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2009.04.02.

[][]ゲーム研究における道具論、作品論

 今のところ考えているうち、もっとも抽象度の高い話を投げてみます。

 全体として統一感があるわけではないので、節ごとに全然別の話をしている、というくらいの気持ちで読んでいただければと思います。

設計・運用・受容

 自分がTRPGについて書く時、いつも念頭に置いているのは「設計/運用」という二区分です。

 〈システムデザイン〉を褒めるためには、それを運用して現場に〈ゲーム〉を実現する〈マスターリング〉の技術について考察する必要があると考えているのは、その「設計/運用」の分類があるからです。

 そんなことを考えながら今日iPhoneのFlick式入力について話していたのですが、そこではたと気がついたことがありました。私がTRPGを通じて考えていることというのは、要するに「インターフェイス、ツール、道具」と「人間、集団、社会の関係」なんだな、ということです。モノと人とのかかわり、あるいはモノづくりの人と、モノを扱う人のかかわりといいますか。*1

 そういう風に考えて、さらに抽象化を進めると、道具の運用によって作られたサービスを受容するエンドユーザを含めて

  • 〈設計〉design
  • 〈運用〉mastery
  • 〈受容〉reception

 という区分が考えられます。もう少し言葉を補うと、

  1. 特定の人にとって有用な道具・ツールを〈設計〉する。
  2. 特定の人にとって有用なコンテンツやサービスを〈運用〉によって生み出す。
  3. 〈設計〉あるいは〈運用〉によって提示されたコンテンツ、ツール、サービスを〈受容〉する。

 という風になります。

 ここで〈受容〉がごちゃごちゃとしているのは、

 のどちらも一応ありうるからです。人がある対象を「ツール」と見るか「コンテンツ」と見るかは、モノによっては規定されず、人それぞれの解釈に依存してしまいます。

 いずれにせよ、設計・運用・受容に関わる人たちが自然発生的に(あるいは仕掛けられた設計にのっかって)コミュニティを立ち上げ、そこでエコシステムを形成するというのが、私が今、「クリエイティヴである」とされる社会行動について考える際の単純なモデルになっています。

 ここでTRPGのより良い遊び方について考えると、氷川霧霞がアプリケーションの設計を比喩にして論じた「TRPGの苦労は買ってでもしよう」で、大方の議論は解消してしまいます(皆さん、ぜひ読みましょう)。しかし、TRPGにおける〈運用〉の担い手であるところのゲームマスターの話だけではなく、ほかのさまざまなコミュニティにおいても、氷川さんが指摘したようなことは見出しうるのではないでしょうか。

ニコニコ動画の場合

 たとえば、最近のウェブサービスの例に即して書いてみます。

 『ニコニコ動画』を「動画受容の場」として見るか、「作品発表の機会を得るツール」として見るかは、どちらも可能でありながら、どちらか一方だけしかないとは断定できません。むしろ「運用者」と「受容者」とを取り結んだり、入れ替わったりするようなプラットフォームを構築することが、新種の〈設計〉と見なされているということでしょう。個々の趣味判断はおくとしても、そうしたメディアの変化が、従来の「作品論」の成立を困難にしていることは確かです。このような社会的変化については、濱野智史が『アーキテクチャ生態系』の前半で述べていたことが参考になります。

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

ゲーム文化における設計と運用

 デジタルゲームにおけるMODカルチャーの流れもまた、プログラムレベルの改造が(専門技術を持つ人たち以外には)不可能だと思われてきたものが、エンドユーザにも改造の余地が与えられるようになったという意味で、画期的です。これはいうなれば、これまでとは比較にならないほど、デジタルゲームのエンドユーザが〈運用〉の領域にも関われるようになったということです。*2

 しかし、そういう流れはMODが最初だったわけではなく、『RPGツクール』や、スチュアートスミスの『アドベンチャー・コンストラクション・セット』(Adventure Construction Set)の頃から試みとしてはありました。また、一九六ニ年のSpace War!からずっと、コンピュータ・ゲーム*3は大学のコンピュータハッカーたちによって改造されることが当たり前でした。アナログゲームでも、1950年代から米国で本格的に始まったボード型のウォーシミュレーションゲームは、「戦史をゲームとして再現する」というコンセプトワークに賛同しながら、ユーザー側がその実装や可能性についてさまざまに文句をつけながら波及していったという流れがありました。

