GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

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『仙窟活龍大戦カオスシード』

 id:hiyokoya6さんが「知る人ぞ知る傑作」と褒めていたので、しばらく気になっていたのだが、先日友人の協力によりようやく入手することに成功した。
 SFCで1996年に出たが、今やっているのはリメイクされたセガサターン版(1998)。

仙窟活龍大戦カオスシード(通常版)

仙窟活龍大戦カオスシード(通常版)

カオスシード』、はじめだけ遊んでみたが、なかなか面白い。仙人の弟子である主人公が、〈仙窟〉と呼ばれる洞穴を掘って、そこで風水的なルールを活かしつつ資源管理をすることで、荒れ果てた大地に生命を取り戻すというのが、基本的なゲームシナリオの流れである(章立てになにやらSF小説的な仕掛けもあるようだが、それはまだよくわからない)。その仕組みとして、中華ファンタジー風の装いで「ダンジョン作成&ダンジョン管理」、それから「侵入者の撃退」を同時並行でやっていくことになる。
 ダンジョンそれ自体は、何階層も作るようなものではない(作るのは一階層だけ)。『トルネコの大冒険』シリーズのように、後ろに半透明マップが表示されて、それを五部屋から十数部屋好きに作っていけば事足りる。『カオスシード』の生態系(エコシステム)を表現するには、この広さ・部屋数で十分ではないかとも思う。
 もう一つ面白いのが、主人公の位置づけ。『カオスシード』の主人公は、「龍脈が乱れた大地を守るために大地を掘り進み、龍脈を整える」という儀式魔術を行っている。ところが、そこでやってくる「侵入者」というのは、実は公僕の兵士だったり、“邪悪な仙人”の賞金首目当てでやってきた山師だったりする。時にはほかの古典的RPGに出てくるようなキャラだったりもする(全然中華ファンタジーではない)。環境破壊を心配している仙人の方が、むしろ一般人や西洋ファンタジー冒険者からは「テロリスト」として疎んじられている立場なわけで、これはけっこう皮肉が利いた背景設定である。
 登場する中華ファンタジー的な表象は、ほぼ同時代に刊行された漫画版『封神演義』(1996-2000)や『央華封神RPG』(1994)、『封仙娘娘追宝録』(1995-2009)に似ているが、実際にやっている事は、川上稔の『風水街都香港』(1998)に案外近いかもしれない。「龍脈の乱れを整える」という課題設定は、個人的に大変ツボだ(自分がShadowrun RPGの魔術ルールが好きな理由にも通じるものがある)。ちなみに荒俣宏の『シム・フースイ』シリーズ(1993)とはさすがにちょっと違う。『九龍風水傳』(1997)と比べるのは、ゲーム的にもシナリオ的にもなんだか違う気がする。同時代なのに。

 ところで、こういう風に「プレーヤー自身が、ダンジョン(的な建築物)を作成し、NPCを待ち構える」というデザインコンセプトで作られたゲームは、カオスシード以外にもいくつか存在する。

 などである。特に『ダンジョンキーパー』は西洋ファンタジーの悪側を徹底してロールプレイする(=ここでは「社会的役割を担う」という意味)ことを強調して作られたもので面白そうなのだが、最後の『クロニクルオブダンジョンメーカー』以外は、基本的に背徳的な設定をもとにプレイすることになる。
 だが、TRPGに立ち戻って考えてみれば、「ダンジョンを作る」こと自体は、そんなに背徳的な(Evilな)ものだろうか、とも思う。むしろ広い意味での防衛戦としても、善悪抜きにして、ダンジョン構築ゲームは十分楽しめるように思う。
 もう少し抽象的に言うなら、「環境をあらかじめ構築して待ち構え、その出来の良し悪しをじっくり見守る(時に調整や微調整を加える)」という、ストラテジックな楽しみもダンジョンにあるわけで、これはクラシックD&Dの頃からある“ゲームマスター側の”楽しみでもあるはずだ。
(ちなみに、『迷宮キングダム』のゲームコンセプトとは異なる。あれは「王国経営」というスケールであって、私はここではもう少しミクロな集団を想定している。それにあのゲームは、必ずしも専守防衛を想定していないはずである。)
 こうした考え方を突き詰めていくと、デジタル/アナログ問わず、以下のようなゲームコンセプトに基づくゲームは、考えてもよいように思われる。

■協調型ダンジョン管理ゲーム(仮,今回はアナログ準拠で記述)

