Gerbera Diary

2011-02-13

池田 理代子著 「あきらめない人生」 海竜社

劇画家として大成(?)されたのちに、今は声楽家として活躍されている。ものすごい血のにじむような努力をされている方。

<45歳から音大目ざして受験勉強を始め、2年後には音大生となり4年間学生をする。>

このたった一行のことをするために、どれだけの強い思いがあり自分を賭けているか。想像を絶する。

過去(1991年)に出版されている『せめて一度の人生ならば』(海竜社)という著書を読んだことがある。その時かなり刺激を受けた。

そして本著。これは過去の雑誌や本に掲載されたエッセイをまとめたもの。その時々の池田氏の熱い思いがぎゅっとつまっている。

池田氏のすごいなあと思うところは、ご自分を直視してらっしゃるところ。そしてそれを書いていらっしゃるところ。


<私の懊悩の大部分は、自分が子供を産めない女であるという、その事実にあった。近年になって、人間の女(メスとしての)が閉経を迎えた後までも長寿を保つのは、生態学的にいってどういう意味があるのかという点にスポットライトが当てられるようになってきた。(中略)さて、動物の雌としてもはや何の価値もない存在だと自分を認識できたときに、私は、何と多くのものから解放されたことか。それならば、もう残る人生を、本当に好きなことだけやって暮らそうと、ある日卒然と思うことができた。それともうひとつ、どのように生き何をやっても、世間には(特に日本には)必ず悪く言う人間があるという事実も、私の背中を後押ししてくれた。(中略)「いったん諦めるところから、諦めない人生が始まる」のだと私は思った。>


長いキャリアに一旦終止符を打って(捨てて)まで、昔からの夢だった音大に入学した池田氏だが、その先どういう方向に進むのか。同級生の語る夢を聞くにつれ自分の年齢からくる限界というものを意識せざるを得ない。胸の締め付けられる想いをされていることが伝わってきた。また卒業後のレッスンもかなり厳しいものだそうだ。



全体を通して第1章がこころに残った。タイトルは<人生は一大ドラマ 後悔しない生き方、なんてない><「やろうと思えばやれたかもしれないのに、やらなかった」という悔いは、人生を終えようという間際にどれほど自分を苛むことでしょうか。>

迫力あるタイトルである。そしてこれは同感である。やってみて失敗したのなら自分自身納得する。しかしその時「やらなかった」ということは「後悔」する。過ぎ去った時間は取り戻せないのだからー。


『オルフェウスの窓』という池田氏の漫画があるのだが、そこに同様のフレーズがあった。それは以下のようなものだ。

<人間というのは決して幸福になるためにこの世に生まれてくる訳ではないということだ。人間は、ただこの生を生きるために生まれてくるのだ。それを誤解して、幸福になることが人生の意味であるかのように思い込むところから、すべての苦しみが始まる。幸福になることを目標に置くことは決して悪いこととは言わないが、自分が幸福になるためにこの世に生まれてきたのだなどとは、ゆめ思わないほうがいい。そうすれば過度な期待を抱いて苦しむこともないだろうし、不当な仕打ちをした他人を恨むこともなくなるだろう>


「いったい自分は何のために生まれてきたのか、何を為して生きるべきか」という問いに十代の頃は悶々と懊悩する日々を過ごされたという。哲学科に入学されたのも頷ける。二十代、三十代は恋も結婚も子供も、人間として女として普通の人が手に入れるものは何もかも手に入れるのが当然だとも思いがむしゃらに生きていた。しかし、四十代になったとき、そのように考えていた自分の不遜さに卒然と気づいたという。その不遜さが、自分をどれほど苦しめていたかということも。そして「自分の存在など、何ものでもない」という答えを出せたという。そこから他人の評価も気にすることなく、つまらないことを思いつめるのもやめ、失敗も恐れず進んでいけたという。


迷いをふっきり自分の定めた道をひたすら進んでいく姿がなんともいえずカッコイイ。

2008-04-04 哲学の流れ

木田 元著 「反哲学入門」 新潮社


著者の導きによって哲学の流れが手に取るようにわかる本である。

私は過去にそれを『ソフィの世界』で試みたのだがあえなく撃沈した。読み通せなかったのである。

しかし本書は違う。なにが違うか。ひとつには非常にわかりやすい。もうひとつは細部についてはあまり深入りをしない。それゆえに流れに安心して身を任せることができるのである。

