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2008.02.06.

[][]定義に関する2つのアプローチ─「外延」と「内包」(Scoops RPG2月号によせて)

 Scoops RPG2008年02月号が公開されました。

Scoops RPG

http://www.scoopsrpg.com/

 今回も牡牛さんの『TRPG総論』が2本、公開されています。とても面白いです。ぜひ読んでみてください。

 詳しい感想はいつか「読者の声」などで送った方がよいかとも思っているのですが、とりあえず軽くコメントしておきます。

Aの魔法陣』における「外延近接戦」

 今回のコラム「あとがき」の部分に、『Aの魔法陣』について触れた部分があります。

<後書きめいたホンネ話>

 今回は、内容と伝達の両方で、かなり厄介な話にチャレンジしています。

 ソシュールの「恣意性と分節化」に似てる気もしますが、専門じゃないんで確信が持てません。

 もっとエレガントな説明があれば、ぜひ教えてほしいものです。

 元ネタは人工知能の本から考えていったもので、途中からAマホに繋がりました。

 「ノーアビリティってこういう事か。芝村すげえ、頭いいよ」と感動しましたが、でも、やっぱり第一に教育用なんだろうなあという気もします。


 話は変わって、馬場さんや高橋さんのTRPG論のなかには、学問とリンクさせようという主張があります。

 そのマジメさ(を感じさせる文章量)には個人的に好感が持てるんですが、これがあまり報われてなくて、効率わるいこと甚だしいです。

 その原因として、方法論・システム的なところでつまづいてしまったように感じてましたが、それをどうにかこうにか説明できたかと思います。

(牡牛2008)

 ここで『Aの魔法陣』の話がでたことについて、私はこれを(牡牛さんの論旨に照らし合わせて)偶然ではないと思っています。

 というのは、Aの魔法陣は、「日常言語」と「事前に定義された言葉」の両方を使って遊ぶゲーム、言い換えれば〈外延〉*1と〈内包〉*2によって成り立っているゲームだからです。

 別にそういうことを知らなくても『Aの魔法陣』は楽しく遊べるわけですが、デザイナー芝村裕吏さんが「Aの魔法陣の成功は『外延近接戦』にかかっている」という時、芝村さんは論理学における「外延」と「内包」の違いを意識していたはずです。というのは、そもそも「外延」という言葉は、論理学の専門用語以外に、ほとんど適用範囲をもたない、ほかではまず使われないことばだからです。*3

 製品版である『Aの魔法陣』バージョン3が発売される前に公開されていた、「プレイヤーズガイド」に、「外延近接戦」の基本的な考え方が述べられています。以下に引用してみましょう。

 認識とは、人がどう思って感じているかをいい、共通認識とはその重なる部分を言います。具体的に言えば、このゲームでは認識とは言葉の意味の取り方であり、共通認識とは、共通の言葉の意味の取り方になります。Aの魔法陣言葉遊びというゆえんです。

 このゲームにおける共通認識の作成とはSDとの言葉のやりとりで行われます。これを外延近接戦と言います。 名前の通り、遊びというよりも戦いです。

外延近接戦はSDの考え方や判断を中心にして、言葉をやり取りしながら自分の認識でずれている部分を修正して行くものです。他のプレイヤーに対して下した判断も認識の修正に使いますし、プレイヤーの行動宣言いかんによっては、SDすらも認識を合わせてくる可能性があります。

 認識が同じである場合、どの行動すればどうなるかは、自明の理になります。その結果としてプレイヤー全員が、究極的には同じ判断(最善の行動)を下します。これが、Aの魔法陣の完成形です。

ここで重要なのは

  1. 相手の認識を引き出す(聞き出す)
  2. 認識を修正して行動宣言する

というサイクルです。

 プレイヤーは積極的に外延近接戦を行い、その場での共通認識を早期に作る必要があります。(それがゲームの展開を有利にすることであり、目的でもあります)

