2006-04-29 あおぞら

■あおぞら(星野夏)
夏さん、しあわせになってほしい。読み終えて本を閉じ、心からそう思いました。
涙が止まりませんでした。
おじさんの目から見れば、文章は拙いし、行動は軽率で、思考は短絡的。こぅちゃんも、多分、すごく美化されすぎている。
そのなかで、過去の数々のショッキングなことに目を背けることなく、事実を事実として消化するのは、ましてや文章にするのは、大人でもなかなかできないことです。
ラストのこぅちゃん誕生日ライブにたくさんの人が詰めかけ、みんなが手をつないだ。これは夏さんにとってこの上ない救いだったのでしょう。これがあったから、この本はできたのだと思う。
人を信じることのむずかしさ、そしてかけがえなのなさを痛感されられた一冊です。
2006-02-10 元外交官が教える24時間でお金持ちになる方法

■元外交官が教える24時間でお金持ちになる方法(原田武夫)
メルマガで紹介されていたダイジェストが面白そうだったので読んでみました。
内容を一言で言えば、世界のお金持ちはどん欲に情報収集し日々トレードしている、というものです。
中身は至って具体的です。何時に起き、どこの何を見よ、という指南です。私も試しに一日書いてある通りに実行してみましたが、とてもじゃないけど体が持ちませんでした。
しかしながら、一部はとても機知に富んでいて、容易に実行できます。例えば、電車で月曜日発売の週刊現代、週刊ポストの中刷りをチェックせよ、それは今週のオヤジの羅針盤だ、とか、火曜と金曜は閣議関連の発表があるかもしれないので朝のニュースのチェックは必須、とか。
日中は職場で一時間おきにニュースや株価を携帯でチェックする、というのは非現実的な気がします。役に立ちそうなことを自分なりにピックアップして実践する、お金持ちになるヒントが書かれた本、ととらえるなら、結構いい本だと思いました。
2006-02-06 ねむの木の子どもたち
■ねむの木の子どもたち(宮城まり子)
■続・ねむの木の子どもたち(宮城まり子)
歯医者の待合室に「ねむの木」の展覧会画集がありました。ふとページをめくると、どれもすばらしく形と色彩が心にしみる絵ばかりでした。私はそれまで「ねむの木」という存在を知りませんでした。
「ねむの木」とはなんなのだろう、と図書館で検索すると、上記の文庫本が出てきたのでさっそく借りてみました。
「ねむの木」とは静岡掛川にある肢体障害児(者)の施設、というよりはオルタナティブなコミュニティ。そこでの日々の暮らしが園長・宮城まり子の視点で描かれています。
重い障害、発達の極端な遅れ、親の家庭の事情、という重荷を背負った子供たちが、徐々に、そしてやがて無防備なまでに心を開いていく様が美しい。
2006-01-31 スーツの神話

■スーツの神話(中野香織)
日経新聞連載「モードの方程式」の人がずいぶん前に書いた本です。図書館で目にとまりました。タイトルの「神話」が今となっては古くさいですが、とりあえず読んでみることにしました。
さいわいなことに中身はえせアナール学派風ではぜんぜんありませんでした。
男の正装が中性のひらひらから現代のツーピースに至るまでは「男はいかにあるべきか」という物語、それをめぐるモードの戦い、階級の相克があった。そのことがコンパクトに、かつ面白く書かれていました。
ただ、現代から過去に遡及して単線的に歴史が述べられているため、どうしても深みが足りない。思想面も文章が足りない。新書だから仕方ないのでしょうが。
2005-06-28 伊藤ふきげん製作所

■伊藤ふきげん製作所(伊藤比呂美)
あの伊藤比呂美が、女児を、3人も産み育てることになるとは、神さまのイタズラというか、業というか、輪廻というか。
これは思春期の娘(主に長女カノコ)との格闘の記録です。歴史は繰り返され、カノコは自分を持て余し、かといってそれを表現するすべはまだもてず、悶々とただ「ムカつく」を母に連呼し、ついには摂食障害に。かわいそうですが、どうすることもできない。
そんな娘に自分の過去を重ね合わせ、共感し、でもそれだけだと現実の生活が立ち行かないし本人のためにもならないから怒鳴りもするし説教もたれる。そして、あ、いま自分が言ってることはかつて自分に母親が言ってきたことだ、と気づいたりもする。
そんな悪戦苦闘の日々がとても爽やかに描かれています。爽やかな理由は、娘の今を全部肯定する、してやるんだ、という伊藤比呂美の不惑の覚悟が全編にわたって貫かれているからです。
母親が伊藤比呂美だということが娘さんたちにとって幸せなのかどうかは分かりません。親を乗り越え自立するのが大変そうです。娘さんたちには、是非自分の言葉を見つけてもらいたい、と切に願いたくなりました。
2005-06-27 ブラフマンの埋葬

■ブラフマンの埋葬(小川洋子)
こちら(俗世間)とあちら(人間の力の及ばない世界)の中間点に『創作者の家』があり、『僕』そして『碑文彫刻師』がいます。雑貨屋の『娘』は完全にこちら側の人間で、土曜日に恋人が街からやってくるのを心待ちにし、街へ繰り出すための車の免許取得に余念がありません。そんな場所へ、あちら側から『ブラフマン』が不意にやってきます。『僕』は『ブラフマン』を可愛がりつつ、『娘』のことも気になったり。
こちら=あちらの他に、深さ、というベクトルもあります。それは墓碑や石棺であったり、庭の泉であったりします。それらの描写には多くが費やされています。
こちら側の人間があちら側の深みにはまっていく、という作品が小川洋子作品には多いのですが(『薬指の標本』など)、この『ブラフマンの埋葬』では趣向を変えて、あちら側を眺めつつもこちら側に踏みとどまり、深みを静かに想う、ということをしています。
そういった微妙な位置取りを、あたかも自然に起きたかのように淡々と綴っていく本書は、一見地味ですが、実は非常によく計算された美しいフィクションだな、と感心しました。
2005-06-26 私が語りはじめた彼は

■私が語りはじめた彼は(三浦しをん)
まず、文章がしつこいです。しつこさの是非を問うのは、こってりラーメンの是非を問うのと同じくナンセンス。ただ、しつこいのです。
内容は村川という男のぐるりを描いた作品。彼は女はいつでも誰でもウェルカムで、でも相手の女はもちろん世間もそうではないので色々確執が起き、その確執に翻弄されるかよわき男たちの視点から事を描くという、かなり込み入った方法をとっています。
各章の筋は純粋に面白いです。著者が女性であることを忘れてしまいます。描かれているのは村川を我がものにしようとする女の姿ですが、そこには我々が普通考えている「愛」がすっぽり抜け落ちています。なぜ村川が好きなのか、どんなに愛しているのか、がきれいさっぱり抜けています。それは込み入った記述方法のせいで、描かれているのが第三者である男の目を通した女たちの姿だからです。だからなのか、人物描写は正直ぎこちないです。
で、結局どうなったの、というのが最終章ですが、ここはちょっと承服しかねます。村川は誰からも理解されなかったのではなく、込み入った記述方法が読者に(そして作者自身に)村川を見えなくしているだけです。


