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2008.07.31.

[]『崖の上のポニョ』について(1)――あなたは中間存在を愛せるのか

 私、今までずっと黙っていたんですが、公開から今までの間に、『崖の上のポニョ』を2回観てきました。

 同じ映画を2回観に行くというのは、私にとってはかなり珍しいケースです。

 この入れ込み具合は、マーロン・ブランドーが亡くなった直後に築地市場で再放映していた『ゴッドファーザー』をわざわざ観に行った時と同じくらいでしょうか。……って、ファミリーアニメマフィア映画を同列にするなよって突っ込みが来そうですが。

 そんなわけで、私にとってはそれくらい面白かったわけです、『崖の上のポニョ』。

 ジブリ作品ファンというわけではないです。なんだかんだで新作が公開されるたびに色んな縁で観に行くのですが、だからといって宮崎駿が特別好きだというわけではない。『カリオストロ』や『ラピュタ』に特に思い入れはないし、『となりのトトロ』をVHSテープが擦り切れるまで見たなんて武勇伝も別にない。『風の谷のナウシカ』は、最近ようやく漫画で読み直して感心したけれど……とりあえず「宮崎アニメファン」を名乗るほどの人間ではないのです。

 しかしそれにしたって、Webで感想を観る限り、竹熊健太郎氏のレビュー以外しっくり来るものがなかったのです。みんな否定的だったり、比較的ネタっぽいところで済ませてしまったり、クトゥルー神話と接続してしまったりと……それ自体は特に間違っているというわけではないのですが、私が一番ことばにしたい部分についてはあまり触れられておらず、そういう全体的な状況については、率直に言って不満でした。

 そこで、「ないなら書く」の精神で、しばらくポニョについて、訥々と語っていこうと思います。

 一度にUPできないので、思い出したトピックから語っていこうと思います。もちろんネタバレを含みますので、未見の方はそれを前提にお読みください。

 なお、この文章を読んでいただくにあたって、2つの前提があります。

  1. 私は〈批評〉という行為を、「ある作品を受容する際、“ありうる”読み方をできる限りことばによって明晰に示す行為(その読み方は“唯一絶対”である必要はない)」だと考えています。ですから、私は他人の読みを安易に否定しませんし、自分の読みを(理屈で)反駁・否定されても、特に問題だとは思っていません(むしろどんどんやってください)。私の解釈は、こうすればあくまで『ポニョ』を別の見方、新しい見方で楽しめるかもしれないというような optionalな(選択してもよいし、しなくてもよい)提案として、受け取ってください。
  2. また私は「作者の神話」――つまり、「宮崎駿監督の意図を正確に読み取ることが最高の読みである」といった古典的な考え方のもとに作品を受容すること――を認めていません。したがって、今後展開する話は、作者がどう考えたか、ということを必要以上に取り上げたりはしません。

 この2点は、人によっては当たり前のことかもしれませんが、現代の〈批評〉的な文章を受容する(≒楽しむ)ために、とても重要な約束事だと私は思っています。あらかじめご了承ください。

1.1 魚と人間のあいだ

 私はテレビをほとんど見ないのでよくわからないのですが、『崖の上のポニョ』は、あの人面魚状態以外の「ポニョ」をあまり告知しないまま開幕までこぎつけたそうですね。

 しかしもう封切から数週間経っているので、書いてしまってもいいでしょう。

 『崖の上のポニョ』には、3種類のポニョが登場します。

  1. 魚のポニョ金魚ないし人面魚)
  2. 半魚人のポニョ(魔法が使える)
  3. 人間のポニョ(客観的に観て比較的に普通の外見をした5歳相当の子ども

 この3バージョンすべてが、同じ「ポニョ」と名づけられたキャラクターです。

 しかし「ポニョ」とは、魚のポニョと出会ったときに、主人公のソースケ君がつけた「愛称」であり、元々の正しい名前は「ブリュンヒルデ」です。これはポニョの“父親”*1であるフジモト(彼は『海底二万里』におけるネモ船長の思想的末裔です)が付けた名前ですが、この作品においては、「ポニョ」と名づけられたことをきっかけに「魚の姫ブリュンヒルデ」である自分を否定し、最終的には「人間の女の子」になるわけです。

 ポニョ個人のエピソードを切り詰めて示せば、たったこれだけです。しかし、ここで魚でも人間でもない、その〈中間存在〉とも言える「半魚人のポニョ」の位置づけが、物語上特別名位置を占めているように私には思います。

 映画を観た方なら分かると思いますが、ポニョ魔法使いです。「魔法が使える女の子(ポニョ)」と「魔法が使えない男の子(ソースケ)」の対比が、中盤から後半部のシーンで重要な役割分担を生み出しています。ポニョの魔法がなければ、ソースケは母親のリサを助け出す旅にも出ることができませんでした。その意味で、ポニョが「魔法使いの女の子」であることは、ソースケの冒険譚を成立させる、もっとも重要な条件と言えるのです。