ソクラテス以前の思想家の思索の考察からはじまって、ソフィスト、ソクラテス、プラトンアリストテレスと形を変えながら脈々と続いてくるもの。古代ギリシアでどんなことが起ったのか。ソクラテスのしたこと。キリスト教と切っても切り離せない哲学との深い関係(ニーチェいわく「キリスト教は民衆のためのプラトン主義にほかならない」との言葉があるくらい)。対立するプラトン主義とアリストテレス主義のどちらを国家(ローマ帝国)の正統教義として機能させ共存させていったのかなど。国家の歴史に深くかかわる様子がわかりやすく語られていく。実際本書は、編集者の疑問に答える形で著者が口述したものを文章におこしたそうである。

また、そのころの西洋哲学を日本人がどう取り入れていったのか。ここは主に福澤諭吉実学について述べられている。デカルトの近代的自我・理性について。これについてはかなりの紙面を費やされている。デカルトの「理性主義(合理主義)の哲学」から、時代と共に啓蒙主義・イギリス経験主義への変遷した様。カントヘーゲル→ニーチェとどのように「哲学」がとらえられていったのかなどなど。

哲学者たちの思考や知識の断片の紹介といった無機質的なものではなく、哲学者の人となりや思考形成の過程、著者の個人的感想も折り込みながら端的に語られていくので、哲学史という大きな流れによどみがない。すーっと流れにそって進んでいくことができる。

むしろそれで?それで?とどんどん著者の投げかける疑問にひきつけられるように先が知りたくなる。実際のところもっと詳しく説明したい場面もあるのだろうが、そこをあえて端折りながら話を進めてくれるので本筋からずれずにすむ。

それは全章に言えることで、ニーチェからハイデガーに至る過程とこの二人の思想について詳しく述べられておりとても興味深かった。著者独自の仮説あり人物像への思いありとまどいありで、哲学という硬質で難解というイメージをとりはらってくれる話の進め方で読者に非常にやさしいと思わされる。

個人的にはハイデガーに興味をもった。 人となりとしては?と思う場面も多々ありそうだが(実際ナチス加担していることからしても)、彼の業績は偉大そうである(『存在と時間』など著作を読んでみたくなりました)。

>>そしてハイデガーは、こうした哲学を基底におこなわれてきた<西洋>の文化形成の先行きに絶望し、その「破壊」を主張します。この小さな講演でも、「破壊とは、壊滅することではなく、取り払うこと、取り去ること、取り片付けることを意味します」「破壊とは、伝承のうちで存在者の存在としてわたしたちにおのれを語りかけてくるものへわたしたちの目を開き、それを自由に解き放つことにほかなりません」と述べています。

ほかのところでも彼は、自分の思索の営みをもはや「哲学」とは呼ばず、「存在の回想」(An-denken an das Sein)と呼んだりんだりしています。これをはっきり「反哲学」と呼んだのは、(中略)フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティでした。やはりハイデガーの強い影響を受けたジャック・デリダも、伝統的な哲学(「現前の形而上学」)の脱構築を提唱していますが、これも一種の「反哲学」と見てよいと思います。 

前にも述べたように、わたしも自分の共感してきたこれらの思想家たちの思想的営為を<反哲学>と呼び、いわばニーチェ以前の<哲学>と区別して考えてはじめて、それらをうまく理解することができましたし、非哲学的風土だと言われてきた日本で自分たちがおこなっている思考作業がなんでありうるかを納得できるようになりました。<<

哲学という大きな流れの中で、だれがどんなふうに思想していったのか。その転換点に立ち後世に影響を及ぼしているのは誰かなど著者の目を通して俯瞰して見ることができ とても面白い本だった。

そして本書を読んで<哲学>ということばの意味に新たなものが加わった気がした。

本書をマッピングしたら内容が定着するだろうなあ。。。(ぽそり)


以下覚書きとして。。。(著者の著作をメモ)

<哲学史について>

『反哲学史』(講談社学術文庫

『わたしの哲学入門』(新書館

<ニーチェや現代哲学について>

『マッハとニーチェ』(新書館)

『現代の哲学』(講談社学術文庫)