 そしてようやく70年代になって、明確に「ダンジョンマスター」というアマチュアゲームデザイナーを定義し、商品化したのが『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(Dungeons & Dragons)でした。「プレイする楽しみを売る商売」に、「デザインする楽しみを売る商売」が付け加わった(あるいは、分化した形で明示された)のが、D&D以降のTRPGというホビーのもっとも特徴的な点でした。ですから私は、「明確に商業化されたアマチュア・ゲームデザイン・ツール」の起源を、ひとまずD&Dが登場した1974年に置きたい*4と考えています。*5

物語消費論に分け入るためのハッカーカルチャー

 二〇世紀後半のサブカルチャーを駆動していたのは、単に「与える/与えられる」関係だった作者とその受容者とのあいだのコミュニティだった――こう言うだけなら、より過去の歴史や、ほかの文化の諸相にも当てはまる、ぼんやりした議論でしかないかもしれません。「設計に介入する」という行為それ自体を消費として捉え、意図的に商品化された時代が二十世紀後半である、と言う指摘は、大塚英志が1989年にビックリマンシールコミックマーケットを事例に述べたこととほぼ同様で、新しさがありません。

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

 しかし、より詳細に個々のジャンルに分け入っていくと、そうした「設計に介入する」という遊びに参与していくための技法があることに気づきます。少なくとも、ハッカーたちがPCゲームの開発に勤しんだ1970年代後半においては、「コンピュータでゲームを作ること」はそのまま「コンピュータプログラミングの可能性を試すこと」とかなり近い意味で捉えられていました。この介入ゲームに参加するためには、まずコンピュータプログラムの知識というリテラシー獲得に向けた努力が、前提として必要になります。言ってみれば、その敷居を越えた人たちが中心になって、デジタルゲーム開発の黎明期を支えたわけです。そしてそこには、現在では今のオープンソースコミュニティにおいて言われるような「名誉」に関する感覚があります。Rishab Aiyer Ghoshの編纂した、以下の論文集などが示唆的でしょうか。(彼の議論は、ここでも読むことができます。)

CODE: Collaborative Ownership and the Digital Economy (Leonardo Book Series)

CODE: Collaborative Ownership and the Digital Economy (Leonardo Book Series)

 このようなことを考えていくと、20世紀以降のゲームデザインについて語ろうとするのであれば、コンピュータとその開発者コミュニティとの類似性についても注意を払わなければならないかもしれません(幸い、スティーヴン・レビーの『ハッカーズ』は、原語であればプロジェクト・グーテンベルグで無料で読むことができます。)

道具設計の要件

 しかし、そうした話は、まだまだ私個人の手には余る問題です。頭の片隅においておいて、私が今考えている「道具としてデザインを評価する」ことについて、簡単に整理してこのエントリを終えます。

 本当ならば具体的なインターフェイス論の先行研究を押さえてからでなければいけないのでしょうが、今考え付く範囲で書くなら、私が今考えている道具の評価軸は、4つです。

  • コンセプト≒性能要求(concept)
  • 実装・開発(implementation or development)
  • 個人の身体的相性(compatibility)
  • これまでに学習したリテラシー(literacy)[井上2009: 154-161]*6

これに加えて、環境要因として

 このあたりを押さえていれば、道具(a tool)の評価はできるかなと思います。そして、こうした分類のもとでモノを評価するということは、それを一つの「作品」(piece of work)あるいは「コンテンツ」(a content)として見るのとは、どうしても違う見方になります。

道具と作品の境界線(TRPGの場合)

 しかし、道具であることと、作品であることの境界区分はとても曖昧です。たとえば、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の世界観サプリメントを「作品」として見なすか「道具」として見なすは、どちらでもそれなりの評価が可能である以上、結局どちらか一方にだけ還元できるものではありません。もしD&DShadowrunあるいはRunequestといった、背景世界それ自体が読み物として優秀だったTPRGシステムを「作品」として評価するのであれば、文芸批評が構築してきた作品批評からのアプローチだけでなく、TRPGシステムを徹底して「道具」として考察可能な分析概念についても、ブラッシュアップする必要があるでしょう。その方向性で論じていくことは、おそらくゲームというジャンルの元で提示されてきたさまざまな製品を「作品」として解釈する際にも、有用な概念整理になるだろうと私は考えています。