 ところが、ポニョの呪文行使〔スペルキャスト〕には、一つ重要な問題があります。

 強力な呪文を使っている時だけ、ポニョの顔が「人間のポニョ」から「半魚人のポニョ」に戻ってしまうのです。彼女が世界の物理法則に干渉しようとする際、自分の本性をさらけ出さなければならないのです。*2

 私のBlogアナログゲームBlogでもあるので、平気でゲームの喩えを使ってしまいますが、このポニョの豹変はTRPGシステムで言えば、Shadowrunの巫術師〔シャーマン〕に通じるものがあります。強い魔法を使おうとすればするほど、行使の際に信仰する動物や精霊の姿の特徴が、術者の身体にはっきりと顕れる。たとえば熊のシャーマンであれば、熊っぽい毛深さや熊のような顔、鉤爪が飛び出すのですね。それは一瞬のことであり、術者の身体を浸食してしまうようなものではないのですが、この現象は、魔法を知らない一般人〔マンデイン〕から見れば、非常に不気味なものとされます。『ハリー・ポッター』シリーズにおける魔術師と「マグル」の関係にも似ていますね。*3

 ポニョの呪文行使も、これと同じ不気味さをもっていると思います。発電機を修理する魔法、おもちゃ船を大きくする魔法、水面を走る魔法。それらの魔法を使うごとに、ポニョは「半魚人」であることを人前にさらけ出す。それが、ソースケやその他の人間たちに対する完全な善意によって行われていることは明らかです。しかしそれでもなお、5歳児のかわいい女の子にしか見えない存在がいきなり三ツ足の半魚人に変貌するのをみるのは、コミカルな表現にはなっていますけれど、かなり不気味なものです(付け加えるならば、「変身した姿」が不気味なのではなく、「変身する過程そのもの」が何度も繰り返されることが、不気味なのです。

 そしてさらに重要な事実として、「半魚人のポニョ」以外の状態では、ポニョはほとんど魔法を使っていません。*4瞬間に効果を発揮するような魔法に関しては、必ず「半魚人」の姿を顕にしているのです。

 そんな半魚人の瞬間を、登場人物たちは唖然として見送ります。決して「かわいい」とは言わない。「すごい」とは言うけれど、その「すごい」を言う時には、もう「半魚人のポニョ」は姿を消してしまっている。そして「半魚人姿のポニョ」は結局、外見の面では褒められることがないまま、「3つの側面をすべて併せもったポニョ」の“一側面”として、ソースケ君に受け入れられることになる。その時だって、「半魚人のポニョそのもの」について言及されることはありませんでした。

 この「不気味な、半魚人の魔女」に関する、作中のあまりの言及のなさをどう考えればよいのか? というのが、私の『ポニョ』に関する一番の疑問なのです。エンディングでは、「半魚人のポニョ」がソースケ君によって肯定されることで、中間存在であった「半魚人のポニョ」が消失してしまい、その問いも一緒に無くなってしまいました。人間の女の子になってしまったポニョは、「魔法」と一緒に「半魚人の姿」も、同時に失ってしまったのですから、もはや気にする必要もないのです。

1.2 中間存在が《キャラ》を突き崩す――伊藤剛キャラ/キャラクター論より

 さて、もし、3種類のポニョが、それぞれ別のキャラクターとして登場したならば、私たちは何の問題もなく、すんなりと受け入れられるはずです。ポニョが永遠に「魚のポニョ」であるか、「半魚人のポニョ」であるか、「人間のポニョ」であるかすれば、それぞれ伊藤剛の言う《キャラ》*5として独立した存在です。キャラクターグッズを作れますし、それぞれのタイプの「ポニョ」が愛されたり、あるいは好き勝手に「キモい」とか、個別に評価することがでしょう。実際にどのポニョも企画商品としてフィギュアやストラップや絵になって、売られています。

 でも、そうじゃないんです。『ポニョ』という映画は、「3つのどれもがポニョである」という事実を、動きを伴った絵を通じて、思いっきり見せ付けてきます。3つの「ポニョ」を自在に渡り歩きながら、一人の男の子に向かってまっしぐらに突き進むポニョこそが、ポニョという〈キャラクター〉*6にほかならないのであって、そのうちの都合のいいところだけを選び取って愛でたり萌えたりする*7なんてことは――少なくとも、3つの《キャラ》のダイナミックな時間的経過をすべて目の当たりにしてきた主人公のソースケ君には――許されていないのです。