目指すは、読心術者のごとく次々と相手の考えることを理解し、ベストと思われることを的確に行うプレイヤーです。これはすべてのTRPGにおいてのベストプレイヤーでもあります。

 Aの魔法陣は、ベストプレイヤーへの道を分かりにくくする全部の要素を取っ払って構築したゲームシステムです。プレイヤーは単に、

  1. 相手の認識を引き出す(聞き出す)
  2. 認識を修正して行動宣言する

というサイクルを念頭に置いて行動宣言すればいいようになっています。

 ルールを見て行動を決めるのではなく、状況をたずね、傾向を聞き、判断の方針を決めてください。

(芝村2004)

 ここで芝村さんは、〈ゲームマスター〉が念頭においている主題の文脈〔コンテクスト〕を、余計な知識によらずともうまく理解できる〈プレーヤー〉こそが「よいプレーヤー」である、ということを述べています。もちろんこれはTRPGの遊び方に関するアドバイスとして読むべきですが、これは日常言語における相互理解のメカニズムについてもあてはまる話ではあります。

 そして、牡牛さんは、TRPGに関する議論においても、厳密に定義された用語などではなく、むしろこうした日常言語をベースにしたやり方の方が適切ではないかと考えている。そのように私には読めました。

「外延」と「内包」について

 ところで、「外延」とか「内包」というのは、「ある単語を定義する際に用いられる2種類の方法」のことです。

 そしてこの2つ、論理学で言うと、どっちも「定義」なんですよね、実は。

 「定義」という言葉には、ほかにも「種差」による定義などもあるのですが*4、これは主に生物の分類で使われる定義ですので、除いておきましょう。


  • 「定義」
    • →「外延的定義」
    • →「内包的定義」

 こんな関係なわけです。

 そして次に、「外延」と「内包」の例を紹介してみましょう。数学の文脈で「外延的定義」と「内包的定義」を展開して見ると、それぞれこんな感じになります。

  • 自然数における「奇数(x)」を定義する。
    • 「外延的定義」:{x│1,3,5,7,9,11,13,15,17,19,21,…}
    • 「内包的定義」:{x│2n-1}(nは自然数

 数学において外延的定義は、基本的に「数列」のかたちをとります。

 私たちが数学的定義と聞いて思い浮かべるのは、むしろ後者の「内包的定義」の方ですね。でも、どちらもまぎれもない「定義」なのです。

 この2つの定義を、自然言語でもやってみましょうか。ただし、数学とは違い、かなり曖昧な感じになりますし、定義としての厳密さを求めにくくなります。

  • 日本語「りんご」を定義する。
    • 「内包的定義」:「バラ科リンゴ属に属する樹木、あるいはその果実。学名は Malus pumila var. domestica。」

つまり、

 「外延」では、あてはまる数を並べ“具体例を列挙する”ことによって「定義」する。(あれも「りんご」、これも「りんご」、あそこのアレも「りんご」ね。)

 「内包」では、具体例ではなく“共通する性質を示す”ことによって「定義」する。(「りんご」ってのはつまり、「〜〜」って条件に当てはまるもののことね。)

 と、このような違いがあるのですね。

 牡牛さんも別の言葉で言及されていましたが、前者の方の「外延」というやり方は、データを列挙してそこから定義を把握するという点で「帰納」的です。また、私たちの日常言語や実験科学の手法に近い、素朴ですがとても強力な理解方法です。

 それに対して「内包」は、単語ごとに一々意味を定め、その規則のもとにジャーゴン(=専門用語)に依存した会話をするという点で、とても「演繹」的です。これは、そのジャーゴンを知っている人同士では意味のズレが置きにくいかわりに、その言葉の意味するところを十分に理解していない人にとっては、非常に敷居が高く見えますし、またややもすると排他的な印象を与えかねません。八百屋に行って林檎を見るたびに「バラ科リンゴ属に属する樹木、あるいはその果実」と頭の中で考える人は、植物の名称に詳しい人だけでしょう。そして、「バラ科リンゴ属に属する樹木から生った果実を3つください」と口で言ってしまうと、これはりっぱな社会不適合者です。八百屋のおじさんは困ってしまいます。