 あとは、実践的なものいいをするならば、「道具」として優れているから「作品」として優れているわけではなく、また「作品」として読みでがあるからといって「道具」としても優れているとは限らない、ということでしょうか。もちろん、それぞれにおいて優れたパフォーマンスをしている「道具-作品」もありうるとは思いますが、一応評価については区分した方が筋がよさそうです。この辺りについてはもう少し詰めることができそうですが、まず先に道具設計の話を整理してからでないと、大きなことは言えなさそうですね。

今後のRPG作品論

 TRPGにおいては、1980年代の安田均が、作品論としてのデジタル/アナログRPG批評の仕事を積極的に行っていましたが*7、九十年代以降そのような流れはアナログゲーム側ではあまりされなくなりました。もちろんそれは国産ゲームシーンによる物語りの新天地がデジタルゲーム(特に、コンピュータRPGやテキストアドベンチャーなどの、テキストを含むゲームシステム)に移行したからですが、国産コンピュータRPGが国内においても徐々に勢いを失っているという言説が徐々に一定の支持を得つつある今、アナログとデジタル、双方のRPGをつなぐ作品論が再び出てもよいのではないかと思います。そしてそうした作品論が出てくるとすれば、そこには二十世紀中盤からの半世紀余りの文化的潮流に「ロールプレイング・ゲーム的なるもの」を位置づける、確固たるパースペクティヴが用意されてしかるべきでしょう。

 私自身は、文芸批評に対する技量や才覚が欠けていることもあって、そうした仕事に貢献することはほとんどできません(なにしろ、その道の方に比べて読書量が圧倒的に足りてませんし、個々の作品に対する分析の訓練も低い水準に留まっています)。ですから今は、自分の関心の及ぶ限り、「設計・運用・受容」の三つにまたがって行われる社会的相互作用について、論理的に取り組むことで、支援できればと考えています。

*1:そして、そこで生成される作品(コンテンツ)のことについては、自分のカバーできる範囲や議論傾向を分析するに)あんまり関心がないみたいです。

*2:これと「やりこみプレイ」との境界線は、引きにくい。やりこみについての先駆的な論文としては、中沢新一が書いたゼビウス論「ゲームフリークバグと戯れる」があるが、単に「やりこみプレイ」の可能性を示すことでデジタルゲームを論じるだけでは、中沢の功績を超えることは難しい。

*3:PCゲーム、と書きたいところだが、1970年代にAppleIIが普及するまで、「パーソナル」なコンピュータは常識的ではなかった。

*4:もちろん、ウォーゲーミング自体について言えば18世紀から、兵棋演習のデザインについての視点はあったわけですが、デザインする楽しみに主眼を置いていたわけではないため、除外しています。

*5:そして八十年代以降のコンピュータゲーム開発史、Adventure、Zork、UltimaWizardryRoguelike、『スーパーマリオブラザーズ』、『ドラゴンクエスト』、その他コンピュータRPG、ツクールシリーズ、チートマイコン文化、同人ゲーム、FPS、MODなどの話へと繋がっていくわけですが、それらについて網羅的に語るにはまだ全然調べが進んでませんので、今後の課題とします。

*6:これは私の概念ではない。ここでは、井上明人が2009年04月号の『ユリイカ』で述べた概念を意識している。

ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険

ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険

*7:『SFファンタジィゲームの世界』(青土社,1986)など。

thalionthalion 2009/04/06 10:37 面白かったです…いや、半分も理解できてないかもですが。一つ質問。

>個人の身体的相性(compatibility)

これは具体的に言うとどういうことを指すのでしょうか?「俺はダイスは六面じゃらじゃら振るのが好き」「いや、わしはダイスは嫌いじゃよ」とかそういうこと?