 だから、映画のスクリーンで『崖の上のポニョ』を見た人は、「3つのどの『ポニョ』も、『ポニョ』という一つの人格である」という事態を、思わず笑ってしまいます。「なんでこんなことしたの?」と思ってしまいます。だってこの3つの「ポニョ」はどう考えたってちぐはぐな、個別の《キャラ》じゃないの、と。「人面魚」と「半魚人」と「宮崎アニメ美少女」を同一視しろという方が、どうかしている。

 けれどソースケ君は、そうは言いませんでした。人面魚だったポニョ、人間になろうとして半魚人の魔女になったポニョ、5歳の人間の女の子としてのポニョを、統合した人格として認めた――少なくとも、ポニョの母親の前でそう明言した。

 このソースケ君の発言が、物語において「正解」であるとするならば、私たちは、魚と人間をつなぐ〈中間存在〉としてのポニョを笑うことができないのです。ソースケと一緒にいるために人間になろうとして努力し、じたばたする姿こそが「半魚人のポニョ」です。それを「キモい」とか「不気味だ」と一蹴することは、言い換えれば「お前は人間になるな、魚のままでいろ」というのと同じなのです。

 そういうことをしみじみ考えながら、「ソースケのために一生懸命人間になろうとしているポニョ、健気で可愛いなあ」と思えるよう自分をチューンしていくのが、ソースケ君のような徳の高い男の子になるにあたっての健全な態度と言えるんじゃないかと、私はそう思ったのでした。

 もちろん、「魚のポニョ以外ダメだ」とか「人間のポニョ意外ありえん」とか、あるいは「半魚人のポニョこそ最高に可愛い」と言ってもいいのですよ。けれどそういう、3つの〈キャラ〉に対する偏った愛好を示した途端、あの大きな月が、まるで宮崎駿の拳骨のように頭上から落ちてくることは、覚悟しなければいけないのかもしれません(もし、ソースケ君が似たような偏愛をしていたら、事実そうなったかもしれません)。

 「オンナノコには色んな側面がありますけれど、その全ての側面をしっかり見た上で丸ごと愛してあげてくださいね。」明確にそう主張している、とまでは言いませんが、そういう解釈の仕方は、十分可能でしょう。それが、月による脅しによって為されるものなのか、それとも本当にポニョのことを考えた上で為されるものなのかによって、随分違ってきますが。

次回の予定

 次回は「交代する2人の英雄」という主題で、『崖の上のポニョ』全体の物語構造を分析するつもりです。

参考文献

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

*1:具体的にどのような意味で「父」であるのか、実は作中だけではよくわかりません。グランマンマーレとフジモトがどのように契ればポニョが生まれるのか、よくわからないのです。グランマンマーレの「遺伝的特性」がポニョに受け継がれているということから、母子の関係は認められますが、父子の関係が具体的に血縁関係なのか、それとも生物学的実験によって誕生したものなのかは定かではありません。

*2:ここでポニョクトゥルー神話で言うところの“インスマウス面”になってしまうわけですが、それについては今回は本題としません。

*3TRPGゲーマー向けの情報。具体的には、これを見られた直後に、社交能力に関する判定に不利な修正が出ます。

*4:波を走ったり、家の周囲に結界を張ったりする常時効果を発揮する魔法を使っている時は、たしかに人間の女の子のままです。しかしその時は、周囲に人間がいなかったり、ポニョも周りの人間もポニョを観察していない時でした。いっぽう、人前で魔法を使う時のポニョは、必ず顔を膨らませ、半魚人の顔になっています。

*5:「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、『人格・のようなもの』としての存在感を感じさせるもの」(伊藤2005: 95)

*6:「『キャラ』の存在感を基盤として、『人格』を持った『身体』の表象として〔傍点始〕読むことができ〔/傍点終〕、テクストの背後にその『人生』や『生活』を想像させるもの」(伊藤2005:97)

*7:伊藤の次の論を参照。「『キャラクター』は、必ず基盤に『キャラ』であることを持つ。だが、図像のコードの選択によって、あるいは作家の描線の個性などのよって、『キャラ』であることの強度に差ができる。おそらく『キャラ』であることの強度とは、テクストに編入されることなく、単独に環境の中にあっても、強烈に『存在感』をもつことと規定できる。だからそれは、作品世界のなかでのエピソードや時間軸に支えられることを、必ずしも必要としない。その程度には『キャラクター』としての強度=立つことと、『キャラ』としての強度とは、独立の事象なのである。ここでキャラに『萌える』という受容を思い起こすべきだろう。『キャラ』の強度とは、『萌え』を支えるものである。逆に言えば、何であれ『キャラ』の強度に反応することを、広義の『萌え』と定義しなおすことも可能だろう。

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