 そして日常的世界では、そんなまだるっこしい「内包的定義」よりも「りんご」と聴いて、ロック歌手やApple社の精密機器や創世記をパッと類推できることの方が、とても重要になってきます。

 しかしその外延的な定義も、時には日常生活で支障をきたすときがあります。「りんご」の外延的定義をごらんになっていただくとわかるとおり、私たちが概ね考える「りんご」、すなわち「バラ科リンゴ属〜〜」には当てはまらないものも、時には「りんご」として直接名指されるからです。「え、君、今『リンゴ』って単語で、ビートルズの話してたわけ?」という混乱がおきかねません。

 「そんなの文脈で把握すればよいよ」って話なのですが、ことはそう簡単ではありません。対面状況でならともかく、それを非双方向的なメディアでやるのは、けっこう大変な作業です*5

牡牛2008『TRPG論の方法論的分析(2)』の要約(高橋編)

 さて、ここまでで整理した「外延」と「内包」の言葉でもって牡牛さんの今回の文章『TRPG論の方法論的分析(2)―ゲーム論者たちの死角』をあらためて整理すると、以下のような主張がなされていると言えるのではないでしょうか。

  1. 馬場秀和や高橋志臣といった「ゲーム論者」は、TRPGという非数学的なジャンルで「内包」が通用すると思っている節がある。
  2. しかし、多くのTRPGゲーマーはそのような形式的な言葉ではうまく理解できないだろう。彼らはむしろ日常言語に慣れ親しんでいる。そこを無視して、「内包」のような学問的な手法をTRPGの議論に持ち込むことにどれほどの実際的効果があるのか、疑わしい。
  3. むしろTRPGを論じるにあたっては、日常言語レベルで認識を共有する「外延」のやり方のほうが伝わりやすいのではないだろうか。
  4. そこで著者(牡牛)は、その具体例として列挙するデータとしてもっともTRPGに近いものとして「物語」に着目している。「物語」に即した議論を展開しつつTRPGについて論じていくことで、TRPGという遊びの輪郭をよりわかりやすく示せるのではないかと考えているのだ。

 納得です。

 私も含めて「ゲーム論者」とまとめられてしまいましたが(笑)、牡牛さんが述べた以上の見解については、否定するところがみつかりません。果たして「物語」が外延の列挙例として適切なのかどうかについては議論の余地が残るところだと思いますが、牡牛さんが「ゲーム論者」──私の言葉で言い直すと、「演繹的・内包的な手法でTRPGを論じるグループ」(長いな)──の手法的限界を、これまで冷静に指摘した文章であると私は思います。

 ちなみに、「ゲーム論者」というくくりを、“物語論者と対立する派閥”という定義*6でもって捉えた場合、馬場秀和も高橋志臣も、いわゆる「ゲーム論者」からは外れます。*7牡牛さんの文脈を組んで、「演繹的・内包的にTRPG論を展開している派閥」としての「ゲーム論者」であれば、あてはまるでしょう。そして、その読み方をする限り、「ゲーム論者」というカテゴリに属する仕事をしてきた私には、特に反論するべき点がみつからないのです。

