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祁答院町黒木817-4で整体してます。

【ココロの罠】

批判的なことはきちんと書かないといけないのかもしれません。前回【似非カガク】を書いたおかげで次のブログが書けなくなってしまいました。気がついたら2週間経っている!今月は書きたいこといっぱい書いて行こうと思っていたのに結局書けていません。書きたいことをどこかで止めてしまったのだと気がつきました。


前回書きたかったのは、エセ「科学」と言うその「科学」はどこまで本当なのかという点です。偉そうな先生も嫌いです(笑)。もちろん科学的な言葉を使うのであれば、科学的な検証方法に乗っ取って証明して行くことが必要です。ですが検証方法が今のところ見つかっていないものもあります。(別の機会に書きますが、スピーカーの音の善し悪しもそうです。)検証できないからと言ってそこに起きた現象がなかった訳ではありませんし、それを報告してはいけないということではありません。ただ、今の世界は科学(と経済)が一番偉いかのように振る舞っています。そして科学の言葉を借りてたくさんのことが語られる。誰かが面白がって何かを取り上げるとその説明を求められる。すると、ちょっと科学の言葉を借りて、同時に文学的な言葉を借りて、そこにスピリチュアルな表現を交えて喋ったりしてしまう。それが本になってしまったりする。偉そうな学者さんに突っ込まれる。それを解決するには、受け取る側も発信する側も態度を改めれば良いのではないでしょうか。問題は科学的な証明を欲しがるという点です。でも証明できないものも多い。きっとこれに理由をつければエセ科学になるのでしょうが、福島の田舎に住んでいた時に近所のおばさんが言っていて実感できた事実で、「お風呂のお湯は、温泉>薪>灯油>ガス>電気の順に柔らかい。」というものがあります。温泉が一番柔らかく電気が一番硬い訳です。これは実感できますが、証明できません。ここでお湯の「クラスター」とか言うとまずエセ科学になります。「分子構造が・・・」とかそんな説明にするからエセ科学になる訳です。ですが「不思議なことに」そう感じる。というだけならエセ科学とは呼ばれません。


 また、「なぜ」を追い求める道筋を「一つの原因」を求める道筋に置き換えてしまうことも問題です。一つの原因で何かが起きていると考えることは自然ではありません。ボクの本業である身体調整において、不調に対してまず問われることは「原因は何でしょう?」です。ですが、原因(と思われるもの)がすべてを解決するとは限りません。そもそも病気になった時にその原因に向き合って解決するかと言うとそんなことはないのです。実はほとんどの病気の「本当の」原因は判っていませんし、ほとんどは原因解決ではなく対症療法に過ぎません。例えば、命に関わらない病気の一つで、原因がわかっていると思われるアレルギー性鼻炎が出る人がいる。でも、少しカラダの調整をすると鼻炎は出なくなります。実際はアレルギーを無くした訳ではありません。きっとアレルギー検査をすれば、何も変わっていないでしょう。ではこのときの本当の原因は何なのでしょう。科学的にはアレルギーを遺伝的にまたは後天的に持っていることなのでしょうが、そんなものはいじらなくても解決してしまう。他にも以前は胃潰瘍だと言うと胃を切っていました。盲腸だと言うと切っていた。でも今はそんなことはしません。科学が本当に正しいことだけで成り立っているのであれば、技術の進歩や新しい手法などで対処法が変わる訳はありません。進歩と呼べるかどうかも疑問です。ですが言い方は簡単過ぎますが、「モノは高いところから低いところへ落ちる」これは変わらない。でもその後に続く様々な技術やそれを支える理論や技術は残念ながらそこまでの普遍性はありません。そして残念なことに僕たちは全てを見通すことはできないという根本的な問題も持っています。ですから、今起きていることを、時には熱く、時には冷静に見つめて、人に伝えながら本当のことを探し求めて行くという態度、答えはこれだけではないかもしれないと言う謙虚な態度が必要でしょう。



あ〜、スッキリした。