姉さん(徑子)のキャラクターが対位法的に描かれている。すずさんは徹底的に受動的で、保守的な「嫁」として描かれているけど、義姉さんのほうはアクティヴで先端的なモダンガールです。結婚して家を出たけど、時計屋の旦那さんを失って、旦那さんの家族とも関係が悪くなって離縁して、店も失って、シングルマザーとして娘を育てるけど、最後は一人娘も戦争で失って……どんどんぼろぼろになっていく。しかしそれでも自立的な女性として気丈に振る舞い続けていく。
原作のこうの史代さんは、保守的で受動的に見える女性の不気味な怖さ、強さを一貫して描いてきた。映画の中でも、すずさんが二度くらい激怒するシーンがあります。焼夷弾が家の中に落ちてきたときに、それを見動きせずにぼうっと見つめていたと思ったら、突然奇声をあげて焼夷弾に食らいついて、自分の体が燃えてもそれに対する怒りをぶつけていく。それから玉音放送があったときにも怒り狂いますよね。受動性と怒りが一瞬の刹那に入り乱れていく。あれらは、僕らがそれほど簡単に共感や感動のできるシーンではないのではないか。ああいう不思議な怒りや、絵を描くことの戦い方が、根本的に現実を転覆し変革するものではない、と言われたらそれまでなのだけれども、震災後といわば新しい「戦前」としての現在、それを描いたということは、僕は現在的な美学と倫理の可能性を描いているんだと思いました。

笠井 絵を描くというのは、世界を対象化した上で所有するという行為ですね。この点からすれば、すずは「知識人」の側に属するキャラクターです。爆弾で右手を失うのは、世界を対象化する手段を失い、距離を置いて世界を捉える可能性を奪われたということ。すずがぼんやりしているのは、絵を描くことと表裏です。右手を失って初めて、世界との距離が消滅し、世界と即時的な関係に入らざるをえなくなる。ようするに「大衆」になる。この切り替えに、すずというキャラクターの秘密があるように思います。倫理にかんしていえば、八・一五の怒りを忘れないすずが、せっかく手に入れた生卵を占領軍の米兵にぶつけて捕まって、ぼうっとしているからしょうがない、ということで釈放される。そうした終わり方だったなら、僕も納得したでしょうね。

藤田 「現実」について、「メタ」や「ズラす」という話が出たので、「現実」をどのようなものとして認識するのかという話をしたいのですが、僕は二〇一一年以降の日本は、『一九八四』的な多重化した状況だと思う。冲方丁さんという福島に住んでいる作家さんは、震災後に北海道に脱出する差異に書いたエッセイで。現実が複数化して多重化してしまったという感慨を書いている。その多数化した現実を書く手法としてSFがあるかもしれない、と言っていた。純文学だと、上田岳弘さんや滝口悠生さんが、そのような複数の個人による現実が多元的に組み合わさった「諸‐現実」的な世界を描くことに成功しているように思う。放射性物質は安全か危険か、原発はコストが安いか安くないか、そういうものがどっちとも判断がつかないから、「現実」を同時に多重的に複数的に見るように、僕らの思考や認識も変化したのではないか。複数の現実や拡張現実的な世界があるというのは、杉田さんの言うようにポジティヴなことではなくて、ネガティヴな事態によって、強いられた結果なのではないかと……。

杉田 いや、それは逆ではないですか。つまり現実は確かに真偽や善悪がモザイク化しているけど、むしろ、「この世界」それ自体は唯一的で圧倒的に動かしがたいものとして在る。そういう感じじゃないかな。

藤田 動かしがたい現実があるとしても、どれを「特権的な現実」と判断するのかは個人の主観でしかないわけですよね。「これが現実だ」と思っているものが、人によって違う。そういう人間が無数にいる状態の全体像を理解しうるかというと……

杉田 例えば放射性物質健康被害については解釈が割れるけれども、そもそも原発政策や原子力という技術・資本をめぐる動き自体は動かせないし、どうしようもない。つまりポスト・トゥルースの時代とは、解釈による現実感の分裂は統合できないけど(リベラルネトウヨの歴史解釈が真っ二つになるように)、現実の歴史的な唯一性(変えられなさ)が極端に強まっていく世界なのではないか。吉本隆明加藤典洋がいう「不可逆性」もそういうことでしょう。かりに一国主義的に日本が脱原発しても、海外の色々な国が原発を持つわけで。

藤田 そこが違うのかな。原発政策や原子力という技術・資本をめぐる動きも、人間が作ったものだから、人間がなんとかできるだろう、っていうのが、僕の考えですね。実際、なんとかできると思いますよ。随分変わってきていますし。それは動かせない「現実」だとは思わない。
それとも、人間には知覚しえないけど存在しているはずの、「物自体」のような「現実」の話なのでしょうか。

杉田 物自体的な現実そのものはむしろ、絶対的に唯一的で動かしがたいものに感じられるんだけど――例えば世界中の資本の流動性や情動政治や極右化は歴史段階的にどうしようもない――、人々の現実解釈としては分裂して決定不能になって、身近な家族や友人とすらリアリティを分かち合えない。本当と嘘、現実と虚構がモザイクになり、決定不能になる「がゆえに」現実の物自体的な絶対性が不動に感じられていく。ポスト・トゥルースってそういう事態ではないかな。

藤田 歴史の発展が、不動のどうしようもないものだとは思えない……。むしろ、それは個々人の活動により動的に変化させていけるものなのではないでしょうか。一人が全体を一挙に変えれるとは言いませんが。原発事故についても、「物自体的な絶対性」が共有されているのかどうか、僕には分かりません。メルトスルーした燃料がどうなっているのか、観測して認識可能なのかどうか、どの規模の事故なのか……。