では、なぜ高橋は内包的定義にこだわるのか

 最後に、牡牛さんの言ったような立場がありうることを、私は知っていました。

 しかし、その道はとらず、あえてこれまでのTRPG議論に関する概念整理をする方を私は取ったわけです。

 では、なぜ私があえて馬場秀和さんのような「ゲーム論者」の立場を私もとり続けているのか。その理由は2つあります。

  1. 定義の誤解からくる不毛な紛争の防止:馬場秀和・俵ねずみ・氷川霧霞など、コスティキャン論の派生としてTRPGのモデルを分析した各種論文を“誤読”したり、そこから要らぬ諍いを起こさせないためには、彼らが特定の単語にどのような意味を込めているのかを正確に捉えて読む必要が、どうしても出てくるため。
  2. 将来、他のゲーム論へ接続できるようにするための下準備:コスティキャンのゲーム論は、それ単独ではモデルとして脆弱だが、彼の論文を受けて展開された個々の主張の間には、ある種の一貫性が見られる。その「派閥」が共有している主張の妥当性を検証するためには、まず彼らが用いているテクニカルタームの整理を行うことが何よりも先決だと考えていたため。*8

 TRPGゲーマー“だけ”に語る対象を区切った場合、短期にポジティヴな効果を期待できるような理由ではありません。しかし、TRPGを論じるための足場作りとして、この2つはどうしてもはずせないものであると私は考えていますし、そのために今までTRPGに関する文章を執筆してきました。

 ところで私のこの作業を『Aの魔法陣』で喩えると、たとえば私が編纂した『ロールプレイング・ゲームの批評用語』は、まだ始まったばかりの国内TRPG批評における「A-DIC」だと言うことができます。*9

 『Aの魔法陣』は、まず〈プレーヤー〉同士が「A-DIC」と呼ばれる内包的定義の集合を読み、共有した上で、「外延近接戦」を含む〈セッション〉に望みます。ここでは、「内包的定義」の後に「外延的定義」を行う、という順序があるわけです。そしてこの2つの定義方法は、『Aの魔法陣』というゲームシステムを、相補的に支えています。(そのような意味で、『Aの魔法陣』は徹頭徹尾、「物語的状況を言葉によって定義し続けるゲーム」です。)

 「外延」と「内包」は相補的な関係にあります。そのうち「内包」的な言葉遣いを優先させている私は、おそらく「ゲーム論者」になるでしょう。

 しかし、先日私がUPした「クトゥルフと帝国」のプレイレポートでは、そのような内包的定義ばかりの文面であったにもかかわらず、それが「実際のセッションに関する具体的な記事」であったということで、望外の好評をいただくことができました。*10

 ここでは、牡牛さんの肯定した「外延」的なやり方がよかったから好評だったという風にも取れるでしょう。セッションの具体例を示して、「これがTRPGだ」「ほほうなるほど」というわけですね。

 しかし、同時に、このCoCレポートは、あくまでこれまでの私がガチガチに考えてきた「内包的定義」をチョロッと応用したために初めて書けたものでもあるわけです(だからこそ、多くの人に受け入れられて、むしろ違和感をもったのです(笑))。

 Aマホ的には、私のやり方は「ガチガチにA-DICを作ってから、それでもって外延近接をやっていく」というやり方になります。牡牛さんが提唱されているやり方は、「A-DICは“日常編”で済ませて、外延近接戦をたっぷりやっていく」というやり方になるでしょう。

 そのどちらにも、「外延」と「内包」は活かされており、どちらも欠かすことができません。

 その上で、私はやはり“外延的なTRPG論”が足りてないよな、と牡牛さんの文章を読んで反省する次第です。

 今年はセッションレポートや各TRPGシステムに関する実践的な研究も増やしていく予定です。それは、これまでやってきた「内包」的なアプローチの実践と、そのフィードバックにもなっていくと思います。

 「外延」「内包」だとか言い出したせいで、やや我田引水になってしまった感があり、牡牛さんに対して少し申し訳ないですね。ですが、牡牛さんの今回のコラムが「Aマホ的な発想」によって成り立っているのであれば、もしかするとこのような考えが背景になっているのではないかと、私には読み取れたのでした。『A-DIC「Aの魔法陣」』を書いた時の情熱が、ちょっと戻ってきましたね。

Aの魔法陣』のデザインコンセプトについても、記号論理学・分析哲学の方面からアプローチしたかったのですが、それじゃあまりにも難解すぎるので、まずいなあと思っていたところでした。それが今回の件でようやく言葉にできたかなーと思います。