<ハイデガーについて>

『ハイデガーの思想』(岩波新書

『ハイデガー「存在と時間」の構築』(岩波現代文庫

『哲学と反哲学』(岩波現代文庫)

2008-03-27 「私というあり方」

中島 義道著 「「私」の秘密」講談社選書メチエ


私は思いっきり勘違いをしていた。

中島氏の著作によれば

<他者とは単に私ではない「他の者」ではなく、「他の私(alter ego)」、私と同類の者、具体的に言えば「私とは何か」という問いにこだわっている者です。それは、まずもって私と類似の身体をもつ者として私に現れる>

他者を<自分以外の者>と単純に思っていた自分が何もわかっていなかったと知らされた。

哲学という学問を学校で学んだことは一度もない。自慢でもなんでもない。ただ漠然とした憧れがあった。

それは高校三年生の時。一度も話したことのない人だったが、存在感のあるきりっとした女性がいた。歌がとても上手で有名だった。その彼女の進学先が某大学の哲学科。おもわずうっとりとした。そして、私がすきな漫画家池田理代子氏も哲学科卒。

「哲学」という言葉は自分にとってものすごく甘美であこがれだった。

思い起こせば、その素地はもしかしたらもっと以前にあったのかもしれない。それは本書を読みながらやはり高校生のころ『純粋理性批判』(カント著)などを読んでいたことを思い出したからだ。その後、哲学関連の本はぽつりぽつりと読んでいたと思われる。

話がそれた。

他者だ他者。これはサルトルもつかっていた。「他者」としての女性を発見したとかなんとか(すみませんうろ覚えです)。(『存在と無』で確かめたほうがいいですね 汗)。

ふと思った。

「他者」とはテニスや卓球でいえば自分と互角にラリーをする相手。力の程度が違いすぎてはいけない。そして共に「どうしたら勝てるか(強くなれるか)という問い」をもっている者。そんなふうにイメージした。

中島氏はこうも言う。

<こうして、「私というあり方」は「私とは何か」という問い自体によって、あらかじめ輪郭づけられている。それはまさに、「私とは何か」という問いをみずからの問いとして受け止めることのできる能力をもつ者です。それこそ、私にとっての真正の他者、すなわち「他の私」なのですから。>

このほかに本書のなかで印象深かったところを引用する。


>>理想的な私というあり方もまた、私の過去了解から出発する。「私はあのとき何をなすべきであったか」という問いは、現に私がなしたことからはじめて意味づけられます。「私はいま何をなすべきか」という問いさえも、未来に仮想的<いま>を設定して、そのときから現在を見返して、「私はその時何をなすべきであったか」という問いのヴァリエーションとして意味づけられます。

 「私はいま何をなすべきか」という問いの原型もまた、「私はあのとき何をすべきであったか」という問いなのです。過去に現に何をなしたかを想起できない者は、そのとき何をなすべきであったかの判断も下しえないでしょう。そのとき何をなすべききであったかという判断は、そのとき現になしたことではない別の何かであるから、現に何をなしたかを了解できない者は、なにをなすべきであったかも了解できないはずなのです。

 よって、想起能力のない者は「いま何をなすべきか」と問うこともできない。「いま何をなすべきか」という問いは、単に<いま>現にしていることではない別の何かなのではなく、次の<いま>である未来の時点に仮想的に身を置いて、そこにおける結果から見返して、<いま>何をなすべきかという複合的構造をもった問いなのですから。そして、このすべてが、過去に現になしたことを想起する能力をもち、かつ現になしたことではない別の何かをなすべきであった、という形式を原型にしているのですから。

 仮想的未来に身を置いて、<いま>を「想起の形式」でとらえ返すとき、「いま何をなすべきであるか」という問いが生ずるのです。<<

ちなみに本書は<「私とは何か」と問う者に向けて>書いていると述べる著者。いきなり読者を限定している(笑)。サブタイトルには<哲学的自我論への誘い>。

まだまだわからないことが多々あるが(身体への転換など)、本書は個人的にはとても興味深かった。

そして、「私とは何か」という答えのひとつに「私というあり方」を問う者であるとも答えられる。まず根源的自我というものにたどり着き、そこからすべてを説明するという仕方で解明されるものではなく、「私」とは<日常的に知っているさまざまな私のあり方のあぶり出されるものである>ということを思った。

過去を想起することからすべてがはじまるー。