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2009.02.04.

仏教と自殺の話がのびておる――“リーチ仏教”、〈祈り〉の純粋さ、自殺衝動の特効薬

 私がむかしid:thalionさんへの私信として書いたエントリが、最近どういうわけか、コツコツとブクマを稼いでます。

高橋志臣,2007,「仏教でどう自殺を食い止めるか」『G&G,Inc.Blog』(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20070914/1189734581

 1年半前のエントリがなぜ今更……と思っているんですが、何か原因でもあるのかしら?

 ちなみに浄土宗真宗の「極楽浄土」について言及して、「あれは違うじゃないか」とコメントしている人が居ます。ええ、その通りです。なぜなら浄土宗真宗は、日蓮宗と並んで、仏教諸派の中でももっとも一神教的なあり方に近づいた宗教であると言えるからです。

浄土系仏教の“リーチ仏教”的性格

 ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、浄土思想というのはとても簡単(といって悪ければ、simple)な思想でして。

 あれは、「現世で一回でもいい、六字*1を唱えれば、来世は確実に極楽浄土に行ける」という教義なんですね。

 さて、ここで、“極楽浄土”というのが何であるのかが重要です。まず確認しておきたいのは、極楽浄土は、通俗的なイメージでの天国じゃありません。「何か良いところ」っていうのもピント外れ。ましてやイスラームの「緑園」でもありません。

 極楽浄土。それは、「その世界に転生すれば、確実にその生において解脱可能である(=悟れる)」という場所のことなんです。

 そもそも「往生」とは、極楽浄土に転生する、という意味です。浄土宗ロジックは、「往生して解脱する」という、二段階のプロセスを仮定した仏教なわけですよ。往生するだけじゃだめで、往生した先で悟らないといけない。そして繰り返しますが、浄土の教えは、「極楽浄土なら、必ず悟れる」と説くわけです。

「現世では悪いことをしてしまった。来世はきっと因縁によってろくでもない転生をするだろう。けれど、よくわからんが、浄土の存在を本気で信じて、一心に“なむあみだぶつ”と唱えさえすれば、自分は次こそ、悟れる資格を得られるんだ――」

 こういう理屈は、控えめに見ても、それまでの代表的な日本仏教(八宗――すなわち倶舎宗〔くしゃしゅう〕、 成実宗〔じょうじつしゅう〕、律宗〔りっしゅう〕、三論宗〔さんろんしゅう〕、法相宗〔ほっそうしゅう〕、天台宗〔てんだいしゅう〕、華厳宗けごんしゅう〕、そして真言宗〔しんごんしゅう〕)とはまるで違うものでした。

その祈りは愚かか、それとも純粋か

 齢29にして『八宗綱要』を著した鎌倉期の若き天才、凝念(華厳僧)は、新しく登場した浄土思想に対して、こんな辛口のコメントを残しています。

 又浄土宗教、日域広行。凡此教意、具縛凡夫、欣楽浄土、以所修行往生浄土西方浄土縁深于此土、念仏修行、劣機特為易生浄土、後乃至成仏。

 (訳:浄土教は日本でも広く行われている。浄土教は、煩悩に縛られた凡人浄土に生まれることを願って、念仏というただ一つの行によって浄土に往生することを教える。阿弥陀仏浄土はこの俗界と因縁が深いため、修行する能力に劣るものであってももっとも修行しやすい。能力の劣った者は、西方浄土に往生することを祈るのがもっとも易しい。往生してから後でようやく、成仏できるのである……以上、鎌田茂雄訳の翻案)

八宗綱要 (講談社学術文庫)

八宗綱要 (講談社学術文庫)

 今風に言うと、まさに上から目線なの、わかりますでしょうか。つまり、仏教は鎌倉期に入るまで「インテリのやる宗教」であり、浄土より先に禅宗の流れが出来ても、それは「戦士のたしなむ宗教」だったわけです。そして平民――能力の劣った者たち――を救済するものとしての仏教は、当時はほとんど考えられていなかったし、そういう意味での救済を真面目に考える宗教家も居なかったわけです。

 こうした仏教のインテリ的性格を厳しく批判したのが、仏教学者の鈴木大拙です。大拙は、『日本的霊性』の冒頭において、「日本的霊性は禅と仏教において芽生えたのであって、それまでの日本の宗教神道、八宗)に、霊性と言いうるものはなかった」と断言しています。この霊性というのは、日本語に翻訳するとspiritualityですが(一時期はやりましたね)、大拙はこれを「宗教意識」と呼んでも良いと述べています。