*1:これは「外延近接戦」という言葉で示されている。セッション中の合意形成こそが「プレイ」であるというデザインコンセプトが『Aの魔法陣』にはある。

*2:これは「A-DIC」という言葉で示されている。セッションを始める前に事前に理解しておくべき基本的な用語・ルールについて整理したもので、これを各プレーヤーがある程度理解しておかないと、『Aの魔法陣』において複雑な背景世界を持つゲームはプレイできない。そして実は、『Aの魔法陣』は、この「A-DIC」と「外延近接戦」の両輪があって初めて成立しているのである。この2つの定義は、そのまま「外延」と「内包」に対応する。

*3フレーゲの「意味」と「意義」に関する論文などがありますが、それはさておき。

*4Wikipediaなどを参照してもよいでしょうが、岩波哲学・思想事典など、専門の用語事典にあたることがおすすめです

*5:世の学術論文が、やたらと厳密な定義にうるさいのは、その場の誤解を対話で修正する双方向的な場がないからです。すぐに双方向的にコミュニケーションが取れ、いい間違いや誤解の発生をフォローできる対話では、必ずしも事前に定義を了承しておく必要はありません。「ぼくの『リンゴ』ってのは、は富士リンゴじゃなく、リンゴ・スターのことを言っているんだ」と一言言える場があるというのは、意思疎通において意外と大事なことなのです。

*6:また定義かよ、と(苦笑)。まあでも、これが定義の効用ってもんです。ちなみにこれは内包的定義。一度設置したものをあえて利用し、その定義におって生じる齟齬を見出すことによって、本来あるべき意味とのズレを確認しているのです。

*7馬場がそのような意味で“ゲーム論者”でないことは、以下の一文に示されている。「ところで、葛藤(ジレンマ)の中で行動を決定する行為(=意志決定)、それこそが「ゲーム」の本質だ、ということを私は何度も何度も書いてきた。これを理解していれば、物語性は、他の指針と矛盾を起こしやすいことから、葛藤の源であり、それゆえにTRPGをゲームたらしめる上で不可欠な要素なのだ、という理屈をすんなり納得して頂けるはずである。しかしながら、私の経験によると、世の中には、どうやっても、ゲーム=戦闘、ゲーム=勝負(勝ち負け)、ゲーム=自分が有利になるよう最適手を考えること、といった思い込みを絶対に変えようとしない人がいる。そういう人にとっては、TRPGとはすなわちゲームマスターが用意した敵に立ち向かう勝負事であるか、あるいはゲームマスターと協力して物語を創ってゆく遊戯であるか、いずれかになってしまうことだろう。私の考えでは、そのどちらもTRPGではないのだ。」(馬場2004,「RPGと物語に関するごく短い断章」(http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20040106.html)。そして私もまた同じ意見を保った上で、RPG「ゲーム」として考えているのです。馬場も高橋も、「ゲーム」対「物語」、あるいは「反・ゲーム」対「反・物語」といった対立軸を想定しているわけではないことに注意してください。)

*8:これは、学問的・職業的に蓄積されてきた近現代ゲーム研究と、国内TRPG論とが接続するパスを確保しておいた方が、過去の蓄積が無駄にならないでよいだろうという学問的戦略を見越してのことです。ゲームの学問「ルドロジー」は、世界的にみてもまだ始まったばかりです、それでもコスティキャン論“だけ”に拘泥した既存のTRPG論や、その他のTRPG論よりは多様なひろがりを持っています。

*9:正確には、「TRPG論を展開する上で適用できるA-DICのうちの一つ」です。

*10:というわけで、「コスティキャンを支持する馬場さんほかの論者が、その用語を使ったゲームレビューをしないのは何故でしょうか。」という牡牛さんの疑問に、遅まきながら答え始められるようになりました。今後もっとこういうことをやっていくべきなのでしょうね。