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2009.02.20.

[]2009年、TRPG批評のロードマップ・序論

 TRPGというゲーム形式の論点を、2009年02月段階の理解にもとづき、整理したものです。

 以前から書いていることの焼き直しの部分もありますが、これが最新版となります。


0.TRPG論の領域区分

 〈システムデザイン〉〈マスターリング〉〈プレイング〉の三つの区分に基づいて、TRPGにおいて論じうる領域は何か、という表をまず、提示したい。

 このディレクトリを踏まえた上で、私が現在考えている「TRPG批評」とは何かを以下に述べる。

 TRPG批評とは何か。それは、

  1. 上記のTRPG領域区分を踏まえ、特定の領域下におけるTRPG活動の難点・不具合を明らかにした上で、その解決策を論じ、提供すること。
  2. そもそもこのようなTRPG論の分類に、どのような思想的誤謬・問題があるか、その論拠を明らかにした上で、新たな概念分類とその有用性を提示すること。

 以下、それぞれについての大まかな議論のロードマップを提示する。

1.システムデザイン論について

 たとえば、昨日公開したAマホの話は、「システムデザイン論」のサブカテゴリ、「基礎設計」の議論にあたる。

 しかし、今市場の趨勢を決定しているのはむしろ「ディベロップメント」や手厚い「サポート」の部分である。

(この進化に関する功罪がよく話題となるが、適切な判断基準を与えるものとしては、氷川(2006)*2がよく整理されている。)

 これは確かに必要な成長ではあったが、実際の所、「基礎設計」の分野については、イノベーションが進んでいないように思われる(これは日本・海外両方)。

 特に、D20システムの席巻によって、「そもそもTRPGにおいて基礎設計のイノベーションなど必要だったのか?」という疑いがもたれているが、これは専門ボードゲームデザイナーの見解を拝聴しながら、慎重に考えを進めていく必要がある。(特に、D&D4eのデザイン思想の大胆な変更は、D20システム内からの自己批判ではないかという見方も可能である。)

2.システム運用論について

 馬場秀和は、『馬場秀和のマスターリング講座』(1995-6)において、「システム運用論」すなわち 〈マスターリング〉(gamemastering) の技術について、おおまかな論点を整理した。

 彼の仕事でもっとも重要なのは、コスティキャン論のTRPG論への適用“ではない”。そうではなく、TRPGという文化におけるゲームマスターの職分を、1995年段階で〈システム選択〉〈シナリオ作成〉〈セッションハンドリング〉の三区分に分けて論じたという、その事実である。ゲームマスターの上達」とは、実にこの3種類の技巧において優れたパフォーマンスを見せることだと、章立てで主張しているのが、TRPG批評家・馬場秀和のやったことである。

 しかし、肝心のニーズの調査や、システム批評が拠って立つ基礎については、1995年の頃の市場趨勢によるバイアスがかかりすぎているきらいがあり、今現在参照する時には、現状へのパッチ当てをする必要がある。

(注:馬場秀和に忌避感を感じている人向けの補足。そもそもある先行研究を参照するという作業は、「その人が、どんな分類にもとづき、どのような領域を問題としたか、そしてそれは自分が今問題にしたいこととどのような関係にあるか」を整理することを第一目的として行われる。この言論の基礎の基礎を取り違えると、人の言説を引用した人間すべての言説を誤読しかねない)。

 だが逆に言えば、彼自身の時代的限界を見据えた上で、評価基準を馬場から引き離して再整理すればよい話である、という言い方もできるだろう。その際、馬場の議論の大半が、「ゲームマスター責任論」に基づいて書かれている、特殊な立場のものであることを念頭に置くことが、きわめて重要である。なぜなら、90年代の反省から生まれたTRPGシステムの発展は、彼が指摘したようなシステム運用の責任を、“あえて”システムデザイナー側が引き受けることによって軽減してきたからだ。

 ところで私は、プロパガンダ的性格において馬場秀和を参照する言説に一切の興味を覚えない(2003年に言及し始めた時から、ずっと関心がない)。彼の面白いところはあくまで1995年当時に見出していた「着眼点」であり、その後の言説の責任の保持の仕方である。それに対し、その当時受容された際の言説の功罪については「今やただうぜーだけ」である。

 つまり、そんな同時代性依存の話で未だに馬場論の属人的性格を言挙げすることは、実質的に価値がない。今改めてTPRG論をする際、馬場秀和の属人性を問題にしても、何か積み上がるような知見があるとは私には思えないのだ。

(この点、あえて攻撃的に書いた。私の彼に対するスタンスを誤解されている方が一定数いるようなので。なお、これに対する何らかの反論があった際にも、上記の判断基準で読ませていただくので、ご了承戴きたい。私はこの辺の彼の後半の主張を受けて今までやってきた。怒りを知に変えられるなら、あなたにもできるはずだ。)