あと、細かいことですが。
>pease of work

piece の typo?

ggincgginc 2009/04/06 15:43 さりおんさん:

 まずはtypo指摘ありがとうございます。直します。

 compatibilityとliteracyの区別については、実は私も現在進行形で悩んでいる区分です。しかし少なくとも、分類に際しては、TRPGよりもう少し広げて考えています。

 まず、順に考えると、compatibilityとliteracyを、「先天的に獲得される性質/後天的性質」と分割することができます。生まれながらの動かしがたい性質がコンパチビリティ(その人に備わった先天的相性)で、あとで学習することでどうにかなるものがリテラシー(=学習によって獲得しうる、繰り返し使用可能な解釈システム)だと。

 ところが、これだとちょっとおかしなことになります。
 たとえば

1.「色盲だから『ぷよぷよ』が遊べない」

 というのは、明らかに身体的特性に基づいています。色盲は努力では直せないから、これは『ぷよぷよ』を評価できなくてもしょうがない。
 しかし

2.「僕(十代後半男子)は親指でケータイ操作するのがきらいだからiPhoneを評価しない」

というのは、明らかに親指族のリテラシーが足りないだけので(笑)学習すればどうにかなる話です。この十代後半男子にiPhoneを批判されても、iPhoneのリテラシーを獲得してしまっている人にとっては「いや、練習しなよ(笑)使いやすいよ?」と言うはず。

 しかし、この中間地点が問題です。
 さっきのiPhoneの例をさらに応用すると、

3.「ワシ(六十代男性)はケータイなんぞわからんから、“あいぽむ”なぞぜーんぜん興味ないんじゃ」

 ここまで年齢がくると、もう常識的に見れば引き返せない地点(Point of no returen)に達しているというか、もうスマートフォンを学習することにむけて努力しろとか言えない状態の人もいるわけです。

 そうなると、後天的に獲得可能な学習対象「x」があったとしても、ある人にとっては「可塑性の高い(flexible, malleableなど)」学習対象であることもあれば、「可鍛性の低い(non flexible, rigidなど)」学習対象でもある、ということがあるわけです。

■整理:
A.ユーザが先天的に学習しようがない学習対象(=どうしようもなく関われない道具)
B.ユーザにとって可塑性の低い学習対象(学習した結果使える道具)
C.ユーザにとって可塑性の高い学習対象(学習した結果使える道具)

AとCの違いは明確ですが、AとB、そしてBとCの境界線引きは、色んなコンテクストに依存しちゃう、というわけです。

 そして、「色盲だから『ぷよぷよ』が遊べない」のと「六十代だからもうiPhoneに習熟しようがない」というのを同じく「もう動かしがたいもの」だといい始めると、特にこのAとBとの微妙な違いがうまく論じられなくなっちゃいます。じいちゃんがiPhone使えないのは単に耄碌したからだ、となじっちゃうのは、ちょっと可哀想だ(おじいさんはそれで納得しちゃうかもしれませんが)。

 また、若者同士でも

「おまえアニメキャラしか出てこないファンタジーゲームなんてよく遊べるな」
「それはお前、それが本質じゃないことがわかってないからだよ! システムを見ろよ!」
「はいはい、萌え萌えでちゅねー」

 みたいなケンカはあるわけで、これが「A=B対C」の対決だと捉えられると、大変問題なわけです。あくまでこれは、ともに学習可能でありながら趣味判断の問題も混じる「A≠B対C」の問題であって、しかも評価点が作品内でさまざまに違ったりする(アニメ的表現の読解に習熟することと、あるゲームデザインが提示するゲームメカニズムに習熟することは、それぞれ異なる学習対象と見なせる)。また、学習に依存しない、受容者側の性質も異なる(ゲームに興味があって、そこだけを評価する人もいれば、アニメキャラに興味があって、そこだけを評価する人もいる)。
 ある種の道具や作品の評価には、あるリテラシーがなければ評価できない点というものがあって、そうしたリテラシーの有無によって評価が変わってくる。ところがそれを「あいつは趣味が悪いからだ」とか「あいつは劣等な人間だからだ」というような言い回しで批判するのは、たいへんまずい。確かに趣味判断抜きに、何らかの作品や道具を論じることはできませんが、少なくともそれらのうち、先天的な性質を理由に批判可能なものは、限りなく少ないはずです。
 こういう細かい差異がありうるので、「先天/後天」のニ分法は気軽に適用できません。