  • このゲームは、パーティプレイ(協力型)を前提とする。
  • プレーヤーキャラクター(PC)は、諸事情により一つのダンジョン(と慣習的に呼ばれてきたそれなりの広さを持つ建築物)を協同管理している(時には、生活もそこで営んでいる)。
  • そのダンジョンには、ある特定のやり方で“介入”を受けると、不都合が起こるギミックがある。
  • このギミックが作動すると、PCたちはさまざまな理由で多大な不利益をこうむる。
  • したがって各々のPCには、“介入”を阻止するだけの動機が存在する。(プレーヤーが望むなら、PCハンドアウトや乱数表でフックを提供しても良い)
    • 背景設定における「侵入者」が残酷極まりない場合は、動機の説明は不要であることが多い(死or無残な余生を意味する等)
    • 動機(Why)の設定はGMの創意工夫、あるいはシナリオデザイナの創意工夫によるものであり、システムデザイナは想像するためのプラットフォームを提供することをまず最優先する。
    • 動機の傾向については、「定住型(侵入者からの自己防衛)」「邪悪型(善なる者を返り討ちにする)」「理念型(自己の目的が共同体の利害と衝突する)」「悲劇型(やむにやまれずその中に居る)」などを基本型とする。
  • デザインは4タイプ考える。もっとも、状況が既に限定されていることから、このゲームのデザインと相性がよいのは「第一世代」と「第三世代」である。
    • 第一世代型(別名グリーンバーグ型):マップやPCの戦略の幅を定義・サポートするようなデータを豊富に提供する。キャンペーンが持続してもよいよう、ダンジョンとPCそれぞれに〈成長〉概念を取り入れる。しかしそれ以外はあまり規定しない。
    • 第二世代型(別名スタフォード型):「ダンジョンで侵入者を待ち構える」ような世界があり得ることを最低限の前提として置いた後は、そこでのどんな動機でも許容するような背景世界・データを豊富に提供し続ける。背景世界の数は基本的には1つ(多くとも2,3)を、長期的・継続的にサポートしていく必要がある。
    • 第三世代型(別名アダムス型):「ダンジョンで侵入者を待ち構える」という状況設定を、シナリオ記法の水準まで限定するか、あるいは「PCは○○である」「PCは○○な性格である」とシステムのレベルで規定するか、ともかく「始まりと終わり」がはっきりプレーヤーにとって理解できるレベルまでシステムを具体化し、その水準においてゲームシナリオを提供する。この型でのデザインには、多様なスタイルと多くの蓄積がある。
    • 第四世代型(別名非シナリオ駆動型):ナラティヴに練りこまれたシナリオを準備する必要がないほど、システムそれ自体を抽象化あるいは自動化していくことで、「ダンジョンで侵入者を待ち構える」ような状況が自動的に記述されてしまうような、そんなメカニズムを提供する(アナログならギミックの大胆な再設計であり、デジタルならPCを取り巻く外部環境の自律的遷移をプログラミングすることである)。この分野の蓄積はまだ始まったばかりであり、この手法で目新しいゲームを作ること=ゲームの基礎設計それ自体に取り組むことであり、〈マスターリング〉の領分からはほとんど逸脱することを覚悟しなければならない。

 こんな感じ。世代論は基本的に多摩豊さん+第四世代のみ芝村裕吏さん準拠で解釈した。
 グリーンバーグ型、スタフォード型、アダムス型というのは、世代論一般の評判がたいへん悪いので、私がイメージする世代論の代表的デザイナーの名前で置き換えてみたものである(左から『ウィザードリィ』のデザイナー、『ルーンクエスト』のデザイナー、『ウルティマIV&ウィザードリィIV』のシナリオライターとなる。私の第一、第二、第三のイメージはそれぞれこれ)。
 私は、システムデザインよりはマスターリングとゲーム研究・ゲーム批評の方に興味があるので、この案のディベロップに多大なコストを掛ける余裕はないのだが、この方向で新しく誰かデザインしてくれたら絶対GMやるのになあ、と思うのだった(そして『りゅうたま』で言えば黒竜ブレスを吐きまくる)。

 デジタルゲームの話なのだかアナログゲームの話なのだかわからなくなったが、まあいいや。

*1:ポピュラス』(1989)、『テーマパーク』(1997)、『ブラック&ホワイト』(2001)、『フェイブル』(2005)のデザイン・プロデュースで知られる。

*2:ただし、このゲームでは、ダンジョンを作った後、自分の作ったダンジョンに住み着いた敵を倒すという手続きを踏むため、「待ち受ける」とはまた異なる。