杉田 それは解釈のレベルであり、やはり現実は一つではないですか。一九九〇年代の多文化主義が崩れて、この世界がたった一つの、一回的で唯一的な現実へと収縮している。現実に対して手も足も出ない、という無力感のほうが強くありませんか。

藤田 現実が一つで解釈は複数なのか、解釈そのものが現実なのか、どちらが正しいのかの根拠がないような極限例に多くの人を触れさせてしまうのが、原発事故なんだと思います。データやファクトがないようなものにも、生活のために解釈を行われなくてはいけない。かつては抽象的で認識論的な議論だったものが、生々しい生活の次元で思考しなくちゃいけなくなった。

冨塚 基本的に今話されている意味での「現実」は単一のもので、それに対して「俺の現実」みたいなもの、つまり個々の解釈が複数存在する、と私は思いますね。単一の「現実」がなかなか変わらない、という強固な感じは近年非常に強くなっていると思います。ただ、それでもそれを何とかしてひっくり返そう、という発想は個人的にはあまりありません。現状ではそういった革命的転覆をどうやってもリアルには想像できないからです。ただ、では現状をそのまま肯定するのかといえば、そういうわけではない。私は、まずは自己とその周辺程度に限定して、局地戦のあり方を考えたい、という立場ですね。

杉田 いや、変えられなさそうな一回的で唯一的な現実があるからこそ、それを変えねばならない、たんに多数の解釈を並べるのではなく……というのがマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』だったと思う。その辺、僕は微妙だな。そういうリアリティを構成不可能な「この世界」それ自体の唯一的な一回性に対峙しているという点でも、『この世界の片隅に』は(リアリズムではなく)「リアル」じゃないですか。

笠井 いま杉田さんが言っているのは、以前鈴木謙介が「宿命」とか言っていた話と関係があるのかな。

杉田 難しいですね。『この世界の片隅に』の世界観は、確かに、小林秀雄保田與重郎が直面していた宿命論に近いのかもしれない。しかし戦時下の小林は「動かしがたい歴史」を美学的に詠嘆してしまったけれど、『この世界の片隅に』の戦い方はそれとは微妙に違うのではないか。あるいはまた、宿命論的な現実への直視を怖れるからこそ、平行世界(歴史改変)へと逃げるというパターンもあって、『シン・ゴジラ』や『君の名は。』はそういう感じだと思う。

冨塚 先ほどの、私の立ち位置の話とも関わるかもしれませんが、「宿命」についていえば、ドゥルーズが『意味の論理学』などで好んで引いた、ストア派の運命愛に関する議論(運命を愛するが宿命は否定する)、に個人的には共感しますね。『この世界〜』のすずさんは、戦争や原爆をあくまで「運命」のレベルで捉えていたように見えました。

藤田 二人が言っている「現実」は、確かに「宿命」とか「運命」と言い換えたほうがいいのかもしれない。僕はどちらも実在しないものだと考えますが。正確に言うならば、主観の中に発生する「宿命感」や「運命感」についての話ですね。
政治的な問題で言えば、杉田さんが、トランプ当選の前に、トランプが当選する世の中が来るのを「現実」だと思っていましたか? 思っていなかったと思うんですよ。それ以前には現実だと思っていたものが現実じゃなかったということを経験したわけで、つまり、政治的現実って変わるんですよ。トランプ陣営と支持者たちは、コツコツと涙ぐましい努力を相当にしたわけですよ。かつてのオバマも……。

笠井 いや、それは逆でしょ。相関論だとそうなるけど、相関主義の外側に、人間の意識によっては変わりようのない現実がある、ということだから。相関主義批判はポストモダン相対主義を標的にしている。認識論的な相対主義は、なにをやっても同じだという価値論的な相対主義ノンポリの自己正当化に通底する。その意味で相関主義批判は、なにをやっても変わらないというノンポリの居直りにたいする批判を基礎づける、ということですね。

藤田 原発が具体的にどうなっているとか、戦争がどのぐらい起こりうるとか、そういうのは意外ともやもやしていると思うんですよ。確定したものにはなっていない。共通の物自体的な現実があるのかないのか、これはどっちも確かめようがない。ただ、共通の現実という基盤があって、そこから個人の主観が切り取るものの違うだけ、と考えるタイプの思考方法が後退しているから、「ポスト真実」のような現状になっているのではないかな。客観的な現実が共有されている、あるいは、しうるとすら思っていないのでは。

冨塚 それは現実じゃなくて、真実や真理の話ではないのですか。多様な解釈が可能であることと、複数の現実があるというのはレベルの異なる話ではないですかね。

藤田 人間が、感覚器官や思考などによって脳の中で「再構成」している「この現実」それ自体も、個々に異なる神経や脳によって作られていて、意識や主観がそう認識した瞬間に、もう既に解釈によって作られた虚構になっているんだよ。ありのままの世界を知覚していると思っているかもしれないけれど。身体や神経や感覚器官や脳による「解釈」を既に経た世界以外の「現実」を把握しうる方法が存在するとは思えない。間主観的に考えるしかないと思う。

杉田 相関主義って主観に応じて客観がある、つまり確実な客観自体はありえない、という相対主義だと思うけど、非相関主義は、主観とは完全に無縁で、影響関係のない物自体的現実があるということですよね。ただし、付け加えると、その唯一的で物自体的な「この現実」とは、因果関係や論理形式によって把握できるリアリズム的な「客観的現実」ではなくって、偶然的・非意味的に変化し続けたり、理不尽な絶滅や消失を強いるノンヒューマンな「この世界」なんだと思う。『この世界の片隅に』では、焼夷弾や地中に埋まって不意に爆発す不発弾などが、それを象徴するものだった。

(後半は3月18日掲載予定)