 そんなわけで、compatibilityはひとまず「色盲」「難聴」「四肢欠損」「下半身不随」など、Edge and Flaw におけるphysical flawがある結果生じる、道具との相性として、かなり狭く限定してます。直接的にはバリアフリーや老人向けの施設の話なんかと親和性の高い話ではあるんです。
 
ですが、そういう身体的特徴だけではなく、たとえば最新エントリでもちょっと議論したんですが「萌えキャラは受け付けない」とか「BLはどうもな」といった美的判断の水準で、ある種のツールが使えないと判断する人もいるわけです。これは可塑性が高いのか低いのか。この辺考えると、ツールと表現の境界線も含めて、非常に悩ましい。精神的な領域と道具との相性の問題は、結局先天的なのか後天的なのか、後天的だとしてどこで引き返せなくなるのか。

 TRPGに限っていうなら、計算能力による学習量の差があります。基本的にTRPGは、計算が複雑すぎるとコアゲーマーしか遊ばなくなってしまうので、システムで計算がいらなくなるよう単純化したり、ケータイの電卓(弱いネットワーク外部性)に丸投げするなり、しなきゃいけないという話がありますですが、「いや、そこを手計算するのが魅力でしょ?」と言うなら、AD&DやShadowrunのキャラクター作成はそれはそれで超楽しい〈ゲーム〉になっちゃうわけです(笑)。「いやならジェバンニが三日で作ってくれた自動計算プログラムを使え。英語だけどな!」とか(笑。これもネットワーク外部性を見つけられているかどうか、という例)。
 そして実際、AD&DやShadowrunでキャラを作って回すというのは、学べばそれなりに面白い風景が見える、そういうリテラシーと見なせるわけで、これもかなり、「何をもって楽しみとするか、その前提としてプレイヤーにあらかじめ要求されるリテラシーは何なのか」、ゲームの楽しさを論じるとき、ものすごくcriticalな話ですよね。適切なサポートがなければ、そのままでは学びにくい(&遊ぶ気になれない)人がいることは確かなんですし。

 ゲーマーとして建設的な話をするなら、compatibilityの問題だと思われてきたものを、「それはliteracyとして習得可能なゲームなんだよ」とわかるようなチュートリアルを整備することで、評価を上げることができると思います。

 あるゲームが「つまらない」と言われる時、それは自分が前提として獲得しておいた方が楽しめる何らかのリテラシーを学習し逃したからではないか、という疑問を棄てないことは大事だと思います。ただ、それを学ぶチュートリアルがゲーム作品内に埋め込まれていないのは、デザイナーの責任でもあったりする。さらに、身体的・精神的な理由により、今更もう獲得できなかったりすると、さらに困る。

 こうしたゲームにおける、学習可能・学習不可能をめぐる混乱が、「ゲーム批評」を難しくしているのではないか、というのが私の目下の問題意識だったりします。

 ところで、レーシックやサイボーグ技術などがどんどん発展していてしまうと、人類の「理想の身体」像にあわせて、「有用な道具」の評価基準が変わってしまうかもしれませんね。「バリアフリー? 一万円で足が買えるのに、何車椅子乗ってる人のことなんか気にするの? 趣味でしょ?」という世界では、障害者のユーザーインターフェイスに対する感性はまったく全然別のものになってしまうのではないでしょうか。

thalionthalion 2009/04/07 11:22 解説ありがとうございます。おかげで大体判りました。

compatibility/literacyの切り分けをクリアカットに行うのはかなり困難なんじゃないかなとか思いました。多分こうあいまいなゾーンにアナログに分布してるイメージを持っています。

literacy獲得のチャンスがあったかどうか、その獲得のためのコストはどの程度か、そのコストはその人物にとってその気になれば払うことができると妥当に判断できるのか、あたりが(特に最後が)明確に定義しにくいですからねぇ。

ggincgginc 2009/04/07 14:59 thalionさん:

 そうですね、クリアにはできないと思います。従来の分類だと縦割りになってしまいますが、実は「可塑性(flexibility)」とか「可鍛性(malleability)」とか、そういう変数が複数の属性(学習機会・学習難度・学習者の選好)に対して与えられているような、そういうモデルが必要になると思います。先天か後天かは、その時々のユーザにとっていくらかは変更可能なモデルを想像しないといけないのではないかと。

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