3.プレイ論について

「プレイ論」については、それこそ80年代から蓄積がある。しかし、プレイの巧拙を論じる比重がばらばらで、意見の一致が見られにくい。特に紛糾するのは〈ロールプレイング〉の解釈だろう。しかし私個人に関して言えば、〈目標の多層構造〉を理解すれば、自然と「なりきり」の楽しみも充足されるだろうと考えている。

 何度も繰り返すが、私が考えるロールプレイングとは「役割分担+狭義のロールプレイング」である。この2つは、「定量的ロールプレイ+定性的ロールプレイ」と言い換えても良い。この“両方”が(片方だけではダメ)しっかりできているなら、別に「なりきり」が楽しくても何の問題もないと私は考えている(というより、そういうお茶目なら、ボードゲームをやる時程度には私もやる)。

 たとえば、ボードゲームキャッシュ&ガンズ』をやっている時に、おもちゃ銃を突きつけながらギャングのなりきりをやるのは楽しいだろう。しかし、ギャングのなりきり“だけ”から『キャッシュ&ガンズ』の楽しみは得られない。その部分だけを延々考察しても、『キャッシュ&ガンズ』のゲームデザインは分析できない。そして、TRPGにおけるロールプレイ論は、そうした基本的な誤解に陥ることがままある。

なお、そうではない演技肯定論も可能だと私は考えているが、その予測にもとづく強度のある演技肯定論はほとんどない。この情勢分析については先日書いた通りである。)。

 個々のTRPGシステムと、そのシステム運用がもたらす楽しみを味わうためには、何がそのゲームにおける「役割分担(定量的ロールプレイ)」で、何がそのゲームにおける「狭義のロールプレイング定性的ロールプレイ)」で、それ以外の何が「なりきり」や「表現」にあたるかを、提示されたシステム、シナリオごとにある程度把握しておく必要がある。

4.共同ゲームデザイン論について

 システムデザイン、マスターリング、プレイング。この三権を分析するためには、これらすべてのプロセスに含まれる基本的なリテラシーを形式化する必要がある。その一部は、既に市販システムの記述の中にいろいろとヒントが隠されているが、すべてではないだろう。そしてまだ、このようなパースペクティヴにもとづく分析は進んでいない(まだ、どういう区分であるかも、わかっていないためだ。そもそもこの仮定が間違っているかもしれない)。

 形式化をする意義のうちもっとも大きなものが一つある。それは、ゲームの面白さを「プレーヤーたちの責任」として引き受ける為の基本的な知識が明らかになるからだ。かつてTRPGシステムは「現場の責任」であり、マスターとプレーヤーに丸投げされてきた。

 しかしその後、「それではコミュニティが育たない」ことを反省したためか、システムデザイナーの仕事は「安定した楽しみを得るためのシステムディベロップメント」の開発が大勢を占めるようになった(今後もそれは基本的に変わらないだろう)。

 ところがその素晴らしい営為は、結果的に、ゲームマスターやプレーヤーが現場でデザイン技術を投入するための“遊び”(これは、設計・建築的な意味である)をどんどんと失わせていく結果にもなった(これがRPG日本の鏡や、『Aの魔法陣』を開発した芝村裕吏の問題意識だろう。ただし、鏡は現場レベルでの解決を、芝村はシステムデザイナー設計思想ゲームマスターの技量との距離を問題にしているという点で、大きく異なる。さらに芝村の場合、「ゲームに習熟するための学習共同体」も必ずセットで開発するという点が特徴的である。しかし、これは別途改めて記事を書く必要がある議題だろう)。

 共同ゲームデザイン論の整理によって、システムデザイン、マスターリング、プレイングにそれぞれ可能なデザインの介入権限が明らかとなれば、三者はそれぞれ「各々の熟練度に応じた、望ましい介入」を自己評価することができ、より多様なニーズ、多様な熟練度に応じたTRPGコミュニティを設計することができる。

 なお、これによって可能になるTRPGコミュニティの未来については、紅茶檸檬(2008)*3に詳しい。

*1:古典的なTRPGシステムはここまででOKだった。以下は近年のTRPGにおけるシステムデザイナーの職分である。

*2:氷川霧霞,2006,「TRPG の苦労は買ってでもしよう」(http://www.trpg-labo.com/modules/article/index.php?articleid=45,2006.01.02).

*3:紅茶檸檬,2008,「"名人芸を否定しない/標準化を軽視するに"ついて」(http://d.hatena.ne.jp/koutyalemon/20081124/p2,2008.11.24).