 宗教意識、これが神道と八宗に無かったということになりますと、凝念の上から目線とはだいぶ異なる視点、ということになりますね。 

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

 さてでは、凝念の言うように浄土宗は「劣った人間がやるやさしい仏教」なのか、それとも大拙が主張するように、日本において花開いたもっとも宗教らしい宗教なのか。

 一つポイントになるのは、「往生」と「念仏」のあいだに見出される「祈り」の純粋さにあります。

 なんだか資料を追いながら文字を書くのが面倒くさくなってきたので(ここ数日で合計5万字近く書いているせいかもしれない)、細かい理屈をすっとばして言いたいことだけ言ってしまうと、浄土宗は「極楽浄土」というリーチポイントを仮定することを通じて、「救いを求めて祈る」という行為の純粋さを、ほかのどの仏教教義よりも先鋭化させた宗派であると言えるのです。

 リーチ仏教、バカにしたもんじゃありませんよ。一念発起という熟語もあるように、真摯な祈りは「ただ一度」でいいわけです。「なんまんだぶなんまんだぶ」と何度つぶやいたところで、実は浄土系の教義に照らせば、本質的な祈りではない。しかし、その本質的な祈りが一度でもできなければ、それは何万遍祈ったって往生すらかないません。

 こうした、あまり知られていない「たった一度の祈り」というロジックこそが、安易な行として知られる浄土系思想の根幹をなしている。そんな浄土系仏教の性格が、大乗仏教発生以来の伝統的な仏教に照らしてどんな正当性をもつのかという話はさておくとして、別の視点から――「祈るという形而上的行為を通じてもたらされる社会的価値」として見た場合は、どういう評価のしかたがあるのか。

 読者の中には、おそらくクリスチャンの方もいらっしゃるはずです。「仏教の中の例外」を、こういうパースペクティヴから考え直してみるのは、悪くないのではないでしょうか(より詳しくお知りになりたい方は、大拙本の第三篇「法然上人と念仏唱名」(鈴木[1944]1972: 150-94)をご覧になってください。面白いと思います。

余談――自殺衝動を食い止める規範特効薬(という要求は、一体何を前提しているのか?)

 ところで私は、こんな風に、世の中の「(道徳)規範」の一種である仏教について調べることを、単に楽しくてやってます。少し、自分の思考を鍛える役にも立っているかもしれません。しかし、特にそれが公共性を持つべきだとは思ってません(これは、儒教キリスト教イスラームの諸派の本を読んでいる時も同じです)。

 それはなぜかというと、リベラリズムの良さを捨ててまで共同体全部に規範を導入することが、大して良いことだとは思っていないためです。悪くもないですけれどね。判断を保留しなければならない程度には、私は世界宗教の教判*2が出来てないというわけです。

 なんというか、宗教が公共の場で自殺者を救わなければならない、という、本当にその前提が妥当なのかどうかもわからないところから、そのまま自殺者を食い止められないことの苛立ちに変えてしまうのも、私はどうかと思うわけですね。

 そもそも、宗教プラグマティックに、人間を制御する道具として捉えられるかどうか、私には大いに疑問です。「自殺したいという苦しみを取り除きたい」というのは大いなる慈悲のなせる業かもしれませんが、「日本国内の年ごとの自殺者数を減らすために宗教を活用しよう」というのは、なんだかおかしな話です。その宗教は、本当に道徳的教義なのか、それともなにか臨時国会で採決された特別法案みたいな何かなのか。私は、宗教を法的効力をもつような「特効薬」として考える発想それ自体に、難点があると思っております。今回の話のもとになった仏教トークも、実際には「そういう意識にたどり着く」ことなんか難しいに決まってる、という皮肉がそれとなくまぶしてあります。だいたい、生きる苦しさを取り除くなんて、どんな宗教を選ぼうと選ぶまいと、難しいに決まってるんです。

 え。それは思想的後退ですって? なるほど、そうかもしれません。しかし、こう考えてもみてください。あなたは、弓をうまく打ち放つのに、弦を引き絞るための十分な膂力が必要だとは、思いませんか?

 ともあれ、祈り、苛立ち、自殺衝動といった話をだらだらと続けてきたこの散漫な宗教トークを、デウスエクスマキナ的にエイヤッと昇華してくれるよい唄があります。それを紹介して、今回の再放送と注釈を〆させていただきます。。

 ご静聴ありがとうございました、Thank You.

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SMILE

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*1:「南無阿弥陀仏

*2:=教相判釈。厳密なテキスト批判を通じて、経典にランク付けをし、もっとも価値あるテキストは何かを選定する、仏教において重要となる作業。仏教の宗派の差とは、畢竟、この教判の差によってもたらされていると言っても言い過ぎではない。